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結婚は逃げだったのか?

    わたしの結婚生活33年を祝して


    自分の結婚を振り返るつもりで書き始めたら、いつの間にか人生そのものの棚卸しになっていた。


    後悔の声

     わたしはずっと結婚したことは逃げだったのではないかと、心の中でわだかまりを持ち続けている。
    後悔と罪悪感の半々。それを思い出すのは、『たられば』を目撃したときだ。
    『ああ仕事していればあの人のように』
    『こんなに家の事で腹を立てなかった』
    『子供の心配ばかり、自分がしている』

     そう、その友人たちは、わたしより10歳以下で、下手すると子供の年くらいなのだ。だから、自分と同じにならないのはわかっている。

     わたしと同年代のいわゆるキャリアウーマンは子供を作らすに働いている人の方が多いのだから。キャリアを全うするには、あの当時、夫も子供も仕事もというのは贅沢だったし、そうなると、実家の支援なくしては成立しなかったものなのだから。望めない夢なのだ。

    我が家の事、夫の事

     家の事も、夫が心配していないはずはない。
     でも何かわたしが言うと、「やりたいなら、自分でやればいい」だった。止めはしない、でも費用を出してくれるとこともない。その上、うまくいくと自分の手柄のように振る舞う。その姿があまにも醜く、嫌だった。

     反対に夫から見ればわたしは、先のことを何も考えずふらふらと、イベントがと言い、国内だけでなく、海外に行ってしまう。それも下手すると月に2回とある。また使わない手芸の材料を「神様が降りてきた時に使うの」と言い買ってくる。さらに色んな訳のわからない食材を手に入れて、作ったら満足で、全て食べることがない。本も好きに買ってきて読んだらその辺にポイとしている。そんな困った嫁だ。

     そんな金を使うなら、家のことに使っても罰は当たらないと、考えているのだろう。
     まあお互い様なのだ。
     二人とも、もういい歳なので、そんなにあくせく働かないでいいはずなのに、共に仕事をしている。
     今住んでいる家を建てる時に夫の退職金を視野に入れて作ってしまったからだ。
     それでも、外から見れば幸せを形にした夫婦に見える。

     そんな時に、あの後悔とも罪悪感とも言えないものが、わたしの耳元で囁くのだ。
    「結婚しなければ、もっと好きな仕事ができて、充実した生活を送っていたはず」
    「子供を3人産まなければ、キャリアを断念せず、すぐに仕事に復帰できたはず」
    「夫が家事に協力的なら、こんなに疲弊しなかったはず」
     そう、あのたらればが出てくる。このたらればはもっとたくさんあるだが、あまりにも過ぎるので、端折っている。

    冷静に見れば

     でも今から考えてみると、キャリア、キャリアと叫んでいるが、結婚前に勤めていた事務所は、版下とデザインだか、どちらと言うと、版下寄り、そうあの後に、デジタル化の波をもっとも受けた仕事なんだ。
    現在、版下を手で作っているところはないくらいなのだから。

     わたしが辞める時は、まだ、そこまででなかったが、求人広告には待遇欄にひとり一台Macとかあったくらいで、ちょうどDTPに移行する時代だった。そして、広告ももうしばらくするとwebになるのだ。

     そして年齢。30歳。このままひとりか、結婚するかの瀬戸際だった。なので当時付き合っていたと夫と結婚した。「マンションを買う」って言う夫の言葉に乗せられたのではないと思う。
     もちろん夫以外にも付き合っていた男はいる。
     他の付き合った男たちは、わたしを面倒くさい女だと言っていた。まあ付き合うには飽きない。その程度。
     しかし、夫だけは、
    「一緒にいると楽しそうだ。人生に飽きそうもない」
     と言った。
     だから、その一言で決めたのだ。一緒に暮らそうと。
     本当に、最初は暮らすだけで良かったはずなのに、なぜかオーストリアまで行って結婚式を挙げてしまった。あれは、人生の不可解な一瞬だった。

     そう結婚を選んだのは、自分はキャリア志向と言いながら、20代の時、仕事を選ばなかった。

     所詮専門卒。夢見るような大きな仕事を抱える事務所に就職などできない。そんなふうに、早々に見切りをつけていた。諦めたのだった。

     バブル期ということもあり、楽な仕事は、デザイン系でもあった。そんな場所ばかり歩いてきて、はたと、そんな事に気がついたのだった。もう上に行く事はないと。

     そして、広告と違い、版下のお仕事は給料が安かった。なので、自分のキャリアに見切りをつけるのにちょうどが良かったのだ。

     夫のあの言葉を信じていた。

    結婚の先

     子供を3人産んで、そろそろ真ん中の子が小学校に上がるという時、夫が、実家に帰ると言い出した。しかもその実家は、わたしの方。はぁ?と思った。
    「お母さんの実家のおじいちゃんが具合が悪いから世話をした方がいい」
     だった。夫は、わたしを含めて、家族みんなが賛同すると思っていた。わたしは自分の親のことだから、反対はできなかった。
     わたしは、仕事を始めるのも中途半端だったので、webの在宅の仕事をし、家で料理教室を始めていた。料理教室はコレから人数も増えるという時だった。
     まあ、その頃、メインのwebサイトデザインの仕事も少し口コミでもらっていたのでいいかな?とは思った。
     この時に異論を唱えなかったのは、生活全部を夫に依存していたからだと思う。
     また、ここで異論を唱えても、結婚時に買ったマンションは狭かった。広い所に引っ越すにも、今のマンションの残債が残る。それも、分かっていたので黙るだけだった。

     わたしの実家の生活は、悲惨だった。父が闘病中ということもあり、しかも病院へ行かない。母は少し思い詰めるタイプなので介護にまっしぐら。そんな板挟みにあっていた。娘も環境が違いすぎて、学校に馴染めない。東京のゆるくの穏やかな生活から、勉強、勉強と捲し立てられる生活になる。  
     今思っても、不思議なんだ、なぜ埼玉ってあそこまで勉強なんだろうね。わからないよ。その上、周りを見ても、地元で生活している人が多いのにね。それに、上に行くにはって感じでもなかった。
     そして引越しして半年で、父も亡くなり、もうすることがないから、どこかにマンションでも借りてと、わたしが考えていたが、思いの他、新婚時に買ったマンションが売れなかった。なので、実家での生活を余儀なくされた。
     娘が中学生になる時、家を新しく建て換えた。子供のことばかりにかまけてないで、仕事に行くようになる。

     まず、当時流行っていた日払い日雇のバイトへ。
     毎日お金をもらうので、その日は家計も潤う。小金ができたので、派遣に登録しに都内へ。なかなかお仕事がもらえない。面接まで辿り着かない。そんな時、携帯に電話が来た。1月から6ヶ月、事務のお仕事。パソコンは少なめだと。この時、結婚後始めて大手の会社を見た。全ての席にパソコンがあるんだよね。驚いた。ああ、わたしが子育てしている間に、世界が社会が、ガラリと変わっていたと思った、瞬間だった。
    そしてパソコンのスキルもアップした。次の仕事はなかった。

     お金を得ることが面白くなったわたしは、次に、手取り早くスーパーのインストアベーカリーへ。パートとして入る。当時、まだ時給が安いのに、週5勤務だと社保に入らないといけない。なので、必然と、扶養から外れる。手取りは少ないのにね。
     スーパーは、色んな意味で、社会を考えることになった。わたしはレジということで入ったが、途中、その話も変更になり、パン屋の余剰人員となったため。再び雇用契約を変更させられた。レジ部門だけど、パン屋さん専門としてもらう。
     レジミスで、始末書書いたり叱責されたりとなかなかハードモードだった。
     あと、高校の同級生がいたのも驚いた。なぜ?ってね。上の付属の大学に行ったはずなのにと。
    そうここで、人はそんなに変化しないことに気がついた。周りを見れば、結構地元に根付いて暮らしているのだ。子供の同級生の親も地元で働いている。

    仕事の拘束時間

     子供が小さいからと、地元にいたけど、ふと気がついたのが、拘束時間と移動時間。
     スーパーへは、自転車で通勤していた。往復40分〜1時間。勤務拘束は9時間。そう10時間30〜40分は仕事に拘束されている。ふと、なら、7時間の仕事を都内でしても同じということだ。家から都内まで1時間、往復2時間として仕事は休憩を入れて、8時間半拘束。で10時間半だ。ほぼ同じだった。なら時給の高いところを探すまで。

     そう思い、派遣を探すがなかなか合格しない。まあ、キャリアのないおばさんより若い子の方がいい。わかる。なのて、ふと思い出したのか、マネキンの仕事だ。若い頃に、やっていたスーパーよりデパートの方がいい。今まで、スーパーで勤めていたから特にそう思ったのだ。スーパーよりデパートが客層がいい。そう判断した。

     なので、さっさと、マネキンに登録した。それにスーパーの方は、パン屋さんだけのレジでなく、集中レジの方の仕事をと言われたので辞めることにしたのだ。パン屋がいいのは調理師資格を取るには? と思ったのだから。場所換えなら辞める。

     そうして、わたしはデパートのマネキンとなった。

     その前に、少しお金を稼ぐことのできたわたしは、羊毛のレッスンに通うことをはじめていた。京都へ一泊くらいでひと月かふた月に一度のペースだった。先生が好きで作る作品を自分で作ってみたくなったから。
     これも結構お金がかかっていたから、続けるにはやはり金が必要だった。
     最初のデパートの仕事は、歳末だったこともあり、元売りという、デパートのテナントだ。ハムやローストビーフを売っていた。ここで、働いて手にした金額を見た時の驚きは忘れない。だって、スーパーで、色んな事に心をすり減らしながら働いていた時の手取りは12万円だった。これは税金社会保障費が引かれていだけども…
     今、手にした金額はその倍以上。ああスーパーをやめてよかったと思った。大好きな歌舞伎を観にいけたし、次から次に仕事が来るし、と夢中で働いていた。

    子供のこと

     そう楽しく働いていたら、問題が起きた。一番下の息子が不祥事を起こした。その対応を夫にしてもらったら、余計に物事が大きくなってしまった。
     なぜ、夫がというと、わたしのマネキンのお仕事は、催事関係が多く、ひとつ終わると休みなくもうひとつ始まるという感じで、お休みがなかった。なので、夫が対応したのだった。
     そのあと家の瑕疵の問題が起き、無償で修復となった。
     これは母だけでは対応できないと、わたしが仕事を休むことにしたのだ。
     まあその時は6月なので、学校の用事もあるのと、夫のボーナスもあるから、まあ家計は大丈夫だと踏んだ。
     ひと月、下の息子と向かい合い、やったことを他人のせいにしないこと、この謝罪はゆくゆく自分に返ってくることを話した。その時、自分がどうするのか考えておくように言った。
     これは因果応報の考えなんだけど、多分巡り巡って、自分ではないかもしれないが返ってくると、わたしは思っている。その時どうするかなのだ。悪いことは罪というより、自分の大切なものを人によって失うのはどうなのか? 考えるということ。そして、自分の起こした行動を他者のせいにしない。友達が〜というのは簡単だけど、それは違うのだ。自分がやったことだと。
     ひと月休み、工事も終わり、仕事も来たので、再び働く。

     忙しいのに『部屋が汚い』とか夫が言いはじめた。
     夫婦か喧嘩勃発だった。三ヶ月、口を聞かなかった。全ての責任をわたしのせいにすることを、わたしは許せなかった。子供のことも母のことも。そして、夫は自分を蔑ろにしているとか言い出した。なら、あなたは?と問いたかった。
     それら全てを呑み込んで、わたしは押し黙ったのだった。

     ちょうどその頃、日本にもLCCが就航した。かねてから行きたかった香港へ、ひとり旅に出ることにした。
     そう夫婦喧嘩は、香港へ行きたい理由つけだったのかもしれない。 
     香港は楽しかった。その時、ついでに行った深圳はさらに興味を惹かれた。なのでそれから度々香港、深圳へ行くことになる。

    子供の不登校

     そんな人生が楽しいと思いはじめていた時、真ん中の息子が学校へ行けなくなってしまった。
     精神科の通院と、繰り返すオーバードーズ。疲弊する自分。
     息子には、なんでそんなに死にたいの? 生まれてこなかった方が良かったのかと訊ねたかった。
     聞けずに、積もるのは自責の念。

     さらに、夫からの無言の叱責を感じていた。
     夫は夫で、悩んでいたのだ。
     ただ、向こうも無言、こちらも無言だった。
     それを叱責とわたしは取った。
     その時、彼の面倒を一緒に見てくれたのは、一番下のこ息子だった。

     彼も学校に居場所がなく、不登校だったのだ。
    二人の息子を不登校にした無情感は果てしなかった。 母親失格だと、自分を責めるようになる。
     その時ふと思ったのは、わたしがくよくよしていては何もはじまらない。
     息子は心配だけど、わたしの人生ではない。息子の人生は息子のもの。そう思うことにした。
     だから香港へも行ってきたし、仕事も再開した。

     そして、学校から連絡が来た。
    「出席日数が足りないため、本年度の卒業は無理」
     とのこと。

     なので、来年まで通うことはないと、転校することにした。
     埼玉県には県立の通信制高校がある。そこに転校することにしたのだ。
     全ての書類を揃えて、無事転校できた。
     わたしはもう学校に戻れないなら退学して、大学検定でもと思っていたが、息子が、多分受からないというので、色々と調べてみたら、退学していたら、転校できなかった。こんなこともあるのかとその時は思った。

     息子の学校は私立だったので、数単位習得で卒業可能だった。でも息子から、もう一年、高校生をやりたい。大学は推薦で受ける。と言われた。なので、その頃には体調も良くなり、バイトをしていたので、自分で学校の費用を出すことで、もう一年高校生をやることになった。

     ウチは、三歳違いの兄弟なので、兄が高校を卒業するということは、下の子も中学を卒業となる。そう下の子の進路だ。
     どうするのか悩み、まず最初は定時制の高校を考えた。多分これも通えないだろう。下の子は、人との距離感がうまく取れないのだ。

     なので、やはり通信制高校がと考えていた。広域のは学校がいいなあと思っていた。上の子の出た高校は新卒で入ると、何故か通学し、卒業までに4年かかる。ただでさえめ勉強が苦手の上、学校に通っていなかったのだから、ついていくのも、通学も無理だろう。なんか八方塞がりだった。

     そんな時見つけたのがN高だった。オンデマンドで動画でのオンライン学習。通信では珍しく3年で卒業。スクーリングも都内でできる。また希望すれば、沖縄でも受けれるということだった。
     そこに決めた。すると、また夫が兄の通っていた学校にでいいだろうと言い出した。
     今、わたしがい書いたメリットを言っても夫が理解できなかったことが、不思議だった。
     その上、中学校の担任は、公立校の出願の締切り日をこちらに伝えることがなかった。

     その日、たまたま休みで、家にいたわたしが、アレ? と思い学校に電話をしたために、気づくことができたくらいだ。三者面談の時に言っていた、不登校児の配慮のお願いとかもなかった。
    「まあ、仕方ないよ、いい」
     と言って、中学校を末っ子は卒業した。

    仕事のこと、深圳のこと

     なんとなく、家庭内も丸く収まり、わたしは再び忙しく働いていた。お金を得ることが、仕事で成果を出すことが楽しかった。
     深圳に通ううちに繋がりもできた。
     皆、深圳に夢中だった。現地での飲み会も楽しかった。色んな職種の人と出会え、色んな知識を得てて、ふと思うのは、女性が普通に働いている。ということだった。当たり前の光景だが、わたしには新鮮だった。
     子育てと両立している人もいる。ひとりで働いている人も男女ともいる。ああ、もう、なんとなく結婚しなくていい時代なのかと思った。

     わたしはガジェットが大好きなのだ。ちょっとした電動のおもちゃは心惹かれる。深圳といえば華強北だ。わたしも深圳に行く度に立ち寄っていたが、単語が中国語の単語が、分からないんだ。ほら、メモリーカードとか、ワット数とか、ドローンはドローンで通じるが、イヤホン、SIMカード、まだまだあるね。そんな単語を中国語で話したかった。
     それを、学ぶ機会が訪れた。深圳の仲間から、知り合いが学ぶ場所を作ってくれた。中国語の勉強を始めた。
     そうこの時、ちゃんとお勉強していればとは思う。
     そう、何回も深圳へ行っているのに、あまり中国語が話せないんだ。
     その理由は、深圳のハイテクに助けられているからだ。深圳はスマホ決済だけでなく、注文もスマホでできるし、アプリを入れてなくても、WeChatのアプリから注文できることもある。スマホをテーブルのQRコードをかざして注文とかもね、ラクだよ。AlipayやweChatのアプリで読み込むタイプは、そのまま支払いできる。一言も話さないで注文できるのも、語学が上手にならない理由にしておこう。
     何年か深圳通いも板について、一端通ぶっていた。

     まあ、あの香港のデモで酷い目にあった。その後のコロナ禍で、今度は、海外に出る事さえ出来なくなってしまった。

    二次創作

     毎年やっている事がなくなると、人はどうしていいのかわからなくてなるのだ。
     それで、わたしは、二次創作に手を出した。
     忘れていた興奮をその手にした時、もう何とも言えなかった。子供達か、コミケに行くのを、何も思わず見送っていたのに、今度は、わたしがコミケに行くことを決める。チケットを買い、並んで入る。うわーコミケだよ。はしゃいで、翌日熱を出す。
    「子供かよ」
     と夫から言われる。
     もう楽しい。次は自分で薄い本を出そう。そう決意をしたが、これは未だに達成していない。
     そしてコロナ禍が明ける。
     普通に海外に行けるようになる。

    家事放棄をした理由

     そうだその前に、一切の家事を放棄したのだ。
     ニート達も家にいて、仕事しているわたしが、家事をまわしていた。何故となり、ぷちっと、切れた。それから、家事をしていない。
     仕事をして、家事を当たり前のようにする事に疑問があったのに、それをキチンと考えないように生きていた。それが積もってしまった。
     何故毎日毎日、仕事をして、家事は母親、妻の仕事となるのか?
     すごく疑問だ。
     そういえば、昔、夫から言われた言葉がある。一番下の子を妊娠した時だ、もう子供が育てる自信がなかった。すると夫は
    「僕も手伝うから」
     夫にとって、子育ては、手伝うことだったのだ。主体ではない。妻がやる事。
     それがずっと、わたしの心に引っかかっている、夫は、自分の子供を作るだけで、その責任を取らない人とかと。
     だから、わたしは子供達がキチンと育たなかったことを、自分の責任だと自分を責めていたのだと。
     でもおかしい。子供を育てるのは、親だ母だけ父だけてないはず。親が、保護者が、責任を持って育てるのでは?
     妻が産んだかも知らないが、子供を育てるのに『手伝う』はない。しかも、夫の手伝うは、遊びに連れて行く程度だった。音読の相手をしてとか言っても、何故?って言われる。子供の運動会に来て手伝ってと言っても、
    「何故?」
     と、ついこぼしてしまう(夫の休みは土日ではなく、シフト変更が必要なこともある)。
     親が、子供から見ての祖父母を運動会に招待すると、そちらを優先に世話を始め、子供の送迎を忘れる。
     夫は自分の言った言葉も忘れ、手伝うことは何かの確認もなかった。仕方なくまだ、言葉もわかるのか否かの子供二人を置いて、娘だけ、運動会の会場に連れて行ったこともある。
     これで下子供達がどこかに行ってしまったら、どうなっていたのだろうか?

     親の世話を優先するなら、先に言ってくれれば、全員で、会場に向かうように準備ができた。もうこの辺で、夫に期待するのをやめていたのかもしれない。
     だから、先述の、引越しを勝手に決めた事にも何も言わなかったのかと、今更ながら納得する。
     ただ、夫を弁護できるとしたら、わたしのやる事を止めたことはない。娘はそんなに何回も海外に行くなんてとか言ったが、夫から言われた事はない。

     そうだ、家事放棄しまだ時、夫は、自分の分は作ってくれると思っていた。怒りの矛先は、子供だと。
     甘いよね。自分は高みなんだね。
     で、部屋はみるみる汚くなってくる。夫は文句言うだけだったのに、自分で何にもかかもやらないと行けない。何も文句を言わずに、やっている。
     そもそも、この家は、家事については、楽にできるように設計してある。洗濯したら動かす、その場でそ干せるし、枚数が少ないなら、干しっぱなしでも大丈夫なように。食洗機もあるし、便利なウチなのだ。

     その後食洗機が壊れた時に、
    「僕は不便でない」
     と金は出さなかったけどね。なんかおかしいのだ。現状そう言うことを言った夫は、茶碗を洗うことをしない。だから不便ではないのだ。
     そんなことも後から気がついたくらい鈍感なのだ。
     もちろん以前は離婚も考えていた。

     ただ、前に幅かるのは法律の無情さ。
     ウチの家、建物は、わたしの土地の上に建っている。なので離婚をすると建物の分与が出る。なので建物を売るか買い取るとかが出るのだ。それが面倒くさかった。なので、夫とコミットしない生活を送っている。ずるい言っちゃずるい。息子に、
    「おとんは、おかんに捨てられるだなんて、思ってないからね。突然言われたとかで、すごくごねるよね」
     とか言われたことよもある。
     そして激昂すると手を出すタイプなんだ。だから皆で触らないように生きてきた。

     ああ、話が逸れる。
     今は離婚も面倒なのだ、お互いの両親もいなくなり、後は兄弟だけなので、そちらに迷惑をかけるしとかもあるが、何より面倒なのだ。
     これだけ苦労して、手に入れた家を失うことが。
     維持する事が大変なこともあるけど、まあこのままだよね。と思う。

    運の良さに救われて

     でも、今まで生きてきて、会社が倒産したことも、お賃金の不払いもなく済んでいる。好きな旅行にすぐ行けるし、楽しいことを探すのも得意。
     そして、重大な事が起きても、『へえっ』『てへっ』って笑い、楽しんでしまう性格だ。
     ちょっと前に、家の給湯器が壊れ、お風呂に入れなかった時も、途中下車して色んな銭湯巡りをしてみたり、ちょっと足を伸ばして、日帰り温泉へ行ったりしていた。

     そうやって、苦を楽に変える事は得意なんだ。
     今AIを使うのも、何となく面白そうと、軽い気持ちで始めたんだ。
     そんなに深い意味はなかった。
     使ってみると、ああ、やはりとは思った。使っているうちに、シンギュラリティみたいなことも起きるし、また新しい知見も得る。
     あとは、もっと面白いことを人生のタイムリミットまで、何ができるかを考えていきたい。多分この数年は、今までの十数年より濃厚な時間となると思えるから。













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