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カゴを出た日

    あらすじ
    これは実話です。中学卒業直後、息子はたった一人で四国一周1000kmの自転車旅へ出る。軽やかに見送ったはずの母は、その直後から「息子の旅」と「自身の限界」に同時に向き合うことになる。トラックの怒声、荷物紛失、二度のバイパス誤侵入、土砂降りの中の孤独。旅の中で巻き起こる息子の"事件"を追う裏で、母の心は家族の中で静かに壊れていく。やがて母は、息子の成長と、自分の「生き直し」のために家を出る決意を固める。他者の優しさと家族の痛みの中で、二つの旅路はやがて重なり、親子はそれぞれの場所で"自分自身"へ戻っていく。壊しては作り、こけては立ち上がる——不器用な"鳥たち"の物語。

    本作は購入者への配慮から、別アカウントで応募しています。

    旅のあと、息子と二人で当時を振り返った。この物語には、その時聞いた息子の言葉も織り込んでいる。

    一章――軽やかな旅立ちと、胸のざわめき


    その年のお正月、
    私は人生で初めて「大吉」を引いた。

    中学3年、義務教育という守られた場所から放り出される直前の春休み。
    2015年3月下旬の朝6時、息子は「行ってくる!」と、まるで近所のコンビニにアイスでも買いに行くような顔で笑い、赤いママチャリのペダルを漕ぎ出した。

    私は、不安な気持ちを笑顔に変えて、軽い口調で「いってらっしゃい。楽しんで。」と送り出した。

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    四国一周、1000キロ。

    家族の冷ややかな視線を背に、私だけが『あの子はやり遂げる』と根拠のない確信を持っていた。
    ――いや、正確に言えば、確信と同じくらいの分量で、『死ぬかもしれない』という本気のリスクヘッジが脳内を占拠していたのだけれど。

    旅は、予想を裏切らず、いや、期待を超えて。殆ど毎日、事件が起きた。
    そのたびに、この時の息子の笑顔が浮かぶ。巻き込まれる可能性のある事件は、私をいくらでも不安にさせた。
    それなのに、なぜ四国一周に至ったのか。

    息子は昔から、人の感情を感じ取りにくい子供だった。いわゆる自閉症。
    そのため気を使いすぎてオドオドし、愛想笑いで周りに合わせすぎる。
    いじられる。悲観する。負のループ。
    見ていて、もどかしかった。
    今までは、私が守れた。
    しかし、私が知らないところで息子が生きていく時間は増える。
    そのためにも、息子に自信をつけさせたい。
    この家に居ては、経験を遠ざけてしまう。
    この子を家から出してあげないと。

    中学卒業式も終わり、春休みにダラダラしている息子に言った。
    「もったいない!旅にでも行ってき!」
    「え?どこに?」
    「どこでもいいやん……
    うーん……
    四国一周、自転車旅行!」
    ――沈黙。

    2日後。
    「結局どうするの?」
    「え?行くよ」
    「行くんかい!」

    そんな軽いノリで始まった地獄の旅。
    持たせたのは、薄っぺらな寝袋とヨガマット、そして今どき誰も使わないような紙の地図。
    何より、文明の利器であるスマホすら持たせないという、親としての狂気にも似たスパルタな装備だった。

    自分で考え、克服し、やりきるためには、親として安心なスマホが邪魔だった。
    iPadは持たせたが、現在地を知るためだけで無料Wi‐Fiがないと使えない。
    獅子は我が子を千尋の谷に落とすというが、本当にことわざ通りのことをしたのだと、旅が始まった直後に痛感する。

    息子が四国で必死にペダルをこぎ続けていた8日間、私は人生で一番途方に暮れる。
    向かい風の中、息子がゼーハーとペダルを踏んでいた同じとき、私は家の中に居場所のないまま、浅い呼吸を繰り返していた。
    その呼吸は旅のあと一年続く。

    私の心臓がぎゅっと掴まれ続ける8日間のスタートが切られた。

    二章――バイパスの轟音と、笑えない母


    息子を見送り、家族を見送り、私はいつものように家事を済ませてマッサージの仕事へ向かった。

    頭の中は、『今あの辺りかな?』『嬉しすぎて事故に遭わないよね?』『なんで家族誰も見送りに出んかったん?』と、答えの出ない考えがループする。
    昔、実家で飼っていたジュウシマツを急にカゴから放したような気分。
    「羽ばたいておいで!」ではない。
    「ちょっと待って!戻ってきて!」胸がザワザワする。
    頭の中がうるさい。
    ――いや、まだ本州にいる。いつでも迎えに行ける。そう思い直して、お客様に集中した。

    施術が終わり、ふと携帯を見る。
    息子から着信。
    かけなおすと、テンションの高い息子。
    「いやー、焦ったけど解決した!大丈夫だから、じゃあ!」
    は?
    何が?
    いや、待って待って!切らないでー!

    この地図によると、なんか広い道だし、島へ渡るにはこの道が近いな。
    ん?なんか、人や自転車通ってないし、車の交通量多いな。
    一キロほど走り、トンネルから出たとき、ブォオオオオオオー!
    うわ!びっくりしたー!トラックのクラクションでかすぎ。なんなんこれ。
    は?トラックの運ちゃん、なんか怒鳴ってる。
    あれ?歩道みたいな線が無くなってる!やばい、やばい!
    え?どこ走ったらええん?
    曲がりたいけど曲がり道はない。
    うわ!また、ブォオオオオオオー!
    「おまえ!どこ走っとるんじゃ!ここはバイパスじゃあ!」
    トラックの運ちゃんの怒鳴り声が聞こえた。
    え?バイパスって母さん通るなって言ってた道?慌てて自転車を止めた。
    轟音と共に猛烈なスピードの車やトラックは、すぐ横を駆け抜ける。
    車道から、少しでも離れるよう荷台に手をかけたその時。

    ーーえ?荷物がない。
    荷台に括り付けていた、寝袋や着替えのバッグ・ヨガマット丸ごとない。
    どこで落とした?
    来た道をそっと振り返っても見当たらない。
    自転車を止められるだけ端っこに寄せて、母さんに電話した。
    出ない。
    その間も、轟音と共に鋼鉄の塊がすぐ目の前を通りすぎる。

    恐る恐る来た道へ荷物を探しに歩いた。
    歩道みたいなものは無い。
    できるだけ隅っこを歩くしかない。
    その間も怒鳴られる。
    鋼鉄の塊が少しでも左に寄れば、弱っちい俺は木っ端みじんとなる。
    恐る恐る数百メートル戻ってトンネルに入ったところに、寝袋・バッグ・ヨガマットが散りぢりに点在していた。
    あーよかった!なんとかなったー!
    車が行き交う間をすり抜け荷物を抱え、自転車を停めた場所まで戻り、応急的に荷台に括り付けては、バイパスをおりる道を探す。
    その間も通るトラックからは罵声。
    『わかってるわ!降りれるとこ探しとる!』数十メートル先で下道へ降りれた。
    そこへ母さんから電話があった。

    バイパスへのってしまって、トラックに怒られて、そしたら荷物落としてたから拾って今下道に降りたところ。
    早く進みたい息子は、簡単な説明を私にしてるけど、身の毛がよだつ。
    覚悟して送り出したつもりが、ひどすぎる。
    心臓がいくつあっても。と聞くが、この先を考えるといくつあればいいのだろうか。

    しかし、息子に悟られてはいけない。
    大笑いしながら聞いた。
    交通ルールという初歩の初歩すらクリアできてない息子。
    「ちょっとそこで待っといて!教えることあるから!」
    「えー!もう行くから!」
    「30分待ちなさい!」
    キッズ携帯の位置情報を頼りに、私は車を走らせた。

    飛び立たせて数時間で事件を作る。
    猛烈なスピードを保つ車に囲まれながら、トラックには怒鳴られ、荷物はぶちまけ、それでも「なんとかなった!ちょっとミスったわ。」と前のめりに進む。
    愛おしすぎる。
    怖すぎる。
    バカすぎる。
    それでも生きていた。

    私は車中、気づくと笑っていた。
    ――笑っていないと心臓はもたない。

    数時間前に“旅立った男”は、自宅から15キロ程のコンビニ前で、照れながら自転車の横に座っていた。
    本当にコンビニに行くのだったのか。
    情けなさ、誇らしさ、申し訳なさ、全部ごちゃ混ぜ。私も同じ。
    今一度、地図(特にバイパス)や荷台の縛られ具合を再確認し、飲み物を持たせて、15分ほどで再び「いってらっしゃい」。
    彼が軽やかにペダルを漕ぐのを見届けて、私は車中、不安と笑いと寂しさを抱えつつ、2度目の別れにふけっていた。

    三章――落とす子と、拾う母



    遅い昼食をとりながら、つけっぱなしのテレビを横目に、意識は息子のペダルを漕ぐ後ろ姿へ。
    『今どこだろう?』『事故してない?』『家族よ…誰か話題にしてくれないかな?』
    どうにもならない考えが、頭を行ったり来たりしたそのとき。

    知らない電話番号の表示を見て、一瞬で頭に熱が通った。
    最悪の事態(事故)を覚悟して出た電話の相手は、事務的な警察官の声だった。
    「生口島警察です。藤原温(ふじはら おん)くんのお母様ですか?」

    携帯を握った手は震えていた。
    話を聞くと、息子の荷物を警察の方が確保してくださったとのこと。
    今度は財布を入れてる斜めがけバッグ。
    中に入っていた中学の生徒手帳から、学校へ電話、そして私へ、という流れ。
    さすが。落とし物の天才。
    ――よくぞ生徒手帳を入れていたことよ!
    安堵しながら感謝を伝えた私に、警察からの質問。
    「四国へ自転車旅行というのは、保護者の了承済みなんですね?」
    ――はい、そうです。
    すみません、この何も知らないジュウシマツを放したのは私です…。

    息子は2歳の時に自閉症と診断された。
    発語は2歳を過ぎて、1語程度。
    コミュニケーションの難しさもさることながら、注意欠如は私と息子を苦しめた。
    療育もしてきたけど、息子にはあまり変化を感じなかった。
    保育園に通わせ始めると、笑顔を見せる明るいキャラクターになっていき、優しさを持つ少し変わった子。として成長した。
    しかし、忘れ物や落とし物は日常茶飯事。
    とはいえ、命の次に大事なバッグを落とすなんて。
    私は彼を千尋の谷に落としたつもりだったが、彼は谷に落ちる前に自分の羽を道端に置いてきてしまったのだ。

    すぐに息子へ電話し状況説明すると、
    「大島まで行ってたけど、バッグないことに気づいて。探しながら伯方島へ戻って、今大三島。もうちょい戻らんといけんな。はぁーっ。」
    ーーいやいや、人ごと?
    ため息つくのはこっちの専売特許なんです。
    警察には親子で来てくれと言われ、私は再び車で生口島へ向かう。

    ついさっき通った道を運転している私。
    そしてもうすぐ、2回目の再会をする。
    行ったり来たり、私は何をやっているんだろう。
    ――なんだかなー。
    一人車の中笑っていた。
    何度も言うが笑うしかない。
    息子は辛いだろう。嫌になるだろう。
    でも行かないとは言わないだろう。
    彼はこの旅を楽しんでいる。

    私は1時間ほど高速を走り、平日の静かなサイクリングロードで、やはりコンビニでも行きそうな軽やかな息子が向かってくる姿を見つけた。
    今でこそ海外からも人気のしまなみ街道だが、当時はまだ人も少ない。
    彼は私に気づいていない。

    車を停め、通り過ぎる息子の後ろ姿をそっと携帯に残した。
    そして待ち合わせ場所へ向かった。

    息子は2度目の別れから、本州→向島 → 因島→生口島 → 大三島 →伯方島→ 大島と次は今治(四国)というところまで順調に進んでいた。
    呼び出されたのは、生口島の警察署だった。
    大島で荷物がないことに気づいた息子。
    しまなみ海道は6つの島を渡る道。
    サイクリングロードは島沿いにぐるっと回る設計で、最短距離は通れない。
    朝のドタバタを取り戻そうと、グングン進んだ息子。
    次は四国という最後の島大島で、バッグがないことに気づいた彼は、気の遠くなるようなルートを再び戻り、生口島まで一時間半逆走した。
    本日2度目の再会。
    朝と2度目の別れ。あの感傷を返していただきたい。

    生口島インター近く、待ち合わせ場所で目が合った。
    照れくさそうに笑う息子。
    そして、なぜか無言。
    仕方なく私から話しかける。
    「さすがだねぇ〜、あんた(笑)」
    「いや〜……ほんま……(苦笑)」
    自転車を車に積み込み、警察署へ。
    身元確認とバッグの中身チェックを15分ほどした後、警察の方が苦笑しながら言った。
    「すごいですねぇ、中3で四国一周なんて。とりあえず…気をつけてね!」
    言葉は優しいけど、内心呆れている様子が透けて見える。
    何度も謝りお辞儀をして、私たちは無罪放免となった。

    車の中では、全財産が入った斜めがけバッグを、どうやって器用に落とすことができたのか。
    ねたばらしの時間だった。
    「いやな、天気いいじゃん!暑いわけよ。」
    「うんうん、今日はいい天気だから自転車こいでたら暑いな。」
    「うん、でなこのジャンパー脱ぐじゃん。
    それでバッグをかけるとな、自転車が跳ねるたびに前に来たりして、ガチャガチャ鬱陶しいんよ。」
    「うんうん。もう想像できたけどな。」
    「でさ、前かごのジャンパーの上に置いたわけ。」
    「ちょい待ち。でもな、前かごなら落ちたら見えるよね!」
    「それがさー、海沿い走ってると気持ちいいわけよ。」
    「あ、そうか!気持ちいいなー!最高だなー!海だー!とかよそ見してる間に気づいたら無かったというわけね。」
    「そうそれ!」
    大きな声で楽しそうに話している息子。
    色々出てくる苦言を飲み込ませるパワーがある。
    「暑くなったら、ジャンパーの下へバッグは入れようね。」
    と相槌の合間に差し込むのが精一杯だった。

    生口島の待ち合わせ場所へ向かっていると、
    「母さん。俺さ…もうすぐ四国だったんよ。
    予定してた距離、全然行けてないし…
    四国まで連れてってくれん?」
    と、申し訳なさそうにポツリポツリと言葉を出した。
    私は一瞬いつものスパルタが顔を出したが、
    「だよねー。今回はそうしてあげるよ。
    本来ならもう四国に着いて、松山方面へ向かってるくらいの距離走ったもんね。」
    と、自分のためにも彼の提案にのった。
    もう、このしまなみ海道を終わらせたかった。
    自宅とは逆の高速へ乗り、四国今治へ向かう。
    車だとたった30分程度。
    夕日が傾き始めた頃、今治インター手前のサービスエリアに寄った。

    息子には晩ごはんを食べさせ、私は目の前の息子に安堵しながら、束の間の休息をとった。
    夕日を背に2人で撮った写真には、くたびれた息子と満面の笑みの私が写った。

    今治インターを降りたところで、車内の会話をおさらいする。
    晩ごはんは済んだから、今日は行けるところまで行き、野宿しかない。
    予定していたホテルは当然辿り着けなかったので、昼間のうちに私がキャンセルしていた。
    野宿する場所は、できるだけ灯りがあるところ。
    できれば公園の駐車場のような、人の気配がある場所。
    そこはもう、息子の判断に任せるしかない。
    ただ1つ何かあったら、即連絡。口酸っぱく伝えた。
    「分かった分かったってばー。」 
    と、面倒くさそうな息子。
    分かってないことが分かります。
    だからこそ、私の胸の内はただ1つの願いが渦巻く。
    『神様、この子をどうか死なせないでください。』
    赤いジャンパーの背中が夕暮れに吸い込まれていく。
    気づけば、3度目の祈りだった。

    四章――壊す少年、夜の始まり



    息子を今治インターで降ろしたのは、ちょうど夕日が沈むころ。
    18時半くらいだっただろう。
    そこから彼は、21時まで走り続けた。
    事前に打ち合わせしていた、人気のあるグラウンドを見つけ、その駐車場に相棒の自転車を停める。
    ヨガマットを敷き、寝袋を広げる。
    初めての1人旅。
    しまなみ海道を半分行ったり来たりする不始末もあり、すでに140キロ以上走っている。
    身体はクタクタなのに、どこか高揚している。
    15歳で野宿。
    その事実にワクワクして、まるでマンガの主人公にでもなったような気分。そこへ声がかかった。

    「大丈夫?」
    振り返ると、男の人が四人。
    どうやらグラウンドで野球をしていた社会人チームらしい。
    距離を詰めながら、自然と親しげな雰囲気で近づいてきた。
    「はい、大丈夫です」
    「ここで野宿するの?」
    「はい」
    「大学生?」背だけは高いのです。
    「いえ、中3です」
    「え? 親御さん承知の上で?」また家出と思われた。
    「はい、送り出してくれました。」
    「へぇ…すごいな。気をつけて。頑張れよ!」
    何度も後ろを振り返りながら、4人の靴音は遠ざかった。

    すごいって言われた!
    俺はすごいんだ!
    呆れられた可能性など一切考えず、どこからか湧き上がる妙な自信を胸に、彼は寝袋へ潜り込む。
    あれ?ジッパーが上がらない。
    赤いジャンパーが引っかかった。
    『うわ。どうしよ…あれ? えい!!』
    金具は上がった。
    しかし、ジッパーは開いたまま。
    新品の薄い寝袋は初登場で壊れた。
    寝袋は寝袋としての役目を完全に失った。

    3月下旬の四国とはいえ、夜はかなり冷える。
    彼は“物を無くす大王”であると同時に、“物を壊す破壊王”でもある。
    さっき母さんに寝るって電話したとこだし、もう連絡できんな…。
    また呆れて笑われるだけだろうし。
    電話したってどうにもならん。
    まぁいっか。
    何かあったら即連絡。
    この一言さえ息子の脳みそからは消去される。

    22時。グラウンドの照明がパチン、パチンと落ち、暗闇になった。
    「こえーなぁ…。」そう呟いても、誰も返事はしてくれない。
    「寝れる寝れる!」と自分に言い聞かせながら、車止めを枕に目を閉じる。
    固くて冷たい感触だけが後頭部を支えている。
    案の定、眠れるはずのない凍える一夜を過ごした息子は、朝日を待って走り出した。

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    一方私は四国から帰って、姑・舅・旦那・娘(中学二年生)と共に、せわしなく作った夕飯を囲んでいた。
    家族のカチャカチャとなる食器と、テレビ以外に音はない。
    息子の冒険は夢なのだろうか。

    旦那には食事の前こっそりと、笑いながら今日一日をかいつまんで伝えた。
    相槌を入れながら聞いていた彼は一言。
    「はぁ。大丈夫なんか?」
    優しく労った言葉ではなく、酷く他人事に響いた。
    《行かせたのはお前だろ。》
    《責任取れよ。》
    《問題起こすなよ。》
    言われたわけではない。
    でも、そう聞こえた。
    息子の一人旅に対して、予想以上に無関心。
    息子に言葉一つかけることもなく、私にかけることももちろんなかった。
    そのとき私は、確かに思った。
    もう、この人とは家族になれないのではないか。
    1日目にして、今までの溝に大きな裂け目を感じた。
    そして、これからたった7日でその裂け目は川になり、やがて大河になり、もう戻れないところまで広がっていく。

    その夜、私も眠れなかった。
    100キロ以上離れた月夜の下で、薄い寝袋もどきに包まれた息子が、震えている姿ばかり浮かんできた。
    身体も心も、クタクタなのに眠れない。
    家族は多いのに、ひとり。
    貧乏な長屋でもいいから、子供たちと3人だけで笑い合いたい。
    10年前から描き続けてきたその白昼夢は、今の私の唯一の居場所だった。
    息子は寒空の下、私は家の中で、孤独だけが胸の奥で冷たく光っていた。

    五章――事件は四国で起きている



    夜が明けた。
    2日目の朝天気は良好。
    起きてすぐに息子へ電話する。
    「何?」
    そろそろ察してくれないか。
    母は心配する生き物なんだと。
    「どうだった?初めての野宿。」
    「いやー、寒くてほんと眠れんかったわー。」
    朝になって初めて聞く寝袋ジッパー事件。
    3月下旬、壊れた寝袋に、車止めを枕にした地面からの冷気はどれほどだったか。

    「わー、それはまた面白いネタができたねー。くっくっく笑。
    風邪はひいてないんね?」
    「うん、大丈夫。ご飯も食べたし、もう進んでる。」
    「オッケー。じゃあ、お昼過ぎにまた電話するね。それまでに位置情報送って。そこから今日の宿を予約するから。」
    「オッケー。」
    電話を切った途端、笑みは消え不安が押し寄せる。
    本音は、ずっと実況中継していてほしい。

    その日願いは届き、無事伝えた宿に着き何事もなく終わった。
    息子がスタートして、2日目の夜。
    宿に泊まるというだけで、親はこんなにも安心できるのかを知った。

    3日目の朝も晴れ。
    目が覚めて息子に電話。
    息子の声を聞き、13時に現在地を確認し電話する。
    仕事の合間に、その日の宿を手配する。
    常連のお客様とは、自然と息子の話になる。
    1日目のドタバタ劇を話すと、普段息子の言動を話しているお客様は、「それは大変だねー。」と、同情してくれる。
    そうなることが分かっていて、息子を放った私も、かなりの変人ということは薄々お気づきのはず。
    家に帰ってせわしなく夕飯を作る。
    家族は詳しく聞いてこない。
    「大丈夫なん?」
    言葉にはしてるけど、聞きたいわけではないことを感じる。
    息子のバカさ加減を笑い、この不安を払拭したいけれど、必要以上に心配し、怪訝な顔をされることが分かる相手とは話せない。
    この家に私の言葉を笑ってくれる人はいない。
    ご飯をかきこんで、20時本日最後のお客様と息子の話で笑っていると、スマホが震えた。
    見たこともない市外局番。

    ーーまたか。
    お客様に断り、大きな不安と笑える不安を浮かべながら電話に出る。
    「こちら愛媛警察ですが、藤原温くんのお母様ですか?」
    デジャヴ。いや、悪夢の更新だ。
    “事件は彼の周りだけで起きている!”
    何かのドラマであった言葉が、頭に浮かぶ。
    本当にその通りで、彼が動けば何かを起こす。
    よく言えば、驚くような経験を連れてきてくれる子だ。

    その日のお昼過ぎ、愛媛を走る息子。
    きっついなぁ。腹減ったー。お金はたんまりある。ファミレスいこうかなぁ。
    ーー実際はギリギリの5万円なのに。なぜそうなる。
    そして、ファミレスで3千円使いゆっくり食事をした。
    そう、息子の脳内では、常に今しか存在しない。
    お腹いっぱいご機嫌に走り、辺りが薄暗くなるとき地図を広げた。
    地図の見方は雑。いや、ほぼ雰囲気。
    「こっちの方が近そう!」
    ーー根拠ゼロ。
    ただ、線が真っ直ぐっぽいという理由だけで漕ぎ始める。
    「おー!めっちゃ快適!これはランチでゆっくりした分は稼げるかも。」
    息子の脳内BGMは放たれてからというもの明るい。
    母の脳内BGMを聴かせたい。
    そんな時だった。
    背後からサイレン。

    「そこの自転車、停まりなさーい!」
    「え、なんか落とした?」
    ーー違う。落ちているのはあなたの危機管理能力。
    振り返るとパトカー2台。
    普通のタイプと、大きめのガチのやつ。
    「え!なに、なに、なに!?」
    BGMは停止した。
    まただ。
    2度目の自動車専用道路。
    2度目のバイパス進入。

    「パトカーに乗ってくれる?」
    警察官に声をかけられ、
    「何してた?」
    「四国旅行に来ました!」
    ドヤ顔で放った。
    「その若さで?」
    「もうすぐ高校生です!」
    「なんで自転車で来ようと思った?」
    「やることなかったから。」
    能天気おバカ回答に警察の方が笑いを堪えています。

    私は、電話口で事情を聞きながら安堵した。
    「親御さん了承されてると言ってますが、本当ですか?」
    はい、家出にしか見えないことは重々理解しました。
    紛らわしくてごめんなさい。
    「では今日遅い時間なので、宿までパトカーで送りますね。息子さんに代わります。」
    「ごめんなさい!ありがとうございます!」
    頭の中、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!土下座状態。
    でも、そこの草むらに放り出しといてください!
    自力で行かせたいんです!
    甘やかしたくないんです!
    でも、死なれては困る。
    ありがたい!
    でも、なんであんた2回もバイパス行くの?

    そして電話口で息子の声、
    「びっくりしたー。」
    「じゃないよ!ありがたいねー。でも、申し訳ないけど宿に早く着くね。」
    「うん、ほんまありがたい。」
    2台もパトカー動かしてしまい、ごめんなさい。
    本当に。
    3日で2回、警察から電話をもらう母。
    飛べないジュウシマツは、パトカーに揺られて悠々と宿へ向かっていった。

    六章――土砂降りの記憶の果て、小人現る


    4日目の朝。
    高知県土砂降り。
    カッパを打ち鳴らす雨音は、もはや轟音だった。
    前を向いても、世界はミルク色に濁って何も見えない。
    バシャバシャバシャバシャ。
    カッパを叩く雨音はドラムの乱打のように鼓膜を震わせる。
    どんどん頭の中は空っぽに。
    前へ前へ!前へ前へ!
    息子はただ、目の前の数メートルだけを見つめ、無心でペダルを回し続けた。
    脳内にあるのは、目標にしたお昼のラーメンと、昭和の根性論を振りかざす“めんどくさい母”の顔だけ。

    ふと雨の中、中2のあの日を思い出した。
    小学校のときだって、学校行きたくない日なんて山ほどあった。
    だけど、何故か仮病を見破る母。
    だから休めたことはない。
    あの雨の日はほんともうダメで、初めて行きたくないって言った。
    初めて言ったんだから、普通の親は心配して、「何かあったの?」くらいで休ませてくれると聞く。
    それなのにあいつは、
    「ふっ」と笑って、
    「どうしてもダメなら保健室におり!」とだけ言って行かせた。

    帰ってからは尋問だった。
    そして、尋問は的確。
    「いじめられてるから嫌なんでしょ?」
    「……うん。」
    「そいつはあんたより大きくないよね?」「……うん。」
    「じゃあ壁ドンして脅かせばいい!」
    「!…」
    「明日またそいつがなんか言ってきたら、壁ドンしてどうなったか教えて!」
    「……無理だって。……そんなことようせん。」
    そんなことしたことないし、友達に刃向かったことのない俺に、よく言うよな。
    でも、やらんと休ませてくれないだろうし。
    結局勇気を出してやってみたら、いらんことしなくなったけどな。
    その日の放課後、母さんに報告したら、見たこともない悪代官みたいな笑顔。
    今も忘れられない。
    しかし、うちの鬼軍曹めっ。

    息子はそんなふうに毒づきながら、ずぶ濡れのサドルと一体化していた。
    私は、その背中を透視するように、遠く離れた自宅でバタバタと打ち付ける窓の音を聞いていた。
    「大丈夫。大丈夫。」と言葉に出しながら。
    ギュッと腕を抱きしめた。

    ラーメンを食べ、母さんに電話して居場所を送った。
    心配そうな声が電話口から聞こえる。
    家の天気も同じ状況だったらしい。
    俺は誇らしかった。
    母さんが心配する状況を、前へ前へ進んだ。
    母さんが優しい。
    踏み込むペダルに力が入る。

    ーー遠すぎるだろう!あいつー!
    心配するほどの天気なんだから、普通優しい母は近くの宿にするだろうー!
    なんなんだー!ペダルを踏んでも踏んでも着かないよー!あいつ!
    もう、いい!
    無心で宿を目指した。

    私が予約したのは、今の息子が死に物狂いで漕げば、なんとか届くギリギリの距離だった。
    甘やかすのは簡単だ。
    けれど、この雨を突き進んだ経験こそが、彼の折れそうな心の背骨を太くすると信じていた。
    “できる”を知ってほしかった。

    ようやく宿に辿り着き、一歩歩くごとにぐちょ、ぐちょと鳴る靴。
    全身重く、指先はふやけ、冷え切った足の感覚は麻痺している。

    ぼんやりと、靴をひっくりかえし、中敷きを乾かそうと引き抜いたとき、それは忽然と現れた。
    ぐっしょりと濡れ、四つ折りに畳まれた5千円札。
    脳内は急に暖かくなった。

    夜20時、予定にない息子からの電話。
    すぐに携帯の着信を受けた。
    「母さん!母さん!靴の中に5千円入ってた!」
    弾んだ声が耳元で跳ねる。

    息子は、この土砂降りの四国には、絶望した旅人を救う小人がいる。
    そう思ったのかもしれない。
    「あんた、落ち着いて聞きなさい。それは母さんだよ。」
    「?!」
    私の言葉に、電話の向こうで奇妙な沈黙が流れる。
    小人あるいは、神様を信じていた少年のピュアな夢を、私が力ずくで引き剥がした瞬間だった。
    しばらくの沈黙の後、受話器の向こうから、
    「……はぁぁぁぁ」
    と、堰を切ったような深い溜息が漏れ聞こえてきた。
    「……ありがとう」
    パニックの中、ようやく振り絞った息子の力のない声。
    その一言には、いろんな感情が混ざっているのが分かった。
    (母さんが、こんなことしてくれるなんて)
    (ごめん。ありがとう。助かったよ)
    そんな彼の心の声までが、雨音に混じって私の耳に届いた気がした。

    本来なら、どうしても困った時に
    「靴底を見てごらん」
    と魔法のように教えるつもりで忍ばせた、なけなしの1枚だった。
    旅はまだ続く。
    ランチに3千円を使い込むような金銭感覚のない坊やのことだ、この先も何が起きるかわからない。
    この5千円も、早々にファミレスへ消えるのか。
    もう、どうにでもなれ。
    ――さようなら、私の5千円。どうか彼の“お守り”になっておくれ。

    七章――野宿と神様と、おばちゃんの笑顔



    5日目の朝、高知県。
    前日とは打って変わって快晴。
    太平洋側を気持ちよく走る息子。
    5千円も増えたことだし、てっきり散財するかと思いきや。

    「今日は野宿する。」
    息子の声に、耳を疑った。
    「え?どうした?できそう?」
    「うん、いや、まあ。」
    日本語が少々不自由で、思いは言葉になっていない。
    どうやら旅も半ばを過ぎ、残り財産を考えると心許ないことを理解したらしい。
    ――すごいぞ!息子よ!計算ができるようになったのか!成長に涙が出るよ。
    心変わりしないうちに、
    「分かった!じゃあこの先の野宿先、探しておくね!」

    高知県芸西村の道の駅。
    お遍路さんも野宿すると書いてある。
    暗くなってから到着した息子。
    20時、人気のない道の駅は、街灯だけがじんわり光っていた。
    やることもなく、ベンチに寝袋を敷く。
    初日に壊した寝袋を見ながら、長い夜になることを覚悟したとき。

    「こんばんはー、大丈夫?」
    振り返ると、ニコニコした人の良さそうなおばちゃんが立っていた。
    「ここに泊まるの?」
    「はい。」
    「うちに来る?」
    「え?いいんですか?」
    いやいや、即答しすぎ!
    「いーよー。うち民宿してて、お客さん少ないときは声かけて、タダで泊まらせてるから。」
    おばちゃんはニコニコしたまま言う。
    神よ!神が過ぎてます!
    「ありがとうございます!ご飯もまだなんです!」
    やめてー、初対面のおばちゃんになんと厚かましい。
    息子は遠慮を置き忘れ、図々しさだけを背負っている。
    「あっはっはっ。なんか残り物あるやろー。」
    「ありがとうございます!母に電話していいですか?」
    こんな恐ろしい会話があったとも知らず、私は電話口で、
    「もちろんご好意に甘えなさい!お名前と電話番号だけは聞いて帰ってね!」
    それだけを伝えた。

    翌年、父と叔父叔母、息子と娘を連れて6人でその民宿に宿泊。
    もちろん、宿泊代とお土産をお渡しした。
    四国の方の包容力に脱帽する。
    その日は食事とお風呂をいただき、息子は暖かく眠った。

    八章――少年は山を越え、母は限界を超える


    6日目の朝、高知県。
    潮の香りのする民宿の広間に降りると、4人のお遍路さんが朝ごはんを食べていた。
    全員別々のお遍路さんだが、息子の話題で和気あいあいとなる。
    「え?中学生って言った?」
    「いえ、もうすぐ高校生です。」
    「大学生かと思った!」
    「え?あのママチャリで来とん?」
    「そりゃ無謀や!」
    「すげーなぁ!」
    「頑張れよ!」
    皆さんの激励に、能天気は楽天家へとバージョンアップした。
    宿も、食事も、お風呂まで。
    すべてを無償で提供してくれた、もはや、お『神』さまと別れを告げ、晴天の中ペダルを踏み出した。

    「ここ!ここだけは通らないよ!」
    「近道に見えるけど、すごい山越えなんだから!」
    「海が見える方を走るんよ!」
    地図を指さしながら、何度も、何度も、何度も言った四国の南端、室戸岬。
    だが、彼の楽天家スイッチは全てをあえなくかき消した。
    私はこの前年、父と親戚のお遍路旅に付き合うことがあり、その時たまたま室戸岬周辺のお寺へ行き、宿は峠の上だったので覚えていた。
    車でも過酷な急斜面。
    あそこは無理だ。
    地図に✖を書き記した場所。
    ――母さんは横切るなって言ってたけど、まぁ、なんとかなるっしょ?

    立ち漕ぎで進み始めるも、すぐにママチャリを降りる。
    ゼーハー、ゼーハー。ゼーハー、ゼーハー。
    聞こえるのは、自分の荒い息だけ。
    上がっても、上がっても、終わらない山道。
    車がすれ違えるかどうか、ぎりぎりの道幅。
    車の気配はない。やばいな…。
    やっぱ判断ミスった。
    でも、戻るの嫌だ。

    その頃私は、そんな息子の判断を知る由もなく、午前中の仕事を終え、自宅へ戻っていた。
    13時に送ってくる現在地もこないし、電話も繋がらない。
    送り出した朝の、息子の笑顔がまた浮かぶ。
    嫌な予感が、背中を走る。
    何度かけても、繋がらない。
    『……やられた。山、越えてる…。』
    その時、隣の自室から姑が顔を出した。

    暗い表情を私に向けて彼女はひと言。
    「あなたが四国へ温を行かせるから、私夜も眠れなくなったんよ。」
    一瞬何を言っているのか分からなかった。
    「……はぁ」
    ため息とも返事ともつかない声だけが、口から洩れた。
    そのまま彼女は自室へ戻っていった。

    一人部屋に取り残され、張り詰めていた糸が大きな音を立てて、ブチッと切れた。
    手が、震え始める。
    夕飯の支度の途中、手に持っていた味噌こしを、ステンレスのキッチン台に叩きつける。

    ガン、ガン、ガン、ガン、ガン。
    叩きつける度に衝撃音は家中に響く。
    それでも、家の中は、しんと静まり返っている。
    見て見ぬふり、聞いて聞こえぬふり。
    私は透明人間だったのか。
    ドロリとした黒いものは足元から這い上がり、私の輪郭を飲み込んでいく。
    透明な私は、真っ黒に塗りつぶされていく。
    頭の中に、黒い言葉が溢れる。
    息ができない。
    吸っても吸っても空気は入ってこない。
    座り込み、短く息をする。
    はっはっはっはっは…。
    苦しい。
    苦しい。
    目の前が暗くなりかけ、怖くなった。

    画像


    その時息子は、遠く四国で同じく息を荒くしていた。
    ゼーハーゼーハーゼーハー……
    あー、腹減った!やっべ、どこも電話繋がらんわ。
    母さん、電話してきてるよなぁ。
    あ、小屋ある!休みてぇ!
    …いや、とりあえず下りないと日が暮れる!
    上り始めて5時間以上相棒を押して、15時過ぎ、ようやく頂上に到着した。

    頂上の感動も後回しに相棒へまたがった。

    「うぉー!楽チン!気持ちいー!」
    と思った次の瞬間。
    大きなカーブ。
    「うわっ!!!」
    ズザザザザー。
    相棒ママチャリは俺から離れ…
    と思った時には相棒、上から抱きついてきた。

    「うわっ!!!」何が起きたのか分からない。

    一瞬の出来事。
    転んだ、と思った瞬間には、ママチャリが、上から落ちてきた。

    「いってぇ…!」
    声は、誰にも届かない。
    立ち上がると、赤いジャンパーの羽毛が飛び出している。
    ジーパンには、大きな穴が2つ。
    焼ける痛みをあちこちに感じ、誰も通らない山の中に、鳥の声だけが聞こえる。

    「……まじか。」深く、息を吐いて。
    「……行くか。」立ち上がり、一呼吸した。
    そして相棒にまたがる。

    急な下り坂。
    漕がなくても、スピードはどんどん上がる。
    さっきの転倒と、登りの疲労で、足はワナワナ。
    ブレーキをかけても、かけても追いつかない。
    右へ、左へ、カーブ。
    「うわっ!!!やべ!」

    ズザザザザー!
    ……嘘だろ。
    また、相棒は、抱きついてきた。

    九章――夕闇のなかで、私は私に帰った



    「いってー!なんじゃこら。
    ?……デジャヴ?」
    誰も見ていない道で一人ごちながら、もう一度立ち上がり、自分の身体を見た。
    ジャンパーは勢いよく羽毛が飛び出て、一度目のジーパンの穴は気持ちよく避けた!

    ……まぁいい、下りよう。

    私は、紙袋で口を覆いながら家を飛び出し、車に乗った。
    一刻も早くこの家から離れたかった。
    呼吸が戻り始めたので、車を出し河川敷へ向かった。
    家から離れるにつれ、呼吸はゆっくり落ち着いてきた。
    頭はどんどん冷静になるも、ただ涙は止まらない。
    あんな自分がいるんだ…。
    物にあたったのも人生初めてだった。
    河川敷の駐車場は、薄曇りの中いつもと変わらない、穏やかな風が吹いている。
    息が落ち着いて、旦那に電話をした。

    事情を伝え最後に言った。
    「私、家をでるから。」
    と。
    旦那は焦っている。
    しかし、帰ってきた言葉は、
    「帰ったらゆっくり聞くから。」

    約20年の結婚生活で、仕事中にかけたことなど一度もないのに、それでもいつも通りの時間に帰ってくる。
    覆ってくれる布ははがされ、心は大きな穴を開け、血を流し始めた。
    やはり、そうだったのか。
    彼の大切なものの中に私はいない。
    十分過ぎる時間を与えてくれることで、理解と決意ができた。

    日は傾き、夕闇に包まれそうになるまで河川敷にいた私。
    その時光が差した。

    「ツッツッツットゥルルルル」
    かかった!
    河川敷の通りを見ながら、何度もかけていた温への電話。
    電波が届きません。
    という冷静な機械音ではない。
    急に命が宿ったようだ。

    「あんた今どこ!?」
    「あー。やっと今下りてきたー。」
    「もー!!!!!山越えしたんでしょ!なんともないん?」
    「あー2回こけた。まぁ大丈夫。」
    「もー!!!!!死んだかと思ったわ!もう遅いから宿取れるかわからんけど、とりあえず良かった!宿とるからまた後連絡する!絶対とってよ!」

    峠を降りてきて、すぐにかかってきた電話に温は驚いた。
    ふーっっっ。
    あいつすげーな。下りてきた途端かけてきて。
    見てるんかな?
    後ろを振り返る。
    時計を見ようと、キッズ携帯の画面を見た。
    17時を回った時間を示すと共に。
    【母さん】という表示。

    ーーこわっ!鬼電やん!
    1,2,3,4,5,6,7,8,9……悪かったなぁ。

    あたりも薄暗くなり、電話の後もしばらく北へ進んだ。
    その時、母さんからの電話で今夜の宿を聞いた後、こけた経緯と状況を話した。

    ーー笑ってる。
    あいつ、心配してたんじゃないんか?
    笑うどころじゃない。大爆笑してるじゃん。
    「あーっはっはっは!さすが、やるなぁー!神がかってる!くっくっくっく笑」
    なんか…腹たってくるけど。
    まぁいっか、俺が言うことを聞かなかったのは確かだし。
    うん、とりあえず飯!メシ!

    温が無事だっただけで、私は生きれる。
    本気で笑えた。
    笑えたことに驚いた。
    生きるために笑ったのかもしれない。
    その日の夕飯はどうしたか覚えていない。

    普通に帰ってきた旦那と話をした。
    顔は心配そうだけど、彼の声は私の心の深い場所には一滴も届かなかった。
    「実家へ帰ります。」
    もう揺らがない言葉を置いた。

    翌朝も、姑舅の顔は見れない。
    布団の中から、娘の凛に声をかけた。
    「ごめん、母さん下に降りられないから、ご飯もお弁当もできない。」
    凛の戸惑うような気配を感じながらも、私は瞳を閉じた。
    それからは両親と顔を合わさないようにやり過ごした。
    仕事は行った。
    決意があれば普通に過ごせる自分を知った。
    温が帰ってきたら、出て行く。
    決意は私を支えた。

    十章――雨の中で差し出された手



    7日目朝、徳島県。
    ――はぁ、また大雨だよ。
    天を仰いでは、ぼやいてみる。
    もちろん返事はない。
    相棒のママチャリも、心なしかうなだれている。
    ふと後ろを見て、声が出た。
    「…あれ?後ろ、空気ないやん。」

    宿のおじさんに伝えると、
    「あー、パンクやな。直したるわ。」
    そう言って、当たり前みたいに作業を始めた。
    朝の冷たい空気の中、黙々と手を動かすおじさんの背中が、妙に暖かかった。
    や、優しい…。
    この旅に出てから、人の優しさは、やけに胸に残る。
    お礼を伝え。
    さて、行くぞ。
    3日後には入学式。
    財布はもう薄い。今日は昼抜きで走るしかない。
    水はある。2リットル。
    前カゴで元気よく飛んでいる。

    土砂降りの音だけを聞きながら、無の境地で数キロペダルを回し続けた。

    ――あれ?
    嫌な感覚を相棒から感じる。
    あ…また、パンクやん…。
    相棒を降りて、タイヤを見る。
    ほとんど空気がない。参ったな…。

    ざんざん降りの中、自転車を押して歩く。
    トボトボトボトボ。
    どれくらい歩いたか分からない。
    母さんとは、お昼に宿の打ち合わせでパンクを伝えた。
    「自転車屋さん見つけて、直してもらい。」
    「見つけたいけど、全然ないんよ。」
    「誰かいたら聞きなさい。」
    「……分かった。」
    もう、「分かった。」としか言えなかった。
    母さんには、どうしようもない。
    それは解ってる。

    電話を切ったあと、私も天を仰いだ。
    雨は止む様子もない。
    今日は仕事がないけど、家には居られない。

    河川敷の駐車場へ車を停め、視界全てが黒々とした暗雲で泣いてる空を眺めた。
    昨日の姑との出来事や、旦那と話した後の離別の決意が浮かんでは消える。
    車の中で時間を潰すのは、今に始まったことじゃない。
    それでも今日は、落ち着くはずの場所が落ち着かなかった。
    温が、この土砂降りの中、歩いてる映像が頭に浮かぶ。
    待つしかない。
    鳴らない携帯を持ち、何に対しての涙か分からないものが流れるだけだった。

    同じ時間、温はトボトボ歩いていた。
    雨、止まんかな。腹減ったな。寒い。

    「どしたん?」
    ――え?
    天の声かと思った。
    声の方を見ると、民家からお兄ちゃんが出てきていた。
    「パンクか? ちょっと持ってきてみ。」
    えー…や、優しい。
    会話しながら、迷いなく穴を見つけて、直してくれる。
    「大学生?」
    「いえ、今度高校生です。」
    「え? 中3?」
    「いえ、高校生になります。」
    「このママチャリで四国一周?そりゃ無謀やなぁ。」
    「はぁ。皆さんそう言います。」
    玄関先の軒下、太陽みたいなお兄ちゃんは、楽しそうに嬉しそうに直してくれる。
    屋根の外は跳ね返してくる雨。
    でも、ここには陽だまりがある。

    「できた!」
    満面の笑み。
    何度も頭を下げた。
    お兄ちゃんは笑って、手を振ってくれた。
    振り返ると、小さくなりながらも、まだ見送ってくれている。
    もう泣きそうだった。

    20mほど走ったとき、タイヤの沈む感覚。
    ――え?
    ちょっと待って。またパンクやん!
    後ろを見ると、まだお兄ちゃんが見える。
    戻れるわけがない。
    あんなに一生懸命やってくれたのに。

    空気が抜けて重くなったペダルを、渾身の力で踏み込んだ。
    背中で受けるお兄ちゃんの視線が、温かくて、痛かった。
    視界から消えるまで、必死に“直ったフリ”をして走り続けた。

    立ち漕ぎしたり、しんどくなっては押したりしながら、どれだけ走ったかは分からない。
    ガタガタいうタイヤも、ザーザーとカッパを叩く雨も、俺の心も、同じ音をたてていた。
    そのとき見えた神々しく光る自転車屋の看板。

    修理代の3千円は痛すぎるけど、これで宿に着ける。
    今日1日何も食べてない。
    晩ご飯も、きっと質素。
    予定の距離は、全然進んでいない。
    それでも、ありがたいことにタイヤはちゃんと回っている。
    …しかし明日、ほんまに俺は家に着くんだろか。

    十一章――最後の甘え、最後の坂


    「もう、しまなみのルートじゃ入学式に間に合わない。お金もないんでしょ。今日、高松港から船に乗って帰ってきなさい。分かった?とにかく、今日の夕方までには高松港に着くこと!」

    8日目、徳島県。
    快晴。
    朝一番、母さんは少し慌てた様子で、でも、どこか嬉しそうに電話をかけてきた。
    「うん、うん、分かったよ。」
    とりあえず、それで今日中には家に着く、ってことだな。

    入学式まであと2日。
    昨夜から私は地図と睨めっこを続けた末、四国高松港から本州(宇野港)へ渡るフェリーを見つけた。
    今日中に帰れれば、前日は身体を休ませてやれる。
    その日、私は別の場所から向かうだろう。
    ここには、もう居ない。
    私のタイムリミットと温のタイムリミット、それが今日だった。
    一気に気持ちが軽くなった。
    会える。
    今日、温に会える。

    その日も仕事を終え、人気のない時間帯に温の好きなものを作り、夕方からの仕事へ出かけた。
    温は順調に高松港へ向かっている。
    「帰って来る!」
    その確信だけで、私は笑えた。

    「うぉー!!腹減ったー!!!」
    金がない。
    朝から水しか口にしていない。
    頭と同じで、腹も動くのをやめたらしい。
    ぐーぐー文句を言っても、水しか与えられず、そのうち静かになった。
    まぁ、天気はいいし。
    高松港まで行けばあとは船が本州へ俺を連れて行って、そこには母さんが待ってる。
    なんとか晩飯の時間までには、腹の虫も満足するだろう。

    ゴールを感じた足は、必死にペダルを回した。
    無事、日が傾く前に高松港に着き、チケットを買う。
    ――よし。
    ギリギリ船代、払えた。セーフ。

    「母さん、高松港着いたよ。18時◯◯分に宇野港に着くから、迎え頼んだよー。」
    「……はい?」
    「いや、迎え。」
    「え?なんで?」
    「だって、本州に着くんだから迎えに来てくれるやろ?」
    「あっはっはっは。んなわけないじゃん!家までが遠足!自分の足で帰りなさい!てか、母さんが迎えに来ると思ってたん?そんなことする親が、四国なんか行かせるかー!」
    「もー!勘弁して!もういいじゃん!もう無理!!!」
    「ないないない!最後までやり切らないと意味ないでしょ!」
    「……もう……頼む…勘弁して…。」
    「はい、頑張れー!じゃあねー待ってるよー。」

    電話は切られた。
    船に乗って瀬戸内海の穏やかな海を見ても、本州に着いて安堵しても、はらわたは煮えくり返る。
    ずっと無心で走ってきたのに、初めて言葉が頭に溢れ出した。

    くそっ、くそっ、くそぉー!
    あいつ腹立つ!
    許さん!
    もう四国一周したやろ!
    ありえん!ありえんって!
    帰ったら文句言ってやる。
    絶対、文句言ってやる!

    あー、怒ってたなぁ。
    今ごろ怒りながら自転車漕いでるんだろうなぁ。
    私が迎えに来ると思ってたなんて。
    それだけで、笑えてくる。
    …どんな顔してるんだろ。

    わーい。見に行かなきゃ。

    夕暮れを過ぎ、途中何度か電話をして居場所を聞いた。
    温の声は珍しく不機嫌そのもの。
    夜の仕事を終えた私は、その方向へ車を走らせた。

    例えば、雷を落としたあと、ふてくされて出て行った子どもを、こっそり見に行くあの感じ。
    私は完全に、ニヤニヤしていた。
    ――ワクワク、ニヤニヤ。

    街灯が、等間隔に道を照らしていた。

    見つけた!

    暗闇の中、対向車のヘッドライトに照らされて、立ち漕ぎの自転車が遠くに見える。
    車だと気にならないけど、この道こんなに坂だったんだな。
    冷静なことが、ふと頭をよぎる。
    近づいてくる。
    対向車に照らされ羽毛の飛び出た、あの赤いジャンパーが一瞬だけ光る。

    ーー間違いない。温だ。
    必死に立ち漕ぎをしながら、対向車の私には目もくれず、前だけを見て漕いでいた。
    夜10時を回っている。
    フラフラしながらも、必死に前へ進んでいる。
    胸が掴まれる。
    あぁ。……よかった。

    私は、反対車線の温を目に焼き付けてはすれ違った。
    そしてその先でUターンしては、また追い抜く。
    追い抜くたび、ハンドルにしがみつく温の気配が胸に刺さる。
    立ったり座ったり。
    こんな風に1000キロ走ったんだね。
    ずっと離れていた温が、今はもう私の手の届く場所にいる。
    その事実だけで、胸の奥の塊が少しずつ溶けていくのが分かった。

    数キロ先で、車が目立たず道路を見渡せる場所を見つけては停車した。
    そしてまた、温が私を追い抜くまでじっと道路を見つめた。
    それを何度も、何度も繰り返しながら、2時間。
    色んな思いが、心の中で浮かんでは消えていった。

    ――ここまで来た。もうすぐ終わる。そして、始まる。
    今日は帰るあの家とも、明日が最後。
    一つのゴールを迎え、明日がスタート。
    温に話せる。もうすぐ家に着く。

    私は、先に家の駐車場に車を停め、玄関前で温の姿を待った。
    時刻は日をまたいでいる。
    遠くに温の姿が見えて、私は身体ごと大きく手を振る。
    近づいてくるにつれ、顔が見えた。
    少し呆れたような顔で、笑っている。
    声が届く。

    「おかえりー!」
    「おう。」
    照れくさそうに、少し下を向く。
    薄暗い外灯の中、ゆっくりと自転車を停めた彼の頭を、私はわしゃわしゃと撫でながら、
    「よぉやった!!!凄いぞ!!!かっこえーわー!さすが!やっぱりできるよねー!」
    顔を上げた彼の表情は、出発前とはまるで違っていた。

    あの日見送った少年は、もうここにはいない。
    ぽっちゃりしニキビ面だった顔は、日に焼け、ニキビは消え、端正さを帯びている。
    荷物を持ちながら彼が言った一言。
    「母さん!
    出逢う人みんな、ママチャリで四国一周は無謀だ。って言ってたで!」
    私は笑った。
    この子は、帰ってきた。
    そして、もう以前の彼ではない。
    この旅は、確かに終わった。

    リビングへ入ると、そこには旦那が作ったであろう文字があった。
    【おかえり温!】
    一枚一字、コピー用紙に印刷された文字が、壁に貼られている。
    無機質な文字は優しさとして私には届かない。

    顔を見ることができなかった。
    それでも普段通り、28時間ぶりの食事をとる温を眺めながら、話を聞いた。
    笑いながら、讃えながら。
    この家での、最後の晩餐を。
    温は、この8日間の旅で10キロ体重が落ちていた。
    手首から先は真っ黒に焼けている。
    元に戻るまで、一年ほどかかるだろう。
    その姿を見て、過酷な旅を一人で乗り切ったのだと、改めて実感した。

    旅は、温をたしかに大きく、大きく成長させてくれた。
    そして、出発した初日には想像もしていなかった決断を、私自身も明日実行する。

    十二章――荷物は少なく、決意は重く



    旅を終えた翌朝、普段通り旦那は出勤した。
    昨夜、夜遅くまとめた荷物は、スーツケース2つ。
    家を出ていく荷物とは思えないほど、少ない。
    必要なものは僅かだった。
    娘の凛は、いわゆる母さん子だった。
    私の居る場所に居るものだと、疑ったこともない。
    だから、私は彼女の心を置き去りに、投げつけてしまった。

    「母さん、今日、家出るから。」

    今朝、凛を送り出す前に言った一言。
    その後、何度も思い返す言葉。

    突然そんなことを言われて、唖然としている凛に、私は畳みかけた。
    「ついてきてほしいんだけど。」
    一瞬で憤りの表情を浮かべた凛。
    「はぁ?もー!!!」
    強い口調の凛の声と、大きな音をたてて玄関は閉まった。
    そんなことを言われたら、そんな言葉しか出ない。
    でも大丈夫。
    ついてきてくれる。
    余裕のない私は、そんな風に自分の都合のいい考えで、自分の身支度をしていた。

    家には、他にも人がいる。
    それなのに、その日は異様に静かだった。
    家の中だけじゃない。
    外の喧騒まで止まっているような気がした。
    私が出ていくことは他の家族に伝わっているのか。
    分からないけれど、全てがどうでも良かった。
    あんなに気にしていた『どう思われるか』の問いは消えている。

    ゆっくり寝かせていた温を起こしに行く。
    部屋に入り、ベッドで身動きしない温の傍へ行った。

    「ちょっと起きて。話がある。」
    と小さく声をかける。
    布団の中で眠そうな目を開けて、
    「ん? なに?」
    「ごめんごめん。体起こして。」
    面倒くさそうにゆっくりと体を起こし、んー、と大きく伸びをした。
    「どしたん?」
    「母さんな、この家出る。」
    「!は? どしたん?」
    そう言うと同時に、目を大きく見開いた。
    伝え方など決めていない。
    でも言葉はポロポロとこぼれる。

    ――今まで、毎日きつくてな…
    の一言から、旅の間に過呼吸を起こしたこと。
    体が限界だったこと。
    帰ってきたら出ると、決めていたこと。
    旅の間に起きたことだけを話したが、突然決めたことではないのが伝わったのか、一瞬の沈黙の後。

    「――そうなん?んで、どうしたらいい?」
    「ついてきてくれる?」
    「もちろん!」
    あっさりと、話は終わった。
    なんとも軽い!
    パジャマのままの温と、遠足の準備でもするかのような妙なテンションで二人は、音をたてないように忘れていた荷物を一緒に詰めていく。


    画像


    「お世話になりました。」
    玄関から家の奥へむかって一礼しながら、心の中でそう言った。
    人の気配はあるが見えない。
    見せないことがありがたい。
    外へ出て振り返る。
    もう自分の家ではなくなる、この家。
    17年過ごした場所。
    この家の家族にはなれなかったのだと、もう一人の私が、静かにそう教えてくれた。
    戸惑いと抵抗が一瞬私の心を撫でた。

    温と荷物を車に積みながら、明日からの話をする。
    入学式は、一人でここから行ってもらうこと。
    そのあと、ゆっくり話す時間があること。
    子どもたちの引っ越しは今度の土曜日にしたいこと。

    神妙に聞いていた温が、ウーン!と伸びをしながら、
    「なんか、面白くなりそうだなぁ!」
    と、いつもの屈託のない笑顔を見せた。
    その一言で、張りつめていたものが緩んだ。
    怒涛の一年間の幕開けは、なんとも軽い。

    十三章――父の、たった一言


    一人、実家へ向かう車の中。
    父は何と言うだろう。
    凛は帰ってきて何を思うだろう。
    温は……。
    言葉はいくらでも浮かんでくる。
    ……大丈夫。
    そう、自分に言い聞かせ静かにさせた。

    実家までは、車で10分。
    それなのに、この17年ほとんど帰っていなかった。
    忙しかったのもあるが、それ以上に「嫁いだら甘えてはいけない。」という古臭い呪縛に縛られていた。
    両親に、愚痴一つこぼすことすらしてこなかった。
    なんで、してこなかったんだろう。
    ――いや、今はどうでもいい。

    実家の玄関を開け、無言で仏壇の前へ。
    おりんを鳴らし、手を合わせる。
    「ご先祖様、お母さん。どうか、ここへ置いてください。」

    リビングへ行くと、父はいつもの笑顔で言う。
    「おかえり。どした?」
    父の前に正座をし、
    「お父さん、ここへ帰らせてください。」
    震える声で父に言った。
    父は一瞬驚いた顔を見せたが、すぐに言った。
    「おう、ストレスのある所におったらいけん。分かった!」と。
    それだけだった。

    私は突然涙が溢れた。
    やっと、布をあててもらえた。
    「ありがとう」
    それだけ伝えて、涙を隠しながら2階へ上がる。
    せっかく覆ってもらった傷口を、自分で開けてしまいそうで。
    誰も住人のいない部屋の一室に、昼から布団を敷き眠った。
    何度も目を覚ましながら、翌朝まで。

    十四章――ガランとした部屋で、目を閉じた


    翌朝、温の入学式当日は『会える!』という気持ちと、入学式に別々の場所から行く申し訳なさと、全てが宙ぶらりんの不安をもち高校へ向かった。

    式が始まり、綺麗なピカピカの制服に包まれた生徒を見る。
    温を探すと、一瞬見えた。
    背が高いので目立つ。
    背筋を伸ばし、前を向き、とても逞しく見えた。
    入学式の校長先生の話、代表スピーチなど、一つ一つの言葉に私の琴線は触れる。
    入学式にボロボロ泣く保護者はそういないだろう。
    式も終わり、皆がにこやかな顔で校庭に集まり、写真を撮っている。
    私たちも一枚だけ、他の保護者さんに撮ってもらった。
    二人だけの入学式写真。
    目を腫らした私の笑顔と、照れくさそうにする温の笑顔。

    温を車に乗せ、中華屋さんで食事をしながら笑い、食べ、笑いを繰り返した。
    数日後の引っ越しを決めて、駅まで温を送り別れた。

    突然静かになった車内で、私の笑みは消えた。
    父にも「ただいま。」とだけ声をかけると、2階の部屋へ入る。
    何もないこの部屋と同じ。
    私は、何も持っていないことを忘れるため目を瞑った。

    友人、知人、誰にも打ち明けないまま、布団とスーツケース2つだけの部屋へ引きこもり、丸一日中寝ていた。
    昼か夜か、夢か現実か分からなくなるほど。

    時折父の声が現実へ引き戻す。
    「ご飯食べんといけんぞー!」
    「いらんー欲しくないー。」
    これを何度となくやりとりし、心配する父の顔を見に降りた。

    変わらない。
    何事もなかったように、雑談をしている。ただ1度、
    「子供はどうするんな?」と聞かれ、週末に2人とも来ることを伝えた。
    亡き父はあの当時何を考えていたのだろう。

    十五章――私の淡い期待を、私が壊す



    入学式も終わり、子供たちが実家へ来るまでの間、2度ほど子供たちと電話で話した。
    その前日は、朝から家中の掃除をし、夕方に凛へ電話をしたとき、
    「私やっぱり行かない。」
    凛はキッパリと言った。
    私の頭は停止して、汗は噴き出した。

    「え?なんで?」
    「学校遠くなる。」
    まずい。何か言わないと。
    「自転車通学になるから、時間はそんなにかからないじゃん。」
    「自転車通学が嫌だ。」
    ――終わった…。
    彼女は自分で決めたらテコでも動かない。

    3歳の七五三もそうだった。
    可愛いらしい色のピンクや黄色を着せても嫌だ、嫌だ、泣きわめくわけでもなくブスッとしている。
    時間をかけ、彼女の気に入った着物を見つけて着させると、笑顔でカメラの前ポーズをとる。
    その着物は黒だった。

    一旦私は諦めた。
    「とりあえず明日、兄ちゃんの引っ越し手伝いに来て。」
    顔を見ながら話を聞かないと、彼女の気持ちはわからない。
    明日へ一縷の望みを持って、深い闇の夜空をカーテンの隙間から見た。
    その日も早い時間に布団へ潜り込んだ。

    朝から天気はよく、旦那の車から降りる子供たち。
    2階の窓からその姿を見るだけで、こんなにも光を感じる。
    子供たちは私のところへ居たらいいと、旦那は考えてくれている。
    その話は別居して数日経ったとき、彼が訪ねてきて話し合った。
    温と旦那は大きな荷物を。
    凛は2階の各部屋を見ては黙っていた。
    引っ越しはすぐ終わる。
    凛にどう切り出そうかと思案していると、凛が私の傍へやってきて、
    「やっぱりここに住む」
    と言った。

    あー!良かった!
    話し合うまでもなかった!
    分かってくれた!
    当時の私は、そう都合よく思い込もうとしていた。

    自分のことで精一杯で、多感な中学生の凛が、どれほど突然の嵐に戸惑い、必死に足場を探していたのかに、本当の意味で目を向けようとしていなかった。

    その日から、私の提案で旦那は仕事帰りに、うちで夕飯を食べるようになった。
    当時の私は、姑舅が一番辛かった。
    旦那の問題は2番手。

    旦那は、あの家から離れることで、私と子供たちに愛情を持ってくれるのではないか?と淡い期待を持っていた。
    もちろん愛情はあるのだろう。
    しかし、何かが大きく違う。
    ずっと、表現の違いだ、と思おうとしていた。
    あの家から離れ、ここで一緒に暮らせば何かが変わる。
    ーーなぜか私はそう信じていた。

    しかし、数日経過しても数週間経過しても、旦那から「一緒に暮らそう。」という言葉は出てこない。
    私は諦めていった。
    そうか、この人は私たちから始まる家族を第一優先にはしてくれないのか。

    毎晩来ては食事をし、玄関先で一言二言話し帰っていく。
    旦那が来ることをしんどく感じ始め、この家族の形はなんだろう。と、モヤモヤしていたある日。

    食事が終わり、突然旦那は父に向かって、
    「お父さん、僕も一緒に住まわせてください。」
    と頭を下げた。
    私は突然の出来事に、言葉が出ない。
    『何言ってんの?私には一言もそんな話をしたことないのに。私の意思は関係ない?いつもそうだ!わけが分からない!』
    父は、無表情のまま無言でいる私の顔を見て、
    「そりゃあそれが良いけど、二人で話したんか?」
    と言った。
    私はその言葉を聞いて我にかえり、子供達がいない2階へ促した。

    二人とも立ったまま2階で話し始めた。
    私は感情が溢れた。
    なぜこうなったのか。
    17年間の同居で、今まで言えなかったことを初めて吐露した。
    そして、静かに聞いていた旦那の、踏んではいけない地雷を踏んだのであろう。
    その日から彼は来なくなった。

    十六章――カゴから出た鳥たち


    引っ越しして数日後、初めての通学の日。
    実家からの通学は遠くなるので気になっていたが、二人とも難なく帰ってきてくれた。
    その翌日、さっき家を出ていったばかりの温から電話が鳴った。

    「母さん、自転車分解した!」
    言葉の意味が分からなかった。
    分解?
    なぜ?
    どうして?
    「いや、普通に乗ってただけだよ!」
    まだ聞いていないが、破壊王は言い訳から始まった。
    「また何かしたんじゃないの?」
    「ほんまに違うって!」
    半信半疑のまま迎えに行くと、前輪が外れ見るも無惨な自転車がそこにあった。
    とりあえず車に積み、駅まで送る車内で、私はまだ疑っている。
    「また酷い道を、ゴイゴイ行ったんじゃないの?」
    「いやさ、母さん思い出してくれん?あのチャリ、俺の相棒だったんよ。四国を一緒に回ったんだよ?」

    …ああ、そうだった。
    「限界だったんだと思う。」
    その一言で、妙に納得してしまった。
    温を駅へ送り、その足で自転車屋さんへ持ち込むと、店主は少し困った顔で言った。
    「これは……フレーム、折れてますね。」
    山越えのたび、悲鳴を上げながら、2度ほど息子に抱きついたママチャリ。赤い相棒は、その日、処分してもらうことになった。
    四国を走り切った自転車は、役目を終えたのだと思うことにした。

    温は、新しい相棒を手に入れ何事もなかったように、日常へ戻っていった。

    画像


    新しい日常に慣れてきたある日、
    「どんな?こっちに来て。」
    と、温に聞いてみた。
    少し考えた温は、
    「うーん。向こうの家の時はカゴの中の鳥だったけど、ここは放牧の羊とか馬の気分かな。」
    私はうまいことを言うなあと、感心しながら、
    「以前はカゴの中で見られてた感じ?」
    「うん、そうなんよー。なんかやってても目を感じた。ここは笛が鳴った時に、はいはい!って帰ってきたらいいから楽だわー。」
    「あはは!ご飯よー!ピー!って感じか!」
    「そうそう!あはは。」
    こんな風に、想いを口にしてくれるようになったことが喜びだった。

    地雷を踏んでからは、金銭的な問題はあるものの、心は軽くなっていく。
    「なんて日々が素敵なんだろう!」
    「好きな人たちの洗濯はこんなに幸せだった?」
    「材料は質素だけど、ご飯も美味しいー!」
    と、小さなことにも喜びを感じていた。
    私が解き放たれていく。

    ただ家から出ると、前の家族に出くわすのではないかと怯えてはいたが、家に居るときは本当に心が守られていた。

    この頃の私は、温や凛の気持ちと心の動きが気になって、日に1度は「今日、どうだった?」と、聞いていた。
    その会話を聞いていた父が、私に言ってきた言葉がある。
    「もう聞くな。特に男には聞くな。何かあれば言ってくる。」
    自分で解決させろ。ということかと、私は珍しく納得した。
    それからは日常温に聞くことをやめた。

    凛は中3。
    受験生だけど、彼女は勉強もできる方で、行きたい高校も大丈夫だろう。
    ずっと欲しかった猫にも出逢った。
    YouTubeやCMにも出ていた『おしゃべりシオちゃん』長毛の黒猫が大好きで、凛と私はYouTubeを見ては、シオちゃん欲しいー!と願っていた。
    そのシオちゃんそっくりの保護猫に出逢い譲り受けた。

    「絶対私が面倒みるから!」
    と、お決まりのセリフを凛は父に告げた。
    実家にはコーギーが家の中で飼われていたが、リビングと廊下しか行き来できない。
    なんとかなるかと許可を得た。
    よく聞く子供の言葉同様、凛の面倒みる!は3日も持たず空中分解。

    世話をしない凛は、学校から帰るとキッチンに居る私と猫とキャッキャと遊ぶ。
    3人と猫+老人とコーギーの生活は、本当に毎日が幸せだった。

    気が抜けていたのは、確かだ。

    十七章――もぬけの殻



    季節は進み夏を過ぎ、秋になった。
    凛は自分の部屋にいる時間が増えていった。
    笑顔が少し減ったようにも見えたけれど、初めての受験を控えているのだから、緊張しているのだろう。
    ――私はそう思うことにしていた。

    ある休日、私は仕事で昼から外出し夕方に帰宅した。
    温は出かけている。
    帰るなり食事の支度を始め、2階にいる凛に、
    「ご飯できたよ。」
    と声をかけた。
    父はダイニングテーブルに座り、私はお膳を並べている。
    ――音がしない。おかしいな、寝てるのかな?
    普段なら、すぐ降りてくるのに。
    もう1度声をかけながら2階へ上がり、凛の部屋の扉を開けた。

    「……!!」

    部屋は、もぬけの殻だった。
    布団も机の上の物も、凛の私物がすべて消えている。
    机の上には、凛の字で書かれたメモ用紙。
    『藤原に帰ります』
    ――旦那、姑舅の家に。
    どういうこと。
    こんな量、凛一人で運べるわけがない。
    立ち尽くしながら、血が逆巻く。
    旦那が来たんだ。

    私は紙を掴み、リビングへ駆け降りた。
    「◯◯さん、来た?」
    「いや、来てないぞ。父さんずっと家に居たけど。」
    信じられない!
    お父さんが家にいるのに、挨拶もなく、凛と荷物を連れて帰った?
    2階にまで上がった?
    もし凛が「帰りたい」と言ったとしても、大人が何も言わずに人の家から連れ出す?
    胸の奥で、悲しみと怒りが行き場を無くし溢れ出た。
    感情の渦の中、一部冷静に同じ記憶を映し出す。

    家を出る朝、凛に言ったあの一言。

    『母さん、今日、家出るから』

    すぐに旦那へ電話をかけた。
    不機嫌そうな声が携帯から聞こえる。
    事情を聞くと、返ってきた言葉は、
    「帰りたいって言うから。お前がちゃんと見てやらんからだろ。」
    ――それだけ。
    なぜ、凛から相談を受けた時点で連絡をくれないのか。
    なぜ、中立の立場をとってくれている父に一言もなく。
    なぜ、人の家に勝手に…。

    言葉は止まらず、気づけば喧嘩になっていた。
    結婚生活が始まって20年、初めての言い合いの喧嘩だった。
    今思えば、壊れる前に喧嘩一つどうしてできなかったのだろう。

    私は、感情をぶつけることが苦手だ。
    悲しみのスイッチはすぐ入るのに、怒りのスイッチは、ほとんど持っていない。
    怒りのスイッチがない、というより、正確には『鈍らせて生きてきた』のだと思う。
    人を嫌うのが苦手な私は、気づかないふりをすることで、自分を守ってきたのかもしれない。

    以前、こんなことがあった。
    運動会6人分のお弁当は、全て私の仕事。
    そして、テントでお弁当を囲んで食べ終わったとき。
    仲良しのママ友が寄ってきて耳打ちした。

    「いつもあんなこと言われてるの?」
    ギチギチのテント下での食事。
    会話は丸聞こえだったのだろう。
    「ん?なんか私言われてた?」
    「!!!」
    びっくりした顔のママ友は即座に、
    「えー!?味が薄いだの、もう少しこうしたらいいだの、量が少ないだの、聞いててこっちが腹立ったわ!」
    「あはは……まぁ、毎日の事だから私も聞こえてないのだわー。ありがとうね!」
    人を嫌うのが苦手だと、ドンドン鈍感になるのか?と、感じた出来事。
    友人が、迷いなく怒れるのを見るたび、本気で羨ましいと感じる。

    この電話で、私も怒りを持っていることを知ったけど、その後またどこかへ消えた。
    怒りのスイッチは姿を見せない。
    子どもたちでさえ、知らない。
    戦えない。
    誰とも、戦いたくない。
    勝つとか、負けるとか、どうでもいい。
    電話の最中、渦巻く怒りの隙間から、もう一人の私が静かに語りかけていた。

    凛を取り返したい…ではない。
    あの家で、凛を育てさせてはいけない。
    怒りではない強い思いだけが、私の中で揺るがなかった。

    十八章――戦わないという選択


    口論は、突然プツッという電話を切られる音で終わった。
    どう考えたらいいのか、考えるということができない。
    悲しみなのか、怒りなのか、落胆なのか。
    自分でも整理できないぐちゃぐちゃの中、温が帰ってきた。

    キッチンで温に話しながら、整理しようとした。
    温は一生懸命、共感したり励ましたり、言葉を尽くしてくれた。
    ありがたかった。
    心底、ありがたかった。
    それでも、私の頭も心も動かなかった。

    父は普段と変わらない日常を演じてくれていたが、ある日の言葉だけは私の記憶に深く残っている。
    温が学校に行っている夕暮れ。
    父とぼんやりテレビを流しながら雑談をしていた。

    私の頭の中にテレビは映らず、この家から消えた凜が映っていた。
    私は、ポツリとこぼした。
    「このまま帰ってこないのかな。」

    父は事も無げに、
    「思い悩むのは、天下国家がひっくり返る時だけでいい。あとは取るに足らないことだ。」
    と言った。
    正直、酷く冷淡にも聞こえ驚いた。
    とても悲しんでいる人に言う言葉ではない。
    何と比べてるの?
    これが大したことではないと?
    我が子と離れて暮らす。それも家出って結構なことだと思うよ?

    ーー言葉は浮かぶけど、父は何かを私に教えようとしていると感じた。
    釈然としないまま、私は言葉を飲み込み、冬に向かう葉の少なくなった庭の木々を、窓越しに見つめた。
    その後、何度も何度も父の言葉をかみ砕いた。
    父は冷淡な人ではないから。

    過去の歴史で行われてきた侵略戦争。
    今も世界のどこかで行われている出来事。
    国が占拠されたり、殺し合いが始まったり、死ぬより辛い苦しみを味わうなど。この国にもあった。
    他人事ではなく、日本でも2代前の先祖たち以前には、沢山あった出来事。
    それとは比べ物にならない今回のこと。
    凛は違う場所で、平和に生活している。
    ご飯も食べれて生きている。
    そして凛本人が選択した。

    ただ一緒に生活していないだけ。

    そのことが理解できるまで、何日も何日も眠れない日が続いた。
    涙は枯れない。
    以前は泣く場所がないから、河川敷で泣いていた。
    実家に帰ってからは、思考からの逃避で寝ることができた。
    今回は眠れないから、どうにもならない。
    それでも関係なく、日々は続く。
    眠れない夜を何度も越えながら、私にできることは待つだけだった。

    説得も、連れ戻しも、違う。
    凛が行動したこの出来事は凛に必要なことで、本人が感じるしかない。
    『いずれ良きようになる』
    と、信じようとしていた。

    それでも心は揺らぎ、何度となく自分に聞いた。
    凛と離れて暮らすのであれば、私が我慢した方がいいじゃないか。

    あの家に帰ろうか。
    揺らぎのまま温に聞いた。
    温は躊躇なく言ってのけた。
    「そんなに母さんしんどいなら、あっちに帰る?」
    その一言は、チクリと胸を刺した。
    「うん、そうしようかと思ってる。ついてきてくれる?」
    「いやー、俺は無理だから爺ちゃんと二人で暮らす!」
    一瞬の沈黙の中、秒針の音が聞こえる。
    「いやいや、ご飯どうするん?」
    「俺作る。」
    「ないない!学校帰ってご飯作って?……いや、そうじゃなくて、凛とあっちで暮らせたとしても、温が居ないんじゃあ意味ない!母さんは2人と一緒に暮らしたいんよ!」
    「あ、そうなん?んじゃ無理だわ。俺あっちに帰りたくない。」
    話は終わった。
    あっけらかんと、笑いながら言う温の表情には揺らぎがなかった。
    静かに受験が終わるのを待つ。
    この答えで幕を引いた。

    十九章――白紙の手紙と娘の目



    季節は深まり冬を迎えた。
    何かが解決したわけではない。
    ただ、時間だけが前に進んでいた。
    お正月、一泊だけ凛が来た。
    向こうでの暮らしを聞くこともなく、変わらない雑談だけをした。
    高校は温が通っている高校に行きたいから、他を受けない、と言う。
    もっと偏差値の高い高校を凛なら行けるのに。と、浮かぶ言葉を抑え、それでいいの?と確認だけした。
    凛は判断するとき、深く考える。
    考えて出した結論は覆らない。

    凛の居ない日常に慣れないまま時は過ぎた。
    自分の半分が削ぎ落とされたような日々。
    呼吸は浅い。
    それでも、電話をしなかった。
    揺らしたくなかった。

    そんな中、救いは温だった。
    私の前に座り、たわいもない話を聞いてくれる。
    ほぼ毎日。
    そして3日に一度は、
    「帰ってくるよ!」
    と凛の話に触れる。
    私が涙を拭いながら笑い、
    「ほんとー?」
    と言うと、即座にハッキリと、
    「大丈夫!」
    息のできる言葉を置いてくれる。

    うっすらと残る四国旅の日焼けは、まだ彼の手首に残っていて、あれからまだ一年も経過していない。
    この優しく頼もしい青年はどこからきたのだろうか?

    進路も早々に決まり、凛の卒業式の日を迎え、私は一人出席した。
    卒業式は粛々と終わり、クラスで最後のホームルーム。
    子供達は、自由にクラスを行き来している。
    教室の後ろ、顔見知りのお母さんの横に、何食わぬ顔で私は立っている。
    私と凛が、別々に暮らしているなど誰も知らない。

    久しぶりに見る凛は、私の知らない少女だった。
    やけに明るくクラスの色々な子に自分から声を掛け、何やら先頭をきるような。
    成長したんだなぁと、クラスの後ろで眺めていた。
    ホームルームが始まり、保護者への手紙を生徒は一斉に渡し始める。

    凛は迷いなく私に持ってきた。
    ーーそういえば温の時もあったなぁ。
    あの時は感謝の言葉が綴られていたけど、凛は文句が書いてあるかもね。と、ぼんやりホームルームを眺めていたが、その手紙が気になって、途中そっと開いて覗いた。

    『!』

    何も書いてない。
    白紙。
    ブワッと汗が出た。

    文句でも書かれている方がマシだった。
    伝えることは何もない。という凛の拒絶に見えた。
    『良きようになる』
    と信じようとしていたけど、私の思う良きとは違う方向へ進んでいるのかもしれない。
    それでも受け入れようと、一人自分を説得していた。
    ホームルームは終わり、みんなで話したり合同写真を撮ったり。
    喧噪の中、凛が2人の友人を連れてきて、写真を撮るようせがんだ。

    パシャリ。
    「ありがと!」
    と言って友達の中へ消えた。

    ざわつく心のままに私は一人家へ帰った。
    『母さんへ』
    とだけ書かれた白紙の手紙を持って。

    いつものように、温に今日の話をしていた。
    「えー?手紙白紙?やばいなぁあいつ!」
    「写真見る見る!ふーん。」
    いつもの調子で話しながらも、温は私を心配そうに盗み見る。
    気配を感じて私は本音が出た。
    「白紙は参ったわー。凄いな。母さんめっちゃダメージくらった。」
    苦笑いを浮かべながらも吐露することで、少し気が紛れた。
    自分が全て選択したこと。

    そして、私も卒業式の写真を改めて見返す。
    何枚かの式最中の盗み撮りと、クラス全員の合同写真、最後に撮った友人二人と凛をスクロールしていく。
    どれも凛なんだけど、何か違う。
    何だろう。
    じっと、何枚かの写真をスクロールさせながら見ていく。
    最後の写真で手が止まる。

    ーーあ!
    ずっと感じていた違和感の正体。
    私の携帯に凛が目を向けているのは、友人同士最後に撮った写真だけ。
    それを見て気付いた。
    酷く意地悪な顔をしている。
    目が……違う!

    これは誰に見せても分からないかもしれない。
    親だからなのか。
    今でも分からない。
    口元は笑っているけど、目が。
    目の奥が。

    私は意を決し凛に電話した。
    「明日会おう。」

    二十章――河川敷で、娘はほどけた



    翌日、凛と車に乗り河川敷へ。
    河川敷の駐車場に他の車はない。
    川を正面に車を停めた。
    揺れる川面の上を、鳥が横切る。

    「何?」

    凛が通常モードで投げてきた。
    ぎこちない空気が車内に漂う。

    凛は15歳で自分の軸を持っている。
    それを邪魔するつもりはなかった。
    色んな経験をして、もっと磨かれていく。
    自然に。
    しかし、今回だけは私の心の奥が叫んでいた。
    危ない!と。
    この日が、親として凛に向き合った、最後の日になった。

    川を見ながら独り言のように、ゆっくり言葉を出した。

    「あんね母さん、あんたが選んだことだから、それでいい!と。そう思おうと過ごしてきたんよね。何がいけんかったのか。なんで別々に暮らさんといけんのか。ずっと分からんで、分からんけど聞いても本当のこと言ってくれんから。」
    「だから、自転車通学が嫌だって言ったじゃん!」
    凛を横目に見ながら、
    「ほんとに?」
    「ほんとだって。」
    呆れるように放つ凛。
    その横顔を見ながら、私は一気に伝えた。
    「まぁ、それは終わったことだからいいや。今日呼んだのはね、嫌かもしれんけど、高校卒業するまでうちから通い!これは命令!」
    「えーーー!」
    凛は半分嫌そう、半分嬉しそうな顔をしていて私は少し安堵した。

    そして、親の顔で続けた。
    「あんな、あんた、酷い顔してるよ!凄く意地悪な顔してる。ちょっとびっくりしたんよ!爺ちゃん婆ちゃん、あんたの言う事なんでも聞くでしょ?父さんも。
    あんたそれが当たり前と思ってるよね?」
    凛は、遠くの川面の揺らぎを、真っすぐ見ている。
    その横顔を見ながら続けた。

    「このまま歳取っていったら、あんた誰にも相手にされないよ!誰が意地悪な人間と一緒に居たい?高校の間だけでもいいから、嫌でも苦痛でも母さんと暮らしなさい。」
    凜は俯き、その瞬間何かがほどけ、ぽたりと涙が落ちた。
    そして、私はゆっくりと続けた。

    「母さんはあんたの思い通りにはならない。けど、あんたがこれから楽しく笑える人生にはできる!」
    言い終えた私は外を見た。
    飛んでいた鳥は、川面に浮かんでいる。
    少し開けていた車の窓から、スッと風が入った。

    「わかった。」涙声の凛。
    私は息を吸い、凜に手を広げた。
    その胸に、下を向いたままの幼い娘が戻ってきた。
    ここから私たちは、本当に始まれる。

    画像



    二十一章――それは、感謝



    私たちの一年は、こうやって終わり、始まりました。
    凛は数日後に戻ってきました。
    あれから10年。
    子供たちは巣立ち、また帰ってくる。
    気づくといつも、どちらかが傍にいてくれました。
    だからこそ、どんな時も笑いが絶えることはなかった。

    凛は人を笑わせられる、自分の機嫌は自分でとれる人となり、温は揺れながら迷いながらも、笑顔で自分の道を探しています。

    それもこれも。
    戦わずともそっとしてくれていた元旦那、元姑舅。
    何も問わず、ただ『おう、分かった!』と言ってくれた、亡き父。
    そして、どんな状況でも大切に思ってくれた友人・知人・親戚。
    旅や日常で出会い、声をかけてくださった方々。
    沢山の方々に囲まれ助けられて、私たちは幸せでした。

    これからも続く人生は、平坦ではないでしょう。
    しかし、過ぎ去り乗り越えたことにより、私たちは何かを掴んできました。

    それは感謝。

    関わってくださる人たち、縁を持ってくれた方々が居てくれたから、小さなことを幸せと思える日々になりました。


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