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第19章 執行【③】

    第91話:明日という名の地獄

    視界からすべての色彩が消失し、世界は白と黒の、線と点だけで構成された純粋な情報の海へと変貌した。
    (……見えた)
    大和の身体から、あらゆる物理的な重みが消失する。
    心臓を正確に狙った拓哉の刃。
    その「一秒後の軌道」が、大和の網膜に、既に刻まれた傷跡のように鮮明に浮かび上がっていた。
    「は……っ!」
    大和は最小限の動きで上体をわずかに逸らした。
    短刀の切っ先が、濡れたシャツの布地を裂き、胸元の肌をわずかにかすめて通り過ぎる。
    拓哉の凍りついた瞳に、初めて明確な「驚愕(きょうがく)」の色が走った。
    最短・最適・最速を誇る香坂の執行が、完全に空を切ったのだ。
    「香坂の判断は、直線的すぎる」
    ……千太郎の言葉が大和の脳内で激しくリフレインする。
    大和はかわした勢いのまま、拓哉の右腕を逆手に掴み、その突進の力をそのまま利用して、彼の身体をコンクリートの壁へと激しく叩きつけた。
    「香坂さん……! ここは、俺の位置だ」
    「あんたの場所じゃない」
    その時、二階の暗闇で倒れていた奥道千太郎が、血まみれの手でビルの予備電源の最後のスイッチを叩いた。
    「……調整、終了だ」
    ビル全体を、鼓膜を裂くような高周波の電子音が包み込む。
    過負荷(かふか)に耐えかねた電気系統が中央制御盤ごと爆発的な閃光を放ち、スプリンクラーの水が火花を浴びて、虹色に激しく輝いた。
    圧倒的な光と音のノイズが、この空間の「現実」の輪郭を完全に削り取っていく。
    「大和さん、今よ!」
    由美が大和の手を掴む。
    二人の姿が、激しい電磁ノイズに紛れて、まるで陽炎のように空間ごと揺らぎ始めた。
    拓哉の超人的な眼線をもってしても、もはや二人の輪郭を捉えることはできない。
    大和が自ら「家族」という精神的重しを捨て去ったことで、彼は世界を繋ぎ止めていた因果の鎖から完全に外れ、一時的な「幽在(ゆうざい)」の状態へと位相(いそう)を移行させたのだ。
    二人は暗闇の階段を、もはや重力を感じないほどの超自然的な軽さで駆け下りた。
    ビルの玄関口を飛び出した瞬間、中目黒の冷たい夜気と、激しく降りしきる本物の雪が大和の全身を叩いた。
    「……ハァ、ハァ、ハァ……っ」
    大和は激しく息を乱しながら、激しく積もり始めた雪の中に膝をついた。
    ポケットからスマートフォンを取り出す。
    液晶画面には、理香からの着信履歴が無数に点滅していた。
    【21:05 理香】
    【21:10 理香】
    大和は、その光る画面をじっと見つめる。
    今、この電話に出て彼女の声を聞けば、まだ戻れるのかもしれない。
    「悪い夢を見ていたんだ」と笑って、あの温かで、何もかもが保証された家へ。
    だが、大和は右目に残る、あの世界を灼(や)くような熱い感触を忘れてはいなかった。
    一度見てしまった凄惨(せいさん)な未来。
    一度自らの意志で捨ててしまった昨日。
    それらは二度と、元の美しい形には戻らない。
    大和は、迷いを断ち切るように、スマートフォンを冷たい雪の山へと深く沈めた。
    冷徹な雪が、光る画面をじわじわと飲み込み、次第にその端末の光は青白く、弱くなって消えていく。
    「……行こう、由美」
    大和はゆっくりと立ち上がり、理香と翔太のいる日常の「層」に、完全に背を向けた。
    隣に立つ由美は、真っ白な雪の中で、かつて見たこともないほど澄んだ、そして底の知れない瞳で大和を見つめ返している。
    背後の雑居ビルでは、執行者である拓哉が虚空を切り裂き、調整者である千太郎が血の海に倒れ、世界の因果の番人たちが未曾有の混乱の中にあった。
    大和と由美は、降り積もる雪の中へ歩み出した。
    その足跡は、数秒後には白い雪に覆われ、まるで最初からそこに二人など存在しなかったかのように消えていった。
    それこそが、陸奥大和という男が初めて自らの意志で確定させた、「明日」という名の地獄への、取り返しのつかない第一歩だった。

    完結

    #創作大賞2026
    #ファンタジー小説部門

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    陸奥五郎丸です。 ここでは、静かに積み重なっていく人間の時間や、日常の裂け目に生まれる感情、言葉にならない違和感を物語として書いていきたいと思っています。 主に連載形式で作品を発表していく予定です。

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