
波の呼ぶ声(短編小説 #第二回一枚の写真から文芸賞)
「ああ、今すぐ行くよ」
おだやかな声で彼はそう言った。
彼――ユウジとは、バイト先で知り合った。通っている大学の側にある居酒屋で、店員募集の張り紙を見て入ったら、同じ時期にそこで働いていた。物静かだが、人懐っこい笑顔でいつも輪の中心にいる。僕は人付き合いが苦手だけれど、なぜか気が合ってよくつるんでいた。
ある日、夕方から彼の家で酎ハイをちびちびとやっていた。バイト先のことや友人の話などをぽつぽつ話していると、顔を赤くした彼が突然
「俺、実は人魚なんだ」
と言い出した。
酒の席での冗談かと思ったが、どうやら本当らしい。なんでも、人間に憧れて海沿いのこの街へやってきたそうだ。
「60日以上海に入らないと、人魚に戻れなくなるぞ」
と長老にきつく言われていたのに、陸の暮らしが楽しくて、気がついたら期日を過ぎていたらしい。
「それから何度か海に入ってみたけど、深く潜れなくて」
とうなだれる様子から、必死に帰ろうとしたが断念したように思われた。
青葉に風薫るころ、ユウジはいつものように朝の散歩をしていた。帰れなくても波の音を耳にすると心が洗われる、と彼はときおり言っていた。
ちょうど台風が去り、空は澄んでいたが雲が飛ぶように流れていく。水は鉛色に濁り、泡立っていた。
波打ち際に何か黒いものがある。近寄ると人のようなので
「大丈夫ですか」
と声をかけた。
はい、と応えた後その人はまじまじとこちらを見る。
「あの……もしかして、ユウジさん?」
と聞かれ、彼は首をかしげた。
「そうですが、あなたは一体」
彼女ははにかんだような表情をする。
「私はサキ。あなたの元恋人の娘です」
よく見るとその腰から下は魚だった。顔立ちもどことなく恋人の面影を感じる。可愛らしい口元や、そのそばに現れるえくぼなど。
「ママからずっとあなたの話を聞いていたの。とても優しい人で、声も優しいって。
それでどんな人なのか知りたくて、会いに来たの」
「――そうか」
「想像していたとおり、素敵な人だった」
とほほ笑んだ。
それからサキは週に一度は来るようになった。初めはとまどっていた彼も、日がたつにつれ心待ちにしているようだ。二人で泳いだり、語り合ったりしている。
やがて、一緒に暮らしたいと彼女は口にするようになった。
「俺はもう陸でしか生きられない」
そう告げるとサキはふっと下を向き、しばらくして顔を上げる。
「大叔母様に聞いたの。あなたと親しい人を殺せば、人魚に戻れるって」
その話を聞いて、僕はおそるおそる彼に尋ねた。
「それで……どうするの」
「俺には、親しい奴なんていない」
と漏らす彼は、苦渋の色を浮かべていた。
サキは幾度も彼にすがって涙をこぼす。人魚の涙には魔力があり、見た者は虜になってしまうという。彼もしだいに彼女のことしか考えられなくなっていった。仕事も休みがちになり、電話をしても留守電になるかコール音が響くだけだった。
ある日の昼下がりにアパートにいると、コンコンとドアをノックする音が聞こえる。戸を開けると、ぽつんとユウジがたたずんでいた。
「久しぶり」
とほほ笑むが、頬が少しこけているようだ。
「お前、心配したんだぞ」
と言うとすまん、と頭を下げる。
「ちょっと歩かないか」
と親指で示した。その日は講義もなかったので、付き合うことにする。
どんよりと雲が低くたれこめていた、肩を並べて歩き、人気のなくなった海辺を過ぎていく。桟橋には白い遊覧船がつながれていた。
「せっかくだから乗ってみよう」
僕も賛同してタラップを踏む。
霧雨が降っていたが、デッキに出て景色を眺めていた。海も灰色で所々白くなっている。そこは雨が激しいんだろうかとぼんやり思った。
霧の立ちこめる中、めいめいで物思いにふけっていると、急に波が高くなってちゃぷんと音を立てる。そこに、海藻のようなものが見えた気がした。
「ああ、すぐに行くよ」
ユウジは優しい声で答えた。
――それ以来、彼の姿を見たことはない。
了
花澤薫様 の #第二回一枚の写真から文芸賞 に参加させていただきました。
どうぞよろしくお願いいたします。