メインコンテンツへスキップ
見出し画像

人生の門出における親の思いに

     卒業式が行われ、新年度となり、入学式が行われる季節に、時々思い起こす出来事がある。
     今の自分だったらどうしていただろう、と考えるその出来事を、改めて振り返ってみたい。


     24年前の話になる。
     当時私は、利用しているプロバイダーが運営する、交流要素を持つゲーム内において、月1回短歌の会を催していた。
     1人につき1首として応募された作品に対して、出来栄えに応じて金賞・銀賞・銅賞・佳作と入選発表し、作品に対する私からの返事のような短歌である返歌を贈った。
     また、惜しくも入選外となった参加賞の方を含めて、ゲーム内で使用できるアイテムを、賞に応じた金額分進呈していた。

     短歌には、5・7・5・7・7という決まったリズムがある。
     7を8にするなどして、何とかリズムが壊れないようなやりくりの方法はあるが、5・7・5・7・5や5・7・5・9・9など、どうにも型に収まらずリズムを壊すものを短歌作品として応募する人もある程度いて、そのような作品は入選外と判断せざるを得なかった。
     他にも、言葉、特に古語の誤用で意味が通じなくなってしまったものや、作者自身はわかっていても広く一般的には意味がよくわからないと思われるものも、入選外と判断していた。

     そんな中、入選にするかしないかで、非常に迷った作品があった。
     型に収まっていてリズムを壊してはいない。言葉の誤用もない。意味もわかる。……ただ、共感できない、嫌な気持ちになる作品だったのだ。
     その短歌は、「娘達の卒入学」と「多忙な仕事に疲弊する母親である自身」を悲しむ作品だった。
     作中の「悲し」という言葉が私に与えたインパクトはかなり大きかった。
     多忙な仕事に疲弊させられる悲しみは理解も共感もできる。
     入学等のためにかさむ出費が悲しい、ということもわかる。
     それでも、娘達の卒入学自体を悲しむ気持ちは受け入れ難かった。
     自分達の卒入学自体を母親が悲しんでいると知ってしまったなら、娘さん達はどんな気持ちになるだろうか。
     他者を悲しませるような作品を入選にはできない、という思いから、私はその作品を入選外にする判断をした。

     その後、その作者とは数回のやり取りをしたものの、互いの認識に対する溝を埋められないまま、この回の短歌の会を最後に交流は途絶えることとなった、と記憶している。


     そのため、卒入学の季節になると時々思い返しては、あれでよかったんだろうか、もっといい方法はなかったんだろうか、と考えたりしたのだ。
     今の自分だったらどうしていただろう、と考えた私は、保存し残していた当時の記録を、改めてこの機会に見直してみた。

    1.作品をエントリーした書き込みには、「娘達の晴れ晴れとした顔とは反対に親達は更に現実と闘って行く」ということが添えられていた。

    2.それに対して私は、「せっかくの卒入学を、『悲し』と言われる娘さん達もかわいそうですね。親の大変さと、喜びに晴れ晴れしている娘さん達の気持ちは、そもそも無関係だと思いますよ。」と言葉を返していた。

    3.それに対して相手からは、「子が中学・高校と卒業して行けば次第にお金がかかるようになり、親の自分は大分頑張って来たがまだ頑張らなくてはならなくて疲れが出て来るため、一緒になって喜びたいが同じレベルで喜べない」ということと、「親になればわかる」ということが記されていた。

    4.それに対して私は、「『親は大変だから喜んでやれない』としても、せっかくの娘さん達の卒業・入学に、『悲し』はあんまりなんじゃありませんか? 娘さん達だって、親を困らせたくて生まれてきたわけじゃないでしょう。そんなふうに思うくらいなら、始めから産まなければいいのに、と思います。」と返していた。

    5.その後、記録は残していなかったが、結果発表と希望アイテムを問う私からの言葉が数回スルーされたのを記憶している。

    6.相手からのようやくの書き込みが、参加賞はいらないというもので、それがこの一連の件の最後と記録となっている。

    記録等による実際の流れ


     改めて記録を読み返し、私は考え込んでしまった。
     当時の私の気持ちはもっともであり、自分自身であるからこそ共感もする。
     それでも、その言葉はどうなのか。あまりにも踏み込み過ぎた不躾でストレート過ぎる言葉ではないか。
     中でも、「そんなふうに思うくらいなら、始めから産まなければいいのに、と思います。」という言葉は言い過ぎだ。
     例えそう思い、伝えずにはいられなかったのだとしても。

     24年前だ。若かったな、と思う。
     「親になればわかる」ということは、裏を返せば「子を持たず親ではないあなたにはわからないでしょうけど」という意味でもあり、子供の成長を肯定的に受け止められない言動を正当化しているようで、腹が立ったのだ。
     それはそれ、これはこれ、でしょう? と。


     結局のところ、娘達の卒入学を「悲し」と言い表したあの人は、そう言わざるを得ないほどに疲弊し心の余裕がなかったのだろう、と今は思う。
     彼女は、娘達に苦労を労ってほしくて、自分が望むほどにはそれがないという不満で、愚痴をこぼさずにいられなかったのだろう。
     私が突きつけた正論が彼女に響いたとは思えない。むしろ、気持ちをわかってもらえなかったという不満を募らせただろう。
     それは、娘達への否定的な感情を増大させることに繋がったかもしれない。逆効果ということだ。

     今の自分だったらどうしていただろう、と考える。
     上記の、「娘さん達がかわいそう」という私の2の言葉はかけないでおくだろう。
     そうすれば相手からの「一緒になって喜びたいが同じレベルで喜べない」・「親になればわかる」という3の言葉も、それに対する「そんなふうに思うくらいなら始めから産まなければいいのに」という私の4の言葉もなくなる。
     その上で、型に収まっていてリズムを壊してはいない、言葉の誤用もない、意味もわかるその短歌を、入選外ではなく佳作入選にする。
     苦労も、ほんの少しは報われたように感じてもらえるかもしれない。
     それで、言いたいことは全て返歌だけに留める。

    「悲し」との思いは子にも伝わらむ
            晴れの門出に差す影として

     意訳:(卒入学までもを)悲しいと思う気持ちは(自然と)子にも伝わる(もの)でしょうね。(まるでせっかくの)晴れの門出に影が差してしまうように。(それが、あなたの本当の望みなんでしょうか?)

     少し心に余裕が出て来た時にでも考えてもらえたらいいと思いながら、この件はこれで終わりにするだろう。
     結局は、他人がとやかく言っても仕方がないことなのだ。
     自分で考え気づくしかないこともある。

     全力で寄り添い、「本当にそうですよね。親の気持ちもわかってほしいですよね」と共感を示し、「大変ですよね。親として本当に頑張ってますよね」と労いの言葉をかけるような接し方だったなら、彼女は大満足だったかもしれない。
     その結果、少し心に余裕を持つことができ、娘達にも肯定的に接することに繋がったかもしれない。
     それでも、子の卒入学までもを「悲し」と言ったその言葉は大きな棘となっていて、今となってもそうしたいとは思えない。
     それはきっと、今後も変わらないことだろう。


     時を経て、様々な経験を積み重ねたからこそ、自身を省みたり相手の心情を慮ったりということができるようになったのかもしれない。
     そう考えると、年を取ることも残念なことばかりではないと思わせられる。

     当時、短歌に記され中学や高校を卒業したあの娘さん達も、24年経った今は39歳や42歳になっているはずだ。彼女達もまた母親になり、子の卒入学に対して複雑な思いを抱くようになっているのだろうか。
     世の親の方々には、子が晴れ晴れとした顔で迎える人生の節目である門出の日に、悲しいと思わず共に喜び応援できる親であってほしい、と願っている。






    この記事が参加している募集

    あなたへのおすすめ