
生きる基本
20代の時は、何を感じて、何を思っていたのだろう?
10代の終わりから、20代の初めは、生きて行く中で、いろんな新しい世界を知る激動の季節だ。この時代の強烈な記憶は、わたしが、出来上がる初期段階として、非常に貴重な時間だったと思っている。(ナイショだけど。)
両親の教えた、常識や、躾を超えて、自分のフィルターで、世の中を見渡す時でもあった。
ただ、いろんな情報が、自分を含め、友達や、読んだ本などからも、そんなにたくさん吸収出来ていない為に、今考えると、考え方は、画一的だったと思う。潔癖な考え方をしていたというか。
今は、と言えば、まわりの人の生き方を見たり、自分の経験から、学んだ事、理想だけでは生きられない事や、思い通りにならない事がある事も知って、人生、何でもあり、だなー。と、思っている。まわりをふと、見渡しても、平凡な人生って、何よ。と、思うほど、皆、いろいろなのだ。
わたしが思う、生きる基本は、自分が、しあわせであるか、どうかだ。
結局、つまるところ、人間はひとりなのだ。
モチロン、家庭を作り家族を作るという共同作業は、ひとりである、人間のココロを支える。でもそれは、個の寄せ集めでしかなく、子どもといったって、ひとつにはなれない。伴侶なら、なおさらだ。一緒に歩いて行く為の、歩み寄りの努力は、常に必要となる。
夫婦でも、お互いの関心が、相手に向いている間は、家族と言える。ケンカをするのも、関心の表れだし、干渉するのも、同様だ。うるさいと思わず、ありがたいと思わなくちゃ。(わたしか?)
でも、もしも、お互いが、(あるいは、どちらか一方が。) なんの関心も持てぬままに、長い年月が、過ぎていたとしたら?
平行棒のような関係性で、形だけを留めた夫婦があったとしたら。
そして、子どももいて、責任もあるとしたら。
実体のない家族という箱にしばられるのは、当然なのだろうか?
そんな問いに、昔なら、当然だ。と、答えたと思う。
今は、そのココロを思うと、一言では言い切れないモノがある。
もうひとつの生きる基本は、懸命に、生きる、ことなのだろう。
(懸命に生きられないヒトの生き方は、不潔だ。)
自分自身をしあわせにする為に、自分の足で立ち、揺るがないコトを。
そして、人が決めた常識(モラルかも。)を、乗り越える勇気も。