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「最愛、ただ人生を込めて」

     ある、昼下がりのことだった。厳しくも優しくもない、顔も覚えていない先生の声が、私の眠気を纏って教壇から響く。朧げな頼りない記憶によると、算数をしていたはずだ。授業の途中で様子を見に来る、別の先生の頭上で「4-B」の看板が陽光に照らされて光った。
     それらを眺めてから、眠気に身を委ねようと、鉛筆は適当な場所に置いて頬に手をつく。
     眠気が急激に覚めた。違和感を感じる頃には、もう誰の目からもわかるほど地面が揺れていた。「机の下に潜りなさい!」そんな先生の声を聞くや否や、机の下に身を潜めるより先に、後ろを振り返って君を見た。机の中に潜り込もうと、ちょうど椅子から立ち上がったところで、上に物もなく安全そうなのが目に入り、小さく息をついた。安堵したのだ。
     その瞬間、私は気がついた。なぜ私は自分の身の危険より先に、君を探したのだろう。そのとき初めて、もうこんなになるまで私は君でできていることに気がついた。

     君の隣に立って、君の声で君のお話を聞く毎日は幸せだった。周りの人間の、子供故の怖さを忘れられるくらい、それは幸福なものだった。強い光を当てた場所のすぐ隣には、何も見えない深い暗闇があるように、私にとって学校はそういうところだった。思い出そうとすると、君以外との全ての記憶が白黒で、どこか仄暗い。なら、きっと今のこの景色も、未来では暗い記憶でまとめられているのだろう。世界というものはとても暗くて、私には眩しい。
     あるとき、友達が、友達の髪の毛を掴んで暴言を叫んでいた。さすがに止めなくてはならないと思って咄嗟に止めた。そっと間に入って、穏便に止めたはずだ。だからだろうか。友達の怒りは私に向いたらしく、
    「もう絶交するっ…!!」
     そんな声が教室中に響き渡った。教室はお昼休みで、人が少なくて助かりはしたが、なぜか私は、幼ながらに傷付いた。
     だがこれは今に始まったことではない。もはや私の心は諦念で満たされている。ただあまりにも幼くて、今までの環境が柔らかくて、なんでも受け止めてしまっているだけなのだ。
     こんな言葉を毎日のように浴び、そのたびに真剣に受け止めてしまえば、疲れてしまうのは普通のことで、ただそれは私には耐え難いことだった。だが、恵まれている。ちゃんと。

     私は、なにかを探して見つけ出す才能がてんでないようで、生きなければならない理由がどこにも見つからなかった。生きなければならない、この世に繋ぎ止められるための鎖を探すたび、見つかるのはそれを断ち切る、過剰なほどに多すぎる鎌だった。
     私は本気で世界に嫌われているのだと思った。お湯の張られた浴槽に身を沈めると、体のどこからかは分からないが、どうにも言い知れない怒りとやるせなさ、疲労が込み上げてきて、どこを見つめるでもない目から透明な涙となって出てくる。
     叫んでしまいたい、泣き叫んでしまいたい。誰かに気付かれたい、精神科に連れて行かれてしまいたい。いっそのこと、もう、誰か私の神経を遮断してはくれないのだろうか。
     まだ、温まりきっていない水を床に叩きつけるシャワーの音に隠れながら、一音も漏れない嗚咽に縋り付く。
     いつの間にか眠っていたようで、温かいお湯で目を休める。腫れているのかもわからないが、そうすると良いんだという朧げな記憶にただ従う。
     翌朝も五時に起こしてもらい、笑顔で学校に向かった。

     君からはいつも頭皮の香りがした。毎日髪を洗う子ではなかった。雪のように肩へ落ちるものが、ふけなのだと知ったのも、その頃だった。
     座っている君の肩に手を置いて、バックハグとまではいかない触れ合いをした。迷いながら、君の頭におそるおそる手を伸ばす。どうしても躊躇ってしまう。私が触れて、いやではないだろうか、どこまでなら触れて良いのだろうか。
     髪が崩れないように、まあ、短く下ろしているから崩れるようなところはないが、分け目から流れる髪に沿って、手をそっと乗せて撫でる。一回。たった一回撫でただけで、あんなにも得るのが難しかったものが、いとも簡単に手に入った。喪失を伴わずに実感できる「幸福」があったのかと、肺らへんがなんだかあたたかいような気がした。
     普段、どんな顔をしていたんだっけ。戸惑ったように、困ったような笑みになってしまう。自分の襟元を掴んで、もう一度だけ撫でて手を下ろした。

     なぜだか、思い悩んで、気がおかしくなって、死にたいんだと思うようになった。本棚の、何も入れていないスペースに夜中座り込み、紐を首にかけて横に引っ張った。
     じんわりと熱くなる顔、耳の奥で鳴る変な嚥下音、目が飛び出そうだと錯覚する、非現実感。このまま順調にことが運べば、もう苦しむこともなくなるんだと、本気で笑えるような気がした。
     でも目の前に浮かぶのは君の顔ばかりで、自分の手から力が抜けていくのを感じた。咳き込むたびに、現実に引き戻されていく。
     私、なにをしてるんだろう。君のことが愛おしくてならないのに、もっと早く出会いたかったのに。なのに、それ以上に君に出会いたくなかったと思ってしまう。君に出会わなければ、簡単に未練なく死ぬことが出来たはずなのに。どうしてこうも深く関わってしまったんだろう。
     私はなにか悪いことでもしたのだろうか。周りにはどうしてこうも困った人ばかりしかいないのだろう。学校なんていうところに行きたくない。でも、私が行かなかったら、君の周りに誰が行くか。それを考えると、それだけはどうにもやるせなくて…君は優しいから拒まない、きっと。
     じゃあ、行くしかないじゃないか。

     気が付けば、教室に差し込む光の角度も変わっていた。
     君の隣で、君のお話を聞くのが毎日の大きな楽しみだった。もちろん、お話も好きだけれど、君の顔を見つめながら声を聞けて、二人だけの秘密が積み重なるのがどうにも言い知れないほど嬉しかった。
     肌荒れを気にしているところだって、そんなところ気にしなくとも君はずっと綺麗だから、そんなに思い悩まなくて良いのにな。そう思うが、君に届く言葉が見つからない。私はそんなところ、全くと言っていいほど気にならないのに。
     私が気にならなかったところで、君が気になるのは君自身だろうから、もう私に尽くせる言葉はない。ただ、君に気付かれないようにそれを見つめることしかできなかった。

     君の、ふとした時の何気ない仕草、君にとってはなんてことない一幕だったのだろう。でも、君が私の腕に抱きついてくれたとき、私はこそばゆかった。
     歩き方を忘れたみたいにぎこちなくて、笑顔の仕方もわからなくて、それ以上にどうしようもなく高鳴る胸が鬱陶しくて、今世界が終わって欲しいと思った。
     ずっと隣にいたい。いや、正面が良いかな。後ろでも良いから、ただ近くにいさせて欲しい。ずっとそこにいられたら、それ以外もうなにも望んだりしないのにな。
     写真を見て確認しなくても君を描けるくらい、君のことを見つめていたい。茶色がかった黒のような、君の瞳の虹彩が描けるくらい、君のそばにいたい。描こうと、覚えようとして見つめるんじゃなくて、気が付いたら描けてたみたいに、長く身近な存在でありたい。

     ランドセルを背負わなくても良くなり、みんながどこか浮ついた気持ちになった頃だった。
     君の席に行き、話しかけても、あまり笑顔が見られなくなった。もちろん、笑顔で話してはくれている。でもどこか、その場を盛り上げるためだけの笑みのようで、私にはそれだけで充分だった。
     他の子と話すときの笑顔は、私へ向ける笑顔とは少し違い、誰か新しい人と仲良くなりたい人の笑顔だった。それに気が付けないほど、鈍感にはなれない。
     君が、私のことを嫌いになったわけではないのは分かっている。
     でも、もっと広い世界に行きたいんだね。
     何度も落ちた私の命を、そのたびに君が両手で掬ったその日々の積み重ねから、私は君のために在る。それは必然のことで、至極当たり前のことだ。私の命は君が掬ったもの。私は君の望むことをなんでも、できる限り叶えたい。
     だからどうか、なにも気付かずただ受け取って欲しい。

     あれから肌寒い季節になって、君とあまり話すこともなくなった。離れてからは、恋しさは増すばかりで、埋まらない溝を誤魔化しているだけの日々を送っていた。
     新しい友達ができ、私もまた広い世界に出た。君は、少し失敗してしまったようだけれど、笑顔が見られるだけで暖かくて冷たい。
     君が今の世界で大変になって、戻ってきたくなるようなときが来ればそのときは、なんて、来るはずがない未来を想像しては掻き消す。
     また季節が一巡して、暖かくなっても、私の鞄にある、いつまでも揺れているお揃いのぬいぐるみ。
     君もまだつけてくれてること、知ってるよ。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門

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