娘を寝かせたい私と、今日を終わらせたくない娘の戦い
「まだ寝たくない」
電気を消した瞬間、長女が言った。
時刻は九時を過ぎている。
お風呂に入った。
歯も磨いた。
絵本も二冊読んだ。
一冊という約束だったが、交渉の末に二冊になった。こちらはすでに譲歩している。
あとは目を閉じるだけである。
「もう寝る時間だよ」
「でも、まだ眠くない」
長女は布団の中で足をばたばた動かした。
その横では、次女がくまのぬいぐるみに話しかけている。内容は聞き取れないが、くまも今夜すぐに眠るつもりはなさそうだ。
私は二人へ布団をかけ直した。
「目を閉じて、静かにしてたら眠くなるよ」
これは毎晩言っている。
毎晩言っているのに、一度も「なるほど、それでは目を閉じます」と納得されたことがない。
「ママ、お水」
「さっき飲んだよね」
「また喉かわいた」
水を飲ませて戻ると、今度は次女が「トイレ」と言った。
トイレから戻り、布団をかける。
長女が言う。
「明日の朝、パン?」
「そうだよ」
「何のパン?」
「明日見よう」
「今見たい」
パンの種類は、午前九時に確認しても十分間に合う情報である。
それでも長女にとっては、眠る前に解決しておきたい重大事項らしい。
「もうお話しないよ。寝よう」
私の声が少し低くなる。
長女は黙った。
やっと寝るのかと思ったら、暗闇の中から小さな声がした。
「ママ、怒ってる?」
怒ってはいない。
ただ、寝てほしい。
ものすごく寝てほしい。
寝かしつけが終わったら、残っている食器を片づけたい。洗濯物も少し畳みたい。
できれば温かい飲み物を入れて、一人で座りたい。スマホを見てもいいし、何もせずにぼんやりしてもいい。
私の自由時間は、娘たちが眠った場所から始まる。
だから九時を過ぎると、時計を見るたびに焦ってしまう。
九時十分。
まだ大丈夫。
九時二十分。
予定より遅れている。
九時三十分。
私の自由時間が、十分ずつ削られていく。
誰かに取られたわけではないのに、損をしている気持ちになる。
長女が寝返りを打つたび、次女が何かを話すたび、私の中の閉店係が「本日の営業は終了しました」と叫び始める。
「もう寝て!」
とうとう強い声が出た。
部屋が静かになった。
長女は布団を鼻のあたりまで引き上げ、こちらを見ている。
その顔を見て、言いすぎたかなと思う。
でも、優しく話しかければ、また会話が始まるかもしれない。
謝りたい私と、ここで話を再開したくない私が、暗闇の中で争っている。
母親の心も、なかなか忙しい。
少しして、長女が言った。
「寝たら、今日が終わっちゃう?」
私は一瞬、返事に困った。
「うん。でも寝たら、明日になるよ」
「今日がいい」
長女はそう言って、私の腕をつかんだ。
今日の何がそんなによかったのだろう。
朝は着替えたくないと泣いた。
お昼には次女とおもちゃを取り合った。
夕食では野菜を残し、私に注意された。
お風呂でも、まだ遊びたいと怒っていた。
私から見れば、特別なことのない一日だった。
むしろ、なかなか大変な日だった。
「今日、楽しかった?」
私が聞くと、長女はうなずいた。
「ママと遊んだから」
一緒に遊んだのは、夕方のほんの少しだった。
おままごとで、私は何度も同じスープを出された。熱い設定だったので、毎回きちんと「ふうふう」して飲んだ。
あれが、長女にとっては今日を終わらせたくないほど楽しい時間だったらしい。
私は一日を、できなかったことや怒ってしまった場面で数えていた。
長女は、一緒にスープを飲んだことで数えていた。
同じ一日を過ごしていたはずなのに、ずいぶん違う。
急に胸がいっぱいになった。
だからといって、今からもう一度遊ぼうとは思わない。
感動と寝かしつけは別である。
「今日、楽しかったね。でも今日はおしまい。続きは明日やろう」
私が言うと、長女は「明日もスープ作る」と約束した。
そして、ようやく目を閉じた。
そのあとも一度、「ママいる?」と確認された。
「いるよ」
そう答えると、長女の手から少しずつ力が抜けていった。
次女も、いつの間にかくまを抱いたまま眠っている。
時計を見ると、十時近かった。
私が楽しみにしていた一人時間は、ほとんど残っていない。
それでも、長女が眠りたくなかった理由を少しだけ知れた気がした。
子どもにとって眠ることは、単に体を休めることではないのかもしれない。
遊んでいた今日を手放し、ママと離れて、明日が来るのを一人で待つことでもある。
大人にとっては待ち望んだ一日の終了でも、娘にとっては楽しい時間を閉じる作業なのだ。
それなら、簡単に眠りたくならない日があるのも分かる。
もちろん翌日の夜も、私は「早く寝て」と言うだろう。
水を頼まれれば、さっき飲んだよねと言う。
三冊目の絵本は断る。
毎晩ゆっくり気持ちを受け止めるほど、私の体力は残っていない。
ただ、「寝たくない」を、私を困らせるためだけの言葉だと思わずに済む夜は、少し増えるかもしれない。
娘たちが眠ったあと、私はリビングへ戻った。
食器を洗い、洗濯物を少し畳んだ。
もう寝たほうがいい時刻だった。
でも、すぐには寝室へ戻らなかった。
温かい飲み物を入れ、ソファへ座り、スマホを開いた。
明日の朝がつらくなることは分かっている。
それでも、もう少しだけ起きていたい。
寝てしまったら、私の今日が、家事と育児だけで終わってしまう気がした。
そのとき、やっと気づいた。
今日を終わらせたくないのは、娘だけではなかった。
私は静かなリビングで、あと十分だけ、と自分に言った。
寝室で「まだ寝たくない」と言った長女と、たぶん同じ顔をしながら。
