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アナログ派の楽しみ/スペシャル◎「阿弥陀さまがやってきた」

    静岡県伊豆の国市に「晴雲山 成福寺」という浄土真宗大谷派のお寺があります。鎌倉幕府の北條氏一族が創建した古刹なのですが、ご住職(やはり北條さんとおっしゃいます)との縁により、このたび寺報(2026年6月発行)の冊子にささやかな文章をのせました。ついては、ご住職の了解を得てご覧に供します。


    阿弥陀さまがやってきた


    わが家に阿弥陀さまがやってきたのは、もう三十年前のこと。その事情について記しましょう。

    ある日、わたしは仕事で都内の繁華街を歩いていたとき、一軒の雑貨屋のショーウィンドウに目が留まりました。高さ五十センチほどの首から上の木彫りの仏像が飾ってあり、顔面の右側が大きく欠けているせいでかえって半眼の表情の穏やかさが引き立つのか、まるで吸い込まれるような思いがしました。

    そこで、店に入って主人に尋ねたところ、古い仏像は非常にデリケートなものなので、お寺によってはふだん本堂にそっくりの複製品を出しておくことがあり、この阿弥陀如来像も同じ工法でつくられた合成樹脂製のレプリカだとの説明でした。実際に手に取らせてもらうと、表面の凹凸といい色合いといい細部まで精巧な仕上がりで、ちょっと離れて眺めたらだれもそうとはわからないでしょう。主人は、サービス価格で九千円にしておきますよ、と耳元に囁きかけてきて、気がついたときには箱詰めされた阿弥陀さまを小脇に抱えて店を出ていました。

    この成り行きは、およそ信心からほど遠く、仏壇のたぐいにも無関心の自分自身にとっていちばんの驚きでした。当時、勤め先の会社がバブル崩壊後の経営難で連日仕事のストレスにまみれ、また、私生活では妻とのあいだに何かといざこざが絶えないという、内憂外患の心理状態が作用したのかもしれません。

    ところが、いざ家に持ち帰ってくると、いかにもかさばるのに閉口して、一度は箱に収めたまま押し入れに仕舞ったものの、いくらレプリカとはいえ阿弥陀さまにそんな扱いをしたのでは落ち着きません。もっとも、室内に置くとなったらなったで、片隅にうっちゃっておくわけにもいかず、ごみごみと散らかり放題の部屋なりにわたしとしては特等席と見なす本棚の中央に据えることにしたのです。

    それから、三十年の歳月が流れました。この間に、勤め先の会社は経営破綻して別の会社に移ったり、妻とは離婚に至って、しばらく単身生活を送ったあとに現在の妻と再婚したりして住居も転々としました。そんななかで、相変わらず場所ふさぎの阿弥陀さまを、どうせニセモノなのだから、と何度か粗大ゴミに出しかけましたが、踏ん切りのつかないまま、結局、わが人生における疾風怒濤の時期をともに過ごしてきたのです。その半眼のまなざしにつねに見張られて、いや、見守られているうちに、わたしはひっきりなしに吸っていたタバコをいつの間にかやめ、夜な夜な浴びるほど飲んでいたアルコールもすっかり控え、二頭のチワワ犬を飼い、たまには近くの禅寺の坐禅会に出向いたりなどして、心身に特段の不調もなく、さきごろサラリーマン生活を卒業して、ともかくも妻と平穏無事に暮らしながら六十七歳の今日に辿り着きました。

    いまにして思うのです。ことによると、目と鼻の先にたたずむ阿弥陀さまはニセモノではなくホンモノなのかもしれない、と――。

            ※

    最後に、そのせいで困惑する事態をひとつ報告しておきましょう。まがりなりにも阿弥陀さまをお迎えした家のなかで、わたしは無用の殺生をしないように心がけています。したがって、台所にゴキブリが現れたときにも「一寸の虫にも五分の魂」と口に唱えるのですが、逆上した妻の耳には届かず背後から丸めた古新聞を押しつけてくるので、やむなく信条に反して黒光りする昆虫を追いまわすという次第。


    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    気がついてみたら60代のなかば。これまで出会った本や音楽、映画……からピックアップして、自分なりに解読してみたいと思います。めざすはあっと驚くような大発見ですが、果たしてどうなりますやら。みなさまもご一緒に楽しんでいただけますと幸いです。

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