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生まれた時から名前を呼ばれて(TKGは、殺意と贖罪の味がする)

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門

    (あらすじ)
    18歳の誕生日の朝、少女・日向叶は、育ての父・佐藤進から「俺はお前の実の両親を殺した暗殺者だ」と衝撃の告白を受ける。激しい怒りと困惑の果て、叶が誓った復讐の形は、進の所属する暗殺請負企業『LTCL』への就職だった。しかし、業界大手のその会社は、コンプラ重視、働き方改革を推進する超ホワイト企業!? しかも、叶の指導係(メンター)には仇である進が指名される。プロの冷徹な技術に触れ、善悪の境界線で葛藤しながらも、叶は進からすべてを盗もうとする。そして訪れた正社員登用試験のお題は「佐藤進の抹消」。殺意と18年間の絆の狭間で、少女が下した「殺さない復讐」と、毎朝のTKG(卵かけご飯)が紡ぐ物騒な喜劇の結末とは?


    プロローグ 18歳の誕生日は、いつもの誕生日?

    18歳の誕生日。
    今朝も、我が家の朝食はTKG。

    なぜなのかはわからない。
    作ってくれた本人は、さも、いつも通りですと言わんばかりにダイニングテーブルの反対側に座って、私が座るのを待っている。

    「ねえ」

    「ねえ、じゃない。おはよう、だろ」

    「じゃあ聞くけど。今日は何の日よ」

    「叶の誕生日だな。誕生日おめでとう」

    「ですよね? なんでウチ、毎年“誕生日の朝”がTKGなの? 
    すすむ君、生卵嫌いでしょ」

    すすむ君は、顔を上げずにぎこちなく言った。

    「これが……うちの親父の味だ」

    「親父?」

    「味の話だ。深く考えるな」

    「深く考えるでしょ。誕生日の朝にTKGを強制されてるんだから」

    「そのうち分かる。……いつだって、この味が待っているってことを」
    すすむ君は、目を合わせずに早口でつぶやいた。

    「……なにそれ。」

    「そんなことより、早く座って食べなさい」

    「そんなこと?? 本気で言ってる?」

    「至極、本気だ。……今朝は“おめでとう”の他に、大事な話がある」

    私は力なく椅子を引いて、食卓についた。
    炊きたてのご飯の真ん中で、卵の黄身だけがやけに堂々としている。

    醤油を二滴。
    ゆっくり黄身を崩しながら、私の18歳は――うまく飲み込めないまま、はじまった。


    第一章 大事な話。

    「それで? 娘の18歳を祝うこと以外に“大事な話”って?」

    すすむ君は、聞こえているのか聞こえていないのか。
    嫌いなTKGをどうやって胃に流し込もうか、そんなことを考えているみたいに黙ったままだった。

    「もしも〜し。聞こえてますか〜?」

    ふざけて言った声が、少しだけ上滑る。
    すすむ君の沈黙が、いつもとは違った緊張感を纏っている。

    すすむ君は一度、箸を置いた。

    白いご飯の真ん中に、とても綺麗な黄色の半球が、崩されも醤油で汚されもせず、そのままの姿で残っている。

    それから、やっと我に帰ったみたいに、すすむ君はぽつりぽつりと話し始めた。

    「……どう言えば、叶に裁いてもらえるのか」

    「裁く?どういうこと???」

    何を言い出したのか、全く意味がわからない。

    すすむ君が、私の名前を呼ぶ。

    「叶」

    いつもと違う言葉の響き。
    なんだろう? この緊張感。

    「……俺は、お前の実の父親じゃない」

    「それは、知ってる」

    言い返してからハッとする。
    “知ってる”って、一体何を?

    すすむ君は一度だけ息を吸った。

    「そうだよな。じゃあ――実の両親は、何故死んだ?」

    「交通事故でしょ」

    「ただの事故じゃない」

    「どう言うこと? はっきり言ってよ」

    私は少しイラッときて、強めに言った。
    すると、すすむ君は本当に絞り出す様に、一言。

    「俺が殺した」

    え……今、「俺が殺した」って言いました?

    「俺は殺し屋だ」

    すすむ君は、こっちの状況に構わず続ける。

    「叶の実の両親は、ある組織のスパイで、俺は敵対する組織に雇われていた」

    ちょっと、ちょっと。情報が多すぎるって……。

    「そして俺は、二人を事故に見せかけて殺したんだ」

    おいおいおい。
    誕生日プレゼントのつもり?
    人の18歳の誕生日に何言ってんの、この人は?

    夢なら早く覚めて。
    冗談ならもっと冗談らしくして。
    ドッキリなら早く終わらせて。

    繰り返しますけど、今日は私の18歳の誕生日。
    ちゃんと祝ってよ!!!
    ホント。ケーキぐらい出せないの?
    TKGだけでお腹いっぱいだけど。

    ――その朝、私はいくつかの真実と向き合った。

    すすむ君から告白された“大事な話”を要約すると、こうだ。

    その一。
    私の実の両親は、事故死じゃない。殺された。

    その二。
    それを、事故に見せかけて殺したのは――すすむ君だ。

    その三。
    すすむ君の本職は、殺し屋だ。

    その四。
    そして今日、私が十八になる日に、全部話すと決めていた。

    なぜ、生き残った私を育てたのか。
    なぜ、誕生日はTKGなのか。

    まだ聞かなきゃいけないことは、山ほどある。

    ずるい。ずるいよ、すすむ君。

    私は何て返せばいいの?
    すすむ君は、これまで隠していたことを話せてスッキリしてるのかもしれない。
    でも、聞かされる側になってよ、ほんと。

    誕生日おめでとうとセットで話すことじゃないって……。

    「……ねえ」

    私の声のはずなのに、どこか他人が発しているみたいに聞こえる。

    「今日は、エイプリルフールじゃないんだよ」

    「そんなことは百も承知だ」

    「可愛い娘の十八歳の誕生日に、プレゼントじゃなくて、TKGと訳のわからない話って――」

    「一応、プレゼントも用意はしてある……」

    その一言で、私の中の何かが決壊した。

    「じゃあ今出してよ!!
     今!! いま!!
     “俺が殺した”とか言った直後に、プレゼントの話とか出すな!!
     そもそもプレゼントって何!? 何を渡す気!?
     遺言!? 免罪符!? ポイントカード!?
     やだよ!! 誕生日を返して!!」

    もう何を言ってるのか、自分でも分からない。
    分からないまま、ひとしきり喚いた。

    喚き疲れて、肩で息をしながらテーブルを見る。

    卵の黄身が、白いご飯の上で、殊更に輝いて見えた。
    崩されも、醤油で汚されもせず――最初の形のまま、そこに残っている。

    腹立たしい……。私の中はもう、ぐちゃぐちゃなのに。

    「……落ち着け」

    すすむ君の声が、ことさら遠くから聞こえる気がする。

    「落ち着けるか!!」

    即ツッコミ。即ギレ。即、涙声。
    私はとにかく、今この瞬間の怒りに任せて言い放った。

    ねえ、ほんとに私の十八歳。成人よ。どこへ行ってしまったの?

    「……ごめん」

    すすむ君はそう言ってから、すぐにもう一回言い直す。

    「……ごめんなさい」

    いくら謝られても、私の今この時は黙っちゃいない。

    「それで」

    何の感情もこもらないように私は言った。

    「私の実の親は事故ではなく殺されたってこと?」

    すすむ君は、ただ頷く。

    「で、殺したのはすすむ君だと」

    すすむ君は、黙って頷く。

    「それで、生き残った私を連れ帰り、今まで娘として育てた」

    すすむ君は、とにかく頷くのみ。

    「そのことを、今日、十八歳の誕生日にわざわざ、告白した……と」

    私の声は、どんどん冷静になっていく。

    「……ああ」

    そして、このところ沈黙を守っていたすすむ君が、やっと声を発した。

    「いくつか聞かせてよ」

    「……」

    「なぜ、今日?」

    「告白する必要あった?」

    「こんな告白されて、私にどうしろと?」

    「告白ありがとう。ドキドキした! とでも言えばいいの?」

    いったん冷静になっていた私の心に、再び、“怒り”の炎が燃えはじめた。

    「どうしたい?」

    「……はい?」

    「叶は、どうしたい?」

    すすむ君は繰り返す。

    おいおい。此の期におよんで「どうしたい?」って。
    もうダメだ。
    これ以上、大人しい良い娘じゃいられない。

    私は私でいられなくなったまま、また喚きはじめた。

    「どうしたい? ってなに!
     告白ありがとう? 返事はOK? お願いします?
     そんな脳内花園パラダイス、どこにあるの!」

    「許す? 許せば? 許すとき?
     そんな都合のいい変換、されるわけないでしょ!」

    私は息を吸って、吐いて、言い切った。

    「ころす!コロす!!殺す!!! 復讐に決まってんでしょ⁉︎」

    「今から私の道は、すべて復讐へと通じるわ!」

    「十八歳の誕生日に、思いがけないサプライズとプレゼントをありがとうね」

    私は勢いよく立ち上がる。

    「ちょっと、一人で今後のことを考えたいから。先に行く。ご馳走様」

    すすむ君は何も言わなかった。
    言えなかったのかもしれないし、言う資格がないと思ったのかもしれない。

    私は、こんな緊迫した空気の中でも存在感を崩さないTKGと、
    なす術もないすすむ君を置いたまま、家を飛び出した。

    玄関から出た瞬間、冷たい空気が頬を殴った。
    落ち着きを取り戻すために吸い込んだ息で、胸の奥が少しだけ痛んだ。

    私の十八歳は――
    どこまでが真剣で、どこまでが笑い話か。
    まったくもって、先が見えないまま、はじまった。


    第一章・延長戦 絶叫と、十八年目の違和感

    家を飛び出した瞬間のことは、あまり覚えていない。 ただ、肺の奥まで凍りつかせるような冷たい空気が、私の「十八歳の誕生日」という浮かれた気分を、容赦なく切り裂いたことだけは覚えている。

    駅前の雑踏に紛れても、視界に入るすべてが嘘臭く見えた。 「俺は殺し屋だ」 「俺が二人の実の両親を殺したんだ」 耳元で、すすむ君の低い声がリフレインする。 十八年間、私を育て、守り、慈しんできたその手が、実の親の命を奪った同じ手だった?

    私は逃げるように、駅前の格安カラオケボックスへと潜り込んだ。

    「……フリータイム。一人で」

    三畳一間の密室。安っぽい芳香剤の匂い。 私はモニターの電源も入れず、ただソファに突っ伏した。 こみ上げてくるのは、悲しみよりも、得体の知れない「不気味さ」だ。

    「……なんでよ。なんで今日なのよ」

    脳裏に浮かぶのは、今朝の食卓。 十八年間、一度も欠かすことなく、私の誕生日の朝だけ出されるTKG。 すすむ君は、生卵が嫌いなはずだ。 それなのに、毎年誕生日の朝だけは、さも当たり前のような顔をして、私と一緒にTKGを食べていた。

    あれは、儀式だったのか? 「これが親父の味だ」と彼は言った。 自分が殺した相手の……私の実の父親が好んでいた味を、わざわざ嫌いな生卵を使ってまで、毎年私の誕生日に再現していたというのか。 どんな顔をして。どんな、おぞましい「懺悔」を込めて。

    「……気持ち悪い。……ああ、もう、めちゃくちゃだよ」

    私はマイクを掴み、適当なロックナンバーを入れた。 爆音のイントロ。メロディなんて無視して、喉がちぎれるほど叫んだ。

    「人殺し!!」 「詐欺師!!」 「誕生日を返せ!!」 「卵かけご飯、どんな気持ちで食べてたのよ!!」

    叫んで、叫んで、一時間経った頃には、涙も枯れて喉はガラガラになった。 不思議なもので、人間、極限まで叫び続けると、脳がバグって逆に冷徹なまでの「怒り」が芽生えてくる。

    すすむ君が、殺しのプロだというのなら。 私がこれまで「お父さん」と呼んできたあの姿さえも、完璧に演じられた「擬態」だったというのなら。 ……私は、それを上回ってやる。

    「……殺してやる」

    マイクを通さない、地声の呟きが狭い部屋に落ちた。 警察に突き出す? 証拠なんてない。 家出する? それじゃあ、あいつの思い通りに「自由」をあげるだけだ。 一番残酷な復讐は、あいつが私に教え込んだ「平和な日常」を、私の手でぶち壊してやること。 あいつと同じ場所まで降りていって、あいつの首に手をかけてやることだ。

    「……どうやったら、殺せる?」

    あいつがどうやって親を殺したのか。 あいつがどうやって生きてきたのか。 全部、暴いてやる。 何も知らない「娘」のフリをするのは、今日で終わりだ。

    私は、ドリンクバーのぬるいウーロン茶を飲み干し、鏡に映る自分の顔を睨みつけた。 目は真っ赤に腫れている。でも、その奥には、明確な「殺意」が宿っていた。

    第二章 決意の話。

    一晩明けた。

    私にどんなことが起ころうとも、世界は何事もなかったみたいに朝になって、
    カーテンを開けた外の景色は、こっちの心情なんてお構いなしに、雲ひとつ無い真っ青な空と太陽の光に満ちていた。

    昨日は家を飛び出したあと、学校にも行かなかった。
    何も考えたくなくて、朝から夜遅くまで一人カラオケで過ごした。
    おかげで、爽やかな朝とは好対照なほどに声はガラガラだ。

    とにかく、昨日のすすむ君からの告白を受けて、
    今日から私は――復讐を目的とした人生をスタートさせる。

    そこまで気持ちを取り戻した辺りで、お腹が鳴った。
    朝もだけれど、十八歳になったばかりの健康体には、食欲もやってくる。
    何をするにも、まずは空腹を満たさねば。

    私はキッチンに向かった。

    昨日までは、すすむ君が食事を用意してくれていた。
    でも、今日からは違う。すすむ君は復讐相手だ。
    私は自分を奮い立たせるためにも、朝からカツ丼を食べることにした。

    我が家には、私がよくリクエストすることもあって、トンカツ用の豚肉が常に常備されている。
    そして私は、復讐の第一歩をカツ丼作りからはじめた。

    厚切りの豚肉と格闘していると、すすむ君が起き出してきた。

    「おはよう。朝メシ作ってるなんて珍しいな」

    「おはよう。昨日は、誰かさんが訳のわからない告白をしてきたんで、
     一日中ろくに食欲もなかったし、夜も眠れなかったからね。
     今、カツ丼作ってるから、もうちょっと待ってて」

    コーヒーのかわりに、ぎこちなさと嫌味をブレンドして、私は答えた。

    「……朝からカツ丼……か。オレの分も作ってくれてるんだ」

    すすむ君はテーブルに座りながら、ちょっとのきまり悪さを滲ませて言った。

    すすむ君は手持ち無沙汰なのか、それともいつものルーティンなのか、テーブルを拭き始めた。
    今まで当たり前だと思っていたけど、すすむ君は血のつながっていない私のために、十八年間ずっと、食事を作り続けて、学校に通わせてくれてたんだよね。

    小さな頃は、夜に本を読んでくれたり、熱を出した時には一晩中看病してくれた。

    ねえ、すすむ君。
    どうして、そんなことしてくれたの?

    罪の意識? 単なる気まぐれの思いつき? それとも他に何かあるの?
    ……やっぱりわからない。

    なんで、実の親を殺したなんて告白したの?
    ねえ、すすむ君。教えてよ。

    また頭の中がぐちゃぐちゃしてきたけれど、その間に、カツ丼が出来上がった。
    卵は少し固め。すすむ君は、半熟じゃなく、しっかり固い方がいい。――たぶん。

    「はい。どうぞ」

    「……いただきます」

    「いただきます」

    「なんか、声がおかしいな。風邪か?」

    すすむ君が沈黙を嫌うように言った。

    「……カラオケ」

    私はそっけなく返す。

    「……そっか」

    すすむ君は、それ以上聞かなかった。

    しばし、沈黙の時間が流れる。
    二人とも急いでるわけでもないのに、何かに急き立てられるみたいにカツ丼を口に運んだ。

    それから私は意を決して、箸を止めた。
    ……ちゃんと話さないと。

    「すすむ君」  
    「……ん」
    「すすむ君へ復讐することについてだけど」

    私は単刀直入に切り込んだ。

    「正直、どうやって復讐したらいいのかがわからないの」
    「でも、オーソドックスに考えると殺すってことになるかと」
    「そうするとね、どうやって殺したらいいかがわからないの」
    「だからね。私も殺し屋になることにした」
    「どうやったら殺し屋になれる?」

    私は、すすむ君のことなんか、これっぽっちも気にしないで、自分の言いたい事を息継ぎなしで一気に捲し立てた。

    「ちょっつ、ちょっと待て叶……」

    すすむ君は、やっと口を挟めたが、後が続かない。

    「ねえ、殺し屋って、誰か師匠について修行するの?」

    私はすすむ君に構わず続ける。

    「すすむ君は誰に習ったの? それとも独学? 家業?」

    ここまでくると、会話という名の暴力になるかも?

    「……叶」

    すすむ君は、私が発する脈絡のない言葉というラッシュをかい潜り、
    壁打ち状態を打破すべく、短く割り込んだ。

    「やっと、口を開いたわね」

    「口がきけなくなったのかと思った」

    「で、何?」

    私は相変わらずの言葉責めで返す。

    「今は…………昔とは違うんだ」

    「だから、どう違うって言うの?」

    私は、すすむ君が言い終わるまで待たずに被せる。

    「今は…………会社なんだ」

    「はい???」

    「会社として殺しを請け負っている」

    「それって、殺し屋が月給制ってこと?」

    「賞与もあるの?」

    「就業規則は? 御社の企業理念は? 福利厚生は?」

    本当にもう、止まらない。

    「お願いだから、落ち着いて聞いてくれ」

    すすむ君は、必死に応えた。

    「今の時代、依頼されたからって――簡単に殺すわけにはいかない」

    「……」

    今日、はじめての絶句。

    「殺しの世界にも、コンプライアンスが求められる時代だ」

    「コンプライアンスって、あなた」

    「そういう顔するな」

    「するでしょ。……殺しにルールなんてあるの?」

    私の口調は、いくらかトーンダウンする。

    「あるんだよ、それが」

    「今は、依頼を受けたら徹底的に調査と審査が入る。
     金を積んで後はよろしくというわけにはいかない」

    「審査って、どんな?」

    「ターゲットを殺すべきなのか? 殺す価値があるのか?
    社会通念的に問題ないか? 」

    「ただの私怨じゃ駄目だ。勿論、その殺しによって、私欲を肥やすという場合もお断りだ」

    「それから依頼者とターゲットの家族に対するアフターフォローの必要度合いなんかも重要だ」

    「それらを審査部が、依頼者に面談して、周辺を洗って、背景を調べる。
     それからターゲット側も調べる。」

    やけに饒舌になったすすむ君が、一気に話す。

    私は溜め息を一つした後に、少し冷静になって返した。

    「……あのね、すすむ君」

    「……どうぞ」

    「世の中には、言っていい冗談と悪い冗談があると思うの」

    「……」

    「昨日から今日まで。どこまでが冗談で、どこまでが真実なの?」

    すすむ君は困ったような、逃げ出したいような顔で、でも逃げずに言った。

    「全部、真実だ」

    私はもう一度、大きく深呼吸してから言った。

    「……分かった」
    すすむ君の眉が、ほんの少しだけ動く。

    「それなら逆に、好都合。私、その会社に入る。
     復讐は、業務時間内に、正当な手続き(暗殺)として遂行させてもらうわ」

    「……叶。殺し屋の採用試験は、公務員試験より倍率が高いんだぞ」

    「望むところよ。実の両親を殺した男に養われていたっていう『圧倒的当事者意識』を自己PRでぶつけてやるわ。で、御社は、交通費全額支給?」

    「……あ、ああ。上限はあるがな」

    玄関を出た瞬間、冷たい空気が頬を殴った。
    復讐。それは、甘美な誘惑でも、血塗られた宿命でもない。
    18歳の私にとっては、最も確実な「キャリアパス」に見えた。

    第3章 就職活動の話

    「リクルートスーツ、意外と似合うな」
    すすむ君が、私の姿を見て無遠慮に言った。

    「うるさい。早く説明して。私の志望動機、これでいいの?」
    私は履歴書の『志望動機』欄を指差した。
    そこには**「貴社社員への個人的な復讐を通じ、御社の業務品質向上とリスクマネジメントの徹底に寄与したいため」**と、極めて真っ当(?)なことが書かれている。

    「まあ、悪くない。業界最大手の『LTCL株式会社』は、意識高い系には弱いからな」
    すすむ君が教えてくれたところによると、LTCLは表向き「人材派遣会社」を装っている。
    だがその実態は、世界を股にかける暗殺請負企業。
    社名はチャップリンの言葉――『人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇である』の頭文字を取ったものだという。

    「いいか叶。面接で『殺したいから』なんて低次元なことを言うな。今のトレンドは**『命の循環における最適化(デッド・オーケストレーション)』**だ。あと、うちはWEB適性検査がエグいから、SPIの対策本、後で貸してやる」

    殺し屋のOB訪問。私は、親を殺した仇から「筆記試験のコツ」を伝授されるという、チャップリンも驚きの喜劇の中にいた。


    数日後。
    私は西新宿の超高層ビルを見上げていた。
    LTCL株式会社の受付は、驚くほど清潔で、無機質だった。

    「本日、14時に採用面接の予約をさせていただいております、日向(ひなた)叶と申します」

    「お待ちしておりました。第4会議室へどうぞ」

    受付嬢の笑顔は完璧で、その指先がキーボードを叩く音だけが、静かなロビーに響く。
    彼女も、いざとなればそのボールペンで誰かの頸動脈を突く訓練を受けているのだろうか。

    会議室で待っていたのは、銀縁メガネをかけた、冷徹そうな30代の男だった。

    「人事部長の九条です。……ふむ。君が『すすむ』の推薦枠か」

    九条は私の履歴書を一瞥し、感情の欠片もない声で言った。

    「志望動機に『復讐』とありますが。これは個人的な怨恨によるものですか?」

    「はい。御社の社員である『すすむ』こと、佐藤進氏に、私の実の両親は殺害されました。私は、彼を最も美しく、かつ効率的に排除することに、残りの人生を捧げたいと考えています」

    私は、昨日カラオケボックスで100回練習したセリフを、一気に吐き出した。

    九条は、ふっと口角を上げた。
    笑ったのではない。査定したのだ。

    「最近の若手は、ターゲットに感情移入しすぎるか、逆に全く何も感じないサイコパスかのどちらかだ。だが君には『明確な目的意識』と、加害者への『依存心に近い執着』がある。これは、暗殺者としての高い持久力につながる」

    「……評価、していただけるんですか?」

    「ビジネスにおいて、私怨は最強のブースターだ。ただし。君が彼を殺せば、当社は貴重なベテラン戦力を一人失うことになる。その損失を、君はどう補填するつもりだ?」

    圧迫面接だ。私は息を呑み、九条の目を真っ直ぐに見返した。

    「私が、彼以上の『稼ぎ頭』になります。彼が守れなかったコンプライアンスを遵守し、御社のクリーンなイメージ戦略のモデルケースになってみせます」

    「……いいだろう。ちょうど今、うちも『女性暗殺者の活躍推進(ダイバーシティ)』を推進しているところでね」

    九条は手元のタブレットにチェックを入れると、淡々と言った。

    「採用だ。明日から来なさい」

    「えっ……。試験は? SPIは?」

    「身内にターゲットがいる。これ以上の『実技試験』はない。入社祝い金は、初任給と一緒に振り込む。……あ、それと」

    立ち上がりかけた九条が、思い出したように付け加えた。

    「君の指導係(メンター)だが。……希望通り、すすむを指名しておいた。彼を殺すその日まで、彼からすべてを盗め。それが我が社の『育成プログラム』だ」

    こうして私の十八歳は、世界で一番物騒な「内定通知」と共に、本格的に幕を開けた。 玄関を出ると、西新宿の空は昨日と同じように青く、どこまでも冷たかった。

    第4章 OJT(現場研修)と、卵の味

    LTCL株式会社の初仕事は、入社式の翌日だった。

    いや、正確に言うなら「初仕事」ではなく「OJT」らしい。

    人を殺す会社にも、OJTがある。

    人事部長の九条さんいわく、

    「現場でしか学べないことがあります。特に、人が死ぬ現場では」

    とのことだった。

    その言い方、もう少しどうにかならないのだろうか。
    新入社員研修の延長みたいな口ぶりで、命の終点を語らないでほしい。

    午前八時三十分。

    私は、すすむ君――ではなく、社内呼称では佐藤進――とともに、LTCL本社地下三階の装備管理室にいた。

    白い蛍光灯に照らされた部屋は、病院の手術室みたいに清潔で、ひどく静かだった。
    壁一面には、鍵のかかった細長い棚。
    その棚のひとつひとつに、無機質な英数字のラベルが貼られている。

    ナイフ、銃、薬品、変装用の衣類、身分証、清掃用具、スマートフォン、古い新聞紙、花束、折りたたみ傘。

    ……後半、ホームセンターの忘れ物コーナーみたいになっている。

    「何これ」

    「仕事道具だ」

    「花束も?」

    「見舞い客に見える」

    「折りたたみ傘は?」

    「雨の日に不自然じゃない」

    「古い新聞紙は?」

    「人は、新聞を持っている人間を記憶しにくい」

    「そんな理論あるの?」

    「ある。少なくとも、俺の中にはある」

    すすむ君は淡々と答えながら、私に黒いナイロンジャケットを渡した。

    「着ろ」

    「サイズ、合ってる」

    「採寸データは入社時に提出済みだ」

    「やだ。殺し屋会社、福利厚生より先に採寸データ握ってるの怖い」

    「制服みたいなものだ。防刃性は最低限ある。撃たれたら諦めろ」

    「そこは最低限守ってよ」

    「初日から撃たれるような動きをするな」

    そう言って、すすむ君は自分の装備を確認し始めた。

    その手つきは、家で醤油差しの蓋を開ける時のそれとはまるで違っていた。

    迷いがない。

    指先が、必要なものだけを選び、必要な場所へ収めていく。
    視線は動いているのに、慌てていない。
    一つひとつの確認が、音もなく終わっていく。

    私はそれを横で見ていた。

    十八年間、同じ家で暮らしてきた。
    朝ごはんを作る背中を見てきた。
    洗濯物を畳む手を見てきた。
    私の小学校の連絡帳に、やたら角ばった字で「確認しました」と書く手を見てきた。

    なのに、今の手は、知らない。

    「……何見てる」

    「別に」

    「怖いか」

    「腹立つ」

    私は即答した。

    「手慣れてるのが、腹立つ。かっこよく見えそうなのも、腹立つ。あと、私の実の親も、そうやって手慣れた感じで殺したのかなって思うと、だいぶ腹立つ」

    すすむ君の手が、一瞬だけ止まった。

    ほんの一瞬だった。
    でも、止まった。

    それから彼は、何事もなかったように小型のタブレットを起動した。

    「今日のターゲットを確認する」

    逃げたな。

    私はそう思ったけれど、言わなかった。
    言ったら、たぶん仕事にならない。

    すすむ君は、資料を私に見せた。

    今回のターゲットは、投資詐欺グループの主犯・木島誠司。
    表向きは資産形成コンサルタント。
    実態は、高齢者を狙った詐欺グループの中心人物。

    退職金、保険金、遺族年金。
    老後のために蓄えてきたお金を、「必ず増える」「家族に迷惑をかけないために」と甘い言葉で奪い取り、追い詰められた被害者の中には、自ら命を絶った人もいる。

    依頼人は、七十二歳の女性。
    夫を亡くし、残された生活資金を木島に騙し取られた。
    その後、夫の遺影の前で何度も謝り続けているらしい。

    「……依頼書、読みました。この木島って男、ターゲットとしてのランクは?」

    「最低のDランクだ」

    すすむ君は言った。

    「社会的価値が極めて低い。更生可能性なし。再犯リスク高。司法による回収見込みも薄い。審査部は即日承認した」

    「最低のDランクって、言い方」

    「事実だ」

    「人間なのに?」

    「人間だから、審査する」

    その一言に、私は返せなかった。

    すすむ君は、タブレットを閉じた。

    「いいか、日向」

    会社では、すすむ君は私を「日向」と呼ぶ。
    その距離感が、少しだけ痛い。

    「これは仕事だ。私情はノイズでしかない」

    「そのセリフ、昨日から三回聞いた」

    「三回で済んでいるなら、まだ優しい」

    「私情がノイズなら、私を採用した理由、全部ノイズじゃない?」

    「だから、お前はまだ見学だ」

    「見学って、社会科見学みたいに言わないで」

    「社会の裏側を見るという意味では、大差ない」

    すすむ君は、装備ケースを閉じた。

    「現場では、俺の指示に従え。勝手に動くな。叫ぶな。吐くなら指定した場所で吐け」

    「吐く場所まで指定されるの?」

    「現場保全のためだ」

    「人間としての尊厳は?」

    「現場では後回しだ」

    最悪の教育方針だった。

    社用車で移動する間、すすむ君はほとんど喋らなかった。

    車内には、エンジン音と、タブレットを操作する指先の小さな音だけがあった。
    私は助手席で、膝の上に置いた自分の手を見ていた。

    殺し屋になる。

    昨日の私は、確かにそう言った。
    すすむ君を殺すために。
    実の両親の仇を取るために。
    自分の人生を、復讐へ向かわせるために。

    でも、現場へ向かう車の中で、私は急に、自分が言った言葉の輪郭に触れてしまった気がした。

    殺し屋になるということは、誰かを殺すということだ。

    そんな当たり前のことを、私はどこかで見ないふりをしていた。
    すすむ君を殺す。
    その一点だけを見ていればよかった。
    でも会社は、私に別の誰かの死を見せようとしている。

    「……ねえ」

    「なんだ」

    「木島は、殺されても仕方ない人?」

    「その質問は危険だ」

    すすむ君は前を見たまま言った。

    「どうして」

    「殺されても仕方ない人間、という分類を自分の中に作ると、次から楽になる」

    「楽になるなら、いいんじゃないの?」

    「楽になったら終わりだ」

    その声は、いつものぼやき混じりの声ではなかった。

    低くて、乾いていて、どこか遠かった。

    「俺たちは仕事で人を殺す。だが、人を殺すことに慣れたと思った瞬間、ただの故障品になる」

    「故障品」

    「使い物にはなる。だが、戻れなくなる」

    私は窓の外を見た。

    平日の午前。
    スーツ姿の会社員。
    ベビーカーを押す母親。
    コンビニの前で缶コーヒーを飲む工事現場の人。
    信号待ちをする自転車の高校生。

    この中の誰も、今から私たちが何をしに行くのか知らない。

    世界は、知らないふりが上手すぎる。

    木島が潜伏しているのは、駅から少し離れた雑居ビルの四階だった。
    一階は古い中華料理屋。
    二階は整体院。
    三階は誰も使っていない貸しオフィス。
    四階に、木島の名義ではない会社が入っている。

    看板はない。
    郵便受けには、聞いたこともない英語の会社名が貼られている。
    ただ、階段の踊り場には、妙に強い香水の匂いが漂っていた。

    「……くさい」

    「黙れ」

    「いや、これ本当にくさいって」

    「だから黙れ。匂いに意識を取られるな」

    すすむ君はそう言いながら、階段の途中で一度止まった。

    耳を澄ませる。
    目を動かす。
    壁を見る。
    足元を見る。
    ドアを見る。

    私には何も見えない。
    ただ古いビルの、薄汚れた階段にしか見えない。

    でも、すすむ君には違うらしい。

    「右上」

    小さく言われて、私は視線だけを動かした。

    階段の天井近く。
    黒い半球状の監視カメラがあった。

    「見られてる?」

    「見られているように見せている。配線が死んでる」

    「なんで分かるの」

    「埃の積もり方」

    「埃?」

    「動いている機械は、わずかに熱を持つ。埃の付き方が変わる」

    「……そんなの、分かる?」

    「分かるようになる。なりたくなくてもな」

    すすむ君は進んだ。

    足音がしない。

    本当にしない。

    私はその後ろをついていく。
    同じように歩いているつもりなのに、自分の靴底だけがやたら大きな音を立てている気がした。

    「踵から入るな」

    「え?」

    「足音。重心が後ろだ。怖がると踵が鳴る」

    「怖がるなって言われて怖がらない新人、いる?」

    「いる。すぐ死ぬ」

    「励まし下手すぎるでしょ」

    「励ましてない。教えてる」

    四階の扉の前で、すすむ君は私を壁際に立たせた。

    「ここからは、見るだけだ」

    「何を?」

    「俺が、どうやって人間を『終わらせる』か」

    その言い方に、胃の奥が冷えた。

    すすむ君はインターホンを押さなかった。
    ドアノブに触れ、わずかに回し、何かを確認する。
    その後、懐から取り出した道具を使った。

    カチャ、という音すらしなかった。

    私は思わず息を止めた。

    鍵が開いた、というより、ドアが最初から「開いていたことにされた」みたいだった。

    すすむ君は振り返らずに言った。

    「侵入の基本は、勝つことじゃない。気づかれないことだ」

    「……はい」

    「相手を驚かせるな。驚いた人間は、何をするか分からない」

    「はい」

    「声を出させるな。声は、銃より遠くへ飛ぶ」

    「はい」

    「そして何より、自分が主役だと思うな」

    「……どういう意味?」

    「現場の主役はターゲットだ。ターゲットが何を見て、何を恐れて、何を信じるか。それだけを考えろ」

    私は、すすむ君の横顔を見た。

    それは、私の知っている父親の顔ではない。
    かといって、悪魔の顔でもなかった。

    仕事をしている人間の顔だった。

    それが、一番嫌だった。

    扉が開く。

    中は、予想よりずっと生活感がなかった。
    折りたたみの机。
    ノートパソコン。
    ブランド物の紙袋。
    コンビニ弁当の空き容器。
    使い捨ての歯ブラシ。
    そして、部屋いっぱいに漂う甘ったるい香水の匂い。

    奥のソファに、男が座っていた。

    木島誠司。

    資料で見た顔よりも、少し太っている。
    目の下には濃い隈があり、髪は整えられているのに、どこか不潔な印象があった。

    木島は、ノートパソコンに向かって通話していた。

    「だから、今入れれば間に合うんですよ。奥さん、これは最後のチャンスなんです。息子さんに迷惑かけたくないでしょう?」

    その声を聞いた瞬間、私の中で何かがざらついた。

    木島は笑っていた。

    画面の向こうにいる誰かを、安心させるための笑い方。
    優しい人間に見せるための声。
    誰かの不安を撫でながら、その財布に手を入れる声。

    すすむ君は、私に目だけで合図した。

    見るな。
    いや、見ろ。
    どっちだ。

    分からない。

    でも、私は見た。

    すすむ君は、木島の背後へ近づいた。
    床のきしむ場所を最初から知っているみたいに、何も踏まない。
    影が、音もなく伸びる。

    木島はまだ気づかない。

    「ええ、ええ。ご主人もきっと、奥さんが安心して暮らせることを望んで――」

    そこで、すすむ君が木島のノートパソコンを閉じた。

    通話が切れる。

    木島は、理解するのに一秒遅れた。

    その一秒で、部屋の空気が変わった。

    「……誰だ?」

    木島の声が裏返る。

    すすむ君は、名刺入れを出した。

    本当に、名刺入れを出した。

    「LTCL株式会社、営業二課の佐藤です」

    「は?」

    「本日は、契約終了の手続きに伺いました」

    「何言って――」

    木島は立ち上がろうとした。
    けれど、すすむ君の手が肩に置かれただけで、動きが止まった。

    強く押さえつけているようには見えない。
    ただ、木島の身体が、自分の重さを思い出したみたいに沈んだ。

    「ひっ……お前、誰だ。金ならある。いくらだ。誰に頼まれた? あのババアか? なあ、倍出す。三倍でもいい」

    木島は、言葉を散らかした。

    命乞いは、もっと劇的なものだと思っていた。
    泣くとか、叫ぶとか、神様に祈るとか。
    でも実際は違った。

    お金の話だった。

    木島は最後まで、人の命を金額で測っていた。

    すすむ君は何も言わなかった。

    「聞けよ! おい! なあ! 俺はな、必要とされてるんだよ。俺みたいなやつがいないと、金を動かせないんだ。あいつらだって、夢を見たかったんだろ? 俺は夢を売っただけだ!」

    すすむ君の顔は変わらない。

    「日向」

    突然、私の名前が呼ばれた。

    「はい」

    「覚えておけ。ターゲットは、最後に自分を説明しようとする」

    木島の目が、初めて私を捉えた。

    「お前、子どもじゃねえか。なあ、助けてくれ。こいつヤバいぞ。警察呼べ。な?」

    私は動けなかった。

    木島の視線が私に絡みつく。
    さっきまで画面越しの老人に向けられていた、あの作り物の優しさが、今度は私に向けられる。

    「お嬢ちゃん。分かるだろ? こいつは人殺しだ。俺は詐欺師かもしれない。でも殺しはしてない。な? どっちが悪い? なあ、分かるよな?」

    その言葉は、私の胸に刺さった。

    こいつは人殺しだ。

    そうだ。

    すすむ君は人殺しだ。

    私の両親を殺した。

    今も、目の前で人を殺そうとしている。

    だったら、私はなぜ、木島の味方をしたくならないのだろう。

    なぜ、この男の声の方が、ずっと気持ち悪いのだろう。

    「日向」

    すすむ君の声がした。

    「見るなら、最後まで見ろ。目を逸らすなら、今だ」

    私は、目を逸らさなかった。

    銃声は、想像していたよりずっと小さかった。

    映画みたいな爆発音ではなかった。
    拍子抜けするほど乾いた、低い音。

    木島の身体が崩れた。

    時間が止まる、なんてことはなかった。
    世界はきちんと続いていた。
    空調は唸り、冷蔵庫は小さく振動し、外の道路ではトラックが通り過ぎる音がした。

    人が死んでも、世界は止まらない。

    そのことが、何より残酷だった。

    床に広がる赤い液体を、すすむ君は無機質な目で見つめていた。
    いや、無機質に見えた。

    本当にそうなのかは、分からない。

    「時間」

    すすむ君が言った。

    「え?」

    「今、何時何分だ」

    私は震える手でスマホを見た。

    「十時四十七分」

    「記録しろ」

    「……はい」

    「入室から完了まで、四分二十秒。予定より十二秒遅い」

    「そんなの、どうでも――」

    「どうでもよくない」

    すすむ君は静かに言った。

    「十二秒あれば、人は叫ぶ。逃げる。誰かに電話する。あるいは、お前が死ぬ」

    私は黙った。

    すすむ君は部屋の中を見回した。
    何かを片づける。
    何かを確認する。
    何かを残し、何かを消す。

    その一つひとつは、私には分からない。
    ただ、彼が「殺した後」まで仕事として引き受けていることだけは分かった。

    殺す瞬間だけが殺し屋なのではない。

    殺す前の準備。
    殺した後の処理。
    誰かが気づくまでの時間。
    残された人がどう受け取るか。
    依頼人がこれからどう生きるか。

    その全部が、仕事なのだ。

    「……すすむ君」

    「現場では佐藤と呼べ」

    「佐藤さん」

    「なんだ」

    「吐きそう」

    すすむ君は、ようやくこちらを見た。

    それから、小さくため息をついて、ビニール袋を差し出した。

    「指定場所は?」

    「そこまで冷静に聞かないでよ」

    「床に吐くな。報告書が増える」

    「最低」

    「そうだな」

    私は吐いた。

    少しだけ。

    涙も出た。

    でも、泣いているのか、吐いたせいなのか、自分でも分からなかった。

    帰りの車の中で、すすむ君は何も言わなかった。

    私は助手席で、窓の外を見ていた。
    街は相変わらず普通だった。
    コンビニでは新作スイーツのポスターが貼られ、交差点では会社員が信号を待ち、犬を連れたおばあさんがゆっくり歩いていた。

    私の中では、さっきの音がまだ残っている。

    低く、乾いた、拍子抜けするほど小さな音。

    あれが、人の人生が終わる音。

    「……ねえ」

    「なんだ」

    「木島って、殺されるべきだった?」

    すすむ君は、少し間を置いた。

    「分からん」

    「え?」

    「俺が分かるのは、会社が承認したこと。依頼人が望んだこと。木島がこれ以上、誰かを壊す可能性が高かったこと。それだけだ」

    「それだけで殺すの?」

    「それだけじゃない。だから調査がある。審査がある。報告書がある。面談がある。だが、最後はいつだって、誰かが引き金を引く」

    「……それが、すすむ君?」

    「ああ」

    すすむ君はハンドルを握ったまま言った。

    「だから俺は、毎回、飯を食う」

    「飯?」

    「食えなくなったら終わりだと思ってる」

    家に帰ると、ダイニングテーブルには、またしても、あの光景が広がっていた。

    炊きたてのご飯。
    生卵。
    醤油差し。
    二つの茶碗。

    私は立ち尽くした。

    「……また、TKGなの?」

    声が思ったより掠れていた。

    「殺しの後は、これにしてる」

    すすむ君は上着を脱ぎ、台所へ向かった。
    手を洗う。
    長い。
    いつもより長い。

    その背中は、さっき木島を撃った人間のものとは思えない。
    でも、同じ手だ。

    私のご飯をよそい、卵を置く手。
    木島の人生を終わらせた手。
    私の熱を測った手。
    私の実の両親を殺した手。

    全部、同じ手。

    私は椅子に座った。

    「……いただきます」

    「いただきます」

    すすむ君は卵を割った。
    殻を割る音が、妙に大きく聞こえた。

    「殺しは、決して称賛されるべき行為じゃない」

    すすむ君は黄身を崩しながら、静かに言った。

    「どんなにクズを掃除したところで、俺たちが手を汚した事実は消えない。一番シンプルで、一番生々しいこの味を胃に流し込んで、自分が奪った命の重さを思い出す。これが、俺の親父から教わった唯一のルールだ」

    その横顔には、どこか近寄りがたい、プロフェッショナルな静謐さがあった。

    私は一瞬、この男の背負っている罪の深さに圧倒されそうになる。

    だけど。

    一口、二口とTKGを運んだ後、すすむ君が深いため息をついた。

    「……はぁ。それにしても日向、さっきの現場の木島、あいつの趣味、最悪だったな」

    「……えっ?」

    「あの安物の香水、嗅いだか? 部屋中に充満してて、俺のクリーニングしたてのジャケットに匂いが移っちまったよ。これ、経費で落ちるかな。人事の九条さんは匂いに関して判定が厳しいんだよな」

    静謐な空気は、一瞬で「仕事終わりの居酒屋」のような湿っぽさに塗り替えられた。

    「ちょっと待って。さっきの命の重さみたいな話は?」

    「重いよ。命は重い。だが、事務作業はもっと重いんだ」

    「台無しだよ」

    「これから俺、あの現場の事後報告書を十五ページ書かなきゃいけないんだぞ。入室から退室までのタイムスタンプ、現場状況、ターゲットの最終発言、依頼人への心理的フォロー案、再発防止策。昔は死体さえ転がしておけば仕事完了だったんだがな」

    「昔もだいぶ問題あるけどね」

    すすむ君は、箸を止めて天を仰いだ。

    「最近の若手なんか、報告書に『エモい感じで仕留めました』とか書いて差し戻されてるらしい。SNSのやりすぎだ。殺しの現場に映えなんていらねえんだよ」

    「それは、ちょっと分かる」

    「おまけに、今日の木島みたいなDランク案件は、成功報酬の歩合が低い。それなのに手間だけはAランク並みにかかる。コスパが合わなすぎて、営業部も頭を抱えてる」

    「人の命でコスパ語らないで」

    「会社員だからな」

    「殺し屋だからね」

    「殺し屋も会社員だ」

    その言葉が、妙におかしくて、でも笑えなかった。

    私は、茶碗の中の卵を見つめた。

    黄金色に染まったご飯。
    命の味。
    すすむ君が嫌いな味。
    それなのに、十八年間、私の誕生日の朝に出され続けた味。

    「……あの、すすむ君」

    「なんだ」

    「一応、私の両親のことも、そんな感じで処理したの?」

    言った瞬間、空気が止まった。

    すすむ君は箸を止めた。
    今度は、さっきより長かった。

    「……お前の親の時は、まだ紙の報告書だった」

    その声は、少し低かった。

    「文字が滲まないように、必死に震える手で書いたよ。当時は手当なんて概念もなかったからな。ただ、お前を連れ帰ったことだけは、どの規定にも載ってなかったから……始末書を書かされた」

    「始末書」

    「人生で一番長い、始末書だ」

    「何枚?」

    「百八枚」

    「煩悩の数じゃん」

    「九条に言われた。『あなたの罪の数に合わせました』ってな」

    「九条さん、昔から九条さんなんだ」

    「あいつは昔から嫌味だけは一流だった」

    少しだけ笑いそうになった。
    でも、笑ったら負けな気がして、私は口を結んだ。

    「……震えたんだ」

    「ん?」

    「報告書を書く手」

    すすむ君は、私を見なかった。

    「震えたよ」

    「プロなのに?」

    「プロでも震える」

    「じゃあ、今日も?」

    「今日は震えてない」

    「慣れたから?」

    「違う」

    すすむ君は、茶碗の中のご飯を見た。

    「震えたら、お前に見えると思ったからだ」

    私は、何も言えなかった。

    ずるい。

    この男は、本当にずるい。

    罪を背負っている顔をしたかと思えば、会社員みたいに経費の愚痴を言う。
    冷酷なプロの顔をしたかと思えば、私に見せないために震えを隠す。
    私の両親を殺したくせに、私の前では父親でいようとする。

    憎みたいのに、憎みきれない。

    それが、いちばん腹立たしい。

    「……ご馳走様」

    私は立ち上がった。

    「次は、私も報告書、書くから」

    「ああ。キーパンチの速度も査定に入るからな。練習しておけよ」

    「タイピングソフト買って」

    「会社支給のものがある」

    「殺し屋会社のタイピングソフト、何打たされるの?」

    「『ほうこくしょ』『けいやくしゅうりょう』『こんぷらいあんす』」

    「小学生のローマ字練習より嫌」

    すすむ君は、空になった茶碗を流しに運んだ。

    その背中は、やっぱりただの疲れたお父さんにしか見えなかった。

    でも私は、今日、その背中の奥にあるものを少しだけ見てしまった。

    冷たさ。
    技術。
    罪。
    疲労。
    そして、たぶん、ほんの少しの優しさ。

    私は、それを全部まとめて憎めるほど、まだ器用じゃなかった。

    第5章 実地試験、あるいは「適性」の話

    「今回のターゲットは、聖マリアンナ記念病院の院長・大門宗一郎。年齢六十八。外科医出身。現在は院長職にある」

    LTCLの社用車の中で、すすむ君はタブレットを操作しながら言った。

    いつもの黒いナイロンジャケット。
    いつもの無駄のない声。
    いつもの、仕事中の佐藤進。

    だけど、今日の空気は、昨日とは少し違っていた。

    昨日の木島の案件では、すすむ君の説明にもどこか乾いた確信があった。
    ターゲットは詐欺師。
    依頼人は被害者。
    審査は即日承認。
    社会的価値は最低。
    Dランク。

    人の命にランクをつけること自体が気持ち悪いのに、それでも昨日の私は、どこかで納得してしまっていた。

    木島は悪い人間だった。
    誰かを騙し、壊し、追い詰めた。
    最後まで金の話をしていた。
    命乞いの中にすら、反省はなかった。

    だから、見ていられた。

    いや、見ていられたと言っていいのか分からない。
    吐いたし、手は震えたし、夜は眠れなかった。

    それでも、昨日の現場には、まだ「理屈」があった。

    でも、今日のすすむ君の声には、その理屈が薄い。

    「……Dランク?」

    私は助手席で聞いた。

    「形式上はDランクだ」

    「形式上?」

    「会社としては、不透明な案件として注視している」

    「それ、Dランクって言わなくない?」

    「だから形式上だ」

    すすむ君はタブレットをスワイプし、依頼書を表示した。

    依頼者は、大門院長の甥にあたる男。
    表向きの依頼理由は、医療ミスによる遺族の無念を晴らすため。

    五年前、大門院長が執刀に関わった手術で、患者が死亡した。
    遺族は病院側の過失を訴えたが、裁判では病院側の責任は認められなかった。
    しかし、ネット上では今も、大門院長を「人殺し医者」と呼ぶ投稿が散発的に続いている。

    「医療ミス……」

    「疑い、だ」

    すすむ君は訂正した。

    「確定はしていない。むしろ、裁判記録と第三者委員会の報告では、当時の処置に重大な過失は認められていない」

    「じゃあ、なんで依頼が通ったの?」

    「通ったわけじゃない。通りかけている」

    「その違い、何?」

    「俺たちが今から現場で判断する、ということだ」

    私は眉を寄せた。

    「現場で判断って、殺すか殺さないかを?」

    「そうだ」

    「そんなの、現場に丸投げしちゃ駄目じゃない?」

    「普通はな」

    「普通はって何」

    すすむ君は、しばらく黙ってから言った。

    「裏を洗ったところ、依頼者には別の目的がある」

    「別の目的?」

    「相続だ」

    タブレットには、院長の資産関連資料が表示されていた。

    大門院長は、独身。
    子どもはいない。
    長年の勤務と投資で、かなりの資産を持っている。
    しかし最近、その大半を小児医療支援の財団へ寄付する手続きを進めているらしい。

    「甥は、それを止めたい」

    「つまり、お金が欲しいから院長を殺したいってこと?」

    「そう見える」

    「じゃあ駄目じゃん」

    私は思わず声を強めた。

    「私欲のための依頼は断るって、すすむ君が言ったんだよね? 会社のコンプラ的にアウトなんでしょ?」

    「原則はな」

    「原則とか言い出した」

    「医療ミスの疑いが、完全には消えていない」

    「でも、それは裁判で――」

    「裁判と事実は、必ずしも同じじゃない」

    すすむ君の声は冷静だった。

    「人を殺す側がそれ言うの、だいぶ危ないよ」

    「だから、危ない案件なんだ」

    車内に沈黙が落ちた。

    私はタブレットに映る大門院長の写真を見た。

    白髪。
    柔らかそうな目尻。
    少し曲がった背筋。
    病院の広報ページ用らしい写真には、入院中の子どもたちと一緒に笑っている姿が写っていた。

    作り笑いかもしれない。
    広報用の演出かもしれない。
    人は写真だけでは分からない。

    でも、昨日の木島とは違った。

    資料越しでも、何かが違った。

    「……この人、本当に悪い人なの?」

    私は言った。

    「分からない」

    すすむ君は答えた。

    「分からない人を殺すの?」

    「だから、今日はお前の実地試験だ」

    「意味が分からない」

    「分からない相手を前にして、お前がどう判断するかを見る」

    「それって会社の試験? それとも、すすむ君の意地悪?」

    「両方だ」

    「最悪」

    「そうだな」

    すすむ君は、病院近くのコインパーキングに車を停めた。

    「日向」

    「何」

    「昨日の木島で、お前は悪意を見た。今日は、曖昧さを見る」

    「曖昧さ」

    「世の中には、殺してはいけない悪人もいる。殺すしかない善人もいる。善悪で割り切れない相手の方が多い」

    「それ、殺し屋の仕事として破綻してない?」

    「破綻してる」

    「認めるんだ」

    「だから会社は、報告書を増やしてごまかしてる」

    「急に企業風刺に逃げないで」

    すすむ君は、小さく息を吐いた。

    「いいか。今日は、お前が最後を決める」

    私は、背筋が冷たくなった。

    「最後って」

    「引き金を引くか、依頼を破棄するか」

    「私が?」

    「ああ」

    「新人に?」

    「ああ」

    「昨日、吐いたばっかりの新人に?」

    「ああ」

    「御社、研修制度が終わってるよ」

    「否定はしない」

    すすむ君は私を真っ直ぐ見た。

    「だが、覚えておけ。撃つことだけが殺し屋の仕事じゃない。撃たない判断も、現場の仕事だ」

    「じゃあ、撃たなくてもいいの?」

    「いい」

    「でも、撃たなかったら?」

    「会社から評価されないかもしれない。依頼者から恨まれるかもしれない。ターゲットが本当に悪人だった場合、次の被害者が出るかもしれない」

    「重い」

    「そうだ」

    「撃ったら?」

    「ターゲットが本当に嵌められただけの人間だった場合、お前は無実の人間を殺す」

    「もっと重い」

    「そうだ」

    私はシートに背中を預けた。

    選択肢がどちらも重すぎる。
    というより、軽い選択肢が存在しない。

    昨日、すすむ君は言った。

    人を殺すということは、その人の人生を全部、自分の履歴書に書き加えることだ、と。

    今日、私の履歴書には、まだ何も書かれていない。
    でも、白紙だからこそ怖い。

    最初の一行を、誰の名前で始めるのか。

    それを、私は今日、選ばされる。

    聖マリアンナ記念病院は、想像していたより静かだった。

    夜の病院には、独特の空気がある。

    昼間の喧騒が抜け落ちた廊下。
    白く光る床。
    消毒液の匂い。
    遠くで鳴るナースコール。
    点滴スタンドの小さな車輪の音。

    私たちは白衣を羽織り、マスクをつけて、夜間通用口から中へ入った。

    昨日の雑居ビルとは違う。
    そこには、誰かを騙すための香水の匂いも、隠れ家特有の淀んだ空気もなかった。

    ここには、生きようとしている人たちがいた。

    眠れない患者。
    小走りの看護師。
    自販機の前で項垂れる家族。
    点滴を押しながら歩く老人。

    その全員の横を、私たちは歩いた。

    殺しに行くために。

    「……ねえ」

    私は小声で言った。

    「ここでやるの?」

    「院長室だ」

    「病院で?」

    「ターゲットの生活圏だからな」

    「でも、ここ、誰かを助ける場所じゃん」

    すすむ君は少しだけ私を見た。

    「その感覚は忘れるな」

    「忘れたら?」

    「病院でも駅でも学校でも、ただの現場に見えるようになる」

    「すすむ君は?」

    「俺はもう、かなり怪しい」

    「それ、笑えない」

    「笑わせるつもりはない」

    エレベーターの前を通った時、車椅子の女の子が母親と一緒にいた。

    女の子は、私たちの白衣を見て、にこっと笑った。
    医者か看護師だと思ったのだろう。

    私は反射的に、少し会釈した。

    その瞬間、自分がひどく汚いものに思えた。

    この白衣は、誰かを助けるためのものではない。
    誰かに近づくための偽物だ。

    「日向」

    すすむ君が低く言った。

    「顔に出すな」

    「……はい」

    「白衣を着た時点で、お前は白衣に見えるように振る舞え」

    「分かってる」

    「分かってない顔だ」

    「うるさい」

    「その怒りは後で使え。今はしまえ」

    私は唇を噛んだ。

    院長室は、最上階の奥にあった。

    廊下の照明は少し暗く、窓の外には街の明かりが広がっている。
    扉の前には、古い木製のプレートがかかっていた。

    院長室
    大門宗一郎

    すすむ君は、扉に手をかける前に、私を見た。

    「ここから先は、お前が前に出ろ」

    「……私が?」

    「実地試験だ」

    「でも」

    「俺は後ろにいる」

    「それ、安心していいやつ?」

    「場合による」

    「最悪」

    私は深呼吸した。

    扉をノックする。

    中から、静かな声がした。

    「どうぞ」

    その声に、私は一瞬戸惑った。

    まるで、来客を待っていたみたいだった。

    扉を開けると、そこには机に向かって書き物をしている老人がいた。

    大門院長。

    写真で見たより、ずっと痩せていた。
    白髪はきちんと整えられていて、眼鏡の奥の目は穏やかだった。
    机の上には、書類の束と、古い万年筆。
    そして、手紙が何通も並んでいる。

    院長は、私たちを見て微笑んだ。

    「回診の時間には早いようだが」

    その声に、恐怖はなかった。

    「……営業二課、佐藤です」

    すすむ君が私の後ろで言った。

    「それと、新人の日向」

    「そうですか」

    院長は、驚かなかった。

    ただ、静かにペンを置いた。

    「やはり、来ましたか」

    私は息を呑んだ。

    「……分かってたんですか」

    院長は、私を見た。

    「完全に分かっていたわけではありません。ただ、今日あたりだろうとは思っていました」

    「どうして」

    「甥が、急に優しくなりましてね」

    院長は、少し寂しそうに笑った。

    「人間、普段しないことをすると、だいたい何かあります。見舞いにも来なかった男が、急に私の体調を気遣い、財産の話をし、病院の将来を心配し始めた」

    「それだけで?」

    「それだけではありません」

    院長は、机の上の書類を一枚、こちらへ向けた。

    「私の顧問弁護士が、妙な問い合わせを受けていました。寄付手続きの進行状況、遺言書の有効性、私が死亡した場合の相続順位。質問者は名乗らなかったそうですが、まあ、分かります」

    私は何も言えなかった。

    院長は、自分が嵌められていることを理解している。
    それどころか、ほとんど答え合わせまで済ませている。

    なのに、逃げていない。

    警察にも行っていない。
    病院を離れてもいない。
    護衛もつけていない。

    ただ、院長室で手紙を書いていた。

    「……逃げなかったんですか」

    私が聞くと、院長は微笑んだ。

    「逃げて、どこへ?」

    「どこへって」

    「私は医者です。ここが私の持ち場です」

    「でも、殺されるかもしれないのに」

    「医者になってから、毎日、誰かの死と同じ建物にいました。死が来る場所は、特別ではありません」

    その言葉は、静かすぎた。

    あきらめとは違う。
    悟りとも違う。
    ただ、長い時間をかけて死と向き合ってきた人の声だった。

    「それに」

    院長は続けた。

    「私が逃げれば、彼は別の手を使うでしょう。病院に迷惑がかかる。職員や患者を巻き込むかもしれない。それなら、私一人で済む方がいい」

    「そんなの」

    私は思わず言った。

    「そんなの、おかしいです」

    「そうですね」

    院長はあっさり認めた。

    「おかしいことは、世の中にたくさんあります」

    その言い方が、妙に悲しかった。

    昨日の木島は、最後まで自分を正当化していた。
    俺は悪くない。
    相手も望んでいた。
    夢を売っただけだ。
    金なら出す。

    目の前の大門院長は違う。

    自分が嵌められていることを知っている。
    殺されるかもしれないことも分かっている。
    それでも、自分の無実を声高に叫ばない。
    理不尽に怒鳴らない。
    こちらを責めない。

    その静けさが、かえって私を追い詰めた。

    「……大門院長」

    私は、懐の銃に触れた。

    手が震えた。

    「あなたは、五年前の手術で、人を死なせたんですか」

    院長は目を伏せた。

    「はい」

    その答えは、あまりにもまっすぐだった。

    「私は、患者さんを救えませんでした」

    「医療ミスだったんですか」

    「裁判では、そう認定されませんでした」

    「あなた自身は?」

    院長は、少しだけ長く黙った。

    「医師として、もっとできることがあったのではないか。今でも毎日考えます」

    「じゃあ」

    「ですが、あの時、私は最善を尽くしたとも思っています」

    院長は、私を見た。

    「この二つは、矛盾しているようで、私の中では同時に存在しています。救えなかった後悔と、あの瞬間に戻っても同じ判断をするだろうという確信です」

    私は、何も言えなかった。

    院長は淡々と続ける。

    「人の命に関わる仕事をしていると、正しい判断をしても、人は死にます。間違った判断をすれば、もちろん死にます。だから、医者はいつも、自分の判断と、その結果の間で生きることになる」

    すすむ君が、後ろで小さく息をした気がした。

    「あなた方も、似ているのかもしれませんね」

    院長は言った。

    「人を生かす仕事と、人を殺す仕事が似ているなんて、言わないでください」

    私は思わず言った。

    院長は、怒らなかった。

    「失礼しました」

    その素直な謝罪が、また苦しかった。

    私は銃を抜いた。

    手の中の重みが、昨日よりもずっと冷たかった。

    昨日の木島の時、私は見ているだけだった。
    今日は違う。

    私が、決める。

    私が、構える。

    私が、終わらせるかもしれない。

    院長は、銃口を見ても騒がなかった。

    椅子に座ったまま、背筋を少し伸ばしただけだった。

    「……怖くないんですか」

    私が聞くと、院長は少し笑った。

    「怖いですよ」

    「そう見えません」

    「医者は、怖い時ほど落ち着いて見せる訓練をします。患者さんが不安になりますから」

    「今、患者はいません」

    「あなたがいます」

    その言葉で、指先がさらに震えた。

    私は殺しに来たのに。
    この人は、私を落ち着かせようとしている。

    「君は、まだ若い」

    院長は静かに言った。

    「殺しに来た相手に説教ですか」

    「説教ではありません。確認です」

    「何を」

    「君が、本当に私を殺したいのか。それとも、誰かに殺させられようとしているのか」

    心臓が強く鳴った。

    「……私は」

    「嵌められているのは、私だけではないのかもしれません」

    院長の声は、まっすぐだった。

    「私を殺したい人間がいる。財産を得たい人間がいる。過去の医療事故を利用したい人間がいる。そして、君に引き金を引かせたい人間がいる」

    「違う」

    私は反射的に言った。

    「私は、自分でここに来た」

    「そうですか」

    院長は頷いた。

    「では、君はなぜ私を殺すのですか」

    答えが出なかった。

    木島の時なら、まだ言えた。
    詐欺師だから。
    人を追い詰めたから。
    依頼人がいるから。
    会社が承認したから。

    でも、今は。

    「……仕事だから」

    自分でも驚くほど、弱い声だった。

    院長は責めなかった。

    「仕事ですか」

    「そうです」

    「では、仕事なら、人を殺してもいいのですか」

    その問いは、あまりに単純だった。

    単純すぎて、逃げ場がなかった。

    すすむ君は何も言わない。
    本当に、何も言わない。

    後ろにいるのに、助けてくれない。

    いや、助けないことが、たぶん今日の教育なのだ。

    私は、院長に銃を向けたまま、震えていた。

    「……私には、殺したい人がいます」

    声が勝手に出た。

    「その人に復讐したいんです。だから、殺し屋になるって決めました。そっち側に行けば、その人を殺せると思った。殺す資格が手に入ると思った」

    院長は、静かに聞いていた。

    「でも、あなたを殺したいわけじゃない」

    言ってから、息が止まった。

    自分で言ってしまった。

    私は、この人を殺したくない。

    院長は目を細めた。

    「それなら、殺さない方がいい」

    「でも、殺せなかったら」

    「殺せなかったら?」

    「私は、ずっと被害者のままなのかもしれない」

    昨日から、胸の奥にあった言葉が出た。

    自分でも情けないと思った。
    でも、止まらなかった。

    「私の両親は殺されました。殺した人に育てられていました。十八歳の誕生日にそれを知らされました。怒って、憎んで、復讐するって決めました。でも、いざ銃を持ったら、関係ない人を殺せない。そんなの、甘いんですか。弱いんですか。私は、何もできない子どものままなんですか」

    院長は、しばらく私を見ていた。

    そして、言った。

    「被害者であることと、無力であることは、同じではありません」

    私は唇を噛んだ。

    「君が撃たないことを選ぶなら、それは無力ではない。選択です」

    「でも、逃げてるだけかもしれない」

    「逃げることも、時には選択です」

    「そんな綺麗事」

    「ええ。綺麗事です」

    院長はあっさり言った。

    「ですが、医者は綺麗事を捨てたら終わりです。助からないかもしれない命を前に、それでも助けると言い続ける仕事ですから」

    その言葉が、胸の奥に落ちた。

    殺し屋も同じなのだろうか。

    殺してはいけないかもしれない命を前に、それでも殺すと言い続ける仕事なのか。

    だとしたら、そんな仕事に、私は本当に就きたいのだろうか。

    「……日向」

    背後から、すすむ君の声がした。

    冷たい声だった。

    「迷うなら、撃つな」

    私は振り返らなかった。

    「だが撃たないなら、お前は一生、被害者のままだ」

    その言葉が、背中から刺さった。

    屈辱が、恐怖を上回った。

    「……何それ」

    私は低く言った。

    「私を煽ってるの?」

    「現場判断を促している」

    「最低」

    「そうだな」

    「私が撃てば満足?」

    「俺の満足は関係ない」

    「関係あるでしょ!」

    私は初めて振り返った。

    すすむ君は、無表情だった。
    でも、その目の奥に何かがあった。

    怒りか。
    痛みか。
    怖さか。

    分からない。

    「すすむ君は、私にどうなってほしいの?」

    声が震えた。

    「殺し屋になってほしいの? ならないでほしいの? 私に復讐されたいの? 許されたいの? どっちなの?」

    すすむ君は答えなかった。

    その沈黙が、何より腹立たしかった。

    「答えてよ」

    「現場で俺を見るな」

    すすむ君は言った。

    「ターゲットを見ろ」

    私は息を呑んだ。

    ターゲット。

    その言葉で、大門院長が「人」から「対象」に戻される。

    でも、戻らなかった。

    もう無理だった。

    大門院長は、私の中で、完全に人間になってしまっていた。

    嵌められていることを知っている人。
    逃げない人。
    死を怖いと言いながら、私を気遣う人。
    五年前に救えなかった命を、今も背負っている人。
    自分の資産を、子どもたちの医療のために残そうとしている人。

    殺してはいけない人。

    そう思った瞬間、銃口が重くなった。

    腕が下がりそうになる。

    でも、下げられない。

    下げたら、自分の怒りまで嘘になる気がした。
    すすむ君への復讐も、両親への思いも、全部が曖昧になってしまう気がした。

    「……大門院長」

    私は銃を向けたまま言った。

    「最後に、何か言いたいことはありますか」

    院長は、静かに机の上の手紙を見た。

    「そこに、職員宛てと、患者さんたち宛ての手紙があります。もし私が死んだら、事務長に渡してください」

    「……そんな準備まで」

    「ええ」

    「自分が殺される準備をしてたんですか」

    「死ぬ準備です」

    院長は訂正した。

    「殺されるか、病で倒れるか、老いて眠るか。形は違っても、準備しておくに越したことはありません」

    「淡々としすぎです」

    「取り乱せば、君は撃ちやすくなりますか」

    私は答えられなかった。

    院長は続けた。

    「私は、君を責めません」

    「やめてください」

    「君が撃っても、撃たなくても、私は君を責めません」

    「やめてって言ってるでしょ」

    「ただ、ひとつだけ」

    院長は私の目を見た。

    「撃つなら、私ではなく、君自身の理由で撃ちなさい。誰かに押された指で、人を殺してはいけない」

    視界が滲んだ。

    銃口が揺れる。

    指が、引き金にかかる。

    撃てば終わる。
    撃てば、私は殺し屋になれる。
    撃てば、すすむ君のいる場所に一歩近づける。
    撃てば、もう被害者ではないと証明できる。

    でも。

    この人を殺した瞬間、私は何になる?

    復讐者?
    加害者?
    会社員?
    正社員候補?

    それとも、ただの間違えた子ども?

    「……日向」

    すすむ君の声が、背後からもう一度響いた。

    「決めろ」

    私は歯を食いしばった。

    決めろ。
    決めろ。
    決めろ。

    殺す理由を探す。
    でも、見つからない。

    殺さない理由なら、目の前に座っている。

    その時だった。

    「あ、すみません。佐藤さん、日向さん。割り込み失礼します」

    インカムから、人事部長・九条の平坦な声が響いた。

    空気が、ひどく事務的に裂けた。

    「大門院長の件ですが、先ほど依頼者側が別件の贈賄容疑で現行犯逮捕されました」

    「……は?」

    私の声が漏れた。

    九条さんは、こちらの緊張などまるで意に介さず続ける。

    「依頼者である甥御さんが、院長の寄付手続きを妨害する目的で、財団関係者に不正な圧力をかけていた証拠が確保されました。加えて、医療ミスに関する証言の一部に捏造があったことも判明。よって依頼契約は自動的に無効、案件はキャンセルです」

    少し間があった。

    「あ、残業代は出ませんので、速やかに撤収してください」

    私は、銃を構えたまま固まっていた。

    何が起きたのか、理解が追いつかない。

    殺さなくていい。
    そう言われた。

    会社が、殺す理由を取り下げた。

    でも、それで私の中の何かが救われたかというと、違った。

    私が撃てなかった事実は、消えない。

    私が撃とうとした事実も、消えない。

    大門院長は、静かに息を吐いた。

    「そうですか」

    その声にも、驚きは少なかった。

    「……知ってたんですか」

    私は聞いた。

    院長は首を横に振った。

    「そこまでは。ただ、彼が焦っていたことは分かっていました」

    「じゃあ、あなたは本当に」

    「嵌められていたようですね」

    院長は、まるで他人事のように言った。

    その淡々とした声が、逆に胸に刺さった。

    「怒らないんですか」

    「怒っていますよ」

    「そう見えません」

    「怒りは、後で弁護士に渡します」

    「すごい大人の怒り方」

    「年の功です」

    院長は、少しだけ笑った。

    私はようやく、銃を下ろした。

    腕が鉛みたいに重かった。
    全身から力が抜けて、その場に座り込みそうになる。

    すすむ君が、後ろから私の肩を支えた。

    「……触らないで」

    「倒れるな。報告書が増える」

    「最低」

    「そうだな」

    それでも、私はその手を振り払えなかった。

    大門院長は、机の上の手紙を一通、私に差し出した。

    「日向さん」

    初めて、名前を呼ばれた。

    「これは、あなたに」

    「私に?」

    「先ほど、君と話していて、少し書き足しました。読まなくても構いません。捨てても構いません」

    私は戸惑いながら受け取った。

    封筒には、丁寧な字で「日向叶さんへ」と書かれていた。

    「……どうして」

    「医者の悪い癖です」

    院長は言った。

    「苦しそうな人を見ると、何か処方したくなる」

    「私、患者じゃないです」

    「そうですね」

    院長は穏やかに頷いた。

    「でも、傷ついている」

    その一言で、私は何も言えなくなった。

    すすむ君が、静かに頭を下げた。

    「大門院長。失礼しました」

    「佐藤さん」

    院長は、すすむ君を見た。

    「この子を、あまり急がせない方がいい」

    すすむ君は答えなかった。

    院長は続ける。

    「人は、誰かを殺すことで大人になるわけではありません」

    「……」

    「誰かを殺さずに済んだ夜を、どう抱えて生きるか。その方が、ずっと難しいこともあります」

    すすむ君は、ほんの少しだけ目を伏せた。

    「肝に銘じます」

    「そうしてください」

    院長は椅子に座ったまま、私たちを見送った。

    院長室を出る直前、私は振り返った。

    「……大門院長」

    「はい」

    「私、撃てませんでした」

    言わなくてもいいことだった。
    でも、言わずにはいられなかった。

    院長は、静かに首を振った。

    「撃たなかったんです」

    「同じじゃないですか」

    「違います」

    院長は、はっきり言った。

    「君は、まだその違いが分からないだけです」

    私は、封筒を握りしめた。

    廊下に出ると、病院の白い光がやけに眩しかった。

    来た時と同じように、看護師が走り、患者が眠り、ナースコールが鳴っている。
    世界は続いている。

    大門院長が生きていても。
    私が撃てなくても。
    すすむ君が黙っていても。

    病院は、誰かを生かすために動き続けていた。

    私は、急にその場にしゃがみ込みたくなった。

    「歩けるか」

    すすむ君が聞いた。

    「歩ける」

    「嘘だな」

    「嘘でも歩く」

    「そうか」

    すすむ君は、それ以上何も言わなかった。

    帰りの車の中で、私は封筒を開けなかった。

    膝の上に置いたまま、ただ見つめていた。

    「……ねえ」

    「なんだ」

    「九条さんの連絡がなかったら、私、どうしてたと思う?」

    すすむ君は、前を見たまま言った。

    「撃たなかった」

    「なんで分かるの」

    「お前の指が、最後まで引き金を嫌がっていた」

    「見てたの」

    「メンターだからな」

    「じゃあ、止めてよ」

    「止めたら、お前は俺を恨む」

    「今も恨んでるよ」

    「そうだな」

    車は夜の道を進んでいく。

    街灯が、フロントガラスの上を規則的に流れた。

    「……私、殺し屋に向いてないのかな」

    自分でも、情けない声だと思った。

    「復讐したい相手がいるのに、他人は殺せないなんて。木島の時は、吐いた。大門院長の時は、撃てなかった。私、何がしたいんだろう」

    すすむ君は、しばらく黙っていた。

    それから言った。

    「お前は、殺したい相手を間違えていないだけだ」

    「どういう意味」

    「誰でもいいから殺したいわけじゃないんだろ」

    「当たり前じゃん」

    「なら、それでいい」

    「よくないよ。会社員としては最悪でしょ」

    「会社員としてはな」

    「殺し屋としてもじゃない?」

    「殺し屋としては、まだ分からん」

    「どういうこと」

    すすむ君は、赤信号で車を止めた。

    「撃たない判断は、撃つ判断より難しい時がある」

    「それ、慰め?」

    「違う。事実だ」

    「でも、私は九条さんの連絡に救われただけだよ。自分で決められなかった」

    「そうだな」

    「そこは否定してよ」

    「できない」

    「ひどい」

    「だが、今日のお前は、殺す理由がないことに気づいていた」

    「……うん」

    「それで十分だ」

    十分。

    その言葉が、少しだけ胸に残った。

    十分なはずがない。
    でも、今の私には、その少しだけが必要だった。

    その夜の食卓も、当然のようにTKGだった。

    炊きたてのご飯。
    生卵。
    醤油差し。
    二つの茶碗。

    昨日と同じはずなのに、今日は違って見えた。

    昨日は、人を殺した後のTKGだった。
    今日は、人を殺さなかった後のTKGだ。

    どちらも、重い。

    私は卵を割った。

    殻が少し歪に割れ、白身が手についた。

    「……最悪」

    「手を洗え」

    「分かってる」

    私は台所で手を洗い、戻ってきた。

    茶碗の中で、黄身がぷるんと揺れている。
    壊れやすいのに、妙に堂々としている。

    「……ねえ、すすむ君」

    「なんだ」

    「私、結局撃てなかった」

    「ああ」

    「九条さんの連絡がなくても、きっと撃てなかった」

    「ああ」

    「復讐したい相手がいるのに、他人は殺せないなんて、私、殺し屋に向いてないのかな」

    すすむ君は、自分のTKGに醤油を二滴落とした。

    「向いてるやつなんて、この世に一人もいねえよ」

    「それ、昨日も聞いた」

    「何度でも言う」

    すすむ君は箸で黄身を崩した。

    「九条さんだって、昔はターゲットを逃してトイレで泣いてたって噂だ」

    「えっ、あの鉄仮面が?」

    「ああ。今は『泣くのは時間の無駄、タイパが悪い』とか言ってるがな」

    「絶対、強がりじゃん」

    「人事部長は、強がりが仕事みたいなところがある」

    少しだけ笑いそうになった。

    でも、笑う前に、院長の声が戻ってきた。

    君は、撃てなかったのではなく、撃たなかったんです。

    「……撃てなかったのと、撃たなかったのって、違うのかな」

    私は呟いた。

    すすむ君の箸が止まった。

    「大門院長に言われたのか」

    「うん」

    「いい医者だな」

    「うん」

    「殺さなくてよかったな」

    その一言で、胸の奥が熱くなった。

    「……すすむ君が、それ言うんだ」

    「言う」

    「殺し屋なのに」

    「殺し屋だからだ」

    すすむ君は静かに言った。

    「殺してから、殺さなくてよかったとは言えない」

    私は何も言えなかった。

    すすむ君は、大きく一口、TKGを食べた。

    「お前が今日撃てなかったのは、お前に良心があるからだけじゃない」

    「だけじゃない?」

    「責任を負う覚悟が足りなかった」

    「やっぱり厳しい」

    「だが、それでよかった」

    「どっちなの」

    「両方だ」

    すすむ君は茶碗を置いた。

    「人を殺すってのは、その人の人生を全部、自分の履歴書に書き加えるってことだ。今日のお前は、大門院長の人生を背負う準備ができていなかった。だから撃たなかった」

    「……重い。重すぎるよ、その履歴書」

    「だから、飯ぐらいは軽くするんだ」

    すすむ君は、TKGを指した。

    「このTKGみたいにな」

    「軽くないよ。今日のTKG、めちゃくちゃ重いよ」

    「そうか」

    「うん」

    「なら、よく噛んで食え」

    その言い方が、妙に父親みたいで、腹が立った。

    でも私は、言われた通り、よく噛んで食べた。

    卵の味。
    醤油の匂い。
    白米の甘さ。

    今日、私は人を殺さなかった。
    でも、何もなかったわけじゃない。

    撃とうとした。
    撃てなかった。
    撃たなかった。
    救われた。
    傷ついた。
    そして、まだここでご飯を食べている。

    「……ねえ。明日の朝も、TKG?」

    私は聞いた。

    すすむ君は少し考えた。

    「いや、明日は有給を取った」

    「殺し屋にも有給あるんだ」

    「会社員だからな」

    「またそれ」

    「たまには、パンでも食いに行くか」

    「パン?」

    「大門院長を殺さなかった祝いだ」

    「祝いって言い方、どうなの」

    「じゃあ、反省会」

    「それも嫌」

    「メンタルケア」

    「会社っぽくてもっと嫌」

    すすむ君は少しだけ笑った。

    「じゃあ、朝飯だ」

    私は、茶碗の中の最後の一口を見つめた。

    黄金色のご飯。
    命の味。
    殺さなかった夜の味。

    「……うん。朝飯なら、いい」

    私はそれを口に運んだ。

    うまく飲み込むには、まだ少し時間がかかった。

    第6章 有給休暇と、隠し味の真実

    「有給取ってまで、なんでパン屋の行列に並んでるのよ」

    私は、西新宿のオフィス街から少し離れた、閑静な住宅街にあるベーカリーの列にいた。

    時刻は午前九時過ぎ。
    平日だというのに、店の前にはすでに二十人近い行列ができている。

    ベビーカーを押した若い母親。
    犬の散歩ついでらしい老夫婦。
    ノートパソコンを抱えたフリーランス風の男性。

    そして、その中に混ざる、殺し屋と殺し屋見習い。

    いや、親子と言うべきなのか。
    仇同士と言うべきなのか。
    会社的にはメンターと新人。
    戸籍上は保護者と娘。
    感情的には、まだ名前のつかない何か。

    「昨日、お前が『朝飯ならいい』と言った」

    すすむ君は、休日のパパのような、あまりにも自然な私服姿でスマホをいじっている。

    ベージュのジャケット。
    黒いスニーカー。
    少し寝癖の残った髪。

    普通だ。

    腹立たしいほど普通だ。

    「私はパン屋とは言ってない」

    「たまには小麦粉も摂取しないとな。TKGばかりだと、脳が鶏になる」

    「ならないよ」

    「分からんぞ。最近、俺は夢の中で卵を割っている」

    「病院行ったら?」

    「昨日行った」

    「殺しにね」

    言ってから、自分で少しだけ黙った。

    冗談のつもりだった。
    でも、昨日の病院の白い廊下が、急に目の前に戻ってきた。

    消毒液の匂い。
    遠くで鳴るナースコール。
    白衣を着た自分の嘘くささ。
    院長室の扉。
    机の上の手紙。
    そして、銃口の向こうで静かに座っていた大門院長。

    私は、少しだけ指先を握った。

    まだ、重みが残っている。

    銃を持った時の重み。
    引き金に指をかけた時の冷たさ。
    撃てなかった自分。
    いや。

    「撃てなかった」ではなく、「撃たなかった」自分。

    院長は、そう言った。

    君は、撃てなかったのではなく、撃たなかったんです。

    あの言葉が、昨日からずっと胸の中にある。

    優しい言葉のはずなのに、簡単に救ってはくれない。
    むしろ、私に責任を戻してくる。

    撃たなかったのなら、それは私の選択だ。
    でも私は、本当に選んだのだろうか。
    九条さんの連絡に救われただけではないのか。
    会社が契約を無効にしてくれたから、たまたま人殺しにならずに済んだだけではないのか。

    そう思うたびに、院長のもう一つの言葉が蘇る。

    誰かに押された指で、人を殺してはいけない。

    あの時、私の指は、誰に押されていたのだろう。

    会社。
    すすむ君。
    復讐心。
    十八歳の誕生日に壊された怒り。
    両親を殺された悲しみ。
    自分が被害者のままでいることへの屈辱。

    その全部に押されて、私は銃を向けていた。

    「……日向」

    すすむ君が言った。

    「顔が暗い」

    「そりゃ暗いでしょ」

    「パン屋の前でその顔は営業妨害だ」

    「私のメンタルよりパン屋の売上を心配するな」

    「この店は繊細なんだ。客の沈痛な表情でクロワッサンの層が乱れる」

    「乱れないよ」

    「パン職人の魂は乱れるかもしれない」

    「殺し屋がパン職人の魂を心配してるの、だいぶ意味分からない」

    「仕事人には敬意を払う」

    すすむ君はそう言いながらも、視線だけは時折、周囲を冷静に確認していた。

    店のガラスに映る背後の人影。
    通り過ぎる自転車の速度。
    停車中の赤い車。
    ビルの二階の窓。
    公園側の植え込み。

    休日の父親みたいな顔をしているのに、目だけが仕事をしている。

    「……ねえ。佐藤さん」

    私はあえて、外では苗字で呼んでみた。

    「なんだ、日向」

    すすむ君も、すぐに会社モードへ切り替える。

    「さっきから、あの赤い車、三回くらいあそこ通ったよね」

    「……気づいたか」

    すすむ君はスマホから目を離さずに言った。

    「ランクCの尾行だ。運転手の視線が、ミラー越しにこっちを捉えすぎている。アマチュアだな」

    「どうするの?」

    「放っておけ」

    「いいの?」

    「パンが売り切れる」

    「優先順位」

    「尾行は撒ける。焼きたてクロワッサンは戻らない」

    「名言みたいに言わないで」

    「人生には、命より優先すべきバターがある」

    「ないよ」

    「ある。お前はまだ若い」

    「殺し屋の人生訓、だいたい信用できない」

    列が少し進んだ。

    店の中から、焼き上がりを知らせる小さなベルの音が聞こえた。
    前に並んでいた老夫婦が、嬉しそうに顔を見合わせる。

    平和だ。

    ひどく平和だ。

    昨日、私は病院で人を殺そうとした。
    今日は、パン屋の列に並んでいる。
    その落差に、胃の奥がついていかない。

    「……昨日のことを考えているのか」

    すすむ君が、前を向いたまま言った。

    私は答えなかった。

    答えないことが、答えだった。

    「大門院長か」

    名前が出た瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。

    「……うん」

    小さく答えると、すすむ君は少しだけ黙った。

    「いい医者だった」

    「殺しに行った相手に、そういうこと言えるの?」

    「言える。いい医者だったからな」

    「じゃあ、なんで私に銃を向けさせたの」

    言葉が思ったより鋭く出た。

    すすむ君は、私を見なかった。

    「現場判断を学ばせるためだ」

    「便利な言葉だね、現場判断」

    「便利だから会社がよく使う」

    「会社じゃなくて、すすむ君の話をしてる」

    列がまた少し進む。

    すすむ君は、ゆっくり息を吐いた。

    「お前に、分からない相手を見せる必要があった」

    「分からない相手?」

    「木島は分かりやすかった。クズで、悪意があって、最後まで金の話をしていた。ああいう相手なら、新人でも『殺される側』として納得しやすい」

    「……うん」

    「だが、現場には分かりやすい相手ばかり来ない。嵌められた者もいる。悪人に仕立てられた者もいる。自分の罪を理解しながら、それでも殺されるほどではない者もいる」

    大門院長の顔が浮かんだ。

    自分が嵌められていることを理解していた人。
    甥の裏切りを察していた人。
    逃げなかった人。
    死ぬ準備をしていた人。
    なのに、最後まで私を責めなかった人。

    「……あの人、全然無防備だった」

    私は呟いた。

    「私たちが来るかもしれないって分かってたのに、護衛もつけてなかった。逃げてもいなかった。院長室で手紙を書いてた」

    「そうだな」

    「怖くないんですかって聞いたら、怖いですよって言った。でも、全然そう見えなかった」

    「医者は、怖い時ほど落ち着いて見せる訓練をすると言っていたな」

    「うん」

    「お前を患者扱いしていた」

    「……そう」

    私は唇を噛んだ。

    殺しに来た私を、あの人は患者みたいに見ていた。
    傷ついている人間として見ていた。

    私が銃を向けているのに。
    あの人は、私の指が誰かに押されていることを見抜いていた。

    「誰かに押された指で、人を殺してはいけない」

    小さく呟くと、すすむ君の視線がこちらに向いた。

    「院長に言われたのか」

    「うん」

    「重いな」

    「重いよ」

    「医者の言葉は、時々、弾より重い」

    「殺し屋が言うと説得力あるの嫌だ」

    すすむ君は、少しだけ目を伏せた。

    「……あの時、私の指を押してたのは、誰だと思う?」

    私は聞いた。

    すすむ君は、すぐには答えなかった。

    「会社」

    「うん」

    「依頼者」

    「うん」

    「お前自身の怒り」

    「うん」

    「そして、俺だろうな」

    私は黙った。

    すすむ君は、逃げなかった。

    「昨日、俺はお前を煽った」

    「うん」

    「迷うなら撃つな。だが撃たないなら、一生被害者のままだと言った」

    「うん」

    「半分は嘘だ」

    「半分?」

    「迷うなら撃つな、は本当だ」

    「被害者のまま、は?」

    「嘘だ」

    胸の奥が、少しだけ熱くなった。

    「……なんでそんな嘘ついたの」

    「お前に、自分で決めさせるためだ」

    「それ、教育じゃなくて脅迫じゃない?」

    「近い」

    「認めるな」

    「俺の教育は、だいたい間違っている」

    「本当にそうだよ」

    「だが、昨日のお前は、最後にターゲットを見ていた」

    「見てたよ」

    「俺ではなく」

    その言葉に、私は少しだけ黙った。

    昨日、すすむ君に問い詰めた。
    私にどうなってほしいのか。
    殺し屋になってほしいのか。
    ならないでほしいのか。
    復讐されたいのか。
    許されたいのか。

    でも、すすむ君は言った。

    現場で俺を見るな。
    ターゲットを見ろ。

    あの時は、突き放された気がした。
    でも今考えると、あれはたぶん、院長を「人」として見るための言葉でもあった。

    ターゲット。

    そう呼ばれた瞬間に、人は対象になる。
    でも、見続けていれば、対象はまた人間に戻る。

    昨日の大門院長は、私の中で完全に人間に戻ってしまった。

    だから、殺せなかった。

    いや。

    だから、撃たなかった。

    「……私、本当に撃たなかったのかな」

    私は言った。

    「九条さんの連絡があったから、撃たずに済んだだけじゃないのかな」

    「連絡がなくても、お前は撃たなかった」

    すすむ君は言った。

    「なんで分かるの」

    「指が嫌がっていた」

    「指?」

    「銃を向けている人間の指を見ると、だいたい分かる。撃ちたい指か、撃たされている指か」

    「私の指は?」

    「撃たされている指だった」

    院長と同じことを、別の言い方で言われた気がした。

    誰かに押された指。

    私は、自分の右手を見た。

    今は何も持っていない。
    銃もない。
    ただ、パンを待つために、コートの袖を握っているだけの手。

    それなのに、その指が少し震えて見えた。

    「……被害者であることと、無力であることは、同じではありません」

    また、院長の声が戻ってきた。

    私はそれを、そのまま口に出していた。

    すすむ君は黙って聞いていた。

    「私、それ言われた時、腹が立った」

    「なぜ」

    「だって、私は無力だったから」

    声が少し震えた。

    「実の両親を殺されて、何も知らずに十八年育てられて、誕生日に全部知らされて、怒ることしかできなくて。復讐するって言って、殺し屋会社に入って、でも大門院長を前にしたら撃てなくて。どこが無力じゃないのって思った」

    「……」

    「でも、院長は違うって言った。撃たなかったのは選択だって。逃げることも時には選択だって」

    「そうだな」

    「でも、それを認めちゃったら、私は私の選択に責任を持たなきゃいけない」

    すすむ君は、少しだけ私を見た。

    「そうだ」

    「私は、被害者でいる方が楽だったのかもしれない」

    その言葉は、自分で言っていて痛かった。

    「全部すすむ君のせいにして、会社のせいにして、依頼者のせいにして、私は巻き込まれただけですって顔していれば、何も選ばずに済む」

    「……日向」

    「でも、院長は、それを許してくれなかった」

    私は息を吐いた。

    「優しい顔して、すごく厳しいこと言う人だった」

    「いい医者だな」

    「うん」

    「殺さなくてよかったな」

    すすむ君が、ぽつりと言った。

    昨日の食卓でも言われた言葉だ。
    それでも、今日はまた違って聞こえた。

    殺さなくてよかった。

    その一言は、私を完全には救わない。
    でも、少しだけ呼吸をさせてくれる。

    「……すすむ君は」

    私は聞いた。

    「誰かに押された指で、人を殺したことある?」

    すすむ君は、列の先を見たまま答えなかった。

    ずいぶん長い沈黙だった。

    その沈黙だけで、答えは分かる気がした。

    「あるんだ」

    「ああ」

    「私の両親?」

    今度は、もっと長い沈黙だった。

    それから、すすむ君は言った。

    「そうだ」

    胸の奥が冷えた。

    「命令だったの?」

    「ああ」

    「組織に?」

    「ああ」

    「自分の意思じゃなかった?」

    すすむ君は、そこで初めて私を見た。

    「それは違う」

    「違う?」

    「命令だった。だが、引き金を引いたのは俺だ」

    その言い方は、逃げていなかった。

    「誰かに押された指だったとしても、最後に力を入れたのは自分だ。だから、俺はそれを自分の罪にしている」

    「……罪にしてる?」

    「そうしなければ、お前の前に立てない」

    「立たなくてよかったのに」

    「そうかもしれない」

    「私を育てなくてもよかったのに」

    「そうかもしれない」

    「なんで育てたの」

    すすむ君は、前を向いた。

    「それは、後で話す」

    「今じゃなくて?」

    「パンを買ってからだ」

    「なんで」

    「この話は、空腹で聞くと胃に悪い」

    「パンでどうにかなる重さなの?」

    「ならない。だが、何も食わないよりましだ」

    その時、店員さんが列の前方で声を上げた。

    「焼き立てのクロワッサン、ただいま追加で出ました」

    すすむ君の目が、ほんの少しだけ真剣になった。

    「行くぞ」

    「戦場みたいに言わないで」

    私たちはようやく店内に入った。

    木の棚に並ぶパンは、どれも黄金色に輝いていた。
    クロワッサン、バゲット、クリームパン、シナモンロール、ベーコンエピ。
    甘い香りと香ばしい匂いが、店内いっぱいに満ちている。

    私はクロワッサンと、小さなミルクパンを選んだ。
    すすむ君は迷わずクロワッサンを三つ取った。

    「食べすぎ」

    「一つは調査用だ」

    「何の?」

    「層の確認」

    「胃袋で?」

    「そうだ」

    会計を済ませ、私たちは近くの公園へ向かった。

    小さな噴水のある公園だった。
    鳩が地面をつつき、子どもが母親に手を引かれて歩いている。

    ベンチに座ると、紙袋の中から湯気とバターの香りが立ち上った。

    すすむ君は、クロワッサンをひとつ私に渡した。

    「食え」

    「いただきます」

    一口かじる。

    薄い生地が、ぱり、と崩れた。
    バターの香りが口いっぱいに広がる。
    中はしっとりしていて、外側は軽い。

    「……おいしい」

    思わず言ってしまった。

    すすむ君は、少しだけ得意そうな顔をした。

    「だろ。この店のクロワッサンは、層が均一で、バターの配合が完璧なんだ」

    「なんでそんな詳しいの」

    「昔、張り込みで三日通った」

    「その情報、急に美味しくなくなる」

    「ターゲットは逃したが、クロワッサンは覚えた」

    「殺し屋としてどうなの」

    「パン好きとしては成功だ」

    すすむ君はコーヒーを一口すすった。

    それから、何気ない声で言った。

    「……お前の親父さんも、こういう味が好きだった」

    不意に投げ込まれた過去に、私はクロワッサンを口に含んだまま固まった。

    「……知ってたの?」

    「何を」

    「私の両親のこと。好みとか、そういうの」

    「ああ」

    すすむ君は、噴水の向こうを見つめた。

    「お前の父親は、クロワッサンだけはよく食っていた。お前の母親は、バゲットを買うたびに『これは武器にもなる』と言っていた」

    「何その母親」

    「実際、強かった」

    「パンで?」

    「パン以外でも」

    笑っていいのか分からなかった。

    両親の話を、私はほとんど知らない。
    写真でしか知らない。
    事故で死んだと聞かされていたから、思い出と呼べるものはない。

    なのに、すすむ君の中には、私の知らない両親がいる。

    そのことが、悔しい。

    「……話してよ」

    私は言った。

    「私の両親のこと」

    すすむ君は、少し困ったように私を見た。

    「聞きたいのか」

    「聞きたいに決まってるでしょ」

    「俺から聞くのは、嫌じゃないのか」

    「嫌だよ」

    私は即答した。

    「めちゃくちゃ嫌。でも、知らないままなのはもっと嫌」

    すすむ君は、クロワッサンを膝の上に置いた。

    「俺たちは、かつて同じ組織の別部門にいた」

    彼の声は、いつもよりゆっくりだった。

    「お前の両親は、情報の収集。俺は、情報の抹消。つまり、出口の掃除屋だ」

    「掃除屋」

    「汚れた言葉だが、実態はもっと汚い」

    すすむ君は、コーヒーのカップを両手で包んだ。

    「お前の父親は、頭が切れた。人の嘘を見抜くのが上手かった。相手の話を聞きながら、相手が隠しているものを一つずつ抜き取っていく。だが、普段は抜けていた。鍵をなくす。財布を忘れる。なのに、他人の隠し金庫の場所は一発で当てる」

    「変な人」

    「ああ。変な人だった」

    すすむ君は少しだけ笑った。

    「お前の母親は、逆だ。日常では完璧だった。時間に正確で、服に皺ひとつなく、料理も上手い。だが仕事になると、平気で予定外のことをする。上からの指示より、自分の勘を信じる人だった」

    「……私、どっちに似てる?」

    すすむ君は、私を見た。

    「面倒なところは、両方に似てる」

    「そこは良いところを言いなさいよ」

    「怒ると早口になるところは母親。理屈で追い詰めようとして途中で感情が勝つところは父親」

    「良いところは?」

    「……飯を食う時の顔は、父親に似てる」

    私は手元のクロワッサンを見た。

    急に、胸が苦しくなった。

    私の中に、ちゃんと両親の欠片がある。
    そのことを教えてくれるのが、両親を殺した男だなんて。

    世界は、悪趣味にもほどがある。

    「……それで」

    私は言った。

    「どうして殺したの」

    すすむ君の表情から、少しだけ柔らかさが消えた。

    「組織が分裂した」

    噴水の水音が、遠く聞こえた。

    「お前の両親は、新しい派閥に移ろうとしていた。理由は、組織が子どもを利用し始めたからだ」

    「子ども?」

    「ああ」

    すすむ君の声が低くなる。

    「身元のない子ども、親を失った子ども、戸籍の薄い子ども。そういう子を集めて、訓練し、使う計画があった。お前の両親は、それを潰そうとしていた」

    私は息を止めた。

    「……それって」

    「お前も、対象だった」

    世界の音が、一瞬遠のいた。

    公園で遊ぶ子どもの声。
    犬の鳴き声。
    紙袋の擦れる音。
    全部が、薄い膜の向こう側に行った。

    「お前の存在は、組織に知られていた。情報部門の優秀な二人の子ども。使い道はいくらでもあると見られていた」

    「じゃあ、両親は」

    「お前を逃がそうとした」

    すすむ君は言った。

    「機密を持ち出したのは、自分たちのためじゃない。組織のリストを破壊し、お前の存在を消すためだった」

    「でも、すすむ君は殺した」

    「ああ」

    即答だった。

    言い訳をしない即答。

    それが、少しだけ苦しかった。

    「俺は命令を受けた。裏切り者を処理しろ、と。あの時の俺は、組織に忠実であることだけが、自分の価値だと思っていた。疑わなかった。疑ったら、自分が壊れると思っていた」

    「それで、殺したの?」

    「そうだ」

    「事故に見せかけて?」

    「そうだ」

    「私の前で?」

    すすむ君の目が、初めて揺れた。

    「お前は、後部座席で眠っていた」

    私は、自分の膝を握りしめた。

    指先が冷たい。

    「……覚えてない」

    「覚えてなくていい」

    「勝手に決めないで」

    「すまない」

    「謝らないで」

    「……すまない」

    「だから謝るなって」

    どうしてだろう。

    怒りたいのに、涙が出そうだった。
    殺したことを責めたい。
    でも、その前に、知らなかった両親の輪郭が急に現れて、胸の中をいっぱいにしてしまった。

    すすむ君は続けた。

    「あの時、お前の両親は、死ぬ間際に笑った」

    私の胸が、ドクンと跳ねた。

    「笑った……?」

    「ああ」

    すすむ君は、遠くの噴水を見ていた。

    「お前の父親が言った。『これで、この子は自由に生きられる』と」

    私は息を呑んだ。

    「お前の母親は、俺に言った。『この子をリストから消して。どんな形でもいい。生かして』と」

    「……それで?」

    「俺は、契約した」

    「契約」

    「そうだ。お前の存在を組織から消すこと。十八歳まで育てること。十八歳になった時、真実を話すこと。そして、お前がこちら側に来ることを選んだ場合、生き延びる術を教えること」

    クロワッサンのバターの香りが、急に吐き気を催すほど重くなった。

    「……業務委託契約ってこと?」

    「そうだ」

    「私の人生が?」

    「そうだ」

    「十八年間?」

    「そうだ」

    私は笑った。

    笑ったつもりだった。
    でも、たぶん、ちゃんと笑えていなかった。

    「ずるいよ。そんなの」

    声が震えた。

    「じゃあ、私を愛してたから育てたんじゃなくて、仕事だったってこと?」

    すすむ君は、すぐには答えなかった。

    その沈黙が、答えを探しているように見えて、余計に腹が立った。

    「ねえ、答えてよ」

    「最初は、仕事だった」

    その言葉は、思ったより静かに落ちた。

    「最初は?」

    「ああ」

    「じゃあ、途中からは?」

    すすむ君は、私を見なかった。

    「分からない」

    「分からないって何」

    「分からないんだ」

    「逃げないでよ」

    「逃げてない」

    「逃げてる」

    「日向」

    「私にとっては、十八年間全部だったんだよ」

    気づいたら、私は言っていた。

    「すすむ君が作ったご飯も、運動会に来たことも、熱を出した時に寝ないで看病してくれたことも、夜中にコンビニまでアイス買いに行ってくれたことも、誕生日のたびにTKG出してきたことも、全部、私にとっては家族だったんだよ」

    言葉が止まらない。

    「それを今さら、契約でした、仕事でした、って言われたら、私は何だったの? 業務対象? 保護案件? 長期プロジェクト? 十八年育成計画?」

    「違う」

    すすむ君の声が、少しだけ強くなった。

    「違うなら、何」

    「……娘だ」

    その一言で、私は黙った。

    すすむ君は、ようやく私を見た。

    「最初は、仕事だった。契約だった。そう思わなければ、お前を抱いて家に帰れなかった。俺には資格がなかったからだ。お前の親を殺した俺が、お前を育てるなんて、正気じゃない」

    「……うん」

    「だから、仕事だと思うことにした。契約だと思うことにした。そうすれば、飯を作る理由ができる。学校に通わせる理由ができる。熱を出したお前の隣にいる理由ができる」

    「理由がないと、いてくれなかったの?」

    「理由がないと、俺が耐えられなかった」

    風が吹いた。

    紙袋が、カサリと音を立てる。

    「でも、いつからか、理由は後からついてくるようになった」

    すすむ君は言った。

    「朝、起きたらお前がいる。腹が減ったと言う。宿題を忘れたと言う。友だちと喧嘩したと言う。カツ丼が食べたいと言う。誕生日の朝にTKGを見て毎年文句を言う」

    「文句は言うでしょ」

    「ああ」

    すすむ君は少しだけ笑った。

    「そのうち、契約だから育てているのか、育てたいから契約を守っているのか、分からなくなった」

    「それ、答えになってない」

    「俺の中では、これが一番正確な答えだ」

    私は、目の奥が熱くなるのを必死に堪えた。

    ずるい。

    本当にずるい。

    はっきり「愛している」と言えばいいのに。
    いや、言われたら言われたで腹が立つのに。
    でも、分からないなんて言われたら、こっちまで分からなくなる。

    「……院長先生が言ってた」

    私はぽつりと言った。

    「被害者であることと、無力であることは、同じではないって」

    すすむ君は黙って聞いていた。

    「私、まだその意味、ちゃんとは分からない」

    「そうか」

    「でも、少なくとも昨日、私は大門院長を撃たなかった」

    「ああ」

    「撃てなかったんじゃなくて、撃たなかった。……そう思うことにする」

    「それでいい」

    「いいの?」

    「最初は、そう思うところからでいい」

    私は、すすむ君を見た。

    「じゃあ、私がすすむ君を殺さないって選んだら?」

    すすむ君は、一瞬だけ目を伏せた。

    「その時は、その選択を背負え」

    「殺したら?」

    「それも背負え」

    「どっちも重い」

    「ああ」

    「親なら、軽い方を用意してよ」

    「すまん。重いものしか残せなかった」

    その言い方が、あまりに不器用で、あまりにすすむ君らしくて、私は少しだけ笑ってしまった。

    笑った直後に、腹が立った。

    どうして笑えるのだろう。
    どうしてまだ、この人の隣でパンを食べていられるのだろう。

    私の悲劇は、どうしていちいち喜劇みたいな顔をして割り込んでくるのだろう。

    その時、すすむ君のスマホが鳴った。

    画面を見る前に、すすむ君の顔がわずかに変わった。

    「九条さん?」

    「ああ」

    「休日に上司から連絡って、やだね」

    「殺し屋でなくても嫌だ」

    すすむ君は通話ではなく、メールを開いた。

    その表情が、読むにつれて静かになっていく。

    「何?」

    「一斉送信だ」

    すすむ君はスマホを私に向けた。

    そこには、九条部長らしい、感情の抜けた文章が表示されていた。

    『緊急連絡。日向叶、佐藤進。最終実技試験の準備が整いました。場所は明日、自宅にて。日向さん、これがあなたの正社員登用試験です。佐藤さんを、公式に抹消してください。以上』

    パン屋の袋が、私の膝から滑り落ちた。

    カサリ、と乾いた音がした。

    「……何これ」

    声がうまく出なかった。

    「正社員登用試験だ」

    「読めば分かるよ」

    「なら聞くな」

    「そういうことじゃない!」

    公園の空気が、一瞬で変わった。

    さっきまで、バターの匂いと噴水の音があった場所に、急に銃口が現れたみたいだった。

    「公式に抹消って、どういうこと」

    「会社として、俺をターゲットに設定したということだ」

    「なんで」

    「お前の最終試験にちょうどいいからだろう」

    「ちょうどよくない!」

    通行人がこちらを見た。
    私は声を落とした。

    「何それ。私がすすむ君を殺したいって言ったから? だから会社が用意したの?」

    「おそらくな」

    「ふざけないでよ」

    怒りなのか、恐怖なのか、分からないものが込み上げてくる。

    「私は、すすむ君を殺したい。でも、会社に『はいどうぞ』って用意されるのは違う。私の復讐まで、業務にしないでよ」

    すすむ君は、スマホをしまった。

    「日向」

    「何」

    「明日、お前は選ぶことになる」

    「またそれ?」

    「そうだ」

    「撃つか、撃たないか?」

    「ああ」

    「昨日も選ばされたんだけど」

    「人生は選択の連続だ」

    「殺し屋会社の研修、選択肢が重すぎる!」

    すすむ君は、落ちた紙袋を拾った。
    中のクロワッサンは少し潰れていた。

    「……帰るぞ」

    「パンは?」

    「持って帰る」

    「こんな時に?」

    「こんな時だからだ」

    すすむ君は、潰れたクロワッサンを見て言った。

    「明日の朝、食えるか分からないからな」

    その言葉に、胸が冷たくなった。

    明日の朝。

    自宅。

    正社員登用試験。

    佐藤進を、公式に抹消してください。

    つまり、私は明日、すすむ君を殺すかもしれない。
    すすむ君は明日、私に殺されるつもりかもしれない。

    「……ねえ」

    「なんだ」

    「すすむ君は、どうしてそんなに普通にしてるの?」

    「普通じゃない」

    「普通に見える」

    「そう見せてる」

    「なんで」

    すすむ君は、少しだけ困った顔をした。

    「お前が怖がるから」

    その一言で、私はまた何も言えなくなった。

    腹立たしい。
    ずるい。
    最低。
    人殺し。
    詐欺師。
    仇。
    父親。

    どの言葉も、今のすすむ君をひとつにできない。

    私は、院長の言葉を思い出した。

    誰かに押された指で、人を殺してはいけない。

    明日、私の指を押すのは誰だろう。

    会社か。
    九条さんか。
    すすむ君か。
    死んだ両親か。
    十八年間の嘘か。
    それとも、私自身か。

    有給休暇は、たった数時間で終わった。

    帰り道、赤い車はもうついてこなかった。
    尾行を撒いたのか、最初からどうでもよかったのか、私には分からない。

    ただ、紙袋の中のクロワッサンだけが、少し潰れたまま、膝の上で温かかった。

    私の十八歳、最大の喜劇が、ついにクライマックスを迎えようとしていた。


    最終章 卒業試験、あるいは「最良の契約」

    翌朝。我が家のダイニングテーブルは、かつてない緊張感に包まれていた。 いつものように、炊きたてのご飯と生卵。 だが、その横には、LTCLから支給された二挺の銃が置かれている。

    「……日向。準備はいいか」
    すすむ君は、いつになく真剣な、でもどこか晴れやかな顔で私を見た。

    「九条さんからは、通信が入っている。お前が俺を殺せば、お前は晴れて正社員だ。俺の遺産と、組織内での地位、そして『両親の仇を討った』という完璧な履歴書が手に入る」

    「……それ、本気で言ってる?」
    私は銃を手に取り、銃口をゆっくりとすすむ君の眉間に向けた。

    「ああ。これが俺の、最後の仕事(OJT)だ」

    すすむ君は目を閉じた。 十八年間、私を育て、守り、そして欺き続けてきた男。 引き金を引けば、すべては終わる。私の「悲劇」は、そこで完成するはずだった。

    「……ふぅ」
    私は深く息を吐き、銃をテーブルに置いた。 カツン、と乾いた音が響く。

    「……日向? なぜ撃たない」
    目を開けたすすむ君が、困惑したように眉を寄せた。

    「やめた。殺すなんて、タイパが悪すぎるわ」

    私は、自分のTKGを手に取り、勢いよくかき混ぜ始めた。

    「いい、すすむ君。よく聞いて。私はあんたを殺さない。その代わり、新しい『契約』を提案するわ」

    「……契約?」

    「そう。復讐の形を変えるの。あんたを殺して楽にしてあげるなんて、そんなの生ぬるい。あんたには、これから一生、私のそばで『加害者』として生き続けてもらうわ」

    私は、黄金色に輝くTKGをご飯にかけ、醤油を二滴落とした。

    「刑期は、あんたが死ぬまで。……あ、もちろん、死ぬ時は私の許可制ね。勝手に寿命で逝くのもコンプラ違反だから」

    インカムから、九条部長の絶句する気配が伝わってきた。

    「日向さん。それは、採用試験の要件を満たして……」

    「うるさいわね、九条さん! 現場の判断だって言ったのは、そっちでしょ! 私は『佐藤進』というベテラン戦力を永久に私物化することで、御社の利益を最大化するって言ってるの。文句ある?」

    通信が、ブツリと切れた。……呆れて許可したのか、あるいは面白いと判断したのか。

    私は、呆然としているすすむ君に、スプーンを突きつけた。

    「いい? これが私の復讐。……今後は、毎日、朝はTKGね。あんたが嫌いな、この味気ない贖罪の味を、一生私と一緒に噛み締めなさい」

    すすむ君は、しばらくの間、私とTKGを交互に見ていたが、やがて、ふっと肩の力を抜いた。

    「……高くつくぞ。俺の残業代は」

    「全額、私の口座に振り込みなさいよ。……お父さん」

    十八歳の誕生日に始まった私の「悲劇」は、こうして、どこにでもある、けれど世界で一番物騒な「喜劇」へと書き換えられた。

    窓の外では、今日も西新宿の空が、お構いなしに青く広がっている。 私は、少しだけしょっぱいTKGを口に運んだ。 うまく飲み込めなかったあの日の朝とは違う。 今日の卵は、驚くほど、あたたかかった。

    エピローグ:本採用の朝

    「……ねえ。これ、何?」

    正式にLTCLの社員となって一週間。 私の目の前には、見慣れたはずの白いご飯と、見慣れない「金粉」が散らされた卵が置いてあった。

    「ブランド卵『極(きわみ)』だ。一個五百円する。それと、トリュフ入りの醤油。……お前の言う通り、これからは毎朝TKGだからな。Q1(第一四半期)の経費を少し回した」

    「……経費で高級TKG食べようとするの、やめてくれない? 九条部長にまたチクられるわよ」

    私は呆れながらも、その贅沢な卵を割り、丁寧にかき混ぜた。 すすむ君は、どこか居心地が悪そうに、自分の分の「いつもの安い卵」を啜っている。

    「……日向」

    「なによ、佐藤さん」

    「……お前の実の両親が、最後に俺に言ったこと、もう一つあったんだ」

    箸を止めて顔を上げると、すすむ君は珍しく私と目を合わせた。

    「『もしこの子が殺し屋になったら、一番いい卵を食わせてやってくれ』だと。……あいつら、親バカだったからな。お前がどんな道を選んでも、結局は甘やかすつもりだったんだろう」

    私は、金粉の浮いた卵かけご飯を一口食べた。 味は、驚くほど濃厚で、そして鼻の奥がツンとするほど切なかった。

    「……ふーん。じゃあ、明日はエシレバターのTKGね。一番高いやつ」

    「……検討しておこう」

    その時、二人のスマホが同時に震えた。 LTCLの専用アプリからの通知。新しい案件(オーダー)だ。

    『ターゲット:闇金業者の幹部。場所:歌舞伎町。担当:佐藤・日向。……なお、本案件より日向社員はOJTを卒業し、正規の歩合給が発生します。期待しています。人事部』

    「……行くか。初任給、稼ぎに」
    すすむ君が、ナイロンジャケットを羽織りながら立ち上がる。

    「いいわよ。でも、私の分の弾代は、あんたのポケットマネーから出しなさいよね。復讐の一環として」

    「……鬼上司だな、お前は」

    私は、空になった茶碗をシンクに置き、鏡の前で表情を「プロ」のそれに切り替えた。 人生は、近くで見れば悲劇。 けれど、隣に不器用な加害者がいて、手元に美味しいご飯があるのなら。 それは案外、悪くない喜劇なのかもしれない。

    「さあ、仕事よ。……お父さん」

    玄関のドアが開く。 冷たい風が吹き込む部屋に、炊きたてのご飯の匂いだけが、優しく取り残されていた。

    事後レポート:人事部長・九条の「深夜の査定」

    西新宿、LTCL株式会社・本社ビル。
    時刻は午後十一時を回り、フロアの明かりは人事部長室を除いてすべて消えていた。

    「……やれやれ。これだから身内枠は」銀縁メガネを指先で押し上げ、九条はタブレット端末に表示された二通の『事後報告書』を交互にスクロールした。

    一通目は、ベテラン社員・佐藤進(すすむ)のもの。
    相変わらず、記述が古い。
    『ターゲットの最期に、かつての戦友の面影を見た』だの、『命の灯火が消える瞬間、静寂が訪れた』だの。
    「ポエムを書いてる暇があったら、使用した弾薬のシリアルナンバーを昇順で並べろと言っているんだがな、彼には」
    九条は溜息をつき、佐藤の評価欄に「情緒過多。事務処理能力の改善を要する」と打ち込んだ。

    そして二通目。新入社員・日向叶(ひなた・かなえ)のもの。
    こちらは、恐ろしいほどに完璧だった。
    現場への侵入経路、監視カメラの死角、ターゲットの心理的誘導。すべてが論理的で、無駄がない。
    だが、最後の一行にこう記されていた。

    『特記事項:指導係(佐藤進)の精神的動揺を確認。復讐の継続を目的とし、同氏の給与から「精神的慰謝料」として30%を天引きする契約を締結した。なお、本件に伴う経費として、ブランド卵「極」の購入費を請求する』

    「……経費で卵を買うなと言ったはずだが」

    九条は、その請求書(レシート)の画像データをじっと見つめた。
    五百円の卵。トリュフ入りの醤油。
    明らかに「殺し屋の業務」とは無関係な、ただの食卓の風景。

    九条の脳裏に、十八年前の光景が蘇った。
    血の匂いが染み付いたコートを着て、震える手で赤ん坊を抱え、組織の地下室に現れた若き日の佐藤。
    「この子は、俺が育てる。……文句があるなら、今ここで俺を殺せ」
    あの時、銃を突きつけ合っていたのは、他でもない九条自身だった。

    「……あの泣き虫だった佐藤が、まさか自分を殺そうとする娘と卵を囲むようになるとはな」

    九条は、ふっと口角を上げた。
    それは、部下たちが見れば「明日は誰かが消される」と震え上がるような冷徹な笑みではなく、どこか懐かしいものを見る、柔らかな微笑だった。

    彼はタブレットを操作し、叶の請求書に『承認』のスタンプを押した。
    ただし、但し書きを添えて。

    『承認。ただし、次回の報告書に「卵の味に関する詳細なレビュー」を添付すること。業務品質向上のための市場調査として扱う』

    「人生は、近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇……か」

    九条は、かつて自分がターゲットを逃してトイレで泣いていた時に、佐藤から投げつけられた言葉を思い出した。
    今では自分が「鉄仮面」と呼ばれ、彼らを査定する立場にいる。

    「……さて、私も帰るとするか。明日の朝食は、久しぶりに卵でも焼くとするかな」

    九条はコートを羽織り、独り言を呟きながら部屋の明かりを消した。
    暗闇に包まれたオフィスの中で、彼のデスクに残されたタブレットだけが、幸せそうな「TKG」のレシートを映し出し、静かに消えていった。

    (おわり)


     
     
    気づけば社会人30年。若者に説教しては反省し、でも翌日にはまた語ってしまう。 引退にはまだ早いけれど、書き留めるにはちょうどいい頃。 日々の中の小さな笑いや迷いを、ゆるく綴ってます。

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