
💡まなざしノート|スマホを持つ手を変えただけなのに
右利きの私は、
左手でスマホを持ち、右手で操作する。
これが習慣で、
夜も仰向けで同じようにスマホを操作する。
布団に入って、
天井を見ながら、なんとなくスマホを持つ。
特に目的があるわけでもなく、
ニュースを眺めたり、SNSを流し見したりする。
気づけば時間が経っている。
そんな時間の使い方を、
何の疑問もなく続けていた。
そんな生活を続けていると、
ある時から、
左の肩から頚部にかけて、張りやコリを感じるようになった。
強い痛みではない。
ただ、気になる。
動かしたときに引っかかるような感じ。
首を回したときに、少しだけ重い感じ。
普段あまり身体の不調を感じることはない。
だからこそ、
その違和感は、余計に気になった。
とりあえず、湿布を貼る。
僧帽筋、肩甲挙筋、それから棘上筋。
頭の中で筋肉の走行をなぞりながら、
「このあたりだろう」と場所を決める。
少しずれているかもしれないが、
それでも大きく外れてはいないはずだ。
そんなふうに考えながら貼る。
翌日には、楽になる。
「まあ、こんなものか」
そう思って、
また同じ生活に戻る。
しばらくすると、また違和感が出る。
湿布を貼る。
少し楽になる。
また繰り返す。
気づけば、
同じことを何度も繰り返していた。
いわゆる「湿布ループ」だ。
その場しのぎの対応をして、
原因には手をつけていない。
だから、結果も変わらない。
当たり前のことだ。
そこで、
スマホの持ち方を変えることにした。
右手でスマホを持ち、左手で操作する。
ただそれだけのこと。
単純な話だ。
簡単にできると思っていた。
でも、やってみると、
思っていたよりもずっと違和感があった。
まず、
右手でスマホを「持つ」ということが、
うまくできない。
利き手なのだから、
何も考えなくてもできるはずだと思っていた。
でも、どうにも安定しない。
指の位置がしっくりこない。
どこで支えるのか、
どの指に力を入れるのか、うまく決まらない。
左手でスマホを持っていたときには感じなかった
圧倒的な違和感。
それが、ずっと残る。
左手で持っていたときの感覚を思い出しながら、
何度も持ち替えてみる。
左手で持つ。
右手で持つ。
また左手。
そしてまた右手。
比べてみると、
違いがよく分かる。
左手では、
ほとんど考えなくても安定する。
でも右手では、
いちいち意識しないと同じようには持てない。
利き手のはずなのに、
なぜかうまくいかない。
少しずつ、
「それっぽい形」にはなってくる。
でも、
完全に同じにはならない。
どこかに、
違和感が残る。
次に感じたのは、
視線の違和感だった。
右手で持つようにしても、
視線はこれまでと同じように画面へ向かう。
画面の位置は変わっているのに、
視線の使い方はこれまでの癖が残っている。
そのせいか、
首や目のあたりに落ち着かなさが残る。
首の角度も、わずかに違う。
ほんの少しの違いなのに、
身体全体としては大きな違いになる。
そこで初めて、
自分がどんな姿勢でスマホを見ていたのか
意識するようになった。
少し顔を起こす。
少し画面を近づける。
腕の位置を変える。
一つひとつは小さな調整だ。
でも、
それを積み重ねることで、感覚が変わる。
これまで無意識でやっていたことを、
意識してやり直す。
それだけで、
こんなにも手間がかかるのかと思った。
電車のつり革を持つ位置や、
カバンを肩にかける側、
仕事中に組む足。
普段、
自分では気づいていない「いつもの使い方」が、
身体には積み重なっているのかもしれない。
人の身体は、
思っている以上に「慣れ」でできている。
そんなことを考えた。
こんなことを何日か繰り返した。
すると、
左肩から頚部にかけての張りやコリは、
明らかに軽くなっていた。
圧痛は少し残っている。
でも、
あの「気になる感じ」は、かなり減っていた。
単純な話だ。
負担のかかり方が変わっただけのこと。
それだけのことなのに、
実際にやってみると、
いろいろなことに気づかされる。
私は理学療法士だ。
運動連鎖も、筋膜のつながりも、姿勢が身体に与える影響も、
基本的なことは理解しているつもりだ。
だからこそ、
自分の不調に対して原因を考え、対応することはできた。
でも同時に、こうも思う。
知っているのに、
やっていなかった。
分かっているのに、
そのままにしていた。
それは、なぜだろうか。
スマホの持ち方を変える。
それだけのことでも、
実際にやってみると簡単ではない。
利き手なのに、うまく持てない。
見慣れているはずの画面なのに、
違和感がある。
頭では理解していることと、
身体が実際にできることは、思っている以上に違う。
こういうことは、
日常の中でもよくある。
姿勢が悪いと分かっているのに、直せない。
運動した方がいいと分かっているのに、続かない。
身体にいいことは知っているのに、習慣は変わらない。
分かっていることと、できることの間には、
少し距離がある。
ふと、臨床での場面を思い出す。
ある患者さんのことだ。
慢性的な腰痛を訴えていた。
評価をすると、
明らかに姿勢の問題があった。
体幹の筋力低下、股関節の可動域制限、
日常生活での動作パターン。
いわゆる
「教科書通り」の所見だった。
エビデンスとしても、
改善の方向性は明確だ。
体幹トレーニング、股関節の可動域改善、
生活指導。
やるべきことは、はっきりしていた。
説明もした。
なぜ必要なのか、どこに問題があるのか。
できるだけ分かりやすく伝えたつもりだった。
その場では、納得している様子だった。
「やってみます」とも言っていた。
でも、数週間後。
状態は、ほとんど変わっていなかった。
話を聞くと、
運動はあまりできていないという。
忙しくて時間がない。
やろうとは思うけれど、続かない。
理由はいくつかあった。
どれも、現実的な理由だった。
理解はできる。
でも、
結果は変わらない。
正しいことを伝えているはずなのに、
変化につながらない。
そんな場面だった。
以前の私は、
そういう場面で、
少しだけ焦っていたのかもしれない。
説明はした。
必要性も伝えた。
方法も確認した。
それでも変わらない。
そうなると、
どこかで「なぜやらないのだろう」と考えてしまう。
もちろん、
口には出さない。
でも、
自分の中では思っていた。
分かっているなら、少しでもやればいいのに。
そう考えていた部分が、
たぶんあった。
けれど、
自分がスマホの持ち方を変えるだけでこれだけ手間取ったとき、
その考えは少し雑だったのかもしれないと思った。
一方で、
別の患者さん。
同じように慢性的な腰痛を訴えていた。
評価をすると、
似たような問題が見つかる。
介入の方向性も、
大きくは変わらない。
ただ、この方は、
少し違っていた。
提案した運動を、
無理のない範囲で続けていた。
「全部はできていないけど、できるときだけやっています」
そんなふうに言っていた。
完璧ではない。
でも、やめていない。
少しずつ、
習慣になっている。
「テレビを見ながらやっています」
「歯磨きのあとに少しだけ」
そんなふうに、
その人なりの続け方を見つけていた。
数週間後、
状態は変わっていた。
痛みの頻度が減り、
動きやすさが出ている。
大きな変化ではない。
でも、
確実に前に進んでいた。
同じような状態で、
同じような説明をしている。
それでも、結果は違う。
この違いは何だろうか。
知識の問題ではない。
どちらの患者さんも、
説明は理解していた。
エビデンスの問題でもない。
介入の方向性は、
どちらも妥当だった。
では、何が違ったのか。
たぶん、
生活の中に入り込めたかどうかだったのだと思う。
正しい運動かどうかだけではない。
その人の一日の中に、
その運動が入る場所があるかどうか。
忘れずにできるタイミングがあるかどうか。
やっても苦にならない量かどうか。
「できなかった日」があっても、
また戻れる形になっているかどうか。
その差が、
結果を変えていたのかもしれない。
そう思った。
普段、
私はエビデンスを重視している。
ガイドラインを確認し、推奨を意識し、
できるだけ客観的に判断する。
それは、
とても大切なことだと思っている。
個人の経験だけに頼るのではなく、
再現性のある方法を選ぶ。
それが専門職としての責任だと思っている。
エビデンスは、
「何をすればよいか」は示してくれる。
一方で、
「どうすれば続くのか」は、あまり教えてくれない。
正しい方法と、実際に続けられる方法は、
必ずしも一致しない。
正しいことが、
人を変えるとは限らない。
スマホの持ち方を変える。
それだけのことでも、
実際にやってみると簡単ではなかった。
頭では理解している。
でも、身体はすぐには変わらない。
違和感がある。
面倒に感じる。
元に戻りたくなる。
それでも、少しずつ繰り返すことで、
ようやく変わる。
臨床も、
同じなのかもしれない。
正しいことを伝えるだけでは、足りない。
それをどうやって続けられる形にするのか。
どこまでならできるのか。
何が引っかかっているのか。
そういう部分に目を向けないと、
変化にはつながらない。
エビデンスは大切だ。
でも、
それだけでは足りない。
その間にあるものを、
どう扱うか。
そこに、
もう一つの難しさがある。
スマホを持つ手を変えながら、
そんなことを考えていた。
今回の出来事は、とても小さなものだ。
スマホの持ち方を変えただけ。
でも、その中には、
頭では分かっていても、
身体はすぐには変わらないこと。
習慣を変えることの面倒さ。
知っていることと、
実際に続けることの違い。
そういうものが、確かにあった。
左頚部の違和感は、
今はほとんどない。
でも、もしまた同じ習慣に戻れば、
おそらく同じことが起こるだろう。
それくらい、身体は正直だ。
自分の身体ですら、
思った通りにはいかない。
そう考えると、
目の前の人の身体を変えていくということは、
やはり簡単なことではない。
それでも、人は変わる。
少しずつでも。
気づいたことをきっかけに、やり方を変える。
違和感を手がかりに、調整していく。
その繰り返しの中で、
身体は少しずつ変わっていく。
左頚部の違和感は、
私にとっては小さな不調だった。
でも、その小さな不調が、
患者さんの「分かっているけどできない」という言葉を、
少し違う重さで受け取らせてくれた。
たかがスマホの持ち方。
それでも、
変えるには手間がかかった。
そんな当たり前のことを、
左頚部の違和感が、改めて思い出させてくれた。