メインコンテンツへスキップ
見出し画像

çš­

    あらすじ


    ある夜、世界中で五、六、七歳の子供たちが一斉に繭になった。政府は「繭を切り裂くな、止めるな」と緊急声明を発する。医師も科学者も原因を説明できない中、元・理論物理学者で高校教師の橘篤郎は、繭となった息子の異常な軽さに気づく。生物学、遺伝学、昆虫学、そして物理学。それぞれの知が結集する中、世界の理そのものを揺るがす仮説が浮かび上がる。一方、押入れで誰にも知られず育った少年ひとしは、人間とは何かも知らないまま世界の片隅で生きていた。子供たちはどこへ向かうのか。これは、成長とは何か、人間とは何かを問い直す、ハードSFであり家族の物語である。



    プロローグ


    ぼくのすきなもの
     一ねん二くみ たちばな いくお

     ぼくのすきなものはこん虫です。カブトムシやクワガタやカマキリがかっこいいです。ぼくのお父さんのパセリをムシャムシャたべて大きくなったアゲハのよう虫はさなぎになりました。それから大きなアゲハになりました。お父さんがサナギからアゲハがでてくるところをビデオにとってくれたよ。ぼくはいつもアゲハのビデオをみます。そのビデオをみて、ぼくはアゲハがすごくすきになったよ。

    わたしのすきなもの
     一ねん二くみ あんどう りりあ

     わたしがすきなものはポケじゅうのルカリアです。ルカリアはチョコがだいすきなポケじゅうです。りりあもチョコだいすきなので、いっしょなのがいいです。りりあのなまえもちょっとにていてちょっとうれしいです。ルカリアはいつもいつもすーんとしてるけど、ともだちがあぶなくなるとたすけたりしてつよいです。りりあもつよくなってともだちや、ママがあぶなくなったらたすけたいです。

    第一章 みーちょ

     目の前の男がニコニコしている。前にミコちゃんが「こんな顔する男についていっちゃダメだよ」って言っていた時のようなニコニコ。白目のとこ、赤くなって、ギラギラしてる。

     誰かがカラオケでバックナンバーの「水平線」を歌ってる。みーちょもこの歌すごい好き。男が歌に負けないように大きい声で何か言ってる。みーちょのことを欲しがってる。それがわかってみーちょはうれしくなってしまう。みーちょだって誰かに欲しがってもらえるんだよ。ママとおばあちゃんはみーちょのこといらないって言ってたけど、欲しいって言ってくれる人がいれば、みーちょは大丈夫な感じがすごくするんだ。

     男の手がみーちょの手首を掴む。「ちょ。痛いよ」みーちょが逃げ出すのじゃないかってくらい必死で。そんなにみーちょのことが欲しいのね。なんかうれしくってぼーっとしてしまう。

     でもみーちょは大人なんだから、お金のことはきちんとしないといけない。家賃も電気代も水道代もガス代も、スマホのお金もいるし、一晩で3万は欲しい。みーちょは算数苦手だけど、前にミコちゃんが銀行のこと、全部やってくれた。みーちょは口座にお金を入れれば大丈夫なようにしてくれたんだあ。ミコちゃんにまた会いたいなあ。

     アパートには「あれ」がいるから、ホテル行かなきゃ。お金がもったいないね。でも帰りたくないなあ。「あれ」がもう少し可愛かったら、みーちょは可愛がって優しいママになることができると思う。「あれ」は、アパートの押入れの上の段にテレビと一緒に毛布をかぶってずっといる。臭いし、何より手と足が変な方向を向いている。お話もできない。せっかく「ひとし」ってみーちょの好きな芸人さんの名前をつけてあげたのに、何も喋らないしあんなに可愛くないんじゃあね。

    第二章 橘 篤郎

     広めのベランダは南東向きで朝の日差しがいっぱいに差し込む。パジャマ姿の篤郎は数々のコンテナにジョウロで丁寧に水を撒く。息子の郁郎の次に愛するこの菜園に水を撒く行為が、篤郎を気持ちの良い沼のような睡眠から起き上がらせる動機となる。

     イタリアンパセリのコンテナをふと見ると、異変に気づく。「うーーっ。」思わず唸る。複雑な気持ちだ。気を取り直して息子を呼ぶことにした。

    「おーい。郁郎。起きてきてみろ。」

     6歳の子供が一声で起きるはずもなく、やむなく室内に入り子供部屋のベッドで眠る郁郎を揺り動かす。

    「おい。郁郎、いいものがあるぞ。起きてみてみろ。」

     篤郎は子供部屋のカーテンを開けた。東向きの窓からの光をモロに受けて、郁郎は目を擦った。

    「なあに。」

     呑気に目をしょぼつかせる郁郎を目にした篤郎は幸せな衝撃に包まれる。こんな眩しい朝にひとりぼっちじゃない。愛しい存在と楽しい会話を交わすことができる。

     まだ眠たげに目を擦るパジャマの郁郎をベランダに誘導し、無惨に食い散らかされたイタリアン・パセリの株を見せた。

    「うわーーっ!」

     篤郎の目論見通り、郁郎は大興奮だ。

     側面に橙色の斑点のある真っ黒な3.5センチほどの幼虫。アゲハ蝶の幼虫だ。篤郎の大事なイタリアン・パセリの株はものの見事に食い散らかされている。先ほど、これを最初に目にしたときは、幼虫の獰猛な食欲に怒りが湧き、踏み潰したい衝動に駆られたが、郁郎がこんなにも喜ぶのなら仕方がない。自制して正解だった。好奇心にくるくる動く濡れた焦茶の瞳と、パラボラ・アンテナのように感受性の良さそうな大きめな耳は亡くなった母親譲りだ。

    「今日、仕事の帰りに飼育ケースを買ってこよう。」

    「ホント!?やったー!!」郁郎は幼虫から目が離せない。幼虫を見つめたまま言った。「それまでに逃げて行っちゃわない?」

    「大丈夫さ。幼虫は生まれた場所から動けないからね。カラスや鳥に食べられてしまわないようにネットをかけていこう。」

    「うん!」

    「まず朝ごはんを食べよう。今日は目玉焼きか、ゆで卵かスクランブルエッグか。どれがいい?」

    「僕、目玉焼き!」

    「よし!目玉焼きな。納豆もあるぞ。」

    「やったー!僕、納豆大好き!」

     今日も篤郎の、郁郎の1日が始まる。

    第三章 安藤 亜衣

    「あのね、ママ。同じクラスのさくらちゃんがね。」

    「りりあ、動かないで。うん、さくらちゃんがどうしたの?」

     亜衣は洗面所の鏡に映るりりあと目を合わせた。保育園の時からずっと、りりあのお気に入りの髪型はサイドの高いところで結ぶツインテールだ。美容師の亜衣にはシンプルすぎて少し物足りないが、本人が気に入っているのならしょうがない。キューピッドの弓のような曲線を描く唇。ふっくらとふわふわな頬。飛び抜けて可愛い顔ではないが、りりあの愛らしさは私の中では世界一だ。肩甲骨あたりまで伸びた、細くて少し茶色がかって、透き通っているんじゃないかと錯覚するくらい艶々と光を帯びて見えるりりあの髪を大きめなヘアブラシを使ってまとめる。

    「さくらちゃん、一組のまとばたかしくんと付き合うんだって。」

    「あらあら、そうなの。」

     最近の子はませているなあ、と内心苦笑するが、自分が子供だった時も、早熟の子は一定数いたよな、と思い出す。

    「それでね、みんなりりあにすきなこはいないのって聞いてくるんだけど。」

    「うんうん。」

    「りりあはおとこのこなんてどうでもいいんだ。」

    「そうなんだ。」

    「りりあはねルカリアがいいの。ルカリアをずっとすきでいるの。ルカリアいがいはすきにならないの。」

    「…。」

     他に好きな女が出来た、と亜衣とりりあをまるで物のように簡単に捨てた元夫のことが脳裏に浮かぶ。父に捨てられたトラウマが、小さなりりあに精神的な潔癖を芽生えさせたのでは、とゾッとする。

     ゆるすぎないように、キツすぎて引っ張りすぎて頭皮が痛まないように、細心の注意を払う。輪っかになったゴムの両端に2.5cmの真っ赤な蜻蛉玉がついた、りりあお気に入りのヘアゴムを結んで、二つの蜻蛉玉をキュッと交差させる。

    「好きなものはたくさんあった方がお得だとママは思うけどなあ。」

     内心の不安を覆い隠すように少しおどけて笑った。

    「はい。出来た。早く自分で結べるようになってちょうだいね。」

     嘘だ。内心はいつまでも結ばせてほしい。

    「えーー。りりあ、ママに結んでもらいたいよ。」

     この言葉を聞きたいがために「自分で結べるようになれ」などと言ったようなものだ。胸に兆したちょっとした黒い影を払拭させるために。

    第四章 ひとし

     てれびのすみの4このすうじが3こになるころ、みーちょさまがここにはいってくる。わたしはわたしがなんなのかはわからない。てれびのなかでうごいているものたちとみーちょさまはいっしょのようにみえる。

    「私はママじゃないよ。みーちょさまといいなさい。み、い、ちょ、さ、ま。」

     みーちょさまのくちにあたるところにわたしにもあながある。いきをとおしてみる。

    「う。あ。」

     こえらしきものはでるけど、てれびのなかでうごいているものたちのように、みーちょさまのようにはできない。わたしのてもあしもてれびのなかでうごいているものたちやみーちょさまのてやあしとはちがう。みーちょさまはわたしのてとあしがまがっているのはうまれつきじゃないよ。うまれたときはまっすぐだったよ。といっていた。わたしにはほけんしょうがないから、びょういんにいけないのだと、みーちょさまはいった。わたしはびょういんはいったことないし、このへやからでたことがない。わたしがここにいることがおおやさんにしられてしまったら、ここにすむことはできなくなる。とみーちょさまはいった。だからわたしはおしいれのなかで、そとにおとがでないようにもうふをかぶって、いちにちじゅうてれびをみる。さむいときはいいけどあついときはくるしい。

     てれびのすみのすうじが3:32になった。げんかんでがちゃがちゃおとがして、みーちょさまがはいってきた。

    「ただいま。うぇ。臭っ。」

     こえがきこえて、おしいれがあいた。でんきのまぶしいひかりがめをさす。あまいぱんのふくろをがさがさかきわけてみーちょさまのてがわたしをさぐる。みーちょさまはわたしをかかえてらんぼうにおふろになげいれる。しゃわーをかけられる。みずはにがてだ。もがいてにげようとするとおさえつけられた。がまんしてあたまのなかでかずをかぞえていると、108でしゃわーはとまった。たおるでふかれて、おむつをはかされる。

    「ちっ。大きくなった?」

     おむつがくいこんでいたい。わたしはなんでおおきくなるのだろう。できるならちいさくなりたい。てれびでみた、「ちいさいおじさん」。みえるひとにはみえてみえないひとにはみえない。それならそとにでてもだいじょうぶだろう。

     ひとしはいつもの押入れの中で丸くなり眠りについた。ひとしの口から白いものが細く伸びた。

    第五章 首相公邸

     今日はもう何も起こらないだろう。起こらないでほしい。日本初の女性総理である高原季実子はそう願っていた。今日はもう十分働いた。地震も洪水も疫病も、起こるならば明日以降にしてほしい。

     秘書は先ほど帰宅させた。もうすぐ日付が変わる時刻だ。張り詰めていた意識をジャケットと一緒に脱ぎ去る。貴重な弛緩の時間だ。

     江戸切子のグラスと、日本酒「作」の4合ビンを冷蔵庫から取り出す。わずかに緑がかった液体をグラスに注ぐ。香りを嗅いでみる。芳醇なお米の香り。目を閉じてソファの背に身を預けたところで、プライベートの方のiPhoneの着信音が鳴り始めた。待ち受けを見てみると、娘からの着信だ。

     娘の真由実は聖マリアンヌ病院の小児科に勤める医師だ。今日は当直なのだろうか。こんな時間にかけてくるなんて何かあったのだろうか?悪い予感を覚えながら、季実子は受信をタップした。

    「もしもし、ママ。落ち着いて聞いてほしいの。今すぐ対策チームを編成して。」

     聖マリアンヌ病院に向かう公用車の中、季実子は第一秘書の新庄淳に電話をした。24:30、気の毒だが仕方がない。彼が独身であるのが唯一の救いだ。3コール目で出た新庄の声はまだ寝ていなかったようで清明だった。

    「新庄くん、良かった。まだ寝ていなかったようね。10分前にメールを送ったのだけど見てくれたかしら?」

    「拝見いたしました。正直信じられません。フェイク動画ではないのでしょうか?」

    「子供たちが繭になっているのよ。当直の真由実から送られてきた確かな動画よ。」

    「どのような規模で起こっているのでしょうか?」

    「真由実の病院に他の病院からの問い合わせと照合がひっきりなしだそう。韓国の病院からも問い合わせがあったそうよ。」

    「5から6歳の子どもたちだけなんですね。」

    「そう。メールにも書いたけど、新庄くんに対策チームを編成してほしいの。小児科医の権威と、遺伝学者、生物学者、あと、昆虫学者かしら。——ふふっ」極限に緊張している神経がおかしくもないのに笑わせる。「それぞれトップの人材に、今すぐ聖マリアンヌに来て見解を述べてほしいと、首相の要請であることを伝えて。教授たちを叩き起こして、最速で集めてほしい。必要ならヘリコプターを使っていいわ。」

    「官房長官への報告は如何いたしますか?」

     季実子はため息をついた。こんなにわかに信じられないことを夜中に伝えるべきか。一瞬逡巡するが、

    「自分の目で確認してからにするわ。」

    「承知いたしました。私も聖マリアンヌに向かいます。移動中に要請を手配します。」

    「そうして。では。」

     暗い公用車の車内でiPhoneのブルーライトが冴えざえと光を放っていた。


    第六章 聖マリアンヌ病院

     ママが総理大臣になったことがこんなふうに役立つなんてね。真由実は母が議員である時代から苦々しく思っていた。私がママの時間を得ることができるのは国民の次なのだ。授業参観も、運動会も、いつだってママは国民の用事を優先した。でも今はもう大人で自立した医師なのだ。ママが私にコミットできなかったのは仕方のなかったことだと理解している。ただどうしても満たされない思いがこんな時には吹いてくる。真由実は白衣のポケットに手を突っ込み、病院のエントランスで季実子を待っていた。

     公用車のヘッドライトが暗いエントランスを一瞬サーチライトのように照らし、入り口に横付けにされた公用車のドアがSPによって開けられ、季実子の足がまず差し出された。

     降り立った季実子が仄暗いエントランスで立つ真由実を見つけてまっすぐ歩み寄る。

    「真由実ちゃん。久しぶりね。元気?」

     事態の異常さとかけ離れた呑気な一声はわざとなのだろう。母の議員としての処世術。その場の緊張を和らげるテクニックなのだ。真由実はそれには答えず母の肩に自分の肩を軽く当てる。踵を返して言った。

    「こっちよ。案内するわ。」

     手は白衣のポケットに入れたままだった。

     それは異常な光景だった。PICU(小児集中治療室)の6床全てのベッド上に巨大な卵形の物体が乗っていた。真由実から送られてきたビデオで見てはいたが、季実子は実際に目の当たりにして息を呑んだ。

    「さっき送ったメールでもその呼称を使ったけど、この物体を仮に『繭』と呼ぶことにしたわ。実際それが一番近いものなの。」真由実が言った。「ちなみに、過去にこのような症例は発現したことがないと思う。論文を調べても見当たらなかった」

     真由実がこんなにも自分が何もできない無能な存在だと自覚したことはかつてなかった。子供たちがこんな姿になってしまっているのに、ただ手をこまねいて見ているだけしかできない。それでも私には総理大臣の母がいる。それはこの事態における最大のアドバンテージだ。

     季実子は言葉もなくただ目を見張るのみだ。

    「ここには『繭』の完全体だけが安置されているわ。発見した親御さんがパニックになって切り裂いてしまったものは、こっちよ。覚悟して。」

     案内された先の自動ドアの横のプレートには『第一手術室』と書かれていた。ベッドの上にはパニックになった親にハサミでギザギザに切り裂かれ、パックリと開かれた『繭』があった。その内容物を目にした季実子は猛烈な吐き気を催した。それは元々人体だったドロドロの溶解物だった。一部眼球や脳の組織、脊柱などが溶け残っている。生温かい血の匂いが立ち上ってくる。

     真由実は青ざめた母を一瞬見やり、容赦無く次へと誘う。

    「『繭』になる途中、家族がそれを遮ってしまった子はこっちよ。」

     一般病棟のベッドの上、土気色の子供が横たわっていた。バイタルをチェックする様々なコードに繋がれている。

    「昏睡状態よ。」

     季実子はやっと掠れた声を発した。

    「なんてこと…。」

    「今、目の当たりにしたものは氷山の一角よ。都内のみならず全国の病院から同じ症例の問い合わせが相次いでる。韓国からも問い合わせがあったわ。おそらくこれは全世界的に起こっている。子供達だけに広がるパンデミックよ。ママ、大至急、記者会見を開いてほしいの。親御さんたちが子供たちの『繭』を切り裂いたり『繭』化を邪魔したりしないよう、声明を出して。今すぐよ!」


    第七章 橘 篤郎

     枕元に置いた携帯が不気味な和音を鳴らす。眠りから強制的に覚醒させられた篤郎の心臓はバクバクと跳ねている。篤郎は寝落ちして顔の上に伏せた読みかけのSF小説を取り落としてスマホに手を伸ばす。地震だろうか?待受を見ると「5.6.7歳のお子様をお持ちのご家庭に緊急のお知らせです。子供の『繭』を止めないで。切り裂かないで。」

     屋外の市の広報スピーカーからもJアラートを響かせている。跳ね起きて、テレビをつけると、通販番組にテロップが流れた。

     ——子供の『繭』を止めないで。切り裂かないで。——子供の『繭』を止めないで。切り裂かないで。——2:40より高原首相による緊急記者会見——

    「郁郎!」子供部屋のドアを開けると、ベッドの横に脱ぎ捨てられたパジャマがあった。ベッドの上には口から糸を吐き出す様子がうっすらと透けて見える、郁郎が繭の中にいた。カーテンを閉め忘れて眠ってしまった子供部屋は冴え冴えした月光が『繭』を青く照らしていた。

    「落ち着け。落ち着け。」篤郎はパニックになっていた。心臓は暴れ、呼吸は乱れ、涙が勝手に流れ落ちた。「郁郎が、郁郎が、大変だ、大変だ。」

     なぜかこんな時に、小説「プロジェクト・ヘイル・メアリー」が思い起こされた。宇宙船で一人目覚めた主人公は、記憶喪失でパニックに陥った時、振り子の実験をして重力を観測して今自分がいる場所は地球ではないことを導き出した。そうだ、俺は、理論物理学者だった。「落ち着け。落ち着け。今できることをやるんだ。」プロジェクト・ヘイル・メアリーの主人公も元々研究者だったが、小学校の教師になっていた。自分もそうだ。元々、量子力学の研究者だったが、今では高校の物理教師だ。同じような境遇でシンパシーを感じ、大好きになっていた小説だ。

    「何ができる。何ができる。………観測だ。観測しか今はできない。」

     篤郎は三脚とビデオをセットして録画ボタンを押した。そしてメジャーを取り出し、郁郎の『繭』に触れないよう慎重に計測を始めた。もう呼吸は整っていた。


    第八章 安藤 亜衣

     いつものようにアラームが鳴る一瞬前に目覚める。昨夜眠りについた体勢のまま、目覚めた。よほど深く眠ったらしい。美容師という立ち仕事は体力勝負だ。帰宅するといつでもへとへとになっている。亜衣は一つ伸びをして背中のこわばった筋肉を伸ばすと、ベッドから足を下ろし、起き上がった。

     コーヒーメーカーにコーヒー粉を計量スプーン3杯。水を入れて電源を入れる。まもなくコポコポという音とコーヒーの香りがキッチンに満ちる。今日の家事と美容師の仕事を思って、亜衣は一つため息をついた。

     マグカップを用意してからスマホを手にして待受に目を落とすと、何やら見慣れないメッセージがあった。「5.6.7歳のお子様をお持ちのご家庭に緊急のお知らせです。子供の『繭』を止めないで。切り裂かないで。」。亜衣はよくわからず不安になった。リモコンでテレビのスイッチを入れた。東日本大震災の時のようなテロップが流れている。どの局も同じテロップ、同じ画面だ。

     ——子供の『繭』を止めないで。切り裂かないで。——子供の『繭』を止めないで。切り裂かないで。——

     高原首相がこわばった表情で何やら喋っている。

    「5.6.7歳のお子さんをお持ちの親御様にお伝えします。現在、広い範囲で子供が繭化する現象が報告されております。日本だけではなく、近隣国も同様な現象に見舞われていると報告されております。原因はただいま調査中です。お子様が繭化しているのを目撃したら、繭化を止めたり、切り裂いたりすることは絶対にしないでください。繰り返します。お子様が繭化しているのを目撃したら、繭化を止めたり、切り裂いたりすることは絶対にしないでください。もしお子様が繭化してしまった場合は、そのまま家庭で安静に見守ってください。慌てて救急車を呼んだりはしないでください。新しい情報が入り次第、逐次ご報告することをお約束いたします。どうか落ち着いて行動してください。」

     なんのことだかさっぱりわからないが、何やら大変なことが起きているらしい。パンを2枚トースターに入れて、ルカリアのマグカップに牛乳を注いで電子レンジで温める。そろそろりりあを起こす時間だ。

    「りりあ、起きなさい。そろそろ時間よ。」

     何も返事がない。

    「もう!小学生にもなってねぼすけなんだから。」「りりあ、起きなさい。」

     りりあの部屋のドアを開ける。

    「……………ああああああああああああああああ。」


    第九章 医局

     7:30 AM

    「皆様早朝よりお集まりいただき、ご苦労様です。これより緊急のカンファレンスを行います。当医局教授の方々をはじめ、この場には生物学者の篠原教授、遺伝学者の道場教授、昆虫学者の九重教授にご来場いただいております。では概要を高原真由実医局よりお願いします。」

     真由実はいつものカンファレンスルームを見渡した。馴れ合いの雰囲気の漂う空気がまるで一変している。各々、一様に青白い顔がこちらを見ている。一番後ろの列に席を設けられている、学者連が日常と乖離した緊張感を醸し出している。

    「昨夜、第一報の救急要請は22:45、千代田区在住6歳男性。男性の母より救急に着信。男性の口から糸のようなものが出てきて、払っても払っても出てくる。本人を揺すっても返事がない。パジャマを着て寝たはずだが、素裸になっていた。23:05、PICUに緊急搬送されたが、意識なし。バイタル正常。瞳孔拡散。」

     真由実はスライドを切り替えた。患児の口元から白い糸状の物質が伸びる写真が映し出される。家族が咄嗟にスマホで撮影した写真だ。何人かが小さく息を呑む音が聞こえた。

    「血液検査一式、血糖、電解質、肝腎機能、血液ガス、凝固系、いずれも正常範囲内です。内分泌スクリーニングも甲状腺機能、副腎皮質ホルモン、下垂体ホルモン一式、異常値は出ていません。通常の昏睡であれば、ここまでで何かしらの所見が出るはずですが、何も出ません。」

     真由実は一旦、資料から顔を上げた。

    「これが、6歳前後の児童に限って、深夜から未明にかけて同時多発的に発生しています。現在までに当院だけで7例、提携病院からの報告を合わせると確認できているだけで43例。」

     会議室がざわついた。

    「頭部CTでは脳浮腫、出血、明らかな脳幹病変は認めません。脳波もてんかん性放電は認めず、脳死判定の基準にも至っていません。いわば、中間的な状態です。」

    「糸を出して動かなくなった児童のうち、家族が動揺してその場で揺すったり払ったりした症例は、昏睡状態に至っています。一方で、家族がそのまま見守った——つまり、何もせず放置した症例では、糸が一晩で蚕の『繭』のような構造物を完全に形成し、内部で患児の姿が変化しているのが確認されています。」

     会議室は静まり返った。真由実は次のスライドに切り替えた。家族が慌てて切り開いたのか、かなりギザギザな開口部だ。『繭』の外見がまず映し出され、そしてその中身が映し出された。会場に動揺が走る。知能のヒエラルキー、トップ10%と思しき知性が一様にポカンと口を開けている。真由実は数時間前の自身の動揺を思い出した。未知のものに対面した時、膝から力が抜け全身の筋肉が弛緩する。頭の中はフリーズしたように真っ白だった。やがて呼吸を思い出し、瞬きを繰り返す。

     会場を見渡すと、昆虫学者の九重教授だけが目を輝かせて生き生きしている。

    「ドロドロに溶けた内容物の組織検体から、簡易的な遺伝子検査をした結果、23:45に搬送された練馬区女児5歳のものと相違ないことが確認されております。」

     昆虫学者の九重教授が挙手したと同時に立ち上がり、発言した。

    「先ほど『繭』の標本を光学顕微鏡で覗かせていただきましたがね、繊維の断面が三角形……見事なフィブロイン構造(絹の主成分)ですよ! 人間の毛髪のようなケラチン質では絶対にこうはならない。複屈折のパターンも完全に蚕のそれだ。子供たちは蛹化(ようか)している、間違いありません! 彼らは一夜にして、自らの喉に『吐糸管』と『吐糸口』を形成したんですよ。あんな小さな体で、一体どこからそのエネルギーを……!」

     一同がどよめいた。真由実の発表を遮るような形で発言した九重教授は肩を丸めて自ら落ち着かせるように一息ついて着席した。

    「カンファレンスを遮ってすまない。続きを。」

    「いえ、九重教授、専門的なご意見をありがとうございます。」続けます。幸いにも、『繭』を見つけた親御さんが救急車の要請と、子供への対応を救急隊に打診してくれたことから、最初の2例の『繭』以外は完全な状態で搬送できました。江東区6歳男性の『繭』をエコーを用いて診察しました。なぜかエコーのスキャナーを当てるたびに中身の輪郭はぼやけるようでしたが、脊柱と心臓は確認しました。同患児をMRIにかけたところ、全体のスキャンが終わると同時に、『繭』の中身が消失しました。その際、MRI技師により青白い光が発せられたのを目撃されております。」

     再度どよめきが上がった。医局長が青白い顔で「児童の親から訴えられるかもしれないな。」というつぶやきが漏れた。真由実はそれどころではないという苛立ちを抑えて続けた。

    「現在、医師としてできることは、ただ成り行きを見守ることと、さらなる現状の分析となります。生物学・篠原先生、遺伝学・道場教授、昆虫学・九重教授、ご見解を賜りたいと思います。」

    「んん。」咳払いをして、生物学者・篠原が口を開いた。「あまりに前代未聞の事態に、生物学者として申し上げることは多くありませんが、今回『繭』化している子供たちの年齢が、5.6.7歳ということが私には考える対象として立ち上がりますな。古来日本では七五三の行事がありますな。数えの7歳は神の領域から人間に至る節目としての年齢と捉えられております。ただの迷信と捉えられない根拠が生物学的にはあるのですな。皆さんお分かりの通り、一晩で自分の体を溶かすほどの猛烈な『完全変態——組織溶解』を行うには、尋常ではない細胞の破壊と再構築のエネルギーが必要なんですな。通常の人体なら自己免疫拒絶で即死する。しかしですな、5〜7歳という時期は、人生で最も免疫系・リンパ系のアクティビティが過剰に跳ね上がる特殊なブレイクポイントなのですな。」

     会議室がざわつく。篠原教授が続ける。

    「さらに、5〜7歳児の顎骨は、永久歯への生え変わりのために、骨の吸収と形成が最も活性化しているのですな。つまり骨格が一番『柔らかく、作り替えやすい』脆弱なタイミングと言えるのですな。この顎骨の代謝異常——リモデリングに乗っかる形で、喉の構造を急速に『吐糸管』へと作り替えた。大人の硬化した顎骨では、このスピードでの変形に耐えられず骨折・壊死してしまうでしょう。脳のシナプスが過剰に存在し、かつそれが『剪定』され始める6歳前後こそ、脳の配線を書き換えるのに最も都合が良い。脳が完成して固定された大人や、逆に脳が未発達すぎる乳幼児ではおそらくダメだったでしょうな。」

     医局が静まり返った。あまりの異常事態に想像が追いつかない。

     まだ順番ではないが、昆虫学者の九重が立ち上がった。

    「高原先生、内分泌スクリーニングの結果をもう一度見せていただけますか」

     九重は手元のタブレットを演壇のメインスクリーンへと同期させた。医局が一様に眉をひそめる。しかし、スクリーンに映し出された未知の質量分析チャートの波形を見た瞬間、遺伝学の道場教授の目が細くなった。

    「九重教授、これは何のデータですか? 当院の血液検査には、このようなピークは……」

    「出ないはずです、通常の臨床検査ではね!」九重は声を弾ませた。彼の眼鏡の奥の瞳は、未知の真理に触れた歓喜でギラギラと輝いている。「先ほど搬送された昏睡状態の児童、および『繭』のドロドロから抽出した血清を、私が高速液体クロマトグラフィー質量分析計(LC-MS/MS)にかけました。……諸先生方、人間の下垂体から分泌される既知のホルモンは『すべて正常範囲内』だったのではない。『既存の検査キットが反応しない、全く新しいペプチドホルモン』が、異常な高濃度で検出されていたんですよ!」

     九重はホワイトボードに歩み寄り、殴り書きで脳の模式図を描いた。

    「昆虫が、幼虫から蛹になるために何が必要かご存知か? 脳からの命令です。脳の神経分泌細胞から発せられる『前胸腺刺激ホルモン』、これが引き金となって、脱皮ホルモンである『エクジソン』が分泌される。これによって生物は、文字通り皮膚を脱ぎ捨て、ドロドロに溶ける変態のフェーズへと移行するのです」

     九重のチョークが、ホワイトボードの「視床下部」と「下垂体」の位置を激しく叩いた。

    「これを見なさい。先ほど高原先生たちが、原因不明の脳炎を疑って昏睡児の『鼻腔の奥から採取した粘液』の、質量分析データです。通常の臨床検査では完全にスルーされる領域ですがね、私のラボで解析したところ、昆虫の前胸腺刺激ホルモンと極めて酷似した立体構造を持つ『未知のペプチド』が、この鼻奥の粘膜に異常な高濃度で停滞していた。本来なら、この命令がスムーズに脊髄を下り、全身の細胞へ『脱皮しろ、溶けろ』と伝達されるはずだった。しかし、家族が無理に身体を揺すり、物理的な刺激を与えたことで、この変態プログラムに深刻なエラーが起きた。命令のパルスは脳の直下——この鼻の奥の死腔でピタリと堰き止められ、全身に届いていない。だから、この子たちは溶けることもできず、かといって人間の意識に戻ることもできない、『不完全な蛹化の脱落者』として脳だけがフリーズしているのです!」

     医局長が信じられないといった風に首を振る。

    「バカな……人間が、脳から脱皮ホルモンを出していると言うのか?」

    「それだけではありません! なぜ子供たちが、意識を失う直前に『自らパジャマを脱ぎ捨てて素裸になった』のか。高原先生が先ほど提示された、搬送直後(23:05)の患児の血液データ。ここに一見、無意味に見える『未知の脂質代謝物の微量な残渣(のこりかす)』のピークがあります。昆虫の体内には通常、変態を強力に抑制する『幼若(ようじゃく)ホルモン(JH)』が流れており、これがゼロになった瞬間にサナギへの変態が始まります。この残渣の減少率と、ペプチドの分泌速度から逆算すると……子供たちの体内では、昨夜の22時前後、この幼若ホルモンに相当する物質が『一瞬で強制的に枯渇させられた』、そう考える以外にないのです! 昆虫の幼虫は、幼若ホルモンが切れると、強烈な『変態前行動』を起こす。それまで貪り食っていたエサの未消化物をすべて排泄し、サナギになるための場所を求めて狂ったように動き回る。子供たちにとっての『未消化物の排泄』——それが、人間社会の衣類、すなわち『パジャマを脱ぎ捨てる』という本能行動として現れた。21時、彼らの血中から人間を維持するブレーキ——幼若ホルモンが完全に消え去り、脳の命令のままに衣服を脱ぎ捨てた。今、搬送されてきた子供たちの血中にそれが一滴も残っていないのが、何よりの証拠です!」

     会議室の空気が、完全に凝固した。医師たちの頭に、深夜、虚ろな目でパジャマを脱ぎ捨て、口から糸を吐きながらベッドの上に横たわる子供たちの姿が、生々しく、そして昆虫の生態として再現されたからだ。

    「つまり……」真由実は乾いた声を絞り出した。「子供たちの脳は、自らを『人間』ではなく、すでに『虫』として駆動させている、と?」

    「その通り。」九重は満足そうに深く頷いた。「彼らは病気で昏睡しているのではありません。脳から『完全変態』のシグナルを受け取り、ただ、蛹になるための正しいプロセスを踏んでいる最中なのですよ」

    「——バカバカしい。オカルトにも程がある」

     静まり返る会議室に、冷水を浴びせるような低い声が響いた。遺伝学者の道場教授だ。彼は九重が書き殴ったホワイトボードを睨みつけ、自身の眼鏡を指で押し上げた。知性の塊のようなその細い目が、冷徹な光を放っている。

    「九重先生、あなたの昆虫愛好家としての妄想には付き合いきれない。百歩譲ってその『変態ホルモン』とやらが検出されたとしてもだ、我々脊椎動物、とりわけ哺乳類には、蛹になるための遺伝子などそもそも存在しない。ジャンクDNAをどれだけ漁ったところで、人間に『繭を作る遺伝子』も『吐糸管を形成するコード』も眠っているわけがない。遺伝学の常識だ」

     道場は演壇の真由実へ鋭い視線を向けた。

    「高原先生、あのドロドロに液状化した組織の、DNAの定量解析詳細データを出して。」

     真由実が素早く端末を操作し、新たなグラフをスクリーンに投影する。道場はそれを見上げ、忌々しそうに、しかし確信を持って顎を揺らした。

    「諸先生方、これを見なさい。細胞が融解しているにもかかわらず、そこから抽出されたDNAの総量は、5歳児の標準的な細胞容積から計算される限界値を『約3倍』も超過している。……これは異常だ。単に自分の細胞が溶けているだけなら、DNAの絶対量が増えるわけがない」

    「それは……どういうことですか?」真由実の問いに、道場は一歩、スクリーンの前へと歩み出た。その顔は、九重とは対照的に、恐怖で青ざめている。

    「一晩で子供の喉の構造が作り替えられ、全身の組織がドロドロに溶けた。これを可能にする方法は、遺伝学の世界において一つしか存在しない。『超高速かつ大規模な、遺伝子の強制書き換え』だ」

     道場は自身のタブレットを叩き、遺伝子の塩基配列の比較画面を表示させた。

    「私は昨夜、最初の症例の組織液から抽出したDNAの配列を、遺伝子配列検索データベースにかけました。……結果は驚くべきものです。子供たちの『人間のDNA』は壊されてはいない。しかし、その二重螺旋の隙間に、膨大な『未知の塩基配列』が、まるで最初からそこに組み込まれる予定だったジグソーパズルのように、完璧な精度で挿入されていた。その未知の配列の発現スイッチを起動させているのが、先ほど九重先生の言った『変態ホルモン』だ」

     道場は振り返り、会場の医師たちを見渡した。その声はわずかに震えている。

    「これは、レトロウイルスによる感染症などという生易しいものではない。ウイルスのランダムな遺伝子挿入なら、細胞はガン化するか、エラーを起こして即座に細胞死する。だが、この配列はあまりにも美しく、合理的で、一分の隙もない。何者かが、外側から子供たちの細胞の核へ直接アクセスし、『人間という設計図』の上から、全く別の『完璧な生命体の設計図』を上書き印刷している。九重先生の言葉を借りるなら……彼らの脳だけが虫になったのではない。今、あの繭の中で、子供たちの数十兆個の細胞ひとつひとつが、分子レベルで『人間であること』を拒絶し、別のナニカへ作り替えられている最中なんだ」

     道場の冷徹なロジックが、九重の「変態説」に最悪の生物学的裏付けを与えてしまった。医局のざわめきは消え、今度こそ、完全な絶望の静寂が医師たちを包み込んだ。

     真由実は呆然とし、「ハッ」と我に帰った。我々は我々のできることを模索して対処せねばならない。

    「先生方、ありがとうございました。」真由実は後方に控える教授陣に頭を下げた。「この前代未聞の現象は、日本のみならず世界中に波及しています。昨夜は韓国からの問い合わせがあり、数時間後には中国とロシアから。経度に沿って西に広がりを見せています。日本がこの事態の一番最初の地点のようですが、幸いなことに、高原首相による迅速な判断により、諸外国と比べて被害は最小に抑えられている模様です。」続けて「引き続き、我々はできることを模索していきたいと思います。当、聖マリアンヌ病院はこの事態の基軸病院として政府から認定されました。マスコミに、何をどれだけ公開するかなど、今後の方針を話し合いたいと思います。」


    第十章 緊急保護者説明会

    「こちら、聖マリアンヌ病院前です。昨夜11時頃、家族からの要請で緊急搬送した男児に始まり、ほか20数名の児童が収容されています。」マイクを持ったキャスターが、続けた。「5,6,7才の児童が繭化する事態が世界的な現象となっています。5,6,7才の児童全員がこのような変化をするわけではなく、おおよそ8割程度に変化が見られるとのことです。まず子供の口から白い糸が放出され、それが子供の身体を包み込むようにして変容が始まります。お子さんがこのような変化を見せた場合は、糸をたぐって変容の邪魔をしたり、繭を切り裂いたりすることは大変危険ですので、変容が認められた場合、落ち着いてご家庭で安静にしてください。救急車を呼ぶ、病院へ運び込むなどはしないでください。本日、午前10時より聖マリアンヌ病院にて記者会見が開かれます。以上、小松涼子がお伝えしました。」

     篤郎は見ていたテレビを消した。そして郁郎の部屋に行って、設置したビデオの画面をスマホに同期した。篤郎はいつまでも郁郎のそばで郁郎を見ていたかった。

     篤郎のスマホの着信音が響いた。篤郎の勤める学校の校長からだった。

    「テレビを見たよ。大変な騒ぎだが、君のところも確か、6歳の子供がいたなと思い出してね。どうかね。大丈夫かね。」

     心配してくれているようだが、野次馬根性と好奇心の気配に、篤郎はイラっとしながらも、

    「ご心配、ありがとうございます、校長先生。ご推察の通り、郁郎も繭に………。」

     喉が詰まって二の句が告げなかった。

    「………そうかね。わかった。学校のことは心配しないでいい。息子さんについてやってくれたまえ。今後のことは、その、………繭の動き次第で検討しよう。君はしばらくの間、有給休暇だ。事務の者に残りの有休日数を聞いておこう。有休明けは休職扱いにする。未来のことは密に連絡をとって相談しよう。生徒たちも寂しがるだろうが、私も早い復職を期待しているよ。」

    「ありがとうございます。」

     篤郎は電話を切った。仕事のことは忘れていた。今は仕事どころの騒ぎではない。郁郎を観察していなければ、どんな変化も見逃さないようにしなければ。

     またもやスマホの着信がある。今度は郁郎の通う小学校からだ。

    「もしもし。1年2組担任の小林です。朝から、クラスのお子さんのご家庭に順にお電話しているのですが、単刀直入に伺います。郁郎くんは、大丈夫ですか?」

    「………繭に、」思わずビデオと同期したスマホ画面の郁郎に目を落とす。

    「………そうですか。残念です。」おそらく名簿に丸をつけているのだろう。一瞬の間があって続いた。「お父さん、今後の方針の検討と、情報共有を目的に、今夜19:00より緊急保護者説明会を開催します。お辛い状況とお察しいたしますが、出席をお願いします。」

    「…郁郎を一人、家に残して出席はできないですよ…。」

    「お父さん、お気持ちは重々承知しております。ただ本日の集会は、国からの要請もあり、本日共有された情報は国に報告する義務が発生いたします。国から、おそらく繭が羽化するのは一週間から二週間だろうと予測される、と報告を受けております。この早い時期に足をお運びくださいませんか?」

     篤郎は考えた。そうか、確かに情報共有ができればこの混乱した状況がより把握できる。

    「…わかりました。19:00ですね。」

     教師の声は明らかにホッとしていた。

    「そうです。場所は体育館です。では、お待ちしています。」

     電話が切れた。篤郎は郁郎の部屋に戻り、観察を続けた。

     10:00になり、篤郎は、記者会見を見るために、再び居間のテレビをつけた。目の下にクマを張り付かせた女医の姿があった。彼女はテレビの報道以上のことは言わなかったが、付け加えられた一言があった。

    「繭になった子供たちは、代謝しません。ご飯を食べることも排泄することもしません。その点は心配しないでください。」

     親が子供に対して一番心配することだ。

     集まった報道陣たちからの質問に答える時間も、「MRIやCT、レントゲンなどで中を窺い知ることはできませんか?」という問いに、「その点はお答えすることができません。」と、一点張りだった。何かを隠している、それは明白だった。

     記者会見は終わり、篤郎はテレビを消して郁郎の部屋に戻った。篤郎は繭を見やり、そういえば重さを測っていないことに気がついた。郁郎の体重は5月に学校の身体検査で測った数値、確か20.5kgだった。重さを測ろうにも、TANITAの体重計に乗せても測れないだろう。3日前に蝶の羽化の動画をみながらソファで眠ってしまった郁郎をベッドまで運んだ重さを、篤郎は身体で覚えていた。篤郎は意を決してそっと繭を持ち上げてみた。

    「?」軽いのだ。おそらく10kgに満たない。3日前身体で覚えた20kgより、間違いなく軽い。繭を形成するために郁郎の体のタンパク質を変容させて繭を形成しているだろうことは想像できる。だが、篤郎は繭ごと持ち上げている。水を飲まないことによる水分の蒸発量を考慮に入れても、これは軽すぎる。

     明らかに質量が減っている。この事実は物理学者にとって重大な発見だった。篤郎は気が遠くなるのを感じて、慌てて目を瞬かせる。身体的な動作が篤郎を現実になんとか繋ぎ止める。もしかして、もう二度と郁郎に会えることはないのかもしれない。そんな最悪な予感が篤郎を支配した。

     篤郎は物置から、亡き妻が使っていた裁縫箱を引っ張り出した。糸巻きから木綿糸を一メートルばかり引き出し、先端に五円玉を結ぶ。糸のもう一端を、天井の照明の付け根に画鋲で留めた。五円玉が、郁郎の部屋の宙で静かに垂れ下がる。

     メジャーで糸の長さを測る。錘の中心までで、九十八センチ。篤郎はスマートフォンのストップウォッチを起動し、五円玉を十センチほど脇へ引いて、そっと放した。

     五円玉が振れる。左へ、右へ、また左へ。篤郎は振動の数を数えた。一往復、二往復。人の眼と指では、一回の周期を正確に押さえるのは難しい。だから十往復ぶんの時間を測って、十で割る。誤差を平すための、ささやかな知恵だ。

     二十往復ぶん、測った。三十九秒と少し。一周期およそ一・九八秒。

     g イコール、四パイ二乗L割るT二乗。頭の中で数字が組み上がる。長さ〇・九八、周期一・九八 ── 出てきた重力加速度は、九・八六。標準の九・八〇六に、ほぼ重なる。

     篤郎は、ふっと息を吐いた。当たり前だ。この部屋の重力は、日本のどこの部屋とも変わらない。地球は、いつも通りに篤郎を、そして郁郎の繭を、地球の中心に向けて引っ張る。だが、もし郁郎の繭のあり得ない質量の変化から導かれる事実として、この世界からの質量の消失と引き換えに、ほんのわずかでも周囲の時空を歪めているなら、その歪みは、この振り子の揺れに現れるはずではないのか。

     篤郎はもう一度、五円玉を放した。今度は、繭のすぐ脇で。錘が繭の表面すれすれを掠めるように。左へ、右へ。篤郎は瞬きもせず、糸の描く弧を睨んだ。

     変わらない。振り子は、何ごともなかったかのように、同じ弧を、同じ拍で刻み続ける。当然だった。篤郎は自分の甘さを嗤いたくなる。仮に繭が重力を歪めているとして、その大きさは ── 家庭の振り子で、人間の眼で捉えられるような桁では、断じてない。原子干渉計。冷却した原子の波を落下させ、その干渉縞のずれから、重力を小数第九位まで読む装置。あれでなければ、こんな微かな歪みは掬えない。

     振り子は、まだ揺れている。篤郎は振り子を止めた。もっと、正確に視なければ。郁郎に何が起きているのか、この目で、正しく観測しなければ。

     篤郎はパソコンを開いた。検索窓に「重力計 中古」と打ち込んだ。

     夏休み直前の浦安市立第一小学校の体育館には1・2年生の保護者が集められた。入り口で手渡されたプリントには、クラスごとの繭化した人数、繭化しなかった人数が記載されている。体育館に入り持参のスリッパを履いた篤郎は、折りたたみの椅子に座る見知った顔に声をかけた。

    「りりあちゃんのお母さん。こんばんは。」

     郁郎とりりあちゃんは放課後教室で一緒だ。りりあちゃんのお母さんも働いているようで、お迎えの時によく会うのだ。

    「……郁郎くんのお父さん。」

     篤郎を見上げたその顔は青白く、目はうつろだった。りりあちゃんも繭化したのだな、篤郎は隣の折りたたみ椅子に腰をかけた。篤郎はスマホで同期している郁郎の動画を確認した。自分たちは共感できる。篤郎は少しホッとした。同じ悲しみ。同じ混乱。

     りりあちゃんのお母さんが口を開いた。

    「…なんで、なんでうちのりりあなんでしょうね。」「わからなくって。…ずっと考えているのに、わからなくって…。」

     篤郎はそれを聞いてハッとした。そうか、繭化した児童と、繭化しなかった児童。その違いはどこにあるのか?

    「そうですね。繭化しなかった子達とうちの子達の違いはなんでしょうね。」

     篤郎の言葉を聞いているのか聞いていないのか、りりあちゃんのお母さんは「…なんで?…なんで?」と繰り返し呟いてプリントを眺めている。

     退屈な校長の挨拶が終わり、担任から、それぞれのクラスの繭化した人数、繭化しなかった人数が報告された。郁郎のクラスは繭化した児童27名、繭化しなかった児童3名ということだった。

    「無事だったのは、児玉さくらさん、浜島こころさん、相田莉緒さんの3名です。」

     繭化を失敗したり、損壊した人数は4名に上ったと告げられた。学校から共有された情報は人数の統計だけだった。

     発表されている間、りりあちゃんのお母さんはずっとぶつぶつ言っていたが、何かに気づいたように顔を上げて、篤郎を見た。そして言った。

    「繭にならなかった子達は、みんな男女交際を始めた子達だわ。りりあから聞いたんだったわ。」

     聖マリアンヌ病院では、遺伝子学者の道場教授が高原真由実と対峙していた。

    「君はひどい顔をしているよ。寝てないんだろう。もう帰りなさい。帰って寝なさい。」

    「そうですね。いてもできることはないですしね。」真由実は苦笑した。

    「いや。帰る前にできることが一つある。君のお母さん、高原首相にお願いして、もう一人召喚して欲しい、いや召喚しなければならない人材が一人いるんだ。」

     疲れがピークにある真由実は、考えがまとまらない。ぼーっとしながら、

    「誰なのでしょうか?」と聞いた。

     道場教授は答えた。

    「御園剛史。おそらく彼はスーパーカミオカンデにいるだろう。あそこはかなり山奥だからヘリで迎えに行くことになるだろうが、神岡にヘリポートはあったのだったか。」


    第十一章 みーちょ

     もう最悪!0時過ぎたのに、男の人を捕まえられなかった。この前の男の人はみーちょに痛いことをしたり首を絞めたりする人だった。今日はいい人だといいなあと思っていたけど、マチアプで約束した人はこなかった。みーちょは、ずーっと待ってたのに。Xも空振り。でも立ちんぼはしたくないんだ。あれは、モテない女や家出少女の最終手段だよってミコちゃんが言ってたから。

     そうだ!ミコちゃんに会いに行こう!ミコちゃんはこの時間はあそこにいると、みーちょは思う。ミコちゃんの推し、ケントくんがいるホストクラブ、歌舞伎町の「Honey」。うん!行ってみよう。みーちょ楽しくなってきた!

     みーちょは渋谷から東京メトロ副都心線の終電に乗って東新宿駅で降り、歌舞伎町へ歩いた。歌舞伎町は0時過ぎても大勢の客と客引きで賑わっていた。この時間にみーちょみたいな小柄な女の子が一人歩いていると、2〜3人連れ立った男たちから、「お姉ちゃん!僕らとご一緒しない?」と呂律の回らない、酔っ払った声でからかわれる。彼らはお金にならない。スカウトからは「お姉さん。うちで働かない?」と声がかかる。みーちょは一つのお店に通うのは苦手だから断る。ミコちゃんは守ってくれるからお店で働くのがいいよって言ってたけど、みーちょは自由がいい、と思う。

     「Honey」に着いた。ゴージャスな重い扉を開けたら、ガンガン音楽が響いてきた。薄闇にスモークが地を這い、ミラーボールが天井でキラキラ回転している。みーちょは目を凝らしてミコちゃんを探す。

    「いらっしゃいませ。お客様。ご指名は?」

    「みーちょ、ミコちゃんを探しにきたの。」

    「ああ、ケントのところですね。ご案内します。」と案内された。

     ソファにもたれたミコちゃんはケントと、もう一人の男の子をはべらせている。

    「ミコちゃーん!!!」

    「え?みーちょなの?久しぶりだね、元気してた?」ミコちゃんはソファにもたれたまま、みーちょを見て言った。「まあすわんなよ。ねえ、新人クン、グラス持ってきて、グラス。」顎を振って指図する。「ここすわんな、ここ。」と新人くんが座っていたミコちゃんの隣を指す。

     みーちょは言われるがままに座る。ミコちゃんは男の人を自分の思う通りにしていてすごい。

    「ねえ、みーちょ。明日から私1週間夏休みなんだ!ケントも2日ぐらいは一緒にいてくれるんだって。みーちょが今日、ここにきてくれたのもきっと運命なんだよ。ねえ、みーちょ!私たちと海に行かない?今夜、これから行こうよ!ケントの友達が車出してくれるって!きっと楽しいよ!」

    「行く行く!!!みーちょ、海行きたい!!!」

     日付が変わって、運勢が変わったんだ! 昨日は不運続きだったけど、今日はきっとラッキーデーだ。

     ケントくんの友達の『舎弟くん』は家の車を借りてきたと言って、待ち合わせのファミマで合流した。『舎弟くん』の乗ってきた車が軽自動車だったから、ケントくんはすごく怒って、運転する『舎弟くん』の席のヘッドレストを後部座席からガンガン蹴った。もちろんケントくんの隣には、ミコちゃんがいてケントくんの肩に頭を乗せて「ギャハハハ」って笑っていた。

     助手席に座ったみーちょも「あははは」って笑った。みーちょもたまにいじめられるけど、みーちょじゃなくって、人がいじめられているのを見るのはちょっと面白くって、みーちょがいじめられているのじゃなくってホッとする。

     みんなが熱海に行こうって言って、高速道路に乗った。ケントくんもミコちゃんも酔っぱらっていたから、高速道路に乗る頃には眠ってしまった。みーちょはつまらなくなってしまい、『舎弟くん』に名前を聞いた。

    「ねえ、あなたの名前はしゃていくんなの?」

    「んなわけねーし。ちょーしこいてんじゃねーし。」となぜか、『舎弟くん』は怒っていた。

     みーちょは『舎弟くん』がなんで怒っているのか全くわからなかった。チラリと横顔を見たら、目に涙が溜まっている。

    「ねえ、泣いてるの?」と聞いたら、「うるせー!バカは黙っとけ。」と言われた。

     みーちょ、バカじゃないし!頭に来たのでもう眠ることにした。

     翌朝、目を覚ますと、ビーチは大雨だった。ケントくんがまた『舎弟くん』のヘッドレストを蹴った。


    第十二章 御園 剛史

     遺伝子学者の道場教授が言うにはMRIで繭が青白い光を放ったことについて言及し、素粒子物理学者の御園教授を召喚するように、真由実さんに要請したそうだ。道場教授曰く、青い光は「チェレンコフ光」なのではないか?とのことだ。文系の新庄にはよくわからない話だが、とにかく量子力学の分野の話である可能性が出てきたのだ。スーパーカミオカンデの内部には政府権限で入れるのだろうか?とにかく、御園教授を聖マリアンヌに連れて行かなければ。新庄ははるか上空のヘリの中で嘆息した。今日は家に帰ることができるだろうか?

     自動車整備工のようなツナギをきた御園教授は驚くほど大柄な男だった。もじゃもじゃの天然パーマの頭髪。金縁の小ぶりな丸メガネの奥には野心的な瞳が光っている。彼は、ずっとこの洞窟の中の研究室に篭りっきりであるため、世の中で何が起きているのか全く知らなかった。

     思えば聖マリアンヌに連れて行った先の三人の教授陣にも、未知の状態ゆえ真由実さんの撮った動画を見せて、いちいち説明したのだった。今回、御園にもまず、真由実の撮影した動画、カンファレンスルームで撮影された動画、を一通り見てもらい、補助的な説明をしたのち、チームに加わってほしいと要請した。御園はMRIにかけた繭の中身が消失したこと、その際、青白い光が発生したことに対する報告の箇所では「ほう。」とメガネの奥の目を輝かせていた。

    「新田くん、だっけ。ん?新庄くんか失礼。どうにも人の名前を覚えるのが不得手で。悪気はない。許してくれたまえ。」「君がここにきたのは間違いではない。道場教授の慧眼も実に的確だ。この状況を理解し、整理できるのは私しかいないだろう。やむを得まい。行くとするか。」とその巨体を椅子から剥がすように立ち上がった。「ヘリはうるさくて敵わんがな。やむを得まい。」と新庄をチラリと見て嘆息した。

     巨体に似合わない軽快なフットワークで、ひらりとヘリに乗り込んだ御園は防音のヘッドフォンをモジャモジャ頭に乗せて、ヘリが上空に舞い上がった途端、ノートパソコンを開いて実務を始めた。新庄もここぞとばかりに、各方面に報告をするべく溜まっていた案件を片付けようとノートパソコンを開けた。最新の新着メールの発信元が御園のものだった。目の前にいる相手にメールを送ってよこしたのだった。まあ、このヘリの爆音の中ではまともにコミュニケーションが取れないしな、御園の無駄のなさに新庄は苦笑する。

     メールの内容は簡素なものだった。

    「この2日間で重力計をネットで購入した人物を洗い出して、連れてきてほしい。」

     この一行だけだった。


    第十三章 聖マリアンヌ病院

     郁郎が繭になってから3日目の朝。玄関の呼び鈴が鳴った。郁郎のベッドの横に、居間のソファーを運び込んで、添い寝をしながら繭を観察していた篤郎は、起き上がってインターホン画面まで移動する。見るとダークスーツに身を包んだ男が3人、立っている。ボサボサ髪に、2日間風呂に入っていないヨレヨレのTシャツ姿の篤郎は、自分と対照的に物々しい姿の訪問者に怪しい思いを抱く。この事態を利用して、弱りきった親族からあの手この手で財産をむしり取る詐欺の手合いを警戒する。

    「…はい。どちら様?」インターホンのマイクに向かって告げる。

    「首相官邸のものです。橘篤郎さんですね?」

     はあ?首相官邸ときたか!最近の詐欺は隠れ蓑にする権力のインフレーションが起こっているのか?ついに首相まで到達してやがる。

    「うちは結構ですので、お引き取りください。」

    「橘篤郎さん、昨日、中古の重力計七百二十万円をネットで発注されましたね?」

     篤郎はドキリとした。なぜそれを知っているのか。篤郎は玄関にチェーンがかかっていることを確認して、ドアを開けた。途端に革靴の先がドアの隙間にねじ込まれる。これはカタギ連中ではない。篤郎はドアを開けたことを悔やんだ。

     仕立ての良さそうなダークスーツにインテリヤクザみたいなメガネをかけた男が、黒い皮のカバーがかかった身分証を提示してくる。『高原季実子事務所 第一秘書 新庄 淳』カラー写真入りの身分証だ。本物だとしてなぜここへ?頭の中に複数の「はてな」が跳ぶ。今更ながら、外は雨が降っていることに気づく。

    「橘篤郎さん。我々はあなたのことを少々調べさせていただきました。元理論物理学専攻の研究者であり、現在は高校教師。そして息子さんの郁郎さんが繭になってしまった。」新庄はチラリとドアの隙間から奥へと視線を泳がす。「個人情報の取り扱いについては、現在の未曾有の状況下でのやむを得ない判断としてご容赦いただくほかありませんが、橘篤郎さん、我々と一緒に来ていただけませんか?」

    「知っての通り、私は郁郎から目が離せない。ちなみに一体私をどこへ連れて行こうと?」

    「聖マリアンヌ病院です。」

     土砂降りの雨の中、着の身着のまま、半ば強引に連行された篤郎は、聖マリアンヌの『病理診断科』とプレートのついた室に通された。その20畳ほどの空間をパーテーションで区切って、対策室としているらしい。慌ただしく数人の白衣を着た人々が行き交っている。遠心分離機、ガスクロマトグラフィーなど、研究者時代を思い起こさせる、なつかしいマシンが忙しく立ち働いている。思えば、一般の病気に伏している方々もいる中で、さらに解析を急ぐ事案が勃発している現在は、混乱の極みであろう。篤郎は改めて現在の自分の状況は社会から離れて郁郎にだけ向かっている状態だったのだな、と自分自身を客観する。

    「御園教授、お連れしました。橘篤郎さんです。」

     パーティションの影の一つの机でパソコンに向かっていた巨体が椅子を回転させた。

    「重力計を発注したのは君だね。橋篤雄くん。」

     新庄が御園に耳打ちする。「橘篤郎さんです。」

    「ああ、失敬失敬!橘くん。」「君はある結論に到達したのだね?だから重力計が必要になった。」

    「それがどうしたと言うのですか?もう失礼して、郁郎のところに返してください。取り返しがつかないことが起こる前に。」篤郎ははたと気づいた。「…え?御園教授?あの?素粒子物理学の第一人者の?」

    「今はまだ取り返しのつかないことが起こる段階ではないよ。落ち着いてくれたまえ。」「そうか。君はまだ全ての情報を把握できていないのだね。内容がショッキングすぎて、一般にはまだ公開できていないからね。」「新庄くん、彼に、私が見た動画を全て見せてやるがいい。」

     新庄は驚いて確認した。「教授、この情報は国が保護し秘匿する情報ですが…。」

    「彼に見せないと始まらない。私が許可する。直ちに彼に見せたまえ。」

     新庄は、御園教授を何度も見やり、渋々タブレットを篤郎に差し出して動画を再生させた。

     動画を見終わった篤郎は呆然とした。切り裂かれた繭の中の溶解した児童。繭化を邪魔されて昏睡する児童。MRIでチェレンコフ光を発し消滅する児童。一歩間違えば、郁郎がそうなっていたかもしれない。

    「見終わったかね。」篤郎が動画を見ている間、教授は机に向き直ってパソコンでの作業に戻っていたのだが、篤郎が動画を見おえて顔をあげると同時に、椅子を回転させてこちらに向き直った。「先ほどの君の懸念だがね。取り返しのつかないことが起こる段階か否か、だけれども。」「動画を見てもらった通り、繭の中では人体の溶解と再結合が起こっている。昆虫学の九重教授の推論だと羽化まで一〜二週間だろうとの推測だった。政府もその推論を採用しているが。」一拍置いて御園は視線を落として続けた。「繭の中は3次元と位相の境界と私は考える。3次元のことわりにいまだに支配されているであろう繭の中身は、3次元的な時間制限にも同時に支配されている。よって3次元的な時間の流れの中での再結合だと考えられる。その時間はおそらく二週間ほどだろうと計算した。」「安心したまえ、まだ1週間と4日はある。君と話したかったんだ。」

    「なぜ、君は重力計を購入しようと思ったのかね?何が君に『これは重力を歪ませる現象だ』と気づかせたのかね?」御園が真っ直ぐに篤郎を見た。

     篤郎は繭を持ち上げてみて、質量が著しく減少していることの説明を考えたこと、振り子の実験が失敗に終わり、精密な観測機が必要であると結論づけたこと、をかいつまんで説明した。

    「なるほど!質量の消失か!呆れるほどの盲点だった!」「生物学の、うーーん篠原教授!そう確か篠原教授!繭の体重は計りましたか?」と、隣のパーティションに向かって大声をあげた。

    「体重?そういえば測っていなかったな。」パーティションからひょいと顔を覗かせた篠原が答えた。

    「よし。今から、全ての繭の体重を測りましょう。繭化直前の体重は親族から聞き取ってますかね?そのデータも高原さんからもらうことにしよう。橘さん、立ち会ってもらえるかな。」

     御園はその巨体を勢いよく椅子から離して、篤郎の返事を待たずに、その手首を掴み、子供達の繭がいる病室に向かった。

     病室はシュールな光景だった。6床のベット全てに卵形の繭が乗っている。それぞれのベッドの傍で母が、父が、兄弟が付き添っていた。寝たきりの患者の体重を測る「ベッド型スケール」をナースに用意してもらい、繭の乗るベッドに横付けする。シーツの四方をそれぞれ、御園、篠原、そして篤郎とナースが持ち上げ、そっとスケールに乗せる。

    「12kg」「8kg」「11.5kg」

     次々と測って記録していく。全ての繭を測り終え、

    「うん。質量は消失している。この3次元から。」と御園は結論づけた。

     篤郎のビデオでの観測データもスマホからメール転送で共有された。まだ透けて見える、郁郎の口から糸が出て繭が形成される様子は、皆感嘆の様子で見ていた。中でも昆虫学者の九重教授は興奮しきりだった。病室にも一人の繭にひとつずつ、定点ビデオが設置された。

     一仕事を終え、コーヒーブレイクの席で篤郎は先ほどから頭の中に引っかかっていた疑問を御園教授にぶつけた。

    「御園教授。先ほど動画で見せていただいた、MRIで消えてしまった児童はやはり3次元から消失した、と言うことですか?」

    「そう言うことになるだろう。MRIの強い観測による質量の消失、観測とは、対象に不可逆な相互作用を強いる行為だ。通常はそれが粒子の位置を確定させる程度で済む。だが今回の子供たちは、観測という相互作用を受けると、確定する先が3次元ではなく位相の側になる。観測されるほど、位相へ確定していく、と言う仮説を私は導き出した。」

    「観測!観測で質量の3次元からの消失がありうると。だとしたら私が郁郎をただ『観ている』ことも消失につながるのですか?」篤郎は青ざめて聞いた。

    「今回、外部からの観察における質量の完全消失が起こったのは、繭の内部を覗き見る行為だけだ。エコーで観た時にも若干、輪郭がぼやけるなどの現象が発露している。この状況から鑑みて、私は児童の体内から吐き出された糸で構成された繭自体が、一種の結界となって内部を外側からの観測から守っているのではないかと思っている。」

    「御園教授の、その仮説が正しければ………やがて繭から出てきた郁郎は観測されることによって消えてしまう……のでしょうか………。」

     心から残念そうな表情を御園は浮かべて篤郎を見たが、篤郎は気づくことなく呆然と立ち尽くした。

    「追い打ちをかけるようで申し訳ないが、変容が完了するまでの時間なのだが、質量が減っていることにより、短くなることが予想される。おそらく一週間ほどで変容は完成するだろう。残された日はあと4日ほどだな。」

     聞いているのか、聞いていないのか判然としない篤郎は虚空を見つめて、ただ肩を落として固まってしまった。


    第十四章 安藤 亜衣

     朝のニュースで子供達の羽化はおおよそ3日後だろうと報道された。亜衣はりりあの繭の隣に添い寝して、スマホの写真フォルダから、りりあの写真を選択しては眺めていた。

     生まれたばかりのりりあ。髪がなかなか生えなくって、男の子によく間違えられていた。なかなかおっぱいが上手に飲めずによく吐き戻したっけ。3歳のりりあ。七五三のお宮参りで写真を撮ってもらったなあ。この頃から、髪型はツインテールがお気に入りで、お着物なのにツインテールをせがまれて。笑える。

     涙が流れる。涙が流れる。もう枯れ果てたかと思うのに、際限なく流れる。

     あと、3日。元のりりあが帰ってきてくれる。何事もなかったかのように。また、毎日、髪を結って、元気にランドセルを背負って、学校に行く日々が帰ってきてくれる。亜衣はそう信じようとした。だが亜衣の母としての本能は察知していた。もう取り返しのつかないところに来てしまっていることを。そのことを見ないように、巧妙に蓋をして、何もわかっていないふりをした。

     ただ胸にこだまする言葉が消えずに残った。「なんで?」「なんでなの?」


    第十五章 みーちょ

     今日の夕方、ケントくんがこれ以上仕事を休めないと言って、『舎弟くん』と一緒に歌舞伎町へ帰って行った。ミコちゃんがまだここにいるって言い張ったから、みーちょも一緒にこのホテルに残ることにした。晴れたらビーチに行って遊んで、焼きそばを食べたり、缶チューハイを飲んだり、砂浜に寝転んだり。夜はホテルでおいしいものを食べたり温泉に入ったり。でもみーちょはお魚が苦手で、ハンバーグなんかが好きなんだけど、みーちょは大人だから我慢してお刺身を食べたよ。温泉は気持ちいいし、サウナで酔っ払ったケントくんが倒れて、男湯が大騒ぎだったりして、面白かった。

     みーちょ、こんなに楽しいことは生まれて初めて。ずっとミコちゃんとこんな日が続けばいいのに。

     ミコちゃんと二人きりになって、ミコちゃんが言った。

    「ねえ。あの、みーちょがトイレで産んだ男の子さぁ、あれってどうしたの?」

     みーちょはすっかり忘れていた。ずっと忘れていたかったのに思い出してしまった。みーちょはちょっと不機嫌になってミコちゃんに言った。

    「ミコちゃんの意地悪!思い出しちゃったじゃん。せっかく楽しくて忘れてたのに〜。『あれ』ならまだ押入れにいるよ。ぜんっぜん、かわいくないし臭いんだよ、あれ。」

    「あはは。そっかそっか〜。じゃあもう死んじゃってるかもね〜。ウケる〜。」ミコちゃんは笑って言った。「温泉いこ!パーっと温泉で思い出したくないこと、流しちゃえ〜」

    「あはは!みーちょ、流しちゃおっと!」

     みーちょの機嫌は一瞬で持ち直した。


    第十六章 橘 篤郎

     聖マリアンヌで御園教授から告げられてから、篤郎は頭が真っ白になってしまった。新庄に抱えられるように車に乗せられ、マンションのドアを新庄に開けてもらい、ダイニングの椅子に座らされていた。ただ、雨が降っていたことは覚えている。許されるなら、ずっと雨に打たれて自分の存在が雨に溶けて流されてしまえばいい、とおぼろげに思ったことを覚えている。それから、ずっと椅子に座って身じろぎもせず虚空を見ていた。

     気づいたら朝だった。「ハッ」と我に帰った篤郎は、「郁郎!」と慌てて、郁郎の部屋のドアを開けた。

     郁郎の繭は出かける前と寸分違わず、そこにあった。

     胸を撫で下ろした篤郎は、郁郎の部屋に運び込んだソファを再び居間に戻した。

    「郁郎を観測したら、消えてしまう。」

     それは恐ろしいことだった。願わくば、郁郎の成人した姿が見たかった。どんな素晴らしい大人になったろう。郁郎の目を通してみた世界の煌めきを、ずっと篤郎にも分け与えて続けて欲しかった。あのアゲハ蝶の羽化を見守る一対の目の輝きは、何とも引き換えられない、この世で一番素晴らしいものの一つだ。郁郎の成長を見守ることが、親としての篤郎の最大の喜びだったのに、『見守る』行為が郁郎の3次元からの消失となってしまう。

     どうしたらいい?和泉、教えてくれ。亡くした妻の名前を呼ぶ。君がこの世に残して行ってくれた、たった一つの尊いものが、3日後には消え去ってしまう。俺はあまりにも無力だ。郁郎に何もしてやれない。

     篤郎はしばらく考えて、繭の前のビデオはそのままにした。


    第十七章 繭化7日目——橘 篤郎

     ついにこの日を迎えてしまった。篤郎は、自身の脳が正常に作動するように、最小限の食事を無理やり詰め込んだ。食料を買い出しに行く気にはならなかったため、非常用に蓄えていたインスタントの非常食を食べた。味などどうでも良かった。頭さえ働けばいい。頭を働かせるにはブドウ糖が必須だからだ。

     篤郎は、どうにか現状を打開できないか、最後の0.0001%ののぞみにかけて、郁郎を取り戻す方策を考えた。パソコンを開いてAIにも聞いてみた。聖マリアンヌに電話をかけて御園教授にも聞いてみた。

    「繭内で起こっている3次元から位相への移行はもう始まってしまっている。我々3次元の人間の力ではもう何もできることはないよ。残念だ。本当に。」

     教授は諦めることができて幸いだ。父は諦めることができない。篤郎はこの日の日中、パソコンに齧り付いて、様々な論文をアーカイブから引っ張り出して読み込んでいた。時間は刻一刻と過ぎていく。羽化の時間が迫ってアドレナリンが脳内に過剰に分泌されているのがわかる。窓に西陽が差し始めた。篤郎はコーヒーを入れにキッチンに立った。カフェインでシャキッとしよう。エアコンの効いた室内で、篤郎の額には冷や汗で髪が張り付いていた。目は血走り、軽い尿意が続く。そして、気づく。何もできなかった。時刻はいつの間にか23:55だった。

     篤郎はソファに倒れ込んだ。

     そしてまどろんだ。

     篤郎の目の前に幾何学模様のねじれた空間が展開する。幾本ものトンネルの先、全てに郁郎がいた。

    「郁郎!」篤郎は叫んだ。叫んで駆けた。幾何学模様のトンネルを闇雲に駆けた。だが、郁郎はその度に遠ざかる。

     郁郎の笑い声が聞こえる。本当に楽しそうな笑い声だ。それはトンネルの四方八方から届いた。篤郎の足の下からも頭の上からも響いた。

     やがて郁郎が言った。「お父さん」

    「郁郎、大丈夫なのか?寂しくないのか?お父さんは寂しいよ。気が狂うくらい。」

    「うん。大丈夫だよ。寂しくないよ、ねえお父さん、僕、今ではなんでも知ってるよ。お母さんがなんで死んだかも知ってるよ。」笑い声がこだまする。

    「…………そう…なのか。」

     笑い声のボリュームが上がっていく。

    「ねえ、お父さん。寂しがらないで。僕はいつもお父さんのそばにいるよ。」

     篤郎は叫んだ。「でも、お父さんはもう二度と郁郎を抱きしめることができない!」

     笑い声が止む。一瞬の間を置いて、クスクス笑いからまた愉快そうな笑い声になる。

    「そうだね。でも、お父さんは大丈夫。」「大丈夫だよ。」

     『大丈夫』が繰り返され、クスクス笑いがフェイドアウトしていくと同時に、幾何学模様のトンネルも崩れていった。

     目を覚ました篤郎は時計を見た。23:55。数十秒しか経っていなかった。

    「郁郎!!!」篤郎は郁郎の部屋に飛び込んだ。

     そこには、パックリとわれた繭の中央に、内側から光を発するアゲハ蝶がいた。そのアゲハ蝶はこの世のものとは思えないほどの尊い美しさを讃えていた。篤郎はなすすべもなく見惚れた。あまりの神々しさに射すくめられて動くことができない。

     やがて輪郭がぼやけ始め、光が弱くなると同時に吸い込まれるように消滅した。

    「行ってしまったんだな。」呟いて、篤郎はくず折れた。頭の中には、郁郎の楽しそうな笑い声が響いていた。


    第十八章 繭化7日目——安藤 亜衣

     人は水さえ飲んでいれば数週間は生きられると聞く。世の中には何も食べずにいられる人が少数いると聞いたこともある。亜衣はトイレと、たまに水道水を飲みにキッチンに行く時以外、ずっとりりあの繭のかたわらにいた。お腹は空かなかった。

     スマホでYouTube動画を見ると、当事者以外の目線で、子供たちの繭化を偉そうに解説した動画で溢れている。無神経なものも見受けられるが、概ね、『アセンション』などの用語で語られている。彼らによると、りりあはスターシードなのだそうだ。亜衣は一通りそれらを見たが、「どうでもいいからりりあを返して!」以外の感想を持つことができなかった。

     そう言ったYouTube動画を見るかたわら、亜衣はりりあの写真を繰り返し飽きずに眺めるのだった。亜衣の中で昼も夜も溶けて無くなった。りりあのいない世界は生きている意味がない。「りりあ。」呟いていまだ枯れ果てない涙を流す。私の流す涙がりりあに届いて、りりあが眠りの森の美女みたいに目覚めたらいいのに。何回目かの試みで、繭に自分の涙を垂らしてみる。

     何も起こらない。何も起こるはずもない。

     私は母親失格だからだ。私に女の魅力が欠けていたせいで、夫は別の女に走った。結果として、りりあは父を失った。私のせいだ。私が美容師の仕事を続けているせいで、りりあに寂しい思いをさせてしまった。春休みも、夏休みも、冬休みも、どこにも連れて行ってあげられなかった。そんな母の涙は奇跡を呼ばない。

     ああ、神様。なんの神様だっていいので、取るに足らない存在である私に情けをください。どうぞ、りりあをもとに戻して。せめて無事だったさくらちゃんたちにはあって、ウチのりりあに欠けていたものはなんだったのかを教えて。

     何百回、何千回と繰り返したループに亜衣は溺れていた。

     23:55。

     りりあの繭の傍で、亜衣はまどろみに落ちた。

     気がつくと亜衣は、フワフワしてモコモコして、パステルカラーで、たとえ何であっても傷つけることができない、そんな空間にいた。包まれた安心感に身を委ねていると、不意に、りりあの笑い声が聞こえてきた。声はふわふわやモコモコに優しく吸収され、安心感を更に増した。「くすくす」「うふふふ」「あははは」いろんなりりあの笑い声が聞こえてきて、亜衣は安心と歓喜を同時に感受した。

    「りりあ?」亜衣は呼びかけた。この空間はりりあで満ちている。

    「ママ。」りりあが答えた。

     りりあの声が私を呼んでいる。りりあが続けた。

    「ママ、私は大丈夫よ。」「ねえママ、『なんで?』って聞かないで。お約束だからね。」

    「りりあ、ママはね、いいママではなかったね。ごめんね。りりあに寂しい思いをいっぱいさせちゃったね。パパが出ていっちゃったのもママのせいだものね。ごめんね、謝るから許して。」

    「ママ、りりあはママを守りたかったんだよ。」

    「りりあがそうなってしまったのは、ママのせいでしょ?だからママから離れていってしまうんでしょ。パパも、そしてりりあも!ママのせいで!謝るから、ママ、ちゃんとするから、りりあ、戻ってきて、ママはりりあがいないと生きていけない!」

    「ママ、ちがうよ。ママ…。」

     気がつくともう、くすくすも、うふふふも聞こえてこない。亜衣の脳裏に無事だったさくらちゃんの顔が現れて点滅する。

    「……………じゃあ、なんで…。」

     その瞬間、『なんで』に呼応するすべての回答が、亜衣の脳にドンと音を立てて流れ込んだ。その情報量は亜衣の精神を肉体から乖離させるのに十分な量だった。

     亜衣はまどろみから覚めたが、亜衣の心はどこかへ彷徨い出たままだった。亜衣の足の間から尿がしたたり落ち、シーツに黒いシミを作っていった。

     そして羽化が始まった。亀裂が入り、割れた繭から、チョコが好きで、りりあの名前によく似た名前を持つ、友達や母を守るはずだった怪獣が現れた。

     亜衣はそれを眼球に写すが、その像は亜衣のこわれた精神に意味を結ばない。やがて、怪獣は輪郭がぼやけ、だんだんと光を失い消失していった。

     その様子を亜衣の目は見つめていた。まばたきすらせずに。


    第十九章 繭化7日目——みーちょ

     ミコちゃんは言った。

    「私はホテルの予約を取って、宿泊代金は払ってあげたんだから、この追加料金はみーちょが払ってよね。」「お部屋の冷蔵庫の飲み物、みーちょがいっぱい飲んだし、ホテルのレストランで美味しいもの、いっぱい食べたよね。だからみーちょが払って当然なんだよ。」

     みーちょはそう言われて、マイメロの財布を開けてみた。

    「でも、3万2000円しかないよ。」

    「マジで?そんだけしかないのに、ついてきたの?信じらんない!」「…まあ、いいわ、カード出しな。クレカ、あるでしょ。」

    「みーちょ、カード作れない。」

    「あっちゃー。」と言って、チェックアウトのカウンターの向こうにいる、困り顔のホテルの従業員に目をやる。

    「とにかく、私は宿泊代金払ったんだから、残りの20万はこの子から取って。」ミコちゃんは今度はみーちょに向かって言った。「みーちょ、ここで働いて返すといいよ。頑張ってね。じゃあね。」

     ミコちゃんはキャリーケースを引いて、ミコちゃんを迎えにきたケントくんと『舎弟くん』が待ってるロビーで合流すると、三人はみーちょを置いて行ってしまった。

     振り向くと、汚いものでもみるような目つきでみーちょをみるホテルの従業員がいた。

     警察が来て、みーちょは根掘り葉掘り聞かれた。頼れる家族はいないか?と聞かれて、岩手のママとおばあちゃんを思い出したけど、悲しくなって、涙が出そうになって「いません。」って答えた。みーちょはきっと世界で一番、かわいそうな女の子なんだって思ったら、本当に涙が出て止まらなくなった。警察は呆れていた。みーちょ、こんなにかわいそうな女の子なのに、泣いてるのに、同情するとか、優しい言葉をかけるとか、ないの?普通、あるでしょ? みーちょはもっとみーちょが可哀想になって、声を上げて泣き出した。

     困り果てた警察と、ホテルの人が決めたのは、みーちょが借用書を書くこと、一月に一万円ずつ返すこと、みーちょが持っているお金から、電車賃だけ引いた分を支払うこと。

    「もうこんなことをしちゃ、ダメだよ。」と言ってパトカーはみーちょを駅に置き去りにした。

     疲れ果てたみーちょが、アパートに着いたのは、25:05だった。


    第二十章 繭化7日目——ひとし

     暗い押入れの中の、菓子パンの空袋でいっぱいの、割れた繭の中で、ひとしは目覚めた。

     ひとしは、いつか願った通り、小人になっていた。

    「そうか、私は私だったんだ。」全てを理解した。

     曲がっていた手足はまっすぐになっていた。今ならかつての状態が「くる病」だったことがわかる。押入れから出されることなく、日光を浴びず、菓子パンばかり与えられたビタミンD欠乏による帰結だ。

     留守のみーちょさま、母が、今熱海にいることもわかった。ひとしにはもう辛いと感じることは何もない。暑くもない、寒くもない、お腹も空かない、喉も渇かない、排泄もない。母を恨むとか、そんな感情に至ってはもったことがない。

     ひとしは押入れの襖を透過して、部屋に降り立った。歩いてみる。走ってみる。逆立ちをしてみる。変容前のひとしにできなかったことが全部できる。

     違う。これじゃない。かつての私に欠けていたもの。そして今の自分に欠けているもの。私には何かが決定的に欠けている。

     ひとしは、襖の向こうの、つけっぱなしのテレビ放送が気になった。1週間前まで、テレビはひとしの世界の全てだった。ひとしはテレビに集中してみた。

     「夏休み直前!ディズニーランドを丸ごと満喫スペシャル!」の再放送だった。キャラクターの風船を手放してしまって泣く子供を慰める母。遊び疲れた子供を背負う父。お揃いのキャラクターの耳をつけて、はぐれないよう手を繋ぐ兄弟。この日を留めておこうと、笑顔で写真に収まる家族。そこにはお互いを思いやる眼差しが溢れていた。

     気がつくとひとしは、深夜の寝静まったディズニーランドにいた。


    第二十一章 繭化7日目——高原 真由実

     3日前の朝、カンファレンスで御園教授から、今回の児童繭化騒動で起こっていることの説明を聞いた。それは日々、子供達の肉体に接する仕事をしている、真由実にとって脳が理解を拒む内容だった。

     御園教授は『観察すると消滅する』と言った。患部を観察し、然るべき処置を施すのが我々小児科医の仕事だ。診ることができない以上、我々は、私は、医師としてできることは何もない、ということを改めて突きつけられたのだ。

     今夜あたり羽化が始まるのではないか、とのことで、医局全員と繭になった児童のご家族の方が、モニタールームに集まった。観測されると消失してしまうが、中の児童は繭で視線から守られているらしい。羽化し、守られる繭がなくなれば、直接の観測により、消滅してしまうだろうことが予想される。では間接的にビデオ越しの観測ならどうなのか?御園教授は試す価値があると踏んで、一人一人の繭に一台ずつ定点ビデオを設置した。

     家族は話を聞いて、不安を明らかにした。無理もない。子供が消滅してしまうかもしれないのだ。わずかな可能性も排除したいだろう。しかし、羽化した子供達を見ずに放置しておくこともできない。今できる最善の行動が、ビデオ越しに観察するということだ。

     真由実は今日6杯目となるコーヒーを一口含む。今日何らかの結果が出る。人智を超えた領域での、おそらく有史初の出来事の証人となるのだ。真由実はコーヒーを飲み下した。

     23:55。

     親族たちだけが、一斉にぼんやりと視線を虚空にすえ、無言になった。数十秒ののち、覚醒した親族たちは、口々に子供の名前を呼びながら、医師が止めるのも振り解いて、病室に飛び込んだ。

     真由実はモニターで一部始終を目撃した。

     一瞬、青白いチェレンコフ光を発した繭に亀裂が入り、やがて二つに割れた。割れた繭の中から現れたのは、人気キャラクター、戦闘ヒーロー、マーベルヒーロー、電車、など取り止めのないものたちだった。真由実たちは呆気に取られて見ているより仕方がなかった。その取り止めのないものたちは、一様に神々しく、光を放つ。変容した子供達の周りに集まった親族も、まるで魂を抜かれたような顔で見入っている。

     そして、2分だろうか3分たっただろうか、変容した子供達の輪郭が消え始め、姿が空間に溶け始め、やがて消滅した。ベッドの上には空の繭だけが残された。

     真由実は思った。家族の眼差しで観測されて消えてしまうならば、観測されなかった子はどうなるのだろう。かつての私のように。


    第二十二章 最終章

     ひとしは深夜のディズニーランドにいた。確かにここにあるはずのものが自分には欠けている、という確信があった。それは何なのだろう? わからない。

     ひとしは知っていた。ひとしが「私は私である」と知ることになった現象は、世界中で起きている、ということを。そして、ほとんどのひとしと同年代の子供達は、全て位相に移ってしまっていることを。

     私は小人分の質量だけここに残ってしまっている。完全に移動できたものと、ひとしの違いは何なのか?おそらくそれがひとしに欠けているものなのだろう。

     ほのかに光るものがこちらにやってくる。私と同様に小人の姿だ。その小人は、私だった。この世界で6年間違う場所で生きてきた私だった。

     ひとしと、その小人は、どちらからともなく、中指を合わせた。すると、そこから溶け合うように同化が始まった。完全に一体化した二人の質量は元の小人一体分のままだった。

     ほのかに光る、違う私が集まり始めた。

     郁郎が行ってしまった。一睡もできずにいた篤郎は、朝日のさし始めたベランダに出る。この、朝の光の中にも郁郎がいる、はずだ。篤郎は郁郎の小さな手を思った。鉛筆を握りしめる手。大好きなカレーを口に入れるスプーンを握る手。篤郎を手招きする手。そしてバイバイと振る手。どこにでもいるはずの郁郎の手はもうここにはない。

     すっかり枯れ果てた家庭菜園を抜けて、手すりに寄りかかる。

     目に涙が残っていて霞んで見えたのかもしれない。篤郎は目を擦る。一瞬、彼方に見えるシンデレラ城が歪んで見えた。目をしばたかせてもう一度見る。シンデレラ城とその背景の空が奇妙に歪んでいた。


    エピローグ

     みーちょは明るい光の中で目を覚ました。昨夜、帰り着いて、玄関に倒れ込んでそのまま眠ってしまったのだ。

    「いてて」硬いところで寝たので、腰が痛む。

     キッチンで水を飲んでいて、思い出した。「もう死んでるかもね。」ミコちゃんが言っていたっけ。

     おそるおそる、みーちょは押し入れを開けた。つけっぱなしのテレビと、菓子パンの空袋と、何か見たことのないものがある。白くて卵形で中が空洞で、中に入ったら安心して眠れそうな何か。『あれ』はどうやらいなくなったらしい。

    「ま、いっか。」

     みーちょはお菓子を探しにキッチンに向かった。

                  終わり

     
     

    wacco

     
     
    日本に息づく麹たちの活躍を絶やすまいと、 ひとり山間部でジタバタするものです。 麹たちを見守りながら、湧き上がり、溢れ落ちる、 日々の思索をnoteにしたためます。 『繭』創作大賞・ファンタジー部門エントリー中! 応援よろしくお願いします!

    あなたへのおすすめ