
フィクションが読めない脳
あらすじ
物語を“筋”ではなく“構造”で読むー
そんな独特の脳の位置から世界を捉える筆者が、
フィクションが読めず、ノンフィクションだけが読める理由を探る思考の記録。
フィクションが読めない。
物語の筋を追えない。
けれど、世界がどの“層”から立ち上がっているのかだけは、いつも先に見えてしまう。
この文章は、
“立体で世界を見る脳”を持つ私が、
フィクションとノンフィクションの境界、
読むという行為の奥にある構造、
そして創造性の向かう方向を静かに辿った記録です。
出来事を平面ではなく立体で捉える脳。
物語の展開よりも、
世界がどの“層”から立ち上がっているのかが先に見えてしまう感覚。
読むという行為の奥にある、
「立ち上がりの位置」「層の深度」「創造性の方向」を静かに掘り下げていく。
物語を読むとき、私は“ページ”ではなく“構造”を読んでいる。
文字の流れよりも、世界がどの位置から立ち上がっているのかー
そのほうが先に見えてしまう。
ずっと説明できなかった違和感がある。
物語の筋を追うよりも、
その物語がどんな「脳の位置」から生まれているのかが先に立ち上がる。
私は長いあいだ、それを自分の欠落だと思っていた。
けれど、ある日気づいた。
これは欠落ではなく、
“立体で世界を見る脳”の話なのだと。
この文章は、その脳の位置から見える世界の構造についての記録だ。
第1章:立体型の脳とフィクション/ノンフィクション
私の脳は、世界を“平面”ではなく“立体”で捉える。
出来事は時系列で並ばず、複数の層が同時に立ち上がり、
その重なりの中で意味が形を持つ。
だから、フィクションとノンフィクションの境界も、
一般的な線引きとはまったく違う位置にある。
ノンフィクションは読める。
そこには現実の層がそのまま残っているから、
私の脳はその構造を掴みやすい。
読めないのは、むしろフィクションのほうだ。
物語の“流れ”を追う読み方よりも、
世界の“立ち上がりの層”のほうが先に見えてしまうから、
筋が頭に入ってこない。
フィクションは、現実の層から少し離れた位置に置かれた“別の立ち上がり”。
ノンフィクションは、現実の層と地続きのまま立ち上がる“同じ構造の延長”。
私にとっての境界線は、
“物語か現実か”ではなく、
どの層から世界が立ち上がっているか
その位置の違いにある。
第2章:立体型の読書構造──私はどこで物語を読んでいるのか
私はずっと、「自分はどこで物語を読んでいるのか」を説明できなかった。
ページの上でも、ストーリーの筋でもない。
もっと別の場所──
物語が立ち上がる“位置”そのものを読んでいる。
多くの人は物語を「追う」。
けれど私は、物語の“奥行き”を同時に見てしまう。
あるシーンを読んでいるとき、
その背後にある世界の層、
作者の視点の位置、
物語がどの方向へ伸びようとしているか──
それらが一斉に立ち上がる。
ページの上の出来事は、
その立ち上がりの“表面”にすぎない。
私はその奥にある、
世界の構造そのものを読んでいる。
第3章:創造性の方向性──思考はどこへ向かうのか
私の思考は、前へ進むのではなく、
奥へ沈んでいく。
創造とは、何かを付け足すことではなく、
余計なものを削り、
構造の核だけを残していく動き。
その核に触れたとき、
世界は突然、立体として立ち上がる。
私はその瞬間を、
ずっと追いかけてきた。
創造性とは、
新しいものを作ることではなく、
すでに存在している構造の“位置”を見つけること。
終盤:静かな着地
私は物語を“追う”ことができない。
けれど、物語がどこから立ち上がっているのか──
その“位置”だけは、いつもはっきりと見えてしまう。
フィクションが読めないのは、
その位置が現実の層から離れすぎているからだ。
反対に、ノンフィクションは読める。
現実の層がそのまま残っているから、
私はその構造に触れられる。
私はずっと、この読み方を“異質”だと思っていた。
けれど、異質だったのは読み方ではなく、
私の脳が世界を立体で捉えているという事実のほうだった。
世界はいつも、
層の奥から静かに立ち上がる。
私はその立ち上がりを読む。
それが、私の読み方であり、
私の創造の位置だ。