
推しのラジオが聴けなくなった
「人生一度きり」
人生一度きり。
私はこの言葉を言う人にちょっとしたアレルギーがある。
自分が、その一度きりの人生でおおこけしてしまっているものだから、その言葉一つでぐんぐん前に進んでいける人を見ていると「自分なんか」と、とことんネガティブ思考に陥ってしまうからだ。
(おおこけの事については後に触れるので今は流してほしい)
そんな私が唯一自分の存在意義を感じられる時間が、断捨離をしている時だった。
家中の要らなくなった物を見つけては捨てる。状態が良いものは近所のリユースショップに持って行き小銭稼ぎをしている。
要らない物を手放すと、その分心が軽くなる気がした。
先日、コロナ給付金で買ったベースをリユースショップに持って行った。
YouTubeの初心者用練習動画を見て練習していたが、一、二カ月の間練習を続けて、その後一、二年はベースに触らない、という事の繰り返しだった。結局六年近く手元にあったが、初心者用の練習動画から抜け出せないままベースを手放す事になった。
ベースを触っていない期間は、毎晩部屋の隅で佇むベースを見る度にちょっとした罪悪感を覚えていた。ベースを手放した大きな理由はそれだ。
今では何の後ろめたさも無く、寝る前の時間で読書をしたりストレッチをする事が出来ている。
ベースを売った勢いで、何年も手に取っていなかった漫画をごっそり古本屋に売りに行く事にした。
埃を取りながらエコバッグに入れていると、漫画の間から五年前に妹からもらった手紙を見つけた。しかし、私は意識的にその手紙から視線を外してエコバッグを手に部屋を出た。
白い封筒にラベンダー色のペンで私の名前が書いてある。妹の小さくて整った字で書かれた手紙は、五年前の私の誕生日に妹がくれたもので、枕元に置いて置きふとした時に読んで心を癒していた。
しかし、今の私にはその手紙を開く勇気が無かった。なぜなら、その手紙に書かれた「自慢の姉」は、もういないからだ。
私はずっと、妹の「姉」として、妹の前を歩いてきたつもりだった。そうあるべきだとも、頭のどこかで思っていた様にも思う。
幼児の頃の私は、お餅のように白くて、腕や足は、某コンビニのちぎりパンの如くムチムチだった。
対して妹は、小麦色の肌をして、手足はほっそりとしていた。
私が飲み切ってしまったせいで殆ど出ないおっぱいに、必死にしがみ付いて泣いていた。
私が九歳で妹が二歳の時、母が病院に行く為に家で祖母と待っているよう言われたのに、妹は泣きながら母の後を追いかけた事があった。私はそんな妹の腕を引っ張り、家に連れ戻した。
社会人一年目の頃は、高校生の妹とよく遊んだ。部活終わりの妹と合流して、行きつけのインドカレー屋に行ってから、カラオケで二時間歌って帰るというのが二人のテッパンだった。
働いて給料を貰っていた私は、当たり前の様に妹の分も払っていたが、妹にお金を払わせないとか、そういう事で自分的「姉らしさ」の様なものを妹や社会の前で披露して満足していたのかもしれない。
私はずっと、「姉」とはこうあるべきだという考えに縛られていたのだろう。
そして、五年前に心を病んで仕事を辞めてからは、今までの様な「姉」ではいられなくなっていく自分が惨めで、ただただ自分の運命に対して苛立っていた。
気づけば、正面から妹と顔を合わせる事が出来なくなっていた。
「偏見モンスターは私だった」
美容院の予約ページで職業を選択する時に毎回躊躇してしまう。
「アルバイト」を選択するほんの些細な事に、私はものすごい気力を使ってしまうのだ。
毎回、担当美容師は私の職業欄を見てどう思うだろうなんて気にしながら入力している。
三十四歳、独身、アルバイト、実家暮らしというプロフィールを、少しでもましなものに出来ないかと考える日々だが、既婚者になるという望みはかなり薄い。
出会いを求めて何度かアプリを登録した事
はあったが、自分と気の合いそうな男性を探している内に、金銭的に自立出来ていない自分が婚活だなんて、養ってもらう気満々の図々しい人間だと思われるに決まっているという考えになり、結局アプリを辞めてしまうのだった。(私の個人的な考えに過ぎないので、似た立場の方は、どうかご自身とは切り離して他人事として読んで頂きたい)
「アルバイト」、「実家暮らし」というプロフィールを変える事も難しそうである。
実家から出て一人暮らしをする為には、正社員等で働き、安定した収入が必要になる。
私は五年前に、強迫症という精神疾患を患い、正社員の職を手放している。
無職の状態に危機感を覚え、心身を休める間のつなぎとして始めたアルバイトだったが、あっと言う間に五年が経ち、現在六年目に差し掛かっている。
始めは自転車で通勤していたが、しばらくすると自転車に乗る事にも不安感を覚えるようになって、そのうち外を歩く事さえ不安が付きまとうようになった。
今では中学生や小学生の横を通るにも、十分な距離を取りながらびくびくと歩くといった具合だ。
今まで何の気なしに出来ていたゴミ捨てなんかも、今は何度も確認しないと不安で捨てられなくなっており、自尊心なんてとうに無くしてしまった。
「私の人生って…」という思いを常に頭に宿しながら、下を向いて歩く日々が続いた。
そんな中、ある事をきっかけに、ある事に気づいた。
二年程前のバイト先から家までの帰り道の事だ。普段から下を見て歩くのが癖になっていた私は、地面に何かが落ちているのが目に留まり、直ぐに気になって仕方なくなった。
私は立ち止まり、地面を凝視した。どう見ても枯れ葉でしかないのに、目が離せなくなるのだ。本当にこれは枯れ葉で合っているだろうか、という思考沼に足を取られて身動きが取れなくなってしまった。
その時、後ろの方から聞こえた「あれ~どうしたんですか」という声で、沼から片足だけがズポッと抜けた。
声のした方に顔を向けると、同じ職場のパートナーさんが自転車で私に追いついたところだった。
「あ、イヤホン落としちゃって」
私は咄嗟にワイヤレスイヤホンの片割れを耳から外して見せると、パートナーさんは笑って手を振り、再び自転車のペダルをぐっと踏んだ。あっと言う間にパートナーさんの後姿は豆粒程の大きさになって見えなくなってしまった。
パートナーさんとは家の方向が同じ為、帰り道で度々、パートナーさんに追い抜かれるのだ。
その日の後にも似た様な事があった。
私が人とすれ違った後に、その人にぶつかっていなかったか不安になって、道を戻っている途中にパートナーさんと鉢合わせたのだ。
帰り道を逆走する私を見て、パートナーさんは少し困惑した顔をしていた。その表情で、私の心はしくしくと痛んだ。
空は晴れていて風は穏やかに吹いている静かな昼下がりに、私は独りぼっちで道の真ん中に立ち尽くしていた。
翌日、仕事の始まる直前の、他の従業員も居る場で、パートナーさんと目が合った。
「あ、そういえば、昨日は逆走なんかしてどうしたんですか?」
それはまるで、朝ごはんは何食べましたか、とでも聞く様な調子だった。
私の背中は一瞬冷たくなったが、決して嫌では無かった。むしろ少し嬉しかった。
その時、自分がなぜアルバイトとして働いているのかを周りの人に知られていない事が、嫌なのだと悟った。
職場の人達は皆、独身の私がなぜ、アルバイトとして働いているのかという事に引っかかりを持っているはずなのに、聞いてくる事は無かった。
気を使っての事だろうが、私はいつも皆から片目を瞑って見られている様な気持ちだった。
だから、パートナーさんが私の行動への疑問を素直に口に出してくれた事で、私は弁明の機会を与えられた気がして、だから嬉しいと感じたのだろう。
それはつまり、自分がアルバイトでいる事に不満を持っているという事になる。
私は自分の中には「正社員で働いてこそ一人前」という思考が、だいぶ深くまで根を下ろしていた事に気づいたのだ。
ある晩、私は湯船につかりながら、手の平で湯を掬っては落とすといった特に意味の無い行為を繰り返していた。
ちゃぷちゃぷというお湯の音と、夕方から激しく降り続く雨が地面を打ち付ける音だけが聞こえていた。
雨の音に良く耳を澄ますと、それが均一ではない事に気づく。葉に落ちる音、バケツに落ちる音、物置に落ちる音、窓ガラスに当たる音は全て違った。が、全て雨が生み出している音だった。
私は、それらを聞いていると母の胸に抱かれて眠る赤ん坊の様な心地になれた。
浴槽の中で丸まる私には、男か女かも、正社員かそうじゃないかも、既婚か未婚かも、どうでも良かった。
自分が何者かである必要が、ここには無かった。
湯を足先に絡まらせるようにして、お風呂から上がった。
「バタバタしてるよ!私!」
久しぶりに高校の同級生の結婚式に参列する機会があった。
リビングでマニキュアを塗っていると、母がテーブルの上の招待状を見て「あ、同じ部活だった子ね。そっかー、あの子も結婚かー」としみじみと友人の新しい苗字の部分を見ていた。私は母の方へ反射的に顔を向けた。
「私は…」と口を開けば零れそうな言葉達を飲み込んだ。
チャペルの扉が開き、新郎新婦が出てくると、私達は事前に渡された小さなポンポン?毛糸で出来たボールの様なものを二人の頭上に向かって投げた。
ライスシャワーや花びらだけでなく、昨今は新郎新婦の趣味が反映できる様になっているのだろうかと思った。
式場の各テーブルがジブリ仕様に装飾されていたからか、個人的には渡されたぽんぽんが「となりのトトロ」に出てくるまっくろくろすけに思えた。
私も含めた新郎新婦を囲む皆が「おめでとう」と言った。
ふと下に目を向けると、地面にはカラフルなまっくろくろすけが沢山転がっていた。
それを見た時、私はわずかな違和感を覚えた。
ライスシャワーや花びらだと、それが新郎新婦の頭に乗っかったりして、一時的に彼らの身体のどこかに留まる事により「届いた」感があった。
だが、自分が投げたまっくろくろすけが新郎新婦に当たって跳ね返った末に、地面に転がる光景は、私には「届かない」というイメージを連想させた。
地面の上のまっくろくろすけと目が合った瞬間、私は自分の心を見透かされた様な気がしてドキっとした。
その「おめでとう」は混じりけのない気持ちか、と問われた様な気がしたのだ。
披露宴が始まると、私の目の前には次々と料理が運ばれてきた。高校の友人を集めたテーブルでは、それぞれの近況報告が尽きなかった。
不意に、向かいに座る友人と目が合った。
友人は高校の女子サッカー部でキーパーとして私達チームをいつも後ろから見ていてくれていた。
試合中に「バタバタしてるよー!」と良く言われていた。
相手のプレッシャーに負けて、冷静な判断を出来ないまま、目の前の味方に安易なパスを出して敵にボールを取られる様なプレーが目立つ時、彼女はその言葉でチームに喝を入れた。
近況報告の順番は避けられなかった。
私は「えー、何も無いんだけどねー」と言いながら、頭の中で皆に言える近況報告を探した。
彼氏は長い事居なかった。気になる異性も居なかった。
もう一つのベーシックな話として仕事の話をしようにも、私は五年前に正社員を辞めて以来アルバイトの為、他の友人の様な仕事の苦労話や転職の話なんかは持ち合わせていなかった。
推しの女性声優がいたのだが、私は結局、最近興味のあるアニメの話でその場をやり過ごした。
話終えると私は元キーパーの友人の顔をちらりと見た。
「バタバタしてるよ」と喝を入れて欲しかった。
皆の反応が怖くて、あんぱいな話題に逃げた不甲斐ない私は、敵のプレッシャーから逃れたいが為に、安易にボールを手放したのと同じなのだ。
私の後に、推しの話を熱心にしている友人の表情を見た時、私もこの熱量で話したい事が本当は沢山あるはずなのにと、体が熱くなるのを感じた。
披露宴が着々と進み、新郎新婦が両親に贈り物を手渡し、感謝を伝えている姿を見た時、私は胸がすく思いがした。
会場の全員が、感慨深いといった目で新郎新婦を見ている。両家の御両親の目は感動で潤んでいる。
私が欲しいのはこの「目」なのかもしれない。社会から認められていると思える証の様なものが、私は欲しい。
コース料理の最後にホットコーヒーとケーキが出た。その時違うテーブルの方から、カツンとカップにスプーンが当たる音がした。
その音は私の大切な思い出を呼び起こした。
高校生の私が片思いしたA君と地元のカフェで過ごした時間が鮮明に蘇った。
私は今までずっと、A君に恋した思い出を、お守りみたいに握りしめてきた。
恐らく、恋と呼べる感情を抱いたのはA君が最初で最後だったと思う。
私はそんなに必死に、何を守りたかったのか。なぜ、守りたかったのか。
「言葉にする事を諦めたくない」
レジ打ちの仕事をしていると、無意識にお客さんの手を見る癖が付いた。そして私は無意識に彼らの薬指に目が留まる。
その日も同い年位の男性の薬指に指輪が見えた。だからといってその都度、思い悩む訳でもないのだ。ただ、薬指を見てしまう。
私はふと、もうすぐ妹の結婚式も控えている事を思い出した。
妹も大勢の人達に祝われるのだろう。そして両親は感激して涙を流すのかもしれない。親戚も喜んで「おめでとう」というのだろう。
私は、どんな顔をしているだろう。
いつもなら仕事帰りはポッドキャストで推しのラジオを聴くのに、その日はなぜか自分のお気に入り曲で作ったプレイリストを再生した。
その週にあった推しのラジオの生放送も、聴かずに眠った。その次の週も聴かなかった。
少し前の自分は、推しがパーソナリティーを務めるラジオ番組に毎週メールを送り、欠かさず聴いていた。移動時間にはポッドキャストで過去の放送を繰り返し聞くほど好きな推しだ。
それなのに、突然推しのラジオが聴けなくなってしまった。
推しの事を好きなのは変わらないのに、ラジオは聴けないという不思議な状態だった。
推しのSNSも、見る事が出来なくなった。推しに関する情報を摂取する事を、私の心が拒んでいるみたいだった。
しかし、三週間後に妹の結婚式が終わって少し経った頃から、突然また推しのラジオを聴きたいと思う様になった。
それから更に一か月程経って、妹が新居に引っ越した。片付けが落ち着いた頃、私達家族を招待してくれたのだが、妹の新生活を心から祝福出来ない自分の事が、ショックだった。
そしてこの頃、再び私は推しのラジオを聴けなくなった。
妹の新居に行く日が近づいた頃、私は気が付くと歯を強く食いしばっていた。日中も、寝ている間も。
母に「やっぱり私は家で待ってるよ」と言うと、母は「それはダメ」と言った。悲しそうな顔をしていた。少し苛立った感情も、感じ取れた。
しかし私は、どうして私の気持ちを分かってくれないの、と母に苛立った。
正社員では働けなくなり、親に頼るしかない現実に不甲斐なさを感じている事は、何度も母に吐き出していた。
妹への嫉妬心なんかも、思わず吐露した事だってあったのに、母が私の気持を理解してくれなかった事実を受けて「はっ」とした。
仕事を辞めたばかりの頃の事を思い出した。
何をするにも「大丈夫かな?」と親に聞かないと不安でしかたなかったあの頃。アルバイトは午前中だけで精一杯で、午後はずっと家に居る毎日。
仕事や、子育てに追われている友人達と自分を比べては焦っていた。
生きている意味だったり、自分の価値を執拗に求め、何もしないまま時間が過ぎる事が怖くてたまらなかった。
そんな私は、家の中に自分の存在価値を作りだそうとしていた。
既にやっていた家事に加えて、その他の家事も自分がやると母に言うと、母は「そこまでしてくれなくても、充分助かってるよ」と言った。
しかし、自分の生きている意味に固執していた私は、しつこく食い下がった。すると突然母は目の色を変えて「私の生き甲斐でもあるんだから!」と声を大きくしたのだ。
家事の負担が減るのだから、当然「ありがとう」と返事が返ってくると思っていた私は何も言えずに固まってしまった。
母にとっての「家事」が、どの様な意味を持つのかまで考えもせず、自分の事ばかり考えていた自分が恥ずかしかった。
今の私はあの時と同じ様に、自分事ばかり考えていたと気づいた。
私には母の気持ちが分からないし、母にも私の気持ちは分からない。
夕飯の肉じゃがを煮込みながら、隣でサラダの準備をしている母に言った。
「妹の事を嫌いだから行かないって事じゃないよ。ただ、妹夫婦が居て、お母さんとお父さんが居る空間に、自分が居るって事を考えるだけで辛くなるの。自分だけ独りっていうか、自分の駄目さ加減が際立つ、というか」
母は頷きながら静かに私の話を聞いていたが、私が自分を卑下する言い方をした瞬間「そんな事無い!」と力強く否定した。
私は、その事が凄く嬉しかった。
相手に自分の気持ちをまるっと解ってもらう事は難しいけれど、出来る限り言葉にしてみる事は、決して無駄ではないのではないか。ニュアンスだけでも伝わるのと、伝わらないのとでは、きっと違うはずだ。
二カ月後、私は母と、妹の新居に遊びに行った。それは多分、妹の夫も、父も居なかったから出来た事かもしれないが、それだけではないかもしれない、と信じたい。
相変わらず、私は推しのラジオを聴けないままだった。
自分なりに考えてみた所、何かに煩悶している時、私は推しのラジオが聴けなくなるのかもしれない。
人生を自分の足で着実に前に進めている人の言葉を聞いていると、それこそが「正しい道」の様に聞こえてしまい、そうは出来ない自分と比べては虚しくなった。
きっと今の私は、自分も手にしていたかもしれない未来を、妹が手にしている事を受け止めきれていないのだろう。
母が祖母と電話をしていた。祖母は九十歳で、最近認知症の症状が出始めているが、まだ何とか身の回りの事は自分で出来ている。
年に一度は祖母も一緒に家族旅行に行っている。しかし、旅行の一か月前にして祖母が急に「最近体も痛いし今年は行けない」と言い出したらしい。
電話越しの祖母に向かって「大丈夫だよ!」と繰り返し言い切る母の言葉を聞いていたら、私は胸がざわざわした。
本当に「大丈夫」かどうかは、分からないではないか。私達が祖母と同じ位に祖母の体調を「分かる」事なんて無いのだと思う。
とは言え、今年も来年も、再来年も祖母と旅行に行ける事を、私は楽しみにしている。
「好きになれないではなく、好きにならない」
去年妹が家を出てから、父と母と三人暮らしだ。私と母は毎晩夕飯を食べながら配信サービスを利用して映画を見ている。二時間程の映画を二日に分けて観るのだ。これが一日頑張ったご褒美時間になっている。
最近ロマンス系の映画が多い為か、私はここ最近、男女のハグシーンを沢山観た。そして、その度に違和感を覚えていた。
違和感と言うのは、どうしてハグしたくなるのだろうと言う率直な疑問だった。
初めて駅の改札口でハグをするカップルを見た時「この二人は、私の知らない愛ってやつを知っているのだな」と考えながら、まじまじと見てしまった。
私はそもそも彼氏との「触れ合い」が苦手だった。彼氏に頭をポンポンされるのも、手を繋ぐのも苦手だった。今まで付き合ってきた彼とハグをする時は、いつも体に力を入れていた様に思う。私の胸と彼の胸の間に卵一個分隙間を空けるイメージで彼の身体に腕を回していた。
私があまりにも彼氏にスキンシップを求めない為に、良く「ドライだよね」と言われた。
それが、どういう分けかここ数年やたら母に触れたがっている自分がいる。
正社員で働いていた時は家には寝に帰る様な生活をしていた為、母とのコミュニケーションも希薄だった。その為、今になって母に甘えたい欲が湧き出てきたのだろうと自己分析をしている。
甘えるというのは、まあ、とにかく触れるという事だ。
ある朝、起きてリビングへ降りると、丁度起きたばかりでパジャマ姿で台所に立つ母が見えた。
私は「おはよー」と言いながら母の元へ近づいていき、白湯を飲む母の背中に何となく触れたくなって、こつんと頭を置いた。それからそのまま後ろから母の細い身体に腕を回した。
母の身体の温もりと柔らかさが私の身体を包み込む。私が抱きしめているはずなのに。まるで、ふかふかの布団に沈んでいく様な、私の全てを許された様な気持ちになれた。
何となく、この先もこんなハグが出来るのは母しかいない気がした。
少なくとも男の人とハグをする事は無いだろう、とふと思った瞬間、「あっ」と声が出そうになった。
線香花火の大きく膨らんだ火の玉が落ちてしまった時の感覚に似ていた。
その火の玉は一度落ちたら二度と元には戻せない。
私は幼稚園の制服のスカートが履きたくなくて泣いて大変だったらしい。結局園長先生に懇願して特例で男の子用のズボンを穿かせてもらえる事になった。
そんな私だが、小学生になってからは周囲から「浮く」事を恐れる様になった。
小学生低学年の頃、なよなよとした話し方の男の子が虐められているのを見て、自分は女の子だから、女の子らしくいた方が良いのだろうという考えが、深く刻まれたのが原因だろう。
それ以降、本当は男の子に混ざってサッカーをしたい気持ちを抑えて自分の席で大人しく本を読んだりして休み時間を過ごしていた。
小学生の頃にクラスで何かを決める時は、大抵多数決で決めた。私は少数派になって目立ちたくなくて、周りのクラスメイトが手を挙げる気配を感じ取る事に神経を集中させていた。
中学生になると、私は文句も言わずスカートを穿いた。当時、短ければ短い程イケていると信じていた私は、コンプレックスの太ももも構わずさらけ出した。
高校生になると「好きな人、出来た?」と良く聞かれる様になって、運よく告白してくれた男子と付き合ったが、初キスの翌月頃には別れたと思う。
大学生になると「彼氏いないの?」と驚かれたり、「経験ないの?」と引かれたりもした。私は再び運よく告白された男友達と付き合ったが、数カ月も経たない内に別れた。
社会人になると、この世は「結婚」というゴールを目指す耐久レースなのかもしれないと錯覚したまま走り続けていた。
五年程前に付き合っていた彼に対して、私は「この人と結婚したい」ではなくて「この人となら結婚出来るかも」と思った。
この時、私のこだわりは大きく「結婚」に傾いていた。
高校生位の頃から約十五年間、私は男性に恋をしなければいけないと思い込んでいたし、いつかは男性を好きになれる筈だと信じていた。
自分の気持ちに目隠ししながら、友達と恋バナをしたり、男性とデートをしていた日々は、深いプールの中でつま先立ちしながら歩いているみたいだった。
母とのハグは、長い間閉じられていた私の片眼が開くきっかけになった。
そして今の私は、「男性を好きにならない私」にも、少しずつ目を向ける事が出来てきた気がする。
「大好きだよ、妹よ」
人としては善にほこらず物と争わざるを徳とす。他にまさることのあるは大きなる失なり。
朝日新聞の折々のことばにて、二〇二二年七月二十七日に掲載されていた兼好法師の言葉だ。
文章の中で、比較ということが嫉妬や羨望を促し、自意識を煽って、人としての品位を落とすと書かれていた。
私は言葉集めが割と好きだ。理由を簡潔に言えば、言霊を信じているからで、なぜ言霊を信じているかと言うと、強迫症のせいで、自力で不安から抜け出せない時に、母の「大丈夫」と言う言葉に幾度となく救われた経験があるからだ。
だが皮肉にも、その言霊に私は長い間雁字搦めにされていたのかもしれない。
私は結婚がしたい訳でも、正社員になりたい訳でもなく、ただ「多数派」から外れたくなかっただけかもしれない。小学生の時の多数決で、自分の意見を無視して多数派の意見に手を挙げた時から変わっていなかったのだ。
だから、正社員にならないと、結婚しないと、と思って焦っていた。
だから、私が欲しい全てを持っていた妹に嫉妬したのだろう。
そういった自分の愚かな感情に目を向け始めてからは、「姉」である事に囚われ、妹に嫉妬を覚える事は減っていった。
私は五年掛けて、ようやくありのままの自分を許す事が出来たのだろう。
「これでも良いではないか」と思えるようになったのだ。
先日、妹夫婦が実家に来て、ウッドデッキでバーベキューをした。その後、室内に移動して大人五人でトランプをした。これがもの凄く楽しくて、私はまた二人が遊びに来てくれる日が待ち遠しかったりする。