
【読書記録】女と私
上野千鶴子「女嫌い」
雨宮まみ「女子をこじらせて」
周司あきら「男性学入門」
続けて読んで、ジェンダーの課題をなるべく多角的に考えてみようという5-6月。
使い分けとして、
「女嫌い」構造的、系譜的な女性学分析、
「女子をこじらせて」ミソジニーの当事者研究、
「男性学」フェミニズムの反対視点にも触れてみる。
不思議なことに、どの研究も目指すところは、「性別のレッテルに覆い被された人そのものに目を向ける」であった。
真摯に、素直に、ただ目の前の「人」と向き合うことがどんなに難しいのかを気付かされる。
性別、年齢、外見、職業…情報が多ければ多いほど、その人への認識が社会的に構築され、自分の中に内面化された「勝手な想像(先入観)」に蝕まれ、まるで何層ものクシャクシャになった安物の緩衝材に隔てられたように、最も簡単な魂の触れ合いができなくなる。
しかし一方で、それらのレッテルをなくした時の「私」は、どのようにしたら自分のアイデンティティを定義し、どのように他人へありのままの自分を開示すれば良いのか?
「人は女に生まれるのではない。女になるのだ。(ボーヴォワール)」
社会的に決められた女という「役」を演じ、内面化を続けてきた。
性別の役とは限らない、
「娘」も、「考えるのが好きな人」も、「性格のタイプ」も、自分を説明するために、既存の「型」に自分をはめ込み続けた。
レッテルを綺麗に剥がしたら、私は何者なのか?
もうしかしたら、本当の私という「完成品」は存在しない。むしろ、ずっと何者かになる途上にいる。誰かに与えられた名前ではなく、自分で選び取った行為や関係性の積み重ねによって、これからも少しずつ「私」になっていくのだろう。
