
題名など、とてもつけられない
——あるいは、読めなかった本について
今は到底整理がつかないこの思いもまた、
一冊の本の記憶とともに私の中にしまわれるのだろうか。
* * *
ある本について考えるとき、その本を読んでいた時のことが思い出される。またそれとは反対に、ある過去の時点に思いをはせるとき、読んでいた本のことを思い出す。そこで想起されるのは、「あの頃は」というような、ざっくりとした過去であったり、「あの時は」というような鮮明な一瞬の記憶であったりする。たとえば、チェーホフの戯曲集を読んでいたのは雪の降りやまぬ夜で、ソチ五輪のテレビ中継を聴きながらであったということなど。
初めてその場所にたどり着いた日、私は山尾悠子の『ラピスラズリ』を読んでいた。あの夜は、期待をくじかれ、自分に絶望してしまいそうな夜だった。その気分のまま眠りにつけるとは到底思えず、かと言って誰かが「獣くさい」と言っていたラーメンを食べるには少しおしゃれをしすぎている気がしたし、ファミリーレストランの煌々とした電気にさらされるには疲れすぎている、などと考えながら、あみだくじの線をたどるようにして私はその場所に行きついた。
だから『ラピスラズリ』については何も思い出せない。読んでいたのではなく、その活字を追いかけていただけだから。絶望感を頭から払いのけ、初めてのカウンター席に平然と座り続けるための——隠れる場所だったから。
あの夜の私は隠れていた。そんな夜に手にするには、『ラピスラズリ』は少し遠すぎた。ページをめくるたびに、遠ざかった。
しかしその夜の出来事を、私は生涯忘れないだろう。マスターは「僕が主催しているわけではないのだけど……」とひかえめに、その場所で開催されている読書会のことを教えてくれ、自身もかつて文学を愛好した青年であったことなどを語ってくれた。
絶望していた夜に、声が届いた。それだけで、世界の重力がすこし変わった気がした。
その後の日々にその場所で経験したことは、私が語らずともその場所を訪れる多くの人が、私よりも長い年月をかけて経験したに違いない。喜びや苦悩を語り、人生においてかけがえのない人たちと出会い、大切な時間を過ごした。
この数年の間に読んだ本について考えるとき、思い出されることの多くはその場所にまつわるものだ。
* * *
こぽこぽというサイフォンの音。
「マンデリン」という名の響き。
ココアから立ちのぼる甘い湯気。
華奢なカップの口触り。
カウンターテーブルの彫刻のカーブ。
帰り際、後ろ手で閉めるドアの重さ。
マスターの声。
* * *
その場所のこと、その場所でのことが、「あの場所」のものとして、過去の一部になってしまう。
紛れ込むようにして、ある場所に流れ着いた夜があった。そしてその夜のことを、私はおそらく一冊の本の記憶とともに抱えていくことになる——読まなかった本の記憶として。
この気持ちに、題名などつけられるだろうか。
––4年前になくなってしまった
大好きだったあの場所に寄せて