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​第14回「おにぎりと温泉旅行—私がついた最後の一番悲しい嘘。」


    「お母さん、これ‥‥‥どうぞっ‥。」

    ​卒業前の集いで、走り寄ってきた
    娘がくれた手作りの手提げ袋と、
    一生懸命に書いた手紙。

    その温もりを抱きしめながら、
    私は今、
    あの「黒い記憶」の底に潜っている。

    今の平穏が奇跡だと思える。

    巨大な機構によっての思い出から今─

    ​*

    母の住むアパートという逃げ場を失い、夫の元へ戻ってから、月日が流れた。

    ​お腹の女の子も順調に育ち、腫れ上がった腕の痛みも、少しずつ日常の景色の中に溶け込んでいった。

    夫との間には、相変わらず喧嘩もあれば、
    嘘のように穏やかな時間もあった。
    翼はその時間を共に生きて過ごしてきたんだ‥。

    家族で公園へ行き、スーパーで並んで買い物をする。子供の笑い声を聞いていると、「もう大丈夫かもしれない。」という淡い期待が、何度も胸をかすめた。

    ​女の子を授かったとわかった時、
    私は「今度こそ。」と願わずにはいられなかった。腕をひねられたあの日から少し時間が経ち、 
    夫も私も時折、歩み寄る顔を見せるようになっていた。
    子供を連れて出かける、何気ない日曜日の光景。

    その平和を守りたくて、私は過去の痣に蓋をした。

    けれど、私がお腹の新しい命を愛おしむほどに、夫の暴力は、より逃げ場のない場所へと突き刺さるようになる。

    ​夫を、完全に悪者にできればどんなに楽だっただろう。

    腕を腫らした時のあとも、私たちの生活には
    「幸せ」と呼べる断片が確かに存在していた。

    2人が歩み寄り、3人で笑い合った時間は、決して偽物ではなかったと思う。

    だからこそ、私は彼を拒絶しきれなかった。

    そんな一筋の希望にすがっていた私を、
    絶望の底へ引きずり戻したのは、
    私のお腹に向けられた、夫の足だった。

    私のお腹には静かに刻々と育っている女の子が
    いる。

    「流産するかもね。」
    吐き捨てるように夫は言った。


    何度も母へ電話した。
    「私風邪をひいて、寝てたのに起こされたよ、、知らないよ、もういい加減仲良くしなさいよ。」
    姉からも、
    「お母さんも風邪ひいて寝てるんだから、少しは遠慮しなよ。」

    確かに私も自分勝手で悪いんだ‥。
    私は毎日翼の手を引いて遊び、歩き続けた。

    やがて無事に産まれてきてくれた
    栞─。

    この世に、私と同じ「女性」として誕生してくれた、この小さな命。

    陣痛に耐える私の周りを、当時二歳に満たない翼が一生懸命歩いて応援してくれた。
    産まれたばかりの、まだ白い新生児が私の横に寝かせられるのを見て、びっくりし(ママをとられた)と泣きじゃくる翼を、必死になだめていたのは夫だった。

    ​そこに愛はあった。確かにあったのだ。

    「この子だけは、私と同じ思いをさせたくない。」

    その可愛さと感動は、私に向けられた光だった。

    乳児検診のアンケート。
    小さな欄に、恐る恐る「夫婦喧嘩の相談」と書いた。初めて繋がった支援の輪。保健師さんは優しく、私を市役所の女性相談へと導いてくれた。

    初日の面談。数時間、私はこれまでのすべてを吐き出した。

    「辛かったですね。」「よくお母さん、頑張ってますよ。」
    その言葉に、私はどれほど救われただろう。

    「またいつでもお話ききますので、来ちゃってくださいよ。」と言ってくれた背中に、
    私はようやく「味方」を見つけたと思った。

    数日後、安心を求めて再び訪れた相談室。
    けれど、迎えた職員の口から出たのは、耳を疑う言葉だった。
    「? はあ‥、そうでしたか?」

    初日の共感は、ただの業務マニュアルだったのか。

    一気に冷めていく心。前回の共感はどこへ行ったのか。事務的な、あるいは私を「母親失格」と断定するような冷たい空気が流れた。

    ​それでも相談室には何度か足を運んだ。

    「シェルターに入りたいです‥。」

    私は自らそう告げた。 
    以前相談員の方が出していた言葉だった。
    相談員の質問や手続きが進んだ。
    「〜年に子供を授かりました。」
    私がそう言った瞬間、母親ほどの年齢の相談員は
    小さく舌打ちをした。そして、私の言葉を指で
    さっと払うように、次の書類へと目を移した。
    (授かりましたって、子供の前で喧嘩ばかりして、母親としての自覚あるの?)
    無言の非難が、私の心を掻き殺す。
    味方だと思っていた場所で、私はまた別の
    暴力に晒されていた。
    手続きは淡々と進み、私と翼と栞は職員の車の
    後部座席に乗り、─家を離れた─。

    職員の運転する車の、暗い後部座席。

    隣には、何も知らずに揺られている翼と栞。

    「ごめんなさい。また私が子供を巻き込んでしまった。」

    窓の外を流れる見慣れた景色が徐々に変わり、自分たちの生活から切り離されていく。

    どこへ連れて行かれるのかもわからないまま、私はただ、子供たちの小さな手を握りしめることしかできなかった。

    シェルター‥‥そこがどんな場所かも知らなかった。

    逃げるように案内された場所は、無機質な塀と厳重な鍵に守られた、外の世界と断絶された空間。
    携帯は預けられ、外部との連絡を一切絶たれる。
    優しい職員さん達の声が迎えた。

    ‥‥私の心は安らがなかった。

    ​自分たちの生活からは切り離された異世界のようで。

    あの時の、何とも言えない動揺と、言いようのない孤独。不思議がる翼と栞の目。外で遊びたがる翼。

    ​私は、数日後、這い出すように戻る気持ちになってしまった。
    電話越しに呆れた相談員の声
    「ご自分でタクシー呼んで帰られたらどうですか?」 

    夫を許したからじゃない。

    あの不自然な孤独の中に居続けることに、心が悲鳴を上げたからだった。

    だから私は、自分に言い聞かせ続けた。「いつか、私と夫は変わる。私がもっと努力すればこの子達は平穏な家庭で育つ」と。

    ​けれど、現実は無慈悲だった。

    在宅ワークで生活を支えようと焦る夫。
    母乳を与えても与えても栞が泣き止まない時は、私も疲れ果てて、少し栞をそのままにして私も倒れるように横になっていた。
    栞の泣き声が加速する。
    「わざと泣き止ませない!俺作業集中できない!いじめ!子供かわいそう!子供しなせる母親ひどい!」
    夫は怒鳴った。

    ​「離婚して」
    私は怒りに震えて言った。
    その瞬間、夫がこっちに走り寄り、
    私の首を絞めた。

    ​頭が真っ白になった。隠れて110番を押した。
    駆けつけた警察官が見たのは散らかった狭い部屋で泣き喚く子供たちと幼稚な私達夫婦。
    警察官からの
    「奥さんに協力しないと大変ですよ。やめれますか?一旦同行して頂き、お話ききますよ。」
    の言葉に
    「やめますから大丈夫です。」と夫は言った。

    帰り際、もう1人の警察官が、私に声を掛けた。

    「奥さん、育児で悩んでるんでしょ?
    生活安全課って知ってる?今度でもいいから相談に乗るから、よかったら、来てくださいね。」

    ​その優しい響きに、私は縋ってしまった。

    明日、この場所へ行けば、私たちは「普通の家族」になれる。私達で話し合い、警察官が間に入れば、平和な日々が戻ってくる。

    そんな、あまりに純粋で、無知な願いを抱えて。きっかけは、ほんの小さな「家族の再生」への願いだった。

    私は、夫と仲良くなりたかった。喧嘩の絶えない日常を、子供たちの泣き声を、どうしても止めたかった。

    「生活安全課」の重い扉を叩いたのは、私自身の意志だった。

    「家族を全力で応援したい。」

    そう微笑む警察官の言葉を、私は一筋の光のように信じてしまった。

    ​けれど、警察署の冷たい空気の中で、事態は私の手を離れ、濁流のように加速していく。

    別室へ連れて行かれた夫。そして、私への執拗な質問。
    「それで、奥さん今後どうしたいですか?
    離婚は考えておられますか?」
     その時の私は、
    すぐにイエスと言えなかった‥。

    「お子さんにアレルギーはありますか?」
    「予防接種はどこまで?」

    人が入れ替わり立ち替わり現れ、
    質問をし私を包囲していく。なぜだろう‥。
    最後の職員が発した言葉に私はこの世の終わりを感じた。

    「ごめん、一旦子供預かるんだわ。」 
    「このまま2人のもとに帰すわけにいかないんだ。」
    「ほら、お子さんがいるとご主人とこれからの事ゆっくり話し合えないじゃない?暫く別居するとか。」

    私は、自分で警察署の門を潜ってしまった。

    職員が席を外した隙に、必死な思いで母に連絡した。
    「‥‥‥お母さん子供たちを預かって。」
    母は、「はあ‥!何であんたまた警察とか呼ぶの、
    翼ちゃん栞ちゃんがかわいそう、いや、私のとこで預かるのはいいけど、えぇ?」
    そこへ、職員が戻って来た、すかさず私は携帯を差し出した
    「もしもし!おばあちゃん、どうも〜!
    はい、はい!おばあちゃんだけど普段日中はどうされてます?育児とかできそう?ご病気とかありますか?はい、はい、はは、そうですね、娘さんとは接見禁止で‥はい!はい、わかりました。またこちらから連絡させて頂きます。」

    ​その一言に、私は神に縋る思いで祈った。

    ​しかし。
    壁越しにきこえてきた職員達の声
    「おばあちゃん預かれるってよ!」と元気な声
    そこへ畳み掛けるように女性警官の声
    「や、いく(一時保護)
    前回も戻ってるし(シェルター)、いく。」
    壁の向こうで放たれた、女性警官の冷酷な断言。
    また別の声も
    「だんな押した押した(サイン)」

    背筋に氷の針を突き立てられたような戦慄が走った。すべては最初から、私の意志など関係なく、「保護」という名のシステムに組み込まれていたのだ。

    「奥さん、お昼食べました? これ、良かったら。」

    ​動揺し、震える私を鎮めるように、優しい顔で
    差し出されたコンビニの袋。

    中には、おにぎりが二つ。

    それは、私が絶望することを見越して、あらかじめ準備されていた「毒」のように見えた。

    あの日、誰かがレジに並び、事務的に購入した
    おにぎり。その不気味なほどの「用意の良さ」に、私は自分が、逃げ場のない檻の中にいることを悟った。

    ​かつてシェルターから戻った私を睨みつけた
    あの女性警官が、今度は獲物を追い詰めた後のような、冷淡な眼差しで私を見下ろしていた。

    ​「長男さんの幼稚園の帰宅時間に合わせて、他の保護者の目につかないように門に車を停めますから。」

    ​淡々と進む事務手続き。私の心は悲鳴を上げているのに、世界はあまりにも静かに、私から母親という肩書きを剥ぎ取っていく。

    ​─剥がれ落ちた世界

    ​黒いボックスカーが、警察署の裏口に停まっていた。

    2歳の栞。何が起きているか分からず、ただ私の顔を見つめている。

    「今ここで引き離されたら、もう二度と会えないかもしれない。」

    残酷にも予定の時間は来た。
    「お母さんも一緒に」と、曖昧な言い方を運転手はしたので、さっきのは夢でこのまま一緒に行けるのではないかと車の揺れと共に思考はぐちゃぐちゃになった。

    幼稚園につき、何も知らない翼は、
    いつもの通り、
    「ママ!今日だいちゃんと遊ぶ〜。」
    と言う──
     私は先生に、門の外にいる黒い物体について話し、そして何より、──感情が溢れ出した。
    先生は、「‥!うん、うん。」悲しい笑みだけ見せ、私服警察官のもとへ駆け寄り、
    「私の家で翼ちゃん栞ちゃん預かれませんかね?」
    と絞り出して言ったが、 
     
    「すみませんがそれはできないですね。」
    と返ってきた。

    私と翼と栞を乗せて─
    車は動き出した─
    何も知らないお友達やお母さん達の
    いつもの「バイバイ〜」と振られる手─
    それからの事はよく覚えていない
    翼はドライブだと思ったのかな

    警察署へ戻ると、やはり夢ではなかった。
    「お母さんは降りてください」
    数人の警察官と入れ替わった。
     
    翼と栞は、不安気な目で私を見た。

    狂いそうな恐怖の中で、私は咄嗟に、
    絶対にすぐに!ママは戻ると子供達にわかってほしくて嘘を吐いた。

    ​「ママトイレに行ってくるね!すぐ戻るからね!」

    ​子供をパニックにさせたくない。その一心で絞り出した言葉が、彼らへの最後の言葉になってしまった。

    バタン、と冷たい音を立ててドアが閉まる。

    ​「温泉旅行へレッツゴー!」

    ​運転席の女性警官が、遠足にでも行くような明るい声で放った。

    その残酷な響きを、私は一生忘れない。

    車が本当に動き出す。
    黒いボックスカーが私から遠ざかっていく。

    私の内側で、何かが決定的に壊れる音がした。
    あとの事はよく覚えていない。

    自宅に帰ると、栞がその日
    私と遊びに行くつもりで自分で準備したであろう
    リュックサックが
    玄関に置いてあった。

    ​

    警察の言うことは正しい。面前DVが子供に与える影響なんて、私が一番分かっている。
    反論できない。
    ただ、自分が情けなくて、子供たちに申し訳なくて、足元が崩れ落ちそうだった。
    ​「お母さんのせいで、ごめんね。こんな場所に連れてきて、ごめんね」 ​心の中で何度も謝りながら、 警察という「正解」の前に、私はあまりにも無力な「間違い」だらけの母親に思えた。 でも、たとえ私が間違っていたとしても、この子たちを愛している
    ことだけは、誰にも否定させたくなかった。

    ​そのいつかは3週間後になってしまった。
    扉を開けた瞬間─
    栞は笑顔で抱きついて来た。
    翼は大きくなっていた。職員と話していた。
    栞は前髪が長くなり、自分で和式トイレができるようになっていた。
    2人共私の知らない服を着ていた。

    ​あれから数年が経ち、子供たちは
    「もう覚えていないよ。」と笑う。

    それは、私を責めない子供たちの、あまりにも深い慈愛だ。その優しさに救われながら…。

    ​あの3週間以上、一体何が起きていたのか。

    なぜ、私達夫婦は児相の方々に褒められていたのに子供はあんなにも長く引き離されたのか。

    ​子供たちが忘れても、私は、
    この『不条理な記録』を書きたい。
    明るい今を生きるために、あえて向き合った
    『本当の終止符』その全貌を、次の第15回に記した。

    ​
    先日、娘が作ってくれたスヌーピーの手提げ袋。

    あの「おにぎり」の冷たさとは違う、人の手の温もりが宿った贈り物。

    私は今、あの黒い車に奪われた時間を、一針ずつ縫い合わせるように生きている。

    あの日の「トイレに行ってくるね」という嘘を、いつか本当の「おかえり」に変えるために。






    「最後まで読んでくださり、ありがとうございます。

    この第14回は、書き上げるまでに何度も手が止まりました。
    読んでくださる皆様が私の背中を押してくれました。

    あの日、黒い車を見送った私に、ようやく『もういいんだよ』と言ってあげられた気がします。

    皆さんの日常に、少しでも光が届きますように。」


    第1回投稿はこちらから↓



    ​🌸ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

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    ​



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    12年の過食嘔吐を克服した先で待っていたのは、家族をも巻き込み、疲弊していく日々でした。孤立無援のなか、息子と娘を抱いてシェルターへ逃げ込んだ壮絶な経験を綴っています。今、暗闇の中で「神様たすけて」と祈っているあなたへ。出口のない迷路を歩き抜いた私の記録が、光になりますように。

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