
【創作大賞】あの人が死んだ理由
【あらすじ】
仕事帰り、部屋の窓から見える公園を眺めるのが、俺の日課だった。
そこでよく見かける親子がいた。優しそうな父親、明るい母親、元気な子供。どこにでもある普通の家族に見えた。
だが、ある日を境に父親の姿が見えなくなる。
残された家族。近所の噂。断片的な会話。偶然目にした出来事。
少しずつ集まる情報を繋ぎ合わせるうち、俺は一つの結論に辿り着く。
しかし、人は本当に見たものだけを見ているのだろうか。
これは、一人の男の死をめぐる物語であり、他人を理解したつもりになる人間の危うさを描いた観察の記録である。
仕事帰りだった。
会社のチャット通知が鳴る。
画面を見る。
急ぎではなかった。
既読だけ付けてスマホを伏せる。
窓の外を見る。
公園が見えた。
俺の部屋からは、公園が見える。
向かいのアパートの二階。
窓際に座れば、公園の半分くらいは見えた。
ブランコ。
滑り台。
砂場。
ベンチ。
それから、少し奥にあるフェンス。
仕事から帰ると、俺はよくその公園を見ていた。
見ていたというより、眺めていた。
俺は昔から人を見るのが好きだった。
好きというと聞こえはいい。
実際は癖みたいなものだった。
電車に乗れば向かいの客を見る。
コンビニに行けば店員を見る。
信号待ちでは隣の人間を見る。
何を考えているのかは分からない。
分からないのに考えてしまう。
それが面白かった。
公園も同じだった。
別にその家族だけを見ていたわけではない。
犬の散歩をする老人もいた。
毎日同じ時間に通る高校生もいた。
ベンチで缶コーヒーを飲む作業員もいた。
ただ、その親子はよく目についた。
理由は分からない。
父親がよく笑うからかもしれない。
子供がよく喋るからかもしれない。
あるいは三人でいる時間が長かったからかもしれない。
とにかく、窓の外を見るとそこにいることが多かった。
だから自然と覚えていた。
名前も知らない。
声を交わしたこともない。
それでも、見慣れた顔だった。
誰が何をしているのか。
誰が誰と話しているのか。
誰がどんな顔で帰っていくのか。
それを古い大学ノートに書いた。
観察メモ。
そう呼んでいた。
別に誰かに見せるつもりはなかった。
ただ、書いていると少し落ち着いた。
---
人を勝手に決めつける大人が嫌いだった。
子供の頃。
家のことを何も知らない大人たちに、勝手に色々言われたことがある。
可哀想。
しっかりしてる。
我慢してる。
冷めてる。
どれも当たっているようで、どれも違った。
見てもいないのに。
分かったような顔をする。
想像して。
脚色して。
まるでそれが事実みたいに話す。
そういう大人が嫌いだった。
だから俺は、見たことだけを書くことにしていた。
推測は書かない。
感じたことも書かない。
事実だけを書く。
少なくとも、そのつもりだった。
---
その子供を初めて意識したのは春だった。
小学四年生くらいだったと思う。
公園ではいつも何人かの子供が遊んでいた。
その日は十人くらいいた。
サッカーをする子。
鬼ごっこをする子。
遊具に登る子。
名前も知らない子供たち。
その中で、その子だけは何となく覚えた。
野球のグローブを持っていたからだ。
でも、その日はサッカーをしていた。
グローブをベンチに置いたまま、友達とボールを蹴っている。
器用なのか、不器用なのか分からなかった。
少しして、父親らしい男が来た。
背が高い。
姿勢が良い。
シャツの襟も、靴もきちんとしている。
神経質そうな人だと思った。
いや。
そう感じただけだ。
だから書かない。
---
子供が父親に気付いた。
「あ」
小さく声を上げる。
それから父親の方へ駆け寄った。
「今日は野球じゃないのか」
「サッカーもやってる」
「ふーん、まあ遊びならどっちをやってもいいけどな」
「なんだよそれ。どっちも好きなのは駄目なの?」
「さあな」
父親はボールを受け取りながら言った。
「でも、やるならどっちかにしろ」
「なんで」
「中途半端になるぞ」
その時だった。
「何の話?」
母親が来た。
買い物袋を下げている。
「父さんがどっちかにしろって」
「野球とサッカー?」
「うん」
母親は少し考えた。
「どっちも好きなら、それでいいんじゃない?」
子供が父親を見る。
「ほらー」
父親は苦笑した。
「母さんはそう言うだろ」
「いいじゃない」
「良くない」
「良いの」
子供が二人の様子を見て笑った。
母親も少し笑う。
父親も呆れたように笑った。
俺は窓からその様子を見ていた。
どちらが正しいのかは分からなかった。
父親の言うことも分かる気がした。
母親の言うことも分かる気がした。
だから、その日のメモには書かなかった。
その日のメモ。
『子供。野球とサッカー。父親、どちらかにしろと言う。』
それだけ書いた。
---
母親を改めて意識したのは、その数日後だった。
綺麗な人だった。
そう書こうとして、やめた。
綺麗。
優しそう。
冷たそう。
大人しそう。
そういう言葉は全部、俺の印象だった。
公園にいる母親は口数が少なかった。
近所の女たちに話しかけられても、曖昧に笑うことが多い。
「奥さん、相変わらず綺麗ね」
そんなことを言われると、母親は少し困ったような顔をした。
「そんなことないです」
聞き飽きているのだろうと思った。
あるいは、そう言われること自体が好きではないのかもしれない。
でも、それも俺の想像だった。
だから書かなかった。
---
母親は子供の方を見ると少し声を柔らかくした。
「帰るよ」
「あと五分」
「三分」
「短い」
「じゃあ二分」
「なんで減るんだよ!増やしてよ」
子供が笑う。
母親も少しだけ笑った。
その顔は、近所の女たちと話している時とは違って見えた。
その日のメモ。
『母親。口数少ない。子供とは話す。』
---
ある日。
コンビニで声を聞いた。
アイス売り場の前だった。
冷凍ケースが邪魔で姿は見えなかった。
「本当は母さんも食べたかったんでしょ」
聞き覚えのある声だった。
あの子だ。
「そんな訳ないでしょ」
母親の声だった。
少し意外だった。
普段の母親は、どちらかと言えば冷たい印象があった。
実際に冷たいのかは知らない。
ただ、俺にはそう見えていた。
でも。
子供と話している時の声は随分柔らかく聞こえた。
「うっそだー」
「一口だけだからね」
「二口目も食べてたじゃん」
「数えてたの?」
「見てた」
「暇なの?」
「暇」
子供が笑う。
「これ、お父さんには内緒ね」
「なんで?」
「私、ダイエット中って言い張ってるから」
「絶対バレてるって」
「バレてない」
「バレてる」
「バレてない」
少し間が空いた。
「まあいいけど。オレ、秘密守る男だから」
「あら」
「なに」
「いつの間にそんなカッコイイこと言うようになったのよ」
子供は少し得意げに言った。
「父さんが、秘密を守る男の方がカッコイイって言ってたし」
母親が小さく笑ったようだった。
「じゃあ守ってね」
「任せろ」
その日。
俺はメモに何も書かなかった。
偶然聞こえただけだったからだ。
---
夏の終わり。
町内の小さな集まりがあった。
公園の隅で何人かの大人がBBQをしていた。
俺は窓から見ていた。
あの父親が肉をひっくり返す。
煙が上がる。
子供が何か言う。
周囲が笑う。
父親も笑った。
いつものキャッチボールの時とは違う笑い方だった。
肩から力が抜けているようにも見えた。
母親も笑っていた。
珍しい気がした。
父親も。
母親も。
普段より少し柔らかく見えた。
そこに、知らない男が一人いた。
年齢は父親と近そうだった。
父親とも自然に話している。
母親も、その男の前では少し表情が柔らかかった。
家族ぐるみの付き合いなのかもしれない。
そう思った。
いや。
そう感じただけだ。
だから書かない。
その日のメモ。
『BBQ。父親、母親、子供。知らない男。賑やか。』
それだけだった。
秋が近づく頃には、子供はサッカーをする日が増えていた。
野球をやめたわけではない。
グローブも持っている。
休日にはユニフォーム姿も見かける。
ただ、公園ではサッカーをしていることが増えた。
ある日、子供と少し話した。
夏の終わりにしては暑そうにしていたので、
「水飲めよ」
とつい声をかけた。
子供は振り返った。
「ありがとうございます」
少し間を置いて、
「おじさんも気をつけて」
と言った。
「お兄さんだよ」
「えー」
「えーじゃない」
子供が笑った。
それから時々、短く話すようになった。
---
「カズんとこ行くんだ」
ある日、子供が言った。
「カズ?」
「うん」
「誰だよ」
「カズ」
「説明になってない」
「カズはカズだし」
子供は当たり前みたいに言った。
「お兄さんも来れば?」
「どこに」
「カズんとこ」
「行くわけないだろ」
「なんで」
「知らない人だから」
「カズ良い奴だよ」
「へー」
「お菓子いっぱいあるし」
「それが理由か」
「重要だろ」
「そうかもな」
「ゲーム下手だけど」
「下手なんかい」
「うん」
子供は即答した。
「めっちゃ下手」
その日のメモ。
『子供。カズという人物。ゲーム下手。』
顔も年齢も分からない。
ただの名前だった。
---
九月に入る頃だった。
町内に小さな淀みのようなものが生まれ始めた。
「最近、旦那さん帰り遅いわね」
最初はそんな話だった。
誰も深刻そうには言わない。
天気の話の続きみたいに話す。
あの父親は実際、帰りが遅くなっていた。
公園に来てもスマホを見ている。
電話に出る。
頭を下げる。
「申し訳ありません」
電話の相手は見えない。
それでも、あの人は頭を下げていた。
近くで立ち話をしていた女たちが、その様子を見ていた。
心配そうにも見えた。
呆れているようにも見えた。
どちらでもないようにも見えた。
ただ。
そこには粘り気のある空気があった。
この人は少し馬鹿にしてもいい。
そんな空気だった。
---
ある夜だった。
窓を開けていた。
まだ暑かった。
窓を開けて寝ている家も多かったと思う。
最初は普通の声だった。
どこの家庭にもありそうな声だった。
でも。
あの家族の声だと何となく分かった。
父親の声。
母親の声。
子供の声。
どこの家庭にもありそうな会話だった。
だが。
父親の声だけが少しずつ大きくなる。
「だから違うだろ」
内容は聞き取れない。
それでも苛立ちは伝わった。
「何回言えば分かるんだ!」
怒鳴り声。
思わず肩が揺れた。
公園で聞く声とは全然違った。
少し遅れて、
「やめて!」
母親の声。
そして。
鈍い音。
何かが倒れたような音だった。
部屋の空気が急に重くなった気がした。
俺は立ち上がった。
急いでスマホを見る。
警察。
その二文字が浮かぶ。
でも。
ただの夫婦喧嘩かもしれない。
大袈裟かもしれない。
もし違ったら。
そう考えると動けなかった。
だから俺には、どうするべきか判断できなかった。
スマホを握ったまま固まったように窓の方を見る。
何もできなかった。
何をするのが正しいのかも分からなかった。
やがて声は聞こえなくなった。
音も消えた。
静かだった。
結局。
俺は何もしなかった。
その日のメモ。
『怒鳴り声。母親の声。鈍い音。』
---
翌日、公園に母親がいた。
長袖だった。
前からそうだった気もする。
日焼け対策なのかもしれない。
実際、夏場は長袖の日も多かった。
でも。
昨日のことを知っていると。
どうしても見てしまう。
母親の方を。
普段なら気にしなかったはずなのに。
その日だけは違った。
だから見つけた。
袖口の隙間だった。
手首の近く。
小さな痣が見えた。
いつからあったのかは分からない。
昨日できたのかも分からない。
ただ。
痣はあった。
子供は母親の隣にいた。
妙に静かだった。
父親はいなかった。
---
その数日後。
立ち話が聞こえた。
「最近、旦那さん帰り遅いわね」
そんな話だった。
さらに数日後。
「この前、何か揉めてなかった?」
そんな話になった。
さらに数日後。
「大丈夫なのかしら」
話は少しずつ形を変えていった。
まだ噂と呼ぶほどではない。
ただの話の種だ。
小さな淀み。
それが少しずつ広がっていく。
俺はそういう会話が嫌いだった。
だが同時に。
俺の頭の中にもある言葉が浮かび始めていた。
DV。
その二文字だった。
認めたくなかった。
あまりにも簡単だったからだ。
---
あの父親は少しずつ疲れていった。
そんなことは当時から分かっていた。
キャッチボールをしても、ボールが逸れる。
一球目。
高く浮いた。
子供が背伸びしても届かない。
「ごめん」
二球目。
今度は地面に落ちた。
子供が拾いに行く。
「父さん」
「ん?」
「疲れた?」
あの人は少し笑った。
「いや」
ボールを受け取る。
「父さんがこんなので疲れるわけないだろ」
「ほんと?」
「ほんと」
少し間が空く。
「じゃあ今日はオレが多めに拾う」
あの人が吹き出した。
「それは助かる」
「やっぱ疲れてんじゃん」
「疲れてない」
「疲れてる」
「疲れてない」
そう言ったあと。
少しだけ黙る。
「ごめん」
グローブを外した。
「ちょっとだけ休むわ」
ベンチへ向かった。
子供は頷いた。
「じゃあオレ、壁当てしてる」
「おう」
あの人はベンチに座った。
子供は一人でボールを投げ始める。
途中で何度か立ち上がろうとしているようにも見えた。
でも立たなかった。
結局、その日はそのままだった。
帰る時だった。
あの人が子供の頭に手を伸ばした。
その瞬間。
子供の肩がほんの少しだけ揺れた。
気のせいかもしれない。
俺にはそう見えただけかもしれない。
本当に一瞬だった。
同様に、あの人の手も一瞬だけ止まった気がした。
そのまま頭を撫でた。
「帰るぞ」
「はーい」
その日のメモ。
『キャッチボール中断。父親、休む。』
---
その後。
初めて、あの父親とまともに話す機会があった。
コンビニ帰りだった。
公園の横を通ると、父親が一人で立っていた。
母親は見当たらない。
まだ来ていないようだった。
子供は少し離れた場所でボールを蹴っている。
父親は俺に気付くと、軽く頭を下げた。
俺も返した。
それで終わると思った。
「あの」
声をかけられる。
一瞬、体が強張った。
俺に話しかけたのかわからなかった。
周囲を見る。
他に誰もいない。
俺だった。
「はい?」
「よく、公園にいますよね」
何を言われるのか分からなかった。
見ていたことを咎められるのか。
あるいは。
全く違う話なのか。
少しだけ身構えた。
あの人はすぐに首を振った。
「あ、すみません。変な意味じゃなくて」
「はぁ。えーと、近所に住んでるんで」
初めてこの父親を近くで見た。
まず、想像より痩せていると感じた。
目の下には薄く隈がある。
髪も少し乱れていた。
もっと隙のない人だと思っていた。
少なくとも、俺にはそう見えていた。
ネクタイは少し曲がっていた。
ワイシャツの袖にも皺がある。
柔軟剤の匂いの奥に、缶コーヒーの残り香がした。
寝不足なのかもしれない。
いや。
それも俺が勝手に考えただけだ。
あの人は話している間も、何度か子供の方を見た。
目を離さないようにしているみたいだった。
「子供って」
あの人は唐突に言った。
「親が思ってるより、親のこと見てるもんなんですかね」
「え?」
俺はすぐには答えられなかった。
なんでそんな重要そうなことを俺に聞くんだ。
そう思った。
父親でもない。
教師でもない。
ただ近所に住んでいるだけの男だ。
たぶん。
俺がいつも公園にいるからだ。
噂話には混ざらないからだ。
あの人は俺を、公平な人間だと思ったのかもしれない。
それも勝手な判断だ。
でも。
俺もこの人のことを勝手に判断していた。
「親になったことないんで」
俺は言った。
「正直、分からないです」
「そうですよね」
父親は頷く。
どこか安心したようにも。
困ったようにも見えた。
その様子に、何となくこの人はこの人なりにきちんと子供に向き合っているのではないかと感じた。
「でも」
俺は続けた。
「子供って意外と逞しいですからね」
自分で言ってから少し驚いた。
そんな言葉が出るとは思っていなかった。
「親が思ってるより、ちゃんと見てるし、ちゃんと考えてると思います」
父親は黙って聞いていた。
「元気そうですよ、あの子」
俺は言った。
「野球もサッカーもやってるし」
少しだけ笑う。
「カズ?って子とかとも仲良いみたいですし」
口にした瞬間だった。
父親は動かなかった。
表情が大きく変わったわけではない。
ただ。
何かを考えるように視線が止まった。
俺は何かを踏んだのだと思った。
何を踏んだのかは分からない。
その時だった。
少し離れた場所に母親がいた。
買い物袋を下げて、公園の入口に立っていた。
今来たのか。
最初からいたのか。
俺には分からない。
母親もこちらを見ていた。
表情は読めなかった。
父親は小さく頷いた。
「そうですか」
それだけ言った。
そして歩き出した。
少しだけ印象が変わった気がした。
上手く説明できない。
何かが軽くなったようにも見えたし。
何かを手放したようにも見えた。
俺には分からなかった。
だから書かなかった。
その日のメモには、
『父親と話す。子供のことを聞かれる。』
とだけ残した。
和泉という名前は書かなかった。
カズという言葉に父親が反応したというのは、ただの推測だからだ。
それだけの理由だった。
冬が近づいていた。
あの父親は来たり来なかったりだった。
来ても長くはいなかった。
スマホが鳴る。
席を外す。
戻ってくる。
また鳴る。
そんな日が増えた。
ある日。
近所の女が子供に話しかけていた。
「お父さん最近忙しいの?」
「うん」
「大変ねぇ」
子供は少し考える。
「でも父さん頑張ってるよ」
それだけ言った。
女は曖昧に笑った。
「そうね」
その笑顔が少し嫌だった。
俺はその場を離れた。
あの人はさらに痩せたように見えた。
目の下の隈も濃くなっている。
それでもスーツだけは綺麗だった。
姿勢も崩さない。
崩せないのかもしれない。
そう思った。
その姿勢に何となく哀れみを持ったが。
痣は忘れていなかった。
あの夜の怒鳴り声も。
忘れた訳ではない。
俺の中には二人のあの人がいた。
疲れているあの人。
そして。
母親を傷付けたかもしれないあの人。
どちらが本当なのか分からなかった。
いや。
どちらも本当なのかもしれなかった。
---
時は進み、本格的な冬、十二月だった。
仕事帰りにコンビニへ向かう途中だった。
最初は気付かなかった。
草臥れたサラリーマンにしか見えなかった。
髪は乱れていた。
背中も少し丸まっている。
何歩か通り過ぎてから気付いた。
あの家の父親だった。
少し驚いた。
俺の中のあの人は、もっと目立つ人だったからだ。
神経質そうで。
真面目そうで。
どこか張り詰めている。
人混みの中でも少し浮いて見えるような人。
少なくとも俺にはそう見えていた。
その日は違った。
街の中に溶け込んでいた。
いや。
そう見えただけかもしれない。
それからしばらく。
子供や母親の姿を見ることも減った。
公園に来る時間が変わったのかもしれない。
あるいは。
俺が見ていなかっただけかもしれない。
代わりに近所の噂話だけは増えていった。
最近帰りが遅い。
何か揉めていた。
大丈夫なのか。
そんな話だった。
今思えば。
あの父親を見たのは、それが最後だった。
数日後。
あの人は死んだ。
最初は事故だと思った。
誰も詳しいことを話さない。
話したがらない。
それでも。
自殺という言葉だけはどこかで聞いた気がした。
誰が言ったのかは覚えていない。
公園の空気が変わった。
「やっぱり追い詰められてたのね」
「奥さんも子供も大変だったろうし」
「前から様子おかしかったものね」
「かわいそうに」
みんな悲しそうな顔をしていた。
本当に悲しいのかもしれない。
そうじゃないのかもしれない。
俺には分からなかった。
ただ。
「やっぱり追い詰められてたのね」
その言葉を聞いた時。
真っ先に思い出したのは。
怒鳴り声だった。
痣だった。
疲れた顔だった。
俺は首を振った。
まだ分からない。
分かるはずがない。
そう思った。
---
子供はしばらく公園に来なくなった。
冬は終わった。
春が過ぎた。
夏が終わった。
冬が来た。
また春が来た。
公園は変わらなかった。
ブランコも。
滑り台も。
ベンチも。
何も変わらない。
変わったのは一人だけだった。 俺はノートを閉じた。それからしばらく、公園を見るのをやめた。見ることが怖くなったのかもしれない。日常の音に紛れて、あの家族の記憶は少しずつ、埃を被っていくはずだった。 --- だが、季節は残酷に巡る。 気付けば三年近く経っていた。
公園は相変わらずだった。
何も変わらない。
そう思っていた。
実際は違った。
変わっていた。
俺が見ていなかっただけだった。
ある日。
サッカーボールが目に入った。
あの子供だった。
一人でボールを蹴っている。
背が伸びていた。
シュートフォームも昔とは違う。
何本かシュートを打ったあと。
ボールを拾いに走る。
途中で周囲を見渡した。
そして。
こちらを見た。
「あれ?」
少し目を細めた。
「あ、お兄さんじゃん」
少し驚いたように笑った。
その声を聞いて気付いた。
声が低くなっている。
変声期に入ったのだ。
毎日見ていたはずなのに。
いつの間にか変わっていた。
いや。
見ていなかったのかもしれない。
「久しぶり」
「ああ」
「最近見なかったな」
「そうか」
「忙しかった?」
「まあ」
「仕事?」
「仕事」
子供は少し考える。
「ふーん」
「仕事って大変なんだな」
「なんでそう思う」
「んー」
少し首を傾げた。
「みんなずっとやってるし」
子供はそれ以上言わなかった。
俺も聞かなかった。
聞いてはいけない気がした。
いや。
聞く勇気がなかっただけかもしれない。
「そういえばさ」
「ん?」
「オレ今でも決められてない」
「何を」
「野球とサッカー」
思わず笑った。
数年前と同じことを言っていた。
「優柔不断なんだよな」
「そうだな」
「誰に似たんだろ」
「さあな」
子供は少し笑った。
「まあ、どっちも楽しいし」
「そうか」
暗い感じはなかった。
少なくとも俺にはそう見えた。
その頃からだった。
また公園を見るようになったのは。
---
再婚の話を聞いたのは、それから少し後だった。
近所の女たちの立ち話だった。
「良かったわよね」
「まだ若いもの」
「子供もいるし」
「それに、あんなに綺麗なんだから」
「選び放題でしょ」
「ほんとよね」
俺は聞こえないふりをした。
でも聞いていた。
昔からそうだった。
聞こえないふりだけは得意だった。
再婚。
少し意外だった。
驚いた訳ではない。
ただ。
俺の中では、あの家族の時間が止まったままだった。
実際は違った。
当たり前だ。
俺が生きているように。
母親も。
子供も。
生きていた。
---
再婚相手の話も少しずつ聞こえてきた。街の噂は、死者の記憶を塗り替えるように上書きされていく。 「優しい人らしいわよ」
「子供とも仲良いんだって」
「前から知り合いだったみたい」
そこで手が止まる。
前から。
知り合い。
「父親がいた頃かららしいわよ」
「安心よね」
そんな会話だった。
---
その日の夜。
古い大学ノートを開いた。
怒鳴り声。
痣。
キャッチボール。
疲れた顔。
電話。
そして。
BBQ。
ページをめくる。
『BBQ。父親、母親、子供。知らない男。賑やか。』
その文字が目に入る。
知らない男。
それだけだった。
顔も書いていない。
服装も。
年齢も。
何も残っていない。
当たり前だった。
あの頃の俺は、あの家族ばかり見ていた。
知らない男のことなんて見ていなかった。
---
もう一度ページを見る。
母親も笑っていた。
珍しい気がした。
父親も。
母親も。
普段より少し柔らかく見えた。
そこだけは覚えていた。
特に母親だった。
普段より少しだけ表情が柔らかかった。
それだけだった。
それだけなのに。
なぜか印象に残っていた。
---
ページを閉じる。
嫌な考えだった。
証拠なんて何もない。
それでも。
頭の片隅に残った。
もし。
ずっと前から。
そういう関係だったとしたら。
窓の外を見る。
公園では子供がサッカーをしていた。
笑っていた。
その姿を見ながら。
俺はもう一度ノートを開いた。
それからだった。
公園で男の姿を意識するようになったのは。
探していたつもりはなかった。
でも目で追っていた。
再婚相手。
あの人がいた頃からの知り合い。
子供とも仲が良い。
優しい人らしい。
そんな話を聞いてから。
どうしても気になった。
---
ある日。
公園のベンチに件の男がいた。
再婚相手だろうと思った。
見覚えがあった。
どこで見たのか。
すぐには思い出せない。
ただ。
妙に引っかかった。
男はベンチに座っていた。
少し離れた場所で、あの子供がサッカーをしている。
シュートを打つ。
外れる。
子供がベンチの方を見る。
男が何か言った。
距離があって聞こえなかった。
子供が笑う。
もう一度ボールを蹴った。
それだけだった。
それだけなのに。
自然だった。
昔からそうしていたみたいに。
---
その光景を見ながら。
妙な違和感を覚えた。
再婚相手だからだろうか。
それとも。
もっと前から。
あの子供の近くにいた人間だからだろうか。
もちろん。
そんなことは分からない。
俺は何も知らない。
見たことがある気がする。
ただそれだけだった。
---
帰宅する。
シャワーを浴びる。
夕飯を食べる。
それでも。
男の顔が頭から離れなかった。
別に珍しいことじゃない。
再婚相手なら、子供と仲が良くても不思議じゃない。
そう思う。
でも。
何かが引っかかった。
どこで見たのかは、多分分かっていた。
確信が持てないだけだった。
---
机の引き出しを開ける。
古い大学ノートを取り出した。
BBQ。
知らない男。
それだけだった。
顔も書いていない。
服装も。
年齢も。
何も残っていない。
---
ページをめくる。
母親についての記録も少ない。
口数が少ない。
子供には優しい。
その程度だった。
でも。
BBQの日だけは珍しく表情が柔らかかった。
口元が少し緩んでいた。
ただそれだけなのに。
なぜか印象に残っていた。
---
さらにページを遡る。
怒鳴り声。
電話。
暴投。
疲れた顔。
少しずつ増えていく。
あの人が壊れていった記録だった。
そこで手が止まる。
BBQの日。
あの人が死ぬ数か月前。
そして。
あの人の様子がおかしくなり始めた頃だった。
---
偶然かもしれない。
ただの思い込みかもしれない。
それでも。
それらの単語が頭の中で並んだ。
BBQ。
母親の柔らかい表情。
知らない男。
そして。
あの人。
俺はノートを閉じた。
嫌な考えだった。
---
数日後だった。
夕飯を買おうと思ってコンビニへ向かった。
夕方だった。
あの家族を見かけた。
母親と子供、それから男がコンビニから出てきた。
袋を持っているので、買い物が終わったのだろう。
子供が何か話している。
男が笑う。
母親も少し笑う。
三人とも力が抜けていた。
家族だった。
当たり前だ。
再婚したのだから。
それなのに。
少しだけ不思議な気がした。
俺の中では、まだあの家族の時間が止まったままだったからだ。
---
俺は店に入った。
弁当と水を買う。
店を出る。
足元に何か落ちていた。
黒い革の名刺入れだった。
周囲を見渡す。
誰も見当たらない。
少し迷う。
それから拾った。
持ち主を探そうと思った。
---
名刺が一枚見える。会社名。そこで指先が凍りついた。見覚えがあるどころじゃない。あの父親が、公園で何度も頭を下げながら電話をしていた、あの会社のロゴだ。そして、その下に印字された名前。 和泉。 脳の奥で、バラバラだったパズルのピースが、持ち主の意思を無視して音を立てて噛み合い始める。和泉。カズ。和泉。カズ。心臓の鼓動が急激に速くなり、喉が嫌な乾き方をした。 --- 「あっ」 後ろから声がした。
振り返る。
あの男だった。
「すみません」
少し息を切らしている。
「その名刺入れ、私のです」
走ってきたのだろうか。
「拾っていただいてありがとうございます」
男は頭を下げた。
そこで少し迷った。
「あの」
「はい?」
「和泉さんで合ってますか」
男が少し驚いた顔をした。
なんで俺の名前を。
そんな顔だった。
すぐに視線が名刺入れへ落ちる。
「ああ」
男、和泉は苦笑した。
「見えちゃいますよね」
「あ、すみません」
「いやいや」
「つい目に入ってしまって」
「気にしないでください」
そこで会話が途切れた。
あの父親のこと。
聞きたいことはあった。
でも。
どこまで踏み込んでいいのか分からなかった。
「えっと、あの子供と何回か話したことがあって」
俺はそう言った。
和泉は俺の急な話題に困惑していた。
「なるほど?」
その時だった。
「カズおじさーん!」 少し離れた場所から、あの子供が大きく手を振った。 その瞬間、俺の頭の中で何かが弾けた。カズ。BBQの火を囲んでいた、あの知らない男。子供が楽しそうに話していた、ゲームの下手なカズ。父親が死ぬ前から、この家族のすぐ傍にいた男。和泉。 点と点が、あまりにも残酷な鮮やかさで一本の線に繋がった。めまいがした。俺がノートに書き留めてきた「事実」たちが、全く別の意味を持って襲いかかってくるような感覚だった。 「カズ……」 無意識に、その名前が口から零れていた。 「カズ?」 和泉が不思議そうに笑う。
「ああ、昔からなんですよ」
「和泉って子供には読みにくかったみたいで」
「カズでいいよって言ったら、そのまま定着しちゃって」
少し照れたように頭を掻く。
「昔は呼び捨てだったんですけどね」
「まあ、色々あって」
「いつの間にかおじさんが付くようになりました」
和泉は苦笑した。
「歳取ったなって感じです」
何年も前。
昔は呼び捨て。
その言葉だけが頭に残った。
「それじゃ」
和泉は軽く頭を下げた。
「拾っていただいて助かりました」
「ありがとうございました」
「いえ」
---
和泉が振り返る。
子供の方へ歩いていく。
その時だった。
母親と目が合った。
一瞬だった。
向こうも気付いたらしかった。
少しだけ驚いた顔をする。
すぐに元へ戻る。
会釈された。
俺も慌てて頭を下げる。
それだけだった。
それだけだったのに。
妙に落ち着かなかった。
俺は勝手に気まずいと思っていた。
向こうもそうだと思っていた。
でも。
母親は普通に会釈した。
それが少し意外だった。
---
帰宅してからも落ち着かなかった。
夕飯を食べる。
風呂に入る。
テレビをつける。
何も頭に入らなかった。
---
和泉。
カズ。
あの人の会社。
何年も前。
昔は呼び捨て。
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それぞれの言葉が頭の中を回っていた。
机の引き出しを開ける。
古い大学ノートを取り出した。
ページをめくる。
怒鳴り声。
痣。
キャッチボール。
電話。
疲れた顔。
---
そして。
BBQ。
知らない男。
その文字を見つめた。
怒鳴り声。
痣。
キャッチボール。
電話。
疲れた顔。
そして。
BBQ。
知らない男。
---
俺はページを閉じた。
嫌な考えだった。
証拠なんて何もない。
それでも。
頭の片隅に残った。
もし。
ずっと前から。
そういう関係だったとしたら。
---
窓の外を見る。
公園では子供がサッカーをしていた。
笑っていた。
和泉もいた。
少し離れた場所に母親もいる。
普通の光景だった。
だから困った。
もっと嫌な奴なら良かった。
もっと胡散臭い奴なら良かった。
そうしたら。
全部説明できる気がした。
でも違った。
和泉は感じの良い人だった。
子供にも好かれている。
母親とも自然に話している。
だから余計に分からなかった。
---
BBQの日を思い出す。
あの日も。
あんな感じだったのだろうか。
思い出せない。
いや。
思い出せないんじゃない。
都合の良い部分だけを思い出している気がした。
そこで思考が止まる。
初めてだった。
そんな考え方をしたのは。
---
俺はノートを見る。
怒鳴り声。
痣。
暴投。
疲れた顔。
全部事実だった。
でも。
その意味は。
本当に俺が考えている通りなのだろうか。
---
ページを閉じる。
分からなかった。
あの人のことも。
和泉のことも。
俺自身のことも。
---
公園の横を通り過ぎながら考える。
もし。
あの人が気付いてしまった何かがあったのだとしたら。
もし。
それが和泉だったのだとしたら。
あの人が壊れていった理由も説明がつく。
怒鳴り声も。
暴投も。
全部。
説明がつく。
---
そこで。
ふと足が止まる。
説明がつく。
その言葉が引っかかった。
説明がつくから何だというのだろう。
何があったのかも分からない。
それなのに。
俺は説明を欲しがっていた。
理由を。
答えを。
納得できる何かだけを。
そこで少しだけ嫌な予感がした。
---
帰宅する。
机に座る。
古い大学ノートを開く。
あの人の記録。
怒鳴り声。
電話。
暴投。
疲れた顔。
何度も読んだページだった。
それなのに。
あることに気付く。
和泉の名前はない。
当たり前だった。
あの頃の俺は知らなかった。
でも。
今の俺は知っている。
---
だから。
勝手に繋げている。
そこで手が止まる。
勝手に。
その言葉が頭に残った。
和泉はあの人と同じ会社だった。
子供と仲が良かった。
母親とも仲が良い。
それは事実だ。
でも。
その先は。
全部俺の想像だった。
椅子にもたれる。
天井を見る。
静かだった。
---
その時。
ふと思った。
もし。
和泉が原因だったら。
俺は何が嬉しいんだろう。
---
そこで思考が止まる。
初めてだった。
そんなことを考えたのは。
和泉が悪かったとして。
真相が分かったとして。
俺は答えを欲しがっていた。
どうしてだろう。
---
分からなかった。
ただ。
胸の奥が少しだけ重かった。
あの人はもういない。
確かめることはできなかった。
その事実だけが残った。
あの人は疲れていた。
そんなことは当時から分かっていた。
電話の後。
ベンチに座る姿。
怒鳴り声。
暴投。
疲れた顔。
ノートには何度も書いてある。
問題はそこじゃない。
どうしてあそこまで壊れていったのか。
俺はそれを知らない。
そこで。
ふと思い出す。
コンビニの前だった。
---
母親と目が合った。
あの時。
母親は目を逸らさなかった。
怒っているようにも見えなかった。
気まずそうにも見えなかった。
ただ普通に会釈した。
それだけだった。
それだけだったのに。
俺は勝手に驚いていた。
向こうも気まずいと思っていたからだ。
向こうも。
あの人のことを考えていると思っていたからだ。
でも。
本当にそうだろうか。
---
俺はあの人のことばかり考えている。
だから。
母親もそうだと思っていた。
和泉もそうだった。
そこで。
ふと思い出す。
公園だった。
ベンチ。
缶コーヒー。
あの人。
子供。
そして俺。
「あの子、意外と逞しいですからね」
あの人は黙った。
ほんの一瞬だった。
でも覚えている。
あの沈黙だけは。
もし。
あの時。
俺が余計なことを言わなかったら。
---
馬鹿らしい。
そんな訳がない。
たった一言だ。
そんなもので人は死なない。
本当にそうだろうか。
分からない。
あの人はもういない。
聞くこともできなかった。
---
俺は。
楽になりたかった。
その言葉が浮かぶ。
浮かんでしまった。
否定できなかった。
和泉が原因だったら。
俺は悪くない。
和泉が原因だったら。
あの日の沈黙は関係ない。
和泉が原因だったら。
俺の言葉は関係ない。
全部。
関係なくなる。
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そこで笑った。
小さく。
情けなく。
笑った。
俺はずっと。
勝手に決めつけないようにしていた。
推測を避けていた。
分からないことは分からないままにしていた。
真実だけを見ようとしていた。
少なくとも。
そのつもりだった。
だから。
無遠慮な噂話が嫌いだった。
近所の女たちの話も軽蔑していた。
何も知らないくせに。
勝手なことを言うなと思っていた。
でも。
俺の言葉があの人を傷つけていたかもしれない。
その可能性を考えた途端だった。
驚くほど簡単に。
俺は和泉を悪者にしようとした。
母親を悪者にしようとした。
俺以外の誰かを探そうとした。
---
真実は分からない。
今も分からない。
あの人が何を考えていたのか。
どうして壊れていったのか。
最後まで分からない。
でも。
俺が勝手に物語を作ろうとしたことだけは分かった。
説明を欲しがった。
理由を欲しがった。
そして。
自分が悪くないと言える答えを欲しがった。
それだけは。
間違いなく事実だった。
数日後だった。
仕事帰りだった。
公園の横を通る。
---
見慣れた景色だった。
ベンチ。
遊具。
砂場。
そして。
サッカーボール。
子供がいた。
和泉もいた。
少し離れた場所に母親もいた。
何度も見た光景だった。
俺は立ち止まる。
昔なら。
この光景の中に、あの人が壊れていった理由を探していたと思う。
和泉のことを。
母親のことを。
あの人のことを。
そして。
その間にどんな物語があったのかを。
---
でも。
今は違った。
子供が笑う。
和泉も笑う。
母親も笑う。
ただそれだけだった。
その時。
母親がこちらを見た。
目が合う。
コンビニの前でも。
目が合った。
あの時は意味を探した。
怒っているのか。
気まずいのか。
あの人のことをどう思っているのか。
俺のことをどう思っているのか。
勝手に考えた。
---
でも。
今なら分かる。
いや。
分からない。
前までの俺なら。
メモには書かずとも。
その目線に意味を探しただろう。
喜び。
怒り。
悲しみ。
安心。
楽しさ。
そして。
俺を責める意味を。
でも。
俺には分からない。
母親が何を考えているのか。
あの人が何を考えていたのか。
和泉が何を思っていたのか。
結局。
最後まで分からなかった。
当然だった。
俺はあの人じゃない。
母親でもない。
和泉でもない。
他人だった。
自分のことですら。
分からないことばかりなのに。
他人の人生を説明しようとしていた。
それが少しおかしかった。
---
母親が軽く会釈する。
俺も頭を下げる。
それだけだった。
それで良いと思った。
俺は歩き出す。
もう立ち止まらなかった。
---
家に帰る。
部屋は静かだった。
いつも通りだった。
机の引き出しを開ける。
古い大学ノートを取り出した。
表紙は少し折れている。
何度も開いた跡が残っていた。
ページをめくる。
怒鳴り声。
電話。
暴投。
疲れた顔。
痣。
BBQ。
知らない男。
---
色々書いてあった。
事実ばかりだった。
少なくとも。
そう思っていた。
でも違った。
そこに書かれていたのは。
俺が見たものだった。
あの人が見たものじゃない。
母親が見たものでもない。
子供が見たものでもない。
和泉が見たものでもない。
ただ。
俺が見たものだった。
だから。
最後まで分からなかった。
---
分からない。
今も。
多分これからも。
分からない。
あの人が何を考えていたのか。
どうして死んだのか。
和泉のことも。
母親のことも。
分からないままだった。
でも。
なくなる訳じゃなかった。
分からないまま残る。
そのまま抱えていくしかなかった。
ノートを閉じる。
今度は引き出しに戻した。