
死に終い(しにじまい)の優しさ
人生の最期に、人は何を残したいと思うのだろう。
モノだろうか。 お金だろうか。 それとも、誰かを想う優しさだろうか。
私は二十年以上、高橋書店の手帳を使っている。
特に「シャルムシリーズ」が好きで、今年はフィールドグリーンを選んだ。
毎年、最初の見開きページには、その年に心に留めておきたい言葉を書く。
誰かの言葉だったり、自分自身の言葉だったり。
そして後半ページには、その時々で更新されるバケットリスト。
最近は行きたい場所が少しずつ増えている。
若い頃は未来は無限に続くものだと思っていた。
けれど六十歳を迎え、父の介護をしながら暮らす今、残された時間には限りがあることを実感する。
だからこそ、「どう生きるか」と同じくらい、「どう終えるか」を考えるようになった。
私はこれまで看護師として、多くの方の人生の最終章に関わらせていただいた。
病気の発覚。
闘病。
在宅療養。
そしてお看取りまで。
雪深い地域では、八十代、九十代の独居も珍しくない。
古い家に一人で暮らし、冬になれば隙間風が音を立てている。
施設に入りたくても入れない。
年金だけでは生活もぎりぎりで、子どもたちにも余裕がない。
周囲は簡単に言う。
「施設に入ればいいのに」
けれど、現実はそう簡単ではない。
人生の終盤に差しかかった人たちは、それぞれの事情を抱えながら、それでも今日を生きている。
そんな姿を見ていると、人が本当に不安になるのは「死」そのものではなく、自分がいなくなった後に残される人たちへの心配なのではないかと思うようになった。
私は「死に終まい」は終活とは少し違うと思っている。
終活は、自分のため。
やり残したことを整理し、人生を振り返るためのもの。
けれど死に終まいは、残される人への最後の思いやりだ。
認知症になる前に。
病に伏せる前に。
まだ自分で決められるうちに。
身の回りを整える。
不要な契約を解約する。
銀行口座を整理する。
パスワードを書き残しておく。
必要なら遺言を書く。
子どもたちは親の物を簡単には捨てられない。
だからこそ、自分でできることは自分で終えておく。
それは家族への優しさだと思う。
そしてもうひとつ、大切なことがある。
「死んで花実が咲くものか」
昔の人の言葉だ。
死んでしまえば、それまで。
だからこそ、生きている今を大切にしなければならない。
誰もが必ず死ぬ。
それだけは平等だ。
けれど、その日がいつ来るのかは誰にもわからない。
だから私は思う。
その日までは、できるだけ笑って生きよう。
会いたい人に会い、
行きたい場所へ行き、
伝えたい言葉を伝え、
好きなものを好きだと言おう。
人生の終わりを考えることは、人生を諦めることではない。
むしろ今をより豊かに生きるための準備なのだと思う。
それこそが私が私自身に、そして大切な人たちに残せる、最高の「死に終まいの優しさ」なのだから。