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飼い猫に殺意が湧いた日。嫌いな感情と、どう距離を取るか

    きれいごとではない話をします。

    私は、飼い猫に対して、殺意のようなものが湧いたことがあります。

    もちろん、現実に手を出すつもりはありません。
    この記事は、動物への危害を肯定するものでもありません。
    あくまで、私の内側に一瞬発生した感情の話です。

    ただ、自分の中に一瞬でもそういう感情が発生したことを、なかったことにするつもりもありません。

    「そんなことを思ってはいけない」
    「動物を嫌うなんて冷たい」
    「命は大切にしなければいけない」

    そういう正しさは分かっています。

    でも、正しさを並べたところで、腹が立つものは腹が立つ。
    嫌いなものは嫌い。
    声を聞くだけで、体の奥から不快感が立ち上がることもある。

    これは、私の中で実際に起きた反応です。

    そして私は、この反応をただ否定するのではなく、切り分けて見たいと思いました。


    嫌いなものを、好きなふりはできない

    私は、その猫が好きではありません。

    甘えてくる甲高い声が、私にはどうしても不快な音として刺さります。
    近くにいると感じるだけで、体の奥に不快感が立ち上がります。

    私の感覚の中では、真っ白だった空間に、黒い染みが広がっていくように感じることがあります。

    その猫も、たぶん私を好いてはいません。
    私と同じように、私の存在を不快なものとして感じているのかもしれません。

    私の存在を確認するやいなや、威嚇するか、逃げていきます。
    私はただそこにいるだけです。
    少なくとも、私の認識では何もしていません。

    妻は、その猫を守ります。

    まるで、私の存在そのものが猫への加害であるかのように、その猫を匿っているように見えることがあります。

    もちろん、妻には妻の感情があります。
    猫には猫の本能があります。
    それぞれに言い分があるのでしょう。

    でも、私の中では、納得できない感情が残ります。

    なぜ、こちらの不快感だけが置き去りにされるのか。
    なぜ、自分が我慢する前提になっているのか。
    なぜ、嫌だと思っているものが、当たり前のようにこの空間にいるのか。

    そういう感覚が積み重なると、感情は濃くなります。

    最初はただの不快感だったものが、怒りになり、嫌悪になり、やがて一瞬、殺意のような形を取る。

    それをきれいな言葉でごまかしても、たぶん意味がありません。

    私はその猫が嫌いです。
    少なくとも、今の私は、その猫を好きにはなれません。

    まずは、そこを認めるしかないのだと思います。


    湧いた感情と、自分自身は別のもの

    ただ、ここで大事なのは、
    「殺意が湧いた」ことと、
    「それを現実に実行する」ことは、まったく別だということです。

    そしてもうひとつ。

    「殺意のような感情が湧いた」ことと、
    「それが自分の本質である」ことも、まったく別です。

    感情は、湧きます。

    体が反応する。
    神経が反応する。
    環境に反応する。
    境界線を越えられたような感覚に反応する。

    それらが混ざった時、人の中には、自分でも引くような感情が発生することがあります。

    でも、それをそのまま「自分そのもの」だと思う必要はない。

    私は今、怒っている。
    私は今、嫌悪している。
    私は今、極端な妄想が湧いている。

    そうやって、一つずつ切り分ける。

    これは、感情を消すためではありません。
    感情を正当化するためでもありません。

    ただ、飲み込まれないためです。

    思考整理とは、きれいな答えを出すことだけではないと思っています。
    むしろ、こういう見たくない感情ほど、切り分けが必要になります。

    自分の中に何が発生しているのか。
    それは事実なのか。
    感情なのか。
    反応なのか。
    本当に現実で必要な行動なのか。

    そこを分けずにいると、感情が現実を乗っ取ります。

    だからこそ、必要になるのは、感情をさらに強く分析することではなく、見る場所を少し変えることなのだと思います。

    怒りの中に入り込んだまま、怒りを整理しようとしても、たぶん難しい。
    嫌悪の渦の中にいるまま、「なぜ嫌なのか」と考えても、感情の声ばかりが大きくなる。

    だから一度、その感情の真ん中から出る。

    猫を見ている自分。
    腹を立てている自分。
    殺意のような反応が湧いている自分。

    それらを、少し離れた場所から見る。

    それは、高い視座に立つということです。


    感情の真ん中から、一歩外に出る

    高い視座というのは、怒らない人間になることではないと思っています。

    腹が立つ時は、腹が立ちます。
    嫌いなものは、嫌いです。
    許せないと感じることもあります。

    それを無理に、愛や感謝に変換しなくてもいい。

    むしろ、そこで無理にきれいな言葉をかぶせると、感情は地下に潜ります。
    そして、別の形で噴き出します。

    大切なのは、感情が湧いた時に、その感情と同化しないこと。

    怒りがある。
    でも、怒りそのものが私ではない。

    殺意のような反応がある。
    でも、それを現実に流し込むかどうかは別の話。

    嫌悪がある。
    でも、嫌悪に支配される必要はない。

    この少しの距離。
    この一歩引いた場所。

    そこに立てるかどうかが、私にとっての高い視座です。

    そして、この視座に立つと、見えるものが少し変わってきます。

    嫌悪の真ん中にいる時、猫はただの敵に見えます。
    自分を不快にする存在。
    この家から消えてほしい存在。
    自分の平穏を壊す存在。

    でも、一歩外に出ると、猫だけではなくなります。

    猫に反応している自分が見える。
    猫を守る妻に反応している自分が見える。
    自分の空間が侵されているように感じている自分が見える。
    「自分の不快感は尊重されない」と感じている自分が見える。

    つまり、高い視座とは、相手を許すためだけのものではありません。

    自分の怒りを、より正確に見るための場所でもあるのだと思います。


    感情を認めることと、行動を正当化することは違う

    ただし、ここで混ぜてはいけないものがあります。

    怒りが湧いた。
    嫌悪が湧いた。
    殺意のような感情が湧いた。

    それ自体を、私は否定しません。

    けれど、それを理由に、現実で危害を加えていいわけではありません。
    傷つけていいわけでもありません。
    命を粗末に扱っていいわけでもありません。

    感情は認める。
    でも、行動は選ぶ。

    ここを混同してはいけない。

    「そう感じたのだから仕方ない」と言って、現実の行為まで正当化してしまえば、それはただ感情に飲み込まれているだけです。

    逆に、
    「そんな感情を持つ自分は最低だ」と責め続けるだけでも、感情は整理されません。

    必要なのは、否定でも正当化でもなく、切り分けです。

    私は今、こう感じている。
    でも、現実で何をするかは、別のレイヤーで選ぶ。

    この分離ができるだけで、感情と行動の間に余白が生まれます。

    そして、この余白があるだけで、感情に飲み込まれにくくなります。

    怒りの中にいる時、人はすぐに結論を出したくなります。

    あいつが悪い。
    あれが消えればいい。
    この状況さえなくなればいい。

    でも、少し離れて見ると、結論を急がなくてもよくなります。

    今すぐ行動に変えなくてもいい。
    今すぐ誰かを責めなくてもいい。
    今すぐ自分を正しい側に置かなくてもいい。

    ただ、感情と行動の間に一呼吸置く。

    その一呼吸があるだけで、現実は少し違って見えます。


    猫を見ているようで、自分の反応を見ている

    私は、猫に腹を立てています。

    でも、高い視座から見直すと、私は猫そのものだけを見ていたわけではないことに気づきます。

    猫の声を通して、
    自分の中の不快感を見ている。

    猫の甘えを通して、
    自分の境界線を見ている。

    妻が猫を守る姿を通して、
    自分の置き去りにされた感覚を見ている。

    この世界で起きる出来事は、ただ外側で起きているだけではありません。
    それは同時に、自分の内側にある反応を映し出している。

    だからといって、不快感をなかったことにする必要はありません。

    「これは自分の投影だから、嫌がってはいけない」
    そんなふうに、さらに自分を縛る必要もない。

    嫌だと感じている。
    それは事実。

    でも、その嫌悪の奥に何があるのかは、見てみる価値がある。

    怒りなのか。
    無力感なのか。
    自分の場所を侵されている感覚なのか。
    こちらの意思を軽く扱われている感覚なのか。

    猫がいなくなればいいと思ってしまう。
    その反応の奥で、本当は何を訴えているのか。

    そこを見ないまま、ただ外側の対象だけを敵にすると、同じ反応はまた別の形で現れる気がします。

    高い視座とは、猫を好きになるための視点ではありません。

    猫を見る。
    妻を見る。
    自分の怒りを見る。
    その奥にある、未整理な反応を見る。

    そのうえで、全部を一つに混ぜない。

    猫は猫。
    妻は妻。
    私の怒りは、私の怒り。
    私の行動は、私が選ぶもの。

    そうやって分けて見ることが、私にとっての思考整理です。


    嫌いなままでいい。支配されなければいい

    私は、今でもその猫を好きではありません。

    無理に好きになろうとも思っていません。
    きれいな話にして、最後に「命の大切さに気づきました」と締めるつもりもありません。

    嫌いなものは、嫌いです。

    腹が立つ。
    不快になる。
    消えてほしいと思う。

    そういう反応が湧くことはある。
    でも、それをそのまま現実に流し込む必要はない。

    感情が湧いたことと、それを現実で実行することは別です。

    この世界で起きる出来事。
    自分の内側に発生する感情。
    そこから選ぶ行動。

    それらを一つに混ぜない。

    そのために、ほんの少しだけ見る位置を変える。

    私は、ここに思考整理の本質があると思っています。

    きれいな感情だけを扱うのが、思考整理ではない。
    怒りも、嫌悪も、自分でも見たくない反応も、整理の対象になる。

    感情を消すのではなく、距離を取る。
    正当化するのではなく、切り分ける。
    きれいな自分になるのではなく、飲み込まれない自分に戻る。

    嫌いなままでいい。

    ただ、支配されなければいい。

    その余白を取り戻すことが、私にとっての思考整理です。

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    元SE×スピリチュアル。 情報過多、スピリチュアル疲れ、現実の重さで混線した心を、言の葉でほどく文章を書いています。 感情はバグではなく仕様。心のログを読み解き、この星で生きる感覚を取り戻す言葉を届けます。

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