【制度の翻訳|国保編③】 国民健康保険は、どんな時代を前提に作られた制度なのか――「自己責任」に見える構造の、そもそもの出発点
国民健康保険をめぐる議論が荒れるたび、
私たちはいつの間にか
「誰がズルをしているのか」
「誰が負担を逃れているのか」
という問いに引きずり込まれてしまう。
だが、ここまで見てきた通り、
問題の中心はそこではない。
問うべきなのは、
この制度が、どんな時代を前提に設計されたのか
という点だ。
国民健康保険が想定していた「暮らし」
国民健康保険が制度として形づくられたのは、
高度経済成長期を含む、
社会の前提が比較的そろっていた時代だった。
当時、制度が想定していた主な前提はこうだ。
• 世帯単位で生活が成り立っている
• 自営業や農業など、地域に根ざした働き方が多い
• 所得の変動はあるが、極端な分断は少ない
• 地域共同体の中で、負担と支え合いが機能している
つまり国保は、
「個人が完全に孤立して生きる社会」
を前提に作られた制度ではなかった。
時代が変わり、前提だけが残った
しかし、社会は大きく変わった。
• 単身世帯の増加
• 非正規雇用・フリーランスの拡大
• 所得の不安定化と二極化
• 地域のつながりの希薄化
にもかかわらず、
制度の骨格は、
かつての前提を引きずったまま残っている。
その結果、何が起きたか。
制度の中で生まれる不公平感や負担感が、
「制度の問題」ではなく、
「個人の姿勢」や「モラル」の問題として
見えやすくなってしまった。
「自己責任」に見えるよう
設計されてしまった構造
国保が批判されるとき、
よく使われる言葉がある。
「払わない人が得をする」
「真面目な人が損をする」
だがこれは、
誰かの倫理が急に崩れたからではない。
制度が、そう見える形で残り続けてきた
ただそれだけのことだ。
大阪都構想で見えてきた
「制度と感情のズレ」が、
国保では
「制度と生活実態のズレ」
として、より露骨に表に出ている。
問題は「誰が悪いか」では終わらない
ここで大切なのは、
誰かを断罪することではない。
• 制度が生まれた背景
• 想定していた社会像
• いまの暮らしとのズレ
これらを整理しない限り、
議論は必ず感情論に引き戻される。
国民健康保険は、
「悪い制度」になったのではない。
時代が変わり、前提だけが置き去りにされた制度
になったのだ。
次につながる視点
次に問うべきなのは、
ではそのズレは、
• 誰の負担として現れているのか
• どこで静かに吸収されているのか
という点だ。
見えにくい負担の行き先をたどらない限り、
「ズルい」「逃げている」という言葉だけが
制度の代わりに語られ続けてしまう。
次章では、
国民健康保険の負担が
特定の人たちに偏ってのしかかっている構造と、
それが制度の中で「問題として見えにくくなっている理由」
を整理していく。
