
小説『地域政策として合理性があります』
正論という名の鈍器を振り回していたわたしは、自分が救おうとした相手の顔すら知らなかった。
最適解を出し続ける「良い子」として生き、息切れを起こしていた32歳のフリーランスの「わたし」。彼女は、理不尽な地方行政に切り捨てられようとしている舞踊団『Joism』を救うことに狂気的な生き甲斐を見出す。
AIを駆使してデータを吸い上げ、完璧なロジックで行政を論破しようと企む日々。しかし、渡欧中の機内で読んだ無名の日本人ダンサーの血の通った悲痛な「手記」が、彼女の薄っぺらい正義感と自己陶酔を粉々に打ち砕く。
テキストという「虚無」だけを貪食してきた主人公が、圧倒的な「肉体」と「現実」の前に崩れ落ち、自らの傲慢さに直面するまでの自己解体を描く、痛切で鮮烈な純文学。
「世間が知るべきだと思った事実の側面を、その時の感情の赴くままに書きました」
「市(課)としてこれ以上のことはできかねます。たいへん申し訳ございませんが、ご理解のほどいただきますようご容赦願います」
日本の組織ってどうしてこうクレイジートップダウンステューピッドシットなんだろう。テンプレの就職お祈りメールの方がまだましだ。
今後のご活躍をお祈りしています
I wish your fine journey
採用したいと思わなかった人間に「今後」の「ご活躍」があると本気で思っているなら笑わせる。これを受けたときに他責でへらへらと御社の悪口を言い出す女子たちの、あの痛々しい傷の舐め合いがいちばん嫌いで、わたしが明確に馬鹿にしてきたもののひとつだった。けれどそれにしても人が人と縁を切りたいときの発する言葉には、どうしたって正気を疑うほどの冷たさと筋の通っていなさがある。わたしは、明らかに間違っているとわかることから、どうしても目を背けることができない。
わたしは、ずっと、鮮血で切った自分の喉をしみさせて、痛い思いをして泣きながら、正しすぎることを言ってきた。それはわたし一人の完全な独りよがりの意見ではなくて、たとえば同じ意見を持つ有識者もいる。何になるんだろう、証拠ってやつか、と思いながら、一人歩きしないように迷える子羊たちの意見も聞いてきたつもりだ。課金してプロンプトライターとしてそこそこ使い倒し、精度を上げてきたAIたちとも壁打ちをして、他者視点を盛り込むことを忘れなかったつもりでもある。
わたしの話が呑めないのなら、考えられる理由は三通りだ。頭が古い、あるいは悪くてついてこられない。途方もなく先が長くて新しいことをとりあえず切りたいだけ。トップダウン組織のなかで悪目立ちをして窓際に追いやられたくない。ほぼ間違いなくほとんどが最後のふたつだろう。
めんどくさい、怖い思いをしたくない、そんなクズかごに投げ入れられるような理由で逃げる人たちと、合理性を無理に作ろうとする人たちと、どうしても同じになりたくなかった。 ここからどうするか。パソコンの画面から目を離して、デスク全体が俯瞰して見えるようになったとき。パソコンを開くために右端に追いやった、しおりを食わされたばかりの『文藝春夏』の、そのままのタイトルを冠した週刊誌が目についた。
記者、か。
*
嫌いな人がいた。嫌いという感情を向ける以外に仕様のないたちの人たちがいた。 四人兄弟の一人目であり、唯一の女に生まれたわたしは、蝶よ花よと育てられる代わりに、一体何を植え付けられただろう。女の子はお片付けをしなさい、お掃除をしなさい。座り方を正され、「あんた女の子なんだよ?」という言葉で、わたしという存在のすべてを疑うような否定をされ。
三人の弟たちは、まるで嵐のように家の中を通り過ぎては、破壊と混沌だけを残していく生き物だった。彼らがひっくり返した玩具箱、泥まみれの靴下、食べこぼした菓子の破片。それらを片付けるのは、常に「唯一の女の子」であるわたしの役目だった。弟たちが散らかしたレゴブロックの鋭い角をうっかり踏みつけて足の裏から血を流したときでさえ、母は
「あんたが早く片付けないからでしょ。女の子なんだから、周りをよく見て動きなさい」
とため息をついた。
そのたびに、腹の底で黒くて重い泥のようなものが煮えたぎるのを感じたが、わたしは決して泣かなかったし、反抗もしなかった。怒りを押し殺し、血の滲む足を庇いながら無言でブロックを拾い集めるわたしを見て、大人たちは
「本当に聞き分けの良い、賢いお姉ちゃんね」
と頭を撫でた。その歪んだ報酬系が、わたしの骨格を決定づけた最初の呪いだったのだと思う。
そして今思うととても不思議なのだけれど、うちの場合は、平成の世によくあるステレオタイプな女の子教育とは少し離れていた。 花嫁修行をして、良いお嫁さんになりなさい、という単純な方針ではない。
クラスでは一番になりなさい。お勉強はいつも満点を。毎年のように学級委員をやりなさい。お稽古ごとではコンクール出場を目指せ。それが次第に入賞になり、さらに上位へ、とスライドされていった。 わたしは頭の回転が早く、小回りの利く子供だったから、周囲の期待という名の「正解」を叩き出すのはあまりにも簡単だった。
学級会というものがある。あれは日本の義務教育が生み出した、最も悪趣味な全体主義のシミュレーターだ。 「みんなが楽しめるお楽しみ会の内容を決めましょう」 担任の教師はそう言って教卓の横に立ち、あとは子供たちの自主性に任せるというポーズを取る。しかし、彼らの頭の中にはすでに「誰も怪我をせず、予算がかからず、保護者からクレームが来ない、道徳的な正解(たとえば、手作りの紙芝居や合唱など)」が用意されている。 学級委員だったわたしは、司会席からクラス全体の空気をスキャンし、教師の微細な表情の変化を読み取った。活発な男子が提案する「ドッジボール大会」や、一部の女子が主張する「ファッションショー」といった、イレギュラーで波風の立ちそうな意見を、わたしは完璧なロジックと笑顔で、しかし徹底的に冷酷に潰していった。
「ドッジボールは、運動が苦手な子が楽しめないかもしれないよね。みんなが楽しめるのが一番大事だと思うな」
「ファッションショーは準備が大変だし、先生のお手伝いが必要になっちゃうよ。自分たちだけでできることにしない?」
反論の余地のない「正論」という鈍器で殴りつけられ、クラスメイトたちは次第に口を閉ざしていく。最終的に、わたしが誘導した通りの無難で退屈な「正解」に着地したとき、教師は満足げに頷き、クラスは拍手で包まれる。わたしはファシリテーターとして完璧だった。組織の意図を汲み取り、ノイズを排除し、全員が納得したように見せかける天才だった。
けれどその完璧な着地点に、わたし自身の本当の意思や「やりたいこと」は一つも存在しなかった。 わたしには分からなかった。今もずっと分からない。これだと求められたものを達成できない人の気持ちというものが。がんばるということを知らずに、YouTubeを観てくだらない笑いを浮かべながら、毒にも薬にもキャリアにもならないスマホゲームで二十四時間を溶かし続ける人たちの気持ちが、どうしても理解できない。 いまだに、明日になっても明後日になっても分からな。
でも、がんばれば、先を目指せば、自分自身は変わっても、何かを実際に変えられたことはどれくらいあったんだろう? 学級会の結論をどれほど良い方に誘導したところで、誰も心から楽しんでいないお楽しみ会を実現させて、わたしに一体何の徳が積まれるというのだろうか。
その「良い子」としての空虚な万能感は、就職活動という名の壮大な茶番劇で最初の破綻を迎えた。 グループディスカッション。そこでもわたしは完璧だった。自己主張が強すぎるクラッシャーを上品にいなし、発言できない学生に愛想よくパスを振り、時間内に求められた最適解をホワイトボードにまとめ上げる。面接官のペンが評価シートの上を滑る音を、わたしは勝ち誇った気分で聞いていた。 しふかふかの革張りの椅子に沈み込んだ役員たちは、わたしの完璧に構築された志望動機と自己PRを書き終えた後、つまらなそうにわたしはこう言ったの。
「言うことはすべて正しいし、優秀なのはわかる。でも、君自身の言葉が見えないんだよね。君は、わたしは、本当は何がしたいの?」
何がしたいの? そんなことわたしが知るわけがない。わたしはいつだって「あなたたちが求める正解」を提供してきただけだ。あなたたちが求める「主体性」や「パッション」とやらも、提示された仕様書に合わせて捏造してあげたじゃないか。それ以上、わたしに何を求めるというのか。わたしという存在の核など、とうの昔に弟のレゴブロックと一緒にゴミ箱に捨ててしまった。
結局わたしは他者と毎日顔を付き合わせてオフラインで仕事をする毎日を始める前から諦めた。フリーランスのライター、エッセイスト、マーケターという、聞こえのいい肩書きを繋ぎ合わせて生きる道を選んだ。
大人になっても、わたしはその空虚な「良い子」の延長線上を歩き続けている。仕事にやりがいなんてない。ただ、わたしがお金と、社会からの「よくできました」という評価のスタンプを稼ぐためだけに、キーボードを叩き、クライアントが喜ぶロジックを組み立てている。 アフィリエイトの記事を書き、オンラインサロンで適当なビジネスの真理を語る。香水からサプリメントまで、全く興味のない商品を、さも人生を変える魔法のアイテムであるかのように錯覚させる文章を構築する。そこに嘘はない。法に触れないギリギリのラインで、消費者のコンプレックスを刺激し、購買行動という「正解」へと誘導する。学級会でクラスメイトを操っていたあの頃と、やっていることは何一つ変わらない。わたしが売り捌いているのは、商品ではなく「虚無」だった。
何がしたいのか、どう生きたいのか。自分が本当に愛しているものは何なのか。
すべてが空っぽのまま、ただシステムの中で最適解を出し続けることに、わたしはとっくに知らずに疲れ果てていた。 ある夜、眠れずにネットの海を漂っていたとき、ふとある心理学のコラムに行き当たった。そこに書かれていた言葉が、わたしの眼球にこびりついて離れなくなった。
『良い子の息切れ』。
幼少期から親や周囲の期待を過剰に読み取り、役割を演じ続けることでしか自分の存在価値を見出せなくなった人間が、大人になってから突然、電池が切れたように動けなくなってしまう現象。自分の欲望を抑圧し続けた結果、「自分が何をしたいのかが分からない」という深刻な自己喪失に陥るのだという。
もともとライターなんて仕事は嘘つきの詐欺師だ。 だいたい世の中には一つの事象に対し十通りの真実の側面があるとして、その中で、最も自分が信じ込ませたいもの、あるいはクライアントが望むものを的確に選び出し、違和感と矛盾なく、相手の心の一番柔らかい部分に届くようにする。それがわたしのやっている仕事のすべてだ。 クライアントに「世間のためになっている相手」を選べば、わたしのタイピングは世の中のためになったとして称賛される。しかしもし詐欺集団を選べば、わたしはわたしを構成する細胞を一つとして例外のない、完全な毒性生物になる。
同じキーボードを叩き、同じように言葉を編み上げているだけなのに、対象が変わるだけで聖女にも毒蟲にもなる。わたしはその誇り高き矛盾をずっとずっとくすぶらせてきた。
自分がただの精巧な拡声器にすぎないという虚無感。
そんな息切れを起こし、暗闇の中で立ち尽くしていたタイミングで、わたしは『Joism』の存在を、抽出させたテキストデータの海から見つけ出した。
なぜ、数ある社会問題や不遇の存在の中で、よりによって彼らだったのか。地方創生なら、潰れかけの伝統工芸や、過疎の村の限界集落でもよかったはず。 それは、わたしが彼らアーティストという生き物の中に、自分と同じ「毒性生物」の匂いを嗅ぎ取ったからだ。
アーティストもきっと、どこかにライターと似ているところが少しある。 物語を作って作品を届けて、そこに無関係な周りの人を巻き込んでいくということは、監督が「世間に伝えたいこと」「知ってもらいたいこと」を自由に題材に選ぶ絶対的な権利を持っているということだ。現実の人間関係すらも素材になる。
マブや旦那を主人公にして、王様にして、いかにもミューズですというふうに掲げて、彼らの人生の断片を勝手にモデルにして商品にすることができる。 幸せなことも、腸が煮えくり返るような絶望の瞬間も、感情が大きく振れなければ、相手に届くものは作れない。けれど、それをもっともっと的確な形で相手に届けようとするならば、芸術家は極めて冷酷な編集者になる。たとえば作者自身がその思想に100%同意をしていなくても、作者自身が主人公やヒロインの立場だったときに絶対に同じ行動をとらないとしても、読み手や観客を巻き取るためのありとあらゆる戦略を計算し尽くして舞台に乗せるのだ。
それは社会を動かす力を持っていて、同時に、いとも簡単に人を殺す可能性すら孕んでいる。 芸術は、世界で最も美しいことや幸せなことを汲み取ってパッケージにしているように見えて、実は最も世界で目を背けられている醜悪なところへ、観客の首を無理やり捻って強制的に視線を向けさせる暴力だ。対象の関節の扱いを間違えれば、相手の明日を人生を、根こそぎ奪う行為。
わたしは彼らの作品のあらすじや理念をテキストで読み解きながら、その高尚な暴力性に強烈に惹かれた。 わたしがやっているアフィリエイトやマーケティングの嘘は、結局のところ小銭を稼ぎ、クライアントを満足させるためのチープな詐欺でしかない。しかし彼らアーティストの嘘は、観客の魂を揺さぶり、社会の構造に亀裂を入れ、歴史に名を残す。同じように現実を切り貼りし、他者の感情を操作しているのに、彼らは「芸術」という絶対的な免罪符を持っている。
嫉妬と、憧れと、同族嫌悪。それらが混ざり合ったドロドロの感情が、わたしの息切れしていた肺に、久々に熱い空気を送り込んだ。
わたしは彼らのその危険な劇薬のような存在が、行政という「やらない理由を探す天才」たちの鈍重なシステムによって切り捨てられようとしていることに、耐え難い興奮を覚えた。 行政の役人たちは、芸術の本当の暴力性など理解していない。「市民の理解」だの「財政状況」だのという薄っぺらい言葉で、この毒性生物を管理しようとしている。 そこに、わたしが入り込む余地があった。
わたしは、この芸術という名の美しい詐欺を、マーケティングという名のわたしの詐欺で包み込み、行政の論理を内側から破壊してやる。彼らという「大義」を背負うことで、わたしは自分の内側にある虚無から目を背けることができた。彼らを助けるわたしは正しい。わたしは良い子だ。だから、誰もわたしを否定することはできない。
*
いつからだろう。記憶にある高校生のわたしは、同い年の、まだパスポートすら握ったことのないバイト仲間の前で、平然とこう言い放っていた。
「この国ってやばいよね」
ただのイキりだったのかもしれないけれど、三十代に突入してしばらく経つ今でも覚えているということは、それがわたしの根底にある意識と確かに繋がっていたからなのかもしれない。わたしが『Joism』という劇場組織を知ることになったのも、間違いなくこの意識に関連していた。
日本の、ちょうど東と西の境目のあたりに、その劇場舞踊団はあった。名前を『Joism』という。じょいずむ。 「joy!」という言葉がポップな響きを添えている、まるで軽やかに踊るような名前だけれど、本当の中身は軍隊みたいだという噂だった。国内外で特別に話題を集めていたのは、その過激な思想や集団性、圧倒的な芸術性だけではない。
Joismは、日本で初めての「劇場専属舞踊団」だった。
そのJoismが、なくなることになった。 わたしはダンサーではないし、アーティストでもない。劇場なんて言葉を使うことすら、どこか歯に浮いてしまうような人間なので、正しいことなんて言えないだろうし、何を言ったらよいのかも分からない。
わたしがこの集団を知ったのは、わたしの知り合いの知り合いの娘さんが、Joismのトップに座る監督に出会ったことがきっかけでコンテンポラリーダンスを始めた、という話を聞いたのが最初だった。ただ、それはその監督がJoismを立ち上げるよりも、ずっと前の話だったという。その娘さんは結果的にJoismに所属したことはないそうなので、途中で道を分かったか、早々に踊りの道を諦めたか、あるいは日本一であり日本唯一の団体に所属できるほどの力を身につけるまで稽古に打ち込めなかった落ちこぼれか。もしくはそもそも「のちに名前を持つことになる監督に、たまたま縁があっただけのただの石ころだった」ってところだろう。本人に尋ねたことはない。 ただ、「コンテンポラリーダンスを始めた」と言い張れば、そこで全てが終わったようには聞こえなかった、というだけのことだろう。「やっていた」と言え。
つまりはそういうことで、とても幼い頃に運よく素晴らしい師匠に出会い、怪我もなく病気もなく、精神を病むことも知らず、雨の日も風の日も何十年と稽古に通い続ける日々。その気の遠くなるような時間の末に、宝塚歌劇団のような過酷な倍率の世界を潜り抜けた者だけが、ようやくJoismに辿り着く。と、これは知り合いの知り合いから聞いた話だ。
精鋭集団の座というものは、それほどまでに数が稀なるものなのか。 わたしはそれから、Joismの公演を観るために、東へ西へと国内を渡り歩く自分を想像するようになった。舞台を観て、ときに涙を流し、ときに呆然と宙を眺めた。「好き」という感情や「不思議」という感覚はあったとしても、根底にある「すごいなあ」というリスペクトだけは変わらなかった。でもそれが自分がアーティストではない側の人間にすぎないからなのかどうかは、自分でも分からなかった。
三十二という年齢特有の、焦燥とも諦観ともつかない日々を過ごしているときに、わたしは誰に頼まれるでもなく、完全に独断で、いくつかの行政機関に連絡をすることとなる。
Joismがなくなる、日本の舞踊の星が消えてしまう、と。
小学校だったと思う。将来はジャーナリストになりたいという同級生がいた。鼻の角栓が目立っていて大きなメガネをかけた、賢い女の子だったと思う。 当時、ひげをはやした、とても穏やかな喋りをする男性がテレビで活躍をしていた。わたしも、クラスメイトたちも、ジャーナリストとは戦場に写真を撮りに行く人たちだと連想しただろう。冷やかしの声も上がった。
彼女はいま何をしているんだろう。ロシアにいても素晴らしいし、週刊誌で素晴らしい記事をリークしていても素晴らしいし。『文藝春夏』にいたらどうしよう。
小学生の将来の夢や抱負の相場は、ジャーナリストほど高くなかった。だからわたしは度肝を抜かれた。 ジャーナリスト。 この子は、ジャーナリストになりたいんだ。ジャーナリスト。
20年経って悔しいがなわたしは彼女に追いついた。ライター、エッセイスト、小説家、マーケター、さまざまな書き手がいるなかで、なぜか一際ノンフィクションを追う人が輝いて尊く見えるのはなぜなのか。わたしいま記者になりたい、ジャーナリストに憧れている、そんな自分を隠せなくなってきた。
世の中には伝えるべき隠すべきではない事実がたくさん転がっている。それを正しく取り上げ見つめて、世間を振り向かせるような存在。ああジャーナリスト、何て何てかっこいいんだろう。わたしが朝6時からパソコンを開いて仕事をしたってちっともかっこよくもなんともない。アフィリエイトとサロンで主な収入を得ているなんてスカ。ジャーナリストにおれはなる。そんなときにちょっと他人事よりもひとまわり近くの場所で起こったのがJoismの一件で、その日のわたしはたまたま地域創生の業務にあたっていた。
幸か不幸か、点を線に繋げるのは得意だった。マーケターの仕事も好きだったし、なんとかなってきたのはそのためだったろう。香りもの、コスメのような嗜好品から、薬機法、行政案件、発達や発育にまつわること、運よく広く触れてきていずれも成果をギリギリあげることができたのは自分のポートフォリオを広げてくれることにもなったけれど、プレゼンがどんどん難しくなる一面もあった。 この人何できるんだろう、何してくれるんだろうと思われていそうだ。とくにやりたきこともなく、人生の目的もなくて、必要なのはお金と社会からの承認で承認欲求をひたひたに満たしてもらうことだけ。
人生を燃やす可能性の原石や宝石たちをせめて心の底から応援したかった。 毎週水曜日、わたしは発売日になったばかりの『文藝春夏』を最寄りの書店で買い求めた。デスクの右端にそれを置き、休憩時間にページを開いては、本物のジャーナリストたちが暴き出す社会の深部に触れて熱くなった。わたしもいつか、こんな風に世界に楔を打ち込むのだと。
JoismはJoismが拠点を置く行政が箱となり仕組みとなり法となり続いてきた。この行政が、市や県が問題を取り上げ始めたとも言えるしその市民や県民が不服を唱えることもある。 けれどなにより、これは日本の行政がはらんでいる代謝の悪さと責任負いたくなさが根になっている。つまり行政をひっくり返せれば、わたしはわたしたちは勝てるそう可能性を見た。 これは、ジャーナリズムだ。
当事者たちだけで話をさせていても進まない、わたしは文章を書いて人を物を金を動かしてきた、そのわたしがやらなくてどうする。手元の地方創生案件に、Joismの件を組み込むことに決めた。なにを?Joismの人たちがこの先に何を望んでいるのかいま何を必要をとしているのかをわたしは知らない知らないけど何やろうとしてるんだろう。 いまの行政と成り立たなくなった先の箱を探すのかもしれない。外から世論をかき集めていまの形が存続するように望むのかもしれない。それはトロントとニューヨークくらいベクトルの離れたことだ。誤ってはいけない、だからわたしだったらと決死の自分ごとの仮定の元に進むことにした。
Joismの次の拠点を探す。 筋をつくった先に、見知らぬジャーナリストから連絡が届く。Joismの監督もダンサーも関係者も市民国民みんなびっくりだろう。
わたしの生き甲斐ができた。
*
マーケターとしてのわたしの最初の仕事は、敵の武器庫から弾薬を根こそぎ盗み出すことだった。 市のホームページの奥底に眠る、過去二十年分の市議会の議事録、歴代市長の所信表明演説、文化振興課が発行した色褪せたPDFのパンフレット、そしてかつてJoismが設立された当時の華々しい記者会見の記録。それらをすべてスクレイピングし、テキストデータとして抽出し、AIを使って特定のキーワードで分類した。
彼らがJoismを切り捨てるために使う言葉は、すでに想像がついている。「厳しい財政状況のなかで」「市民の幅広い理解が得られるか」「一部の愛好家だけでなく、広く市民に還元される事業へ」。どこの地方自治体でもコピペして使っている、顔のない、血の通っていない言葉たちだ。 だからわたしは、彼ら自身が過去に吐いた「血の通った(ふりをした)言葉」だけを抽出させた。
『文化は、都市の背骨である。目先の経済効果だけで測れない、百年先の市民の財産となる』 『世界に誇る芸術のインキュベーターとして、我が市はJoismを全力で支援する』 『彼らの踊りは、この土地の厳しい冬と深い精神性を体現している。これは単なるエンターテインメントではない、都市の魂だ』
画面に並んだ美辞麗句を見つめながら、わたしは冷たい笑いが漏れるのを止められなかった。 すばらしい。なんと美しい理念だろう。
誰が書いた原稿か知らないが、よくできている。これを語った当時の市長や議員たちは、自分たちが歴史的な文化事業のパトロンになったのだと、さぞかし気持ちよく酔いしれたことだろう。
わたしは、市の文化政策に関するパブリックコメントの募集フォームに、これらの言葉を一つ残らず叩きつけた。そして、市の文化スポーツ部文化振興課の窓口に電話をかけた。
「お忙しいところ恐れ入ります。現在見直しが検討されているJoismの予算と存続について、市民として、そして日本の文化芸術を憂う一人の人間としてお伺いしたいことがあります」
わたしの声は、かつてクライアントに数千万円のマーケティング予算を承認させたときと同じ、完璧にコントロールされたアルトのトーンだった。
電話口の担当者は、明らかに面倒くさそうな、それでいてクレーム対応の訓練だけは受けている平坦な声で応じた。
「はい。Joismさんの件につきましては、現在、本市の厳しい財政状況や、より幅広い市民の皆様への文化還元という観点から、あり方検討委員会にて慎重に議論を進めているところでして――」
「ええ、その『幅広い市民への還元』についてですが」
わたしは相手のテンプレの息継ぎの隙間に、刃を滑り込ませるように言葉を差し込んだ。
「平成二十四年の市議会定例会において、当時の市長は『世界最高峰の芸術がこの市に存在すること自体が、次世代の子供たちへの最大の教育的還元であり、目先のわかりやすさに迎合してはならない』と答弁されています。また、市の文化政策ガイドラインの第一章には『芸術の純粋な追求は、都市の魂を育む』と明記されています。担当者様のおっしゃる『幅広い還元』への方針転換は、これらの過去の市の公式な見解と、どう論理的に整合性が取れるのでしょうか」
電話の向こうで、担当者が息を呑む気配がした。カタカタと必死にキーボードを叩く音が聞こえる。おそらくマニュアルの検索窓にキーワードを打ち込んでいるのだろう。
「あー、その、過去の答弁につきましては、当時の社会情勢や本市の財政状況を踏まえた上でのものでありまして、現在はまたフェーズが変わってきていると言いますか……」
「フェーズが変わった。なるほど。ではお尋ねしますが、芸術の純粋性が都市の魂を育むという本市の哲学は、財政状況が悪化すれば即座に撤回される程度の、安っぽいアクセサリーだったというご認識でよろしいですか? 百年先の市民の財産、と謳ったのは嘘だったということですか?」
「いや、そういうわけでは……」
「本市はJoismの設立時、『日本初の劇場専属舞踊団を抱える誇り』を全国にアピールしましたよね。それを今になって、数字が見えにくい、一部の愛好家向けだと言って切り捨てる。それこそ、この市に対する全国的な信用を失墜させる行為だとは思いませんか。教えてください。Joismを切るという判断に、地域政策として合理性がありますか?」
相手は沈黙した。合理性。彼らがもっとも好んで使い、もっとも中身のないその言葉を、わたしは彼らの喉元に突き立てた。
彼らは知らない。わたしがJoismのダンサーでもなければ、劇場に足繁く通う関係者でもなく、ただ自分の空っぽな承認欲求と正義感を持て余し、彼らの言葉を遊び道具にして首を絞めているだけの、狂った部外者であるということを。
この頃のわたしは、次から次へとタスクをこなし、自分が世界を動かしているような万能感に酔っていた。水曜日に買う『文藝春夏』は、表紙すらめくられないまま、デスクの右端に積み上げられていくようになった。読む暇などない。わたし自身が、彼らと同じように生きた真実を追っているのだから。
当のJoismのダンサーたちは、今日もあの冷たい川沿いの劇場で、ただひたすらに、血の滲むような稽古を続けているのだろう。行政の浅ましい言葉遊びや、わたしのこの異常な執着など一切届かない、崇高で真空のような場所で。
美しい。本当に美しい。 俗世の汚れ仕事は、あなたたちの芸術とは無縁の場所にいる、このわたしがすべて引き受けてあげる。わたしは、perplexityに拾わせたものをAPIにつないでgoogleスプレッドシートにプルダウン付きで一覧化させた、移住・定住促進ポータルサイトのデータを次々と開いていった。
画面には、青い空、緑の山、稲穂の揺れる田園風景、そして「都会の喧騒を離れて、自分らしいスローライフを!」という手垢のついたキャッチコピーが溢れている。過疎化、少子高齢化、限界集落。どの自治体も喉から手が出るほど若い人口を求めている。彼らはそのために、移住支援金として数十万から数百万の現金をばら撒き、お試し居住用の空き家を改修し、起業支援の補助金制度を整えている。
ここに、Joismを嵌め込む。
日本の舞踊家たちは、ただひたすらに活躍の場所と、己の身体を燃やすための「仕事」を欲している。彼らの仕事は、身体ひとつあれば成立する。いや、身体と、それを極限まで研ぎ澄ますためのスタジオという「床」、そして作品を世に問う「劇場」という箱さえあればいい。裏を返せば、特定の土地に縛られる必要のない、究極のノマドワーカーとも言える。仕事さえあれば、移住ありきの職業なのだ。 もし、ある過疎地域が「日本の至宝であるJoismを、町ぐるみで受け入れる」と宣言したらどうなるか。 数十人の世界トップレベルのダンサーと関係者が、一気にその町に住民票を移す。彼らはそこで生活し、消費し、息づく。カンパニーの存在自体が強力な磁場となり、国内外から公演を観にくる熱狂的なファン(かつてのわたしのような人間だ)が、交通費と宿泊費を落としていく。文化過疎地に突如として「世界水準の芸術村」が誕生する。メディアが飛びつかないはずがない。若者や新たなアーティストが、彼らに憧れてその町に移住してくるかもしれない。
補助金をばら撒いて、カフェを開きたい脱サラ組を数人呼ぶだけのテンプレ移住施策とは次元が違う。もしくはジャパニーズフィルターに欲情して美しい日本家屋を日本円で生活している人間から見ても破格でばかみたいな安値で買い数年に一度バカンスに訪れ家と土地を殺すインバウンド。これは行政の移住政策の根本的なゲームチェンジだ。舞踊界にとっても、存続の危機にある拠点を確保し、新たなパトロンを得ることができる。
どう考えてもwin-winな、完璧に美しいマーケティング案だった。
わたしは特に「文化による地域おこし」を謳い、多額の予算を確保していると思われるいくつかの県と市をリストアップした。そして各自治体の地方創生課や文化振興課宛てに、Joismの圧倒的な実績と、移住による経済効果、メディア露出の試算、KPIを緻密に盛り込んだ三十ページに及ぶ企画書をPDFで送りつけた。 行政という巨大な岩が転がり始めれば、Josimの彼らだって喜んでその波に乗るはずだ。いや、わたしが乗せてみせる。
数日後、いくつかの自治体から「詳しいお話を聞きたい」という返信があった。わたしのマーケターとしての血が騒いだ。 指定された日時にZoomを繋ぐ。画面の向こうには、パイプ椅子が並ぶ薄暗い会議室で、白シャツに地味なネクタイを締めた数名の公務員たちが並んで座っていた。彼らの顔には「東京のコンサルか何かが、また怪しい話を持ってきた」という警戒心と、昼下がりの気怠さが張り付いている。
わたしはカメラに向かって最高の笑顔を作り、用意していたスライドを展開した。Joismがこれまで国内外でいかに高い評価を得てきたか、彼らの芸術がいかに地域を活性化させるポテンシャルを秘めているか。数字とロジック、そして少しの情熱を交えて、完璧なプレゼンテーションを行った。
「……以上のように、Joismの誘致は、御市が抱える過疎問題の解決と、文化都市としてのブランディングを同時に達成する、極めて稀有なプロジェクトとなります。これは単なる芸術支援ではありません。彼らの芸術性は御市を国内最大級のアートガジェットにすることも、世界中から世界最高峰の舞踊関係者を呼び集めることも可能です。無形の資産こそ、最大で最高のブランドになります。よって投資効果の明確な、地域政策として合理性があります」
わたしの口から放たれた「合理性」という言葉に、画面の向こうの役人たちはピクリと反応した。彼らが大好きな言葉だ。わたしは確信した。落ちた、と。彼らはこの完璧なロジックを前に、首を縦に振るしかないはずだ。
「なるほど、興味深いお話ですね。貴重なご提案、ありがとうございます」
画面の中央に座っていた、最も年長らしい課長が、マニュアル通りの相槌を打った。
「本日はお時間をいただき、誠にありがとうございました。庁内で慎重に検討し、後日改めてご連絡させていただきます」
スーパーには小躍りしながら向かい、これから振り込まれることになる大金を思って財布の口を開いた。Joismがある国や市の産物を見つけては、それが野菜だろうと果物だろうと肉だろうと調味料だろうと買った。行政の承認が下りれば、あとはJoismの監督に連絡を取るだけだ。「あなたのカンパニーの移転先と予算は確保しました。さあ、思う存分踊ってください」と。わたしは彼らの救世主になる。名もなきジャーナリストが、日本の芸術を救うのだ。
しかし。 金曜日の夕方、わたしのメールボックスに届いたのは、たった一通のそっけないメールだった。
『Joism誘致に関するご提案について
この度は、本市の地方創生事業につきまして、貴重なご提案をいただき厚く御礼申し上げます。 ご提案いただきました内容につきまして、関係各課にて慎重に協議を重ねました結果、本市の現在の財政状況および、前例のない大規模な文化事業に対する市民の理解形成という観点から、誠に残念ながら、今回はご要望に沿いかねるという結論に至りました。
市としてこれ以上のことはできかねます。たいへん申し訳ございませんが、ご理解のほどいただきますようご容赦願います。
末筆ではございますが、今後のご活躍をお祈り申し上げます。』
わたしはパソコンの画面を前にして、理解ができなくて時間を失った。 前例がない。市民の理解が得られない。市としてこれ以上のことはできかねます。 テンプレだ。どこを切っても同じ血しか流れない、顔のない組織の、空虚な文字列。 そして、あの忌まわしい「今後のご活躍をお祈り申し上げます」。
完璧なプレゼンだったはずだ。数字も出した。彼らのメリットも提示した。地域政策としての合理性は、間違いなくあった。それなのに、彼らは考えることすら放棄したのだ。「前例がない」という、日本という国を覆い尽くす最も強力な呪いによって。
ふざけるな。 採用したいと思わなかった提案者の「今後のご活躍」を祈るな。
虚しさが怒りへと変わり、そしてその怒りすらも、泥水のように重く冷たく濁っていった。わたしは椅子の背もたれに深く体を沈め、天井を仰いだ。視線の端で、デスクの右端にうず高く積み上がった未読の『文藝春夏』のタワーが目に入った。 本物の記者たちは、足を使って血の通った真実を掘り起こしている。一方のわたしはどうだ。
安全な部屋からテンプレの企画書を送りつけ、テンプレの断りメールを受け取って憤慨しているだけの、空っぽで恥ずべき詐欺師ではないか。彼らと自分のあまりの次元の違いに幻滅し、不意に胃液が込み上げてくるような強烈な吐き気を覚えた。
行政をひっくり返す。わたしならできる。そう思っていた自分の傲慢さが、今になって滑稽に思えてきた。外堀を埋めようが、論破しようが、彼らは「やらない理由」のテンプレという絶対的な盾を持っている。
根本的なところで何かを見落としているんじゃない?わたしが鍛えた賢いツールたちが移住ポータルサイトから吸い上げた情報をすべて閉じた。この人たちは用意した制度を金をろくなことに使う気なんてさらさらなかった。家を土地を愛していない。制度を守るか市を守るか、それとも死?この国の行政のシット加減を正確に理解していなかった自分が恥ずかしくなった。このままでは国をJoismを未来を救えない。わたしに救えない?なぜだ、ジャーナリストじゃないから?
わたしは行政の仕組みという「外側」に踏み込むよりも、Joismという存在の「内側」を、彼ら自身のことを調べることに時間を割き始めた。彼らが何を求め、何と戦っているのかを知らなければ、本当の意味でのジャーナリズムなど成立しない。
検索窓に、Joismのトップである監督の名前を打ち込む。 彼女はなぜ、あの若さでヨーロッパのトップカンパニーでの華々しいキャリアをあっさりと捨て、日本に帰国したのか。なぜ東京ではなく、地方の行政と組むという、ある意味で最も茨の道を選んだのか。日本初の劇場専属舞踊団を作り、次世代のために道を作らなければならないと、彼女に思わせたものは一体何だったのか。
検索結果には、数え切れないほどのWEBメディアのインタビュー記事、ダンス専門誌の対談、そして地方テレビ局が制作した密着ドキュメンタリーのリンクがずらりと並んだ。 もしここにいるのが「普通の」熱心なファンや、血の通った人間と向き合おうとする真っ当なジャーナリストであったなら、まずはそのリンクの一つをクリックしただろう。そして、ページの上部にでかでかと掲げられたアイキャッチ写真に目を留めたはずだ。
そこに写っているのは、飾り気のない黒い服を着た、少し心配そうな、深く静かな瞳をした女性の姿だ。 世界的なダンスカンパニーのトップでありながら、華やかなオーラや威圧感など微塵も感じさせない、街ですれ違っても誰も振り返らないような、ごくごくシンプルで目立たない顔をした小柄な女性。しかしその差し伸べられた手や、引き結ばれた口元からは、幾千もの稽古を重ね、自らの肉体を極限まで追い込んできた者だけが持つ静謐な凄みが漂っている。そのアンバランスな存在感こそが、彼女が背負っているものの重さを何よりも如実に物語っていたはずなのだ。
飾り気のない黒い服。深く静かな瞳。目立たない顔。 そうした容貌をした監督はもちろん、すべての記事のアイキャッチ写真を飾っていた。
しかし情報をAIに探らせて、AIに出力させたテキストの「搾りかすの濃密」しか受け取らない人間の目には、そんな写真は留まるはずもない。ブラウザの拡張機能を使い、すべてのページから画像や装飾といった「不要なノイズ」を一瞬で剥ぎ取り、純粋なテキストデータのみを抽出する。YouTubeのドキュメンタリー動画も同様だ。再生ボタンを押して彼女の声のトーンや表情の揺らぎを感じ取る代わりに、自動文字起こしツールにURLを放り込み、生成された数万文字の無機質な羅列をテキストファイルとして保存していった。
わたしにとって、彼女の顔や表情、身体の震えといった「視覚情報」や「聴覚情報」は、マーケティングや論破のロジックを組み立てる上で、何の役にも立たない不純物でしかなかった。 必要なのは、文字だ。 行政の矛盾を突くための、鋭利な言葉。移住施策と結びつけるための、ビジョンの言語化。社会問題と接続できる、キャッチーで強いセンテンス。わたしは、抽出された膨大なテキストデータをさらに別のAIに読み込ませ「日本の舞踊環境の課題」「行政との対立構造」「監督の人間哲学」といったタグ付けを行わせ、綺麗に整形された要約だけを貪るように読み漁った。
『日本では、コンテンポラリーダンサーは海外でキャリアを築くのが当たり前になっています』
AIが抽出してきた彼女の言葉は、モニター上で均一なフォントに変換され、常に研ぎ澄まされた刃のように鋭く、完璧な論理の鎧を纏っていた。
『才能ある若者は皆、留学をして、そのまま欧米で生活し、現地のカンパニーに所属しようとする。日本では食べていけないからです。でも、この現状は決して良いものではない。日本の未来の舞踊のために、これは絶対に改革しなければならないんです』
わたしは、その整理されたテキストの羅列を見て、深い悲哀と希望がないまぜになった彼女の苛烈な人間哲学を「完全に理解した」と思い込んでいた。彼女の魂に触れた気になっていた。 顔も知らない、声も知らない、ただAIが吐き出した文字列の集合体を「監督」という概念としてインプットし、それに強く惹きつけられていったのだ。肉体を持たない、わたしと同じ「ロジックの化け物」として彼女を脳内で勝手に捏造しながら。
海外で生活をし、キャリアを築く。 字面だけ見れば、それは華々しく、グローバルで、成功者の証のように思える。わたしも最初はそう思った。才能があるなら、狭くて貧しい日本なんか捨てて、芸術を正当に評価してくれるヨーロッパやニューヨークで踊ればいいじゃないか、と。
しかし海外で「外国人として働き、生きる」とは、具体的にどういうことなのか。 わたしは、自分の想像力の貧困さを恥じることになった。
バスタブのあるアパートがなかなか見つからない。日本のおいしいお米が食べられない。言葉の壁による日々の小さなストレス。家族や地元の友人たちと物理的に距離を置いて生活することによる、孤独感や心身にかかる負荷。 そんなものは、彼らが直面する現実の、ほんの序の口に過ぎなかった。
わたしはヨーロッパ、特にEU圏における芸術家の就労環境について調べ始めた。
EUは労働組合の力が極めて強い。そして、EU圏内で生まれたすべての人間には、自分の生まれた国だけでなく、EU内のすべての加盟国で自由に移動し、滞在し、就労する権利が与えられている。これは彼らにとって素晴らしい制度だ。 しかし彼らがこの「内部の自由と豊かさ」を維持するためには、当然ながら外部に対して高い壁を築かなければならない。ヨーロッパの協定国の「外」で生まれた人間、つまりアジアやアフリカ、そして日本からやってくる人間の出入りを厳しく制限し、自国民のための適切な住居環境やワークポストを守る必要があるのだ。
日本人をはじめとする、協定の外の国で生まれた人間が、ヨーロッパのカンパニーのオーディションを受けるとする。数千倍とも言われる壮絶な倍率を潜り抜け、才能を認められ、ようやく合格を勝ち取ったとしても、そこで終わりではない。そこから、強固な労働組合と入国管理局の審査という、途方もない壁が立ちはだかる。
「この外国人を雇う正当な理由はあるのか」
「同じレベルのEU市民のダンサーはいないのか」
厳格な証明が求められ、多くの場合、就労ビザを獲得することは不可能に近いほど困難を極める。どれほど圧倒的な才能があっても、法律という名の壁の前には、彼らの身体はあまりにも無力だった。
では代わりに、労働力をオープンに受け入れている国、ビザの要件が緩い国の場合はどうなるのか。 調べを進めると、そこには別の地獄が口を開けていた。そうした国では、移民は自国の労働力よりも「安く、雑に活用できる使い捨ての人材」とみなされるケースが圧倒的に多いらしい。入国や就労の手続きが簡単に済んだとしても、そこにはダンサーとしての正当な評価も、安全な労働環境も保証されていない。怪我をすれば即座に解雇され、保険もない。芸術家としてではなく、ただの安い労働力として搾取される。健やかな生活を維持し、芸術に向き合い続けることなど、到底不可能な環境だ。
人権という概念すら怪しい現場が、世界中にはいくらでも転がっていた。
日本人を守る法律は、日本にしかなかった。 どれほど世界がグローバル化しようと、どれほど芸術が国境を越えようと、パスポートの色と、どこの国の法律の庇護下にあるかという冷酷な現実は、ダンサーたちの肉体を縛り付け、魂を削り取っていく。
日本の組織ってどうしてこうクレイジートップダウンステューピッドシットなんだろう、とわたしは行政のお祈りメールを見て毒づいた。けれど世界という場所の冷酷なシステムに比べれば、日本のあの事勿れ主義のシステムは、少なくともこの島国の中で生きる「日本人」の肉体だけは、法という薄っぺらい布団で辛うじて保護しようとしている。
その布団の外に放り出された丸腰の肉体が、いかに簡単に消費され、蹂躙されていくのかを、わたしは知識として初めて理解した。
監督は、ヨーロッパの頂点に立ち、その残酷なシステムを内側から見尽くしてきたのだろう。才能ある日本人の若者たちが、憧れを胸に海を渡り、法と制度の壁にぶつかり、あるいは搾取され、ボロボロになっていく姿を、数え切れないほど見てきたはずだ。 だからこそ彼女は、すべてを捨てて帰ってきたのだ。
日本人のダンサーが、日本という国の法律の庇護のもとで、正当な給与をもらい、社会保障を受け、誇りを持って芸術に専念できる場所。つまり「劇場専属舞踊団」という、日本では前例のなかったシステムを、この極東の島国に根付かせるために。
画面をスクロールするわたしの手は、いつの間にか止まっていた。 自分の無知さに、吐き気がした。
この島国の外に出たことがなく、そもそも一都三県の外をまともに歩いたことすらほとんどないわたし。パソコンの前に座り、AIと壁打ちをして、マーケティングのフレームワークに世界を当てはめ、わかった気になっていたわたし。 国が違うということは、法律が違うということだ。文化が違うということだ。人間の尊厳の扱い方が違うということだ。 そんな当たり前のことすら、肌感覚として何一つ理解していなかった。
わたしが「地域政策」などという薄っぺらい枠組みで彼らを救おうとしていたこと自体が、いかに浅ましく、彼らの戦いの本質からズレていたか。彼らは、単に踊る場所が欲しいのではない。日本の芸術の未来のために、人間の尊厳のために、あの冷たい川沿いの劇場で、行政という名の怪物と血まみれになって戦い続けていたのだ。
わたしの想定していることが、何もかも食い違っていても、間違いではないと思った。 ネットの海をどれだけ泳いでも、PDFの資料をどれだけ読み込んでも、彼らの肉体に刻まれた本当の絶望と希望には、永遠に触れることはできない。
画面の中の、無数のタブ。行政のテンプレメール。過去の議事録。それらがすべて、急に色褪せて見えた。わたしはパソコンを閉じた。
見に行かなければ。
この足で、この目で、確かめに行かなければならない。日本という国の輪郭を、そしてその外側に広がる、法と国境が支配する生々しい世界を。 ジャーナリストになるということは、安全な部屋から正論を吐くことではない。現場の空気を肺に吸い込み、自分の足で立ち、彼らと同じ痛みの手前まで歩み寄ることだ。
わたしは引き出しの奥から、数年前に身分証明書代わりにとりあえず作っただけで、一度も使ったことのない真っ赤なパスポートを引っ張り出した。
しかし無計画に海を渡ったところで、部外者のわたしが突然ヨーロッパの劇場の内情を知れるわけがない。わたしとコンテンポラリーダンスをつなぐ架け橋が必要だ。社会と闘い、刃向かうエネルギーを持ったヨーロッパのダンスシーンの人物。ルービックキューブの白面と黄色面のように交わらない世界観のままのわたしたち。そんなときにわたしが探り当てたのが「デンマークのマリーナ」だった。
彼女はヨーロッパで最も素晴らしいダンスカンパニーの一員としてジュニアカンパニー時代からダンサーを務め上げた後に、現在はデンマークのある劇場で芸術監督をしている。だけではない。彼女は骨の髄からアクティビストだった。社会が差別なく、よい意味でフラットであることを望み、社会問題を取り上げて観客に、世界に問いかけることに力を入れているように見えた。彼女はヨーロッパの舞踊シーンでも突出している。わたしの勘がそう告げた。
彼女にコンタクトを取らなければ。わたしがすがるべきは他でもない「デンマークのマリーナ」だった。
信じられないことに、北欧の企業の多くはCEO、芸術監督、ファウンダーなど組織のトップや重要管理職、その他、事務的なスタッフなどの名前と写真とメールアドレスが普通に公開されている。ホームページを見れば、誰にでも連絡を取ることができる。唖然としてしまった。いや驚いている場合ではない、わたしは「デンマークのマリーナ」に自身が過去で書いたなかでももっともインパクトがあり、日本人外れしているであろうLGBTと労働環境と地球温暖化に関する記事をそれぞれピックアップしてリンクを貼り付け、メールを送信した。日本のサイトだけれど興味を持ってくれたならGoogleに翻訳させるなり、コピペしてChat GPTに訳させるなりして読む方法はあるだろう。
判決は4日後だった。あなたが同じテーマを取り扱う仲間であって嬉しい。デンマークに来るときにはいつでも会いにきて。「デンマークのマリーナ」はわたしにそう言った。
簡単すぎて仕組まれているのかと思ったけれど、わたしがダンスのことを知り、ダンサーと社会と労働のことを紐解くには彼女が必要だった。 そして北欧のみならずヨーロッパでかなり特出しているキーパーソンに見える「デンマークのマリーナ」とのつながりは、わたしが突如手にしたきんぴかの鍵だった。
海外に行く。そう高らかに決意したところで、わたしはすぐに、自分が絶望的なまでに無力な「日本のシステム」の純粋培養された産物であることに気づかされる羽目になった。 そもそも、何をどうすればいいのかが根本的に分からないのだ。三十二の厄年すら疾うに通り過ぎようというのに、わたしは一都三県の外どころか、飛行機の乗り方すら怪しかった。パスポートの期限は切れていなかったが、ビザとは何なのか、SIMカードはどうやって差し替えるのか、旅行保険の適用範囲とは何なのか、頭の中は白紙に近い。
「わたしはジャーナリストとして、世界水準の芸術の現場を視察に行くのだ」 そんな大層な自己暗示とは裏腹に、わたしはプライドを完全に捨てて、YouTubeの検索窓に「海外旅行 初めて」「パッキング 必需品」「ヨーロッパ スリ対策」といった情けないワードを次々と打ち込んでいた。再生回数の多いVlogを、時には一・五倍速で、時には一時停止してメモを取りながら何十本も見た。
画面の中の若い女の子たちは、皆一様に楽しそうに笑いながら、機内持ち込みサイズの液体用ジップロックの作り方を解説し、百円均一で買える便利なトラベルグッズを紹介していた。 彼女たちの軽薄とも思える明るさが、今のわたしには酷く眩しく、そして同時に神経を逆撫でした。わたしはバカンスに行くのではない。戦場に赴くのだ。そう言い聞かせながら、わたしは腹に巻くタイプのダミーの財布をネットで注文し、防犯ブザーの鳴り方を確認し、万が一のときに備えて渡航予定の国々の大使館の電話番号を暗記した。
この異常なまでの入念な準備、一から十までマニュアルで埋め尽くさないと足を踏み出せない臆病さこそが、わたしが最も憎んでいるはずの「日本の行政の事なかれ主義」と同じ根から生えているという自己矛盾には目を背けた。
二ヶ月。 予定している滞在期間は、ざっと見積もって六十日。その長さを、その重さを、どうやって物理的なスーツケースに収めればいいのか。気温の変化は。洗濯の頻度は。常備薬の量は。未知の要素が多すぎて、計算式が成り立たない。
結局、わたしは「不安」という名の不要なものをすべて詰め込み、不格好に膨れ上がった二つの巨大なキャリーバッグを用意することになった。今週水曜日に惰性で買っただけの『文藝春夏』も、読むあてもないのにキャリーバッグの隙間に押し込んだ。
出発の朝。わたしはその二つの重厚な塊を引きずりながら、最寄り駅から日本の鉄道網へと足を踏み入れた。 そして、この国のインフラがいかに「健常な、身軽な、単身のサラリーマン」のためだけに冷酷に最適化されているかを、骨の髄まで思い知らされることになった。
自動改札機の幅は、巨大なキャリーバッグを二つも引いた人間が通ることを想定していない。視覚障害者のための点字ブロックは、その本来の崇高な目的とは裏腹に、キャスターの小さな車輪を無慈悲に引っ掛け、そのたびにわたしの腕の関節を外しそうになった。乗り換えの長い階段を前に立ち尽くし、遥か遠くに設置されたエレベーターを探して右往左往する。 行き交う人々は、通勤の急ぎ足を緩めることはない。誰も助けてくれないどころか、わたしの巨大な荷物が彼らの完璧に計算された動線を塞いでいることに、あからさまな舌打ちをして通り過ぎていく。ぶつかられても、謝罪の言葉すらない。
「地域政策として合理性があります」だの、「市民の心に寄り添う」だのと、耳障りの良いことばかりを口にする行政が作り上げた街の、これが本当の姿だ。彼らの言う「市民」の中に、システムから外れた異邦人や、身重な人間や、大荷物を抱えた旅行者は初めから含まれていないのだ。効率と合理性だけを追求し、少しでも規格外の存在が現れれば、社会全体で冷たい視線を浴びせて排除する。 この閉塞感。この息苦しさ。 わたしは、重い荷物に引き千切られそうになる両腕の痛みの中で、強烈な怒りを覚えていた。わたしがこれから戦おうとしているものの巨大さを、出国前から全身で浴びている気分だった。
なんとか羽田空港の国際線ターミナルに辿り着いたときには、すでに息が上がり、首筋には冷たい汗が伝っていた。 搭乗時刻の四時間半前だった。YouTubeの教えに忠実に、早すぎるくらいに到着したのだ。広大な出発ロビーの空気は、それまでわたしがいた東京の息苦しい湿度とは全く違っていた。天井は高く、アナウンスは多言語で響き、人々の歩調にはどこか浮き足立ったような軽さがある。
チェックインカウンターの列に並び、手首がちぎれそうになるほど重かった二つのキャリーバッグをやっとの思いでベルトコンベアに預け入れた。タグが付けられ暗いバックヤードへと吸い込まれていくのを見た瞬間、わたしの中に奇妙な浮遊感が生まれた。
物理的な重力から解放されただけではない。
わたしは今、本当に日本という強固なシステムから抜け出そうとしている。
出発ロビーの端にある両替所へ向かう。日本円のもっとも高価な札束五十枚を窓口に差し出し、初めて「ユーロ」という見慣れない紙幣を同じ価値だけ受け取った。 手元に落ちてきたそれは、日本の均一な色合いの紙幣とは全く違い、赤や青、オレンジといった色とりどりの色彩を放っていて、まるでおもちゃの銀行券のように現実味がなかった。紙質も少し硬く、触れると指先にざらりとした感触が残る。それを新しいダミーの財布にしまった瞬間、自分のアイデンティティの一部が書き換えられたような気がした。
自分がもう、日本の法律やシステムの庇護下から半歩外に出たのだという錯覚。胸の奥で、心臓が普段より少しだけ早く波打つのがわかった。
保安検査の厳しい視線を抜け、出国審査のゲートを通過する。 その向こう側に広がっていたのは、圧倒的な「非日常」の空間だった。
まばゆい照明に照らされた免税店がどこまでも連なり、世界的な高級ブランドのロゴが威圧的に、しかし艶やかに輝いている。すれ違う人々の間を、海外製の甘くて重い、少しスパイシーな香水の匂いがすり抜けていく。そこは、日本でもなければ、これから向かう外国でもない。どこの国にも属さない、国境の隙間に存在する真空のような場所だった。 この空気感。徹底的に洗練されていて、無機質で、それでいてひどく享楽的だ。これから未知の世界へと旅立つ人々の高揚感と、莫大な金が動く気配が、空気そのものを微振動させているように感じた。
わたしはまだ飛行機に乗ってすらいないというのに、すでにこの旅がひとつの巨大な山場を迎えているような不思議な興奮を覚えていた。
これが世界と繋がるゲートなのか。 わたしは今、地方行政の片棒を担ぐ恥ずべき詐欺師でもなく、真実を追う一人のジャーナリストとしてここに立っている。誰もわたしに頼んでいない。誰もわたしを待っていない。だからこそわたしは自由だ。この高揚感は、わたしが長年心の奥底で求めていた「何者かになりたい」という渇望を、一晩卵液につけたフレンチトーストよりも濃厚にひたひたに満たしてくれた。
搭乗口の番号を電光掲示板で確認すると、出発までまだ三時間もあった。 わたしはゲートの近くにある、スタイリッシュな椅子が並ぶカフェのカウンター席に陣取った。ブラックのアイスコーヒーを注文し、冷たい水滴が浮かぶグラスの横で、愛用のノートパソコンを開く。 なんて滑稽なのだろう。パスポートを腹巻きの中に隠し持ち、ユーロ札の硬い感触を確かめ、免税店のむせ返るような香水の匂いを嗅ぎながら、わたしの脳内は「日本のドメスティックな地方行政の硬直性」で完全に埋め尽くされていたのだ。
搭乗開始のアナウンスが響いた。わたしはパソコンを閉じ、重い足取りでボーディングブリッジを渡った。 機内は薄暗く、空調の音が単調に響いている。窓際の席に座り、シートベルトの冷たい金具をカチリとはめ込んだ。機体がゆっくりと動き出し、滑走路へと向かう。 機内モードに切り替えたスマートフォンを開き、先ほどまで繋いでいたWi-Fiで読み込んでいたタブを順番にスクロールした。
行政の議事録、助成金の仕組み、コンテンポラリーダンスと海外の労働環境についての無数のリサーチ結果。その検索の履歴の底の方に、ある個人ブログのリンクがひっそりと口を開けていた。
そこでわたしは、ひとりの日本人コンテンポラリーダンサーに出会った。
*
飛行機が離陸した。
滑走路を離れた瞬間、窓の外に東京の街が小さくなっていく。
私は普段からあまり寝つきがいいほうではないけれど、この十六時間のフライトでは一睡もできなかった。
映画を見る気にも、本を読む気にもなれない。
ずっと、これから始まる一年のことを考えていた。
二十四歳。
アメリカのダンスカンパニーで働く。
それは何年も前から思い描いていた未来だった。
留学ではない。
旅行でもない。
仕事として踊る。
生活そのものが踊りになる。
その響きだけで胸がいっぱいだった。
日本を離れる寂しさがなかったわけではない。
友人たちが見送りに来てくれたとき、改札で少しだけ泣いた。
けれど、それ以上に、自分がどこまで通用するのかを知りたかった。
日本で育ててもらった身体を、世界の舞踊家たちの中へ連れていきたかった。
それだけだった。
シアトルで飛行機を乗り継いだ。
初めて踏むアメリカの土地だった。
空港の窓から見える景色まで映画の中のように思えた。
スターバックス発祥の街だということを思い出す。
本当なら外へ出てみたかった。
けれど乗り継ぎの時間はそれほど長くない。
「これから長くアメリカで暮らすんだから、また来ればいい。」
そう思って。
未来には、まだ十分すぎるほど時間があると思っていた。
入国審査は想像していたよりもずっと緊張した。
日本にいる頃から「アメリカは入国審査が厳しい」という話を何度も読んでいた。
私のキャリーバッグの周りを警察犬が歩く。
訓練された犬が迷いなく荷物を確認していく姿は、日本では見たことのない光景だった。
審査官は最後まで一度も笑わなかった。
滞在先の住所を確認され、劇場の書類を見せ、いくつか質問に答える。
パスポートが返される。
私はようやくアメリカへ入った。
誰も拍手はしない。
歓迎もされない。
それでも、胸の中では小さく「やった」と呟いていた。
アメリカだ。
劇場のある街へ向かう車窓から見える景色は、私が想像していたアメリカとはまるで違っていた。
高層ビルはない。
地下鉄もない。
空が、驚くほど広かった。
雲の形が日本とは違うような気がした。
道路は真っ直ぐで、住宅はどれも大きく、庭がある。
海が近く、川が流れ、風の音がよく聞こえる。
静かな街だった。
日本にいるとき、最寄り駅から劇場までを何度もGoogleマップで調べた。
車なら十五分。
徒歩なら五時間。
そんな表示になるたび、「何かの間違いだろう」と検索し直していた。
実際に来てみて、その意味が分かった。
歩くための街ではなかった。
道路はどこまでも広く、人より車が先にいる。
日本で暮らしてきた私には、その当たり前が新鮮だった。
劇場が用意してくれた家も驚くほど大きかった。
玄関を開けた瞬間、「広い」という言葉しか出てこなかった。
キッチンも、リビングも、洗濯機も、日本で一人暮らしをしていた部屋とは比べものにならない。
この家で一年暮らす。
そう考えるだけで嬉しかった。
翌日には生活用品を買いに連れて行ってもらった。
Walmart。
日本にいる頃、動画で何度も見ていた巨大なスーパーマーケットだった。
実際に中へ入ると、本当に何でもあった。
ブランケット。
洗濯洗剤。
シリアル。
アーモンドミルク。
日本では見たことのない大きさの容器。
信じられないくらい長い棚。
その棚を数面埋め尽くすコカコーラ。
洗剤の強い香料の匂いと、甘すぎるお菓子の匂いが混ざり合っていた。
「アメリカって、本当にこうなんだ。」
それだけで楽しかった。
家へ戻り、買ってきたものを棚へ並べる。
生活が始まる。
旅行ではない。
私はここで働く。
そう思うたび、何でもない作業が特別な時間になった。
同期にはチリから来たダンサーがいた。
ポーチで本を読んでいるアメリカ人もいた。
そして二日目には二人の先輩に出会った。
女性ダンサーと、男性ダンサー。
二人とも初対面とは思えないほど自然に話しかけてくれた。
会った瞬間にハグをした。
少し照れくさかった。
でも、それがこの国では当たり前だった。
その二人は、結局シーズンを通して私がもっとも親しく過ごす仲間になった。
三人で食事をした。
街を歩いた。
スーパーへ行った。
たわいもない話をした。
その時間だけを思い出せば、私は間違いなく幸せだった。
ごはんや食事についての話は楽しかった。
忘れられないのはみんなでタコスを食べた日。
トルティーヤに、刻んだやさいと手製のアボカドディップを入れて。
タコミートを味見するように言われたとき、その場にいた仲良しグループの中で私だけがタコスを食べたことがなくてタコミートの正しい味がわからないことを知った。
いちばん仲のいい友達はチーズが苦手で、私がチーズがすきで、アメリカのチーズがおいしいと気に入っていることを知っていた。
そろそろなくなっちゃうなという時に、自分は絶対に食べないのに自分が席を立って新しいものを持ってきてくれたっけ。
どうしても液体が溢れるトルティーヤ。
わたし以外、手を汚すことに抵抗がなかった。
みんなでテーブルクロスをめちゃくちゃに要しながら素手で食べるご飯は、悪いことをしているみたいでとっても楽しくて、とってもおいしかった。
その5人で何かを作って食べるのは、結局タコスが最後だった。
そのあと私の代わりに、別の日本人の女の子が参加するようになった。
金曜日の夜に到着し、気づけば日曜日になっていた。
三日間はあっという間だった。
そして月曜日。
いよいよダンサーとして最初の一日が始まる。
どんなクラスなのだろう。
バレエだろうか。
コンテンポラリーだろうか。
床の材質はどうだろうか。
松ヤニは使うのだろうか。
劇場にはどんなレパートリーがあるのだろう。
どんな振付家がいて、どんな作品を踊るのだろう。
みんなはどんな身体を持っているのだろう。
不安だった。
私は踊るためにここへ来た。
日本で何年もかけて育ててもらった身体を持って、この場所まで来た。
ここから先は、その身体で世界と出会っていくことになる。
どんな風に自分の筋肉が応えてくれるのか、どんな風に息が上がるのか、楽しみで仕方なかった。
私は、そのことを少しも疑っていなかった。
最初の数週間は、何もかもが新鮮だった。
英語だけで生活をすること。
世界中から集まったダンサーたちと同じスタジオに立つこと。
クラスが終われば、お互いの国の話をする。
休みの日には近くの海へ行ったり、大きなスーパーで見たことのない食べ物を買ってみたりした。
私は少しずつ、この土地の暮らしが好きになっていた。
乾燥した空気も、夕暮れ時の紫色の空も、すべてが私の踊りの一部になっていくような気がしていた。
もちろん、ダンサーとしては焦りもあった。
私は特別身体能力が高いわけでもなければ、子どもの頃からバレエだけをやってきた人間でもない。
だから、日本で教わったことを失わないようにしようと思った。
みんなちょっとルーズだったから。
帰宅してから一人で稽古をした。
朝四時に起きてスタジオへ向かい、自分でクラスをする日が増えた。
ここまで育ててもらった身体だけは、絶対に失いたくなかった。
どんな作品を踊ることになっても、自分の踊りの根だけは失いたくなかった。
三か月ほど経った頃から、劇場の人たちに頼まれる仕事が少しずつ変わっていった。
来シーズンに開校予定だというアカデミーの資料づくり。
学校案内の文章。
日本からの留学生募集についての相談。
ダンサーのリクルート。
SNSの運営。
私はダンサーとして契約を結んでいた。
けれど、劇場をより良くしたいという気持ちもあった。
海外で働ける機会をもらった恩返しができるならと思い、頼まれた仕事はできるだけ引き受けた。
日本のことを知っている人間として期待されていることも、少し嬉しかった。
最初は。
その頃から、少しずつ違和感が増えていった。
劇場なのに、踊らない日がある。
朝集まって、会議だけで一日が終わることがある。
スタジオの隅には埃が溜まったままになっていることがあった。
ダンスカンパニーで育ってきた私には、そのことが不思議だった。
クラスも十分とは言えなかった。
リハーサル環境も整っているとは思えなかった。
ある日、何気なく作品について話していると、一緒に踊っている先輩ダンサー全員が、自分たちのレパートリーを創った振付家の名前を知らなかった。
ひとつも。
最初は冗談だと思った。
でも、本当に知らなかった。
どうしてなのか理由を聞いても、はっきりした答えは返ってこなかった。
作品だけが残り、その作品がどこから生まれたのかを知る人がほとんどいない。
私はそのことに強い違和感を覚えた。
振付家の名前を覚えることは、作品を覚えることと同じくらい当たり前だと思っていたからだった。
それでも私は、自分の考えが古いだけなのかもしれないと思うようにした。
国が違えば文化も違う。
劇場の運営方法も違う。
そう自分に言い聞かせた。
一方で、ダンサーたちはみんな魅力的だった。
国籍も育ってきた環境も違う。
バレエを軸に踊ってきた人。
カウンターテクニックを学んできた人。
身体能力だけなら圧倒されるような人もいた。
私が一番親しくなった男性ダンサーは、身体の前側が驚くほどよく伸びる人だった。
体の線を理解する力があり、音楽をよく聴いて踊る人だった。
私は彼を見ながら、何度も日本のことを思い出した。
もし彼が、日本で私が教わってきたような身体の使い方を学ぶことができたら。
骨で立つこと。
背中側の空間を使うこと。
床の下まで意識を広げること。
その感覚を知れば、この人はもっと素晴らしい舞踊家になるだろうと思った。
それは彼だけではなかった。
怪我を繰り返しているダンサーもいた。
客席へ身体を届ける方法を知らないダンサーもいた。
振付家としての才能を感じる人もいた。
私は彼らを見ながら、悔しくなった。
才能がないのではない。
教わる機会がないだけなのだと思った。
同時に、日本という国のことも考えるようになった。
日本も決して舞踊環境に恵まれた国ではない。
それでも私は、多くの人に身体を育ててもらった。
作品とは何かを教わった。
劇場とは何かを教わった。
だから今、目の前で起きていることに違和感を持てる。
もし私が何も知らずにここへ来ていたら、この環境を当たり前だと思ってしまったかもしれない。
そのことが怖かった。
劇場とのやり取りも少しずつ難しくなっていった。
意見を求められることは多かった。
改善案も求められた。
私は、日本で経験してきたことを思い出しながら、一つひとつ提案を書いた。
けれど採用されるのは、外から見えやすい部分ばかりだった。
目立つところに絆創膏を貼るような、その場しのぎの対応。
根本的な改善にはつながらない。
いつしか、私も何のために意見を求められているのか分からなくなった。
運営と関わる時間が増えたことで、ダンサーたちとの距離も少しずつ変わっていった。
優遇されていると思われていたのかもしれない。
誰かを傷つけた覚えはなかった。
けれど、気づけば私は一人でいる時間が増えていた。
それでも私は、この劇場を嫌いにはなれなかった。
海が好きだった。
街が好きだった。
一緒に踊る仲間が好きだった。
だからこそ、この場所もきっと変われると信じていた。
あの頃の私は、まだそう思っていた。
冬休みが終わり、ダンサーたちが劇場へ戻ってきた。
年が明ければ、新しい作品が始まるのだと思っていた。
私はまた踊れると思っていた。
その頃には、劇場の運営に関わる仕事が日常になっていた。
アカデミー設立に向けた資料づくり、日本から来る学生の募集についての相談、広報に関する仕事。
パソコンの画面を見つめる時間が、鏡の中の自分の身体を見つめる時間よりも長くなっていた。
私はダンサーとして契約を結んでいたはずだったが、それらの仕事も必要なことなのだと思い、断る理由はなかった。
ある日、代表に呼ばれた。
来シーズンの公演には出演しないこと。
周りと比べないこと。
そう伝えられた。
その場では深く考えなかった。
運営の仕事もしているからだろう、と自分を納得させた。
今振り返れば、あの頃にはすでに、自分の判断は少しずつ鈍くなっていたのだと思う。
給与は契約どおりに支払われなかった。
最初からだった。
何度か確認しようと思った。
そのたびに、もう少し待とうと思った。
海外ではこういうものなのかもしれない。
忙しいだけなのかもしれない。
そう考えているうちに時間だけが過ぎた。
周囲を見ていると、私だけではなかった。
契約書に書かれていた内容と実際の待遇が違う人がいた。
給与の話を曖昧にされた人がいた。
それぞれ不満は持っているようだった。
けれど誰も大きな声では話さなかった。
私も話さなかった。
その頃には、自分の感覚より、その場の空気を信じるようになっていた。
今思えば、正常な判断ができる状態ではなかった。
誰かに相談しようにも、日本の友人たちには心配をかけたくなくて、結局何も言えなかった。
ある日、自室へ戻ろうとして共用スペースを通った。
そこにいた二人は、私の存在を気にする様子もなく、性的な行為を続けた。
ひとりは劇場のトップの息子。
その相手はダンサーだった。
この親子はvisaや永住権や、次の公演のキャストの話を使って性的暴行かデートレイプを頻繁に行っていた。
しかもこの建物は彼らどちらの住まいでもない。
そして今日私がこのあたりの時間にここを通り過ぎることを、どちらかもしくは男の方だけは知っていたはずだった。
私は視線を向けないようにして通り過ぎた。
けれど、自分の部屋へ戻ることができなかった。
しばらく廊下に立ったまま、さっき見た光景を繰り返し思い出していた。
私はアセクシャルだと思っている。
だからではなく、誰であっても、逃げ場のない場所で同意なく性的な行為を見せられることは暴力になり得るのだと思う。
少なくとも、私にはそうだった。
それだけじゃなかったけれど、引き金には十分だった。
その出来事のあと、私は休養を申し出た。
少し休めば、また踊れると思っていた。
返ってきたのは、帰国を要求するメールだった。
荷物をまとめる時間は四十八時間だった。
理由は十分には説明されなかった。
帰国後、診断書を提出するよう求められた。
長く診てもらっている医師を受診した。
医師は私の話を聞き、首をかしげた。
帰国を要するような状態ではないこと。
危険な精神状態ではないこと。
診断書を書くとしても、医学的に何を書けばよいのか判断が難しいこと。
そう説明された。
それでも事情を説明し、診断書を書いていただいた。
劇場へ送付した。
返ってきたのは、「正式な書類ではない」という連絡だった。
何が不足しているのか。
どのような形式であれば正式と認められるのか。
私は何通かメールを書いた。
返事はなかった。
しばらくして、今シーズンの公演はすでに構成が完成しているため出演は難しい、という連絡が届いた。
さらにその後、「双方の不一致」を理由として契約を終了するという通知が届いた。
私は、その後も何度かメールを送った。
診断書について。
契約について。
今後について。
返信は一度もなかった。
帰国してから、自分がどうしてあれほど長く違和感を無視していたのかを考え続けた。
契約が守られないこと。
給与が支払われないこと。
説明がないこと。
本来なら、もっと早く立ち止まることができたはずだった。
けれど私は、「海外だから」という言葉で、自分の感覚を何度も押し込めていた。
言葉の壁があるから。
文化が違うから。
私が未熟だから。
そうやって、自分自身に言い訳をし続けていた。
今では、あの状態は軽い洗脳に近かったのではないかと思っている。
自分で考えることをやめたわけではない。
それでも、自分より組織のほうが正しいと思い込むようになっていた。
今回の経験で、私はもう一つ知ったことがある。
世界には、舞踊を学ぶ環境が十分に整っていない国がある。
日本も、その一つだと思う。
そうした国の若いダンサーは、海外で踊れるという希望を持って海を渡る。
その希望が、立場の弱さとして利用されることがある。
私が見たのは、一人の問題ではなく、その構造だった。
だから、この記録を書いた。
同じような期待を抱いて海を渡る誰かが、自分の違和感を見失わないために。
夢を持つことと、不当な扱いを受け入れることは、決して同じではないのだと伝えるために。
ストレスで唇を噛み切る癖がある私は、基本ずっと荒れていて痛い思いをしていた。
アメリカで出会ったBurt's Beesのリップクリームは、ニベアやそのほか使ったことがあるものよりも私に私の唇にやさしかった。
近くのCVSで4本入りの箱で購入していたけれど、いま持っているのが最後。
ざくろを使ってみたかったな。
ストックがないと不安になってしまう生理用品。
日本の感覚だととても高価で驚くけれど、量が少なくて小さくて薄くていいなら日本よりも自分にあったものをあった価格で見つけやすかった。
しかもなぜか絶対に漏れなくて、頼もしく思っていた。
私はこれがすきだった。
高いものを買い溜めていたけれど、48時間でここを出て行くようにと言われたいま荷造りを慎重に行うことはできなくて、私はこれを処分しなくちゃいけない。
いつか特別な日に自分の元気を出すためにと買っていたヌテラのビスケットも。
未開封の、ALDIで買ったグラノーラも。
なんで発音するのかずっとわからなかった歯磨き粉、いやなにおいや味がしなくて、磨きやすくて、日に5回は歯を磨きたい私には嬉しい相棒だった。
日本のどのメーカーよりもすきだった。
コルゲート。
Colgate。
ほかのカラーパッケージが何がどう違うのか実はよくわかっていなくて、お店に並んでいる種類すべて試してみるつもりでいたんだな。
私の生活を支えてくれていた、私の気に入っていたものたち。
これからも明日も明後日も来年も、一緒に暮らすと思っていた。
最後のひとつとともに私は成田に向かうんだな。
ほんとうに悲しいのは、ものとの記憶や別れでは、ないはずなのに。
仲良くなった二人はもちろん、誰とも話をさせてもらえず、メッセージも許されずの軟禁状態。
なぜ自分がこれまで、自分の置かれている状況をおかしいと思えなかったのかがわからない。
なぜだろうと思っている間に、飛行機は成田に到着をした。
私目線だからこんなに残念な話になっているだけで。
他のダンサーたちは私が美味しいところだけを吸ったように思っているのかもしれない。
劇場の人間は、私が壊れて話が成立しない危険な相手に見えているのかもしれない。
自分の立ち位置がわからなかった。
被害妄想をしているのなら、そんな自分が一番怖かった。
帰ってきてしまった。
帰国させられた。
早く戻らないと。
*
読み終えた瞬間、ドン、という凄まじい衝撃とともに、機体が激しくバウンドした。 シートベルトが深く腹に食い込み、窓の外の景色が猛スピードで流れていく。灰色のコンクリートと、見慣れた日本語の看板が目に飛び込んできた。 成田空港だった。
飛行機を降り、重い足取りで手荷物受取所へ向かう。 ターンテーブルの前に立ち、誰かの見知らぬ色とりどりのキャリーバッグが単調なリズムで回っていくのをぼんやりと眺めながら、わたしは手記の行間に滲んでいた彼女の本当の苦しみを噛み締めていた。
彼女にとって一番苦しかったのは、あの劇場の不条理なシステムそのものよりも、自分自身の内側に生じた引き裂かれるような葛藤だったはずだ。
給与は支払われず、契約は反故にされ、性的暴力すら日常に潜むあの組織は、明らかに正しくない。適切な方法で裁かれ、罰せられるべきだという強い怒りがあっただろう。 しかし一方で、もし彼女が声を上げ、自分のできるあらゆる手段を尽してあの組織を徹底的に潰してしまったらどうなるか。あの海辺の街で、一緒にスーパーへ行き、タコスを食べて笑い合った大切な友人たちの「ダンサーとしての生活」まで奪ってしまうことになる。ただでさえ少ないコンテンポラリーダンサーたちの貴重な活躍の場を、自分の手で消滅させてしまう。 その絶望的なジレンマが、彼女の告発の刃を鈍らせていたのだ。彼女はダンサーの活躍の場がない国で生まれ、育っていたのだから。
それだけではない。わたしには分かる。痛いほどに分かってしまう。 なぜ彼女が、あれほど異常な環境からすぐに逃げ出すことができなかったのか。もっと早く異変に声を上げられなかったのか。
彼女は間違いなく賢くて、優秀な人間であり、厳しいオーディションを勝ち抜いた優れたダンサーでもあったはずだ。それなのに、なぜあんな搾取と洗脳の構造に絡め取られてしまったのか。 それは彼女が、あまりにも「良い子」すぎたからだ。
「海外で働ける機会をもらった恩返しができるならと思い、頼まれた仕事はできるだけ引き受けた」
「日本のことを知っている人間として期待されていることも、少し嬉しかった」
手記にあったその言葉を思い返すたび、わたしの喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。 彼女は、劇場の代表から振られた雑用を、自分の本来の領域ではないと知りながらも「期待されているから」と引き受けてしまった。それは、学級会でクラスの空気を読み、先生が望む通りの無難な「お楽しみ会」の結論を導き出していたかつてのわたしと全く同じ構造だ。 周囲のプレッシャーを背負い、組織のためになろうと無理をする。日本の友人たちに心配をかけたくないという理由で、一人で抱え込んで口を閉ざす。彼女のその「美徳」こそが、彼女の首を真綿で締め上げていたのだ。
あの暗い廊下で、彼女は性的な暴力の現場を目撃した。アセクシャルである彼女にとって、それは魂を削り取られるような衝撃だったはずだ。しかし彼女はそこで叫び声を上げることも、相手を糾弾することもできなかった。ただ「視線を向けないようにして通り過ぎた」のだ。
なぜなら彼女は「良い子」だから。
波風を立ててはいけない。組織の和を乱してはいけない。誰かを傷つけてはいけない。その呪いのような理性が、彼女の肉体から「逃げる」という最も根源的な動物の生存本能すら奪い取っていた。 日本の社会で「空気を読む良い子」として適応してきた彼女の生存戦略が、異国の理不尽なシステムの中では、彼女自身を飼い慣らすための最も残酷な鎖になってしまったのだ。
わたし、自分の足元を流れていく傷だらけのキャリーバッグを見つめながら、その会ったこともない日本人ダンサーに、異様なまでに心を傾け始めていた。 Joismのダンサーたちを勝手に神格化し、行政との戦いに酔いしれていたのと同じように、今度はこの名もなき彼女の痛みを、まるで自分の臓腑をえぐられるような痛みとして同化させていった。
彼女とわたしは同じだ。彼女はわたしだ。システムの中で求められる役割を演じ、自分の本当の声を失ってしまった「良い子」の成れの果て。わたしは日本という国で、彼女はアメリカという国で、それぞれ別の形で。
ターンテーブルの前に立ち尽くすわたしの脳裏に「デンマークのマリーナ」の顔が浮かんだ。 わたしは出国前、あのアクティビストの芸術監督に、自分が書き溜めた社会問題に関する記事を送りつけ「あなたが同じテーマを取り扱う仲間であって嬉しい」という返信を引き出していた。わたしはそれを「きんぴかの鍵」を手に入れたと得意になっていた。
なんて滑稽なのだろう。 わたしが送った記事の羅列は、結局のところ、アフィリエイトで香水やサプリメントを売るために紡いだ「クライアントが喜ぶロジック」と何も変わらない。安全な部屋から、データだけをこねくり回して構築した、血の通っていない「正解」の束。そんな空っぽなものを盾にして、わたしはあの生々しい闘争の最前線にいるマリーナと対等に渡り合おうとしていたのだ。
手記の彼女こそが、あの「デンマークのマリーナ」と会って話すべきなのだ。 偽物のジャーナリストごっこをしている空っぽのわたしではなく、実際に肉体を削り、言葉の通じない異国で世界と衝突し、搾取され、それでも芸術と人間の尊厳を信じようとしたあの女性ダンサーこそが、あのアクティビストの隣に座る資格がある。わたしがしゃしゃり出る幕など、最初からどこにもなかったんだ。
そ頭がおかしくなりそうだった。彼女が受けた理不尽な扱いや、暗い廊下で立ち尽くした夜の記憶が、すべてわたしの記憶として脳内にこびりつき、心をグズグズに蝕んでいく。 流れ込んできて出ていってくれない。
ただあの痛々しい手記の言葉だけが、帰国してからもずっと、呪いのようにわたしの頭の中でリフレインし続けていた。
「帰ってきてしまった。帰国させられた。早く戻らないと」
手記の最後の言葉が、わたしの鼓膜の裏側で何度も反響する。 わたしは彼女だ。彼女はわたしだ。わたしたちはどちらも、自分の足で立つ場所を持たないまま、誰かが用意した「正解」の箱に押し込められ、そこで息絶えようとしている。
日本にコンテンポラリーダンスの仕事がない、とはどういうことなのか。 それは単に「踊る場所が少ない」「予算がない」などという生ぬるい話ではなかった。才能のある人間が、ただ踊るためだけに言葉も通じない異国へ渡り、制度の壁に阻まれ、労働力として搾取され、やがて人間としての尊厳すら削り取られていくということだ。彼らの脆弱な肉体を守る法律は、彼らを人間としてカウントしてくれる最低限のインフラは、この無機質で息苦しい島国にしかないというのに。
自分がいかに世界を、そしてコンテンポラリーダンスという血の通った芸術を理解していなかったか。 その事実に直面し、わたしは唖然とした。地方行政のテンプレを論破した気になって悦に浸り、「地域政策として合理性があります」などと得意げに語っていた自分が、とてつもなく浅ましく、滑稽なピエロに思えた。
帰国後、わたしは一切の仕事ができなくなった。 市の担当課へ送りつけるはずだった新たなプレゼン資料も、生活費を稼ぐためのアフィリエイトの記事も、一行も書けなくなった。パソコンの画面を開こうとするだけで、あの手記の行間から滲み出ていた絶望の温度が指先に蘇り、キーボードを叩くことができなかった。 わたしは一体、何を見つめていたのだろう。何に向かって歩き、誰を救おうなどと傲慢なことを考えていたのだろう。ただの承認欲求。ただの自己陶酔。わたしは、Joismの何を知っていたというのか。
書けない、できない、生きられない。 何も知らなくて一人で燃え上がっていて掃いて捨てる小石のようなわたしには、世界トップの才能集団みたいなピカピカしたものは強すぎる。この人たちはいつでもわたしを腹の中で笑っていたんだろうなという気がしてくる。ジャーナリストごっこをしていたわたしは、ジャーナリストとして彼らを取り上げる勇気もなく、ジャーナリストとして取材に赴くこともなく、Joismの前に進むエネルギーなんかと釣り合わなくて線路の外で下敷きになって埋もれて見えなくなっていく。
死んで何日も開いていないパソコン。デスク右に積み上げられた『文藝春夏』。どちらもわたしが成田に着いたその時から様子はアップデートされていなくて、埃ばかりが積もっていく。これを買った週だけわたしはJoismに生かされていて、これを買った数の7倍、わたしは毎日世界の何かをリークしてネットで有料記事販売をしてとにかくとにかくパソコンを叩いていた。わたしのその惨めで鼻で笑い飛ばされる行いは「デンマークのマリーナ」にまで届いた、けれどそれってただの運の良さで大きな地球が起こした小さな小さなバグのひとつだったんだろう。
狂気に浸食された部屋の中で、わたしは時折、無意識のうちに身体を動かしていることがあった。 椅子から立ち上がり、手記の彼女が踊っていたという「カウンターテクニック」なるものを真似てみようと、手足をめちゃくちゃに振り回す。もちろん、ダンスの経験など一切ないわたしの動きは、痙攣する虫のように滑稽で醜悪だった。左膝農水皮膚がフローリングに擦れて破けて、血が出てきた。それでもわたしは、床の冷たさを足の裏で感じようとし、背中側の空間を使おうと骨を軋ませた。 そうやって物理的な痛みを引き起こすことでしか、彼女の絶望に寄り添うことができないような気がしたのだ。
「良い子」の殻の中で干からびていたわたしの肉体が、いまさらになって悲鳴を上げていた。 良い子。可哀想な良い子の彼女は、日本のゴミ箱みたいにクレイジートップダウンステューピッドシットな社会と、空っぽの冷蔵庫みたいな日本のコンテンポラリーダンス界に殺された。そのときわたしはなにができる?
苦しい自問自答と、部屋の中での異様な振る舞いが続く日々の中、わたしはついに、重い腰を上げた。 行くしかなかった。わたしが知った気になっていた、あの冷たい川沿いの劇場へ。 わたしが勝手に救おうとしていた彼らの、本当の姿を見届けるために。
初めて足を踏み入れたJoismの拠点は、行政が建てた箱物特有の冷たさを持ちながらも、内部には異様なまでの熱気と、張り詰めたような静寂が同居していた。 わたしはチケットを握りしめ、客席の中央に座った。
人生で初めて、コンテンポラリーダンスというものを観た。
圧倒された。 言葉など必要なかった。鍛え抜かれた肉体が空間を切り裂き、重力をねじ伏せ、時には無防備なまでに崩れ落ちる。それは単なる美しさではなく、生きるための切実な闘争そのものだった。彼らの筋肉のひとすじひとすじに、あの手記に書かれていたような絶望と、それでも踊ることを手放せなかった者たちの血が通っているのが見えた。
脈を感じて、血管が見えた。血と汗の匂いがした。
わたしは息をすることも忘れ、ただ舞台の上で発光する身体を見つめ続けた。 こんなものを、行政の薄っぺらい「合理性」という物差しで測ろうとしていた。こんな奇跡のような存在を、自分の承認欲求を満たすための道具にしようとしていた。
公演が終わり、万雷の拍手が鳴り止んでも、わたしは立ち上がることができなかった。 観客が一人、また一人と劇場を去り、清掃のスタッフが入ってきても、わたしは座席に深く身を沈めたまま、頭を抱えて声を殺して泣き続けた。 鮮血で喉を切って正論を吐いていたのはわたしではない。彼らだったのだ。
客席には、ついにわたし一人だけになった。
「あの、大丈夫ですか」
ふと、頭上から静かな声が降ってきた。 顔を上げると、ひとりの小柄な女性が立っていた。飾り気のない黒い服を着て、少し心配そうな瞳でわたしを見下ろしている。
誰だろう、この人。 わたしはぼんやりとした視界のまま、ポカンとその顔を見つめ返した。