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Photo bybrainy_iris767

アメリカで暮らすアメリカ人が生涯で顔を合わせて会話をする相手の数、10,000人。
そのうち相手が日本人である確率、0.15%。

日本人のうち、広島原爆被曝3世の人の確率、0.7%。

アメリカで暮らすアメリカ人がアメリカの中で、広島原爆被曝3世のアーティストの作品を自身の目で見つめることができる確率、おおよそ0%。

アメリカのファインアーツ私立学校を経営する65歳のアーサーが見つめる、美術と学生の世界とは。アメリカの権威者から、小さな日本人の美術学生はどのように見えていたのか?
アートと悪意が紡ぎ出すファンタジー小説。






紙の皮膚、灰の額縁

プロローグ

今年のヘールシャムは十一人。ひとりあたり授業料四千五百ドルと寮費が八千ドル。悪くない。トランプ再選に各国大使館の難色がどう働くかというところだったものの、アメリカンドリームが世界中で強くなった年とも言えた。賢い離脱者はたった一名。愚か者が十一人。うち五名は二年目か三年目の学生で、残りの六名はどんなメンバーだろう。ドル紙幣の束にしか見えないときもあれば、純粋に孫を迎える祖父のような気持ちになることもあるから不思議だ。

極めてたのしみな女子学生が二名。今年は日本から二名やってくる。日本人はだいすきだ。

彼らの親は、ひたすらに金の力で我が子に「アメリカ留学」というブランドを買い与えようとする。送り込まれてくる子どもたちに特別な才能はない。親が富を積んでいるだけの、からっぽの器だ。だが総じて従順に躾けられており、面倒なトラブルを起こすこともなく、途中で投げ出す自我すらない。ひどい英語をたどたどしく操りながら、期日が来ればきっちりと授業料と寮費を納め、静かにいなくなっていく。
このビジネスにおいて、彼らほど上質なカモはいない。

だからこそ、アーサー・ペンドルトンは日本へのビジネス展開を周到に進めてきた。波風を立てず、権威に盲従するその精神性を知れば知るほど、彼らこそが自分の相手だと確信した。今や累計学生人数の半分以上が日本人だ。日本の同業他社や有力者たちとも誼を通じ、あの国をゆっくりと侵食するように準備を整えてきた。その当然の結果としての、今年の豊作である。

しかし甘い汁もいずれは底をつく。日本市場だけで永久に回し続けられるほど、今の世界は単純ではない。それは、かつて同じ建物に入っていたコンテンポラリーダンスのアカデミー「ミスティック・ダンス」の末路を見れば明らかだった。
あの学校はアーサーと同じようなビジネスモデルを展開していたが、ある告発報道により人種差別や人権問題などで世界的な非難を浴び、無惨に潰れ去った。アメリカ国内だけではなく、アジア圏からも相当の非難を浴びたらしい。校長が今どこで何をしているかは知らない。

アーサーはその跡地にこのアートアカデミーを設立した。彼はあの無能な創業者を内心で深く軽蔑しつつも、その破滅を反面教師として、現在の巧妙なシステムを構築した。
あいつらよりも遥かにうまく、決して尻尾を掴まれることなく搾取し続けるため、アーサーは次なる標的としてニュージーランドへの進出を企てていた。

手始めに、三年目でトップの成績を持つニュージーランド人のリアムと、新しくやってくる日本人のどちらかを絡ませるつもりでいた。「異国でのロマンス」という甘い罠で縛り付ければ、彼らは互いに依存し合い、この学校というシステムからさらに抜け出せなくなる。

「自らの無能も知らず、親の財力と安っぽい夢にすがって虚栄を買う哀れな豚ども」

アーサーは冷たい大理石の床を革靴で鳴らしながら、心の中で彼らを嘲笑した。実力ではなく金で幻想を手に入れ、芸術家気取りをしている連中への見下しは、彼の中で悍ましい優越感となって満ちていた。

ある灰色の午後のことだ。次の金蔓となるパトロンとの会食まで時間が空いたアーサーは、時間潰しのために中心街の現代美術館へと足を踏み入れた。

静寂が支配する展示室の奥で、彼はふと足を止めた。

無名の日本人作家による連作の前に立った瞬間、アーサーの足元で、彼が信じて疑わなかった強固な現実が音を立ててひび割れた。

巨大なキャンバスの上には、半ば剥がれかけた戦時中の新聞紙が、どす黒い油彩と混ざり合ってうねっていた。中心にはモノクロの古い写真が埋め込まれ、名前も知らぬ人間の、黒く焼け焦げたような眼差しがこちらを真っ直ぐに射抜いている。アーサーが日々嘲笑していた「からっぽの芸術」とは対極にある、圧倒的な暴力と、沈黙の叫び。

近づくと、視界の端がぐにゃりと歪んだ。立ちくらみか。年齢の割に、体も頭もしっかりとして、シャキシャキと歩けることが自分の自慢だったのに。いや違う。これは立ちくらみではなく…なんだろう?

展示室の無機質な照明が、まるで熱線を浴びた陽炎のように揺らめく。カサリ、と音がした。なんだ。キャンバスに塗り込められた古い新聞紙が、薄い皮膚のように脈動している。

気のせいではない。アーサーが一歩後ずさったその時、写真の中の顔が、泥のような絵具を割って、確かに彼に向かって囁いたのだ。

第一章 追憶のすし詰めと、黒い瞳

あの美術館での「一分間」。
体感にして一時間にも及んだ、絵画からの静かで圧倒的な糾弾を引きずったまま、アーサーはどうにか予定されていたパトロンとの会食をこなした。しかし、彼が長年かけて築き上げた絶対的な優位性は、すでに足元からひび割れ始めていた。

あの日以来、アーサーはしばしば日本に赴いた時のことを思い出すようになっていた。

あの島国が持つ独自の文化。静寂を重んじる茶室、精緻を極めた着物の織り、そこに息づく精神性には、アーサーも純粋なリスペクトを抱いていた。こんなにも小さな国が、これほどまでに洗練された美意識を保持していることには素直に感心する。

しかし彼を何よりも驚かせたのは、レストランの異常なまでのサービスの良さと、信じられないほどの価格の安さだった。

メニューブックはひどく分厚く、パスタからチキン、ドリア、グラタン、それにデザートまでもが十種類以上並んでいる。すべてご丁寧にカラフルな写真付き。ソーダファウンテンとエスプレッソマシーンも完備され、紅茶やジャパニーズ・ティーまで飲める。

初めて日本に来たとき、彼は心底驚いたものだ。テーブルの一つひとつに呼び出しのベルが置かれている。この小さなボタンを押すだけで、ウェイトレスはどのテーブルの客が注文をしたいのか一目で把握して飛んでくる。なんてことだ。

それ以来、彼はすっかりこのチェーンレストランのファンになり、日本を訪れるたびに足を運んでいる。日本の商談相手やパトロンたちは
「あなたのようなアメリカの資産家が足を運ぶような場所ではない」
と別の高級店へ連れ出そうとしたり、このチープな店を愛好するアーサーを鼻で笑ったりした。構うものか。この効率と奉仕の異常な過剰さの中にこそ、日本のすべてが詰まっているのだ。

日本の信じられない点は他にもある。
東京を移動しようと思えば、観光客であれ近郊に住む人間であれ、全員が電車を使う。アメリカと同じように皆が車の免許を持っていると言うのだから、まったく不思議な国だ。

電車は予定時刻の少し前に滑り込み、きっかり定刻に出発する。もし予定していた電車を一つ逃してしまっても、パニックになる必要はない。三分か五分後には、全く同じものがまたやって来るのだ。日本の鉄道会社の人たちは、一体どれだけ働いているのだろう。

シートの数も多く、一見すると快適で魅力的だ。と思うと、油断はできない。

東京の電車の座席は一瞬で埋め尽くされる。どころではない。座っている人間と、空いたスペースに立っている人間とで、車内は文字通り隙間なく埋め尽くされる。一車両分が、人間の肉体でぎゅう詰めになるのだ。これを何と言うか。「すし詰め」だ。Sushiを握るときのように、ぎゅっ、ぎゅっと人間がひとまとめに圧縮される。電車の中で。仕事に行き、毎日の勤めを果たす美しい人たちによって。ああ、ジャパン。なんという国だ。

あんなぎゅう詰めの電車に揺られ、パスタがたった四百円で提供される店で一時間働いて、あの若いウェイトレスは一体いくらの時給をもらっているのだろう。かつては一児の父だったものとして、本気で心配になることすらある。

目に入れても痛くない、という比喩があるくらい、自分の子どもはもちろんかわいい。自分よりも麗しく、自分よりも賢く前に進んで人生を勝ち続けるためにこの子が必要なものは何か。知識であれ金であれ、なんでも惜しみなく差し出した。
この親心は万国共通だろうが、あの国の若者たちの行き止まりのような献身を見ると胸がざわつく。親が惜しみなく「差し出せる」資源には限りがある場合があり、その多くは生まれた国という操作不能なスロットにより操作されている。

そして同時に、この広大な土地でアメリカ人に生まれたという自らの絶対的な特権を、甘い蜜のように噛み締めるのである。


そんな日本での追憶の階層を抜けた数週間後、新入生を含む子どもたちがこのヘールシャムにやってきた。

引っ越し初日、何名かの学生はすでに寮のラウンジで顔を合わせており、新入生の小柄な日本人の少女と三年生のリアムも、すでに親しげに言葉を交わす仲になっていた。

新学期のオリエンテーション。アーサーは吹き抜けのホールに新入生たちを並ばせ、一人ずつ自己紹介をさせていた。

「次、君だ。名前は?」

アーサーが指差すと、小柄な日本人の少女が一歩前に出た。

「……ツムギ、です」

シャイな日本人の常として、その声はひどく小さかった。六十五歳を迎えたアーサーの耳には、波音に掻き消される砂粒のようにしか届かない。日本の聞き慣れない発音のせいでもあった。

「聞こえない。もう一度言いなさい」

アーサーが高圧的に言い放つ。

少女は戸惑ったように小さく身を縮め、もう少しだけ大きな声を出した。

「……、です」

「だから聞こえんと言っている。お前たち日本人はいつもそうだ。腹の底から声を出すこともできんのか?」

苛立ちを隠そうともしないアーサーの言葉に、少女が唇を震わせたその瞬間。

不意に、アーサーの視界にノイズが走った。

少女の顔が、あの現代美術館で見た油絵の中の、黒く焼け焦げたような少年の眼差しと重なった。鼻腔の奥に、焦げた新聞紙と古い灰の匂いがツンと突き刺さる。息が、詰まる。

「ツムギだよ! T-S-U-M-U-G-I!」

不意にホールに響き渡った明るい声が、アーサーの幻覚を現実に引き戻した。

見ると、列の脇に立っていたリアムが、快活な笑顔で綴りを叫んでいた。その屈託のない声に、張り詰めていたホールの空気がふわりと緩む。

アーサーは軽く咳払いをし、忌々しげに顔を背けた。

あのときリアムの無邪気な大声が助け舟を出したのは、言葉に詰まったツムギに対してだったのか、白昼夢に呑み込まれそうになっていたアーサーに対してだったのか。

アーサー自身にも、わからなかった。


新しい一年が始まる。今年はどんな子と出会えるだろう。

リアム・フォスターは、学生寮の共用ラウンジで荷ほどきを終えたばかりのマグカップでコーヒーを啜りながら、そう考えていた。
四日前、家族と別れてニュージーランドを出た。ぼくはニュージーランドが好きだ。誰と一緒にいても楽しいし、自分を見つめ直させてくれるきっかけが日常のあちこちに転がっていると感じているからだ。

特に、様々なルーツを持つ人々がモザイクのように暮らすあの国で、小学校の頃から多様な文化に触れられたことは、ぼくにとって大きな財産だった。それはアメリカという国に来てから改めて気付かされたことでもある。自分と同じ国の、同じ肌の色をした子どもとしか育っていない若者たちに会うと考える。それはそれでもちろんエキサイティングだとは思うけれど、やっぱりそれぞれ全く違う背景を持った人間がぶつかり合う方が、世界はずっと面白いんじゃないかとぼくは思う。

ニュージーランドは南半球にあるため、北米に移動すると季節が反転する。

ぼくは夏休みの二ヶ月をニュージーランドで過ごし、残りの十ヶ月をここアメリカの学校で過ごす生活を続けている。その結果、この二年間、ぼくには「本当の夏」が存在しなかった。アメリカの風がようやく温るみ、そろそろ気持ちのいい夏になるぞというタイミングで、ぼくは冬の寒さが厳しくなり始めたニュージーランドへと帰るのだ。

もともと南半球の温暖な気候で育ったぼくにとって、夏は文句なしに最高の季節だった。ぼくにかぎらず、あの国で育った者は皆、あの太陽の光を愛しているはずだ。だから、夏を丸ごと満喫できないこの二年間は、正直に言えば少しだけ辛かった。

「これから暖かくて最高だ!」という時に、家族に会うために自分の国に戻ると、そこではもう一度、重たい冬が始まるのだから。

けれど仕方がないことだよね。アメリカの寮で、世界中から集まったクラスメイトたちと寝食を共にする時間も、夏を奪われたニュージーランドで家族や古い友人たちと暖炉の火を囲む時間も、ぼくにとっては等しくかけがえのないものなのだから。それでジメジメと落ち込むようなことはしないよ。

二年生になった去年のこと。自分が一番下の新入生ではなくなり、初めて「後輩」ができたことは、ぼくにとってこの上なく嬉しい出来事だった。

新しく来た子たちの中には、自分より年下の子もいれば、年上の子もいた。ぼくは彼らに、去年自分が経験した面白いエピソードを聞かせたり、寮を管理しているアレックスの愉快な話をしたりした。わからないことや困っていることがあれば、誰よりも早く駆け寄って寄り添った。

ぼくは、自分が差し伸べた手によって、目の前の人がふわりと強張りを解き、笑顔になっていく瞬間を見るのが好きだ。彼らが「その人らしく」自然体でいられるように場を整えること。だから、困っている人に気がつくのは、もしかしたら他の人より少しだけ得意なのかもしれない。

それはぼく自身の小さな自慢であり、ニュージーランドの父さんと母さんが
「リアムの最高に良いところだ」
と褒めてくれた部分でもあった。

だから、新しい一年の始まりは、どんな子たちと出会えるのかが楽しみで仕方がない。もちろん、一つ下の学年の子たちも大切な友人だが、初めてこの学校の門を叩く子や、初めてアメリカの土を踏む子たちの「最初の助け」になれたら、どんなに素晴らしいだろう。

そんな期待に胸を膨らませていた時に、ぼくはツムギに出会った。

これまでも、日本人には何度か会ったことがあった。このアカデミーでも、ニュージーランドで暮らしているときにも。みんないい子たち。

けれどツムギは、これまでの誰とも何かが違った。


おそらく、英語があまり得意ではないのだろう。自己紹介を聞く限り、アメリカに来るのは初めてで、他の英語圏の地域にも行ったことがないらしい。もちろん、ニュージーランドにも。

初めてラウンジで言葉を交わした日、ツムギは首に素敵なストールを巻いていた。少し日本的な色合いを感じさせつつも、伝統的な着物などとは違う、モダンな風合いのものだった。
「ああ、なんてセンスのいい子なんだろう」
と、ぼくは素直に感心した。

彼女はどんな絵を描くのだろう。

真っ黒な瞳と、真っ黒な髪。彼女は、相手の視線を無意識のうちに自分の内側へと引き込んでしまうような、奇妙な引力を持っていた。

大きな声を出して主張するわけでもなく、身振り手振りを大きくして空間を支配しようとするわけでもない。ぼくが男でツムギが女の子であることを差し引いても、彼女は小柄で、華奢だった。

それなのに、彼女がそこにいるだけで
「ここにとびきり素敵なものがある!」
と一目でわかるのだ。

なぜだろうか。彼女自身はまったくそんなアピールをしていないのに、その静かな存在感そのものが、強烈なメッセージとなって相手の心に届く。彼女は、そんな不思議な力を持った、生まれながらのアーティストだった。

ぼくはどうしてもツムギと仲良くなりたかった。彼女の緊張を解きほぐしたくて、とっておきのアレックスの話をした。

アレックスというのは、ぼくらより十歳ほど年上のアメリカ人の男だ。実はこの学校の校長であるアーサーの息子なのだが、学生のサポートや寮の管理全般を任されている。現実問題として、高圧的なアーサーよりも、アレックスと過ごす時間の方が圧倒的に長い。

アレックスは良くも悪くも物事に大雑把で、とにかく「とってもアメリカン」な男だった。だから、アメリカに初めて来た留学生には、アレックスの破天荒なエピソードがものすごくウケるのだ。

「あいつさ、自分が運転してる車の窓から、マクドナルドの空のカップを平気で外に投げ捨てるんだぜ。信じられる?」

とぼくは大げさに肩をすくめてみせた。

「この前なんて、デッサンの授業中にいきなりぼくに向かって何かを投げつけてきたんだ。何事かと思ったら、それがジンジャーキャンディでさ。あいつはとにかく、なんでも投げるんだよ。だから今度、あいつの車の窓から上半身を引っ張り出して、逆さに吊るしてやろうかと思ってるんだ!」

身振りを交えてそう言うと、ツムギは静かに、けれど心底楽しそうに肩を揺らして笑ってくれた。

その黒い瞳が細められるのを見て、ぼくは心の中でそっと呟いた。

きみが素晴らしい一年を過ごすことを願っているよ。ぼくは全力で、その手伝いをするからね。

第二章 沈黙の林檎

新学期が始まり、ヘールシャムのアトリエには真新しいキャンバスと油壺の匂いが満ちていた。

アーサー・ペンドルトンは、腕を組みながら学生たちの間をゆっくりと巡回していた。毎年繰り返される光景だ。誰もが己の「個性」だと信じ込んでいる凡庸な表現を、これ見よがしにキャンバスに叩きつけている。

その中で、一人だけ全く異質の空気を纏っている者がいた。ツムギだ。

一番物静かな学生が、一番目を引く作品を描く。それは奇跡的なまぐれなどではなかった。何度別のテーマを与えて全員に作品を制作させても、ツムギの作品は常に群を抜いていた。彼女の才能の恐ろしさは、まずその「テーマの捉え方」の秀逸さにある。

例えば「林檎」を描けと課題を出したとする。他の学生たちが、テーブルの上に置かれた林檎の静物画や、籠に盛られた色鮮やかな林檎の群れを懸命に写し取ろうとする中で、ツムギは「林檎がなる木」を描いたのだ。

だがモチーフの捉え方が奇を衒っているだけでは、単なる浅薄な駄作に終わる。彼女が本物である理由は、その特異な視点に完全な説得力を与えるだけの、圧倒的な画力が備わっていることだった。

ツムギが描いた林檎の木は、林檎という果実の成り立ちと、それが内包する命の循環そのものを連想させた。力強く、それでいて淡く堂々とした鉛筆のストロークが、紙面から風を立ち昇らせ、爽やかな林檎の香りを誇らしげに届けてくるような錯覚さえ起こさせる。

アーサーは彼女のイーゼルの前に立ち止まり、息を呑んだ。

よく目を凝らしても、それは一本の巨大な「木」の全体像であって、赤い林檎の果実がどのあたりに、いくつ実っているのかは定かではない。もしかすると、果実などひとつも描かれていないのかもしれない。

けれどそれは確かに「林檎」なのだ。なぜだろうか。
枝のしなり、葉の重なり、あるいは幹が吸い上げる大地の水分。そのすべてが「林檎を生み出すための命」として完璧に描写されているからだ。

アーサーは、自身の指先が微かに震えているのを感じた。

あの控えめで、声を張り上げることもない、体の小さな日本人の女の子の、一体どこにここまでのエネルギーが隠されているというのか。

彼女の絵を見つめていると、またしてもあの美術館での感覚が蘇りそうになる。絵画に吸い込まれ、自分の輪郭が曖昧になっていくような、静かで暴力的な没入感。アーサーは耐えきれず、そそくさとツムギの背後から立ち去った。


少し離れたイーゼルでキャンバスに向かっていたリアムもまた、筆を止めてツムギの横顔を眺めていた。

「すごいな……」

ぼくの口から、感嘆の吐息が漏れる。

ぼく自身、この学校ではトップの成績を修めており、自分が描く絵にはそれなりの自信を持っていた。明るい色彩とダイナミックな構図で、ニュージーランドの自然や人々の活力を描くのがぼくの持ち味だ。

しかしツムギの絵は次元が違った。彼女の作品の前に立つと、自分が今まで「表現」だと思っていたものが、いかに表層的で子どもじみたおしゃべりに過ぎなかったかを思い知らされる。

ぼくはツムギが木炭を走らせる手元を見つめた。

華奢な手首、細い指先。彼女は相変わらず無口で、周囲の喧騒などまったく耳に入っていないかのように、ただ静かにキャンバスと対話している。

あの小さく大人しい身体の、どこからあんなにも力強く、深い世界が溢れ出してくるのだろう。

彼女の描く「林檎の木」には、ぼくがニュージーランドの太陽の下で見てきた生命力とはまったく違う、もっと静謐で、根源的な強さがあった。たとえばアダムとイブの話を思い出させるような、歴史と記憶のなかにつよくふとく根付いている林檎だ。あるいはアリス・マンローの『林檎の木の下で』。
それは、何百年もそこにあることを受け入れている大樹の静けさであり、同時に、いつか朽ち果てることを知っている命の美しさでもあった。自分の国のルーツを映し出すぼくの個性とも違っていた。
けれど彼女は23歳。ぼくと同い年。それが扉を開けても開けてもたどり着けないトリビアのようで、彼女のすごさであり魅力だった。

ツムギが不意に顔を上げ、視線を感じたのかぼくの方を向いた。そして、目が合うと、あの初日に見せたような、控えめで柔らかい微笑みを浮かべた。

ぼくは慌てて笑顔を作り、親指を立ててみせた。きみってメチャクチャすごいよ!そう抱きついて褒めたい気持ちを、残念ながらいまはリモートでサイレントで、でも熱意と敬意をたっぷりに伝えたかった。するとほら、ツムギは受け止めてもらえた小さな子どもみたいに笑顔をもっと崩す。さっきのが相手の反応を伺う微笑みで、いまのはうれしくて花が開く微笑み。

彼女のその微笑みの奥に、どれほど深く暗い森が広がっているのか、この時のぼくにはまだ知る由もなかった。

第三章 甘い匂いとブラウン管

ヘールシャムの校長室は、アーサーという男の虚栄と権力をそのまま形にしたような空間だった。床には毛足の長いペルシャ絨毯が敷き詰められ、壁には彼が本物の芸術とは雲泥の差だと見下しているにも関わらず、学生たちの描いたなかでも一見見栄えのする、無難で色鮮やかな作品が幾つも飾られている。重厚なマホガニーのデスクの奥で、アーサーは深く革張りの椅子に沈み込み、キューバ産の葉巻の煙をゆっくりと天井に向けて吐き出していた。

ノックの音もなく、厚い樫のドアが開かれた。

「父さん、今いいか?」

入ってきたのは、息子のアルフレッド、通称アレックスだ。
三十を過ぎているというのに、洗いざらしのチェックのシャツに色落ちしたジーンズという、西海岸の大学生がそのまま年を取ったような格好をしている。手には、飲みかけのコーラのペットボトルが握られていた。

「ノックくらいしたらどうだ、アレックス」

アーサーは眉間に皺を寄せ、葉巻を灰皿に押し付けた。

「ここは学校だ。そして私はお前の雇用主でもある」

「はいはい、ミスター・ペンドルトン。次からは気を付けるよ」

アレックスは悪びれる様子もなく、来客用のソファに腰を下ろすと、長い足をローテーブルの上に投げ出した。この男は、父親の権威などこれっぽっちも恐れていない。学生寮の管理という名目で給与を与えているが、その実態は、学生たちと適当に遊んで時間を潰しているだけなのをアーサーも知っていた。だが、学生たちの動向、とりわけ彼らが隠したがる人間関係の機微を探る「監視カメラ」としては、この適当でアメリカンな男は案外役に立つことも事実だった。

「で、どうなんだ。今年の『家畜』たちの様子は」

アーサーはデスクの引き出しからウイスキーのグラスを取り出しながら尋ねた。

「例の計画は順調に進んでいるんだろうな。ニュージーランドの男と、日本から来た女だ」

アーサーの企みとは、リアムとツムギをロマンスという名の甘い罠で縛り付け、ニュージーランド市場開拓の足がかりとし、同時に彼らから長期間にわたって学費を搾り取る計画。アレックスはそのための手駒として、寮内で二人をそれとなく近づけるよう指示を受けていた。

今の二年生と三年生に日本人はいない。そして一年生として二人の日本人の女子学生が入ってきた。日本を彼の手で包み込むために必要となるのはどちらだろう。アーサーの判決は三日で十分だった。

騒がしくてでかい口を開けて笑って、その癖英語も芸術のことも何も理解をしていない様子のもうひとりは、スパイや手先として使えそうになかったからだ。第一、アーサーが嫌っていた。一方でツムギには、彼が手先として認めたくなる素質がすべて詰まっていた。物静かで簡単に口を割らなさそうで、それでいて、本人の中での軸がきちんとあるように見える。おそらくツムギは他の学生たちよりも賢い。
かわいそうだけれど、今年の父親の餌食、もしくはお気に入りの宝石には彼女になってもらうことにした。いや僕が決めたんじゃないけれど、とアレックスは内心でうそぶいていた。

アレックスはコーラを一口飲み、ペットボトルをテーブルに置いた。

「ああ、順調も順調、大成功だよ。父さんの目論見通り、あの二人は今、寮の中で誰よりもくっついてる。いや、くっついてるって表現はちょっと違うか。なんていうか、妙なんだよな、あの子たち」

「妙、とはどういうことだ」

アーサーはグラスにウイスキーを注ぐ手を止めた。

「僕もこれまで、寮でいちゃつく連中を山ほど見てきただろ? 親元を離れて寂しいからって、安っぽい酒を飲んでベッドに転がり込むような学生たちだ」

アレックスは天井を見上げ、記憶を探るように目を細めた。

「でも、リアムとあのツムギって子は、そういうベタベタした感じが一切ないんだ。友達としては明らかに男女として近づきすぎてる。他の学生が入り込めないくらいの独自の結界みたいなものを作ってるくせに、見ていて不快になるような生々しさが全くない。なんだろうな、あれ。信じられないくらい、健全で、控えめなんだ」

アーサーは無言で先を促した。健全で控えめ。その言葉の響きが、なぜかアーサーの胸の奥にある黒い澱をざわつかせた。

「昨日の夜のことだ」

アレックスは身を乗り出し、面白がるような口調で語り始めた。

「寮の共用キッチンから、やけに甘いいい匂いがしてきたんで覗いてみたんだ。そしたら、リアムがエプロンをつけて、フライパンでパンケーキを焼いてた。リアムのやつ、ニュージーランドにいた頃によく家族で作ってたとかで、やたらとはしゃいでてさ。フライパンを振って、パンケーキを宙返りさせて、いやたしかに上手かったけど。リアムもツムギも、後ろで誰が見ているかなんて気づきやしない。まるで世界にふたりきり、ってところかな」

「……それで?」

「ツムギは、カウンターの丸椅子にちょこんと座って、それを見てた。手を出して手伝うわけでもなく、リアムがはしゃぐのを大声で笑うわけでもない。ただあの黒い目で、静かに微笑んでるんだ。リアムが何か冗談めかしていうと、彼女は首を振って、自分のお皿をスッと前に出す」

アレックスは、その情景を目の前で見ているかのように手で宙に四角を描いた。

「できあがった綺麗なパンケーキに、リアムがシロップをケーキがひたひたになるくらい贅沢にかけてさ。アイスクリームまで乗せて。二人で向かい合って食べてるんだよ。酒もなし、薄暗い照明もなし。蛍光灯の下で、甘ったるいパンケーキとコーヒーだけ。言葉数もそんなに多くない。リアムが時々何かを言って、ツムギがふふって笑って頷く。それだけだ」

アレックスの言葉を聞きながら、アーサーの脳裏に、先日アトリエで見たツムギの描いた「林檎の木」の絵がフラッシュバックした。

圧倒的な静寂と、恐ろしいほどの生命力。あの絵から立ち昇っていたのと同じ、他者を寄せ付けない完璧な調和が、そのキッチンの情景にはあるような気がした。

「それから、ゲームだ」

アレックスは話を続けた。

「僕が昔置いてった、古いブラウン管のテレビと年代物のゲーム機がラウンジの隅にあるだろ。あの子たち、休みの日の午後なんかは、よく二人で並んであれをやってる。今の子たちがやるような、ネットで繋がって殺し合うような派手なゲームじゃない。横スクロールでキャラクターがジャンプするだけの、単純なやつだ」

アレックスは肩をすくめた。

「ソファーの端と端に座って、コントローラーを握って、画面を見つめてる。リアムはゲームなんかよりツムギのことを見たいはずなのに、ツムギが真剣に画面を見つめてるから、自分も必死になってプレイしてる。肩が触れ合うか触れ合わないかの距離だ。ツムギがミスをしてキャラクターが死ぬと、リアムは悔しそうに頭を抱え、ツムギは小さく『あ』って声を漏らす」

「……」

「父さん、わかるか? 僕が言いたいのはさ」

アレックスは少し声を潜めた。

「あの二人、まるで何年も長く寄り添ってきた精神的支柱みたいなんだよ。まだ出会って数週間だってのに、お互いの呼吸のタイミングを完全に理解してる。燃え上がるような情欲とか、そういう安いもんじゃなくて、もっと根っこの部分でガッチリ噛み合っちまってる。あれは、ただの『異国での寂しさを紛らわすためのロマンス』なんかじゃない。僕の目から見ても、ちょっと神聖なもんを見せられてる気分になるくらいだ」

アレックスの報告は、アーサーにとって、計画が順調に進んでいるという「吉報」であるはずだった。ニュージーランド人のカモと、日本人のカモが、互いに依存し合い、この学校のシステムから抜け出せなくなる。完璧なシナリオだ。

だが、アーサーの手元で、ウイスキーのグラスを握る指先が白くなるほどに力が入っていた。

神聖だと?アーサーは心の中で吐き捨てた。

金で箔を買うためにやってきた、からっぽの器どもに、神聖なものなど宿るはずがない。ジュリアードに行けるような本物の才能を持たない連中が、安い寮のキッチンや古いテレビの前で、さも美しい物語の主人公であるかのように振る舞っている。そのこと自体が、アーサーにとっては耐え難いほどの欺瞞に思えた。

いや、それだけではない。

アーサーを本当に苛立たせ、そして震え上がらせているのは、ツムギという少女の存在そのものだった。

あの小さな体の中に、あの圧倒的な「林檎の木」を描き出すエネルギーを隠し持っている少女。アレックスの報告を聞いていると、リアムが彼女を籠絡しているのではなく、リアムという屈託のないニュージーランドの青年が、ツムギの持つ深く暗い静寂の森に、音もなく取り込まれていっているようにしか思えなかった。

アーサーがコントロールしているはずのビジネスの盤上で、彼の理解の及ばない「本物の引力」が働き始めている。

「……報告はそれだけか」

アーサーは冷たい声で言った。

「え? ああ、まあ、今のところはそんなもんだ。父さんの作戦は大成功してるってことさ。あの二人は、もうしばらくはこの学校を離れないだろうよ」

アレックスは自分の観察の成果に満足したように立ち、コーラのペットボトルを掴んだ。

「ところであの二人を近づけさせてどうするつもり?リアムはこの一年で卒業してここを出ていくはずだ。僕みたいに雇うの?寮の管理人?それともOBとしてのアート講師?そうか、父さんはこんなご立派な学校を作っていながら、絵筆をもったこともない、他の美術にすら一切触れたことがない素人だもんね」

「黙りなさい」

肩をすくめてアレックスが出ていく。

ドアが静かに閉められ、執務室には再び重苦しい静寂が戻ってきた。

実際にその通りだった。リアムは確かな才能があり、学生の中でも最も素直で扱いやすい存在だ。その気になれば、自分の孫のように可愛がる覚悟もできている。この三年を終えた後に、彼にビザのサポートをしたり、必要な資格を取らせたりして、アメリカに長く滞在できるよう手伝ってあげるつもりだ。それは彼が、このアカデミーの価値を大きく格上げしてくれることにつながるからに他ならない。

彼が自分の他のキャリアや夢を諦めて、このアメリカの東海岸に滞在する理由が必要だった。例えば、親しい友達とか。

その相手が日本人の女子学生ならどうだろう。二人をうまく長く繋ぎ止めることができれば、自分のアカデミーの価値を大きく上げることもできるし、これまでひっそりと進めてきた日本の学生を多く獲得するためのマーケティングも、どんどん有利に進めることができるようになる。無口だけれど、賢い様子のツムギには、様々なものが詰まっているはずだ。彼女から日本のカルチャーをより深く学び、日本の学生たちがどんな夢を見ているのか、日本の学生たちがアメリカに留学をするとはどういうことなのかを体系的に引き出させる。
ただ、おそらく彼女は私のような校長に向かって大きな意見は言わないはずだ。そこでリアムがいる。彼が私か、もしくはアレックスに雑談のように伝えてくれれば十分だった。

アーサーはウイスキーを一気に煽り、グラスをデスクに叩きつけるように置いた。

大理石の床、ペルシャ絨毯、高価な調度品。自分が支配する完璧な世界。しかしどういうわけか、この密閉された部屋の中に、微かな異臭が漂い始めていた。

アーサーは鼻をひくつかせた。それは、アレックスが語った甘いメープルシロップの匂いではなかった。

埃と、泥と、そして何かが焼け焦げたような、古ぼけた新聞紙の匂い。

あの現代美術館で、ツムギと同じ日本人の「被爆三世」の作家が描いた、あの不気味な絵画から漂っていた匂い。

アーサーはネクタイを緩め、息苦しさに喘ぎながら周囲を見回した。

壁に掛けられた凡庸な学生たちの絵が、一瞬、泥のような暗い色に歪んだように見えた。

「……馬鹿げている」

アーサーは独り言ちて、目を強く瞑った。

計画は上手くいっているのだ。リアムもツムギも、自分の手の中で踊るただの金蔓に過ぎない。あんな子供たちの間に生まれる小さな感情のやり取りなど、自分の人生になんの影響も及ぼさないはずなのだ。

だが、焦げた匂いは消えなかった。

アーサーの確固たる傲慢さの城壁に、目に見えない無数のひびが入り、そこから「現実以外の何か」が、ゆっくりと、しかし確実に浸水し始めていた。

第四章 ガラスの熱傷(ねっしょう)

アーサーは、焦燥に駆られていた。

執務室で嗅いだあの焦げた匂いが、何度鼻を洗っても、高級なオーデコロンを振りかけても、脳の襞にこびりついて離れない。ツムギの圧倒的な才能、リアムとの理解不能な親密さ、そして自分の支配下にあるはずの盤面が、音もなく歪んでいく感覚。

彼は自分の正気を証明しなければならなかった。自分は常に強者であり、芸術とは他者を搾取するための便利な道具に過ぎない。あの日、あの絵の前で怯えたのは、何かの錯覚か一時的な脳の疲労だ。それを見届けるために、彼はあえて再び中心街の現代美術館へと車を走らせた。

「灰の時代」と題された展示室は、平日ということもあり人気はまばらだった。

アーサーは革靴の音を意識的に響かせながら、白い壁に掛けられた作品群の間を歩いた。やがて、目的の区画にたどり着く。無名の日本人「被爆三世」による連作だ。

彼は、前回自分を白昼夢に引きずり込んだあの絵、つまり古い写真のコラージュの隣に展示されている、別の巨大なキャンバスの前に立った。

『熱線の記憶』という簡素なタイトルのついたその作品は、どす黒く塗り込められた油彩の海に、高熱で溶解し、奇妙にねじ曲がった数枚のガラス板と、炭化して真っ黒になった小さな靴の片方が貼り付けられていた。

アーサーは腕を組み、鼻で笑う準備をした。

ただのガラクタの寄せ集めだ。こんなものが私を脅かすはずがない。

そう思った瞬間だった。

「ちりっ」

耳の奥で、微かな音が鳴った。

それは、夏の終わりに死にかけた蝉が鳴くような音にも、あるいは、乾燥した松の葉が火の粉に炙られて弾ける音にも似ていた。

「ちりちりちりちりちりちり」

耳鳴りは急速に音量を増し、アーサーの三半規管を麻痺させた。

展示室の白い壁が、水彩画に水をこぼしたようにぐにゃりと溶け落ちる。無機質な照明が消え、代わりに、空の全面を覆い尽くすような巨大で禍々しい真紅の閃光が、アーサーの網膜を焼き尽くさんばかりに発光した。

時間が、完全に止まっていた。

アーサーは前回同様、極めて明晰でクリアな思考を持ったまま、この絶対的な沈黙と光の世界に一人で立たされていた。

『お前は、何を売ってきた?』

声がした。いや、それは音を伴わない、直接脳の奥底に語りかけてくる思念だった。自分の内側から、自分を問いるめる声。

『お前が金に換えてきたものは、何だ』

アーサーは声を張り上げようとしたが、喉がひきつって音が出ない。

キャンバスに貼り付けられていた炭化した小さな靴が、ずるり、と泥の海から抜け出し、虚空を踏んでアーサーの顔の高さまで浮き上がってきた。

溶解したガラス板が空中でひび割れ、そこから無数の「眼差し」がアーサーを射抜く。それは、彼が今まで「からっぽの金蔓」と見下し、搾取し、踏みにじってきた学生たちの顔であり、同時に、あの業火の中で理不尽に命を奪われた者たちの沈黙の糾弾でもあった。

お前は圧倒的に間違っている。

その明確で容赦のない宣告が、灰の雨のようにアーサーの全身に降り注ぐ。芸術という人間の魂の叫びを、お前はただの紙切れに変えた。お前自身が、一番の「からっぽ」なのだと。

「違う、私は……私は賢い選択をしただけだ!」

心の中でアーサーが叫んだ時だった。

じりっ。

右手の、人差し指と中指の先端に、焼けるような痛みが走った。

それは、高額な学費の請求書にサインをし、質の悪いカリキュラムの承認印を押し、学生たちの未来を切り売りしてきたその右手だった。

「ああっ!」

アーサーは声にならない悲鳴を上げ、右手を押さえた。

炎に直接指を突っ込んだような、肉が焦げ、神経が焼き切れるような生々しい熱痛。熱線が、ガラスを溶かしたのと同じ温度の熱が、アーサーの指先を内側から侵食していく。痛い。熱い。許してくれ。

永遠にも感じられる猛省と苦痛の時間の後、不意に光が収束した。

ちりちりという耳鳴りが遠ざかり、アーサーの視界に再び白い壁と、無機質な照明と、キャンバスの黒い泥が戻ってきた。

アーサーは荒い息を吐きながら、よろめいて壁に背中を預けた。

額からは冷たい汗が滝のように流れ落ちていた。震える左手で腕時計の文字盤を見る。

秒針は、彼がこの絵の前に立ってから、ちょうど一周したところだった。たった一分。たった一分しか経っていない。

「……幻覚だ。ただの、幻覚……」

アーサーは荒い呼吸を整えながら、痛みを発している右手を見下ろした。

皮膚は正常だった。赤く腫れ上がってもいないし、水ぶくれもできていない。綺麗なままの、裕福な六十五歳の男の指先だった。

しかし。

「……痛い」

視覚的には何の異常もないはずの右手の指先に、あの「じりっ」と焦がされた肉の痛みが、確かに残り続けていた。

手を振っても、冷たい展示室の壁に押し当てても、内側から燻るような熱と痛みは消えない。

それは、もはや単なる脳の錯覚では片付けられない現象だった。絵画の中に封じ込められていた呪い——あるいは歴史の重みそのものが、ついにアーサーの物理的な肉体へと侵食を開始したのだ。

アーサーは右手を左手で庇いながら、誰かに追われるように、逃げるようにして美術館から駆け出した。

エレベーターのボタンを押すことすら、焦げた指先ではできなかった。

第五章 蜜蜂と架空の請求書

美術館から逃げ帰って数日が経っても、アーサーの右手の指先に巣食った「じりっ」という幻痛は消えなかった。

皮膚の表面は何の異常もなく滑らかなのに、肉の奥底で目に見えない熱線がくすぶり続けている。アーサーはその恐怖と苛立ちを振り払うために、自分が最も確信を持てる現実的な行為、すなわち数字と金で他者を支配する仕事に没頭しようとしていた。

そんな折、アレックスが執務室にやってきて、奇妙な報告をもたらした。

「父さん、あの日本人の女の子、ツムギのことなんだけどな」

アレックスはいつものようにローテーブルに足を投げ出しながら言った。

「あの子、ただの貧乏な留学生じゃないかもしれないよ」

アーサーは書類から顔を上げず、鼻を鳴らした。

「いや、そういうレベルじゃないんだよ。彼女の部屋に、最近やたらと高価な荷物が届くんだ」

アレックスの報告によれば、ツムギの生活水準は、同じ寮に住むアメリカ国内の裕福な学生たちよりも、はるかに自由で潤沢なのだという。

「この前なんか、イギリスのフォートナム・アンド・メイソンの馬鹿でかい箱が届いた。それから、名前はわからないが、やたらと立派な花束もしょっちゅう届く。平凡で地味な身なりの女の子にしては、明らかに変だろ。紅茶は自分で買っているとしても、花束は一体誰が送ってきてるのかね」

花束。高級な紅茶の箱。

アーサーはペンを動かす手を止めた。遠い異国の地で学ぶ娘に、日本の親がそこまで頻繁に、しかもヨーロッパの高級品や花束を送りつけるものだろうか。しかもここはヨーロッパではなくてアメリカだ。

「極めつけはこれさ」

アレックスは面白がるように言った。

「数日前、ツムギ宛てにバーツビーズのギフトボックスみたいな中くらいの箱が届いたんだ。黄色い蜜蜂のマークのやつ。そしたら次の日から、リアムがバーツビーズのハンドクリームを愛用し始めたんだよ。わざとらしいくらい、みんなの前で念入りに手に塗り込んでるんだ」

アレックスが少し笑みを浮かべる。
「あの二人、持ち物まで完全に共有し始めてる。あのニュージーランドの素朴な青年が、日本のお金持ちの娘にすっかり飼い慣らされちまったらしい」

リアムがツムギの影響下に取り込まれていく様は不愉快だったが、アーサーの脳裏にはそれ以上に、冷徹で実利的な計算が働き始めていた。

ツムギの実家が、自分の想像以上に太い「金蔓」である可能性が高い。だとすれば、あんな端金のような基本の授業料と寮費だけで済ませておくのは、経営者としてあまりに無能というものだ。

アーサーは右手の幻痛を庇いながら、口元に冷酷な笑みを浮かべた。ならば、特別料金を払ってもらおうじゃないか

留学生から追加で金を巻き上げる方法など、アーサーにとっては息をするのと同じくらい簡単なことだった。彼らは異国でのトラブルを極端に恐れ、ビザの取り消しや退学をちらつかせれば、親はいくらでも金を出す。

アーサーはデスクの上の真新しい請求書のフォーマットを引き寄せた。

まずは寮の部屋の「清掃・修繕費」だ。ツムギは部屋でアクリル絵の具や木炭を使っているはずだから、床や壁を汚したという言いがかりはいくらでもつけられる。「特殊清掃費」として、高額なペナルティを上乗せしてやろう。

そして、もう一つ。

アーサーは、アトリエで見た彼女の「林檎の木」の絵を思い出した。あの忌々しいほどに圧倒的な才能。それを逆に利用してやるのだ。

『国際的なアート・コンペティションへの推薦および特別指導料』

アーサーはそう書き込んだ。

彼女の並外れた才能は、当校を代表して外部のコンテストに参加する義務がある。そのための特別カリキュラムと、出展のための事務手数料。架空のコンテスト、架空の指導料だ。

親元にこの請求書を送れば、「娘の才能が本場のアメリカで高く評価された」と勘違いした愚かな親は、喜んで小切手を切るに違いない。

「……父さん、なんか悪いこと考えてるだろ」

アレックスが呆れたように言った。
「また架空請求か? ほどほどにしときなよ。あの子、怒らせると怖いタイプかもしれないぜ」

「黙りたまえ。これはビジネスだ」

アーサーは冷たく言い放ち、万年筆を走らせた。右手の指先が「じりっ」と熱く痛んだが、アーサーはそれを無視した。

金だ。金こそがすべてをコントロールし、自分を現実の世界に繋ぎ止めてくれる唯一の錨(いかり)なのだ。あの狂った絵画の幻覚も、日本人への底知れぬ恐怖も、この数字の羅列がすべてかき消してくれるはずだった。

彼女の才能の出どころも、フォートナム・アンド・メイソンや花束を贈ってくる本当の差出人の正体も知らぬまま、アーサーは自らの破滅を早めるための請求書に、満足げにサインを記した。

第六章 瞳の中の白髪

あの日以来、アーサーの右手の指先には、常に「じりっ」と肉が焦げるような幻痛が棲み着いていた。視覚的には何の火傷もない綺麗な皮膚のままなのに、ペンを握るたび、コーヒーカップの取っ手に触れるたびに、鈍い熱痛が奥底から顔を出す。それに加えて、静かな夜には耳の奥で「ちりちり」という微かな耳鳴りが鳴りやまなくなった。

アーサーは苛立ちを隠せなくなっていた。自分が何かに侵食されている。その不快感を振り払うかのように、彼はアトリエでの指導に以前にも増して高圧的な態度を取るようになっていた。

そんなアーサーの苛立ちをさらに煽ったのは、トップクラスの学生であるリアムの奇妙な変化だった。

どんな課題を与えても、リアムのキャンバスには必ず「それ」が入り込むようになったのだ。
たとえば「朝の風景」というテーマで街角のスケッチをさせても、「幾何学構成」という抽象的な課題を与えても、画面のどこかに、小柄で黒い髪を持った女性の気配が潜んでいる。直接的な人物画を描かせれば言うまでもない。カンヴァスの中央には常に、深い黒い瞳を持った東洋の少女が佇んでいた。

誰の目から見ても、それはツムギだった。

執務室にやってきたアレックスの報告も、その変化を裏付けていた。

「父さん、あの二人昨日、中庭を手を繋いで歩いてたよ。すっかり出来上がってるな」

アレックスは穏やかに笑いながら言った。

アーサーは当初、それを「好都合」だと解釈しようとした。二人の距離が縮まり、この閉鎖的なアカデミーの中で依存し合えば、彼らは長くここに留まる。ツムギは学生として高い学費を払い続け、リアムは卒業後も何らかのポストを求めてしがみついてくるだろう。完璧なシナリオだ。

しかし現実はアーサーの思惑とは別の方向へねじれ始めていた。

リアムが、ひどく扱いにくい存在になり始めたのだ。アーサーがツムギの描く絵、彼に言わせれば、気味が悪く反抗的な絵に対して冷徹な非難を浴びせ、彼女を叱責しようとすると、必ずリアムが間に入ってくるようになった。

「校長、彼女の視点は間違っていません。この部分はこういう意図があるはずです」

かつてアーサーの機嫌を取り、従順な優等生として振る舞っていたニュージーランドの青年は、もうどこにもいなかった。彼がツムギを庇う時、その眼差しには確固たる意志と、アーサーの空虚な権威を見透かすような鋭さが宿っていた。

もともとリアムは、学生たちの中心に立つ存在だった。例えばクリスマスの日にある校外学習の行き先について

「MoMA(ニューヨーク近代美術館)に行きたい」

と最初に提案したのはリアムで、みんなの人気者である彼の提案は、すぐに全員の意見となった。アーサーもまた、MoMAやジュリアードといった「本物」の権威を自らのアカデミーの箔付けに利用するのを好んだため、その提案を快諾した。リアムにはそれだけの影響力と求心力があったのだ。

だからこそ、そんな彼とツムギとの親密さは、周囲の学生たちの中にも奇妙な不協和音を生み出していた。

これまで誰に対しても朗らかで、寮のムードメーカーだったリアムが、特定の誰か一人にかかりきりになることを、他の学生たちは面白く思わなかった。男の子たちは「ノリのいい遊び仲間」を奪われたと不満を漏らし、女の子たちは、得体の知れない日本人の少女に対する嫉妬の視線を隠さなくなった。

やがて寮の中に奇妙な噂が流れ始めた。

「あの二人、何もかもお揃いにし始めてる」と。

共有の洗面台ではなく、それぞれの個室に置かれているはずのハンドソープが、近所のCVSで買った全く同じ匂いのものになっている。ラウンジで食べるスナックもいつも同じ。極めつけは、ツムギがリアムの一番のお気に入りであるニュージーランド産のサワーキャンディをポケットに忍ばせているのを見た者がいるという。

誰が最初に言い出したのかは特定できなかった。だが、その些細な「同化」の噂は、二人の間に立ち入ることのできない絶対的な結界があることを、周囲に強く印象付けた。

境界線が決定的に決壊したのは、冷たい雨が降るある午後のことだった。

その日、ツムギは朝からひどい熱を出し、授業を休んで寮の自室に籠っていた。寮の管理責任者であるアレックスは午前中にその連絡を受け取っていたがただの風邪だろうと一蹴し、様子を見に行くことすらしていなかった。

午後のデッサンの授業中、リアムはひどく落ち着きがなかった。何度も時計を気にし、木炭を折る。やがて、彼は耐えきれなくなったようにアーサーの元へ歩み寄り、低い声で尋ねた。

「校長、ツムギは? 風邪ですか? 熱は? まさかインフルエンザじゃないですよね?」

「私は知らん。アレックスに休みの連絡が入ったと聞いたがな」

アーサーが冷たくあしらうと、リアムの表情が険しくなった。

「アレックスは、ちゃんと彼女の様子を見に行ったんですか? 行かなかったのか? どうして! 一人で苦しんでいるかもしれないじゃないか!」

アトリエの空気が凍りついた。他の学生たちが、驚いたように筆を止めてリアムを見る。

リアムは怒りで肩を震わせ、ついにアーサーに向かって声を荒げた。

「あんたもだ、校長! あんたは学生を集めて指導者を名乗っているんだろう! なのに、そんな雑な態度で生徒を思いやらないなんて、許されるはずがない!」

「言葉に気をつけたまえ、リアム」

アーサーは右手の指先の「じりっ」という痛みを堪えながら、低く凄んだ。

「君のその態度は、優等生としての立場を危うくするぞ」

「立場だと?」

リアムは吐き捨てるように笑った。その笑みには、かつての無邪気さは微塵もなかった。

「こんなクソビッチな学校だとは思っていなかった。完全にがっかりだ。絵筆をまともに握ったことがない、美術もアートも齧ったことのない素人のくせに」

アーサーよりも先に、周りの学生たちが凍りついた。何を言われたのかわからなかった。なぜ。なぜわかった。この青年はどこまで知っている?

アーサーが怒鳴り返そうとした瞬間、リアムは手に持っていた木炭を床に叩きつけた。パチン、と乾いた音がアトリエに響く。

「彼女のところへ行く。こんな馬鹿げた授業、やってられない」

リアムはそのまま踵を返し、アーサーの制止を振り切ってアトリエから飛び出していった。

静まり返ったアトリエに、雨音だけが重く響いていた。

アーサーは怒りで血が沸騰するのを感じながら、深呼吸を繰り返した。あの従順だったカモが、自分に牙を剥いた。それも、あの気味の悪い日本人女のために。

苛立ちに任せて、アーサーはリアムが放り出したイーゼルへと歩み寄った。キャンバスを乱暴に片付けてやろうと思ったのだ。だがそのキャンバスの前に立った瞬間、アーサーの足は床に縫い付けられたように動かなくなった。未完成のキャンバスには、木炭の荒々しいタッチで一人の少女の顔が描かれていた。

誰が見てもツムギだとわかるその肖像は、かつてのリアムが描いていたような明るく健康的な人物画ではなかった。圧倒的な深みと、息を呑むような狂気が宿っている。リアムはツムギに出会ってから明らかに、恐ろしいほどのスピードで腕を上げていた。

そして何より、アーサーを金縛りにしたのは、画面の中央でこちらを見つめる、真っ黒な瞳だった。

丹念に描き込まれたその瞳の奥、光が反射するハイライトの部分に、極めて微細な描写で「何か」が描き込まれている。

アーサーは震える顔を近づけた。

間違いない。キャンバスの中のツムギの黒い瞳に映り込んでいるのは、白髪の男——怒りと恐怖に顔を歪めた、アーサー自身の姿だった。

絵画の中の少女が、こちらを静かに観察している。

「ちりちりちりちり」

耳の奥で、再びあの狂ったような耳鳴りが鳴り響いた。右手の指先が、焼けるように熱い。

アーサーは悲鳴を飲み込み、キャンバスの前から逃げ出すように一歩後ずさった。

第七章 秘密の底

冷たい雨が寮の窓を打ちつける音だけが、薄暗い部屋に響いていた。

リアムは息を切らしてツムギの部屋のドアを叩いた。返事はない。マスターキーを管理しているアレックスから鍵を奪い取るようにして借り受け、ぼくは震える手でドアを開けた。

「ツムギ……?」

部屋の中は、息苦しいほどの熱気に満ちていた。

ベッドの上で、ツムギが毛布にくるまり、苦しそうに荒い息を吐いている。ぼくは慌てて駆け寄り、彼女の額に手を当てた。火のように熱い。

「ひどい熱じゃないか……アレックスのビッチ」

ぼくは急いで氷水を作り、タオルを絞って彼女の額に乗せた。ツムギはうわ言のように小さく何かを呟き、苦しげに眉をひそめている。その華奢な体が熱に浮かされて小刻みに震えるのを見ていると、ぼくの胸は引き裂かれそうになった。

看病をしながら、ぼくはふと、部屋の隅に置かれた大きなトランクと、机の上に広げられたままになっているスケッチブックに目を留めた。

普段、ツムギは自分の部屋に人を入れなかった。ぼくでさえ、この部屋に入るのは初めてだ。

コップの水を替えようと机に近づいたぼくは、そこに無造作に積み上げられている「素材」を見て、足を止めた。

古い、戦時中と思われるセピア色の新聞紙の束。端が黒く炭化した、子ども用の小さな靴の片方。

そして、高熱で溶けたようにねじ曲がった数枚のガラス片。

「なんだ、これ……」

ぼくは息を呑んだ。それは、美術の課題で使うような一般的な素材ではない。何か、もっと重く、生々しい「歴史の遺物」のような禍々しさを放っていた。

スケッチブックのページが、少し開いている。

見てはいけないとわかっていながら、引き寄せられるようにそのページを開いた。そこに描かれていたのは、鉛筆と木炭による緻密なエスキースだった。

どす黒い泥のような海に、溶けたガラスと炭化した靴が配置された構図。余白には、日本語で何か細かなメモが書き込まれている。

ぼくの背筋を、冷たいものが駆け上がった。ぼくはアートを学ぶ学生として、最近街の中心にある現代美術館で開催されている「灰の時代」という企画展の図録を立ち読みしたことがあった。

あの展示の中で、最も異彩を放ち、見る者を圧倒していた正体不明の日本人アーティストの連作。


タイトルはたしか、『熱線の記憶』と『灰の記憶』。


「まさか……」

ぼくは震える手で、スケッチブックのさらに前のページをめくった。

そこには、キャンバスに焼け焦げた新聞紙をコラージュし、中央に古い白黒写真を配置するための、緻密な計算とデッサンが残されていた。

間違いない。あの現代美術館の壁に掛けられ、世界中のキュレーターたちを震撼させている「被爆三世の匿名アーティスト」の作品は、すべてこのスケッチブックから生まれているのだ。

ツムギが、あの画家だった。


「……リアム?」

かすれた声に振り返ると、ツムギが薄く目を開けてこちらを見つめていた。彼女の視線が、ぼくの手にあるスケッチブックへと向かう。

「ごめん」

ぼくは慌ててスケッチブックを置いた。

「勝手に見るつもりはなかったんだ。水を取り替えようと思って……でも、これは」

ツムギはゆっくりと身を起こし、壁に背中を預けた。額のタオルが落ちる。彼女は怒るわけでもなく、ただひどく疲れたような、諦めを含んだ瞳でぼくを見つめ返した。

「お願い、何も言わないで。あなたの考えていることはわかった。それは正しいことも。でも何も言わないでほしいの。わたしはふつうの学生として、楽しく過ごしたかったからここに来た…」

ツムギは涙を流した。熱っぽい顔に、熱い涙をいくつもいくつも落としていく。ぼくは彼女を泣かせてしまった。

気がついていた。ツムギが普通の子どもじゃないってことくらい。

アーサーがおそらく絵画やアートのことを何も知らないと言い当てたのもツムギだった。それまでぼくは気が付かなかった。絵筆の持ち方の癖や、彼の指摘の筋の通らなさ、彼の手に、絵筆を長年持ち続けてきた人間特有の形跡がまったく見られないこと。

アレックスを兄のように、アーサーを祖父のように慕っていたぼくが見逃していたものを、ツムギはたった数日で見抜いたんだ。

そしてそれは、彼女が夢見たきらきらのアカデミー学生生活を地に突き落としてしまったんだろう。

アートを愛する人たちと、ただアートの話を無垢にしたかった。ツムギのその願いを叶えるためには、この場所はきっとおままごと過ぎた。そしてぼくはそのおままごとですら、必死にならないと手に入れることができなかった。

ツムギは、いまアメリカで最も大きな美術館のひとつで取り上げられている、最も注目するべき画家の一人だ。本名を隠してまで制作した日本の戦争の歴史に、彼女の想いは、彼女や彼女が生まれた歴史はどれぐらい関わっているんだろう。

ぼくはどうすれば、ツムギの居心地のよい学校生活を守ってあげられるだろうか。いま目の前で大粒の涙を流し、高熱を出しているひとりの日本人の女の子のために。

間違っているかもしれないけれど。

「ツムギ、なにか欲しいものはある?もちろん元気になったら、おいしいディナーを一緒に食べよう。この前気に入っていたブリスケットなんていいかもね!でもいまは?飲み物か身の回りのもので何か必要なものはあるかい?窓は開けておく?エアコンはどうする?」

ぼくにできる精一杯の笑顔で尋ねた。どうか笑ってくれ。

ツムギは少しきょとんとして、こう答えた。

「冷たいバーリーがいいな」

ふっ。了解だ。彼女の国の飲み物、バーリーティー。いま持ってくるよ。

ツムギはきっと、今日も冷蔵庫に水出しのバーリーティーをストックしてあるはず。まずはあれを、彼女のお気に入りのグラスに入れて渡そう。氷は4つ。今日やストローが必要かもしれないから持っていこう。

そして今日じゃなく、いつか適切なときに、きちんと彼女に伝えよう。

「きみが誰であっても、どんな過去を持っていても、きみはぼくのベストフレンドのツムギだ。あの絵を描いたのがきみだと知って、ぼくはきみのことをとっても誇りに思う」

と。

その頃、校長室のアーサーが右手の幻痛に苛立ち、ツムギとリアムを破滅させるための書類を作成し終えていることなど、二人はまだ知る由もなかった。

第八章 沈黙の請求

アーサー・ペンドルトンは、苛立ちと焦燥の中で郵便物の束を弾いた。

ツムギの日本の実家、彼女の身元引受人として書類に記載されていた両親に、例の「清掃・修繕費」と「特別指導料」という二種類の架空請求書を送りつけてから、すでに三週間が経過していた。しかし待てど暮らせど返事はない。小切手が送られてこないばかりか、抗議の電話やメールの一本すら入らないのだ。

アーサーは戸惑っていた。彼のこれまでの経験上、日本人の親というものは異常なほど過保護で献身的であり、遠い異国で暮らす我が子のトラブルには即座に、しかも多額の金銭を伴って対応してくるものだった。メールも書面も確実に届いているはずだ。では、なぜ完全に無視されているのか。

貧乏人が、金額に怯えて逃げたか?

アーサーはそう思おうとしたが、現実はそれを許さなかった。

実家からの返信がない一方で、ツムギの元には相変わらず、出所不明の高価な荷物が届き続けていたからだ。アレックスの報告によれば、最近では上質な画材のセットや、高名な画廊からの招待状らしき封筒まで紛れ込んでいるという。

彼女が自分で買っているのか、それとも誰か、正体不明のパトロン、から送られているのか。アーサーには全く見当がつかなかった。

アーサーはアトリエでのツムギの様子を以前にも増して注意深く観察するようになった。この娘は、両親から何かを聞かされていて、学校側の不正に気付いているのではないか。その底知れぬ静けさの裏で、自分を嘲笑っているのではないか。

しかし彼女を観察すればするほど、アーサーの精神は確実に摩耗していった。


ツムギがキャンバスに向かい、木炭や絵筆を走らせている姿を目の当たりにするだけで、アーサーの脳裏にあの現代美術館での『熱線の記憶』がフラッシュバックするようになったのだ。

彼女の描く線は、静かでありながら圧倒的な暴力を内包していた。

アーサーが彼女の作品の前に立つと、視界がぐにゃりと歪み、絵の中に引きずり込まれるような錯覚に襲われる。耳の奥で鳴る「ちりちり」という耳鳴りが爆音に変わり、焼け焦げた新聞紙と血の匂いが鼻腔を埋め尽くす。

右手の指先の「じりっ」という幻痛が燃え上がり、アーサーは自分自身に責め立てられるような声無き糾弾を浴びて、激しい頭痛と、立っていられないほどの膝の震えに襲われるのだ。

アーサーは、アトリエの壁に手をついて喘ぎながら、朦朧とする意識の中で葛藤していた。

この圧倒的なファンタジーは、強者であった自分をどこまでも暗い深淵へと引きずり込むための、悪意に満ちた呪いなのだろうか。それともここまで芸術を冒涜し、道を外してしまった自分を、無理やりにでも「正しい、光の当たる世界」へと引き戻そうとする幻想なのだろうか。

アーサーにはわからなかった。ただ一つ確かなのは、彼が築き上げた傲慢な城壁は、もはやツムギという一人の少女の存在によって、完全に崩壊しつつあるということだった。

第九章 反撃の計画

最近、ツムギの様子がおかしかった。

彼女はいつも静かだったけれど、その「静けさ」の色が明らかに違っていた。何か重くて苦しいものを無理やりに飲み込もうとしているような、そんな痛切な顔をしていた。何を聞いてもはぐらかされた。相手の様子を伺うタイプのあの微笑みで。

ラウンジの隅で彼女がついに見せてくれたのはアーサーのサインが入った、学校からの請求書だった。

アトリエの特殊清掃費、そして架空のコンペティションへの特別指導料。合計すると、目が飛び出るような金額だ。

ツムギは入学書類に両親の連絡先を正確に記載していたが、実際のところ、このアメリカでの学費や生活費はすべて、彼女自身が「画家」として稼いだ収入で賄っていた。だから、両親から

「学校からこんな請求が来ているけれど」

と確認の連絡が入った時、彼女は身に覚えのないその内容を見て、はっきりと確信してしまったのだ。

アーサー・ペンドルトンという男が、純粋に金銭を搾取するためだけに、このアカデミーを運営しているという事実に。

「清掃費だって? ばかげてる」

ぼくは怒りで声が震えるのを止められなかった。

「きみが熱を出した時、ぼくはきみの部屋に入った。絵の具の汚れなんて一切なかったって、ぼくが証言できる! あの男は、きみのご両親を騙して金を巻き上げようとしてるんだ!」

ぼくは、ツムギの涙を拭いながら、静かに、けれど確固たる決意を固めた。

「ぼくたちは計画を立てよう。まず今年のクリスマス休暇、全員でニューヨークへ行く。みんなでMoMAに行って、ツムギの作品のコーナーをみんなで見るんだ。きっとみんな気にいる。そのあとに、きみがそのアーティストだってことをみんなに明かすんだ。それと同時に、きみのきれいな部屋の様子を収めた写真を見せて、アーサーの両親への不当な請求書のことも全員に知らせる」

ツムギは少し驚いたようにぼくを見た。

「きみが誰であっても、どんな過去を持っていても、きみはぼくのベストフレンドのツムギだ。あの絵を描いたのがきみだと知って、ぼくはきみのことをとっても誇りに思う」

ぼくの言葉に、時間をかけて目を見開いたあとに。ツムギは小さく笑った。その笑顔は、冬の光のように静かで、力強かった。

第十章 ニューヨークの夢

クリスマス休暇を利用したニューヨークへの小旅行は、学生たちにとって夢のように浮ついた時間だった。摩天楼の合間を縫うように冷たい風が吹き抜け、クリスマスツリーの明かりが雪を反射して白く輝いている。

集合場所の駐車場では、学生たちが上気した顔で楽しげに談笑していた。アレックスは眠たげに欠伸を噛み殺しながら、運転席でエンジンをかける。アーサーはといえば、ニューヨークへの同行を早々に断り、自室で右手の幻痛に震えながら、リアムたちが自分を裏切る夢ばかりを見ていた。

ニューヨークに到着すると、学生たちは自由行動へと散っていった。 ツムギとリアムは、人混みを避けるようにして足を進めていく。少し不思議に思ったアレックスはあとをつけた。
ツムギとリアムは少し外れた場所にある静かなアジアフードのレストランで食事を摂った。クリスマスの二人きりのランチ。

その後、二人は観光客が足を向けるタイムズスクエアの喧騒から逃れ、生活感の漂うウォルマートへと向かった。

広大なウォルマートの店内は、クリスマスの買い出しを楽しむ家族連れで溢れかえっていた。 リアムは銀色に光る大きなカートを両手で押し、ツムギは右手をリアムの左手の内側に置き、カートを押すのを手伝いながら歩いた。左手には買い物メモの入ったスマートフォンが握られている。周囲を多くの買い物客に囲まれているというのに、二人の間にはまるで誰にも侵せない透明な結界があるかのように、世界がふたりきりで完結していた。

彼らは、観光客が買うような出来合いのスイーツや土産物には目もくれず、丁寧に調味料や食材を選び、カゴへと入れていった。その様子はこれまでアレックスが見たどの美術作品よりも美しい景色だった。

彼はしばらく見惚れたのちに、首を振り、父への土産を考える。ニューヨークに行くつか、気に入っている上質な酒場を知っている。その場のフィンガーフードは、ここで探していこう。アメリカで生まれ育った自分は、ウォルマートの安価だけれど良質な商品を知っている。

極東からやってきた、調味料と野菜を買い集める若者たちとは違って。

第十一章 悪夢の証明

その夜、宿泊先のホテルで、アーサーは逃げ場のない悪夢の中にいた。

夢の中では、ツムギの両親から届いたはずの返信が、アーサーのデスクの上で山積みになっていた。無口な女子学生は何も知らないフリをしながら、ずっとこの校長に不信感を募らせていたのだ。彼女が世界を震撼させる匿名アーティストだと知ったのは、リアムだった。二人は周到に計画を立て、全員で訪れたMoMAの展示室で、真実を公表する。

夢の中で、あの日本人の匿名作家が実はツムギだと、全員に知れ渡ってしまう。その事実を突きつけられた時、リアムがツムギの部屋に特殊な清掃が必要な汚れなど一つもないことを証明し、同時にアーサーが絵画の知識もノウハウもない、ただの詐欺師であることが露呈する。

金に目が眩み、必死に必死に築き上げてきたこの時間を、すべて取り壊されてしまう。孫のように可愛がっていたリアムと、その隣にいる東洋人の世界的アーティストの手によって。

「ああっ……!」

アーサーは、激しい動悸とともに飛び起きた。 胸の動悸は、いつまでたっても止まらなかった。

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