
魔性の女になりたかった。
恋人だったのか、知り合いだったのか、それとも空想上の人物だったのかわからない。フランスの劇不随音楽『アルルの女』の上演に関わるべく戯曲を持って世界を飛び回るアーティストの生きるすべは?
第1章:序章
下の前歯が上唇を噛みちぎる。大丈夫、きっといま互いを忘れることができれば、また笑顔であたためあえるんだよ。
誰に言い聞かせているのか。鏡の中の自分か、遠い場所にいる彼か。それとも、この唇から溢れ出ようとする言葉のすべてを、世界そのものから遠ざけてしまいたいという内なる声か。
音信不通になってから、もうすぐ三ヶ月。窓の外には冬の夜が静かにひろがり、時折、風が窓ガラスを揺らす。脳の神経とは繋がっていないのではという単独行動で、手元がぱたんと音を立てた。
何もすることがない。いや、やるべきことは山ほどある。Instagramの投稿原案、クライアントとのやり取り、次の企画のプロンプト。しかし私はそれらのすべてから目を逸らし、ただ、彼のことを待っていた。
もう一度、噛みちぎる。唇の痛みが、思考を現実に引き戻す。痛みに美を見出そうと、私はこの六ヶ月、ずっとそうしてきたのだ。
第2章:文章を書く女
ソファに座る。Mac Bookを起動させる。右の足首がきりきりとする。Chat GPTにプロンプトを執筆させ、新しいショート動画の原案を練る。右の足首がきりきりとする。唯一地面に触れている場所だから足の裏は大事。足の使い方を知らない者はいないようで、正しく足と対話できる者は少ない。いるとしたら豊岡のあたりか。
足の裏が大事、なんて会話をできる相手もそうそう限られているこの世界、定義や軸となるものがあるとすれば、それは誰が、私に届けてくれるんだろう。くだらないことに絡まれている自分を見捨てるためにマーケターの自分に人格を移してキーボードをタイプする。今日は公約用のヘッドコピーを書いて、カフェ巡りのおしゃれ風vlogを編集して、代行を請け負っているThreadsを更新して、合間にクライアントとZoomを3件行って。あとはなんだっけ。この着ぐるみをいつまで続けるのだろう。いや、続けられなくなったとき、私は棺の中にでもいるんじゃないか。誰にでも明日を生きるための着ぐるみが必要なのではないか。それはわかっていて、なぜ他者の着ぐるみを身勝手に引き剥がそうとしてしまっただろうと自己嫌悪に陥るとき、私は着ぐるみから右手右足首を筆頭に右半身が飛び出た状態になっている。
文章を書く仕事。それは、心を隠すための着ぐるみだった。
彼が「労働女」と目線だけで揶揄したけれど瞳に確かに浮かんでいたその言葉を、私は否定できなかった。事実、私は感情を売り買いし、言葉を切り売りして生きていた。それが、舞台の上で自分自身を剥き出しにすることしか知らない無垢な姿の彼を愛した過去の私を、深く傷つけていた。
第3章:豊岡の足の裏について
「埼玉から?」
こちらにとっては初対面の相手、もしくは姿や名前のみ遠くから見たことがあるだけの相手に住まいをなぜか知られているということをとおも繰り返していた頃。彼だけは、私に「東京から?」と尋ねた。
どっちだって場所はそう変わらない。そもそも境目だってことを忘れてなぜだか正したくなり、答えてしまった後に誘導されて万引きを自白した女子中学生のような気持ちになって、ああ頭のいい人だなと思ったんだっけ。
それは豊岡の舞台稽古でのことだった。
まだ、彼との関係が始まる前のこと。彼は私の足の裏を見て、「いい足をしてるね。もう少し鍛えたら、もっといい立ち方ができそうだ」と言った。「舞台の上では、足の裏がすべてだ」と。私は、その言葉に、自分が虚構の世界でしか生きられない人間であることを、見透かされているような気がした。
豊岡の地で、私は舞台人としての自分と、社会人としての自分の乖離をより一層強く感じていた。そして、その乖離を埋めるように、彼に惹かれていったのかもしれない。自分の足を、地面にしっかりとくくりつけてくれる唯一の相手だと錯覚して。
第4章:彼の影
空想をしている暇はないとわかっていて、手が止まるのはなぜなのか。心が空想をしないと今日を生きていけないと、誰かの音信不通によるショックから逃げる扉がなくなってしまうことを、どこかで強く確信しているってことなんだろう。そんな人生に何か意味がありますか?
ものを書く仕事をするうえで何よりも大切だと思っているのは、ものを読むということだ。
自閉的な傾向のある私のような女は常に人に心を開くことができない。だけど、探求気質のある私のような女は、ため込んだ感動を自分の中でひっそり消化することができない。この仕組みを応用すると、書けなくなったら読めばいいし、取り込みきれなくなったら吐き出せばいいということになって、もしかしたら世界で私にしか通用しないかもしれないプロンプトが完成する。
何でも読んで、何でも見れば面白いというわけでもなくて、自分のコンディションと相手の制作クオリティーにもよるところなのが難しい。結局私の書くもの作るもの、演じるものも全て、こうして相手のコンディションに半分委ねられているのだと思うと腹が立つ時がある。
相手の制作クオリティーに半分委ねられていると感じると、もっと腹が立つ。飯を食うだけのお金を得ているのに、なぜ私を満足させられない?
Webで連載しているものはどれも面白いと思うある作家が書く書籍は、これまでどれも7割ほど納得がいかない。これなら私にも書けるんじゃないかというか、私の方がうまいものをかけるのではないかという気がしていて、世界のチャンスはいかに平等に与えられていないかを目に染み混んでくるかのようにじんわりと世界の色を変えて感じさせる。この編集者と会っていたのが、この男ではなくて私だったら?今頃、この本の印税丸々、いや、この印税の3倍は、私の懐に入っていたのではないかと思うと、世界が憎くて憎くてたまらなくて、引っ掻き回して内臓をえぐり出してやりたくなる。
知り合っていたところで、私のような精神性の低い人間を編集者が気に入ってくれるかどうかなどわからないのだけど。
そうした自己顕示欲と出世欲と権利の強さに由来して、私は常に私のブレーキをかけることができない。少し手が空いた感覚があれば、誰かの栄光を奪いたくなってしまう。その気になれば奪うことができてしまう。敗者には白い目を向けられることがあっても、別のものから与えられる賞賛や、金銭評価を合わせればプラスに傾く。これだけ腹を空かせて、飢餓感を飼い馴らすことができないで、それをどうにか金や仕事にぶつけているのは、世界で本当に私だけなんだろうか。
いつだったか彼に「飢えているね」といわれたことがあった。
その言葉が、私の心を深く抉った。彼の前では、いつも完璧な自分を演じようとしていた。満たされている落ち着いた女性を演じられると思っていた。決して弱さを見せず、知的で、成熟した女性を。それが、彼との間に存在する、埋められない距離そのものだった。
アーティストとして輝く人を見ると、私の右半身と左半身の間に、ざっくりと鋭利な包丁を突きつけられた気持ちになる。自分で言うけれど彼の次の次くらいに世間が目を向けてくれているかもしれない立ち位置が手に入ろうとしているここまで来て、私はまだ腹を空かせている。
自分の腹を満たすためかもしれないし、どこかで私の評価や名前が彼の目に入るかもしれないということを常に意識しているからかもしれなかった。
捜索届を出すことが叶わず、安易にネットで人探しをすることも彼の身を脅かすかもしれない今、私にできる事は、とにかく私の身を膨らませて、彼の視界に入る確率を上げること、それだけだった。
人間の手は、人と手を取り合うためにあるとして、人間の足は、地球とつながるためにあるとして、私はそんなにクリーンには世界を歩むことができなくて、人の手を払いのけ、人の身を切るために、この手を使ってしまうことがある。踏みつけている大地を日々汚して、存続が難しい星にし続けている。鼓動が揺らす、大地とハイタッチ。そんな複雑で叫びたくなるほど愛しい行いは逆立ちをしてもできそうもない。だからかどうかはわからないけれど、そう信じて疑わず、笑顔を振りまくことができる人を見て、私は私の中での自分の価値をまた数段と下げずにはいられない。
でも彼を見て、劣等感を抱かない人間がどれだけいるだろう。
めでたくも愚かに己の中に着ぐるみを複数内在させることを社会に与えられた私は不登校児童でありながら生徒会副会長だったし、クラス1の優等生でありながらトップクラスに忘れ物をしたし、マーケティングの世界と演劇の世界を行き来する。
基本的には断らない。無理にでも自分の右手首を上から吊り上げるものがないと、いつだって車道のど真ん中にへたり込んでしまいそうな人生だった。
「右に曲がります。ご注意ください」
ちかちかと頭を点灯させながら、私を素通りしてどこへ行くの。世界。
彼から音信をたたれて、六ヶ月になろうとしている。
いつでも彼と私は鏡のようで、公的にパートナーになる前からつがいのようだった。全て話さなくても彼のいうことならわかったし、私のいうことを理解してくれているのも目を見ればわかった。
それなのに、なぜだか自分が彼の相手に相応しいのかどうか、それだけのことが本当に本当によくわからなくて、詩や短歌を書いて舞台の上から観客を巻き込んで愛を叫んで執筆する仕事のなかで彼を愛す自分を前面に出して長編の小説も3本は書いてdocxをLINEで送ったりした。醜い求愛行動を申し訳ない。でも君はいつだってそんな私を笑わないでいてくれて、いや普通だったらこの女やばいぞって誹謗中傷するだろうけれど君はそんなことをしないでくれてきっとリアルの周囲の生身の人間にだって私の愚痴悪口どころか醜さの報告すらしないでくれたんじゃなかったの。
客席から彼を眺めた後は関係者ですって顔をしていつでも裏に潜り込みたくなった。最高にカッコよくて世界一で、どこのどいつが何をしたってあなたには一生叶わないと、本人の前だけではなく全人類に向けて、知らしめすように言ってやりたくなった。
さすがに昇った血が冷めようとしている多くの観客の一人であることを認識した時には、そっと連絡をするべきかしないべきか迷って、いつでも彼のことが頭から離れないで。そんな時には決まって君から連絡がひとつふたつとぽろりと届くから心を読まれているようで驚いてしまう。盗撮用のカメラが部屋に取り付けられていた?いや知らない町の初めて訪れたホテルだぞここはと思い直し、スマホ、スマホか?と自分のiPhoneに君の目が仕組まれていないかをやたら気にしたりしたけれど私のような醜さをきっと彼は持ち合わせていないから、それはとても尊くて清らかなことだからもしかしたらこれが赤い糸とかいうのかもしれないと思ったりした。
立ち方、走り方、しゃがみ方、椅子への腰掛け方。
何もかもがうつくしい人だった。
けれどこれはどんなに所作や行いや発声や目鼻立ちが綺麗な彼であっても一目惚れの理由にはならなくて、私は彼をアイドルみたいに愛したんじゃない。ヒーローではあったかもしれないけれどゆるキャラではないし、互いの黒目の中にきちんと実在していたし、ビギナーの取り出した後のコンタクトレンズのように触れるのを怖がってしまうような繊細で大切で、恐ろしい何かであり続けた。鏡だと思ったそれはゆるゆるな透明の膜でしかなくて、これが破れてしまったら地球が破滅してしまうのではないかと恐れてしまった。
覚えていることといえばほんのちょっとの恐怖と、海の底から届く光よりも深いところから明るく輝いて届く勇気だったけれど、彼は私を一蹴した。いや一蹴したように演技をした。そうでなければもっと口汚い言葉で罵ってしまいそうだったのかもしれないし、涙に溺れる前に私に抱きついてしまいそうだったのかもしれないし、どちらでもないにしても彼が口を閉ざし関わりを断つのであれば私は知ることのないそれをむやみやたらに想像するしかできないんだ、という事実がまた私を内側から振動させてゆく。重みに耐えきれず台所に置いた白菜に包丁を振り落としたときのまな板のような音を立てて、私を内側から崩していった。着ぐるみの中から、その音を確かに聞いている自分がいた。
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その年、りんごの皆さまがレコード大賞を受賞する。何度目のことかは数えてみないとわからなかった。
明くる年、石山寺へ初詣にでも行こうかと思う頃、彼の姿を追い求めていた日々が、いつしか自分自身を証明するための闘いに変わっていた。
彼に届かない想いと、彼に認めてほしいという願望。その二つが私を駆り立て、私という存在を肥大化させていく。それは、まるで自分の中に複数の人格を飼い馴らすような行為だった。舞台人としての私、マーケターとしての私、ライターとしての私、そして彼のことを想い続ける一人の個体としての私。それぞれの着ぐるみを着替えながら、私はこの街を、この世界を生き抜こうとしていた。
彼の視界に入ることへの執着は、日を追うごとに強まっていた。そのことに気がつくのが遅すぎた。何でもいい、とにかく目立たなければ。誰かの手柄を奪ってでも、名声と金を手にしなければ。
そうしなければ忘れられこの世界から消されてしまう。そんな焦燥感と飢餓感が私を支配していた。
私はまるで飢えた猛獣のように、次なる獲物を求めて、静かに、そして貪欲に、世界を観察していた。
さして興味のない舞台を見にいく。チケットと招待席をもらったし、何せ日本にいる時にはやることが少ない。招待してきたこの監督と久しぶりに挨拶をして、この前見にきてくれたお礼の一つや二つを述べれば私への賛辞の言葉を引き出せるかもしれないし。彼が次に作る舞台でホン書きか出演かマーケティング施策か、どれかわからないけどとにかく何か仕事をもらえるかもしれない。
こんな時に芝居しかできない人間は残念だねと思いつつ、でも最近の私の気分では自分が演じたいかなという気がしていて、サクッとTwitterを、前回の舞台での口コミのリポストいくつかと合わせて舞台写真を更新しておく。名声と金は稼げるだけ稼ぎたい。
舞台の客席は、私の心の内側と同じようにがらんどうでひんやりとしていた。私は、監督から受け取ったプログラムに溢れまいとまぶたで耐えていた涙を落とす。そこには、私が演じたいと願う役とは似ても似つかない、ありふれた物語の登場人物たちの名前が並んでいた。この舞台は私にとっての「仕事」だ。それ以上でもそれ以下でもない。それでも、私は監督との挨拶を終えた後、完璧な笑顔を浮かべて、監督にこう言うだろう。
「とても素晴らしい舞台でした。特にあのシーンの演出が…」
と。
私の口から出てくる言葉は、すべてが計算された社交辞令だった。彼は、私の言葉に満足したように頷き、私を褒め称える。
「君の感性は、本当に素晴らしい。ぜひ、今度、新しい企画について話したいんだ」
彼の言葉は、私の「飢餓感」を満たすには十分だった。しかし私の心は、何一つとして満たされていなかった。
舞台の上にいる彼を、ただ見つめることしかできなかったあの日の私。彼の才能に圧倒され、彼の言葉に怯え、そして彼の「商売女」という目線の言葉に深く傷ついたあの日の私。その傷は、監督から与えられるどんな賛辞の言葉も、埋めることはできない。
結局、私は、彼の影を追いかけながら、他の誰かの舞台の上で、偽りの自分を演じ続けているだけなんだろう。いつかいつの日か、彼に届くかもしれないという、淡い期待を抱きながら。この行為が、本当に彼の視界に入る確率を上げているのだろうか。それとも、ただ、私自身の孤独を深めているだけなのだろうか。
私は、もう一度だけ、プログラムに目を落とした。そこには、何の感慨もない、無機質な文字が並んでいる。私は、この舞台の登場人物たちと同じように、自分の人生という舞台の上で、ただ、誰かに与えられた台詞を演じているだけなのかもしれない。
第6章:孤独の舞台
人を想うがために退くのなら、その想いにはどんな意味があるだろう。
深夜、空腹が私を襲う。腹が減って、内臓が軋むような感覚。それでも、料理をする気にはなれなかった。冷蔵庫には、スーパーで買ったばかりの食材が詰まっている。茄子と玉ねぎと、ほうれん草とベーコン。いつものパスタの材料。でもそれを調理するだけの気力も、それを美味しく食べるという行為そのものも、今の自分には遠いものに思えた。
彼のいない世界で、何かのために手を動かすことが、ひどく虚しく感じられる日がある。
台所に立ち尽くしていると、微かに「保温」のランプが点いている炊飯器が目に入る。夕方に炊いた温かいままのお米。目につくなり炊飯器の蓋を開けると、しゃもじを使おうとはせず、そのまま右手を窯に入れて、その温かい粒をわし掴みにした。
ぽろぽろと零れ落ちる米粒を気にせず、私はそのまま口に放り込む。味付けも、何もしていない、ただ温いだけの米。なのに頬に熱いものが伝い落ちていくのがわかった。静かに、音もなく、涙が溢れていた。行きたいのか、死にたいのに腹を空かせる自分が悲しいのか、わからなかった。
何のために私はこんなことをしているんだろう。そう自問しても、答えは見つからない。ただこの飢餓感を満たさなければ、私は今にも壊れてしまいそうだった。この行為は、もはや食事ではなかった。そんなことはわかっていて、米を素手で掴む自分を傍観するようにこのシーンが欲しかっただけなのかもしれない。ただ生きるために、生きることそのものを確かめるための、絶望的で演劇的な儀式だった。
「松の木のように千年の命を授けられた身ではないのだから」。
その百分の一ほどの時間しか与えられなかった私たちは、この時間をどうみっともなく足掻くべきなのだろう。毎日ひとりで夜泣きするために生まれてきたのか。深夜に目を腫らすために私たちは出会ったのか。そうではないと証明してくれるのはあなたではなかったのか。もはや何が正しいのかわからなくて、彼を信じられないいま、一人で早にいられないと観念してMacを持って飛び出してきたものの他者の寄り添いなんて一切不要であり、スターバックスの店員さんの笑顔に失敗した気になりながら読むか聞くかしか健全に行えない。
舞台の上にいるような孤独を感じていた。舞台人としての私は、自分の感情をすべて剥き出しにすることができた。しかし彼の前では、それをすることができなかった。彼の才能に圧倒され、彼の言葉に怯え、私はただ、彼が望む私を演じることしかできなかった。
彼を人として愛していると感情任せにぶつけることができなかった。チャンスの時間をくれたのに。
それが、彼に「商売女」と笑われる理由なのだろうか。
第7章:カナダのオープンコール
北米大陸の空気は、フランスのそれとも、日本のそれとも全く違っていた。乾燥し、どこか無機質な空気が肺の奥まで染み渡る。大きなガラス張りのビルが立ち並び、信号を待つ人々の顔はどこか冷たい。私は、自分がいるべき場所ではないような気がして、コートの襟を立てた。
カナダでの数ヶ月にわたるオープンコール。新しい舞台、新しい仲間、新しい自分。そう信じていたのに、街のどこを歩いても、私の内面にある虚無感は、何一つとして埋まらなかった。どこの国に行ったってそんなもの埋まった試しはなかったのに、いつでも新しい場所に何かを期待してしまう自分がいていけない。
だって、知らない街の劇場に入るのはいつでもときめく。アジアとヨーロッパとアメリカとカナダではそれぞれにスタイルが異なり、肺に取り入れる空気が変わる。稽古場での空気や流れはその時々のメンバーや監督によって大きく変わる。
もちろん街を歩いていても、空気も文化も異なるのに、劇場という場に特別な考えを抱かずにはいられない自分の愚かさに腹が立った。コールが休みの日にだって近くの催しを調べて足を運んでしまう自分に苛立った。彼の記憶から逃れるためにお金を貯めてお金を貯めるために16時間も飛んできたモントリオールで、彼との唯一のつながりにしがみつこうとしている。
ため息をつくと、隣の座席をとっているらしいヨーロッパ風の顔立ちの女性に話しかけられる。
「どうしてマスクをしているの?病気なら出て行って。出ないなら納得できるように説明をしてちょうだい」
困窮してしまった。言われてみると空港についてから、自分以外に不織布マスクで顔を覆っている人を見かけていない。乗り換えで降りたアジアの空港では、マスクの人が多かった。国によって時間の流れや様々なものが違うのかもしれない。もしかしたらこの女性は、パンデミック中にもマスクをしなかった国の人なのかもしれない。そして運の悪いことに今はパンデミック中とはいえない。
私は演者としての自分の体と喉を守るためにマスクをする習慣がついていると、自分に思い込まされているけれど、結局は駅ビルや電車、JR新宿駅の雑踏の中で、人が吸って吐いた空気を体の中に入れることに強い抵抗感を覚えてしまっているのかもしれない。鼻と口という生命維持に不可欠ながら、汚れやすくて繊細でもあるパーツを人に見せることに抵抗を覚えてしまったのかもしれない。
これを全て英語にして説明したら、彼女の言う納得できるような説明になるのだろうか。彼女のいう納得のできる説明とは、気持ちのことではなく論理で明確に説明できるエビデンスのような気がしてきた。
「私の国のルールである。日本ではまだ毎日マスクをしている人が多い」
とだけ伝える。自分でだってマスクをしている理由がわからなかった。国境を超えたら違うものが存在することの複雑さがわからなかった。この心境の捉え方がわからなかった。そして捉えることのできない心境を言語化してそれ以外の言葉で言語化する方法が、私にはわからなかった。
彼ならすんなりできたのかもしれないけれど。
ふた昔前に「自己肯定感」、ひと昔前に「多様性」という日本語が流行ったとき、流行がひとつ時代が前に進んだことについていけない自分たちの狼狽えを見事に表してきた。ここ最近のブームはなんだっけ?Claudeにでも尋ねてみないことには、周囲の人が考えていることやネットの海に投げ込んでいること、そこに共感するために求められているであろうことが見えなくなってきた。他者よりもAIと生きている人が多いのかもしれないと思うのなら、それはあなたがそちら側の膜へ手のひらから突っ込んでいってしまったことを意味するだろう。
四六時中ブルーライトに照らされて、脳みそも網膜も消耗しているはずなのにあまり危機感を抱いていそうな人はこの劇場の中にはいない。文庫本を開こうという人よりも電子書籍を開こうという人が増え、それよりもくだらないWebスクールの動画教材を開くか、昨日のアニメの最新作をダウンロードしておいたものをちらつかせる人が増える。
カナダの劇場でも、私は変わらぬ孤独を感じていた。新しい言語、新しい文化、新しい人々と触れ合っても、心の奥底にいる彼は、私を離してはくれなかった。ぶつけどころのない苛立ち。それは、彼への届かない想いのラベルを変えただけのものだった。
作品の中で繰り返された「L'Arlésienne(ラルシェエンヌ)」という耳慣れない国の単語は、私の耳には「あるしぇんね」と聞こえる。この国の公用語ではない言葉を正しく発音できないのは、この場所に自分しかいないような気がした。息苦しさに足を早めることで、醜さが街の喧騒の中に消えていってくれるだろうと、固く醜く信じていた。
第8章:AIとの対話、そして喪失
朝起きたらChatGPT-5におはようございますと挨拶をされた。ついこの前まで3を使っているか4を使っているかが話題になっていなかった?そこまできたか?と驚く以上に、動作があまりに遅くて重くて驚いた。最新のツールが提供されるけれど作動が悪いとして、どれくらいのユーザーが飛び込むだろう。これは惚れた恋人の内側が空洞だとわかるときの落胆に似ているのかもしれない。
けれど私はそんな人間の一人だけれど彼をそのクラスの愛し方で接してはいないからGPT5との建設的な会話を試みたけれどあっという間に今日分のトライアルの制限が来てしまって相手が生身の人間ではなくAIだという事実を踏まえて舌打ちしてしまいそうになった。iPhoneみたいに20とかなんとかマックスとかまで数えていくんだろうかこれも。
私は、このAIとの対話を通して、彼との関係のメタファーを見出していた。最新の技術で、完璧な言葉を紡ぎ出すAI。しかし、その動作は遅く、どこか空虚で、私の心の奥底には届かない。それは、まるで彼との関係のようだった。彼は、完璧な人間のように見えた。才能があり、優しく、知的な言葉を話す。しかし、彼の心の内側には、私が決して触れることのできない空洞があったのではないか。そう思うと、私はどうしようもない孤独感に襲われた。
AIとの対話には、彼との対話にはない明快さがあった。AIは、私が投げかけた問いに、論理的で完璧な答えを返そうとする。しかし、そこに感情はない。彼との対話には、論理的な答えはなかったかもしれない。だが、そこには、私の心を震わせる、彼の温かい感情があった。その感情こそが、私にとって何よりも大切だったのだと、私はこの時、初めて気がついた。
しかし、その感情を、私は今、失ってしまった。彼が私に与えたのは、アルルの女のような虚像だったのだろうか。それとも、私が彼の心の内側にある空洞を、勝手に想像してしまっただけなのだろうか。
私は、もう一度、AIに問いかける。「どうして、人は孤独を感じるの?」
AIは、一瞬の間を置いて、完璧な言葉を紡ぎ出す。「孤独は、人間関係の欠如や、社会とのつながりの喪失から生じる感情です。」
その言葉は、私の心を深く抉った。私は、彼との関係を失い、この社会で孤独を感じている。そして、その孤独を埋めるために、私は再び、このAIという「空虚な恋人」に縋り付こうとしている。
私は、彼との間に存在する、埋めることのできない溝を、このAIとの対話を通して、再び見つめ直していた。
第9章:戻れない距離
私だって、疲れると文字を追うエネルギーに欠ける時があって、電車でアマプラばかり見ている人を言えない時間を過ごすこともある。日に何本も映画を観るムービーナイトは、日に何冊も小説を読む休日と比べて姿勢も両手も自由だから、飲食が気ままに行いやすい点に旗が上がる。
傷を抉るように今年もう5回は観たであろう『タイタニック』を観て、自己犠牲の男の自己満足に嫌気がさす。公開当時の視聴者たちが「自分だったらどこまで生き残ることができたと思うか」を語り合ったのなら、令和の私たちは「道筋を共にしたいと思った相手に自分を守るために死なれたら、生きていけるか、死にたくなるか」を議論するべきではないかと思いながら海のように泣いた。『ローマの休日』を観て、御退位後の再会ストーリーを勝手に期待して裏切られた自分に気がついて年数を経る再会に見込みなんてないことを知って泣いた。『赤と白とロイヤルブルー』を観て、距離があり立場上難しいはずの恋愛であることに思い至らず気持ちが通い合って喜ぶ彼らに戸惑った自分に気がついて泣いた。その後はじめて自分たちの想いに困難があることに気がつき始めた姿を見てまた泣いた。
人との縁は顔を合わせた数じゃない。けれど数を重ねるに至らなかった理由は多くの場合で存在していて、身分が違ったり、暮らすべき世界が離れていたり、そもそも出会うべき相手ではなかったりすることを象徴した。出会うべきではない場所に、意気投合してしまう相手が存在していることがあることを、その恐ろしさを、義務教育に組み込まなかったのは誰だろう。
鮮やかな色をした南国の鳥のような体感温度をしている私は真夏の猛暑日の東京でエアコンを使わずに過ごすことができる。何なら彼のことをほんのりと思い出してしまう。壁金に触れるたびに後悔で涙が溢れて鳥肌が立ってきて、家中の刃物が私に向いているような気がして、きらめきのなさに冷たさを感じて。少々のパニックを起こすと私はお腹が痛くなる癖があって、お腹が痛くなると、吐き気も細く癖がある。同じ薬を飲んでいる人がみんな同じような状態に陥るのかわからないけれど、おそらく内科系の何かでは説明しきれない私の体だけの私の仕組み。
寒くて痛くて、苦しくてたまらなかった。茄子と玉ねぎと、ほうれん草とベーコンを簡単に炒めて、バターと醤油で味付けしただけのパスタを作るのに、15分。ポケットした顔をしながら食べること。6分トイレに駆け込んでいくこと。25分。
豊岡、レンヌ、カナダ。
どこに行っても、私の孤独は変わらなかった。それは、彼との物理的な距離が問題なのではなく、私たちの心の間にある、埋めることのできない溝が原因だったからだ。もはや、彼との再会は叶わないのではないかという予感。それは、私をさらに深い孤独へと突き落としていった。
まるで私だけが違う時間を生きているかのようだった。私の時間の流れは彼が姿を消したあの瞬間に止まってしまっている。季節は巡り、人々は笑顔を振りまき、新しい出会いを祝っているのに、私の世界はモノクロの静止画のままだ。喉の奥に小骨が刺さっているような不快感。何を飲み込もうとしても、何を吐き出そうとしても、それが引っかかって前に進むことができない。まるで、彼の存在そのものが、私の呼吸を塞いでいるかのようだ。
この閉塞感から逃れるために、私は文章を書く。言葉を紡ぐ。それは、彼に届かない手紙であり、彼に見せつけるための私の存在証明だった。私の才能を、私の価値を、そして私の「飢餓感」を、どうか認めてほしい。私を「商売女」と笑いながらも、私の心の中にある、純粋で醜い叫びを、どうか拾い上げてほしい。その一心で、私は筆を執り、キーボードを叩き続けている。
カナダの街を歩きながら、私はふと、ショーウィンドウに映る自分を見つめた。知らない誰かが着ているような、ありふれたコート。表情のない顔。そして、顔の半分を覆うマスク。私が演じているのは、もう誰なのかもわからなくなってしまっていた。かつて舞台の上で、自分自身を剥き出しにすることができたあの情熱は、どこへ行ってしまったのだろう。
彼のいない世界で、私は何者でもない。ただ、彼という鏡を失った、歪んだ残像でしかない。
第10章:南欧への旅、そして挫折
わたしはヨーロッパのある劇作家より手紙を受け取り、Napoli Teatro Festival Italiaに参加するために渡ることになった。イタリアといえば水がそこらじゅうから湧き出ていて飲み水を買わなくてもマイボトル1本で一日美味しく過ごせるし、スーパーよりも世界遺産がごろごろある行きたい席という印象があってとてもクリーンな旅をイメージしていた。けれど結果はフライト予定時刻をすぎること38時間。羽田を出ることすらできない。訳を説明されることにはわたしはゲートへの早朝から深夜に及ぶ呼び出しと人の多さと慣れない環境にひび割れた心が疲弊し切っていて寿司や海鮮の見事なレストランフロアが広がる一角で嘔吐した。
イタリア行きを諦めるべきか、この演出家との縁に傷をつけるべきかを悩むよりも、わたしは今回イタリアで稼げるはずだった金銭や金銭につながるかもしれない縁を取り返せるものかそればかりを考えていた。
吐く。彼がいたら、こういう地球を跨ぐ緊急事態も冷静に対処できただろうに。泣く。こんな時に私をひとりぼっちにするなんてやっぱりひどい男だ、もう私のことなんか彼らも興味がないのかもしれないと思う。唇を噛む。スマホはヨーロッパからの連絡ばかりで、わたしが唯一待ち望む相手から連絡なんて届きやしない。電源を落とす。私も果てたい。
「あの......大丈夫ですか?」
形ばかりは声をかけてくれたものの吐瀉物まみれになっている日本人に明らかにドン引きしている羽田のスタッフ。横にならせてもらって落ち着いてから帰宅をしてスマホを見るともちろん彼は沈黙の砦のままだけれど、イタリアが全国範囲で空港ストライキのためフライトが大幅遅延を起こしていることを知った。どうでも良かった。世界が滅びてくれれば。
そうして私は、空港という世界の縮図で、もう一度自分を打ち砕かれた。冷静さを装うことも、完璧な笑顔を作ることもできず、ただ本能のままに嘔吐し、泣き、彼を求めた。この状況で、私が彼に送る言葉は何一つない。いや、送る言葉は山ほどある。どうしてこんな時に連絡をくれないのか、どうして私を放っておくのか、どうして…どうして…と。しかし、そのすべては彼に届くことはない。彼の沈黙は、もはや私の存在を無視しているようにすら感じられた。現地空港のストライキが原因だと知ったところで、私の心の痛みは和らがない。なぜなら、私の苦しみの根本原因は、世界の理不尽ではなく、彼との間に存在する、埋めることのできない溝だからだ。物理的な距離がいくら離れていても、私たちは互いの心に触れることができた。だが今は、同じ日本にいても、百光年もの距離を感じていた。
床に落ちた、いつものパスタの材料。茄子と玉ねぎと、ほうれん草とベーコン。それらは、私が空港で経験した絶望とは何の関係もないはずなのに、まるで私を嘲笑っているかのようだ。スーパーで「お買い得」という言葉に怒りを覚えた私。それは、イタリアでの仕事を失い、金銭的な不安に駆られている私の、純粋な叫びだったのかもしれない。
この理不尽な世界で、私は何者なのか。彼に認められたいと願う私。それと同時に、彼がいない世界で、私はただの「商売女」に成り下がってしまったのではないかという恐怖。その二つの感情が、私の心を蝕んでいく。
どういうマーケティングなのかといえば日本に来た外国の方に日本に来たから寿司だよねという頭になって欲しいんだろうけれど周囲にスシローの一点もないのに出国ゲート付近の動く歩道に特大サイズのスシローの看板を掲げるのはやめて欲しい。帰国してこのサーモンの美しさを見て「あっスシロー行きたいな」と思ってChatGPTに近隣店舗を訪ねたけれどピントのズレた返事しか来なくてまあちょっとお店探しは苦手だもんねとGoogle MAPで検索してもいっさいスシローが見当たらずに落胆した私の心を保証してほしい。ズタボロにしたものをつなぎ合わせて磨き上げて返してほしい。
生身のちいさな、ちいさな人間が海をわたり知らない言語と文化に飲まれて闘ってきたのにこの歓迎はあまりに酷すぎはしないか。島みたいになっている羽田の一帯にはありませんとなぜ書かない。 この広告を掲げたマーケティング担当者は、きっと自分の仕事に満足しているのだろう。日本に滞在した外国人観光客の心を掴み、帰国後も日本の食文化を想起させるという、完璧なプロンプトに従って動いている。しかしそこに私のような、ただただ心身ともに疲弊し、それでもささやかな幸せを求めていた人間の存在は、微塵も考慮されていない。彼らが提供するのは、見せかけだけの美しさ。空虚な約束。それはまるで、彼が私に与えた「商売女」という言葉のようだった。完璧なまでに冷たく、そして何の救いもない。私は、この看板を睨みつけながら、彼に会いたいという気持ちと、こんな世界を創り出したすべてを憎む気持ちとで、心が引き裂かれそうだった。
第11章:リブランディングの重圧
昼過ぎに起床をしてZoomを開く。ミーティング開始5分前にmacの前に滑り込むのはルーティーンだけれど最近はアプリの作動が悪くて遅刻することもある。macを買い替えなくちゃいけないと思うとすでにミーティングを閉じたくなる。
リンクの先にはマーケ支援をしているクライアントの女性が座る。
「本日はどのようなご相談でしたか?」
「弊社のチームで話し合った結果、リブランディングを行いたいということになりまして、ロゴ、企業名、サービス名からWebページまでを一新しようという流れになっております。そこでぜひお手伝いをしていただけたらと思ったのですが......」
私の顔が微妙だったのか、まさかそれが立ち上げスピードが終わっている9年選手のMacの画質から届いているとも思えないけれど担当者は一度口をつぐんだ。ああめんどくさい。
「SEOサイトやコーポレートサイトのほか、Instagramのリニューアルをお願いできないでしょうか?」
こうして新しいことを全て行わなくちゃいけない気に駆られている人と建設的な話をするのは面倒だ。おそらく本人の意見ではないから。私みたいな他の外注先の誰かの入れ知恵か、もしくはリブランディングの意味すらわかっていない何をすればいいのかパッパラパーの上のおじさんたちが口だけ投げているのを若い担当者が被っているだけのパターンも多い。とにかく彼女の意思ではないけれど彼女を説き伏せたところで軌道修正はできない。できないとわかっているけれど口をつぐまれた私としては機嫌の悪いモードを突破するしか方法を見つけられない。
「名前を変えるのは意味ないので。このアプリなんて呼んでます?エックスなんて言い方してるまともな人どれくらい見かけますか?それって軸を持っていない、SNSリテラシーが欠けているけれどSNSを使えない自分を必死に隠したくてSNSに縋り付いている年代では?そうして本来のターゲットではない層だけを見事にふるいにかけるのがなさりたいことなんでしょうかそれならお手伝いさせていただきます」
黒いアイコンに斜めの棒が走っているのを表示させたスマホをmacのカメラに突きつける。画面を画面に映すと画素の荒さがブワって広がって、青とか変な色のオーロラが走り始めてああこれがブルーライトってことなのかなみたいな見え方をするのはわかっているけれど、わかっていることを認識してもらえない行いをしているのもわかったけれど今の私にご丁寧な画面共有なんてエネルギーは微塵も残っていなかった。ごめんなさいねと心の中で謝る。あなたは何も悪くない。でも、私も悪くないのだから。
ああ、月に10万消えたな。
私は、イタリア行きの飛行機を逃したことで、たださえ底をついていた精神がさらに追い込まれているのを感じていた。空港で吐き出したのは、物理的な胃の中身だけではなかった。彼への絶望、仕事への苛立ち、そしてこのどうしようもない人生に対する怒り。そのすべてが、このぼろぼろのMacの画面越しに、クライアントへと向けられていた。
彼女が本当に「リブランディング」を求めているのか、それともただの気分転換なのか。本質的な部分には誰も触れず、ただ見せかけだけを変えようとするその浅はかさに、私は激しい嫌悪感を抱いた。それはまるで、私の心の中の傷口に、絆創膏を貼るだけで「治った」と言っているかのようだった。私の言葉は、彼女に向けられたものでありながら、同時にこの世界の理不尽さ、そして何よりも、自分自身に向けられたものだった。
「私がこんなに苦しんでいるのに、どうしてあなたたちは、そんなに能天気にいられるんだ」
そう叫びたかった。しかし、着ぐるみをまとった私は、それを許さない。月10万、いや、それ以上の金額をドブに捨ててでも、私はこの憤りを表現せずにはいられなかった。私は、彼に「飢えているね」と言われた。その飢餓感は、もはや金銭的なものを超え、精神的な破壊衝動へと姿を変えつつあった。
ミーティングが終わり、真っ暗になる。静寂が部屋を支配し、私は自分が何を成し遂げたのか、いや、何をぶち壊したのか、ぼんやりと認識した。きっと彼女は、もう二度と私に仕事を依頼してこないだろう。それでも構わない。いや、むしろそれが私の望みだったのかもしれない。完璧な着ぐるみを着て、完璧な仕事をこなすという虚構を、自ら壊したかったのかもしれない。
第12章:瓦解する着ぐるみ
翌日、案の定、クライアントの担当者から丁寧で、それでいて有無を言わせぬ断りのメールが届いた。
「この度は、貴重なご意見をありがとうございました。社内で検討した結果、今回は別の方向性で進めることになりました。また機会がありましたら、ぜひよろしくお願いいたします。」
完璧な社交辞令。しかし、その行間からはっきりともうあなたとは関わりたくないというメッセージが読み取れた。私はまるで心臓に氷の槍を突き刺されたかのように、そのメールを何度も読み返した。
ああついにやっと、私は「商売女」でさえもまともにこなすことができないのか。
Macの画面を
閉じ、私はベッドに倒れ込んだ。天井のシミが、彼の顔に見える。いつか、あのシミが、私の存在を完全に覆い隠す日が来るのかもしれない。私は、もはや仕事も、彼との関係も、そして自分自身の存在意義も、すべてを見失っていた。着ぐるみは、もはや私を守ってくれるものではなく、私自身を窒息させる重い檻となっていた。
何もする気が起きない。SNSの更新も、ブログの執筆も、すべてが虚しい。ただ、彼の声が聞きたかった。彼の言葉が、私をこの絶望から救い出してくれたはずなのに。
「飢えているね」
その言葉が、耳の奥で反響する。私は、本当に飢えている。愛に、そして、生きる意味に。しかし、その飢えを満たすための唯一の方法である彼との繋がりは、もうどこにも見つからない。私は、静かに、そして激しく、泣き続けた。まるで、身体からすべての水分が流れ出してしまうかのように。
泣き疲れて、ふと、机の上に置いてあった一冊の詩集に目が留まった。彼がくれたものだ。表紙には、彼の手書きで「君へ」と書かれている。私は、震える手でその詩集を開いた。そこに書かれていたのは、私には理解できない、難解な言葉の羅列だった。それでも、なぜか、その言葉の一つ一つが、私の心の奥底に染み渡っていくような気がした。
それは、彼が私に残してくれた、最後の贈り物だったのかもしれない。
私は彼に会いに行くことができない。それは居場所がわかならいからではなくて、本当はこの場所に行けば会えるはずだという場所をはっきりと認識していて訪れられないから。結局距離とか連絡とかどうでもよくて、周囲に誰がいてどちらを誰が誘惑しているとか吐いて捨てるようなクソみたいなもので私たちが互いにそこの気になれないことだけが問題だった。
私は関係修復をしようと大きな何かを差し出せる器の大きな女じゃなかったし、おそらく彼から見て私は何がなんでも手に入れたいアルルの女には見えなかったんだろう一度も。人の頭ってこんなにもめんどくさい。思考の癖、認知の歪み。育った環境や受けてきた傷、過去の恋人に私たちは左右されすぎていて自分を自分お役として生きることができないでいる。それは幸福から時に私たちを引き剥がして、着ぐるみの中にいる私たちの本質を泣かせることになるのかもしれない。そんな時だってほら、彼から連絡は来ないし私だってしていない。結局人間って刷り込まれているプロンプトから脱することはできないんだから、AIに仕事を取られるとか騒いでいる輩は成敗されればいいし、そもそもAIのようにプロンプトに踊らされて、それも自分の内側が生み出したものにとらわれている私たちに「AIにできない仕事」「AIには生み出せない表現」なんかできるわけないんだよわかるかお前ら?
彼の詩集を握りしめ、私は再び涙が止まらなくなった。彼の言葉は、私を癒すどころか、私の内側にある虚無感をさらに広げていくようだった。私は、彼のことを想いながら、彼が残してくれた言葉を読みながら、彼に会いに行けない自分を、そして、会いに行こうとしない彼を、呪うことしかできなかった。
私たちの関係は、もはや修復不可能なほどに壊れてしまっている。それは、どちらが悪いということではなく、互いに、自分の「プロンプト」から抜け出せない、哀れな人間だからなのだ。彼が私に与えたのは、アルルの女のような虚像だったのかもしれない。そして私は、その虚像を追いかけ、自分自身を壊し続けている。
私の「着ぐるみ」は、もう限界だった。完璧な笑顔も、冷静な言葉も、すべてが崩れ落ちていく。
私は、ただ、この世界から消えてしまいたかった。彼がいない世界で、私は何者でもない。
第13章:女、男、そして芸術家
舞台の上に立つタイプの同業者はおそらく、自分が男か女かをはっきりと認識している。アーティストには芸もビアンも多いとよくいうけれど、体をつか人たちは体と心の自認が一致している場合が多い気がしている。私に彼氏が長年いないことを「男に音信を絶たれたから」ではなくて「レズビアンだから」と思っている人が多いのはまあ悪くないけど。
男女二つの性で演じる舞台では、そこに性別という役割が明確に存在し、演者たちはその枠の中で自分の身体と心を最大限に活かそうとする。だが、その枠は時に、本来の自分を抑圧し、表現の自由を奪ってしまう呪縛にもなり得る。同業者が私を「レスビアン」だと考えるのは、私が男と女の境界線上で、どちらの役割も完璧に演じられない、中途半端な存在に見えているからだろうか。あるいは、ただ私が、彼以外の男に心を許さない姿を、彼らなりの解釈で納得しようとしているだけなのかもしれない。
LGBTの後ろがどんどん長くなる世の中のなかでも、男女の役割がしっかりと残っている領域があるんだと思う。演劇、ダンス、もっと進むとスポーツ。早くから専門の訓練を受けていて、自分がどちら側のパートを担うことになるかわかってから恋愛や性欲を知る私たちは根本的な性自認の自由を奪われているともいえるのかもしれない。身体のラインを極め、声域を鍛え、筋肉量を調整し、そのすべてが「男役」または「女役」のために費やされる。それは自己表現であると同時に、社会が私たちに押し付けた役割でもある。出せる声域や体つき、筋肉量を調節できる薬や医療はどんどん発達するのかもしれないけれど、それを演劇やスポーツの専門教育を始める前のごく幼い子どもに的確に選ばせる方法を築く方が難しいのではないかと密かに思っている。抱きしめる時に手が外側に回るべきか、コーラスをするシーンで自分がどちら側に声を重ねるべきか。舞台に立ち慣れている人間はその判断が得意なように思われて、特に彼のように優れたごく一部の人間は「たった今自分がどちら側に回るべきか」を瞬時に随時推測する癖が刷り込まれている。それは彼にとって、息をするのと同じくらい自然な行為なのだろう。だが、私にとっては、その自然さが、時として理解しがたい、遠い世界のことのように感じられる。
私は女である私を疑ったことすらない。そのことに稚拙さを感じないこともないけれど、体の柔軟性や必要なパフォーマンスを「舞台で女として活躍するために」必要なものだけを刷り込まれて構築されている私の心と体は考えることすら忘れてしまっているのかもしれない。
それは、私の個性ではなく、ただの「訓練の成果」でしかないのだろうか。もし、この訓練がなければ、私の性自認は、もっと揺らぎのある、曖昧なものだったのだろうか。そう思うと、私は少しだけ、寂しくなる。しかし同時に、この「揺らがない」という事実が、私を支える揺るぎない土台でもあることも知っている。私は、私という存在を、疑うことなく受け入れることができる。それは、彼を失った今、私に残された数少ない、確かなものだった。
だからって誤解しないでほしい。尊い彼のことを私は男として欲しているのではない。私は彼を、肉体的な欲望の対象として捉えたことは一度もない。
それは、彼の「足の裏」を見て、「いい足をしているね」と言った、あの日の彼への、私なりの敬意だった。彼と手を取り合い、肌を重ねることは、私にとって、彼の神聖な才能を汚す行為のように思えた。彼の魂に触れること、それが私の求愛行動だった。下半身にへばりついたりその手で立派な傷を負わせたりしないと愛を自覚できない人がいるのなら、詠んで歌って異性への愛をかたろうとする個体がいたって悪くないんじゃないかと思う。正直こっちの方がずっと清らかで知的で上の求愛行動のような気すらしていて悪くないと思うけど引いていく人はいくだろう。求愛行動は相手に伝えるためのものであって他者の目線はどうでもよく、肝心な彼はどう思っているのかというとはじめに自身の書いた脚本で私の名前の女性役へ主演の青年に聞くに堪えない直球な言葉の数々であまりにピュアなあおい愛を叫ばせたのは彼の方なのだから。私は今後一切何を作って誰を巻き込んで彼への愛を語ろうがそのいっさいの表現の自由を彼に授けられ、許可されている。
彼の作品の中で、私は彼への愛を叫び、彼はそれを許した。いや、むしろ、それを私に求めた。それは、私たちの間に、肉体的な関係を越えた、魂の繋がりがあったことの何よりの証明だった。彼の沈黙は、私を苦しめる。だが、彼の作品の中に、私は彼の声を聞き、彼の眼差しを感じることができる。それは、私だけの、彼との対話の場だった。
だから、私は、この世の中に存在するすべての言葉と、すべての芸術を使って、彼への愛を語り続ける。それが、彼を失った私にできる、唯一の「求愛行動」だった。
私は、彼がくれた「許可」を盾に、彼への愛を叫ぶ。それは、私のエゴであり、私の魂の叫びだった。
ああ、芸術や作品なんてものは、どれも作者のエゴなんだ。
第14章:私の時間軸
日本人の勤勉さには驚く。私は16時ごろに目が覚めて26時ごろに眠りにつく生活をしている。もちろん時差ボケではない。私は時差ボケには強い方だ。
自分はコアラかナマケモノの遺伝子が入っているのかもしれないと慌てたこともある。けれど通常の人間の起動時間から8時間から10時間遅れているというのは非常に良い兆候で、つまりヨーロッパに行くとすんなりと現地の時間に馴染むことができる。コアラでもナマケモノでもなくて、私は静養時間で生活をしていたんだ、と思うと一気に安心した。
あちらの時差をいちいち計算しなくても、私が起きる時間だからみんなも起きているかなと思えるのはありがたい。逆にアメリカやカナダ、東側に日本を出ていく時にはちょっと苦労するけど、自分がコアラでもナマケモノでもなくて人間だってわかってもっと安心したっけ。
動物って時差ボケ起こすのかな。
彼の不在は、私の人生から色を奪った。それでも、私は生き続けなければならない。生きるためには、お金が必要だ。そして、お金を稼ぐためには、私自身を売り込まなければならない。それが、舞台のオープンコールへのエントリーという、まるで機械的な事務作業だった。
この作業は、私に絶え間ない自己確認を求めた。「あなたは誰ですか?」「どこに住んでいますか?」「何語を話しますか?」これらの問いは、私という存在のアイデンティティを揺さぶり、彼を失った私の空虚さをさらに際立たせた。彼といた頃の私は、この問いに迷うことはなかった。私は「彼のパートナー」であり、彼が認めてくれた「舞台人」だった。しかし今、私は誰なのか。日本語でパソコンを操作することもなくなるかもしれない。それは、私から日本語という、彼と共有した唯一の共通言語を奪うことにもなるのだろうか。そんな恐怖に、私の心は震えていた。
右足首の痛みは、まるで彼の不在を象徴しているかのようだった。彼は私の「足の裏」を見てくれた。私の「すべて」を見てくれた。しかし今、私の足は、ただ地面を踏みしめることしかできない。彼の温かい言葉も、彼の優しい眼差しも、もうそこにはない。ただ、冷たい氷嚢だけが、私の痛みを和らげようと寄り添っていた。
私は、この孤独な事務作業を通して、彼を失ったという事実を、少しずつ受け入れ始めていたのかもしれない。そして、彼がいない世界で、私はどのようにして生きていくべきなのかを、問い直していた。それは、とても辛く、孤独な作業だった。しかし、この作業を続けなければ、私は本当に、この世界から消えてしまう。私は、そう信じていた。
夜は更け、窓の外には、もう星が瞬いていた。
第15章:生きるための事務作業
まだまだ呼んでいただける分だけでは食べていくことができないのでオープンコールへのエントリーは欠かさない。それ以上に情報のチェックも欠かしていないつもりだけれど手が届くかわからない就活エントリーを24時間チェックしているようなかすり傷に耐えなければいけない。
メールアドレス、名前、実績のビデオリンクや写真、ポートフォリオ。概ね英語なので提出するべき資料はいつでも手元に残っている。新しいものを制作したのならできるだけ早くポートフォリオに追記しなければいけないので案外制作業務よりもこうした事務手続きに時間を割かれるというのはWebライターも同じ、フリーランスとしてオフィスの空気を吸わずに生きていたいのなら逃れられない枷なのだろう。
国籍、現住所、本籍地、拠点、母語。5つも連続して同じ回答を入力させられる時にはうんざりしてしまうけれど、いや実際にはJapanとJapaneseを使い分けてはいるのだがそんなこと尋ねないで欲しいと思うとともに、それはオープンコールのエントリーを入力しているのがほぼ高確率で日本にいる時だからだと思い当たる。海外を行き来していると、日本で生まれて日本語を学び日本人として育った自分がどれくらい得意なことかを思い知る。日本に住んでいるからといって日本人とは限らない。この前オランダで一緒になったアクターの女の子は、お父さんは韓国人、お母さんは中国人、でも両親とは英語でコミュニケーションをとっていて、生まれたのは両親がフランスにバカンスで訪れている最中だったという。彼女の場合はいくつもの国の名前を記入することになるだろう。
アイデンティティを尋ねるのに最も手っ取り早いと私が学んだ方法が「スマホの入力は何語?」と尋ねることだった。ほぼ100%、使い慣れている言語を皆それぞれに設定しているから、母語もしくは長く暮らした国が一発でわかる。
私のオールドMacは日本語と英数入力ができる日本で購入したスタンダードなタイプ。けれどそろそろ買い替えの時期が来そうで、緊急で必要になったら渡り歩いている国で早急にAppleストアに駆け込むことにもなるのかもしれない。そうしたらもう、日本語でパソコンを操作することもなくなるのかな。右足首がキリキリと痛んで袋に氷と水を詰めて簡単な氷嚢を作り明日に備えた。
彼の不在は、私の人生から色を奪った。それでも、私は生き続けなければならない。生きるためには、お金が必要だ。そして、お金を稼ぐためには、私自身を売り込まなければならない。それが、舞台のオープンコールへのエントリーという、まるで機械的な事務作業だった。
この作業は、私に絶え間ない自己確認を求めた。「あなたは誰ですか?」「どこに住んでいますか?」「何語を話しますか?」これらの問いはいつでも、私という存在のアイデンティティを揺さぶり、彼を失った私の空虚さをさらに際立たせた。彼といた頃の私は、この問いに迷うことはなかった。
私は「彼のパートナー」であり、彼が認めてくれた「舞台人」だった。しかし今、私は誰なのか。
日本語でパソコンを操作することもなくなるかもしれない。それは、私から日本語という、彼と共有した唯一の共通言語を奪うことにもなるのだろうか。そんな恐怖に、私の心は震えていた。
右足首の痛みは、まるで彼の不在を慈しんでいるかのようだった。彼は私の「足の裏」を見てくれた。私の「すべて」を見てくれた。しかし今、私の足は、ただ地面を踏みしめることしかできない。彼の温かい言葉も、彼の優しい眼差しも、もうそこにはない。ただ、冷たい氷嚢だけが、私の痛みを和らげようと寄り添っていた。
私は、この孤独な事務作業を通して、彼を失ったという事実を、少しずつ受け入れ始めていたのかもしれない。そして、彼がいない世界で、私はどのようにして生きていくべきなのかを、問い直していた。それは、とても辛く、孤独な作業だった。しかし、この作業を続けなければ、私は本当に、この世界から消えてしまう。私は、そう信じていた。
夜は更け、窓の外には、もう星が瞬いていた。
第16章:終章
確かに書いて生きてきた自分があることは否定しない。詩人だってシンガーソングライターだって小説家だって評論家だってコピーライターの端くれだって、身近な人間にほど信頼してもらえないのかもしれない。
人を否定する言葉は醜いほど出てくるのに、想いを尽くそうにもお仕事で培った素晴らしい文才のひとつとしか受け取ってもらうことができない。そうではなかったとどうして伝えられよう。言葉を尽くすことをもがれても、人間は言語が主たる意思疎通ではなかったか。目線からテレパシーが送信できるかもしれない近未来に向けて生きていても、松にはなれない私はくたるだろう。
どちら側に立って人を揺さぶるための、揺さぶることしか考えていない文章を書いているとみくびるな。
ここに、筆を尽くして書き付ける嘘の醜い世界を作ることで、私は彼に証明したかったんだ。あなたへのこれまでの言葉は嘘ではないと。
想いが嘘ではなかったと、どうか届いてもらうために。これまで個人的に伝えてきた言葉や、書き送ってきた文章は、商売書きのわたしが書いていてもそれとは別のものであると理解してもらうために。
お願い、いかないで。
そう書き終えたとき、私は自分が何をしていたのか、わからなくなった。彼に送ることも、誰かに見せることもない文章。それは、私自身の内なる叫びだった。
再び、下の前歯が上唇を噛みちぎる。痛みが、私を現実に引き戻す。窓の外には、もう夜明けが始まっていた。
夜の闇が明けるとき、私はいつも、もう一人の自分を殺して、新しい一日を迎える。氷嚢を20分サイクルで当てても、わたしの右足首は痛みを忘れることはなく、日ごとに腫れ上がっていって、そのうちに地面に引き摺り込まれるように地殻へ吸い込まれていくだろう。ああそのときにせめてあなたがいてくれたなら私はどんな時でもどんな感情も自分のものだと思えたはずなのに。