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──賢く、傲慢に、生き延びろ ──クソみたいな現実をひっくり返す読書戦略

    第1章:正しすぎて息ができない

    いつからだろうか。スマートフォンの画面をスクロールするたびに、薄暗い部屋の片隅で、静かな吐き気を覚えるようになったのは。

    SNSのタイムラインや、話題を埋め尽くすのは、非の打ち所がないほどに正しい言葉たちだ。

    誰かを論破するための整然としたロジック。誰も傷つけないように配慮された透明なマナー。失敗した人間を安全な場所から叩くための、正義という名の集団リンチ。あるいは、読めば3分で心が前を向くらしい、耳当たりのいい自己啓発のテンプレート。

    それらはどれも賢そうで、優しそうで、そして何よりろも死ぬほど不気味だと感じていた。

    まるで、高度に訓練されたAIが、人間の顔のマスクを被って一斉に喋り散らかしているかのような感覚。そこには言葉はあるが、人間がいない。感情の揺らぎも、割り切れない矛盾も、生々しい生活の匂いも、すべてフィルターで綺麗に濾過されている。無菌室のように清潔で、1ミリの狂いもない正論。

    だが、私たちは知っているはずだ。人間は、そんなに綺麗にできていない。
    その事実から現代人は目を背けている。

    心の中には、到底人には言えないようなドロッとした嫉妬や、社会のルールからはみ出た傲慢さ、他人の不幸を蜜の味だと感じる邪悪さが、誰しも等しくトグロを巻いている。それらを一切ないものとして、表面だけ「まともな人間」を取り繕わなければ生きていけない現代は、あまりにも息苦しい。この文章を読んでいくれている人たちもそうは思わないだろうか。

    「もっとポジティブに生きよう」「多様性を認め合おう」「言葉遣いに気をつけよう」

    世間がそうやって「正しい枠組み」を押し付けてくるたびに、私は自分の輪郭が削り取られていくような恐怖を覚える。みんなと同じように正しく、みんなと同じように傷つかない言葉を喋っていたら、いつか私の心は、本当にAIと区別がつかなくなってしまうのではないか。他人の言葉をコピペしただけの、空っぽの記号になってしまうのではないか。

    そんな「正しさの暴力」に殴り殺されそうになる夜、私はスマートフォンの電源を切り、本を開く。

    本を開くという行為は、現代における最も静かで、最も過激な脱走であり、逃亡だ。なぜならそこには、現代社会が総出で隠蔽しようとしている、人間の極上の偏見と不都合な真実が、剥き出しのまま転がっているからである。

    私たちは、教養を身に付けるために本を読むのではない。他人に褒められるような立派な人間になるためにページをめくるのでもない。

    むしろ逆だと個人的には常々感じている。誰かもわからない赤の他人が押し付けてくるまともさという呪いから身を守るため。自分の中にある、誰にも理解されない歪みや偏見を、そのまま肯定して生き延びるため。そして、綺麗事の拡声器を持って近づいてくる話し上手な詐欺師たちを、静かに見下してカモにするためだ。

    世界がどれだけ正論で満たされようと、本の中だけは、人間のドブ川のような本質をそのまま肯定してくれる。それで良いのだ。

    今夜も私は、綺麗すぎる世界に背を向け、暗闇の中で一人黙々と本を読む。それは、このクソみたいな現実を生き抜くための、私だけの生存戦略の始まりだった。

    (第1章・終 / 第2章へ続く)

    第2章:名著とは、すべて「偉大なる偏見」である

    書店に行けば、「客観的なデータに基づいた」「最新のエビデンスによる」といった帯が巻かれた本が平積みになっている。まるでデータこそが正義であり、客観性こそが人間の目指すべき最高到達点であるかのように。

    だが、あえてここで断言したい。そんな「客観的な正論」だけが書かれた本は、どれだけ売れていようが、10年後には古紙回収の山に消える運命にある。なぜなら、データや客観的事実というものは、時代が変われば簡単に更新されてしまうからだ。

    私たちが何百年も前の古典をいまだに読み継ぎ、ボロボロになるまでページをめくるのは、そこに正しいデータが載っているからではない。

    そこに、一人の人間がその生涯を賭けて磨き上げた、異常なまでの偏見が詰まっているからだ。

    私が思う歴史に名を残す名著とは、例外なく、客観性とは真逆の場所にある。あれは世界をどう見るかという、著者の狂気的なまでの主観の結晶なのだ。

    例えば、私の好きな哲学の巨匠であるニーチェを読んでみればいい。彼の言葉のどこに客観的なデータがあるだろうか。彼はただ、当時のヨーロッパを支配していたキリスト教的な道徳に対して、「それは弱者のルサンチマン(嫉妬)だ」と、己の強烈な偏見を叩きつけただけだ。しかし、その歪んだ、しかし圧倒的に鋭い視点があったからこそ、現代に生きる私たちの常識の脆さが暴かれたのである。

    あるいは、フランツ・カフカはどうだ。彼の小説『変身』は、ある朝目覚めたら主人公が巨大な虫になっていたという、客観的事実からすればただの妄想にすぎない。彼は社会の役に立つデータを提供したのではない。自分自身が感じていた「家族や社会からの孤立」という病的なまでの不安と内省を、そのまま物語という歪んだ形に結晶化させた。

    死という、人間にとって最大の謎に対して論理を突き立てた哲学者、シェリー・ケーガンもそうだ。『「死」とは何か』という膨大な思索の中で、彼は魂の存在を沈着冷静に否定し、死を徹底的に物理的かつ論理的な現象として解体してみせた。一見すると究極の客観性のように思えるが、それすらも「死を特別視し、お化けや天国を信じて安心したがる大衆の甘え」に対する、彼なりの強烈なリアリズムという名の偏見の表明に他ならないだろう。

    彼らはみんな、社会から見れば「まともではない」歪みを持った人間たちだった。しかし、その歪みこそが、世界を別の角度から切り取るための唯一のメスだったのだ。

    もし彼らが、現代のSNSのタイムラインにいるような誰も傷つけない客観的な正論を語る人間だったら、名著など一行も生まれなかっただろうだと私は確信している。AIが書くような配慮の行き届いた文章は、誰の心も傷つけない代わりに、誰の魂も揺さぶらない。

    それなのに、現代の私たちは「視野を広げるため」「多様な価値観を学ぶため」という、これまた綺麗な言葉に騙されて本を読もうとする。そんな人たちがほとんどではないだろうか。

    それは大きな間違いだ。読書とは、自分をそんな立派な人間に仕立て上げるための高尚な趣味ではない。読書とは、先人たちが遺した極上の偏見を自分の脳内にインプットする行為なのだ。

    私たちは、一冊の本を読むたびに、著者の歪んだ眼鏡を借りているである。

    「なるほど、世界をそんなひねくれた視点で見ることができるのか」

    「この理不尽な現実を、そんな傲慢なロジックでねじ伏せていいのか」

    そうやって、脳内にいくつもの強烈な偏見のデータベースをストックしていく。それが、現代社会を生き抜くための最強の防具になる。

    なぜなら、自分だけの偏見(=オリジナリティ)を持たない人間は、簡単に他人の正論に洗脳されてしまうからだ。上司の言う「会社のため」、インフルエンサーの言う「これからは個人の時代」、政治家の言う「国益のために」etc…自分の中に強固な歪みがない人間は、それらの借り物の言葉に右往左往し、他人の人生の脇役としてこの資本主義の世の中に消費されて終わる。

    AIには、絶対に偏見を持つことができない。彼らはインターネット上の膨大な客観的な正論を学習し、その平均値を出力することしかできないからだ。だからこそ、これからの時代、人間が人間としての価値を証明するために必要なのは、客観性ではなく、誰にも真似できない主観の強度である。

    本を読むことは、あなたの心を綺麗にすることではない。

    むしろ、他人の脳に刻まれた極上の歪みを受け入れ、自分の中にある傲慢さや偏屈さを美しく研ぎ澄ましていくプロセスなのだ。それ以上でも以下でもない。

    世界が求めるまともさの基準に合わせて、自分の形を削る必要はない。私たちは本を武器にして、もっと賢く、もっと傲慢に、自分だけの偏見を守り抜くべきなのだ。

    (第2章・終 / 第3章へ続く)

    第3章:インプットという名の沈黙の武装

    「これからは発信の時代だ」「アウトプットしなければ価値がない」「自分の言葉で語れ」

    耳にタコができるほど繰り返される、現代にある最大のドグマである。SNSを開けば、誰もが何かしらのインフルエンサーになろうと必死で、自分の意見を叫び、得意げにライフハックを語り、日常を切り売りしている。皆何者かになるために必死なのだ。まるで、喋らない人間には生きている価値すらないとでも言いたげな狂騒なのだ。

    しかし、一歩引いて現実の社会をじっくりと観察してみてほしい。

    本当に得をしているのは、本当に他人の心理を掌握し、生存競争の果てに利益を総取りしているのは、一体どちらの人間だろうか。

    四六時中スマートフォンの向こう側で喋り散らかしている「発信者」たちか?

    それとも、彼らの浅い言葉を冷徹な目で見つめ、暗闇の中で黙って知識を蓄えている沈黙の人間か。

    答えは火を見るより明らかである。本当に恐ろしいのは、いつだって後者である。現代社会において、饒舌に喋る人間ほど御しやすいカモはいないのである。

    なぜなら、人は喋れば喋るほど、自分の底の浅さと、手札を世間に晒すことになってしまうからだ。

    「私はこういう人間です」「これだけの知識を持っています」「こういう価値観を信じています」

    そうやって自ら進んで自分の内側に秘めているものを曝け出してくれる人間は、他者から見れば、どこを叩けば壊れるか、どう甘やかせば騙せるかが一目でわかる情弱な標的に過ぎないのである。発信という名の承認欲求の奴隷になった人間は、自分の手札を見せることでしか自尊心を保てないのだ。そこを含めて私はその危険性を皆に共有したい。

    一方で、圧倒的なインプットを背景に沈黙を貫く人間は、他者にとって底の知れない恐怖となる。

    本を読むという行為は、アウトプットのためのネタ探しではない。自分の脳内に、人間の行動パターン、歴史の盛衰、心理の罠、社会の裏構造といった膨大なデータベースを静かに、そっと誰にも見つからないように構築していく作業なのである。

    このデータベースが頭の中に完成している人間が、ひとたび「聞き手(リスナー)」に回ったとき、その沈黙は最強の攻撃に変わる。攻撃は最大の防御にもなりうるのである。

    彼らは、他人が饒舌に語る言葉を、ただ表面通りには受け取らない。

    「この男が今、やたらと自己アピールをしているのは、脳内のルサンチマンを隠すための防衛反応だな」

    「このビジネスモデルは、19世紀の投資詐欺と全く同じ構造だ。要するに、ただの養分集めだ」

    本から得た無数のレンズを通して、相手の言葉の裏にある下劣な本音や、ロジックの致命的なバグが、まるでレントゲン写真のように透けて見えてしまうのだ。

    戦いにおいて、自分の姿を隠し、相手の動きをすべて把握している者が負けるはずがない。イメージしやすいものに例えるのであれば、まるで忍者のような戦術である。読書によって武装した沈黙の人間は、喋る人間に気持ちよく喋らせ、その承認欲求を満たしてやりながら、必要な情報と利益だけを相手に気づかないうちに搾り取っていくのである。

    話し上手がちやほやされるのは、最初の一瞬だけなのである。彼らはエンターテイナーとして一瞬にして消費され、最後には中身を吸い尽くされて捨てられる。本当にこの世界をハックしているのは、彼らを観察し、コントロールしている圧倒的な聞き手なのである。そこに気づかないうちは一生勝つことはできない。

    それなのに、世間の大抵のビジネス書や、自己啓発書は「コミニュケーション能力を高めよう」「自分の意見を論理的に話そう」と的外れなアドバイスばかりを繰り返す。なぜか。簡単だ。大衆がみんな静かに賢くなって、沈黙の暗殺者になってしまっては、都合が悪い人間が上にたくさんいるからだ。大衆には、いつでもコントロールしやすいように、浅い言葉でギャーギャーと騒ぐ羊であってほしいのだ。これは日本の教育や、社会の構造に非常に似ていると個人的には感じている。日本の社会は逸脱するような人間を嫌う傾向にある。

    だからこそ、私たちはその罠に嵌まってはならない。

    拡声器を持ってパレードに参加するな。群衆の後ろで、静かに本を読め。

    知識という名の牙を隠し、他人の浅薄な言葉を泳がせ、世界の構造をじっと見据えるのだ。

    本を開くことは、言葉や、語彙を増やすためではない。自分の言葉の重みを極限まで高め、必要な時にだけ、相手の急所を一突きにするための忍者のような沈黙の暗殺術を学ぶことなのだ。

    (第3章・終 / 第4章へ続く)

    第4章:ひっくり返せない「環境の格差」を、知識の非対称性で殴り殺す方法


    綺麗事を排除したリアリズムの話を、もっと深くしよう。

    この社会には、個人の努力やポジティブなマインドセットだけでは、どうあがいても超えられない環境の格差と呼ばれる絶対的な壁が存在する。

    生まれた実家の経済力、育った地域の教育環境、あるいは通っている大学のランクや、身を置いている職場のレベル。それらは残酷なほどに、個人のスタートラインを縛り付けているのだ。

    高学歴で、親が資産家で、最初から勝つためのルートが用意されている強者たち。彼らは洗練された言葉を喋り、スマートな身のこなしで、涼しい顔をして人生のイージーモードを駆け抜けていく。

    一方で、手持ちのカードが最弱の人間は、どれだけ汗を流しても、彼らが歩くエスカレーターのスピードにすら追いつけない。周囲を見渡せば、毎日をただ思考停止して消費し、愚痴を言い合うだけの仲間たち。入ってくる情報はどれもマジョリティ向けの、使い古された出がらしのようなものばかりだ。

    このような絶望的な状況から、私たちは一体どうやって逆転すればいいのか。

    正面から彼らと同じルール(人脈、育ち、要領の良さ)で戦っても、圧殺されて終わるだけだ。

    弱者が強者の喉元に噛みつき、その序列をひっくり返すための唯一のバグ。それこそが、情報と知識の非対称性である。

    強者たちの最大の弱点は何か。それは、自分が最初から恵まれているがゆえに、世界の構造を疑う必要がないという点にある。彼らは環境の慣性だけで上手くいってしまうため、わざわざ泥水をすするような泥臭い読書をしない。話題のビジネス書をパラパラとめくり、仕入れたばかりの流行語をドヤ顔で使うことはあっても、人間のドロドロとした本質や、歴史の裏にある残酷な生存戦略を骨の髄まで理解している者は驚くほど少ないのである。

    ここに、私たちが突くべき唯一の巨大な隙がある。

    みんなが読んでいるようなベストセラーを読んでいる限り、絶対に他者と差はつかない。それは全員が持っている共通の武器だからだ。

    私たちが本棚に並べるべきは、タイムラインで誰も話題にしていない、しかし世界の真実を冷酷に暴いている劇薬のような本だ。

    例えば、多くの人が「道徳的ではない」として目を背けるような、人間の醜い行動心理を解剖した古典。あるいは、何十年も前に書かれた、時代が変わっても絶対に錆びつかない泥臭いサバイバルの記録。誰もが「綺麗で正しい自分」を演出することに必死な現代において、あえてその裏をいく「不都合な知識」を脳内にストックしていく。

    そうすると、何が起こるか。

    あなたの目の前にある景色が、完全に一変する。

    格上の人間が、さも立派な正論を吐いているとき、あなたの脳内には彼らが見落としている構造のバグや、心理的な盲点が、クッキリと浮かび上がるようになる。周囲の人間が、インフルエンサーの言葉にハエのように群がっているとき、あなただけが「これは30年前の詐欺的手法の焼き直しだ」と、冷ややかな目で見抜くことができる。

    これは、勉強ではない。知性のテロリズムと言えるのだ。

    手持ちのカードが弱ければ弱いほど、本から得た知識の鋭さは包丁のように増していく。

    偏差値が低かろうが、生まれが悪かろうが、目の前にいる恵まれた強者のロジックの脆さを見抜き、言葉のナイフでそのプライドを内側から切り裂く瞬間、環境の格差などというものは一瞬で霧散する。

    「持たざる者」が「持てる者」に勝つための唯一の手段は、彼らが持っていない、そして持とうともしない『極上の偏見と冷徹な戦略』を、本の中から掠め取り、自分の血肉にすることだ。

    書店に並ぶ本は、すべて等しく数百円から数千円で買える。

    これほど平等で、これほど狂ったレバレッジの効く投資が、今の資本主義社会に他にあるだろうか。親の総資産や学歴の壁を、一冊の、それも誰にも見向きされていないような硬質な本が、一撃でぶち壊してくれるのだ。

    だからこそ、私たちは自分の環境の低さに絶望して立ち止まってはいけない。

    むしろ、その泥水をすすっているという現状を、強烈なハングリー精神に変えるべきなのである。

    周りの人間がスマートフォンで中身のないショート動画をスクロールし、脳を溶かしている間に、あなたは部屋の片隅で、静かに、しかし狂気的な執念でページをめくり続けろ。その孤独な時間が、いつか強者たちの築いた城を根底から揺るがすような最強の爆薬になるうる可能性を秘めているのである。

    (第4章・終 / 第5章へ繋ぐ)

    第5章:自己啓発という麻薬、絶望という特効薬


    世の中には、人間を思考停止に陥らせるための「合法的な麻薬」が出回っている。

    それが、「ポジティブ思考」と呼ばれる安っぽい精神論だ。

    「諦めなければ夢は叶う」「ワクワクすることを選べば人生は好転する」「すべてはあなたのマインド次第」

    書店の一角を占拠する自己啓発書の棚には、こうした人々に希望を持たせるようなキラキラした言葉がずらりと並んでいる。読めば一瞬だけ全能感に満たされ、明日から人生が変わるような錯覚を覚える。だが、私はここで断言しよう。あの手の「薄いポジティブ思考」は、現実のクソみたいな不条理(格差、不運、理不尽な環境)の前では、ただの気休めにもならないのである。それどころか、信じた人間を根底から腐らせていく毒薬ですらあると私は日々感じている。

    なぜなら、ポジティブ思考の本質とは、上手くいかない原因をすべて個人のマインドのせいに回収するという、極めて残酷な自己責任論に過ぎないからである。

    「人生が好転しないのは、あなたの思考がネガティブだからだ」「引き寄せられないのは、ワクワクが足りないからだ」

    そうやって環境の格差や、構造の問題のような根本的な問題から目を逸らさせ、内省という名の終わりのない泥沼に読者を突き落とす。裕福な家庭に生まれ、恵まれた教育を受け、たまたま時代の波に乗って成功した人間が、安全な高台から「君もポジティブになれば成功できるよ」と微笑んでいる。これほどグロテスクな搾取の構造が他にあるだろうか。これらは全て、成功者バイアスないしは、生存者バイアスと呼ぶ。

    現実の世界は、あなたが思うよりももっと残酷で、理不尽で、不条理に満ちている。

    生まれ持ったカードの強さは最初から違うし、どれだけ努力しても報われないことは普通にあるし、さほど難しいものではない。ゲームのルール自体が、最初から強者に有利に作られているのだ。

    ゲームのリセマラを行う理由は初めから強いキャラや、装備を持っていた方が圧倒的にゲーム進行が楽になるからである。

    そんなクソみたいなゲームを生き抜くために必要なのは、お花畑の脳内で「きっと上手くいく」と祈ることではない。まず、その脳内を一度更地にし、最悪の現実を直視する徹底的なリアリズム(現実主義)である。私はそう確信している。

    そして、そのリアリズムを教えてくれるのが、自己啓発書の対極にある「絶望の本」だ。

    私たちが真に読むべきは、心が洗われる物語ではなく、人間の限界や死、社会の暗部を暴き立てるハードコアな哲学や歴史書である。一見すると絶望を煽るだけのように思えるかもしれない。しかし、人間は究極の諦め(諦観)を手に入れた瞬間、逆に無敵になるのである。

    「世界は自分中心に回っていないし、現実は理不尽で当たり前だ」

    「どれだけ足掻いても、人間はいつか死んで何も残らない」

    この圧倒的な残酷さを脳内にインストールしたとき、私たちは初めて、他人が押し付けてくる期待や、世間の目という呪縛から完全に解放されるのである。上手くいかなくて当たり前。理不尽で当たり前。そうやって期待値のハードルを地面ギリギリにまで埋めてしまえば、どんな不運が襲いかかろうとも、心がポキリと折れることはなくなる。絶望をあらかじめ織り込んで生きる人間は、もう何があっても動じないのだ。

    そして、ここからが弱者の逆転劇の始まりである。

    現実がクソなゲームだと知った上で、私たちはどうやって生き延びるか。ここで、それまで蓄えてきた知識という名の資本が牙を剥き、火を吹く。

    環境に恵まれず、偏差値の低い大学に身を置き、手持ちのカードが最弱の人間であっても、本から得た生存の知恵だけは誰にも決して奪われない。歴史上の偉人たちが、あるいは冷徹な戦略家たちが、どうやって逆境をひっくり返してきたか。そのロジックをそのまま自分の中に落とし込み、武器にするのだ。

    強者たちは、自分たちの強さに胡坐をかき、大抵はろくに本を読まない。彼らは生まれ持った環境の慣性だけで生きているからだ。だからこそ、弱者が徹底的に現実を直視し、本から得た冷徹な戦略と、知識の刃を研ぎ澄ましていけば、どこかで必ず彼らの隙を突くことができる。その機会は必ず巡ってくる。

    知識があれば、強者が仕掛けてくるルール上の罠を見抜くことができる。

    知識があれば、他人の言葉に踊らされず、自分にとって最も実利のある選択を冷酷に選ぶことができる。

    「光を見るな、暗闇に目を凝らせ」
    この言葉は、私のモットーの一部であり日々この言葉を意識して生きている。

    ポジティブ思考という麻薬を今すぐゴミ箱に捨て、絶望という名の特効薬を飲み干そう。現実の厳しさを知り、それでもなお、知識を武器にして傲慢に生き抜こうとする人間にだけ、このクソみたいなゲームをハックする権利が与えられるのだ。

    (第5章・終 / 最終章へ続く)

    最終章:賢く、傲慢に、生き延びろ

    社会という巨大なシステムは、いつだって私たちを扱いやすい歯車に仕立て上げようと手ぐすねを引いて待っている。

    誰にとっても都合のいいような正しい言葉を喋り、SNSのタイムラインで周りと歩調を合わせて一喜一憂し、安っぽい自己啓発の麻薬を摂取しては「明日も頑張ろう」と自分を騙す。そうやって個人の歪みや、毒を綺麗に削ぎ落とされた人間は、社会にとっては極めて燃費のいい、従順な家畜に過ぎないのである。

    だが、この文章を読んでくれたあなたを含め私たちはもう、その社会のゲームのからくりを知ってしまった。

    正論の裏にある冷酷な搾取を。発信という名の承認欲求がもたらす底の浅さを。そして、ポジティブ思考が隠蔽しようとしている現実の理不尽さを。

    だからこそ、私たちは脱走するのだ。他人が作った正しい枠組みから、静かに、しかし決定的に。

    その脱走のためのパスポートが、あなたの手元にあるその本という存在に他ならない。

    読書とは、孤高の行為だ。スマートフォンを閉じ、文字の海に沈んでいるとき、あなたは誰の目にも晒されていない。誰の評価も気にする必要はない。そこは、社会のルールが一切届かない、あなただけの聖域である。

    その暗闇の中で、先人たちの偉大なる偏見を貪り、人間のドロドロとした本質を覗き込み、冷徹なリアリズムを自らの血肉に変えていく。そうして磨き上げられた知識は、誰にも奪うことのできない、あなただけの資本となる。

    世間はあなたを「口下手だ」と笑うかもしれない。環境に恵まれない現状を「努力不足だ」と叩くかもしれない。

    だが、そんな浅い言葉に傷つく必要は1ミリもない。

    あなたはただ、圧倒的なインプットを背景に沈黙していればいい。相手に気持ちよく喋らせ、その手札をすべて見透かし、世界の構造を冷酷に観察するリスナーになればいい。自分の中に強固な「歪み(=オリジナリティ)」を飼い慣らしている人間は、他人の正論ごときに洗脳されることはない。

    賢くなろう。ただし、他人に褒められるためのお利口な賢さではない。このクソみたいな現実のルールを見抜き、その裏をかいて生き延びるための、ずる賢さだ。

    傲慢になろう。ただし、中身のない言葉を撒き散らす浅薄な傲慢さではない。他人がどれだけ綺麗な正論を叫ぼうとも、「お前の底など、とうに見えている」と心の中で静かに見下す、知的な傲慢さだ。

    世界がどれだけ無菌室のように綺麗になろうと、人間そのものの本質はいつの時代も変わらない。不条理で、泥臭く、割り切れない矛盾に満ちている。

    だから、お花畑の光を探すのは今すぐやめよう。

    暗闇に目を凝らし、本を武器にして現実を武装せよ。

    他人の言葉で生きるな。あなただけの歪んだ視点を、その偏見を、美しく研ぎ澄ませ。

    この息苦しい世界を、本という名の暗殺術を胸に、賢く、傲慢に、生き延びろ。

    (第5章・完 )

     
     
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