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「友達100人できるかな?」の歌はもういらない

    「一年生になったら」という歌がある。
    「友達100人できるかな?」と続くやつだ。

    幼稚園でその歌をならって、小学校に入ったときはまだ純真だった。
    「100人とは言わずとも、たくさんできるかもしれない」と思っていた。

    できなかった。

    幼稚園の頃の僕は友達が少なかった。
    内気だったからだ。
    他人は怖いとなんとなく思っていた。

    それでも好きな男の子ができて、その子とばかり遊んでいた。
    いま、さらりと「好きな男の子」と書いたけれど性的な意味はない。
    僕も男の子だったし、ドキドキする女の子は別にいた。
    それなら「親友」とか「好きな男友達」と書いたほうが誤解がないと思うのだけど、彼のことを思い出すと「好きな男の子」という言葉がいちばんぴったり来る。

    小学校が別だったので、彼とは自然と会わなくなった。
    でも小学生になってからもずっと「好きな男の子」をつくって、いつも一緒にいる、というパターンを社会に出るまで繰り返していた。
    もちろん「好きな女の子」はいつも別にいた。恋とか愛とか性的な意味で。

    じゃあ「友達」といえばいいのに、なぜ「好きな男の子」と表現したのかといえば、他の「友達」とは違う特別感があったからだ。
    人によっては「いちばんの友達」とか「親友」とかと言うのかもしれない。
    それでもいいのだけど、その言葉が使いにくい理由がある。

    「友達」とか「親友」って言葉は、お互いにそう思ってないと使えない。
    特に深い意味もなく「彼は友達です」と第三者に紹介したら「友達じゃない」と即座に否定されたことがあって、トラウマになった。
    (恨んでいるわけじゃない。彼には彼なりのこだわりがあって「友達」の定義が狭かったんだろう)。

    「親友」も同じだ。
    冗談めかして言ってみたら「まだ親友じゃないよ」とマジレスされた。
    やっぱり言下に否定されるとつらいから、どちらの言葉も軽々しく使えなくなった。

    どちらのケースも、僕のほうは彼のことが「好き」だったけど、向こうは僕のことがあまり「好き」じゃなかったんだろう。
    だからたいていの場合、「友達」や「親友」というより「好きな人」という言葉のほうがしっくり来る。
    「友達」という言葉はナイーヴだ。


    逆のケースもある。
    「あなたを友達と思っていいですか?」と聞かれたことが何度かある。
    正確には「あなたのことを友達と思っているのだけど、あなたは私のことを友達と思ってくれていますか?」という意味だと思う。

    いずれも仕事の取引先の人だった。
    仕事を受注する側は、発注する側に対して、まるで「友達」であるかのような居心地のよさを与えようと接待することがある。
    だから本物の「友達」かどうか確認したくなってしまったのだろう。
    「本物」とか「ニセモノ」なんて言葉がうっかり出てきてしまうところが、「友達」のナイーブさだ。

    一般に、仕事で出会った人と「友達」になるのは難しい。
    どうしてもメリットデメリットを意識してしまうからだ。
    「友達」は対等の関係だから、利害関係の発生する仕事の場では「友達」にはなれないと考える人も多い。

    でも「友達は対等」という考え方だって誰もが共有しているわけじゃない。相手と年齢差があろうが、性別が異なろうが、気が合えば「友達」になったっていいじゃないかという考え方もある。
    のび太とジャイアンとスネ夫はあまり対等に見えないけれど、あの3人は「友達」じゃないと断定できる人は少ないだろう。


    そんなことばかり考えていると、「友達」という言葉を不用意に使った相手に「友達の定義って何?」と訊いてしまう(めんどくさい人だ)。

    なるほどと思った回答の一つが「用事がなくても会いたいと思う人」だ。
    それはたしかに「友達」っぽい。
    でも、相手のほうも「会いたい」と思っているかどうかがわからない。
    だったら「好きな人」と表現したほうがいい。
    「好き」と言うと、「ラブ」の意味になってしまって誤解が生まれるから、みんなそう言わないんだろうけど。

    僕が「好きな人」という表現を選ぶのは、自分一人で完結するからだ。
    昔はお互いに「友達」と思っていたのに、いつのまにか相手がそう思わなくなっていることもある。
    だったら最初から、自分の「好きな人」というだけでいい。

    そもそも一度「友達」になったものが、いつのまにかそうでなくなるなんてことがあるのかといえば、けっこうある。
    「友達は対等」なものだから、自分が与えた友情と同じだけの友情が相手から返ってこないときに「友達をやめる」人は多い。


    一例をあげる。
    「友達」だと思っていた人が急に冷たくなることがある。
    たぶん、僕の言動か何かが気に触って「友達」をやめたのだ。
    それでも「友達」というものには慣性があるから、何か一つの事件だけをきっかけに急に切られることはない。
    そういうのは、もともと違和感が少しあって、ずっと我慢していたんだろうと考えるのが自然だ。

    人間は自分を正当化したがる生き物だから、だいたいそういうときは相手を悪者にしがちだけど、よく思い返してみると、自分のほうだって相手に違和感を覚えていたことが多い。
    だから、本当はもともと合わなかった二人が、それでも何かに惹かれて、お互いに親しくつきあってみたけれど、やっぱり合わなくて別れたというだけなんだろう。
    「恋人」の話みたいになってしまったけれど、「友達」の話をしている。

    「友達」はそんな「恋人」みたいにベタベタしてないと言う人もいる。
    もっとサラリとした距離のある関係だから、「友達」をやめるとかやめないとかそういう状況になることもなくて、何年か合わなくても親しく話せるものじゃないかと考えているのだろう。
    もともと距離のある「友達」ならそんなものかもしれないけど、親しくしていればいるほど相手の変化には気づきやすい。

    そういうことが何度かあって、自分はデリカシーに欠けているところがあるのかもしれないと考えるようになった。
    それからは誰に対しても距離が近くなりすぎないようにしている。
    「親しき仲にも礼儀あり」というか、親しくなりすぎて地が出て嫌われてしまうのであれば、みなさんが好きだったのは僕ではなくて、僕がかぶっていた猫のほうなのでしょう、となんとなく思っている。

    猫をかぶるというか、仕事など公的な場では、大人として求められる理想の姿みたいなものがあって、それなりにそつなくこなせるのだけど、帰宅した途端に服を脱いでだらけてしまうのは、そもそもがいいかげんでだらしない人間だからだ。
    最初からそういう面を見せていればいいのかもしれないが、仕事に対する姿勢が真面目すぎたのではないかと思っている。
    もうセミリタイアしたのであまり人に会わなくなって、最近は常にだらけているけれども、無理をしていないからストレスがなくて楽しい。

    ときどき殺伐とした気分のときには、自分は好かれていたのではなく、利用価値があっただけではないかとも考えてしまう。
    これは女性が男性に対して「私の体目当てなんでしょう!」とか怒り出すのと同じで、精神状態が悪いと視野が狭くなってしまうパターンなのだけど、同じような主張は「親の介護の担い手として嫁を求める婚活男」、「家事子育てをすべて妻に押しつける夫」みたいな感じで何度もフィクションに出てくるから、普遍的な被害者ストーリーなのかもしれない。

    自分のことを被害者だと感じているのは、どこかで「傷ついた」という感覚があるからだろうけど、相手だって傷つけたくて傷つけたわけではないのだろうから、加害者に仕立てあげるのはかわいそうだ。
    これは「友達」に限った話ではない。
    人間同士が親しくなろうと距離を縮めるときには、常に「拒絶」のリスクが隠れている。
    「婚活」とかすると、きっとたくさん「拒絶」されるし、自分もすることになるんだろう。
    そんなことでいちいち傷つくのはナイーヴすぎるのかもしれない。


    ナイーヴといえば、「友達がいない」もしくは「少ない」ことで悩んでいる人がいる。
    もちろん悩まない人もいる。
    頭髪と同じだ。
    少ないことを悩む人もいれば、悩まない人もいる。
    ゼロになると、開き直って自分から自虐ネタにする人もいる。

    頭髪と違うのは、「ない」人の数がけっこう多いことだ。
    2025年の調査によると、日本の社会人の30%以上が「友達は一人もいない」と回答しているらしい。
    アメリカでも「友達は一人もいない」と回答した成人は12%にのぼる。
    30年前は3%だったから、明らかに増えている。

    「友達」がいないことが問題になるのは、「友達」がいるのは良いことであるという「常識」が前提になっているのだけど、本当にそうかどうかはわからない。
    さきほど頭髪の話を出したけれど、美容とかダイエットとか容姿改善のビジネスは、顧客の劣等感につけこむコンプレックス産業と呼ばれていて、お金儲けがしやすい。
    「太っているから成功できない」とか「ハゲているからモテない」とかと脅して商品やサービスを買わせるのだ。

    塾や英語や幼児教育なんかもコンプレックス産業に近いところがある。
    本当に必要かどうかがわからないまま「周囲と足並みをそろえる」ためにやらなければと思っている人が多い。
    「友達」も「恋人」も「結婚」もそれに似たところがある。
    昔はいずれも当たり前だったかもしれないけど、実はそういうものをわずらわしいと感じている人も少なからずいる。

    小学校では僕はひとりでいることが多かったので、社交的な母はこっそり心配していた。
    だから、普段は昼休みは教室で本を読んでいるのに、母が授業参観に来るときには、わざわざ外に出てボール遊びに加わらなければならなかった。
    たいへんだったけれど、母が喜んでいる姿を見るのは好きだった。


    でも、やっぱり「友達」が欲しいと思っている人も多い。
    それは、一人で生きていくのがなかなかたいへんなことだからだ。
    「友達」というのは、親身になってくれる「他人」の象徴なのだろう。

    親身になってくれる「他人」というだけなら、「友達」ではなくても、親兄弟などの家族、恋人、配偶者でもいい。
    実際、妻もしくは夫以外に親しく話せる人がいないという人も少なくない。
    夫婦円満でよいことだと思う。
    親身になってくれる「他人」という需要に対して家族が受け皿になってくれるのであれば、たしかに「友達」はいらない。
    「友達親子」なんて言葉が流行ったのも、もうずいぶん前のことだ。

    昔は、親には親の立場があって、配偶者には配偶者の立場があるので、それ以外の「友達」も必要だった。
    わかりやすくいえば、親への不満を本人には直接言えない。
    配偶者への不満もそうだ。
    そういうときには「友達」が話を聞く相手になってくれる。

    でも「友達」には、家族のようなわかりやすい結びつきがない。
    学校で机を並べて学んだとか、部活でチームメイトだったとか、毎日一緒に昼ご飯を食べたという時間と空間のつながりはあるけれど、そのボーナスタイムが過ぎると、それぞれが新たな人間関係のなかで生きることになる。
    よほど気が合っていないと、時間と空間のつながりが切れたとたんに話が合わなくなってしまう。

    人間の時間は限られているので、双方が「ああ楽しかった」だけで終わらせず、「この人と友達づきあいしていこう」と思ってそれなりのリソースを割いていかないと、関係は続かない。
    だから、「友達」がいない人は、「友達」ができないのではなくて、「友達」とつきあうよりもっと楽しいことがあるのだと思う。


    「友達」が一人の孤独をまぎらわせるためのものなら、結婚している人は「友達」が必要なくなるのかもしれない。
    逆に、「友達」の多い人は結婚しなくてもいいのかもしれない。

    僕のまわりには結婚していない人がけっこういる。
    日本人の生涯未婚率は男性で30%、女性で20%にのぼるから、そんなのはもう珍しくもないんだけど、そういう人たちに結婚しない理由を訊いてみると「縁がなかった」みたいな言葉が返ってくるので、やっぱり気が合う人が見つかるかどうかというのは運でもある。
    そのなかでひとりだけ「寂しいという理由だけで結婚したくなかった」と教えてくれた人がいて、やっぱり一人でいることの「自由」と「寂しさ」は、他人と一緒に暮らすことの「不自由」と「楽しさ」との、トレードオフの関係になっているのだなと思った。

    結婚相手を見つけるのと「友達」を見つけるのはどっちが簡単かといえば、たぶん「友達」のほうが相手に求めるものが少ないぶんだけ簡単だと思うのだけど、いざ「友達」をつくろうと思っても、そんなすぐにはできない。
    まず、たいていは話が合わない。
    僕たちは社会人として、仕事であればどんな相手でも話ができるようにしつけられているけれども、それはお金をもらっているからがんばって合わせているだけであって、プライベートでリラックスしたいときに、わざわざがんばって話を合わせることはしない。
    話が合わないというのは、話題が合わないという意味でも使うけど、どちらかといえば、価値観の違いなどから意見が合わないという意味だ。
    議会で議論しているわけじゃないから意見が合わなくてもいいのだけど、毎回それだと疲れてしまうからだんだんと距離をおくことになる。

    そう書いていて思ったけど、友達であっても意見の違うことはたくさんあって、実はそこは問題ではないという気がしてきた。
    それよりも、相手のことが「好き」かどうかのほうが大事だ。
    結婚相手と同じだ。
    相手のことが「好き」であれば、話が合う合わないとか気が合う合わないとかは、適当に合わせてしまえるようになる。
    共通の話題がなくても、相手に対して興味があれば、ずっと相手の自分語りを聞いていられる。
    だから「友達」の少ない人というのは、「好き嫌い」の選り好みがはげしくて、好きと思える相手が少ないだけなのかもしれない。
    僕のことだ。


    「好き嫌い」なんていうと子どもっぽい感じになってしまうけど、実際、よくよく考えてみたら自分は割と何でも「好き嫌い」を優先させている。
    だからときどき、なんであんなに親切にしてくれるのに、自分はあの人のことをそんなに好きじゃないのかな、なんて考えることもある。
    そこで見えてくるのはだいたい自分が持っている歪みで、でもそれは性格というか個性というか、理性で抑えつけることはできても根本から取り除くことはなかなか難しいもので、だから「ごめんなさい」と思いながら距離をおかせてもらうことがある。

    これは「嫌い」の例で説明したからひどい話に聞こえるけれども、逆に「好き」なものに対して、それはえこひいきだからやめてくださいと言われても、ほとんどの人が「無理」と感じるのと同じことだ。
    他人に好かれないとか嫌われるとか、そういうのはほぼ相手の好みの問題であって、あなた自身には問題がないというか、お互い様のことが多い。
    どんな人にもクセがあるのだ。

    「友達」というのはお互いに好きでないと成立しない。
    これは「恋人」とか「配偶者」とかと同じだ。
    だから「友達」ができるかどうかは、まず自分が相手のことを好きになれるかどうかと、それから相手が自分のことを好きになってくれるかどうかの二つの関門を突破しなければならない。
    なかなか他人のことを好きにならない人は最初の関門が狭き門だし、その後の門だってそんなに簡単に開かないかもしれないから、やっぱり友達をつくるのは難しい。


    「友達」というのは「好き嫌い」だから、つきつめると「相性」としか言いようのない関係なのだけど、それは決して「同質性」ではない。
    片方がボケならもう片方はツッコミのほうが会話が回るように、あるいは、片方がリーダーならもう片方はフォロワーのほうがウマが合うように、お互いの凸凹が噛み合うような関係のほうが「相性」がいい。
    「結婚」が男女でおこなわれることが多いのと同じ理由だ。

    昔は男性が外で稼いで、女性が家の中で子育てをしてという役割分担で噛み合っていたのだろうけど、最近はそうでもなくなったので同性婚が増えた。
    今のはジョークだけど、友達夫婦みたいな結婚は増えたと思う。
    たまに男性と女性の年齢差がある夫婦に会うと、まるで上司と部下みたいな夫婦のかたちが見られて、昔の映画みたいだなと感じる。
    そういう夫婦でも歯車が噛み合っていればとても幸せそうだ。

    振り返ると、自分はいつも同じような人を好きになることが多いのだけど、それは無意識に自分と噛み合うタイプを探しているからかもしれない。
    それが「好き嫌い」の正体であればいくぶんか納得がいくし、自分が「あまり好きじゃない」と距離をおいてしまった人たちに対しても、「相手ではなく相性が悪かった」だけと思うことができる。

    さきほどは「傷ついた」という被害者意識から、自分が距離をおかれたケースばかりにフォーカスしてしまったけれども、自分から距離をおいたケースだってたくさんある。
    人間関係は相互作用なので、相手のちょっとした仕草や態度に距離を感じてしまって、自然と疎遠になってしまう場合もある。
    そういうときでも、自分から連絡をとって再び距離を縮めればいいのだけど、みんな生活はそこそこ忙しいので、その人との関係の優先順位が高くなければ、どんどん距離が遠くなってしまう。
    学校の友達とかが顕著だけど、当時はどんなに仲が良かったとしても、環境が変わると話題がなくなることはあって、それはたぶんお互いに別々に成長して、合わなくなったということなんだろう。


    それで思い出したのが、中学生のときにとても仲の良かった男の子がいて、毎日放課後にずっとしゃべっていた「親友」といってもいいような関係だったのだけど、あるとき彼が部活をはじめて忙しくなって、クラス替えもあって同じ場所にいられなくなったとたん、急に疎遠になってしまった。
    それは物理的に離れてしまっただけで、お互いの気持ちは何も変わっていなかったのだけど、僕が寂しくてちょっと距離をおいてしまった。

    いま彼に会って、当時のことを振り返って話し合ってみると、お互いに「相手が離れていった」と思っていたことがわかった。
    たぶん僕のほうが悪かった。
    彼の世界が広がって、いろいろな人と幅広くつきあうようになったことに、自分が特別扱いされないと嫉妬して、拗ねて距離をおいてしまったのだ。
    僕のほうから見たら、彼が僕に割いてくれる時間が短くなったことで彼が離れていったと感じたのだけど、彼のほうから見たら、突然に僕が冷たくなったように見えたことだろう。

    いまの彼とはあまり意見や考え方が合わないので、そこそこの距離でいいお付き合いをさせていただいているけど、でもよく考えたら、彼の考え方は当時と同じで、僕の考え方だって当時と同じで、「三つ子の魂百まで」とはよく言ったもので、合わないところは昔からあった。
    でも当時はそんなことは気にならず、お互いを知っていくのが楽しかったし、意見が合わなくても議論するのが楽しかった。
    いまは議論するような熱量はない。
    お互いを尊重して相手の領域に踏み込まないだけの距離があるからだ。
    距離を縮めようとしたことはあるけれど、彼が乗ってこなかった。
    タイミングとかもあるけど、それこそ「相性」としか言いようがない。


    結局、人と人が親しくなるのは「相互作用」なのだ。
    「◯◯しない?」のお誘いに、即座に「いいね!」と返ってくれば、いっきに距離は縮まる。
    逆に、返事がなかったり、断られたりすると、距離は遠ざかる。
    世の中には「相手を不快にさせない断り方」なんてノウハウがあって「お誘いありがとうございます! とても楽しそうですね! ぜひ行きたいのだけど、先約があってどうしても行けません。また誘ってください!」みたいに返事をするとよいのだそうだけど、次も断る可能性が高いのだったら「また誘ってください!」のくだりはないほうがいいと思う。

    「友達」との関係には、毎回このような「相互作用」が働くから、固定的な関係ではなくて、常に距離が近づいたり離れたりと揺らいでいる。
    そして人によって快適な距離は異なるから、ある人にとっては最適な距離でも、別の人にとっては水臭いほどに遠い距離に感じられることもある。
    お互いに快適な「距離」が違う二人が「友達」になるのはちょっと難しい。
    パーソナルスペースが広い人は、同じように距離をとる人と気が合う。
    でも、そんなことを言っていた人が、すごく好きになれる人と出会って急速に距離を縮めることもあるので、人間って面白い。

    「友達」の話をしているのに、なぜか「恋愛」みたいになってしまう。
    以前に読んだマンガの中で、恋人と友達の違いを聞かれた心理学者が、違いは「セックスをしたいかしたくないかだけだ」と回答するシーンがあって、そのロマンティックな解釈にはずいぶん影響を受けた。
    でもいま思うと、セックスの違いは大きい。
    だってベッドでいちゃいちゃしているほうが、ずっと仲良くなりやすい。
    だからたいていの夫婦はお互いをいちばんの親友と考えている。
    でも夫婦やカップルだって破局するときはするように、やっぱり「友達」だって終わる関係だ。


    過去を振り返って、「相性」が合えば「友達」になれたかもしれない人たちのことを思い出している。
    自分に好意を持って良くしてくれたのに、忙しかったとか恥ずかしかったとか、何かが気になって距離をおいてしまった人たちがいる。
    それがなかったら「友達」になれたのかといえば、よくわからない。
    しばらく仲良くできたとしても、疲れて離れてしまうかもしれない。
    「なるようにしかならない」というのは、「酸っぱい葡萄」のようで言い訳めいた話だけれど、たぶんいちばん真実に近い。

    なぜなら、初対面で誰かに「好意」を持つというのは、たいていは相手の一面だけを拡大解釈した誤解から来ているからだ。
    それはしばしば、外見であったり、人当たりの良さであったり、当意即妙の受け答えであったり、その人が努力してそう見せているものであることが多い。つまりよそゆきの仮面なのだ。

    そうであっても、自分にとってこだわりの偏愛だから気にならないという人もいるかもしれない。
    だとしても、そのこだわりの根っこは自分自身の中にあるので、他人に求めても最終的には得ることはできない。
    「友達」がほしいという感情は、他人よりも先に、自分自身を好きになることで満足できるものかもしれない。

    もう連絡のとれなくなった「友達」や、久しぶりに会うことになった「友達」のことを思い出しながら書いた。
    100歳まで生きても友達100人はできそうにないけど、別にほしいとも思わなくなった。
    それだけ純真でなくなったのかもしれない。
    このエッセイは、当時の自分に向けて書いてみた。
    あなたはもしかしたら「友達」の多い人にあこがれているかもしれないけれど、それはもしかすると幻想かもしれない。
    誰であっても、自分のいちばんの「友達」は自分自身なのだから。

     
     
    I am who I am, and what you see is what you get.

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