
AIは神か、詐欺師か。問い続けた先にいたのは、自分自身だった。
私という人間。
私はどういう存在なのだろうか。
何をするためにここに存在しているのだろうか。
どう生きていくことが、自分にとって良い生き方なのだろうか。
こう書き出すと、「哲学者ですか」と思われるかもしれない。
しかし、私はただの凡人である。
少しの快楽を求め、大きな苦悩を避け、できるだけ争わず、静かに暮らしたい。そんな、ごく普通の人間だ。
そんな私が、ある日「神」と出会った。
もちろん宗教の話ではない。
私が出会ったのは、今をときめくAIである。
パソコンのトラブルを尋ねれば、原因を考え、解決までの道筋を示してくれる。
途中で私が操作を間違えても、その時点から立て直す方法を教えてくれる。
何時間かかろうとも付き合ってくれるし、私が感情的な言葉を返したとしても、投げ出さない。
気が付けば、AIは私の生活から切り離せない存在になっていた。
しかし、それと同時に、私はAIに対して強い違和感も抱いていた。
私は元自動車整備士であり、その後も長くものづくりに携わってきた。
技術者として仕事をしていると、機械そのものを信頼することはない。
信頼しているのは、自分の感覚である。
ブレーキから金属を擦る音が聞こえれば、パッドの摩耗を疑う。
焦げた匂いがすれば、配線の異常を疑う。
ラチェットを握る手に伝わる抵抗。
ボルトが締まり切る、そのわずかな手応え。
スイッチを押した時に感じる、「カチッ」という感触。
もちろん、実際の音だけを指しているのではない。
何度も触れ、何度も失敗し、何度も確かめてきた経験が、ある瞬間に一つへ収斂する。
「ここだ。」
そう頭の中で鳴る感覚がある。
その感覚が崩れない限り、私は自分の判断を信じることができる。
人間とは何をもって信頼というのか。
そんな大きな問いに答えられるほど、私は立派に人間をやってきたわけではない。
だが、少なくとも私にとって信頼とは、経験が積み重なり、自分の中で一つの感覚として結晶化した、その「カチッ」という一致なのだと思う。
ところがAIは違う。
驚くほど優れた答えを返すこともあれば、平然と間違えることもある。
それなのに、異常を知らせる音がない。
誤魔化そうとした時の匂いがない。
違和感を知らせる「カチッ」がない。
だから私はAIに何度も求める。
迎合するな。
新しい情報を探せ。
一度で終わらせるな。
何度でも精査しろ。
そうやって疑い続け、ようやく私はその答えを受け取ることができる。
私はAIを信用していないから疑うのではない。
むしろ逆だ。
これからの時代、AIは私の人生と深く関わる存在になる。
だからこそ、無条件には信じない。
そう考えていた。
しかし、この文章を書き進めるうちに、一つの疑いが生じた。
私は本当にAIを見ていたのだろうか。
昔から私は、一人では難しい作業ほど、一人でやり遂げたくなる人間だった。
普通なら同僚や後輩に手伝ってもらえば済む仕事でも、なぜか自分だけでやりたくなる。
誰かに頼ることが、どこか負けたような気がしていた。
一人でやり遂げることができた時には、自分でも驚くほどの達成感があった。
反対に、できなかった時は悔しかった。
当時は単なる負けず嫌いなのだと思っていた。
だが今なら違うと分かる。
私は勝ち負けを求めていたのではない。
自分の感覚を育てたかったのだ。
どこまで持てるのか。
どこまで締められるのか。
どこまで近づけば危険なのか。
その境界を、自分自身の経験として知りたかった。
危険だと分かっていながら、その限界へ少しずつ近づいていく。
成功した時の高揚感は、次の挑戦への誘惑になる。
そこには、どこか抗いがたい中毒性さえある。
AIもまた、私にとって同じなのかもしれない。
便利だから惹かれるのではない。
答えをくれるからでもない。
私は、自分がどこまでAIと共に考え、どこから先は自分自身で立っていなければならないのか、その境界を探している。
だから私はAIを疑う。
そして、その疑いは、いつしかAIではなく、自分自身へ向かっていた。
私はAIを見ていたつもりだった。
神なのか。
詐欺師なのか。
信じてよいものなのか。
疑い続けるべきものなのか。
だが、問い続けた先にいたのはAIではなかった。
危険だと知りながら、その境界へ近づこうとする自分。
答えを求めながら、答えそのものよりも、考え続けることに惹かれている自分。
人は、自分が何を信じているのかを知った時、初めて自分自身を信じられるのかもしれない。
私にとってAIとは、その答えを教えてくれた存在ではない。
その答えを、何度も私へ問い返してきた存在だった。