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自作小説 きっと忘れない

    あらすじ

    十六歳の少女ソフィアと、九歳年上の音楽家カミーユ。
    雪深いフランスの田舎町で過ごす、限られた時間。二人は音楽を奏で、食卓を囲み、静かに互いを愛していく。しかし、その幸福には最初から終わりが決まっていた。
    別れを前にして交わされる言葉、一冊の日記、そして数年後の思いがけない再会。
    「人を愛した記憶は、その人がいなくなっても消えないのか。」
    互いを想いながらも、手放すことしかできなかった二人。それでも人は、一度誰かを深く愛した記憶とともに、生き続けることができるのか。雪解けの季節を背景に、喪失と再生を静かに描く物語
    喪失を抱えながら生きること、誰かを深く愛した時間が人生に残すものを、静かな筆致で描く恋愛小説。

    ソフィア 主人公。16歳の少女
    カミーユ 25歳の女性。ピアニスト
    マルト ソフィアの祖母
    マティアス ソフィアの叔父 写真家
    エティエンヌ 近所の少年。9歳。


    ある年の冬、私は人に出会った。
    私は十六で、その人は二十五だった。
    あの日々の中で真っ先に思い出されるのは、雪の降り方と、暖炉の音と、ピアノの響きだ。顔や声は、そのあとで思い出される。
    初めは名前を聞いただけで、それ以上でも、それ以下でもないはずの人だった。
    けれど、この瞬間を起点に、あとからいくつもの出来事が、静かにこちらへ向かって歩き出していた。
    この時から全てが始まっていたのかもしれない。
     いつかの晩、彼女がホットチョコレートを飲み終わったマグカップを私が片付けた時のことは、死ぬまで忘れない。あの時は、彼女が口をつけたマグカップを洗わずに、こっそりと自分の部屋に持っていき、カバンの中に突っ込んで自分の家に持って帰り、一生誰にも見つからないようにクローゼットの奥にしまっておこうかと思った。でも、そのマグカップは数年前に亡くなった祖父が作り、祖母に送ったものだと思い出してやめた。そして後からやめたことを後悔した。
     彼女のコンサートの日にホールで見た、鍵盤に触れる繊細そうな指先を見た時のことも死んでも忘れない。細道を彼女の後ろを歩いて、雪に残る彼女の足跡の上を一歩も外さないようにと心に決めて歩いていた時のことも。
    あの髪、あの目、あの指先。彼女の全てを私は崇拝していた。

     彼女を例えるならそれは雪山に閉ざされた森の奥の小川だ。見える場所にいるのに、触れるには深い雪を踏み越えなくちゃいけない。触れれば冷たくて、手を滑らせそうになるのに、どうしてもその水に触れたくなるような、怖くて、あぶなっかしくて、でも惹かれる存在。私は彼女のそばにいると、自分の感情が不意に揺さぶられるのを感じた。触れたい、でも踏み込んではいけない。近づきすぎれば傷つくかもしれないのに、引くこともできない。引けば、二度と手に入れることができないとわかる。彼女は、冬の間寒風にさらされている金属の手すりのように冷たく、触れるとぞくりと背筋を震わせる。けれどその冷たさは一瞬で、次の瞬間には季節が移ろうかのように、春の初めに草むらに寝転び、柔らかな日差しを全身に浴びているような温かさが指先から伝わる。彼女の指が髪に触れたとき、あるいは肩に触れたとき、心臓の奥までじんわりと熱が巡るように感じる。視線が重なった瞬間には、微かに息が詰まり、唇の端に笑みが浮かぶのを抑えられない。冷たさと温かさ、距離と接近、静寂と囁きそのすべてが同時に存在して、私は無意識に彼女の存在に絡め取られ、身体も心も軽く震える。彼女は微笑みながらも、どこか手の届かない場所にいて、だからこそ、胸の奥の奥まで引き寄せられる。その冷たさに触れるたび、体の奥に熱が生まれる。危うくも、抑えきれず、心も体も揺らされる。ああ、こんなにも複雑で、どうしようもなく惹かれる存在。彼女の一挙手一投足が、私の心を乱し、不安にさせ、同時に安心させる。まるで氷の下の水流に手を浸すように、彼女の優しさに私の感情は引きずり込まれ、抗えない喜びと恐れに包まれた。遠慮がち、無愛想、なんとでも呼ぶといい。彼女とごく浅い距離でしか関わらなかった人間が抱く印象は、せいぜいそんなものだろう。けれどそんな印象は全て彼女の完全な優しさという一言で説明できるのだ。
     私は彼女への好意を他人に隠そうとしなかった。なぜなら彼女を好きになることは、ごくごく普通の反応で、抗うことが無意味だと悟ったからだ。彼女の声の波紋に耳を傾ければ、心は勝手に揺れ、笑顔ひとつで胸は熱くなる。視線を交わすだけで、体温が変わるような感覚に陥り、言葉を選ぶ理性は簡単に溶けてしまう。彼女の存在自体が、感情を揺さぶる触媒であり、その尊さと控えめな態度から知らず知らずのうちに人の心を支配してしまうのだ。好きになることは罪でも義務でもなく、自然現象のように避けられない。
     彼女は何も言わずに私を見つめるだけで、私の理性を解きほぐす。強さと脆さの境界を行き来する彼女の存在に、触れたい、抱きしめたい、全てを預けたいという衝動が胸の中で渦を巻く。手のひらで触れる一瞬一瞬が、体温と情熱を絡め取り、私を無防備にする。指先が彼女の腕に触れると、冷たさとほのかな温もりが混ざって伝わる。髪の匂いにふと胸がざわめき、唇の微かな震えや吐息を感じるたびに、守りたいという衝動と、同時に抗えない欲望が押し寄せる。彼女の肌に触れる感触、指先で辿る輪郭、吐息の温度。すべてが私の感覚を絡め取り、心を解かす。強さと弱さ、緊張と柔らかさの交差点に立つ彼女は、世界でただ一人、私を無力にし、同時に全てを預けたくなる存在だった。
     振り返ってみれば、初めて彼女を前にしたその瞬間に、もう引き返せない場所へ踏み込んでいたのだろう。
     彼女との出会いは、嵐のように私の心をかき乱し、そして静かに、何もかもを奪っていった。そして彼女への感情は、ずっと前から待っていた感覚のようでもあり、同時に理解できない衝撃でもあった。

     私は毎年、冬になるとトロントからフランスの田舎町にある祖母の家を訪れていた。普段は父と母と三人で訪れているが、その年は、母にちょうど新しい仕事が舞い込んできたタイミングだった。父は、妻を一人置いて出かけるという発想を、最初から持たない人だった。良く言えば誠実で、悪く言えば融通が利かない。だからその年は当然のように家に残る選択をし、私一人で向かうことになった。
     彼女とは、その滞在期間中に出会った。彼女は祖母が音楽学校で教えていた頃の教え子で、ピアニストとしてヨーロッパ中で活動していた。家はパリにあって、年は25歳。将来有望で春からドイツの楽団に入ることが決まっている。その前に、学生時代を過ごした祖母の家がある町で単独のコンサートが開かれる。
     彼女と初めて会った日のことはよく覚えている。玄関のベルが鳴り、朝食を中断して私は祖母に連れられ一緒に玄関へ向かった。扉を開けると、冷たい空気が一気に入り込んできた。そこに見えたのは、すらりと背が高く、黒い髪に黒い目、透き通るような肌の女性だった。コートの肩に雪が積もり、髪にも白い粒が残っている。彼女は私と祖母に短く挨拶をし、祖母に案内されて彼女に割り当てられた部屋へ向かって行った。家の空気を乱さないような動きだった。会話も所作も、必要最低限。言葉は慎重に選ばれ、動きは静かに制御されている。自分と他者のあいだには、見えない線が張られ、それ以上踏み込ませないし踏み込まない。私はすぐに、そういう人だと思った。仲良くなれる気はしなかった。大した共通点も、共感の糸口も見えない。もし相手も私に対して同じ印象を抱いているのだとしたら、滞在の数日間はただ同じ空間にいるだけで終わるかもしれない。互いの人生をただ通過し、そして二度と思い返されない。
     彼女が二階へ案内される背中を見送り、私は食卓に戻った。トーストはすっかり冷めていて、バターの角だけが白く残っていた。二階から、かすかな物音がした。引き出しの音か、椅子を動かす音か、それくらいのもの。知らない人が、家の中にいる。私は冷めたパンをかじりながら、玄関で見た雪のついた肩を思い出していた。長くしなやかな背骨。雪に濡れ鈍く輝く髪。なめらかな首筋。冷たく、しかし確かに存在感のあるその姿を一目見ただけで 私の意識は静かに捕らえられていた。
     カミーユは六日間だけ滞在する予定だった。来て四日目には公演があり、五日目の夜には関係者の小さなパーティがある。その後、翌日にはパリへ戻るのだ。本番までの三日間と当日になってからコンサートまでの数時間はほとんど練習に明け暮れるだろうと祖母は言っていた。家だと音が迷惑になるからと言って、出身の音楽学校の練習室を借りて練習していた。初日も到着するいなや、すぐに出かけてしまった。祖母も家事を片付け、午後には練習を見に行くからと行って出かけた。あの時、部屋に残った私の心は、ぽっかりと空いていた。何もせず、ただ窓の外の雪を見ていると、時間の感覚が妙に歪む。
     あの日々の体の感覚もよく覚えている。喉の渇きとか、息が浅くなる感じとか、意味もなく手のひらに汗をかいていたこととか、自分の肌を彼女の肌に重ね合わせる妄想して体が熱くなることとか。あの頃の私は、何かが始まる予感に浮かされながら、同時に、何も起きないかもしれないという考えに、何度も引き戻されていた。
    彼女がこの時の私の感情に気づいていたのかどうかを考えるのは、たぶん無駄だ。
    気づいていたのかもしれないし、気づいていたことに気づかないふりをしていたのかもしれないし、気づいていないふりをしている自分にすら気づいていなかったのかもしれない。あるいは、そのどれでもないふりをしていたのかもしれない。
    彼女は、そういう人だから。

    今になって思えば、私は彼女そのものよりも、彼女によって変わってしまいそうな自分に惹かれていた部分もあったんだと思う。
    まだ何も起きていないのに、すでに何かを越えてしまったような感覚。戻れる道は残っているはずなのに、戻る理由だけが見つからない。
    不安と高揚が絡まり合い、ほどけないまま、説明も名前も与えられず、ただそのまま記憶の底に沈んでいる。

     カミーユも祖母も出かけた後、私は意味もなく家中を歩き回っていた。
     祖母の家は、一人で暮らすには広すぎた。玄関を入ると、左手に台所があり、その奥に居間が続いている。朝も夜も、祖母は大抵そこで過ごしていた。居間の反対側には浴室があり、そのあいだを細長い廊下がつないでいる。廊下の途中には、扉だけは整っているのに、今ではほとんど物置になってしまった部屋が二つ並び、その向かいに、祖母の寝室がある。
    階段を上がって廊下をまっすぐ行くと正面に広間があり、途中の廊下には向かいって部屋が二つある。
     数年前、祖父が病気で亡くなってから、祖母はずっと一人で暮らしている。母はお手伝いさんを雇えばいいと言うけれど、祖母は首を振る。自分のことは、自分でやりたいのだと。その言葉が、この家をさらに広くしている気がする。
     最初の日の夕方、玄関の音で帰ってきたことが分かった。私は自分の部屋にいて、何もしなかった。二階へ上がる足音がして、しばらくして止まった。向かいの部屋のドアが閉まる音がした。晩御飯は3人で食べた。
    「久しぶりの学校、懐かしかったでしょう。」祖母が言う。「ええ。とっても。午前中ばったりグレゴワール先生に会いました。私が来年ドイツに行くと言ったら、自分の教え方が良かったのだと。」カミーユは少し微笑みながら言った。祖母は笑って、スープ皿に手を伸ばす。
    「相変わらずよ、あの人も。教え子の成功は、なんでも自分の功績だと思ってるの」カミーユはそう言って、グラスの水を一口飲んだ。食べ方は静かで、急がない。私は二人の会話を聞きながら、魚の身をフォークでほぐしていた。話の内容よりも、声の高さや間の取り方のほうが気になった。祖母の声はいつも通りで、カミーユの声はそれより少し低い。どちらも、この部屋の空気に無理なく収まっている。
    「ソフィアは、今日は何をしていたの?」祖母がこちらを見る。
    「エティエンヌのところに少し。あとは家にいた」
    「そうだったの。あの子も、ソフィアが来てくれて喜んでいるでしょう。楽しみにしていたもの。最近は、もう使わなくなったマティアスのカメラを使ってよく遊んでいるようね」
     マティアスは母の弟で、つまり私の叔父にあたる。写真家で、家に置いてあったカメラはエティエンヌが手に取って楽しむにはちょうどよかったらしい。エティエンヌは近所に住む少年で、幼い頃から知っている弟のような存在だ。ここにいた時はよく遊んでいた。祖母はにこやかに話し、私はそれを静かに聞いていた。それだけで話は終わった。カミーユは私を見なかったし、私も見なかった。
    「明日も朝からですか」私が聞くと、カミーユはうなずいた。
    「ええ。夕方までは向こうにいます」
    「遅くなる?」
    「たぶん。帰ってきたら、もう暗いと思います」
    祖母が「無理しないでね。風邪を引いたら元も子もないんだから」と言うと、カミーユは「気をつけます」とだけ答えた。
     食後、私はソファに座ってテレビをつけたままにしていた。画面は見ていない。番組の内容も分からない。ただ音だけが部屋に響いている。カミーユはしばらく何も言わず、私のほうを見てから、テレビのほうに視線を戻した。
     食事を終えてから寝るまでの間で彼女とは三度、目があった。一度目は、居間でテレビをみていた時、二度目は、廊下ですれ違った時。三度目は階段の下、半分影になった場所に、彼女が立っていた。薄いニットの上からでも肩の線がはっきりわかった。なぜか息をしていないように見えて、私は自分の呼吸の音がうるさくてたまらなくなった。彼女が顔を上げたその瞬間、胃の奥が裏返ったような感覚に陥った。頭の中が白くなって、次に来るはずの言葉も動きも、なにも頭に浮かばない。私はきっと、間抜けな顔をしていたと思う。隠す暇もなかった。彼女の視線が私に触れた途端、体の内側が一斉に騒ぎ出した。恥ずかしい、緊張する、でも離れたくない。そう思って結局私はまた目を逸らしてまった。三度とも私から見つめて、三度とも私から目を逸らしたんだ。思い返してみると恥ずかしくってたまらない。彼女は目が合っても一言も発さなかった。「どうも」とも「なにか?」とも言わなければ、会釈もない。
    それは無関心の証だ。彼女は今日はもう休みますとだけ言って部屋に戻った。
    心が痛んだ。
    祖母は火の始末をしながら、私のほうを見た。
    「あの子とは仲良くやれそう?」
    「あの子って?」私はわざと知らないフリをした。
    「カミーユのことよ」
    「まだわからないよ。さっき少し話しただけだし。」
    祖母は火かき棒を暖炉の脇に戻し、手を払ってから、私のほうを見た。すぐに何かを言うでもなく、少し考えるような間があった。
    「そうね。あの子、あんまり自分のことを話さないから。昔からそうなのよ。音楽のことでも、生活のことでも。必要なことはきちんと話すけれど、それ以上は言わない。余分なことを言わないって感じかしら。」祖母はそう言って、少しだけ笑った。その笑いは、懐かしさに近いものだった。
    「もちろん悪い人じゃないわ。優しい子よ。ただね、一緒にいると、こちらが勝手に想像してしまうの。何を考えているんだろう、とか、どこまで近づいていいんだろう、とか」
    私は少し黙って、祖母の言葉を反芻した。確かに、カミーユは余計なことを話さなそうだ。私が今まで見てきた誰とも違う静けさを持っている。でも、その静けさの中に、どこか温かさがある気もする。目を合わせるだけで、伝わってくるものがあるような、そんな感覚。
    「ソフィアは、そういう人、苦手?」
    「苦手かどうかもまだ分からない」
    「そう」
    祖母はそれ以上聞かなかった。暖炉の火が落ち着き、部屋の中の音が少なくなっていく。
    「エステルとお父さんは元気?」エステルは母の名前だ。
    「ママは最近、新しい舞台の脚本を書いてるから忙しそう。パパは相変わらず、学校がなくて家にいるときは家事をやってくれてる。最近、新しい魚料理を覚えてからは毎日それを作って、私はそれに付き合わされてるの」
    「相変わらずなのね。あなた痩せてるしちょうどいいじゃない。いっぱい食べないと大きくなれないわよ。」
    「もう16だよ。いっぱい食べたって仕方ないよ。」私はテレビを消して自分の部屋に戻った。
    廊下を歩くと、向かいの部屋の明かりが消えているのが見えた。さっきまで誰かがいた部屋が、もう元に戻ったようだった。ベッドに入ると、家の中は静かだった。ピアノの音も、階段のきしむ音もない。いつもの祖母の家の夜だと思った。
     ベッドの中で目を閉じると、昼間の雪の匂いや、カミーユの背中の残像が、ふと浮かんだ。
     ずっと後になってから、私はあの日々のことを、まるで一冊の本を読み返すみたいに思い出すようになった。最初は順番どおりに思い出し、次第に気になる箇所だけを拾い読みするように思い出す。やがて、どこが始まりでどこが終わりなのかも曖昧になって、ただ感覚だけが残る。あれは確かに起きたことなのに、今となっては、私の内側で何度も書き換えられた出来事のようにも思える。
     不思議なのは、不安ですら心地よかったことだ。勘違いしているかもしれないという怖さ。何も起きないかもしれないという苦悩。懊悩。ほんの少し勇気を出せば、何かが変わるかもしれないという期待。幸せは目の前にあるのに、それに気づかないふりをすること。単純な事柄をあえて複雑にして不安になること。見えないけれど確かに感じる自分と相手を繋ぐ一本でなく何本もの複雑に絡まっている細い糸。
     それらは全てあの冬から学んだ。
     あの冬に目にした全ての光景に、全ての音に、早朝の鳥の歌声と、柔らかい日差しに、日が沈む頃に近隣の食事の匂いを運ぶやさしい風に、その感覚は刻み込まれている。

     きっと彼女は他人と距離を置きたがっているんだ。なら、私からも距離を置こう。
     だけど、だったらどうして次の瞬間には彼女に話しかけるための話題ときっかけついて考えてしまうんだろう?

     翌朝もカミーユは早くに出ていった。玄関の音で一度目が覚めたけれど、起き上がらなかった。下に降りると祖母はいつも通り、新聞を読んでいた。
    「もう出たの?」
    「もう出たわよ。」
    朝食のあと、祖母は外套を着た。
    「郵便局まで行ってくるわ」
    「一人で?」
    「近いもの」
     祖母はいつも少し出かけてくると言うが、大抵の場合はニ時間ほど帰ってこない。用事はすぐに済ませるがその後は外で知り合いと話し込むのだ。私は居間に戻らず、廊下に立ったまま、二階を見上げた。何も聞こえない。昨日と同じなのに、昨日よりも気になった。また下に降りて、居間の机に置いてあった本を手に取る。昨夜の続きを読もうとしたけれど、文字が頭に入ってこない。私はページをめくり、また戻した。読む気がないことに気づいて、閉じた。窓の外を見る。雪は降っていない。代わりに、空が重たい。時間が止まっているように見えた。私は居間をを出て、また二階に上がった。用事はなかった。階段を登って左側に、カミーユの部屋がある。扉は閉まっている。ノブには触れなかった。代わりに、床に視線を落とした。古い板が少し反っていて、母が子供の頃から変わっていない場所だ。
     ここで、母は何を考えていたのだろうと思った。母は私になんでもいいから芸術をやれと言う。美術でも、音楽でも、文学でも。才能があるかどうかは関係ない、とも言う。やらないでいるより、やって失敗するほうがいいと。でも、私は失敗する前に、なにが失敗なのかも分からないままでいた。始めていないから、終わりもない。
     私の父はイギリス人で、今はカナダのトロントの美術大学で教えている。家では絵の具の匂いがしていた。母はフランス人で劇作家をしている。原稿を書いているときは話しかけても返事がないことが多かった。私はどちらも習ったことはない。祖母は元音楽教師で、私も物心着く頃にはピアノや楽器は触っていた。すべて全くわからないというわけではないし、興味がなかったわけでもない。どれも少しずつ気になって、近くにあって、そのぶん、どれにもはっきり手を伸ばすことができなかった。同年代の子達と比べれば、多少は耳も目も慣れているほうだと思う。父のアトリエに転がっていた画集を眺め、母の机の脇に積まれた戯曲の束を、意味も分からないままめくってきた。それらは「教えられた」というより、生活の一部として、勝手に視界に入り、勝手に頭のどこかに残った。ただ、私は一度も、自分の手で何かを生み出そうとしたことがなかった。描こうともしなければ、書こうともしなかった。父は絵を描く人間で、母は文を書く人間だと、私の中では早い段階で役割が決まっていて、そのあいだに入り込む余地はないように感じていた。才能があるかどうか以前に、順番が違う、という感覚だった。二人とも、何かをしていないと不安になる種類の人間だった。祖母の家にあるピアノも、同じだった。小さいころからそこにあって、鍵盤の数も、蓋の重さも知っている。音が出ることも分かっている。譜面は読めるし、演奏もできる。でも、自分のものだとは思っていなかった。あれは祖母のもので、あるいは祖母の過去だった。
     私は、していない時間のほうが長かった。何もしていない、というより、何をしていいか分からないまま、時間だけが過ぎていった。音楽も、美術も、文学も、身近にありすぎて、かえって自分のものにはならなかった。触れようとした瞬間に、誰かの領域に踏み込んでしまう気がして、手を引っ込めてしまう。あるいは、それは逃げだったのかもしれない。どれにも才能がないと誰かに言われる前に
    自分でそれを確かめてしまうのが少し怖かった。だから私は、見る側でいることに慣れていた。聞く側で、読む側で、評価するでもなく、参加するでもなく、ただ近くにいる。そうしていれば、何も問われないし、何も失敗しなくて済む。父も母も、それを咎めなかった。それが一番、居心地が悪かった。何かを始める前から、すでに遅れているような気がしていた。誰にも急かされていないのに、自分だけが取り残されている。そんな感覚を、言葉にしないまま、ずっと抱えていた。
     カミーユは、母とも、父とも、祖母とも違う。
    音楽を「している」けれど、音楽の人、という感じがしなかった。ただそこでやるべきことを、やっているという感じだ。私は自分の部屋に戻り、ベッドに腰を下ろした。
    なにかを始める気は起きなかった。一階に戻り、台所の椅子に座る。祖母が置いていった新聞があった。フランス語の記事を斜めに追い、意味を拾わないまま閉じる。時計を見る。まだ午前中だった。ピアノを弾こうかと思ってやめた。昼までの時間が、異様に長い。昼食は一人で食べた。スープを温め、パンを切る。音が出るたびに、家の中に誰かいるような気がした。実際には私しかいない。
     午後、外に出た。エティエンヌが庭の縁石に座って、靴の先で小石を弾いていた。私が隣に腰を下ろしても、すぐには気づかないふりをしていたけれど、しばらくするとわざとらしくため息をついた。
    「今日さ、学校で先生に怒られたんだけど、僕悪くないと思うんだよね。だって、しゃべっちゃだめって言われてたのは知ってたけど、マチューが先に僕に話しかけてきたんだし、それで無視するのも感じ悪いじゃん。無視したらしたで、あとで絶対なんで無視したのって言われるし。だから小さい声で返しただけなのに、それでも見てたんだよ先生。黒板に書いてるふりして。ああいうのずるいと思わない?」
    私は「うん」とだけ言った。
    「それでさ、廊下に立たされて、なんでしゃべったのか説明しろって言われたから、今言ったのと同じこと言ったんだけど、先生は途中から全然聞いてなくて、もう次から気をつけなさいって。気をつけるってなに?って思った。気をつけてても話しかけられることはあるじゃん。ソフィアはそういうのどうしてた?」
    「似たような感じだったよ」
    「でしょ。大人ってさ、子どものこと全部コントロールできると思ってるよね。できないのに。」
    「歳をとると自動的にえらくなるらしいよ。」
    「そんな、不条理だ!」
    「なにそれ」私は笑った
    「そういえばさ、今ソフィアの家に誰かいるの?」
    「いるよ。ピアニスト。しかもプロの」なぜか私が自慢げに返した。
    「ばあばの教え子で数日間だけいる。この町でコンサートがあるんだよ。コンサートまではここを真っ直ぐ行った教会の裏にある音楽学校で練習してるんだって。」
    「そうなんだ。ソフィアより上手なの?」
    「当たり前じゃない。」
    「ソフィアのおばあちゃんより?」
    「多分」
    エティエンヌは小石を強く蹴って、フェンスに当てた。
    「僕はさ、ピアノのこともよく分かんないけど、毎日やるのがどれくらい大変かは分かるんだよ。サッカーでも、毎日同じ練習するのほんとにつまんないし、意味あるのか分かんないし。でもやらないと下手になるし。だから、ピアノの人が毎日やってるなら、それだけでちょっとすごいと思う。でもそういうのって、大人同士でしか話さないでしょ。子どもに言っても分かんないって思ってる」
    私は少し間を置いてから、今度自分から話しかけたら?と言った。
    「それは少し緊張するかも。見かけたけどあの人、とんでもないくらい美人だった」
    「好きになるかもね」
    「どうだろうね。話してみないとわかんない。」
    「きっと好きになるよ」
    「そう思う?どうすれば仲良くなれる?」
    「んー、慣れ」
    「大人ってずるいな」
    そう言って、自分の家のほうへ走っていった。庭にひとり残ると、しばらく静かだった。雪に濡れたカミーユの肩のことや、食卓で見た指先の動きや穏やかな声の低さが、頭の中でちらついて離れない。私はどうやって彼女に話しかけようかと考えていた。慣れろ、慣れろと言い聞かせながらも、胸の奥が少しざわつく。
     その後は昨日と同じ道を歩いた。エティエンヌの家の前を通り、川まで行く。橋の上で立ち止まる。水の色を確かめる。いつもと同じだと分かって、少し落ち着いた。私はしばらく立ってから、また歩き出した。そのまま家には戻らず、川沿いの道を下った。石橋の中間地点にあるベンチへ向かう。観光客はほとんど来ない。町の人も、急ぎの用がなければ通らない。
    私だけの場所だった。
    昔、この町に住んでいたころ、ここで何時間も過ごしたことがある。本を読んだり、何もしなかったり、ときには、日が傾くまで座っていた。呼ばれなければ、帰らなかった。石の冷たさを確かめるように、腰を下ろす。体が、その位置を覚えている。足元に落ちている小さな石を拾い、指の腹で転がした。川の流れを目で追う。速いところと、遅いところがある。昔、この川沿いにポール・セザンヌが訪れ、何枚もスケッチを残したという話を聞いたことがある。その時の光景や色の記録が、今もどこかに残っているのだろうか。目の前の川の色は、セザンヌの絵の中の色とは少し違うけれど、同じように澄んで、同じように揺れている。ここにカミーユを連れてきたら、彼女はなにを感じるのだろう。きっと、何も言わずに水面を見つめているに違いない。言葉を交わさずとも、同じ景色を前にすれば、何かを分かち合える気がする。彼女の控えめな仕草の先にあるものを、少しだけ覗けるかもしれない。ここでなら、カミーユの背中を見ながら、ただ並んで座っているだけで、充分だと思えた。
    街灯の影が、地面に薄く伸びている。その端を、靴先でなぞる。形はすぐに崩れて、思った通りにはならない。
    私は息を一つ吐いた。ここに来ると、考えごとはしなくてもよかった。私は、ポケットに入れていた小石を川に投げた。音は小さく、水面に一度だけ波紋が広がった。
    それを見届けてから、立ち上がった。帰りに少し遠まりして音楽学校の建物の前を通った。建物の奥から、ピアノの音が漏れていた。練習用の、均一な音。誰が弾いているかは分からない。分からないのに、足が止まった。しばらく経ってまた歩き出した。家に戻ると、祖母がいた。
    「寒かった?」
    「ううん」
    夕方、外が暗くなる頃、玄関の音がした。祖母が挨拶をする声、コートの擦れる音。私は何も言わなかった。
     晩ご飯は三人で食べた。昨日と同じように、会話は短かった。私は一度だけ、カミーユの手元を見た。ナイフの持ち方が、祖母とも私とも違っていた。私はふと、カミーユのナイフの動きに合わせて、自分のフォークを持つ手の力を抜いた。ほんの一瞬、彼女が私の視線に気づいたようで、目が合った。
    「美味しいね」
    彼女は私の目を見て短く言った。声は低く、昨日より少しだけ柔らかかった。私は目をそらし、パンに手を伸ばした。カミーユの目が、わずかに柔らかくなる。見開きすぎず、閉じすぎず、その中間の微かな光。私は心の奥で、昨日までの彼女の静けさの中に潜んでいた壁が、ほんの少し揺れていることを感じた。壁の向こうには何があるのだろうと、知らず知らずのうちに想像してしまう。食卓の上の光の反射、スープの湯気、祖母の無言の手の動き。すべてが、目の前の静けさをより際立たせていた。
    会話はこれ以上続かなかったけれど、同じテーブルにいるだけで、何かを共有しているような感覚があった。
     その晩、食事を終えてシャワーを浴びた後、祖母はトランプを持ってきて言った。
    「ナポレオン、できる?」
    そう言って、祖母はテーブルの上にカードを広げた。何十年も前からこの家にあるもので、絵柄はどれも少し色あせている。私は懐かしくて、少しだけ身構えた。カミーユは首をかしげて、「名前だけは聞いたことがある」と言った。「細かいことは、やりながら説明するわ」
    祖母はそう言って、迷いなくカードを配った。最初に祖母がナポレオンになった。
    「切り札はハート。味方は……秘密」
    意味ありげに微笑む。その時点で、もう勝敗は半分決まっている。ゲームはすぐに混乱した。
    祖母はときどき、明らかに不利なカードを出す。わざと負けているようにも、こちらの反応を試しているようにも見える。私が「それ、今出す意味ある?」と聞くと、
    「あるのよ。今だから」
    理由はそれ以上、語られなかった。
    途中でカミーユが、何気なく祖母を助ける一手を打った。
    すると祖母は即座に言った。
    「あら。今の、私の味方ね」
    「え?」とカミーユが目を丸くする。
    「今決めたの」
    私が吹き出すと、祖母は何事もなかったように続けた。
    「ナポレオンの勝ち」
    誰が味方だったのか、最後まで明かされなかった。
    そもそもカミーユは、たぶんルールすら完全には理解していなかったと思う。
    私とカミーユは顔を見合わせて、それから声を立てて笑った。
    「それ、ずるくないですか?」
    カミーユがそう言うと、祖母は肩をすくめた。
    「ここらへんではあり、よ。あなたの住んでる街ではダメかも」そう言い祖母はまた次のゲームの準備を始めていた。祖母はカードを切りながら、今度はちゃんとこちらを見た。
    「じゃあ次、あなたが配って」
    私は言われた通りカードを配る。カミーユはまだ少し戸惑いながらも、手札を扇状に広げて眺めていた。
    二回目のゲームは、さらに滅茶苦茶だった。
    祖母は切り札を途中で変えたような顔をして出すし、
    私が明らかに負け筋の手を打つと、「それもありね」と勝手に肯定する。
    「これ、出していいの?」
    「たぶん」
    「たぶんって何」
    「さっきもそんな感じだったし」
    祖母は二人のやり取りを聞いて、声を出して笑った。
    「細かいこと気にすると疲れるわよ。ほら、早く」
    カミーユは半信半疑のままカードを出し、結果的にそれがうまくはまったらしく、祖母が「あっ」と声を出した。
    「今の、いい手だったじゃない」
    「ほんとですか?」
    「ほんと。たまにね、何も考えてない時のほうが強いの」
    カミーユもとうとう声を上げて笑った。
    「もう、何が正解か分からないです」
    私も横で見ていて、思わず吹き出した。
    そのままゲームは続き、誰が勝ったのか、途中からどうでもよくなっていた。負けたら「もう一回」、勝っても「もう一回」。テーブルの上のカードは何度も混ざり、順番も曖昧になった。
    トランプを片づけた後は、祖母がそのままテレビをつけた。ちょうど恋愛ドラマが始まるところだった。都会から戻ってきた女性が主人公で、地元に残った元恋人と、今付き合っている恋人の間で揺れている、よくある話だった。
    画面では、主人公の女性が夜の橋の上で深いため息をついている。「この人、はっきりしないわね」祖母が最初に言った。「急には決められないんじゃない?」
    私が少し擁護するように言う。
    「そうかな。二人に期待持たせてるだけに見えるけど」
    私はそう言って、ソファの背にもたれた。ドラマの中で、主人公は元恋人に「まだ気持ちはある」と言い、
    その直後、今の恋人にも「大切に思ってる」と言う。
    「ほら」祖母がリモコンを持ったまま言った。
    「自分が悪者になりたくないだけよ」
    「でも、気持ちって一つに決められないこともあるよね。どんな相手でも失うのが怖いっていうか」私は画面から目を離さずに言う。
    カミーユも少し考えてから言った。
    「それでも、言わない方がいいこともあると思う。相手のために」
     祖母は鼻で笑った。
    「言わなきゃ始まらないこともあるのよ」
    言い合いというほどではないけれど、三人の意見ははっきり分かれていた。
    ドラマの女性が泣き出すと、
    「泣けば許されると思ってる」と祖母が言い、
    「泣いてるからって本気じゃないわけじゃない」とカミーユが返す。
    私はそのやりとりを聞きながら、同じ場面を見ているのに、こんなに受け取り方が違うんだと思った。
    結局、その回は誰も選ばないまま終わった。
    次回予告では、三人目の男性が登場していた。
    「ほら、また増えた」祖母が言うと、
    「商売だからね」私はそう言って立ち上がった。
    カミーユは少しだけ不満そうな顔をしていたけれど、
    すぐに小さく笑った。
    「でも、続きは気になりますね。」
    「この女絶対幸せになれないわ」祖母はいう
    祖母はそう言い切って、テーブルの上の空になった湯のみを手に取った。
    「確かに」とだけ私は言った。
     私とカミーユは黙って画面を見ていた。もうエンディングの音楽が流れている。
    主人公の女は一人で夜道を歩いていて、振り返っても誰もいない。「まあ、でも」
    私は少し間を置いて言った。「ドラマだからね。現実だったら、もっと地味だと思う」
    祖母は「そうね」とだけ言って、キッチンの方へ行った。
    流しにお湯を出す音が聞こえる。
    カミーユはまだソファに座ったまま、消えかけた画面を見ていた。
    「でも、人の気持ちって整理がつかないまま進んじゃうことあるよね」
    「あるね」
    私はそう答えて、リモコンでテレビを消した。
    部屋が急に静かになった。さっきまで流れていた音楽の余韻だけが、少し残っている。
    「こう言うことはしないかと思ってた。」
    「こう言うことって?」
    「誰かと遊んだり、テレビドラマを見ることだよ。」
    その直後、予想もしていないタイミングで、私が一番されたくないことが起こった。彼女は何も返さなかったのだ。ただ床を見て黙っていた。用もないのに話しかけるなということ?それとも単に疲れが溜まっていて返事をするのが億劫だっただけかもしれない。そうだ。そう思うことにしよう。
     やがて祖母がキッチンから戻ってきて、「じゃあ、そろそろ寝ましょうか」と言った。
    三人でそれぞれ立ち上がり、電気を消す。
    私とカミーユは二人で階段を上がると、おやすみなさいとだっけ言い合って向かい合わせにある互いの部屋に戻った。
     特別なことは何も起きなかったけど、その夜の居間の空気は確かにあたたかかった。昨日からは想像もつかないほど、カミーユと話した気がする。もしかしたら、仲良くなれるかもしれない。そう思ったけれど、すぐにその考えを引っ込めた。今日こんなふうに話せたのは、祖母がそこにいたからだ。トランプがあって、ドラマがあって、話題が勝手に転がってくれたからだ。私とカミーユだけだったら、きっとこうはいかなかった。実際そうだった。間をどう扱えばいいのか分からず、遠慮して、言葉を選びすぎて、結局何も話さない終わるんだ。
     ベッドに腰を下ろし、しばらく何もせずにいた。今日の会話を思い返すほどの勇気もなく、かといって忘れることもできなかった。昨日より仲良くなれた気がした。でも、それが本当かどうかは、明日にならないと分からない。
     その日の日記にはこう書いた。
    “今日は、思ってもいなかったことが起きた。
    言葉のやりとりは短く、簡単で、でも心の中はぐちゃぐちゃだった。『こう言うことはしないかと思ってた』と私が言ったとき、彼女はただ床を見て黙っていただけだったのに、どうしてこんなに心に重く感じるんだろう。私はその場から逃げ出したくなる気持ちと、見つめていたい気持ちが同時に湧き上がった。期待と落胆はあまりに大きく、心臓の鼓動は早く打ち、手のひらは汗ばみ、体は椅子に張り付けられてるかのように動かない。ただ、床の質感や光の角度、部屋の湿った空気と彼女の姿を全部覚えておきたいと思った。”
     昨日、私は彼女と距離を置こうとした。でも、一目彼女の姿を見た瞬間に、そんな気持ちは消えてなくなった
    “ 追記 私たちは同じ絵の具で描かれているわけじゃない。私は私で、彼女は彼女。”
     何も言葉を交わしていないのに、手のひらの内側が熱くなり、ただ、近くにいたいと思う。彼女のために何かをしてあげたいと思う。だって、彼女のことが好きだから。一目見た時から彼女のことが好きだったんだ。きっと、声が枯れるようなことでも、指先が擦りむけるようなことでも、夜が明けるまででも、あきれられるまで、やめろと言われるまで、突き放されるまで、彼女のためならなんだってできる。だって好きだから。夕食の時、彼女に一声かけられただけで心が溶けてしまったなんて、みっともなくて誰にも言えやしない。今日は、私の部屋のドアは開けたままにしておこう。カミーユのために。いつだって入ってきて欲しいんだ。

      彼女の足音を聞くのが好きだった。彼女が自分の部屋のドアを開ける音を聞くのが好きだった。彼女の着ている服が好きだった。同じ空間を共有すること、同じ食事をとること、一緒にテレビを見ること、向かい合わさっている部屋、彼女の体、私の体。いつも私が求めていたのは、彼女からの優しい言葉でも、女として優しく扱われることでもない。ただ私が欲しかったのは、彼女の素肌から伝わる体温…そう、体温だったんだ。
     やがて気づいた――その幾重にも重なった折り目の間には、信心深さと享楽性が同時に宿った何かの痕跡が隠されていることに。まるで一瞬の情熱に身を委ねたようなものだった。
     その夜、ベッドに入ると、胸の奥のざわつきが消えなかった。言葉にしなくても、少しずつ、彼女の輪郭が私の中で形を取り始めている気がした。目の奥の光の揺れ、ナイフの持ち方の微妙な癖、声のわずかな抑揚。昨日までは気づかなかったことばかり。それを思い返すと、自然と顔がほころぶ。こんな小さなことで心が動くなんて、自分でも不思議だった。

     次の日はいつもより遅く起きた。下に降りると、居間にはカミーユがいて、いつもの朝とは少し違う光景が目に入った。私は思わず立ち止まり、いつもの朝とは違う景色に新鮮な感覚を覚えた。彼女はソファに腰掛け、テレビを見ていた。
    「おはよう。今日はいつもより遅いの?」
    言葉が自然に口をついた。自分でも驚くほど普通の問いだった。「おはよう。今日は1日休むつもり。本番の前の日はいつもそうしてる。練習は十分したから」
    「そうなんだ。ならゆっくり休んで。明日の公演、楽しみにしてる」  
    言ってから、自分の声が少し早かったことに気づく。カミーユは軽く頷き、再びテレビの画面に視線を戻した。短い間だったけれど、その動作に意味があるような気がした。あたりさわりのないような会話しかできない自分に、どこかもどかしさを覚えながら、キッチンへ向かおうとした。そのとき、声が背中に届いた。
    「昼、外で食べない?」
    振り返ると、カミーユはまだテレビの方を向いたままだった。画面には朝の情報番組が流れている。
    言葉は短く、普段の彼女らしい控えめな誘い方だった。でも、私にはそれが、小さな扉を開ける合図のようにも思えた。
    「外って?」
    「川の向こうのオーベルジュ・デュ・ポン。ここにいた時によく行ってた。」私は少し考えた。考えたというより、頭の中で一拍置いただけだった。「いいよ」そう答えると、カミーユは初めてこちらを見た。「じゃあ、昼前に出よう。歩いていける」それだけ言って、また画面に視線を戻した。誘ったこと自体を、もう終わった話として片づけたみたいな態度だった。キッチンでパンを温めながら、私はさっきのやり取りを反芻してみたけれど、特別な言葉は何も含まれていなかった。ただ、今日一日、カミーユが家にいるという事実と、昼を一緒に食べるという予定ができただけだ。祖母は昼前に出かけると言っていた。買い出しと、知り合いの家に寄るらしい。「二人でちゃんと食べてきなさいね」と、いつも通りの口調で言った。その言葉の優しさは、いつも通りなのに、今日は少し特別に響いた。
    家を出たのは、時計が十一時半を回ったころだった。空は白く、雪は降っていない。道の端に残った雪が、踏まれて灰色になっている。カミーユは手袋をしていなかった。コートのポケットに両手を入れて、一定の速さで歩いている。私は半歩後ろを歩いた。
    「この辺、変わってない?」
    「パン屋が一軒なくなった」
    「そう」
    それで会話は終わった。沈黙がぎこちなかったけれど、埋めようとも思わなかった。橋を渡ると、オーベルジュ・デュ・ポンの看板が見えた。木製で、文字が少し擦れている。店の前には車が二台停まっていた。中は思ったより明るかった。窓際の席に通され、川が見えた。水面は動いているのに、音は聞こえない。
    カミーユはメニューを一通り見てから、私に渡した。
    「好きなのを頼むといいよ」
    「いつも何を食べるの?」
    「魚料理」
    私はスープと、同じ魚料理を選んだ。
    メニュー越しに彼女の顔を見つめる。黒い髪、黒い瞳、なぞりたくなるよな鼻筋、唇には言葉にできない緊張感が宿っている。
    「赤くなってるよ」
    カミーユがぽつりと言った。
    「なってないよ」
    私はすぐに返した。
    「なってるよ」
    理由を聞かれる前に返してしまった。
    「寒かったから。寒いとすぐ赤くなるんだった」少し間が空いた。
    「そうよね。風が冷たくて、顔がすぐ乾燥しちゃう」カミーユはそう言うと店員を呼んで、料理を注文した。
    「あなたのことについて教えて。」カミーユは料理を頼むとそう言った。
    「私のこと?」私は、少しだけ距離を取る言い方で聞き返した。
    「ええ、あなたのこと」彼女が私に興味を持ってくれていると思って嬉しかった。何から話せばいいのかわからなくて、少し戸惑いながらも思いついた順に言った。
    「ここには毎年この時期に来る。春とか夏も来る時はある。十二歳まではここに住んでたけど、父がカナダの美術大学で教えることになって、向こうに行った。今はトロントに住んでて、向こうの高校に行ってる」
    「ここに来ると、いつも何をしてるの?」
    「読書とか、散歩とか。あとは勉強。テレビとか、映画を見たりしながら休みが終わるまで待つだけ。ピアノを弾く時もある。」
    少し間を置いてから付け足した。
    「あなたの前では弾けないけど」
    「今度、弾いて聞かせて」
    「嫌だよ。プロの前でなんて」
    「聞かせてね」
    カミーユは引かなかった。
    「それに、読書が好きなの?」
    質問が続いた。
    「本は好き。でも、愛してはいない」
    私は彼女に子供だと思われないためにあえて賢そうな言い回しで言った。
    「周りが読めって言うから読んでるだけ。たくさん読む人にしか辿り着けない場所があるって言うから。それがどんなものか、知りたいだけ」
    カミーユは何も言わずに聞いていた。
    「読書を愛していない、という言い方は変わってるね」
    カミーユはそう言って、グラスの水を一口飲んだ。
    「そうかな」
    「多くの人は、好きなものについては、もっと断定的に話す」
    私は肩をすくめた。
    「断定できるほど好きなものが、あまりないだけ」
    「それでも読む?」
    「読む。時間があるから」
    「好きな作家は?」
    「カミュ。十年以上前に事故で死んじゃった。彼の作品と哲学は難しいけど面白いと思う。まだ若かったのに。生きてたら、きっともっと作品が読めたのになって思う。」料理が運ばれてきて、会話は一度途切れた。白い皿に魚が盛られ、湯気が静かに立っている。スープの表面が少し揺れていた。
    「シーシュポス神話は知ってる?」
    「少し」
    カミーユはそう言って、スプーンでスープをひと混ぜした。
    「岩をずっと押し上げる話ね。落ちるって分かってるのに、また最初からやるやつ」
    「そう。」
    私は魚に箸を入れながら言った。身は柔らかく、白い湯気が指先に当たる。
    「人は行動に意味を求める。善良に生きれば報われる、とか、努力すれば何かが返ってくる、とか。でも世界は、そういう期待に応えてくれないこともある」
    少し言葉を選んで、続けた。
    「毎日身を粉にして人のために働いても、歩道に突っ込んできた車に轢かれることもある。一生懸命努力しても何も変わらないまま終わることもある。問いかけても、説明も救いも返ってこない。その沈黙そのものが、不条理だって」
    「逆もあると思う。」カミーユは言った。
    「逆って?」
    「どれだけ人に酷いしてことをしても、その報いを受けずに幸せに暮らす人もいる。やったことは返ってくるっていうけど、そんなことはない場合もある。」
    「残酷ね」
    「うん」
    私はうなずいた。
    「それでも生きてる、っていう事実だけが残る」
    「有名な話ね。シーシュポスは幸福だっていう」
    「そう」
    皿から目を上げずに言った。
    「希望があるからでも、報われるからでもない。ただ、世界が何も言わないことを受け入れて、それでも押し続けるから」
    「意味がないって分かってるなら、やめてもいいのに」
    「やめる自由もあるって、ちゃんと書いてる」
    私はうなずく。
    「でも、世界が沈黙しているからこそ、自分で選ぶしかなくなる」
    「やめない方を、選ぶのね」
    「うん」
    「世界に意味をもらうんじゃなくて、答えがないまま引き受ける。それが自由だ、って」
    「私には無理だと思う」私は皿を見たまま言った。
    「希望がないまま続けるなんて」
    「それは、弱いってことじゃないと思う」
    そう言って、カミーユは少し困ったように笑った。
    「希望がないと無理だって言えるの、正直だと思う。私はたぶん、希望があるふりをしていないと動けないから」
    一度だけ、こちらを見る。
    「押し続けるっていうのも、きっと強さだけじゃなくて……癖とか、意地とか、逃げ場がないだけの人もいる」
    カミーユは言い終えて、肩をすくめた。
    「だから私は、意味がなくてもいいって言い切れる人より、意味を欲しがる人の方が、信用できる」
    「そう思う?」
    「ええ」
    カミーユはそれ以上何も言わず、スープを一口飲んだ。
    湯気が立ちのぼって、さっきまでの重たい話を、少しだけぼかしてくれる。
    「あなたは?」と今度は私は聞いた。
    「何が?」
    「あなたのことについて教えて。音楽、好きでやってるの?」
    カミーユはフォークを置いてから答えた。
    「やっている、という感じかな」
    「好きじゃない?」
    「大好きよ。でも、愛しているかどうかはあまり考えない」
    それはさっき私が言ったことと、少し似ていた。私は黙って魚にナイフを入れた。
    食事は静かに進んだ。周囲の席からは低い声が聞こえてくるけれど、内容までは分からない。皿が下げられ、コーヒーを頼むかどうか聞かれて、私たちは頼んだ。
    「恋人は?」
    カミーユに向けて投げたこの質問は、唐突だったけれど、意外と不自然ではなかった。 
    「いない」
    「今は?」
    「今も」
    「誰かと一緒にいるのは、苦手?」
    カミーユは首を振った。否定でも肯定でもない、曖昧な動きだった。
    「そうでもない」
    「じゃあ、必要としてない?」
    私はカップを持ち上げて、少しだけ飲んだ。
    「分からない」
    「分からない、って言えるのは正直だね。でも、どうして作らないの?」
    「さあ、作ろうとして作れるものではないもの。」
    「恋人がいたことは?」
    私がそう聞くと、カミーユはすぐには答えなかった。
    コーヒーに何も入れず、そのまま一口飲んだ。
    「いたことはある」短く、過去形だった。
    「でも、長くは続かない」カミーユはそのまま続けた。「一度は、夢中になる感覚はあるの。数ヶ月か、せいぜい数年。相手の声や癖や、考え方が気になって、時間を使ってもいいと思う」それは淡々とした説明だった。懐かしさも、後悔も含まれていないように感じる。
    「でも、急に戻る」
    「戻る?」
    「自立した自分に」
    カミーユはそう言って、少しだけ肩をすくめた。
    「冷める、というよりその状態が、元の位置だから。」
    私はその言い方を頭の中で反芻した。
    元の位置、という言葉が、妙に正確に聞こえた。
    「人のために生きてみるのも悪くはないと思う。でも、できたことはない。冷たいって思われることもあるけど、嘘はつけない」
    私は何も言えなかった。
    否定する言葉も、慰める言葉も、思いつかなかった。
    「だから、誰かに期待されると早めに離れる」
    「期待される前に?」
    「そう」
    「それで別れたの?」
    「一番長く続いた相手は、私との間に子供を欲しがった。私も相手のことは好きだったけど、きっと、ずっと一緒にいる覚悟は無かったんだと思う。私は音楽に全てを捧げてるから。それで怖くなったのかもしれない。2年ももたなかった。」
    「いいと思う。人のために生きる必要はないよ。」
    自分でも、少し意外なほど迷いのない声だった。カミーユは何も言わずに私を見た。驚いたようでも、安心したようでもない様子だった。
    「そう言われることは、あまりないよ」
    「でしょうね」
    私はカップの取っ手に指をかけた。
    「たいていは、もっと優しくなれとか、勝手だと言われる。」
    「誰かと一緒にいれば変われるとか、言われるんでしょう」
    「ええ」短くうなずいた。
    「でも、それって、その人のために変われ、って言ってるのと同じで、あなたがあなたでいることとはあまり関係ない気がする」少し間が空いた。カミーユは、テーブルの上の自分の手を見た。指は長く、力が抜けていた。
    「あなたは、変わりたいと思わない?」そう聞かれた。
    「思わない」私は返した。
    「変わらないまま、年を取りたい」それは本心だった。
    「変わらないでいられる人は強い」
    「強いかどうかは分からない。ただ、変わる理由がないだけ」私は続けて言った。
    「でも、自分を変えてくれるような人に出会いたいとも思う。これも本心。」
    カミーユは、少しだけ口角を上げた。それは、今日初めて見た表情だった。
    「あなたは、危ないね」
    「どういう意味?」
    「私の考えを、肯定しすぎる」私は肩をすくめた。
    「肯定してるんじゃない。分かるだけ」
    その違いを、私はうまく説明できなかった。
    でも、カミーユはそれ以上聞かなかった。
    「それで、あなたは?恋人とか、好きな人は?」カミーユは私に聞き返した。
    「いない」そう答えた。あなたに夢中なんだよと言ったらどう反応しただろう?
    「どうして?」
    「私にはまだ、そういうのは分からないから。もしかしたら、一生分からないのかも。同級生たちは、相手の些細な反応で一喜一憂してる。そういうのは凄く楽しそうだと思うし、実際憧れがないわけじゃないの。
     でも、それは好きな人がいて、その人の恋人になりたいとか、そういうわけじゃない。きっと、恋人がいる自分になりたいだけなのかもしれない。」
    「そっか。でも、あなたなら、きっと、作りたい時に作れるよ。だから、好きな人ができたなら、その人と恋人になればいい。自分が好きなタイミングで」
    カミーユはそう返した。
     私はそれに対して微笑み以外何も返さなかったけど、内心は嬉しかった。カミーユの目には私が好きな時に恋人が作れるほど魅力的に写っていると、肯定的に捉えることにした。カミーユが私のことを知ろうとしているのも嬉しかった。それに、ここに着いた時の言葉。「赤くなってる」私は本当に赤くなっていたのだろうか。だとしたら、それはどう言う意味で言っていたのだろう。あなたと私の間にはお互い踏み込めない境界線があって、あなたはそれを自分から越えようとしたの?それとも単なるからかいか、少女のような無邪気な一面を見せてくれたの?

    カミーユはただ外の景色を見ながら微笑んでいる。
    店の外で、誰かがドアを開ける音がした。冷たい空気が、一瞬だけ店内に滑り込む。
    「エティエンヌが言っていた。あなたは、人に影響されにくいって」
    「エティエンヌを知ってるの?」
    「昨日、練習を見にきてた。とても可愛い子ね。あの子からあなたの話を聞いていたの」
    「私の話?」
    「そう、あなたの話。」
    カミーユの声は淡々としている。驚きも、懐かしさも、含まれていない。ただ、事実を並べるだけの、静かな声。
    私は少し間を置き、どう反応すればいいのか迷った。聞かれたことに答えるべきなのか、黙っているべきなのか選択肢はないように思えた。外の空気が、店内の暖かさと重なりながらも、ほんの少しの緊張を運んでくる。
    「戻ろうか」
    「うん」
    結局何も聞けなかった。店を出ると、空気が少し冷たく感じられた。行きと同じ道を歩く。今度は、私は横に並んでいた。
    「今日は家にいるんでしょう」
    私が言うと、カミーユはうなずいた。
    「いるよ。」
    「じゃあ……」
    言いかけて、言葉が続かなかった。
    「なに?」
    「なんでもない」
    無理に続けなかった。カミーユも何も聞かなかった。
    本当は、私の部屋に来てほしかった。あなたはあと数日でいなくなる。あの家からも、きっと私の人生からも。その前に、あなたのことをもっと知りたかった。もっと深く。誰にも話したことをないことを私に教えてほしい。
     その後のことはよく覚えている。夕食後、祖母がキッチンに行き、居間に残ったのは彼女と私の二人だけ。私は凍りついたように身動きがとれなくなり、あらゆる感情が振り切れるほど膨れ上がって自然と息が荒くなった。あの時の感情を表すとしたら、それは「嵐」だ。音も形も感情もすべてを攫っていく嵐。苦悩と不安と悲しみと期待と喜びと憧れと興奮の嵐。前触れもなく吹き荒れ、ただ通り過ぎて、あとに残ったのは何がそこにあったのか思い出せないほどの静かな嵐。私に話しかけてほしい。私からはあなたに踏み込めないから。こうしている間にも私の内側では、家具が倒れ、ガラスが割れ、壁が軋んでいる。私は何度も彼女の名前を心の中で呼んでいた。早く気づいて。だって、あなたのことを考えると、体が勝手にあなたの方を向いてしまうから。だって、名前を呼ばれたわけでもないのに、返事をしそうになるから。だって、穴の空いた胸骨から枯れ木が肺に突き刺さって悲鳴を上げたい気分だから。お願い、全部私の間違いだと言って。私の頭がおかしいだけだと言って。私はただの思春期の子どもで、何も分かってなくて、勘違いしてるだけだと言って。私がこんなふうになっていることを、どうか知らないままでいて。でも、もし知ってしまったなら、どうか、突き放さないで。私の祈りに応えるように彼女は私に話しかけてくれた。しばらくの間椅子で寝たり起きたりを繰り返しているものだから、彼女は自分の部屋で寝ればいいのにと言ってきた。ようやく話しかけてきてくれた時、私は寝ているふりをして返事をしなかった。正確には、返事をできなかった。なんで自分の部屋に行かないのか、そんなことの答えは一つしかない…..。あなたの近くにいたいから。あなたと一緒にいたいんだ。カミーユ。ここがだめなら私の部屋で。あなたの部屋でもいい。床でも、廊下でも、吹雪の中でも、あなたと同じ空気の中であればどこでも。あなたの繊細な心配りや、遠慮がちな情熱や、完全なやさしさや、胸が苦しくなるような誠実さで私を包み込んで。あなたが欲しい。あなたの手、あなたの匂い、あなたのおくれ毛まで、全て。私の全ても捧げるから……。 
     その夜のことも忘れない。私がソファで寝たふりをしている時、彼女は私を抱えて階段を登りベッドまで連れいってくれた。それも私の部屋のベッドではなく、彼女の部屋のベッドに。彼女は私の頭を優しく撫でながら、次第に手は頭から肩、背中、そして腰を必要以上に揉んだあと移動し、やがてわたしの中へ入ってくる。しばらくの間そうしていた後に目を開けると、私は自分の部屋のベッドで寝ていた。あれが夢だったのか、現実だったのかは分からない。けれど確かにあの温度や重み、息遣いの残像は現実以外にはありえないはすだ。

     次の朝、時間通り目を覚ますと窓の外の光は白く、街路樹の枝にはまだ霜が残っている。今日はカミーユの公演の日。昨日の会話と夜の出来事が頭の中でまだ繰り返されている。朝食を取りながら、私は今日の自分の予定を頭の中で整理した。カミーユの公演は昼過ぎから。だから午前中は、少し散歩でもするつもりだった。けれど、どこか落ち着かず、手元のパンに集中できない。外の空気を吸いに、厚手のコートを羽織って家を出る。雪の溶けた道を歩きながら、遠くで川のせせらぎのような音を聞く。街は静かで、人通りも少ない。いつもよりゆっくりと、橋の上まで歩く。橋の欄干に手をかけて、川を眺める。水面は冷たい光を反射して揺れている。思わず息を吸い込むと、胸の中に少しずつ緊張が溶けていくのを感じた。カミーユが目の前で演奏するのを想像すると、まるで自分の心臓まで音楽に合わせて震えているような感覚になる。一度家に戻り、祖母と一緒に駅へ向かう道の途中、街のカフェや小さな店の前を通る。どの店も冬の光景に包まれ、温かい匂いが漂う。歩く速度を少し落とし、周囲の光景を目に焼き付ける。雪が溶けた水たまりの上に映る空の青、凍った車の窓ガラスに残る霜模様、小さな子どもたちが雪玉を投げ合う様子…全てが今の自分には新鮮で、生きていることを実感させる。駅に着き、ホームに立って列車を待つ間、周囲の景色をぼんやりと見ていた。雪が少しずつ舞い、街灯に反射して光る。都会の喧騒とは違う、静かな冬の匂いが鼻をくすぐる。電車に乗ると、座席に腰を下ろして窓の外を眺める。列車はゆっくりと動き出す。通過する小さな町の家々、凍った運河、枯れ木の並ぶ道。外の景色は、昨日までの雪と同じはずなのに、今日の自分の心に映るそれは全く違って見える。緊張と期待が混じった気持ちは、まるで川面に揺れる光のように不規則に揺れる。
     会場に着くと、すでにリハーサルは終盤に差し掛かっていた。空気は静かで、楽器の匂いと木の香りが混ざる。客席の列に沿って歩くと、カミーユの姿が目に入った。彼女はまだ背筋を伸ばし、ピアノの前に座っている。手元の鍵盤に指を置くその姿は、普段の落ち着いた彼女とは少し違い、緊張と集中が混じった独特の空気をまとっている。
    私と祖母は特等席で、一番前の席に座り、カミーユの姿をじっと見つめていた。観客のざわめきが少しずつ静まると、照明が落ち、静寂が会場を包む。ピアノの蓋がゆっくりと開かれ、空気が張りつめる。彼女が指を鍵盤に置くと、世界の時間が少しだけ止まったように感じる。カミーユが最初の音を出した瞬間、会場の空気が微かに震えた。低く響く音、柔らかく広がる余韻。私は思わず息を止め、耳を澄ませる。指先が鍵盤に触れるたびに、音は微妙に揺れ、温度や湿度までも感じ取れそうなほど繊細だった。カミーユは目を閉じ、演奏に集中している。姿勢や指の動きから、長年培った技術と感覚が、自然と全身から流れ出しているのがわかる。曲が進むにつれ、私は周囲の観客の存在を忘れ、ただ音に身を委ねていた。音楽は会場の壁や天井に反響し、空気の振動として体に伝わる。時折、彼女の呼吸や小さな体の揺れまで感じるようで、心の中の何かが静かに揺さぶられる。指先だけでこれほどまでに世界を変えられるのか、と思った。私が知っている曲も多かった。
    ベートーヴェンの《月光ソナタ》。ショパンの、私が何度も聴き返したノクターン。そして、途中で諦めてしまった《ラ・カンパネラ》。カミーユが作曲したという曲もあった。カミーユの演奏に引き込まれると同時に、音楽そのものよりも、それを知ったときの自分や、途中で手放した時間が呼び戻される。上手く弾けなかった指、譜面の端に書いた書き込み、もう一度やり直そうと思いながら結局閉じたままの楽譜。演奏は約1時間に渡り、カミーユはどれも完璧に弾ききった。演奏が終わると、数秒の沈黙が流れ、続いて大きな拍手が巻き起こった。カミーユは少し微笑んだだけで、深くお辞儀をしてから立ち上がった。私は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚を覚え、手を叩くことを忘れていたのに、周囲の拍手につられて自然に手が動いた。
    「セ・パルフェ・マニフェーク!(最高だ!完璧だ!)」私の近くにいた観客の一人の小柄な男性が、あまりの感動に涙ぐみながら、抑えきれないと言った様子で叫んでいた。公演後、観客のざわめきが少しずつ収まり、私はカミーユが控室に戻るのを待った。表情は演奏中とは違い、少し柔らかく、けれど緊張の余韻が残っている。私は椅子に座り、手を膝に置きながら、その姿をただ見つめていた。笑顔を向ける必要はなく、いつもの静かな目で私を見た。言葉はなくても、今日の演奏が終わったこと、無事にやり遂げたことが伝わる。
     「最高だった。」と私は自然に口をついた。
    カミーユは一瞬こちらを見て、微かにうなずいた。
    「ありがとう」短く、それだけだった。
     関係者達に軽く挨拶を済ませると、私たちは会場を出て、雪の残る街路を歩いた。空気は冷たく、頬に当たる風が少し痛いほどだった。歩く速度は、行きよりもずっとゆっくり。滑って転ばないように、慎重に歩く。会話は少なかったが、不自然な沈黙ではなく、むしろ心地よい間だった。
    「緊張した?」私が尋ねると、カミーユは少し考えてから答えた。
    「うん。」
    「楽しめた?」
    「ええ、少しだけ」
    微妙な言い回しに、私は笑みを返した。言葉は少ないが、彼女の口元や目の動きから、演奏後の充実感が伝わる。
    列車を降り、橋を渡る頃には、陽が少し傾き始め、川面に反射して光が揺れていた。冷たい空気と光のコントラストが、今日一日の出来事を静かに包み込む。私は深く息を吸い込み、胸の中に残った緊張を少しずつ解きほぐす。
    「この後はどうするの?」
    「明日の晩は関係者たちでパーティがあるの。それが済んだら翌朝パリに帰るわ。」
    「もう帰ってしまうの?」
    「ええ。残念だけど、もともとそのつもりだったから。」
    「そっか。また会えるといいね。」
    「そうね」
    もう少し話したい。あなたのことを知りたい。帰らないで欲しい。とは言えなかった。感情を払うように、今日の演奏の事を思い出そうとしていた。演奏中のカミーユの姿、指先の細やかな動き、呼吸のリズム…全てが鮮明に思い出される。
    「今日はこのあとはレストランを予約してあるの。そこに行きましょ。ごちそうよ。」教え子の完璧な演奏を聴いて興奮気味の祖母はそういうと、私とカミーユの手を引き町のレストランに行った。レストランは川沿いにあって、天井が低く、壁には古い写真がいくつも掛けられていた。木の匂いと、煮込み料理の甘い湯気が混じっている。
    私たちが席に着き、食事をしている途中で1人の男性が駆け寄ってきた。
    よく見るとカミーユの公演が終わった時に「セ・パルフェ・マニフェーク!」と叫んでいた人だ。その男性は今度は「サン・コム・アン・ミラクル!(まさに奇跡だ!)」と大きな声で言った。

    「何という奇跡だ。マドモアゼル・カミーユ。
    今日はあなたの演奏を聴かせていただきました。その興奮が冷めなくて……もっとも、まだ数時間しか経っていませんが」
    男性はそう言って、胸の前で両手を組んだ。大げさな仕草なのに、芝居がかってはいなかった。言葉が先に出てしまう人なのだと分かる。カミーユは少し困ったように微笑んだ。
    「音楽はね、量じゃない。残り方です。今日のあなたの音は、残る。ずっと残る。あなたは天才だ!」
    そう言ってから、「セ・パルフェ・マニフェーク!」は私のほうを見た。「あなたは、特等席でしたね」
    私は一瞬、何のことか分からなかった。
    「一番近くで、最初から最後まで、彼女の音を受け取っていた」
    「……たまたま、居合わせただけです」
    そう答えると、「セ・パルフェ・マニフェーク!」は首を横に振った。
    「たまたま、という言葉で片づけていいこともあります。でも、今日のは違う。音楽は、誰の前で鳴るかを選ぶことがある」冗談めかした言い方だったが、目は本気だった。
    祖母が、ふっと笑った。
    「大げさね」
    「大げさでいられるうちは、まだ生きている証拠ですから」
    そう返して、男はカミーユに向き直った。
    「失礼ですが、少しだけお話ししても?」
    カミーユは一瞬考え、それから頷いた。
    「少しなら」
    何を話しているのかは聞こえなかった。。私は祖母の向かいに座ったまま、水の入ったグラスを指で回していた。
    その時だった。
    誰かが、短く手を叩いた。それに、別の誰かが応えた。
    気づくと、拍手が増えていく。歓声というほど大きなものではないが、空気が変わった。
    視線を向けると、カミーユが店の奥にあるアップライトピアノの前に立っていた。さっきまで閉じられていた蓋が、いつの間にか開いている。カミーユは一度、客席を見回した。そして、何も言わずに椅子に腰を下ろした。
    最初の音は、とても静かだった。公演のときのような張りつめた響きではない。店のざわめきの中に、そっと差し込むみたいなジャズミュージックだった。旋律ははっきりしているのに、どこか曖昧で、決まりきった形を拒んでいる。リズムは軽く、けれど流されない。音が音を追いかけるのではなく、互いに譲り合って進んでいく。店の中の会話が、ひとつずつ消えていった。グラスの触れる音、椅子の軋む音、誰かの咳払い。そういうものまで、音楽の一部みたいに馴染んでいく。
    「セ・パルフェ・マニフェーク!」は席に立ったまま動かなくなっていた。目を閉じ、胸の前で手を組んでいる。よく見ると足は小刻みに震えていた。隣の席のイタリア人らしき老夫婦も深く感動している様子だ。
    祖母は目を瞑って演奏を聞いていたが、とても楽んでいる様子が伝わってくる。
    私は息をするのを忘れていた。
    昼間のカミーユとは違う。正確さも、完成度も、ここでは必要ない。音は自由で、少し崩れていて、その分、触れられる距離にあった。ピアノの音が、店の壁に反射して、柔らかく戻ってくる。誰かの心が、そこで溶けていくのが分かった。曲が終わると、一拍の間があって、拍手が起きた。今度は、はっきりとした歓声だった。
    「ブラボー!」
    「アンコール!」
    カミーユは立ち上がらなかった。ただ、肩をすくめるようにして、もう一度鍵盤に手を置いた。二曲目は、もっと静かだった。夜のための音楽だ。私は、なぜか胸の奥が少し苦しくなった。この人は、あと2日でいなくなる。なぜかそれが頭に浮かんで離れなかった。演奏が終わると、今度こそ大きな拍手が店を満たした。カミーユは軽く頭を下げ、それ以上は何もせず、静かに席を立った。
    戻ってきた彼女の顔は、少しだけ赤くなっていた。疲れているのか、熱が残っているのか、分からなかった。
    「やると思わなかった」
    私がそう言うと、カミーユは小さく息を吐いた。
    「雰囲気に負けたの。でも楽しかったよ」
    それだけ言って、グラスに手を伸ばした。
    店の空気は、さっきまでとは別のものになっていた。
    柔らかく、温度が上がって、誰もが少しだけ優しくなっている。この夜は、まだ終わらない。そう思った。カミーユはワインを一口飲んだ。料理は、もう冷めていた。でも、誰も気にしなかった。
    「今夜は忘れられない夜になりました。ありがとう、マドモアゼル」
    「セ・パルフェ・マニフェーク!」はそう言って、深く一礼し、店を出ていった。
    「悪い人ではないね。」祖母は言った。
    「ええ、ただの、音楽を信じすぎている人です」カミーユはそう返した。
     帰り道、川沿いを少し歩いた。寒さに負けて私たちは小走りで家に戻った。玄関に入ると暖かい空気が一気に体にまとわりつく。「はあ……寒かった」私が上着を脱ぎながら言うと、カミーユも同じように息を吐いた。
     「思ったより冷えたね。昼はあんなに天気よかったのに」カミーユは言った。
     「冬だもん。油断すると一気にくる」
     「2人とも風邪ひかないようにね。今お風呂沸かしてきますからね」祖母はそういうと浴室に向かって行った。
    コートを脱ぎ、ハンガーに掛ける。動作は自然で、特別な間はない。
    「お腹、まだ少し空いてる?」カミーユが聞く。
    「うん。正直、カミーユの演奏に集中しすぎて、食べるの忘れてた。」
    「私も。集中するとそうなる」
    キッチンに行き、冷蔵庫から適当なものを取り出して、ありあわせで料理を作った。
    「今日、疲れたでしょ」私が言う。
    「うん。でも、嫌じゃない疲れ。身体は重いけど、頭は冴えてる」
    「それ、一番眠れないやつ」
    「そう。だから今日はたぶん、すぐ寝られない」
    野菜をごった煮したスープを器に注ぎ、テーブルに並べる。二人で向かい合って座る。
    「演奏、ほんとによかったよ」私は改めて言った。
    「ありがとう。でも、昼のホールより、さっきの店の方が楽だった」
    「そりゃあね。分かる気がする。自由だった」
    「間違えても、誰も気にしないしね」
    「間違えてた?」
    「少し。でも、ああいうのは、合ってるかどうかより流れ」私はスプーンを動かしながら頷いた。専門的な話ではないけど、ちゃんと理解できる言い方だった。
    「とりあえず一段落?」
    「そうね。来月はまた別で公演があるけど、それまでは特に何もないわ」
    「明日のパーティ、行きたくない?」
    「正直に言うと、あんまり。でも顔は出す」
    「主役だもん。大変だね」
    「仕事だから」
    それだけで済む話だった。
    食べ終わると、カミーユは小さく伸びをした。
    「頭は冴えてるけど、今日はもう休む。」
    「うん。おやすみ」
     ああカミーユ、もう行ってしまうの?
    「ソフィアも、あまり無理しないで」
    「ええ、私は観客だから大丈夫」そう言って笑うと、カミーユも笑った。風呂に入り、それぞれの部屋に戻ろうとした。特別な言葉を何も必要とせずに廊下で別れようとする時、立ち止まる理由もないのに、私は立ち止まった。
    「どうしたの?」カミーユが言う。
    “どうしたの”って?
     私はね、カミーユ。もう少し話していたいの。まだ寝たくない。寝たら、明日になってしまうから。明日が終われば、あなたはいなくなってしまうから。今日、帰り道もずっとあなたの手に触れたかった。あなたの白い陶器のような手、一度繋いでそして二度と離したくない。あなたの指が好きなの。その指で私に触れて。縛って。私の部屋に来て。服は脱いでいても、着ていてもいい。だけど、着たままなら近づくのはやめておこう。その状態で触れ合うのは、ほんの少しの努力によって埋められる溝を面倒に思って諦めるようなものだから。付き合いたての恋人同士が互いの距離を探り合いながら、結局一方の熱い気持ちを対岸へ残したまま寒風の吹く夜の川辺に置き去りにしていくようなものだから。けれど脱いだならこっちに来て。私を見つめて。私を脱がせて。私が自分でしか触ったことのない部分の私を、あなたに触って欲しい。私の胸。私のふくらはぎ。私のお腹。お腹より少し下にも...。あなたの思うままに、あなたが望むままに。
     だからお願い、どこにも行かないで——。
    「ううん。なんでもない。おやすみなさい。また明日。」
    結局何かを伝えられるわけもなかった。でも、それでいいのだと思った。自室に入ってベッドに腰を下ろしたとき、
    今日一日のことが、ようやく順番に思い出せる形になった。疲れているのに、昂って眠れそうもない。もちろんその晩はベッドに入っても眠れなかった。熱くなっている心と下半身をどうすればいいのか分からなかった。
     彼女が部屋に入ってくることだけを考えていた。ノックも合図もなく、当然の顔で。私の意思なんて最初から勘定に入れずに、私の服を脱がせてくれることだけを望んだ。優しく、そっと、女同士としての最低限の気遣いは見せるけれど、強引に。私を裸にしたら両手首を強く握ってベッドに押さえつけて欲しい。そうしたら私は、その時のために用意していたセリフを言うんだ…。
     “やめて”つまり、やめないで。
     ”痛いよ。傷つけないで”つまり、好きなだけ私を傷つけて。気が済むまで私を汚して。
     彼女は何も言わずにひたすらに私を見つめている。その目を見つめ返すと、私は赦免状を突きつけられた囚人みたいに全身の力が抜けて、へなへなとしてしまうんだ。どうしてそうなってしまうのかはわからない。でも、その理由を知りたいなら、それでも見つめ続けなければならない。
     ねえ、カミーユ。なんであなたはそんなにもそっけないの?一緒に食事に行った時、もっと話せる時間はあった。さっきだってもっと一緒にいれたはずよ。頼むから、もう距離を置かないでほしい。

     …でもね、心のどこかでわかっている。あなたは、手に入らない存在だということを。

     「さようなら 君は私が所有するには価値が高すぎる
      君も自分の値打ちが十分にわかっている
      君の同意がなくてどうして君を引き留めえようか?
      私のどこに君に相応しいところがあるだろうか?」

    シェイクスピアのソネット集の一節。胸の奥で、その言葉が繰り返された。触れたいのに触れられない、愛しいのに届かない、そんなもどかしさが、静かに胸を締めつける。あなたは去って、私の人生から消えてしまう。きっと、真の愛は時間や困難に揺らがない。波に打たれても、衰えることはない。星を頼りに道を失わず、どんな嵐にも揺るがない。それなのに私たちはどうしても離れなければならないの?私たちは一緒にいるべきなのに、どうしてそのことに私だけ気づいて、あなたは気づかないの?
     私はそっと立ち上がって、窓の外を見た。雪は降っていない。空は白く重たいままだ。遠くの屋根の向こうに、昨日までとは違う光が差し込んでいる。でも、その夜の私の心の中には、もう光は届かなかった。そして心の奥で、自分に言い聞かせる。あなたが去っても、私の中には残る。消えることはない。ただ、もう手を伸ばさないだけだと。


              3


    窓から差し込む光で目が覚めた。雪は降っていなかったが、空気はまだ冷たく澄んでいる。私は起きた時から憂鬱だった。今日がカミーユと過ごせる最後の日だからだ。キッチンに降りると、祖母はすでに朝食を準備していて、玄関の方からマティアスの声が聞こえた。
    「おはよう、ソフィア」
    「おはよう、おじさん」
    マティアスは軽く手を振り、机の上にカメラを置いた。レンズが朝の光を受けて、微かに輝く。
    「今日は何をする予定?」私が尋ねると、マティアスはにやりと笑った。
    「ちょっと散歩と写真だ。君たちも一緒にどうだ?」
    カミーユはテーブルの端で静かにスープをすすりながら、私をちらりと見た。その目には、〈ねえ、この人は誰?〉という問いが宿っていた。
    「私のおじさん」
    「いや、客人が来るとは聞いていたが、まさかこんな有名人とはね、マドモアゼル・カミーユ」マティアスはカミーユに向かって握手を求めた。カミーユは小さくうなずき、「こちらこそ」と答える。握手は、ぎこちないけれどどこか誠実なものだった。
    「散歩、いいね」私は小さく言った。
    私たちは家を出て、川沿いの道へ向かった。マティアスは歩きながらカメラを構え、二人の後ろ姿や川面の光を切り取っていく。
    「動きは自然に、笑顔も無理に作らなくていい」
    私は小さく笑い、カミーユは一歩後ろを歩き、彼女の足跡を辿りながらも、時折川の流れや空を見上げた。
    「カミーユ、ちょっとこっち向いてみて」
    マティアスが声をかけると、カミーユは軽く首を傾げ、視線をカメラに向けた。その瞬間、シャッターが切られる。
    「いいね、そのままの感じで」私は二人の間を歩きながら、小石を蹴ったり川面の波紋を見たりする。マティアスのシャッター音と、水のせせらぎ、遠くで鳴く鳥の声。自然の中で、三人だけの時間がゆるやかに流れていった。
    歩き疲れたころ、マティアスはベンチに腰を下ろした。
    「ちょっと休憩しよう。写真も見てみたいだろ?」
    カミーユと私も並んで座る。カメラの小さな画面に、さっきの光景が映し出される。
    「わあ、きれい」私が言うと、カミーユは少しだけ笑った。マティアスはカメラの画面を指でなぞりながら、写真を見せてくれる。
    「ほら、この光の入り方、川の水面がまるで絵のようだろ?」
    私は頷きながら、指で軽く画面をなぞる。カミーユは少し離れて座ったまま、目だけで画面を追っている。
    「カミーユ、ここで少し振り返ってごらん」
    マティアスが提案すると、カミーユは一瞬迷ったように視線をそらすが、やがて小さく肩をすくめて振り返った。
    「いいね、そのままの表情で」
    マティアスはシャッターを切る。カミーユの瞳が川の光を映して、少しだけ揺れている。私は思わず笑った。
    「自然にできちゃうんだね、こういうの」
    「いや、まだ少し硬いけど、あと数枚で慣れる」マティアスが応え、カミーユは頷く。
    その後、三人で川沿いの小道を歩く。マティアスは時々立ち止まり、川面や木々の陰を撮る。
    「こっちの光も面白いな」
    私は小さな小石を蹴り、水面に小さな波紋を作る。カミーユがそれを静かに見て、時折微笑んでいるのがわかる。
    その笑みは、私たちの間にまだ時折現れる緊張を、少し溶かすようで、でも完全に打ち解けてはいない、絶妙な距離感を保っていた。道の途中、木の下にある段差で休むことにした。マティアスはカメラを膝に置き、二人を眺める。
    「ソフィア、カミーユ、君たちが自然に見える瞬間を撮るのは難しい。でも、今の二人はとても自然だ」
    少し歩き疲れたころ、マティアスは提案した。
    「じゃあ、この橋の向こうまで行ってみようか。雲で太陽が隠れる前にあの光を撮りたい」
    私とカミーユは黙って頷く。
    道中、私はずっとカミーユのコートの襟元と、結んだ髪の隙間から覗くうなじにうっとりとしていた。叶うなら、寒風や、ちらちらと降る雪や、すれ違う人々の視線から、その柔らかな曲線を守りたかった。
     マティアスは先を歩きながら、時折振り返り、二人の自然な動きをカメラに収める。私は一歩後ろから、川面に映る光と、隣で歩くカミーユの輪郭を交互に目で追った。
    「こんな美人を撮れるなんて。写真をやっていてよかった」マティアスは照れる素ぶりもなくそう言った。
    「今日はここまで。俺はこの先の場所に用がある。またモデルになってくれ。」 カメラを肩にかけ、軽やかな足取りで橋を渡って行く。 橋の欄干に沿ってゆっくり歩き、マティアスの姿が見えなくなる と、自然に二人はベンチに腰を下ろした。 「いつもあんな感じなの。撮るだけ撮って、満足するとどっか行く。」
    私がそういうと面白い人と言ってカミーユは笑った。
     冷たい風が頬を撫で、川面が淡い光を反射してきらめく。私は手元の小石をいじりながら、時折川に目をやった。 カミーユは隣で静かに座り、手を膝の上に置いたまま、柔らかな光に包まれた川面を見つめている。
    「ここはね、私だけの場所なの。私がここに住んでいた時によく過ごした場所。本を読んだり、音楽を聴いたり、ただ座っていたり。画家のセザンヌがここ来てスケッチをしてたんだってさ。ここに来ると、帰ってきたって感じがする。」
    「トロントにそういう場所はある?」
    「ない。まだ先の事は分からないけど、多分、少なくとも大人になるまではこれからもずっとあそこで過ごすと思う。でもあそこは一時的な居場所って感じがする。私が本来いるべき場所はここって感じるの。あなたにはそういう場所はある?」
    「私にはない。パリはどこに行っても誰かの場所だから。あそこに私の居場所は無かった。あなたが羨ましい。」
    「そっか。」
     私は続けた。「ドイツに一人で行くのは怖くない?知り合いはいるの?」
    「知り合いはいる。でも、本当にただ知り合ってるだけ。お互いの名前と顔を認識してるって感じ。」
    「寂しくなったらどうする?」
    「寂しいと考えないようにする。」
    「寂しくなったら、私が行ってあげるよ。」
     そう言った後、私は思い切って視線を横にして彼女を見てみた。すると彼女も、同じタイミングでこちらを見ていた。視線が重なり、カミーユが私のことを見ていると思うと、明確に心拍が速くなるのを感じた。近すぎる。何か話さないとと思ったけど、言葉が出てこなかった。視線を逸らす口実も見つからない。そのまま、しばらく見つめ合った。多分五秒ほどだった。
     その瞬間、私の世界に存在するのは、カミーユの息遣いと、ベンチの冷たさと、触れ合っている肩の体温だけ。それだけがやけにはっきりと感じられる。逆にそれ以外は何も感じなかった。見つめあっている間、私はとても熱くなった。つい数秒前まではかじかんでいた手が、感覚を取り戻した。私はその手をカミーユの頬にあてたかった。私の手の温度と、感触を覚えて欲しかった。10年後、20年後、また会えることがあるなら、私の手を彼女の頬に触れて、その感触で私だと思い出して欲しいと思った。
     やがてカミーユは前に向き直った。微かに肩をすくめ、川面の光を再び追う。心の奥で、私はその視線の隙間を探るように、まだ彼女を見つめていた。彼女は何も言わなかった。やがて、沈黙を埋めるために、「パーティは何時から?」と聞くと、六時からだと言った。時間はまだ昼前で、夕方に準備して会場に行くまでもまだ時間はある。その時間が私とカミーユが過ごせる最後の時間だとは考えないようにしていた。カミーユは立ち上がると、エティエンヌのところに行こうと言った。彼の分のチケットがなくてコンサートに呼べなかったから、エティエンヌは相当悔しがってたらしい。埋め合わせに今日パーティの前に家のピアノを演奏する約束をしたと言った。
     エティエンヌの家の前まで迎えに行くと、カミーユを見るなり駆け寄って抱きついた。カミーユはエティエンヌの頭を優しく撫で、自然と手を繋いで歩き始めた。二人の奇妙な友情とエティエンヌの無邪気さが少し羨ましかった。
     二人に続いて祖母の家に戻ると、暖炉の火はまだ柔らかく揺れていた。ピアノの前に座るカミーユ。指先を鍵盤に触れた瞬間、部屋は静まり返る。「聴いててね」と彼女が言った。声は小さく、でも確かな意志がこもっていた。
     最初の音が響く。ショパンの《夜想曲 第2番 変ホ長調》柔らかく、少し切なく、部屋の隅々まで光を運ぶように。私は椅子に腰を下ろし、ただ耳を澄ます。カミーユの背中のライン、肩の微かな揺れ、指先の動き。それらが音と重なり、時間がゆっくりと流れていく。次の曲は最初の和音で分かった。ドビュッシーの《月の光》だった。
    演奏は穏やかに、でも時折感情を抑えきれずに揺れる。
     エティエンヌはピアノのそばで小さく座り込み、時折カミーユの指先をじっと見つめている。その目は輝きから、楽しそうに音を追っているのがわかる。その無邪気さが、部屋の空気を少し柔らかくしていた。私は椅子に背を預け、手元の膝の上で指を組みながら、カミーユの音に身を委ねる。演奏が進むにつれ、カミーユの指の動きに合わせて心臓の鼓動が微かに揺れ、音の余韻が胸に残る。やがて最後の音が静かに消え、部屋に残ったのは柔らかい静寂だけ。カミーユはゆっくりと手を鍵盤から離し、深く息を吐いた。その横顔には、わずかに満足そうな微笑みが浮かんでいる。エティエンヌが静かに拍手をして、元気な声で「すごいよ、カミーユ!」と言った。
    カミーユは少し照れたように微笑み返し、でもその視線は私のほうにも向けられた。
    「これで許してくれる?」カミーユはエティエンヌに向かって優しく言った。エティエンヌは笑顔でカミーユの元に寄ると、膝の上に座りると、僕に教えてと言った。カミーユはすぐに微笑んでうなずいた。エティエンヌは膝の上で身を乗り出し、目を輝かせて鍵盤を見つめる。小さな手がそっと鍵盤の上に触れるたび、カミーユは柔らかく手を添え、正しい位置を教えていく。「そう、そこ。指をもう少し曲げて…うん、いい感じ」カミーユの声は静かだけれど、丁寧で、エティエンヌの集中した顔をより引き立てる。私は隣で見守りながら、二人の間に流れる静かで温かい時間に胸が満たされていくのを感じた。
    部屋の中はまだピアノの余韻に包まれ、外の冷たい空気も、温かな光も、全てがこの瞬間をやさしく包んでいた。
    願うなら、このまま時が止まって欲しかった。
    私、カミーユ、祖母、エティエンヌ、マティアス、カナダにいる父と母。私が慕う人たち全員と、一つの屋根の下で生活することができたらどれだけ幸せだろうかと考えた。その考えは、胸の奥でふくらみかけて、でもすぐに静かにしぼんだ。そんなことは叶わない、と分かっているからではない。叶うかどうかを考える前に、もう十分に大切だからだった。祖母がキッチンで食器を動かす気配がする。家は生き物みたいに、いつもの呼吸を取り戻していく。エティエンヌは鍵盤を一つ鳴らしては笑い、カミーユはそのたびに「今の、いい音だったね」と低く言う。
    カミーユがふと顔を上げ、私のほうを見た。でも彼女は何も言わず、またエティエンヌの手元に視線を戻した。その仕草が、なぜだかとても優しく見えた。私はその様子を見ながら、胸の中でそっと思った。この時間は、永遠でなくていい。ただ、この瞬間を思い出せば、どんな辛いことがあっても乗り越えられる。そう確信するほど、今ここにある温かさが、静かに胸を満たしていた。
     夕方になると、カミーユはパーティに向かう支度を始めた。鏡の前で髪を整え、軽く香水を纏い、ドレスの襟元を整える。今まで見た普段の彼女とは違う特別な空気を漂わせていた。私はその後ろ姿を、少し離れた場所から静かに見守っていた。日が傾き、窓から差し込む光が柔らかく部屋を満たす中で、カミーユのシルエットが温かく浮かび上がる。
    「カミーユ、気をつけて行ってきてね」エティエンヌがそう言うと、カミーユは「心配しないで大丈夫だよ」と言ってエティエンヌの頭を優しく撫でた。私はこのあと彼女が出て行くことを、まだ心のどこかで受け入れきれずにいた。カミーユが緊張した様子で私のそばに来て「どうかしら?」と言った。少し言葉に迷った後に「完璧に見える」と私は言った。端的で、それでいて彼女を表すには最もふさわしい言葉だった。
     「そうね、話しかけてくる男には十分気をつけるのよ。あなた綺麗すぎるわ」祖母はそう言った。
    「ありがとうございます。先生。」カミーユは少し頭を下げ、礼を言う。その仕草が、普段の堂々とした彼女とは違う、ほんの少しだけ柔らかい表情を作っていた。
    私は心の中で、その一瞬の彼女の全てを焼き付けようとしていた。
    「マドモアゼル。」マティアスはそういうとカメラで写真を撮る仕草をした。「あら、あなたいつの間にいたの?」と祖母が言うと、部屋の空気はふっと柔らかくなり、皆自然と笑顔になった。
    カミーユは少し照れたように肩をすくめ、でもやさしく笑った。
    「じゃあ、撮るなら…自然にしていればいいのね?」
    マティアスはうなずき、カメラを構えたまま、軽く声をかける。
    「そのままでいい。笑わなくてもいいし、硬くならなくていい。君たちのそのままを撮りたいんだ」
    カミーユは小さく息を吐き、視線を少しだけ窓の外に向けた。柔らかな夕日の光が彼女の輪郭を照らし、普段の強さとは違う、穏やかで微かに脆い表情を見せる。祖母はその光景を見て、静かに微笑んだ。
     シャッター音が部屋に響くたび、カミーユの表情が微かに変わる。その一瞬一瞬が、今だけの時間として心に刻まれていった。

     彼女が出かけたあと、祖母はぽつりと言った。
    「あの子、変わったわね。家に来たばかりの頃は気づかなかったけど、昔よりよく話すようになったし、感情も出すようになった。あんなに笑う子じゃなかったの。きっと、いい出会いがあったのね」
    その後祖母は付け足すように言った。
    「あなたのことも気に入ってるみたいだし」
    「ソフィアといる時のカミーユは、とても自然だ。」マティアスもそう言った。

    祖母もマティアスもそれ以上何も言わなかった。
    ただ、湯のみを持ったまま少しだけ黙り込み、やがて「あら、冷めちゃった」と言って立ち上がった。

    カミーユが自然でいられる、ということは、今までどれだけ不自然な場所にいたのだろう。言葉を選びすぎて、笑うタイミングを測って、感情を出す前に一度飲み込んで。それが彼女にとっての「普通」だったのかもしれない。
    思い返せば、彼女は最初から強かった。自分の考えを持っていて、譲らないところは譲らず、曖昧な同情にも寄りかからない。けれど同時に、誰かの声色や沈黙に過剰なくらい敏感で、少しの気配で身を引いてしまう。
    それは意志の弱さではなく、長い間身につけてきた癖なのだと思う。
    傷つかないための距離の取り方。踏み込みすぎないためのブレーキ。
    マティアスが言っていた「自然さ」は、
    たぶん、彼女がそのブレーキを少しだけ緩めている状態のことだった。私はそれを喜んでいいのか、分からなかった。私が彼女を楽にしているのか、それとも、彼女が私の前でだけ無理をしていないだけなのか。居間にはもう彼女はいない。暖炉の火も小さくなり、さっきまで残っていた気配も薄れていく。
     夕食を済ませ、いつも通り居間にいる時、私はカミーユに会いたくなってたまらなかった。日が沈んでから雪が降り始め、外はとても寒く、カミーユの帰りが心配だった。いや、逆にこのまま帰ってこなくてもいいと思った。そうすれば、彼女への気持ちには諦めがつくから。
    私はある空想をした。
    パーティでお酒を飲みすぎたカミーユが酩酊の中帰路につく。吹雪の夜が明け、私は家の前で倒れているカミーユを見つける。雪に埋もれた身体。まさかと思い近づくと、冷たく硬直したその姿に、言葉にならない衝撃が走る。全身の力が抜け、膝から崩れ落ちる。息も荒くなり、心臓が高鳴る。そして、私は声高らかに笑う。閉ざしてきた感情のすべてを開放し、雪の中で手を伸ばし、全身で白い世界に溶け込む。凍り付いたカミーユの体を抱き締め、全身にカミーユを感じる。抑えつけていた愛情や欲望が、一気に体の中に流れ込む。手足を伸ばし、腕を背中に回し、強く抱えて、心を解き放つ。泣き叫び、笑う。そうしていると、私の体温でカミーユの体が跡形もなく溶けてなくなる。残るのは、背の高いカミーユの膝まである丈の長い黒のウールのコートと、カミーユのドレスと、カミーユの靴下と、カミーユのブーツと、カミーユの下着だけ。
    私はそれらすべてを身に纏い、雪に覆われた庭を駆け回り、冷たい雪の感触に喚起し、朝日を全身で抱く。誰もいない。誰の目もない。痛みも罪悪感も、すべて溶けて消える。
    そして、その時からカミーユの存在は、もう束縛ではなくなり、恐怖でもない。ただの愛の象徴であり、欲望の象徴になる。カミーユは世界と一体化する。私はそのすべてを受け入れ、翻弄され、喜び、解放される。
    そしてカミーユは私にとって今までも、これから先も、正真正銘誰も到達できない最高の人間になるのだ。

    だが、次の瞬間現実に意識を戻すと、家の扉が静かに開いた。消えてなくなったはずのカミーユが、笑顔で帰ってきたのだ。手には小さな袋を持ち、暖かい空気をまとわせて。
    吹雪の夜に一瞬思い描いた惨劇は、現実では何も起こらなかった。雪に濡れた髪をゆらしながら、普通に、少し優雅に、カミーユは家の中に入ってきた。

    私は息を吐き、感情を抑えながら微笑む。妄想は現実では安全に、穏やかに終わったのだ。私は心の底からほっとした気分だった。
    「あら、案外早かったのね。」祖母がそう言って迎え入れる。
    「あなた今日の帰り遅くなったらどうしようかと思って心配してたの」
    「大丈夫ですよ。ご心配おかけしました。お土産に食事を少しいただいてきました。泊めていただいた分のお返しにはなりませんが、良かったら食べてください。」
     そう言うとカミーユは今の机の上に夜食にはちょうどいいくらいの食事を並べた。
     食事の後は、私は暖炉の前で、祖母がカミーユを見ているのをそっと眺めていた。ここ数日の疲れもあるのだろう、彼女は肩をわずかに落としている。カミーユは、明日ここを去る。その事実が私の胸を締め付け、私の気持ちを深刻なほど落ち込ませていた。
    「カミーユ、まだ数日こちらで休んでいったら?」
    祖母が柔らかく声をかけた。その言葉を聞いた瞬間、私は思わず身を動かしかけた。自分でも驚くほど、胸の奥が反応していた。
    しかし、カミーユは軽く首を振る。
    「いえ、そういうわけには。公演が終わったら、すぐにパリに戻るつもりでいましたし……」
    その言葉を聞いて、気持ちはまた沈んだ。

    祖母は微笑みながら窓の外を指さす。
    「明日からまた雪みたいよ。予報では十日ほど続くんですって。吹雪になることもあるでしょう。ここは暖かいし、しばらく空いているんでしょう?」

    その瞬間、胸が再び跳ねた。

    カミーユは少し迷った表情で、ちらりと私の方を見た。
    「でも……ソフィアはどう思うでしょう。せっかくの滞在に、私がいるのは迷惑かもしれません」
    どうして、そんなことを聞くの?
    「そんなことないでしょう? ソフィア」
    祖母が私に言う。

    ええ。お願いだから、まだここにいて。
    私たちは、まだ一緒にいるべきなのよ。数日どころか、もっとずっと。そうと決まれば私、今からそこの戸棚の上から二番目の引き出しにある裁縫道具をもってくるわ。それでもう離れなくてもいいようにお互い縫ってもらいましょう。ドストエフスキーの『白夜』は読んだことはある?かわいそうな少女ナースチェンカは、目の見えない祖母から離れないよう、服と服を縫い留められていたの。あの不器用で、残酷で、それでも切実な結びつき。
    でも、私たちはそうじゃない。繋がっている方が自然なのよ。なら、私たちはどうしてこうも離れてしまったの?なぜ、ほどけたままでいることのほうが自然だと、思い込んでいるの?縫い合わせるのは、服でも身体でもない。
    ただ、裂けてしまった距離を、元に戻すだけ。離れている今のほうが、ずっと痛いでしょう。
    相変わらずそんな思いは口に出せるはずもない。
    「うん。私も構わないわ。いたいだけいればいいじゃない」一拍置いて、そう答えた。
    私はわざと、そっけない調子を選んだ。もちろん内心では、カミーユに滞在を延ばしてほしいと、必死に願っていたのに。
    カミーユは小さく頷いた。
    この返事を、彼女はどう受け取ったのだろうか。ためらい? 無関心? それとも、私なりの精一杯だと、理解してくれただろうか。
    祖母は満足そうに微笑み、そっとカミーユの肩に手を置いた。
    「よろしい。居たいだけいなさいな。私たちは大歓迎よ。それじゃあ、ゆっくり休みなさい」
    私は小さく息をついた。
    心の中で喜びが、波のように広がっていく。
    カミーユはかすかに笑い、深く息をついた。
    「ありがとうございます。では……お言葉に甘えて」
    外では、また雪が降り始めようとしていた。

     次の日からの私は有頂天だった。朝、階段を下りる前から、彼女の気配が家のどこかにあると分かるだけで胸が軽くなった。キッチンから聞こえるカップの音、窓を開ける気配、ピアノの前を通り過ぎる足音。どれも昨日までと同じはずなのに、「明日にはいなくなるかもしれない」という期限が、ひとまず遠のいたという事実が、灰色の世界を少しだけ明るくしていた。けれど、それと同時に、必ずくる別れへの梯子は、かけられたままだった。誰も外そうとはしないし、外せるとも思っていない。ただ、今はまだ登らなくていい、というだけだった。けれど、私はそんなことからは目を逸らし、考えないようにしていた。
    カミーユは滞在の延長が決まった翌日、彼女は特別に浮かれるでもなく、かといって沈むでもなく、いつもより少しだけ静かだった。その静けさが、私にはかえって現実的に思えた。小さな石ころを蹴りながらエティエンヌが無邪気に言った。
    「じゃあ、カミーユ、まだ一緒にいられるんだね」
    「そうね。」
    彼女はそう答えて、通りで買ったパンをちぎりながら微笑んだ。
    「でも“ずっと”じゃないよ。“もう少し”」
    「どのくらい?」
    「切符は今日から十日後のものを買ったから、それで帰るの。次のコンサートの練習とか、いろいろとスケジュールとかもあるからそれまでよ。だから、もう少しね。」
    “もう少し”という言葉は、希望にもなるし、終わりの予告にもなる。
     それでも、その時間は確かに幸福だった。散歩の帰り道、同じ道を何度も歩き、特に話すことがなくても沈黙が重くならなかった。夜は映画館に行ったり、テレビでドラマを見たり、カミーユが家でリサイタルをしてくれた時もあった。
    ピアノの蓋は半分だけ開いたままで、弾かれない時間でさえ、そこに音の気配が残っていた。私はその一つ一つを、無意識のうちに数えていた。
    ノエルの夜は、外に出なかった。
    祖母は午後のうちから台所に立ち、暖炉には早めに火が入った。窓の外は雪で、世界は静かに閉じられていた。
    食後、ビュッシュ・ド・ノエルを切り分け、誰かがワインを注ぎ足す。その間に、特別な話が交わされるわけでもない。ただ、同じ部屋にいる時間だけが、ゆっくりと積み重なっていった。そのあとで、カミーユはピアノの前に座った。「少しだけ」と言って、即興のような短い曲を弾く。半分開いた蓋の奥で、音は控えめに反射し、暖炉の火と混ざり合っていた。初めて演奏を聞いたマティアスは感動しすぎて呆然としていた。

    あと何回、この夜が来るだろう。
    あと何回、彼女の背中を見るだろう。
    有頂天だった。確かに。
    でもその足元には、見えない段差があって、
    一歩踏み外せば、いつか必ず終わりに辿り着くことを、私は最初から知っていた。
      私が居間のソファに座って本を読んでる時、私が本当に求めていたのは彼女からの視線でも、声をかけられることでも、他のなんでもなく、ふと顔を上げた時にただ彼女がそこにいることだったんだ。飲みかけのホットチョコレート、テレビ、黒いコート、顔を上げた時にあなたがいること。カミーユ。だって、もうすぐ顔を上げてもあなたがいなくなるんだから。

     ある日、カミーユが祖母と買い物に出かけている間、私はエティエンヌと床に座り二人で詩集を広げていた。エティエンヌは私の足の上に座り、私の読み上げる文章を黙って聞いている。
    “しかたがない、さあ、接吻して別れよう
    もうおしまいだ。君とのことはこれで終わりだ。
    ぼくはうれしいよ。そう心からうれしいさ。
    これで、綺麗さっぱり自由になれるのだから。
    さよならの握手をしよう。誓った言葉も全部取り消し。
    いつかどこかで、もしまた出会っても、
    愛し合ったことなど、君も、僕も、つゆ知らぬ顔でいるとしよう。”
    ルネッサンス期のイギリスの詩人、マイケル・ドレイトンの詩の一節だった。そこまで読むと、エティエンヌは口を開いた。
    「この人、相手のことを相当好きだったんだろうね。」
    「どうしてそう思うの?」
    「ちゃんと別れようとしてる。忘れようともしてる」
    「この二人もかつては愛し合ってた。もう二度と関わらないなんて、残酷すぎるよ」
    「パパが言ってた。人は現れては去り、去っては現れるものだって。愛し合っていたかどうかはきっと関係ない。出会いと別れは、ただの自然の流れの一環にすぎないのかも」
    「相手が運命の相手だとしても、別れるときはくる?」
    「運命の相手って?」
    「それは...お互いが自分にとって最高だと思える相手。自分より大切な他人。」
    「ソフィアは信じてるんだ」
    「半分だけ信じてる。ロマンチックすぎるし。だいたい、わかるわけないじゃない。私だってまだ子供だもの」
    「ソフィアは大人だよ。」
    「あんたから見ればそうかもね。」
    「そう言うことじゃない。子供っぽいところもあるけどソフィアは大人だと思うよ。」
    「どっちなの」
    「どっちだろう」
    「どっちでもあるのかも。」
    「どう言うこと?」
    「つまり、私たちはきっと、生まれる前も、死んだ後も、大人でも子供でもない。もっと言うなら、きっと男でも女でもない。あるいは大人でも子供でもあり、男でも女でもあるのかも。」
    「ああ、確かに。僕のパパは、まだママに耳掃除してもらってるし。この前なんて、ママが“今日は左ね”って言ったら、パパ、素直に横になってさ。終わったあと、“はい、次はあなたの番”って言われて、今度はママがパパの膝に頭を乗せてた」
    「それ、普通なの?」
    「さあ。でも、パパはそのとき、すごく安心した顔してた」
    エティエンヌは私の足の上で、体を少し丸めた。
    「仕事では、パパのほうが偉そうだよ。声も大きいし。でも家では、ママに“動かないで”って言われると、ちゃんと動かない。男とか女とかじゃないんだと思う」
    エティエンヌはそう言って、天井を見た。
    「強いとか弱いとか、大人とか子供とかも、そのときどきで入れ替わるのかもね」
    「で、あんたは信じてるの?運命の相手」
    「信じてるよ」
    「あんた、ものを知りすぎてる」
    「人を好きになったことがあれば、誰でも思う。ソフィアがものを知らないだけ」
    「生意気!」そう言ってエティエンヌの髪を手でくしゃくしゃにして、笑い合った。
    「でもね、この詩にはまだ続きがあるの」そう言っては私は、詩の続きを読んだ。

    “今や愛は、最後の息を引き取ろうとしている。
    脈は衰え、情熱は声を失い、
    信義はその死の床に跪き、
    無垢はその眼を閉じようとしている。

    ──だが今、もし君が望むなら、
    誰もが見放したこの瞬間に、
    愛を死から生へと
    よみがえらせることも、
    まだ、できるのだ。”

    「結局諦められないってことかな」そう言ってエティエンヌは肩で息を吐きながら笑った。
    「エティエンヌは最後まで聞いてどう思った?」
    「正直だと思う。頭ではわかってても、心が追いついていないんだよ。だから、諦められないのが普通なのかもしれない」エティエンヌは肩で息を吐きながら笑った。
    「そうかもしれない。心がまだついていかないのに、理屈だけで折れるわけないとも思う。けど、諦めないのが愛だとするなら、逆に忘れることだって愛なのかもしれない」
    「どういう意味?」
    「覚えていると執着になる。相手のことを追いかけたり、失うことを恐れたり。でも忘れることで、相手の存在を自分の中から手放せる。それは相手を尊重する行為でもある。諦めることもまた愛だと思う。」
    「じゃあ執着するのは?」
    「執着するのも愛だと思う」私は小さく息をつき、視線を落とす。
    「執着しているからこそ、相手のために行動できることもある。危険を冒すかもしれないし、相手を縛ることにもなるけど……でも、放っておけない。忘れられない気持ちがあるからこそ、相手を想う力も生まれる」
    エティエンヌは窓の外を見ていた。
    執着する愛と、忘れる愛。二つは真逆のようで、どちらも愛だと言える。問題は、その線引きを自分でどう決めるか、だろう。執着しても相手を傷つけないか、忘れても後悔しない。
    「でも、私は…。忘れるのが愛だって言われても、どうしても忘れられない気持ちの方が強くなる君がする。だから、私はきっと執着する側の愛を選ぶ」
    エティエンヌは軽く肩をすくめた。
    「それでいいんじゃない?答えは一つじゃない。忘れることを選ぶ人も、執着する人も、それぞれ自分の愛を生きている。きっとそれが自然なことだよ」
    私は視線を落としながら、小さく頷いた。
    「好きなんでしょ。カミーユのこと」
    「わかる?」
    「わかるよ。わかりやすい」
    「そっか」
    「カミーユも、ソフィアのことが好き」
    「どうしてそう思う?」
    「ソフィアのより、もっとわかりやすいから」
    一体どういうところがわかりやすいのだろうか。
    彼女の言動にはいつも心をかき乱されている。
    距離を測るような視線、柔らかい微笑み、必要以上に踏み込まない言葉遣い。かと思えば、唐突に踏み込んでくるような振る舞い、発言、行動...。
     床に落ちた午後の光が、少しずつ位置を変えていく。
    詩集のページの影が伸びて、文字が読みにくくなった。
    「さっきの詩さ」
    私は口を開いた。
    「本当は、相手を手に入れたいわけでも、相手への気持ちを忘れて自由になりたいわけじゃないんだと思う」
    「じゃあ、何?」エティエンヌは聞き返す。
    「きっと本当は、ちゃんと終わらせたかっただけ。」
    私はその言葉を言いながら、無意識に指先を握りしめていた。
    「大人って、そういうの、できるのかな」エティエンヌは私に問いかけた。
    「多分、できない人のほうが多い」
    私は即答した。
    「だから詩にするんだよ」
    そのとき、玄関のほうで鍵の音がした。
    祖母とカミーユが戻ってきたらしい。
    エティエンヌは私の足の上から降りて立ち上がり、
    いつもの子供の顔に戻ると、カミーユと祖母の元へ向かって行った。

     ある日町の図書館で読書をしている時に、とある物語に出会った。
     軍人と女性の物語。軍人は普段警備している区域にある家で、いつも決まった時間に、窓から外を眺める女性に好意を抱いていた。偶然を装い、知り合うことに成功した彼は、女性と自然と打ちとけあう。純粋で善良な心を持つ軍人は、女性と接するごとに愛を募らせる。ある時、女性は重病を患っており、数年もない命だと知った。異動が決まった軍人は、それでも愛を告白した。
    「君が死ぬなら、僕も死ぬ」
     女性は何も言わず、軍人を残して背を向け、その場を去った。女性は治療のため遠方の療養院に移り、それ以降二人が会うことはなかった。軍人は、女性が去った理由がわからなかった。優しさなのか、それとも拒絶なのか。軍人は絶望し、自身の狭い宿舎で首を吊って亡くなった。
     私は哀れとも愚かとも思わなかった。きっと私には、気持ちを打ち明ける勇気も、返事を受け取る勇気もない。ましてや沈黙に耐えうる精神など。
     それでもその日、私は図書館の窓ガラスに映る自分に向かって打ち明けた。誰にも言えないことでも、自分には話すことができた。打ち明けてる瞬間、近くにいる誰かに私の言葉を聞かれていてもいい。聞いているのがカミーユでないなら誰に聞かれようと一向に構わない。
     だけどね、カミーユ...もし私があなたに気持ちを伝えた時に、その行為への報いが沈黙ならば...。
     いっそのこと私は、死んだ方がマシだ。

                  4


     ある朝、私とカミーユは特に決め事もなく家を出た。
    カミーユはコートを羽織り、髪を簡単にまとめている。

    「寒くない?」
    「歩けば平気」
    「今日は雪が強くないんだね」
    「そうみたいね」
    「見てカミーユ。昨日の夜、雨が降ってたみたい。雪と混ざって、足元は最悪そう」
    「じゃあ出かけるのやめとく?」
    「それは嫌だ。」
    出かける前、私は昨日読んだ本のことを思い出していた。
    私たちが最初に向かったのは市場だった。果物の山、パンの匂い、人の声。
    「ここ、いつも迷うんだよね」
    「何に?」
    「全部それなりに良さそうで」
    カミーユは立ち止まるたびに、値段よりも色や形を見ていた。
    「これ、いい」そう言って指さした林檎は、少し歪で、でも妙に赤かった。
    「傷があるね」
    「あるほうがいい」
    理由は言わなかったので、私は「芸術家っぽい」とだけ返した。

    そのあとはパン屋で立ったまま軽く食べ、紙袋の底に溜まった粉を指でなぞりながら川沿いを歩いた。水面は鈍く光っていて、寒さのせいか、言葉は自然と少なくなった。

    古い通りではアンティークの店を覗いた。
    埃の匂い、くすんだガラス、時間だけが置き去りにされたような空間。
    カミーユは指輪や古い手紙を、必要以上に長く眺める。
    「手紙、読めるの?」
    「読めなくてもいいの」
    そう言って、封の切られていない封筒を一枚、指先で軽く叩いた。誰にも届かなかった言葉に、興味があるみたいだった。
    「なにか買おうよ」
    カミーユが急にそう言った。
    理由を聞く前に、店員がガラスケースを開ける。
    結局、選んだのはごく簡素な指輪だった。装飾もなく、少しだけサイズが曖昧なもの。
    「同じにする?」
    「うん」
    嵌めてみるとカミーユの中指と、私の人差し指にぴったりのサイズだった。

    お店を出て石畳の広場を抜けた先に、小さな記念碑のようなものがあった。観光案内には載っていないらしく、立ち止まる人もほとんどいない。私は足を止めた。
    「これは詩?」カミーユがいう。
    「ええ」
    「ソフィア、読んでみてよ」

    私は石に刻まれた文字を読み上げる。

    Il pleure dans mon cœur
    Comme il pleut sur la ville

    ——ヴェルレーヌ

    「“心の中で泣いている
    街に雨が降るみたいに”」

    「雨、降ってないのにね」
    「だからいい」私は少し間を置いてから言った。
    「この人、理由を言わないの。なぜ悲しいのか、誰のせいか、全部省く」
    「優しい?」
    「逃げてるとも言える」
    「どっちだと思う?」
    「両方」
    カミーユは石碑を見つめたまま、頷いた。
    少し歩いた先、別の石に短い一節が刻まれている。

    Tu m’as donné ta boue et j’en ai fait de l’or
    ——ボードレール

    「“君は泥をくれた
     私はそれを黄金に変えた”」

    「自信家ね」
    「うん。でも正直」
    私は続ける。
    「これはきっと愛される側じゃなくて、愛する側の詩」
    「どういう意味?」
    「相手がどんな人間でも、自分が“美しいと思ってしまった” その時点で負けなの」
    「不幸そう。」
    「でも、きっと誰もがわかること。」
    私は最後に、少し削れた文字を指でなぞった。

    Elle est retrouvĂŠe.
    Quoi ? — L’Éternité.

    ——ランボー

    「“見つかった
     何が?——永遠が”」

    「わかった気がしない」
    「それで正解」私は笑った。
    「この詩ではきっと “わかった瞬間に終わるもの”を信用しなかった」
    「じゃあ、永遠って?」私は一度、言葉を探してから答えた。「一瞬。でも、取り消せない一瞬」
    「なんでもわかるのね」カミーユはそう言った。感心しているのが少しだけ伝わって、それが嬉しかった。
    「勝手に解釈してるだけ。それが、読むってことよ」

    歩き出したとき、さっきよりも、カミーユとの距離が自然に縮まっていた。
     昼を過ぎ、石橋にある「私だけの場所」に二人で腰をかけた。「疲れた?」と聞くと、
    「少し。でも、悪くないよ。すごく懐かしくて。」と彼女は言った。カフェで買ったコーヒーを二人で持っていた。
    カミーユはカップを持つとき、必ず両手を使う。その仕草を、私は何度も見ている。
    「ねえ、ソフィア」
    珍しく、彼女のほうから話しかけてきた。
    「今日は、静かなのね」
    「そう?」
    「うん。いつもより」
    「そうかな?」
    「うん。」
    「考えてた」
    「何を?」
    「何を言うかを」
    「何を言うかって、何を?」
     私は、思い切って一歩踏み込もうと思った。とても勇気がいった。でも、今しかないと思った。
    私は視線をコーヒーに落としたまま、続けた。
    「大したことじゃない。ただの感想みたいなもの」
    「感想?」
    「そう。」
    「どんな感想?」
    「それは...」
    その先を続けようとして、言葉が喉の奥で止まった。声になるまでに、五秒ほどかかった気がする。横に座るカミーユが、真っ直ぐ私を見ているのがわかる。逃げ場はなかった。
    私はようやく言葉を発した。
    「私は、あなたのような人には出会ったことがない。ということ。」
    カミーユは何も言わなかった。けれど、私は続けた。
    「だからそれはね、つまり...あなたみたいに全部が揃って見える人には出会ったことがない。ということ」
     さらに続けた。
    「これから先、どんな素敵な人に出会っても、あなたを知らなかったふりはできないと思ってる。ということ。」
    分かりづらいかもしれない。でも、分かって欲しい。分からないはずはない。けど、分からないなら永久に分からないままでいて欲しい。逃げ道も、言い換えも用意していなかった。カミーユはすぐには返事をしなかった。
    カップを置き、少しだけ視線を逸らした。そのあとは何かを話したけど、何を話したかは覚えていない。立ち上がり、私たちはまた歩いた。さっきまでより、少しだけ距離が近い。夕方、日が傾き始めたころ、カミーユがぽつりと言った。
    「さっきの言葉」
    「うん」
    「忘れないと思う」
    それ以上、カミーユは何も返さなかった。私はそれを拒絶だとは思わなかった。でも、受け取られた、という感触もどこにもなかった。最初から返事は期待していなかった。だって、カミーユが私と同じ指向で、私と同じ考えを持ってるなんて思ってなかったから。私と同じ考えを、彼女が持ってるはずがない。それでも、胸のどこかで、ほんの一瞬くらいは同じ高さの言葉が返ってくる気がしていた。何も起こらなかった。それが、思っていたよりずっと、きつかった。私は自惚れていたのかもしれない。言わなければ良かったとも思った。皆んなが言うようにカミーユが私のことを好きだと本気で思っていたなんて。歩きながら、私は何度か息の仕方が分からなくなった。泣くほどではない。何も変わらなかった。そのことが、私の中だけを、確実に変えてしまった。

     次の日から、私たちの会話は減った。カミーユが来たばかりの頃のように、必要最低限の会話で、お互いの距離を測っているようだった。沈黙も気まずくなった。
    「おはよう」「寒いね」「食べる?」「おやすみ」それだけで一日が過ぎていく。
     マティアスは相変わらず、たまに顔を出した。彼がいるあいだは、張りつめていた空気が少し緩む。冗談を言うわけでも、何かを変えるわけでもないのに、部屋に呼吸が戻る感じがした。できれば、ずっといてほしかった。でも気づくと、彼はいなくなっている。
     私たちはお互いにこれまでと同じ距離を保とうとしているのに、その距離が、毎日少しずつ違っていた。カミーユは変わらず優しかった。それがいちばん厄介だった。拒まれたわけでも、遠ざけられたわけでもない。ただ、私の言葉だけが、宙に残っていた。私はそれに触れないように、彼女もそれを踏まないように、同じ床の上を、別々の歩き方で歩いているようだった。
     その日私は昼過ぎに図書館に行くと言い、帰りはこっちに住んでいた時の同級生の家に行くから、夕食はいらないと言って出かけた。実際、そんな予定はなかった。
     外は相変わらず寒く、雪は細かく、音もなく降っていた。行き先を決めないまま歩くと、町は思ったより狭かった。昔通っていた道、何度も曲がった角、覚えているはずの景色ばかりなのに、どこにも居場所がない気がした。
     私は結局、図書館に入った。暖房の匂いと、紙の湿った匂いが混じっていた。席について本を開いた。
     時計を見るたびに、まだ早いと思い、また見ると、思ったより時間が過ぎていた。誰にも呼ばれることもない一人の時間は心地よかった。私は「夕食はいらない」と言った。カミーユはそれを知ってもきっと、「そっか」とだけ言って、普段通りの時間を過ごしているだろう。
     図書館を出たころには、空はもう暗くなり始めていた。私は途中の店でホットドックを買って、食べながら遠回りをして帰った。
     窓の明かりが点き始めた家々を見ながら、祖母の家に戻ると、玄関は静かだった。コートを脱ぐ音が、やけに響いた。カミーユはリビングにいた。ソファに座り、本を読んでいたらしい。
    「おかえり」それだけだった。
    「ただいま」私も、それだけ返した。
     彼女は私を見なかったし、私も彼女を見なかった。何も聞かれなかった。どこに行っていたのか、誰に会ったのか、本当に予定通りだったのか。私はそれに、ひどく安心して、同時に、深く傷ついた。
     それはつまり、どうでもよかったということだ。
     その夜、私は自分の部屋で長い時間、電気を消したまま座っていた。その日の日記にはこう書いた
    「今日は誰にも必要とされなかった。それでも、特に困ることはなかった。彼女は私がいなくても生きていけるし、私も彼女がいなくても生きていける。」
     カミーユと距離が生まれてから3日目、その日は外が吹雪いていた。カミーユはその日、吹雪にも関わらず外出していて、祖母は心配していた。私は、いつの間にかカミーユがいないことで安心するようになっていた。カミーユと出会う前のように、いつも通り朝食を食べ、いつも通り昼まで過ごし、いつも通り昼食を取り、昼寝をした。特別なことは何もなかった。何も起きないことが、今日はありがたかった。起きてから、私は広間でピアノを弾いていた。カミーユと初めて外食した時、私にピアノを弾いて聴かせてと言ったのを思い出していた。ピアノを音は思ったより大きく、家の中に余計な隙間を作っている気がした。
     途中で、部屋の空気がずれたのを感じた。少し距離を置いて後ろの扉の辺りに誰かがいる。そう思ったけれど、振り返らなかった。気づいていないふりをするほうが、正しい気がしたのだ。ただ、背中に当たる温度が変わった。弾き止める理由はなかった。
     だから続けた。間違えないように、音だけに集中した。足音は静かで、床板が鳴らないように選ばれているのが分かる。その人は私の横まで来て、そこで止まった。呼吸の気配だけが、すぐそばにある。それでも私は続けた。私は鍵盤から目を離さず、最後まで弾き切った。音が終わっても、すぐには動けなかった。楽譜の五線を見つめたまま、身体だけが取り残されている感じがした。私は何かを確信した。胸の奥で心臓が鳴っていて、その音が大きすぎて、他のことが考えられない。その時、鍵盤の上に置いていた私の手に、もう一つの手が重なった。力はほとんどなく、壊れやすいものに触れるときの指だった。私はその指を知っている。ずっと欲しくて欲しくてたまらなかった指だ。逃げようとも、受け入れようとも思えなかった。ただ、その手の温度が、自分の中にゆっくり広がっていくのを感じていた。距離が縮まり、気配が、存在になる。肩が触れ、呼吸が近づく。
     私はほんの少しだけ首を動かした。そこに、カミーユがいた。目の前、指一本分もない距離で、私を見つめていた。視線は強くないのに、逸らせなかった。鼻先が触れ合う距離。吐息が微かな風を生んでいる。
    どちらからともなく、境目が消えた。
    気づいたときには、唇が触れていた。
    私は目を閉じた。そのほうが、ずっと自然だった。
    唇が触れてから、時間が止まっていた。何時間かそうしていた気がするし、数秒だった気もする。
    どちらも動かなかったし、動けなかった。
    先に息を整えたのはカミーユだった。
    「今の...」
    言いかけて、言葉を探す間があった。
    「嫌だった?」
    問いかけは低く、慎重で、答えを求めているというより、拒絶される可能性を先に差し出しているような声音だった。私は何も言わなかった。楽譜から目を離せず、鍵盤に残る指の感覚だけを感じていた。触れられていた場所が、まだ自分の手なのか分からなかった。私は鍵盤に視線を戻し、振り向かなかった。返事をしなかったというより、言葉がどこにも見つからなかった。少しの沈黙のあと、カミーユは一歩下がった。床板が微かに鳴った。それだけで、空間が急に広くなった気がした。
    「……夕食、もうすぐだと思う」
    それが、最後だった。私は小さく頷いたかもしれないし、何もしなかったかもしれない。カミーユはそれを確かめずに、広間を出ていった。夕食の席では、祖母がいた。それが救いなのか、余計な緊張なのか、判断がつかなかった。スープが注がれ、パンが配られ、いつもと同じ配置で椅子に座る。祖母は私たちの距離感に気づいていないふりをしていたのか、本当に気づいていないのか分からない。ただ、普段よりも少しだけ饒舌だった。会話の中のカミーユの声は落ち着いていた。いつも通りに話そうとしている、という努力だけが、逆に際立っていた。私はスープを飲んだ。味は分かった。温度も分かった。でも、それ以上の感覚はなかった。三人の食事は、問題なく進んだ。問題がないこと自体が、問題だった。食後、祖母は早めに自室に引き上げた。「今日は少し疲れたから」と言って。
    居間に残ったのは、私とカミーユだけだった。暖炉の火が小さく鳴り、時計の針が音を立てて進む。テレビはつけなかった。音楽も流さなかった。同じ部屋にいるのに、互いの気配を避けるように、慎重に距離をとって座っていた。
    私は本を手に取った。読んではいなかった。ページをめくる音だけが必要だった。カミーユは窓際の椅子に座り、外を見ていた。雪はもう止んでいた。何かを言いかけて、やめた気配が、何度かあった。翌日も、状況は変わらなかった。私は、なぜ自分が黙っているのか分からなかった。それがカミーユを不安にさせていると分かっていた。
     ただ突然、世界の理が変わったように感じ、何もできなかった。ひたすらに魂が抜けていた感覚だけがあった。
     翌朝、朝食の席で、会話は祖母とカミーユの間にだけあった。私はそれを聞き、相槌を打つ必要があるところでだけ、短く声を出した。視線は合わなかった。合わないようにしていたのか、合わないまま過ごすことに慣れ始めていたのか、自分でも分からなかった。昼を過ぎ、午後になり、日が傾いた。その間、何も起こらなかった。
     夜。家の中が静かになる。私は自室に戻ったが、ベッドには入らなかった。椅子に座ったまま、何度も時計を見た。しばらくして、私は立ち上がった。廊下に出ると、足音がやけに大きく聞こえた。
    カミーユの部屋の前で止まる。ドアの向こうに気配はあった。灯りが、床の隙間から漏れている。
    ノックはしなかった。するべきだったかどうかも考えなかった。私はドアを開けた。
    カミーユはベッドの端に、部屋に入ってきた私に背を向けて腰を下ろしていた。部屋着のまま、背筋だけが少し緊張している。何かをしていたわけではない。
    私は声を出さずに、部屋の中に入った。
    足元のラグを踏む感触が、必要以上に意識にのぼる。
    カミーユは振り向かなかった。
    けれど、気づいていないはずがなかった。呼吸が一度だけ変わった。浅くなり、すぐに元に戻る。
    カミーユの隣に腰を下ろす。沈み込みは、ほんのわずかだった。
    それでも距離は消えた。肩が触れるほどではないが、触れようと思えばいつでも触れられる距離だった。
    時間が流れた。時計の音がやけにはっきりと聞こえる。廊下の気配もなかった。家が、二人だけの呼吸に合わせて止まっているみたいだった。
    カミーユの手は、膝の上に置かれていた。指が組まれている。私は何も言わなかった。ここに来た理由も、来てしまった理由も、説明しなかった。代わりに、呼吸を整えた。それだけが、今できる最大の意思表示だった。何度か口を開こうかと思った。でもなんと言えばいいのかわからなくて口ごもった。黙っててごめんなさい?そんな言葉は違う気がした。少しして、カミーユの肩が、ほんのわずかに下がった。力を抜いたというより、抵抗をやめた動きだ。私は、視線を床に落とした。このまま、何も起きなくてもいい。そう思った瞬間に、その考えが嘘だと分かった。カミーユの腕が、ゆっくりと動いた。
    私に触れないように、でも逃げないように、私との距離を測っている。その手が、私の背中に回る前に、私は身体を寄せて、選択を渡す前に奪った。額が、肩に触れる。布越しに伝わる体温が、思っていたよりも確かだった。カミーユの手が止まる。一瞬のためらいのあと、私の背中に触れた。強くはなかった。私は目を閉じた。

    しばらく、互いの呼吸だけが続いたあとだった。
    カミーユの胸が一度、大きく上下した。その動きが、決心の合図みたいに見えた。
    「昨日のこと」
    声は低く、慎重だった。私の肩に触れている手はそのままなのに、言葉だけが先に距離を測っている。
    「謝ったほうがいいのか、それとも、何も言わないほうがいいのか、ずっと分からなかった」私は動かなかった。
    顔も上げなかった。聞いていないふりをするには、近すぎた。
    「あなたが何も言わなくなってから、私、何度も考えた。嫌だったのか、驚いただけなのか、それとも……私が勝手に越えてはいけない線を越えたのか。もし、あれが間違いだったなら、私はちゃんとそう言われたい。そうじゃないと、自分が何をしてしまったのか、整理できない」
    声が、ほんの少しだけ震えた。でも、それを隠そうとはしなかった。
    「でも同時に、あなたが黙っている理由が、拒絶じゃなかったらいいとも思ってしまう。その期待をしてしまう自分が、すごく身勝手だとも分かってる」
    私は、まだ答えなかった。答えなかったけれど、身体がわずかに傾いた。
    「壊れると分かっているものには、私は触れない。でも、あなたは違った。触れたら壊れるんじゃなくて、触れなかったら、何かが欠けたままになる気がした。後悔したくなかった。」
    カミーユの声が、少しだけ低くなった。
    「それが、私の言い訳。たぶん、十分じゃないけど」
    私はようやく、視線を上げた。カミーユは私を見ていなかった。正面の壁を見つめている。逃げているのではなく、私の反応を押しつけないための視線だった。
    「だから……」
    そこまで言って、言葉が途切れた。続きは、私が許可しないと進めない場所にあった。
    私は、何も答えなかった。それでも、身体を離さなかった。沈黙が、拒絶ではないことだけは、はっきり伝わる形で。カミーユはそれを理解したのか、ゆっくり息を吐いた。
    「……今すぐ、答えなくていい」
    そう言ってから、少し自嘲するように続けた。
    「本当は、答えてほしいけど」その正直さが、部屋の空気を変えた。
    「カミーユ」私は初めて口を開き、それまで触れていただけだった体を寄せて、抱きしめた。
    「あなたになら壊されてもいい。」
    カミーユの身体が、一瞬だけ固くなったような気がした。
    「それは、どういう意味?」カミーユは言う。
    「言わなければわからない?」
     ただ見つめて。キスして。奪って。苦しくなるほど抱きしめて。本当にいいのって聞いて。でも、答えは待たないで。何も抵抗させないで.....。私はあなたに屈服するから。今の私は正真正銘あなたのものだから。あなたの望む通りにして。
     次の瞬間、カミーユは私の方に向き直り、私の顔を包み、キスをした。思いのほかそのキスは、初めてのキスよりももっと欲望的で、衝動的で、力強く控えめで、急ぐ気配はないのに、逃がす気もない。
    唇が離れるたび、ためらいと渇きが同時に残る。
    切実で、それでいてどこか自制されていた。
    息が触れる距離で、カミーユは私を見つめ続ける。視線は強く、揺れていて、何かを必死に抑えているようだった。切迫していて、同時に、壊すことを恐れている目。
    私は何も言わなかった。言葉を挟めば、この均衡が崩れると分かっていたから。もう一度、キス。私の方から、さっきより深く、けれどまだ踏み込まない。
    私の背中に回された腕に、わずかな震えが伝わる。それは欲しさの震えであり、抑制の震えでもあった。この人は、奪う前に立ち止まっている。奪ってしまえば、戻れなくなることを知っている。
    そのことが、私をさらに熱くさせた。
    カミーユは何も言わずに私のシャツのボタンを外した。
    そう、脱がせて。そしてあなたも脱いで。私に全てさらけ出して。私も彼女の服を脱がせた。
    カミーユが口を開く。「ソフィア、寒くない?」
    その問いが、あまりに場違いで、あまりに彼女らしくて、胸が詰まった。
    ああ、カミーユ...なんて、優しいの。
    「少し。だから、ねえ、温めて。」
    私はそう返し、カミーユの胸に飛び込んだ。カミーユの心臓の音が聞こえる。カミーユが私を包み、撫でてくれる。それだけで理性が飛びそうだ。
    「ソフィア。あなたの肌が好き。髪も、手も、背中も。今、この瞬間だけでも、私があなたを幸せにしたい。幸せにさせて。」
    「私が今どれだけ幸せかわからない?もう十分に幸せよ。めちゃくちゃにしてくれたって構わない。今夜は私を寝かせないで。私のために、そうしてくれる?」
    その言葉のあとは何がどこから始まったのか、どう終わったのか、正確には思い出せない。それまでの沈黙も、気まずさも全部この時間ためにあったと確信できた。
    私たちは裸で抱き合い、キスして、お互いをお互いにうずめ合った。隠し事はもう何もない。
    カミーユは、私がこれまで出会った中で、最高の人間だ。

    「不安にさせてしまって、ごめんね」夢から覚めると、私は第一に謝った。
    カミーユは横になりながら私を見つめ、小さく首を振った。
    「自分でもなんであんな態度をとったのか分からないの。あなたがキスしてくれたことはとても嬉しかった。多分、私はあなたと出会った時からそうしたいと思っていたから。でも、同時にショックも受けたのかもしれない。欲しいと思ったものを、手に入れてしまったあとみたいに。」
    「あなたは、私を理想にしすぎている気がしたの。私はそんなに綺麗でも、正しくもない。それを知ったら、あなたはきっと困る」彼女は天井に視線を向けてそう言った。
    「困らない。」
    私がそう言うとカミーユは私の顔を撫でて、抱きしめ、私の背中をさすってくれた。それはカミーユが今まで私にしてくれた中でも、最も優しい愛撫で、一見軽くありふれている行動の中でもとりわけ慈愛に満ちた行動だった。
    私もたまらず抱きしめ返すと、カミーユはわたしの髪に顔を擦り寄せながら、泣き出しそうな声で言った。
    「ごめんなさい。あなたに触れるのが怖かった。あなたを不安にさせていた。多分、私が不安だった以上に。私たちの間には見えない境界線があった。それを踏み超えてはいけなかったんじゃないかって。今の私は取り返しのつかないことをした。私はあなたの人生の障害になりたくない。あなたを困らせたくない。」
    そう言うカミーユの声は震えていた。
     私は何も困らない。カミーユが、私の人生の障害になるなんて、そんなはずはない。けれど、こんなにも満たされた気分の中にも、どうしても拭えない憂鬱があった。
    私たちは、近いうちに離れ離れになると、すでに決まっている。私は休みが終わればカナダに帰る。カミーユはパリに戻り、少ししたらドイツへ行く。
    きっと彼女は、私が彼女のことを思いながら、孤独で辛い生活を送ることを恐れているのだ。その気遣いが、かえって胸を締めつけた。
    しばらくの沈黙のあと、私は言った。
    「ねえ、私の部屋に来て。私のベッドで、もっとあなたのことを教えてくれる?誰にも話したことないことも。もし、あなたが話してくれるなら。」
    カミーユは少し間を置いて答えた。
    「もちろん。あなたがそう望むなら」

     そういうと私たちは立ち上がり、服だけ持って廊下を移動し、私の部屋に入った。私は机の脇のスツールの上にあるラジカセにCDをセットして小さく音楽を流し、ベッドに座った。カミーユは入り口の近くに立っている。
    「そんなところにいないでこっちに来て。」
    私がそう言うとカミーユは私のそばに座った。
    「あなたが私の歳くらいの頃には何をしていたの?」
    「私があなたくらいの頃には…」視線を床に落としてカミーユは話し始めた。
    「うん。」
    「私があなたくらいの頃には、学校には行ってなかった。」
    「それは、どうしてか聞いてもいい?」
    カミーユは少し間を置いて静かに口を開いた。
    「人と関われなかった。いや、違うかも。正確には、私が人と関われなかったんじゃなくて、みんなが私と関わりたくなかった。私がみんなから離れたんじゃなくて、みんなが私から離れていった。それまでは、もっと気楽に人と関わってた。私があまり感情を出さなくなって、人と深く関わろうとしなくなったのは後天的な原因かもしれない。」
    「どうして?」
    「私がその時に、同級生の女の子が好きだったことをみんなに知られたから。それからはただ、席が離れたり、話しかけられなくなったり、名前を呼ばれなくなったり。酷いことも言われた。大きな事件はなかったけど、だんだんと自分の居場所がなくなった。ある日突然私の体は動かなくなって、部屋から出られなくなった。辛くてずっと泣いてたと思う。両親にはなんて説明しようか悩んで、本当のことを話した。汚物を見られるような目と罵倒を覚悟してたけど、私の両親はそんな人たちじゃなかった。行きたくない場所には無理して行く必要はないって言ってくれた。あなたがどんな人間だろうと、あなたは私たちの宝物だって。ちゃんと人のことを好きになれる優しい子だって言ってくれた。
     私が学校に行けなくなって何もできなくなったとき、両親は理由を急がなかった。いつになったら元に戻るのか、このままどうするつもりなのか。そういうことは聞かなかった。ただ、ご飯を作って、部屋の前に置いて、音がうるさくても、何も言わなくて、私が泣いてても、無理に慰めようとしなかった。もしあのとき、普通に戻りなさいとか、みんな我慢してるんだから、って言われてたら、私は今ここにいないと思う。
     それからは音楽に打ち込んだ。行き場のない感情は全部ぶつけた。その時好きだった子への気持ちも、私を蔑んだ同級生達への悔しい気持ちも。私がここの学校に行けるって決まった時、両親は泣いて喜んでくれた。口には出さないけど、私のことを相当心配してくれてたんだと思う。」
    「だから今のあなたがいる。あなたは誰かに選ばれなかったからここに来たんじゃない。自分を守るために選び直して、ここまで来た。あなたの生き方が好き。考え方も、話し方も。私は、あなたの人生の全てを尊く思う。」
    「今は、ここにいたい。あなたと、あなたの愛するものが溢れるこの場所で」
    「それで十分だよ」
    こんなに何もかも愛しいと思える人に出会ったのは初めてだった。
    「それで、あなたのご両親はどうしてるの?」
    「私の両親は、私が家を出てから一ヶ月もしないうちに別れて、今はそれぞれ別の相手と一緒に生活してる。あの二人は私がいたから一緒にいたんだと思う。親という役割を終えて今はどちらも、たぶん前より穏やか。
     母は、そうなることが分かっていて父と別れる少し前からもう別の人がいた。相手は昔の知り合いだったらしい。学生の頃に少しだけ話したことがある程度の人で、長いあいだ名前も思い出さなかったって言ってた。偶然、仕事の用事で再会して、コーヒーを一杯飲んだ。それだけのはずだったのに、会話が妙に途切れなかったらしくて、これからはこの人と一緒にいたいと思うようになったんだって。
    逆に父のほうは、ずっと諦めてた。もう自分の人生に、新しい出来事は起きないって思い込んでたけど、ある時、病院で出会いがあったの。定期検査の待合室だったって言ってた。偶然、同じ曜日、同じ時間帯に通ってる人がいて、何度も隣の席に座るようになった。ある日、検査結果が悪くなかった時に、その人が『それなら今日は、少しだけいい日ですね』って言ったみたいで、父はその言葉をすごく気に入ったらしい。幸せじゃなくていい、成功じゃなくていい。ただ、少しだけいい日。それなら生きていける気がしたって。その帰りに、『検査のあとで喉が渇いたから』って理由をつけてお茶に誘ったんだって。理由がないと、人と一緒にいることを選べなくなってたんだと思う。今はその人と暮らしてる。だけど、今でも三人でで会うの。その時は家族として。」
    「それぞれの人生を歩み直してるのね」
    私がそう言うと、カミーユは小さく頷いた。
    「そう。あの人たちは親という役割を終えて、それぞれまた別の一人の人間に戻ったの。誰かのために生きなくていい。誰かを理由に我慢しなくていいし、私のために人生を止めなくていい。お互いを大切に思えない人と、一緒にいる必要はない。だったらまた、大切にしてくれる人を探すべきだと思う。あの人たちは、やっと自分の人生に戻った。私がいなくなったからじゃなくて、私がもう大丈夫だから。」
    少しの沈黙の後、私は静かに問いかけた。
    「あなた自身は、帰る場所になろうとしなかったの?」
    「なろうとしたことはある。でもそれは、帰る場所になるってことじゃなかった。私がそこに立ち続ければ、あの人たちは動かなくて済む。私が戻れば、また役割が始まる。親でいること、我慢すること、終わったはずの関係を続けること。それは居場所じゃなくて、引き止める理由だった。帰る場所って、誰かを縛らなくても、そこにあっていい場所だと思うから。私が帰れる存在でい続ける限り、あの人たちの人生は先に進めない。だから、私はならなかった。」
    「誰かの人生を止めないために身を引くなんて、簡単にできることじゃない。それが親ならなおさらだと思う。だから、もし今でも寂しいなら、それは間違いじゃないよ。ちゃんとそこに、家があったってことだから。私がこんなことを言っていいのかはわからないけど。」
     その後私は、私たちが初めてキスをした日、吹雪の中どこにいたのか聞いた。
    「あの日はあなただけの場所にいた。あの椅子に座って、いろいろ考えてた。自分の行動を後悔したり、あなたがどんな気持ちなんだろうかと考えて、結局わからなくなった。いっそこのまま去ろうかと思ったけど、そんな勇気は無かった。だからあなたに触れたいっていう自分の気持ちに従った。でも、触れてすぐに後悔した。またあなたとの距離が生まれたと思ったから。」
    「本当にごめんなさい。私、自分の気持ちしか考えてなかった。」
    「いいの。いいのよ、ソフィア」カミーユは今日一番優しい声でそう言ってくれた。

    カセットからはオランダ語の音楽が流れている。
    私はその音楽を口ずさんだ。

    “Mijn hart roept in stilte naar jou
    Terwijl verloren tijden door de wind worden verstrooid
    Blijf bij me, vergeet mijn naam niet”

    「なんて言ってるの?」

    “私の心は静かにあなたを呼んでいる
    失われた時間が風に散っていく中で
    そばにいて、私の名前を忘れないで”

    それってすごく素敵だねとカミーユは言い。また私を抱きしめ、頬にキスしてくれた。私は嬉しくなって歌詞を繰り返した。
     例え別れが来るとしても、カミーユのことを知れて良かった。彼女は夜の砂漠に立つ一輪の月光に照らされた仙人掌のように、孤独に耐え、鋭くも凛とした強かさを持つ。しかし同時に、氷の下でひそやかに芽吹く草のように、触れたくなるほど脆く、誰かの温もりを求めて震える弱さも抱えている。それは矛盾ではなく、同時に存在している。強さの中に脆さがあり、脆さの中に決して折れない芯がある。その両極を併せ持つから、私は無意識に彼女の側に居たくなるんだ。

     その後カミーユはシャワーを浴びに行こうと言った。「ばあばに見られたらどうするの?」と私は聞いたけど、カミーユは「見られても構わない。女同士でシャワーを浴びるのは自然なことだよ」と言った。考えてみればそうかもしれない。もし尋ねられても、朝同じタイミングで起きて廊下で会って、同じくシャワーを浴びたかったから一緒に入ったんだと言えばいいと思った。私たちは仲の良い友人だからと言えば良い。友人というとカミーユはムッとするかな?でも、きっと私たちはまず第一に友人で、その次に恋人なんだろう。そもそも、恋人とはそういうものなのかもしれない。
     私はカミーユの手を握って階段を降り、浴室に向かった。朝の浴室はとても冷えていた。カミーユはためらうことなく先にシャワーを浴び始め、私はその後に続いた。
    「ソフィア。目を瞑って」と言ってカミーユは私の髪と体を洗ってくれた。まず、頭から。祖母の家にあるラベンダーとローズマリーの香る固形シャンプー。サボン・ド・マルセイユの石鹸にハーブを加えたような香りが、温かい蒸気に混ざって浴室に広がる。手のひらから髪に泡が伝わるたび、やさしい植物の香りと温もりが私を包んだ。カミーユの手の動きは優しく、髪の一本一本を丁寧にとかすように洗ってくれた。もう少し乱暴に洗ってくれても良かったけど、大事に扱われているようで嬉しかった。次に肩から背中へ、泡を滑らせる指先は慎重で、肌に触れるたび、ぬくもりとやさしさが伝わる。カミーユの手の温かさが私の体の芯まで届き、体がうずく。泡が水と混ざり、流れ落ちる音が静かな浴室に響く。「ここも優しく洗うね」と彼女が囁いて、私の下半身を洗ってくれた。私の体の隅々にまで優しさを届けてくれる。彼女の息づかいと、静かに流れる水の音だけが、浴室の空気を満たしている。私は目を閉じてただその感触に身を委ねた。それまではカミーユにされるがままだったけど、洗われている途中私は我慢できなくなってカミーユの背中に腕を回して、カミーユの体に私の体を密着させた。明らかに呼吸が荒くなっていたけど構わなかった。
     カミーユは私を抱きしめ返してくれて、背中をさすってくれた。少しの間そうした後、頭も体も綺麗に流してくれた。今度は私がカミーユの体を洗った。カミーユの髪を丁寧に洗って、肩から背中にかけて、ゆっくりと泡を滑らせる。カミーユが私にしてくれたように、とても優しく洗った。途中でふと、私がカミーユの触ったことない部分を無くしたいと思った。私がまだ触れたことのないカミーユの耳の裏も、顎の下も、脇も、太ももの内側も、足の指の隙間まで全部洗った。カミーユは恥ずかしそうしながら、私の手に身を委ねていた。耳の裏に指先が触れた瞬間、彼女の肩がわずかに跳ね、私の心は少し高鳴った。顎の下や首筋も、泡で滑らせながら洗う。太ももの内側に触れたときカミーユはくすぐったかったのか少し震えた。洗っている最中ずっとカミーユは顔を真っ赤にしながら目を瞑って顔を逸らしているものだから、私はどうしようもなく興奮した。必要以上に長く体を洗って、洗い終わった後は丁寧に流した。
     タオルで髪を拭きながら、カミーユは小さく息を整えていた。濡れたまつ毛が麗しかった。私は彼女の肩にタオルをかけ、背中を軽く押して拭いた。私はカミーユを拭いたタオルで、自分の体を拭いた。
     浴室から出ると、まだ祖母が起きる時間よりも前だった。物音がやけに響く。
    「先生に気づかれなかったね」
    「どうかな。案外気づいてるかも。でも、ばあばは気づいていても何も言わないと思う。」
    その後私はカミーユに今日の予定を聞いた。
    「今日はこっちの友達と会う予定がある。良かったら一緒に来ない?」
    「いいの?行きたい。」

     お昼時になると、私とカミーユはカミーユの友人に会いに出かけた。
     町の小さなレストランのテーブルにつくと、彼女の友人たちもそのすぐ後に店にやってきた。
     カミーユの友人は二人いた。ひとりはレア。淡い栗色のセミロングの髪を肩のあたりで揺らし、鋭く切れ長のグリーンの瞳で周囲を観察する。細身で背が高く、すらりとした立ち姿は、淡々とした物腰と相まって、どこか近寄りがたい印象を与える。服はシンプルだが、色や素材で微妙に個性を主張するのが好きなようだった。もうひとりはマリオン。黒髪で、大きく丸いダークブラウンの目を持つ。小柄で柔らかい体型は親しみやすさを醸し、表情やリアクションは豊かで、喜怒哀楽がはっきりと分かる。服装はカジュアルで可愛らしい系統を好み、アクセサリーや柄物を巧みに取り入れている。二人は性格も対照的で、レアが冷静で淡々と話すのに対して、マリオンは感情を交えたリアクションを見せる。会話の端々に、その違いが表れるので、二人のやり取りを見ているだけでも、性格や価値観が自然と伝わってくるのだった。
    「そういえば、少し前に言ってたレアが今付き合ってる相手について教えてよ」マリオンがレアに問いかける。
    「少し前に言っていた相手?ああ、あの男はとっくに別れたわ。今は別の相手と付き合っている」
    レアは淡々と答えた。
    「なにかあったの?」カミーユが聞く。
    「特に何もないわ。ありふれた話で、前の男が私と一緒の部屋で生活したがったから。私は断ったの。彼にそのセリフを言われる少し前に、今の彼氏と出会っていて、何度か彼を部屋に入れていた。だから、あなたが入ってくるスペースはない、とだけ言ったら、拍子抜けするくらいあっさり引いていった」
    「縋られたかったの?」マリオンが小首を傾げる。
    「まさか。安心したわ。大抵の男は別れを察すると、捨てられた子猫みたいな目で私を見てくるの。”嫌だよ。お願い、行かないで”もしくは”君がいないと死んじゃう”。私はそれが嫌なの。そんな気配を感じたら、はいおしまい。さっさと捨てて、私はすぐに次の人のところに行く。何度か、私の私物を全て相手の部屋に残したまま消えたこともあるわ。もう終わっていて会いたくも話したくもないのに、荷物をまとめるために彼と会わなければならないのも嫌だし、相手に『君と出会えてよかった。ありがとう』なんて言われるのもうんざり。」
    「冷たいなあ」マリオンが笑う。
    「全部そう。年上の男、覚えてる?あれも同じ。最初は余裕ぶってたのに、三ヶ月目で急に将来の話。結婚はしないけど一緒に住みたい、みたいな中途半端なやつ」
    「その次は?」カミーユが続ける。
    「同棲してた男?半年で終わり。歯磨きの音が無理だった。あと、私のシャンプー勝手に使った。他には、私は食べ終わった皿をすぐには洗わないけど、あいつはすぐに洗いたがる。服は床に脱ぎ捨てておきたいのに、あいつはハンガーにかけないと気が済まない。私はドアを最後まで閉めないでいるけど、あいつはちゃんと閉めないと落ち着かない。私は起きて、あいつは全く起きない夜間工事の音。それでも半年。長いほうよ」
    「でもね、私は冷たい人間じゃないの。とても良い人間よ。別れるときに嘘をつかない。期待させる言い方もしない。戻るかも、なんて含みも持たせない。今の彼とは、バーで出会ったの。目が合ったから話して、2時間後には二人でスイスに旅行に行く計画を立ててた」
    「とてもロマンチックね」私は言った。
    「ええ。私にも相手がいたし、彼にも相手がいたけど、お互いそんなことどうでもよかった。相手の気持ちを考えようだなんて変な気は、お互い起こさなかった」
    「今の彼は好き?」マリオンが問いかける。
    「好きよ。それなりに。一緒の時間を共有しているって感じ」
    「でもさ、毎回そんな感じなの?」カミーユが首をかしげた。
    「ほとんどね。数えてみたことあるけど、ちゃんと顔と声と思い出が残ってるのは二、三人くらい。あとは断片。名前だけとか、部屋の匂いとか、シャツの色とか。今の彼はどっちの組になるでしょうね。」
    「全く、男って!」
     私は三人のやり取りを聞きながら、思った。レアは、いつかエティエンヌの父が言っていたというように、ある人にとって、人は現れては去り、去っては現れるものだということを思い知らせる人間なのだろうか。あるいは人の人生に突然入り込んできては、思い出の品や痕跡のひとつも残さずに消える人間なのだろうか。レアは、まるで夜の街に漂う霧のようだった。触れたものすべてを湿らせるように近くにありながら、誰もその存在を掴めず、消えたあとは何も残らない。温かさや優しさも、怒りも、愛情も、どこか冷たく磨かれた刃のように、触れた者の心に小さな切れ目を残して通り過ぎる。抗おうとしても抗えず、ただ、静かに立ち去る。存在すること自体が、不可避の影のように、胸にざらりとした感触を残した。彼女と接する男性の誰もが彼女を手放したがらないのもわかる気がする。
     店の窓から外を見ると、空は少しずつ夕暮れに染まっていた。レアはラテを飲み干し、カップを置いた。
    「そろそろ行こうか」とマリオンが言った。
    「うん」とカミーユも答える。
    私たちは立ち上がり、通りに出た。日が沈み、街灯がぽつぽつと灯り始める。歩きながら、昼間の話題を軽く振り返るレアに、カミーユとマリオンは笑ったりうなずいたりした。街のざわめきと夜風が交わる中、三人は自然に酒場の前にたどり着いた。小さな木の扉から漏れる暖かい光が、吸い込まれるように私たちを誘う。扉を押して中に入ると、落ち着いた雰囲気の空間が広がっていた。店は古い石造りの建物の一階で、入口の扉は重く、閉まると外の音がほとんど遮断された。照明は低く、テーブルの上だけが意図的に明るい。カウンター席と小さなテーブルが並ぶ酒場の中で私たちは夜の時間を迎えた。 
    「まず何飲む?」
    「白で」
    「私も」
    グラスが届く。
    一口飲んだあと、誰かが昔の話を始めた。
    「それ、覚えてる」
    「懐かしい」
    笑い声が少しずつ重なり、店の空気が緩む。席と席の間が曖昧になって、声が自然に混ざる。
     しばらく談笑していると、カミーユたちは、店の奥に置いてあったダーツを見つけて、自然にそっちへ流れていった。私は今の酒を飲み終わったら行くと言って一人で残り、カウンターに移動した。
     周囲の賑やかさから少し距離を置くと、世界が小さく、自分だけに切り取られたような感覚があった。目の前のカウンターの光、奥のダーツ台で飛び交う笑い声、グラスに反射するぼんやりとした灯り。カウンターに座ったまま、私は無意識に周囲を眺めていた。視界の端にちらちらと人の動きはあるのに、心はどこか宙に浮いている。呼吸が自然と少し重くなるのを感じた。目の前のグラスの縁を指先でなぞりながら、ふとカウンターの奥を見た。そこに、一人の男性が座っていた。手元のグラスを軽く傾けながら、店内を静かに見回している。彼の存在は、まるで店内のざわめきの中で一つの静かな島のように私の目に映った。
    男性は私に気づくと、静かに隣まで来て座った。
    男性はグレーがかかった長めの頭髪で、背筋はまっすぐ。身なりもきちんとしている。
    「こんばんわ。一人ですか?」
    「ええ、今は。ここ、よく来るんですか?」
    「たまにね。この店の雰囲気が好きなんだ。」
    そう言うと男性はぐるっと店内を見回した。
    「この店はね、時間帯で顔が変わるんだよ。今はまだ前半で、みんな仕事の延長みたいな顔をしているけど、もう少しすると声が一段上がって、笑い方が雑になって、昔の自分の話を始める人が増える。アルコールの匂いだけじゃなくて、人が自分の話をしても許される気配が漂い始める。ほら、さっきまで仕事の話をしていた隣のテーブルも、もう笑い声が大きいだろう。昼間は皆、他人に見せる用の自分で生きているけれど、夜が深まると、その維持費を払うのが面倒になる。私はこの瞬間が一番好きでね、人生がほぐれてくる感じがする。君ももう少し飲んだら、たぶん今とは違う顔になると思うよ。悪い意味じゃない。人はだいたい、素面のときより酔ったときのほうが正確だから。」
     そう言いうと男性はグラスの酒を一息に飲み干し、すかさず次の一杯を頼んだ。私も同じようにグラスの酒を飲み干して、次の一杯を頼んだ。
    「若い頃はね、酒を飲む理由なんて考えなかった。飲めば楽しくなる、それで十分だった。でも今は違う。飲まないと出てこない話があることを知ってしまった。人は普段、自分の中で検閲をしてる。これは言っていい、これはやめておこう、これは格好悪い、これは損をする。酔うと、その検閲官が席を外す。だから、こういう時間帯が好きなんだ。
     君はどうだい。こういう店、慣れてる顔じゃない。悪い意味じゃないよ。初めて来た場所で、どこに視線を置いていいか分からない感じが残ってる。」
    「お見通しね。」
    「そうか。そういう人はね、だいたい他人の話をよく覚えている。君は学生かな?」
    「ええ。もうすぐ十七になるけど、まだ十六。」
    「十六か。私の年齢は君の四倍に近いな。こうして向かい合って酒を飲んでいると、その差が実感としてはあまりないのが不思議だけど、時間というのは公平じゃない。若い人には選択肢が多く、年を取ると、その選択肢の結果だけが残る。君、夢はあるかね?なりたい職業とか何か。いや、すまない。答えたくなかったから答えなくていいんだ。」
    「ううん。大丈夫。夢は、今はない。興味があることは沢山あるけど...私はきっとどれも選ばない。」
    「うん。そうか。たぶん、それでいい。若い人が未来を具体化しすぎるのは、あまり良いことじゃない。私は若い頃、ずいぶんと自分を信用していた。勉強もしたし、努力もしたし、人に対して誠実であろうとした。だから、正しく生きていれば、正しい場所に辿り着くと思っていた。間違ってはいない。ただ、それだけでは足りなかった。人は、何かを好きになるとき、その価値を測っているようで、実は自分の退屈さを測っている。どれだけ安心できるか、ではない。どれだけ予測できないか、だ。私はその事実に気づくのが遅すぎた。学生の頃は、正解があると思っていた。努力すれば報われるし、誠実でいれば選ばれるし、長く一緒にいれば、関係は自然に深まる。今思えば、ずいぶんと都合のいい世界観だ。現実はそんなに整っていない。いや、むしろ、整っていないことの方が人を惹きつける。」
    「あなたはどんな学生だったの?」
    「随分と真面目な学生だったと思うよ。私は学生時代が長かった。長すぎたと言ってもいい。研究室に残って、同じ建物を何年も行き来して、同じ階段を上って、同じ窓から同じ景色を見ていた。若いころは、それが積み重なっていく感覚が心地よかった。時間を使っているという実感があった。でも途中から、時間に使われている感じに変わった。ある日突然、今日と昨日の区別がつかなくなる。そうなると、人は人間関係に意味を求め始める。私には愛した人がいたんだ。彼女とは、その頃に知り合った。特別な出会いじゃない。同じ学校にいた。それだけだ。最初は名前も覚えていなかった。でも、気づいたら毎日話していた。彼女といると、時間が過ぎるのが異様に早かったような気がする。議論が好きな人で、勝ち負けに興味がなくて、考えること自体を楽しむタイプだった。私は彼女と話していると、自分が少し賢くなった気がした。実際は何も変わっていなかったのに。友人としては、完璧だったと思う。一緒にいる時間は長かったし、互いの美点も、欠点もよく知っていた。彼女は私を信頼していたし、私はそれを誇りに思っていた。信頼されることは、愛されることよりも価値があると、本気で思っていた時期もある。愚かだとは思わない。ただ、未熟だった。だからこそ、私は勘違いした。これだけ分かり合えているなら、気持ちも同じ方向を向いているはずだと。今思えば、分かり合うことと、選ばれることは全く別だったのにね。
     当時の私は、人生というものは段階を踏んで完成させる建築物のようなものだと本気で考えていた。学業を終え、仕事に就き、生活が安定し、適切な年齢になったら結婚をする。それは感情の頂点で決断されるものではなく、条件が揃った時点で選択されるべき事項だった。察しの通り私は彼女に結婚を申し込んだ。計画的だった。衝動じゃない。だからロマンもなかった。」
    「それで?」
    「言うまでもなく振られたよ。50年台の夏だった。あの時代は、個人の感情よりも時代の流れのほうが強く、人はそれに身を任せていれば、だいたい正しい場所に運ばれると信じられていた。当時、私がボルドーでの出張を終えると、日時を合わせて彼女は駅まで迎えに来てくれた。前から、そのタイミングで結婚を申し込もうと計画していた。申し込む時は声も裏返らなかった。準備してきた言葉を、順番に読み上げるだけだった。彼女は最後まで黙って聞いていた。
     そして、私が話し終えた後最初に出た言葉が『ありがとう。』だった。その瞬間、私は完全に負けたのだと思った。ああ、この人は私を失うことを何とも思っていない、と瞬時に理解した。
     彼女の周りには、いろいろな男がいた。その中に、今の夫になる男もいた。彼は私の友人で、正直に言えば、私は彼を評価していなかった。軽薄で、調子がよくて、約束を守らない。将来の話になると笑ってごまかす。安全な男ではなかったし、安定からは一番遠い場所にいるタイプだった。だから私は、彼女が最終的に自分を選ぶと、どこかで信じていた。それが、最大の誤算だった。人は必ずしも安全なものを選ばない。まして若い頃はね。彼女は刺激を選んだ。予測できない未来を、退屈な確実性よりも重く見た。私はそれを、理解できなかったわけじゃない。ただ、自分が選ばれない理由として受け入れる準備ができていなかった。今でも三人で会うことがある。子どもの話を聞き、仕事の愚痴を聞き、穏やかな時間を過ごす。誰も不幸じゃない。
     私が負けたのは、告白した瞬間じゃない。彼女が“ありがとう”と言った瞬間でもない。本当の敗北は、そのずっと前から決まっていた。私は彼女を幸福にしたかった。だが、あの男は違った。彼は彼女を幸福にしようとはしていなかった。ただ一緒にいて、自分が楽しそうにしていただけだ。それが結果的に彼女を射止めた。今でも時々思うよ。もし私がもう少し軽薄で、もう少し無責任で、もう少し自分の機嫌だけを優先できる人間だったら、違う人生があったんじゃないかってね。でも、そう考えるたびに同時に分かる。そういう人間になっていたら、私は彼女を好きになっていなかった。つまり、どこをどう切っても、私は私のままで負けるようにできていた。私はそのとき悟ったんだ。私は、誰かを幸福にする人間ではなかった。私と一緒にいる時間は悪くなかった。でも、人生を託す相手ではなかった。それだけだ。若いころは、愛されなかった理由を相手に探す。年を取ると、自分に探す。でも、最終的には理由なんてどうでもよくなる。ただ、結果だけが残る。私は負けた、と言う結果だけが。負けた人間の役割は、静かに席を空けることだ。結局、私によって幸福になった者は誰一人としていなかった。私はどうしようもないナルシストだ。」
    男は淡々と話し続けている。
     「だが今は、こうして話せるくらいには整理がついた。負けた人間に残されるのは、理由の分析じゃない。席を立つタイミングを間違えなかった、という静かな自尊心だけだ。それで十分だと、今は思っている。そして今夜みたいに、誰かに話して、過去を整理して、また一人で帰る。それでいい。」
    「その後は?今、あなたが愛している人はいないの?」
    「その後か。いい質問だね、と言いたいところだけど、実際には答えはずっと単純で、しかも多分、君が想像しているよりずっと地味だ。いないよ。愛している人はいない。愛そうと努力している相手も、愛する資格があると思える相手も、どちらもいない。私は誰かに向けられる愛を使い果たしてしまった。昔はね、“いない”という状態が一時的な空白だと思っていた。次の誰かが現れるまでの待合室みたいなものだと。でも年を取ると分かる。これは空白じゃない。完成形の一つなんだ。寂しい状態じゃない。少なくとも今の私にとっては。もう誰かの人生に深く関与しないと決めた人間の、静かな安定だ。期待もしないし、期待されもしない。その代わり、夜にこうして酒を飲みながら、自分の人生を一つの物語として語れる余裕は残る。敗北を語れるようになる、というのは、案外悪くない到達点だよ。」
    「そんなのはだめ。到達点だなんて。あなたは今幸せ?」
    「幸せかどうかと聞かれれば…満足している、って感じかな。」
    「なら、今からでも相手を見つけるべきよ。あなたを幸せにしてくれる人を。」
    「うむ。乱暴だけど、残酷ではない。ただ、私にはもうその速度で生きる体力がない。」
    私は引かなかった。
    「それでも私は、あなたの話を聞いて、余計にそう思った。あなたは“席を立つタイミングを間違えなかった”って言ったけど、それは美しい言い方なだけで、本当は、立たなくてもよかった席かもしれない。負けを認めるのが誠実だっていうのは分かる。私も、それはきれいだと思う。でも、負けたって言うことで、相手から何かを奪っている。少なくとも、あなたと関わった時間が、誰かの人生にとって意味があった可能性まで、まとめて無かったことにしてる。私まだ若いから、たぶん簡単に言えるの。でもね、若いからこそ分かることもある。きっと、誰かに選ばれなかった記憶って、そんなに簡単に負けたことにはならない。しばらく残るし、変なところで力になる。あなたは誰も幸福にしなかった、私はそうは思わないけど、あなたが言うならそれは事実かもしれない。でも、あなたの真面目さとか、計画性とか、逃げなさは、彼女が次に誰かを選ぶときの基準になってるかもしれない。ちゃらんぽらんな男を選んだとしても、比較対象としてあなたは生き残ってる。だから、“早く相手を見つけるべき”って言ったのは、あなたを急かしたいからじゃない。あなたは、自分で自分を過去に閉じ込めたままでいる。それも、“あった出来事”じゃなくて、“そうだったと理解した自分”のほうに。それは、誰にも辿り着けない場所にある自意識の牢獄みたいなもの。鍵は外にあるのに、もう出る理由がないって思い込んでる。それは良くないことだと思う。誰かを幸福にできるかどうかは結果論よ。でも、誰かと関わろうとする権利まで、自分から取り下げる必要はない。」
     男性は静かに私の目を見て頷いている。
    「それに、あなたが自分で気づいているかわからないけど、あなたの素晴らしいところを一つ教えてあげる。多分、今までこの話を聞いてきた誰もが思っていたでしょうね。それは、あなたには一人の人間を愛し抜く力があるということ。きっとその力は他の誰かにも向けられる。愛には定量なんてない。あなたはその女性とのことで誰かに向けられる愛を使い果たしたって言った。けれど、愛は消耗品じゃない。使い切ったら終わり、なんてことはない。あなたが向けられなかったんじゃない。ただ、その人が受け取る場所に立っていなかっただけ。あるいは、別の誰かが先に立っていただけ。私はね、この話を聞いて失敗談だとは一度も思わなかった。むしろ、ああ、この人は最後まで自分の感情を引き受けたんだ、と思った。あなたは途中で何も投げ出していない。そういう人は、きっとそう何人もいない。あなたは敗北だと言ったけれど、私には撤退に見える。しかも、ちゃんと背中を向けて歩いていくタイプの。相手の人生を壊さずに、自分の感情だけを持ち帰るやり方を選んだ。だからね、あなたが誰かをもう愛さないって決めたとしても、それは能力が枯れたからじゃない。怖いからでも、年を取ったからでもない。ただ、今は使わないと決めているだけ。その選択が間違っているとは言わない。でも、それを“完成形”って呼んでしまうのは、あなた自身に対して少しだけ不誠実だと思う。だって、あなたはまだ、自分の話をこんなに丁寧にできるから。過去を美化もしないし、他人のせいにもしていない。そういう人は、また人を好きになる入口に立てるはず。それに、あなたみたいな人が、私によって誰も幸福にならなかった、なんて悲しいことは言わないで。少なくとも、あの女性は、あなたから真剣に愛されたという事実を一生持って生きていく。それは、彼女の人生のどこかで、必ず効いてくる。だから、もし次に誰かを好きになった時には、“また負けるかもしれない”なんて思わないで。負けることが分かっていても向かえる人は、もう勝敗の外にいる。私はそう思う。」
     話し終えると私は残っていた酒を飲み干した。
     まるで自分に言い聞かせるように言い切ったその言葉は、口を離れた瞬間から、もう私のものではなかった。正しいかどうかなんて分からない。ただ、今この場で、そう言わずにはいられなかった。それだけだった。
     グラスを置く音が、思ったより大きく響いた。
     胸の奥が、少しだけ軽くなった気もしたし、同時に、何か取り返しのつかないものを差し出してしまったような気もした。私はこの人を救いたかったわけじゃない。慰めたかったわけでもない。ただ、自分がいつか同じ言葉を、自分自身に向けて言わなくて済むようにしたかっただけなのかもしれない。
     男性は、自分の四分の一ほどの人生しか歩んでいない私の話を、真剣な目で、口を挟むこともなく聞いていた。
    彼はしばらく黙っていた。否定も、反論もせず、グラスの縁を指でなぞりながら、私の言葉を一つずつ咀嚼するみたいに間を使っていた。

    「君はね」と、ようやく口を開いた。「私よりずっと残酷だ。だが、嫌いじゃない。」
    そう言って小さく笑ったあと、声を少し落とした。
    「希望を語る人間は、だいたい優しい顔をしている。でも実際には、逃げ道を塞ぐ。今の君の言葉もそうだ。私が自分で閉じた扉を、外から静かに叩いて、“まだ開く”と言っている。音を立てずにね。正直に言うと、腹は立たない。むしろ、久しぶりに正確だと思った。若い人間の言葉にありがちな、勢いだけの否定でもなかった。君は私の言い訳を一つも許さなかったし、その代わりに、私の行為だけを評価した。」
    「愛し抜く力、か。」
    彼はグラスの縁を指でなぞりながら続けた。
    「それを持っている人間が、必ずもう一度使うべきだ、という論理には同意しない。でもね、使い切ったと思い込んでいる人間が、実はまだそれを保持している、という指摘には反論できない。
     完成形、という言葉を選んだのは、たしかに怠慢だったかもしれない。あれは結論じゃない。疲労の別名だ。これ以上、何かを始めなくていいと自分に言い聞かせるための、便利なラベルだよ。何もかも君が言った通りだ。私は、もう誰かを愛さないと決めた人間じゃない。正確には、もう愛さなくてもいい理由を集め終えた人間なんだ。何も言い返せないよ。私は、彼女がどう思っていたかを最後まで聞いていない。全てを理解したつもりになった。それは、理解じゃなくて、早合点だったのかもしれない。いや、もっと正確に言えば、理解したことにしたかったんだ。」
    彼は一度息を吸い、ゆっくり吐いた。
    「彼女が選んだ男は、危なっかしい男だった。私はその横で、計画表を作って、住む場所や仕事や子どもの学校まで考えていた。だから負けたんだと思っていた。軽さに、ではない。私の正しさに、彼女が窒息したんだと。」

    グラスを持ち上げ、口をつけるが、ほとんど減らなかった。

    「君は、比較対象として私は生き残っているかもしれないと言ったね。それは、慰めとしては出来が良すぎる。だが、真実でもある気がする。彼女は今でも私に連絡をよこす。誕生日でも、彼女の結婚記念日でもない。どうでもいい日に。子どもの話や、飼っている犬の話を、妙に詳しく書いてくる。私は返事をする。短く、丁寧に。古い友人として、適切な距離で。それで十分だと思ってきた。
     だがね、君に言われて気づいた。私は“十分だ”と言いながら、実はそれ以上を拒否している。誰かと新しく始めることも、過去を別の形で引き受けることも、どちらもだ。
    君が“今からでも相手を見つけるべき”と言ったのは、正論だ。だが、私が躊躇しているのは、孤独が怖いからじゃない。もう一度、誰かに“ありがとう”と言われる瞬間を想像するのが、少しだけ怖い。あの言葉は、優しくて、決定的だった。だが、君の言う通りだ。私はまだ、席を立つ必要はなかった。立たないまま、黙って座っている選択肢もあった。」

     そう言って、グラスをこちらに軽く掲げた。

    「君に会えてよかった。今夜に限っては、負けた話をした甲斐があった。」

     「それにしても――君みたいな話し方をする人が、まだ十代半ばという事実のほうが、よほど恐ろしい。きっと、君の恋人は大変だろうね。」
    彼が次の一杯を頼む前に、私も同じものを注文した。
    私は顔を上げ、店内を一度だけ見回した。笑い声は確かに大きくなっていた。

    それから店の空気は、はっきりと一段階変わった。誰かが笑うたびに、別の卓からも遅れて笑い声が重なり、意味のない拍手が起き、店員がそれを止めもせずにグラスを置いていく。音楽はいつの間にか誰も選んでいない古いジャズに変わっていて、リズムだけが床に残り、旋律は会話の背後に溶けていた。
    私は椅子から立ち上がり、ふらつきながらカウンターの奥を指さした。
    「ねえ、あれ、触っていいの?」
    返事を待たずに、壁際に立てかけてあったアコーディオンを引き寄せる。鍵盤の黄ばみを見て、懐かしそうに笑った。
    「音、ずれてるかもね。でもまあ、夜だし」
    店員は誰に向けたともなくそう言ってた。
    私はそのまま肩に掛け、適当に蛇腹を引いた。最初は音がばらばらで、和音にもならなかったが、三呼吸ほどのあとで、急に一つの旋律に収束した。上手いとか下手とかではなく、知っている音だけを繋げていく弾き方で、子どもの頃に覚えた歌の断片みたいだった。
    店の客が一人、また一人と手拍子を始める。
    私はそれに気を良くして、テンポを少しだけ上げた。
    少し離れた席では、カミーユと音楽学校時代の友人たちが、テーブルを叩きながら即席のリズムを作っていた。グラスを裏返しにして鳴らす者、スプーンで縁を叩く者、歌詞もないまま声を重ねる者。カミーユはその中央で、指だけで空中に旋律を描くような仕草をしていた。
    店員がいつの間にか照明を一段落とし、キャンドルに火を足していく。影が増え、顔の輪郭が柔らかくなる。さっきまで私と話をしていた男性も、今は知らない客とグラスをぶつけ合い、名前も聞かずに昔の歌を口ずさんでいた。
    私は演奏を終えると、そのまま床に座り込み、アコーディオンを抱えたまま笑った。
    誰かが「もう一杯」と言い、誰かが勝手に乾杯し、グラスの数だけ音が鳴った。店の奥では、さっきまで互いに無関係だった客同士が、いつの間にか同じ話題で笑っていた。私はアコーディオンを元の場所に戻し、カウンターに肘をついた。指先が少し震えているのを見て、自分が思っていた以上に酔っていると気づく。
    カミーユたちの席から、急に大きな笑い声が上がった。誰かが昔の試験の失敗談を誇張して話しているらしく、身振りが必要以上に大きい。カミーユはそれを聞きながら、グラスの縁を指でなぞっている。店の時計を見る人はいなくなった。外がどれくらい寒いのかも、もう誰も話題にしない。男性は再び私の元に来ると、さっきまで語っていた過去の続きを自分から蒸し返すことはなかった。その代わり、今は、どうでもいい昔の映画の話をしていた。どの場面で眠くなったか、どの役者の名前をいつも忘れるか、そんな話ばかりだった。
    閉店の時間が近づくと、店員が控えめに告げた。
    それを合図みたいに、席を立つ人、名残惜しそうに椅子に残る人、無言でコートを探し始める人が現れる。
    カミーユが私のところまで来た。
    「帰ろう」
    外に出ると、夜気が一気に肺に入ってくる。
    酔いは完全には覚めなかったが、頭の芯だけが妙に冴えていた。店の明かりが背後でにじみ、ドアが閉まる音が、はっきりとした区切りを作る。

    外に出ると、石畳がわずかに湿っていて、靴底が静かに鳴った。

    少し歩いてから、カミーユの友人たちは自然に二人ずつ、三人ずつに分かれていった。別れの挨拶も大げさではなく、またね、とか、気をつけて、という短い言葉だけが残る。
    そのあと、私はカミーユの手を取った。カミーユは一瞬だけこちらと、周囲を見て、それから何も言わずに指を絡めてきた。
    私は急に歌い出した。
    フランス・ギャルの「Ella, elle l’a」。音程はあやふやで、歌詞も途中から適当だったけれど、夜道にはちょうどよかった。カミーユは最初、肩をすくめて笑っていたが、しばらくすると小さな声で一緒に歌い始めた。二人分の声が重なって、歌は形を失い、ただの気分みたいなものになった。

    「さっきはお店で何を話してたの?」
    「人生論だよ」
    カミーユは小さく笑った。
    「アルコールは人を哲学者に変える?」
    「その通り!でも、変な人じゃなかった」
    「うん」
    「自分はもう、誰かを愛する段階は終わったって言ってた。孤独じゃない、完成形だって」

    カミーユは少しだけ間を置いた。
    「それで?」
    「私は、そんなのだめだって言った。今からでも、誰かを見つけるべきだって。あの人には幸せを見つけて欲しい。」
    「優しいね」

    声は穏やかだったけれど、どこか遠かった。
    街灯に照らされた横顔を、私は見ていた。

    「ねえ、カミーユ。あなたは、私がいて幸せ?」
    「幸せよ」
    「即答だね」
    「即答できるくらいには」
    「あなたは?」
    「幸せよ。即答できるくらいには」

    カミーユはそれから、少しだけ声を落として言った。
    「それはつまり、私たちはお互いを傷つけることができるということ。私たちは、幸せなまま終わることもできる。壊れる前に、変質する前に。ちゃんと、良い状態のまま」
    「それって、私たちの別れの話?」
    「ただ……心の準備の話。私はあなたといる時、失うことを考えざるを得ない。あなたは私よりずっと頭が良いから、きっと分かっていると思う」
    「分からない。考えたくない」
    お店で出会った名前も知らない男性には偉そうに語っておいて、私はカミーユがいなくなった後に彼女の後継者が現れるなんて思えなかった。
    私たちは公にできる関係じゃない。
    それも最初から分かっていたし、知らないふりをしたこともなかった。それでも、あなたが遠ざかろうとしている気配だけは、理屈とは別のところで、はっきりと伝わってくる。
    頭では分かっている。でも、心が追いついていかない。
    私があなたから離れる勇気を持てないことを、あなたは知っている。だから先に、私から離れようとしている。
    あなたは優しい。でも、離れようとしないで。

    カミーユは、お揃いで買った指輪をくるくると回しながら言った。
    「今日のあなた、すごくきれいだった。知らない人と話して、ちゃんと自分の言葉で否定して。そういう姿を見られて、よかったと思ってる」
    「やめて。お願い、最後みたいに言わないで」

    カミーユは何も言わなかった。
    次の角を曲がったところで、カミーユが急に立ち止まった。
    「ちょっと、待って」

    そう言って手を離し、街路樹の根元にしゃがみ込む。
    次の瞬間、抑えていたものが一気に溢れたみたいに、彼女は吐いた。
    私は彼女の背中をさすっていた。
    しばらくして、カミーユは顔を上げた。
    目が少し潤んでいて、前髪が乱れている。
    私は何も言わずに近づき、しゃがみ込んで、彼女の頬に触れた。
    指先でそっと撫でると、カミーユは抵抗せず、目を閉じた。
    私は周りを確認した後、軽く唇を重ねた。
    「ごめんなさい。ひどいところを見せて」
    カミーユが小さく言った。
    「ううん。」
    「...。」カミーユは俯きながら、少し目元を濡らしているように見えた。
    「...カミーユ?」
    「ごめんなさい...。」
    「大丈夫?気分が悪いの?」
     私がそう言うと、カミーユは消え入りそうな声で言った。
    「...私はさっき、言葉を偽った。幸せに別れる方法なんて、無いってわかってるのに。ごめん...。ごめんなさい...。」
    カミーユは泣きながら私の胸に顔を寄せた。
    「わかってるよ。大丈夫だから。わかってるから。」
     私はカミーユの頭を撫でながらそれだけ返して、手で顔を包みキスをして、もう一度、彼女の手を取った。

     その夜、私は自分の部屋に戻ってからも、すぐには灯りをつけなかった。廊下の明かりがドアの下から細く入り込んでいて、それだけで部屋の輪郭は分かったし、今はそれ以上の光を必要としていなかった。ベッドに腰を下ろしてコートを脱ぐと、指先が少し冷えているのに気づいた。暖炉の火はもう落ちているはずなのに、身体の奥だけが妙に熱を帯びたままで、そのちぐはぐさが、まだ気持ちが現実に追いついていない証拠のように思えた。机の引き出しを開けて日記を取り出す。最初のページには、今年の春からの出来事が、出来事そのものよりも、そのとき私が何を感じていたかという形で書き留められていた。文字の並びを追ううちに、時間が巻き戻るみたいで、私は一度だけそこに視線を落とし、それから新しいページを開いた。この日記を、カミーユに渡そうと、はっきり決めた。
    そう決めたのは単純な理由だった。カミーユに、私との関わりが現実であったと証明する何かを残したい。形のあるものを、彼女の時間の中に置いていきたかった。私の名前や顔や声ではなく、私が考え、感じ、迷っていた痕跡を。私がそこにいたという事実をあとから否定できない形で。この日記を目にするたびに、私のことを思い出してほしい。ふと、この先の人生のある一瞬で、この日記を目にして胸をいっぱいにして欲しい。私の写真も挟んでおこう。
    五年後でも、十年後でも。彼女の人生が別の音や別の人で満たされたあとでも、彼女が好きだと言ってくれた私の肌も、手も、背中も、その瞬間だけのものではなかったと、あとから思い返せるように。
    私はペンを取った。
    何を書くつもりなのか、自分でもはっきりしていなかった。愛している、とは書けないし、一緒にいたい、とも書けない。
    椅子に深く腰掛け、背もたれに身体を預ける。窓の外では、雪解けの水が屋根を伝って落ちる音がしていて、それはいつもと同じ一定のリズムだった。静かすぎると、考えは勝手に増えていく。
    このまま何も渡さずに終わらせることもできるとも思った。
     だけど、私はペンを取った。一行目を書いては消し、二行目も三行目も同じように消して、紙は書き損じの痕で汚れていく。

    「違う」

    思わず小さく声に出した。
    今度は考える前に書いた。

    カミーユ。
    心の中で呼ぶだけで、胸の奥が詰まる。

    “あなたが去ったあとも、
    私はしばらくこの家にいる。
    夕方の六時はいつも居間にいるから。”

    ペンを置いたとき、指先がじんと痺れていた。書き終えた、というより、出し切った、という感覚に近い。
    日記を机の上に置いたまま、しばらく動けなかった。
    私は何を期待しているのだろう。これを渡すのは、カミーユにとって呪いになるかもしれない。それでも、彼女が去ったあとに、私たちの間に何も残らなくなるのはたまらなく怖い。少しでも彼女と繋がれる希望の架け橋を残しておきたい。きっと、私からは連絡する勇気も、手紙を書く勇気もない。だから、こうして日記に書いて渡して、後のことは一方的にカミーユに期待する。どうしようもなく身勝手で、自己中心的なやり方だと思う。それでも、何も残さずに終わる勇気が私にはなかった。
    書き終えると私はカミーユのベッドで眠るために彼女の部屋に行った。

     翌朝、朝食のあとでカミーユは広間に座り、譜面を整理していた。私は少し離れた場所に立ち、声をかけるタイミングを測っているふりをしながら、実際には自分の覚悟のほうを測っていた。
    「カミーユ」
    呼ぶと、彼女は顔を上げた。いつもと同じ目だった。落ち着いていて、距離を保っている。私は一歩だけ近づき、それ以上は踏み込まなかった。
    「これ」
    言葉はそれだけで日記を差し出した。
    カミーユは日記と私の顔を一瞬見比べたが、何も聞かず受け取った。
    「ありがとう」
    そう言われた瞬間、指がほんの一瞬だけ触れた。
    「読まなくてもいいよ」
    言ってから後悔したが、取り消さなかった。
    カミーユは小さく首を振り、「あとで読む」とだけ答えた。日記は彼女の手の中にあり、もう私のものではなかった。私は一歩下がり、それ以上は何も言わなかった。それ以上言えば、返事を催促することになるし、それだけはしたくなかった
    広間には、紙の擦れる音だけが残った。私はそれを背にして、部屋を出た。

     最後の夜、私たちはカミーユの部屋のベッドで二人で横になっていた。
    「寝ないで。」私は囁くように言った。
    「寝ないで。お願い、まだ寝ないで」
    「起きてるよ。」カミーユは天井を見ながら言った。
    「本当に?」
    「ええ。」
    「もう少し話せるね」
    「そうね」
    私は、ずっと言うべきか迷っていたことを言った。
    「あなたに会えて、良かった」
     そう言って息を吐き、カミーユの腕に自分の腕を回すと、気づくと寝てしまっていた。

     朝、目を覚ますと、カミーユは起きていて、ベッドに座っていた。目は閉じていたけれど、眠ってはいないようだった。
    「カミーユ」
    名前を呼ぶと、ゆっくりと目を開ける。
    「起きてる?」
    「起きてるよ」
    昨夜と同じ優しい声だった。
    朝の光が薄く温かい光が部屋を満たしていた。

    「あなたのこと、忘れない」最後に彼女はそう言った。

                  5

     改札の前は、思っていたより静かで、人はいるが誰も急いでいる様子はなかった。時刻表の前で立ち止まっている人が何人かいて、カミーユは切符を指でなぞるようにしてからコートのポケットにしまった。その仕草を見て、私は、これが前から決まっていたことなのだと遅れて理解した。
    「何番線?」
    「三番」
     改札の手前で彼女は足を止め、ちょうどその時、向こうから列車が到着したことを告げるベルが鳴った。
    「ここまででいいよ」と言われ、彼女は私を見る。視線は逸らさない。私はうなずくしかなかった。
    構内放送が少しこもった声で次の発車を告げ、地名だけが妙にはっきり耳に残る。カミーユは私を強く抱き寄せ、数秒そうしたまま離れると、一歩下がって改札のほうへ向かい、駅員に切符を渡してそのまま通り抜けた。彼女は一度も振り返らなかった。私はその場に立ったまま、人の流れがゆっくり彼女を隠していくのを見ていた。

     家は急に広くなった。電話は居間に一台だけあった。
    黒い受話器で、ダイヤル式。音が鳴れば、家中に響く。
    まだ現実味がなかった。手を自然と受話器の近くに置き、耳をそばだてる。1階と2階を行き来したり、テレビをつけたり消したりしていた。昼を過ぎると、無意識に時計を見る回数が増えていく。

    三時。
    まだ早い。

    四時半。
    受話器を一度、磨いた。理由はない。

    五時。
    居間に入ったまま、出られなくなった。
    電話の横に座り、鳴ったらすぐ取れる距離にいる。

    五時半。
    マティアスがきた。私の前を何度か通り過ぎた。

    五時五十分。
    心臓の音が少しずつ大きくなる。
    もし、鳴ったら。何を話すかは考えなかった。考えると、逃げ道を作ってしまう気がした。

    六時。何も起きない。

    六時一分。
    六時二分。
    秒針の音が、こんなにうるさいとは知らなかった。

    六時十分。
    私は、初めて深く息を吐いた。
    電話は来なかった。それが分かった瞬間、がっかりより先に、妙な安堵が来た。
    来ないと分かっていたのに、身体がまだ期待していた自分をもう言い訳にしなくていいからだった。その夜、私は何も言わなかった。祖母も、マティアスも何も聞かなかった。翌日も、電話は鳴らなかった。私はもう、居間に座らなかった。電話のある部屋を避けるように過ごした。それでも、六時が近づくと、身体だけが反応した。耳が、勝手にありもしない呼び出し音を、何度も聞き間違えた。
    その反応も、少しずつ鈍くなっていった。返事が来ない、という返事。それが拒絶でも、裏切りでもないことは分かっていた。私が勝手に期待していただけだから。あれは、約束ではなかったから。約束にしなかったのは、私自身だったから。
     その夜、私は窓を開けた。冷たい空気が入ってくる。遠くで、列車の音がした。どこかへ行く音。
    カミーユがいなくなった。
    理屈で分かっていても、まだ身体がその事実を受け入れるには、少し時間が必要だった。

     私だけの場所に座って川を見ていた。水は相変わらず低く、底の石がところどころ透けて見える。後ろで靴音がした。
    「ここだった」
    エティエンヌが来た。
    私の横に座る。足が届かなくて、ぶら下がったまま揺れる。
    しばらく何も言わなかった。
    風で、私のコートの端が少しめくれる。
    「カミーユ、帰ったの?」
    「帰ったよ」
    「ふうん」
    エティエンヌは川を見ている。
    私のほうは見ない。
    「僕には、何も言わなかった」
    「うん」
    それだけ答えた。
    エティエンヌは欄干の上に小石を並べ始める。
    一つ、二つ、三つ。
    最後の石を置いて、落とした。
    石は川に落ちて、小さな音を立てた。
    エティエンヌは、私の手を見る。
    じっと見て、それから自分の手を見る。
    「手、冷たい」
    「冷えてるね」
    「カミーユの手、あったかかった」
    「そうだね」
    欄干に並べた石を、そのままにしてエティエンヌは立ち上がる。
    「夕ごはん、うちにきなよ」私は言った。
    「うん」
    橋を渡る足音が、規則的に遠ざかる。
    エティエンヌは途中で一度足を止めて、袖で目元を拭うと、また歩き始めた。彼もまた振り返らなかった。
    通りに目をやり、目を閉じると、すぐに浮かぶ。
    カミーユと私、その間にエティエンヌがいて、三人で手を繋いで歩いていた。
    エティエンヌは両腕をいっぱいに広げて、私とカミーユの手を握り、歩幅が合わなくなるたびに引っ張って、三人で笑い合った。石はまだ欄干の上に残っている。川は、変わらず流れていた。

     帰ってから私は、居間の椅子に腰を下ろし、膝を抱えてじっと窓の外を見つめていた。暖炉の炎が赤く揺れ、部屋の奥まで柔らかい光を投げかけている。
    家の扉が開き、誰かが入ってきた。マティアスだった。
    「この前撮った写真を届けに来た。」
    マティアスは私の背中を静かに見つめ、そばの椅子に腰を下ろした。彼は何も言わず、ただ炎を見つめていたが、やがて低い声で口を開く。
    「彼女、行ってしまったね」
    私は答えず、視線をそらすこともせず、ただ静かに外の雪を見続ける。問いかけは慰めるものでもなく、観察している者が感じ取った真実の確認のように、部屋の空気に溶けていった。
    「彼女は、君にとって最高の人だったようだね。彼女と接している時の君からすべてを感じた。そういう人物と出会えたことは、これは控えめな表現だが、君にとって少なくとも無駄にはならない。そしてそれは、彼女にとっても同様だろう。彼女もそう思っている。」
    私は何も言わなかった
    マティアスはしばらく言葉を探すように、炎の揺れを見つめていた。
    「少し、自分の話をしてもいいかな。たいした話じゃない。ただ、君を見ていたら思い出したんだ。」
    私は小さく頷くと、マティアスは静かに話し始めた。
    「私は昔、ギリシャで暮らしていたことがあった。その時の私はまだ若く、自分を見つめ、探していた時期だった。
    サントリーニの白い街並み、クレタの古い石橋、ミコノスの小さな教会、ギリシャは最高の場所だった。
    ある時、私は街の画材店を訪れた。そこで、ある女性に出会った。
    私は当時19歳で、彼女も19歳だった。
    彼女は、店の隅で窓から見える景色を静かに描いていた。美術学校に通う女性だった。
    彼女とは、言葉を交わすより先に、同じ空間を共有するようになった。
    店で挨拶を交わし、次の日にまた会い、その次の日には自然と隣に立っていた。彼女は多くを語らなかったが、描いている間の沈黙が心地よく、私はそれを理解の証のように受け取っていた。
    やがて彼女は、家賃を抑えるために誰かと部屋を共有したいと言った。私は即座に、自分の部屋を思い浮かべた。提案は慎重を装って口にしたが、内心ではもう決まっていた。彼女は少し迷い、それから頷いた。

    一緒に暮らし始めてからの時間は、穏やかだった。
    朝は彼女が先に起き、窓辺でスケッチをしていた。私はコーヒーを淹れ、何も言わずにそれを置いた。彼女は礼を言い、私はそれだけで満たされた。生活は規則正しく、衝突もなかった。少なくとも私にはそう感じられた。

    彼女はよく外に出た。学校、写生、友人。
    私は家に残り、彼女の帰りを待つことが多かった。待つ時間は苦ではなかった。むしろ、待つこと自体が関係の一部だと信じていた。
    共有している空間、揃えた生活、同じ鍵。十分すぎる証拠のように思えた。

    けれど、彼女は次第に部屋で描かなくなった。
    スケッチブックは閉じられたまま、窓辺も空いた。私は理由を尋ねなかった。尋ねないことを、思慮深さだと思い込んでいた。

    日ごと、彼女が部屋で過ごす時間は少なくなっていった。
    荷物は増えず、減りもしなかった。
    だが、彼女の体温だけが、部屋から少しずつ抜けていった。

    ある日、部屋に彼女の絵が一枚も残っていないことに気づいた。壁は白く、床はきれいで、まるで最初から誰もいなかったかのようだった。彼女の私物も減っていた。だが完全には消えていなかった。必要最低限のものだけが、意図的に残されていた。

    私は不安を言葉にしなかった。
    言葉にすれば、失うことが確定してしまう気がしたからだ。
    曖昧な状態に留めていれば、終わりもまた曖昧で済むと思っていた。

    ある晩、彼女は部屋にある残りわずかな私物をまとめていた。
    「しばらく、友人のところに泊まる。」
    そう告げる彼女は、私の目を見なかった。私は引き止めなかった。なにをするのも彼女の自由であり、それを尊重しようと努めた。正確には、理解しているふりをした。理解していることが、愛情だと信じていたからだ。
    彼女は戻らなかった。
    連絡は一度だけあった。短い文で、感謝と謝罪だけが書かれていた。理由はなかった。私はその文を何度も読み返し、行間に意味を探した。そこに書かれていないことを、勝手に補った。
    実のところ、彼女の居場所はわかっていたんだ。
    彼女がいなくなってしばらく、変になっていた私は情けないことに手紙を送った。
    いつまでも待っていること、理解していること、心から愛していること、すべてを書いた。またこの部屋に帰ってきて欲しかった。もう一度なにもかもまっさらな状態からやり直したかった。
    だが、返事はなかった。
    当時の私はとても穏やかで、健気で、そして献身的だっただろう。
    自分の愛を与えた分だけ、愛は返ってくるものだと信じていた。それが相手にとっては負担にしかならず、ましてや煩わしく思われることもあるなど信じたくはなかった。
    返事がないことを、拒絶とは受け取らなかった。「今は受け取れない状況なのだ」と自分に言い聞かせた。
    後になって分かったのは、彼女が私を嫌ったわけでも、誰かを選んだわけでもなかったということだ。
    ただ、彼女の人生に、私が必要な位置を占めていなかった。それだけだった。
    私はその事実を、長い間受け入れられなかった。
    与えた時間や、揃えた生活や、暮らしの共有が、必ず何かを保証すると信じていたからだ。
    私たちは間違いなく同じ絵の前に立っていた。
    だが、見えていたものは同じではなかった。
    あの時の私の人生を例えるなら、それは返事の来ない申請書だ。
    必要事項はすべて書いたつもりだった。
    理由も、動機も、誠実さも揃えた。
    不備はないと、何度も読み返した。
    それでも結果は届かない。
    却下なのか、審査中なのかも知らされない。
    沈黙は手続きの一部として続く。
    人はそれを待つうちに、意味を付け足し始める。
    期待や確信や、希望という欄外注記を。
    そして後になって分かるのは、ただ提出先など初めから存在しなかったということだけだ。

    マティアスは暖炉の火から目を離さずに続けた。
    「こんなことは言ってはいけないのかもしれないが、私は君たちが羨ましい。私のそれとは違い、きっと君たちは同じ絵を同じ景色で見ていた。
     ただ――それでも、最後は悲しいだけだったのかもしれない。私は、こんな気持ちになるくらいなら全部忘れてしまいたいとさえ思っていた。これから先、その人がいない生活が続いていくのは残酷なことだ。しかし今では、あの時間がまったくの空白だったとは思わない。今の私がかつての私に助言できることがあるなら、それは決して無理に忘れようとするなということだ。無かったことにしようなどもってのほかだ。出会い、互いを見出せて幸せだった瞬間は確かにあった。今では、私は彼女に出会えて良かったと思っている。」
    その言葉は慰めでも忠告でもない、ただの一つの経験であり、優しさだった。
    マティアスは立ち上がった。
    「さて、私は行くとするよ。これから大事なデートがあるんだ。」
    そう言うとマティアスは出口に向かって歩き始めた。
    「ありがとう。」と私は言った。
    それ以外、言える言葉は見つからなかった。

    マティアスが持ってきた包を膝の上に置き、紐をほどく。
    紙の擦れる音がやけに大きく聞こえた。
    中から彼女の写真を一枚、取り出す。
    光の向きで、頬の線が少しだけ柔らかく見える。唇がわずかに緩んでいる。その表情を、私は知っている。何度も、間近で見た。
    写真を両手で持ち、躊躇なく唇に押し当てた。紙は冷たかった。それでも離さなかった。

    カミーユ。
    順当に歳を重ねるなら、あなたのほうが私より先に死ぬでしょう。
    もし私が死ぬ瞬間を選べるなら。
    そのときに思い出したいのは、あなたのことだけだ。
    最後に浮かぶ顔が、あなたであってほしい。
    だから、あなたも死ぬ時は私のことを思い出して。
    その瞬間、その一瞬だけ、私たちは若返る。
    私はまた十六歳に戻り、あなたは二十五歳に戻る。
    そうしたら、またあなたの優しさで私を包んで。
    今度は、あなたについて行きたい。
    迷いなく、振り返らずに。

    写真を胸に抱えたまま、私はしばらく動かなかった。
    包の中には、まだ他の写真が残っている。
    けれど、今はこれ以上、見る必要がなかった。

                6
               再会

    季節が巡り、雪が降り、溶け、また降った。その繰り返しの中で、私の時間は静かに前へ進んでいた。
    25歳になった私は、別の街に住んでいる。川があり、橋があり、夕方になると風が強くなる場所だ。
    この街に来た理由を、私は誰にも説明していない。説明できるほど、はっきりした理由はなかった。長い学生生活を終え、自分のことを誰も知らない場所で、自分だけの力で生活してみたかった。それができるなら、どこでも良かった。部屋は小さく、日当たりもよくない。朝はカーテンを開けても、光は壁に反射してから遅れて届く。
    仕事は忙しすぎず、退屈すぎもしない。朝は決まった時間に起き、同じ道を歩き、同じ店でコーヒーを買う。
    誰かと深く関わることは少なくなったけれど、それを寂しいとも思わなくなっていた。帰り道、川を渡る橋を通る。風はいつも強く、冬でなくても指先が冷える。欄干に触れると、金属は容赦なく冷たく、現実に引き戻される。私はここで、誰かを待っているわけではない。でも、誰にも会わなくていいとも思っていない。その中間に、ずっと立っている。夜は静かだ。テレビをつけることもあるけれど、音量は小さい。文字のない時間に耐えられるようになったのは、いつからだろう。ときどき、無意識にピアノのある家の間取りを思い浮かべる。広間の空気、音の逃げ場のなさ。弾くたびに、家の中が少し広がるような、逆にどこにも逃げられなくなるような、あの感じ。
    もう何年も、ピアノには触れていない。弾きたいとも、弾きたくないとも思わない。私が愛していた祖母は、2年前に亡くなった。
    人と深く話さなくなってから、感情は静かになった。
    嬉しさも、悲しさも、以前ほど鋭くはない。それを「成長」と呼ぶのだろうか、それとも「鈍化」と呼ぶのだろうか。この街では、雪は静かに降る。音もなく、誰にも気づかれないまま、積もっていく。朝、気づいたときには、景色が少し変わっている。それは、あの冬とよく似ていた。

    彼女との再会は、偶然だった。

    私は街の古い図書館を訪れていた。白い壁と高い天井。静かな部屋。来館者は私を含めても数人。薄暗く、木の床にかすかに反響する足音が、まるで自分の心拍のように聞こえる。人の少ない平日の午後だった。
    偶然に映像資料の展示を見つけた。小さなスクリーンに、無音の記録映像が流れている。私は立ち止まるつもりはなかった。けれどスクリーンに目をやった瞬間、私の止まっていた時は動き始めた。
    横顔だった。
    輪郭だけ。
    光の加減で、目元は影に沈んでいる。
    髪は少し短くなっていたが、首の角度と、顎の線で分かった。
    指先の動き、伸びた背筋。スクリーン越しでも、あのときの細やかな仕草や空気感が生きている。
    演奏者の名前は出ない。ただ姿だけ。私は息をひそめ、椅子にもたれかかる。映像の中で、彼女の指先は鍵盤の上を軽やかに滑る。指のひとつひとつが、触れたら消えてしまいそうな光の粒のように繊細で、息を吸うたびに胸が詰まる。画面の彼女は微笑まない。目も口も、何も語らない。
    それでも、あの頃の記憶が重なり、私の中で自然と声や空気や香りが蘇る。雪が降る夜の静けさ、暖炉の炎の匂い、掌を重ねたあの温もり。
    指を離すその瞬間、空気は止まり、部屋の光が少し揺れる。私は目を逸らさず、しばらくその姿を追った。
    演奏が終わり、映像の最後、ほんの一瞬だけ、
    彼女の手元が映った。中指に、よく見ると見覚えのある形の指輪が嵌められている。
    私は少し微笑んだ。
    記録はほんの数分で終わった。画面は暗転する。
    最後まで名前は表示されなかった。
    クレジットにも、個人名はなかった。
    映像は終わり、何事もなく次の記録が始まる。
    彼女はもう映らない。
    16歳のあの時の感覚、自分の気持ちに気づいた瞬間、抱きしめたくても抱きしめられなかったあの夜の熱と、冷たい雪に包まれた不安、全てを思い出した。
    音が消え、光が消え、部屋は元の静けさを取り戻す。
    私は深く息を吐き、立ち上がった。外の光はまだ春の柔らかさで、窓の外には小さな風が揺れている。
    離れて数年、こんなにも胸がいっぱいになるなんて思っていなかった。あなたに初めて会った日、あれは出会いだったのだろうか。それとも、ずっと前から失われていたものを、偶然見つけ直しただけだったのか。
    また、あなたに会いたい。
    一度きり会えるなら友人として。
    さらに会えるなら恋人として。
    あなたが私を見つける前に、私があなたに気づいてしまったらどうしよう。声をかける理由を探して、何も言えないまま立ち尽くしてしまったら。
    どんな機会もなくて、もう一生会うことはないかもしれない。
    でも、もしあなたが私と同じ気持ちになる時があるのなら。
    私を探して、私を見つけて。
    そして、今度は私を通り過ぎないで。







     
     

    れい

     
     
    初めてノートを使います なんとなく書いてみた作品を投下してみますので、よんでいただけると嬉しいです

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