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十文字の鎖を解くーー学校に眠る、少年の記憶    創作大賞2026エッセイ部門応募作品

    十文字の鎖を解くーー学校に眠る、少年の記憶   創作大賞2026エッセイ部門応募作品


     結局、僕には最後まで霊の姿は見えなかった。
    存在するかどうかも分からない。


     それでも、古老の震えや神山先生の涙に触れたとき、彼女たちが生きる世界には、僕の知らない「もう一つの真実」が確かに息づいているのだと認めざるを得なかった。


     キッチンには夕飯の匂いが立ち込め、テーブルからは娘が宿題と格闘する(あるいはサボる機会を窺う)ページの音が聞こえてくる。

    娘の中学進学を機に妻にキャリアを譲り、未練たっぷりに教職を辞してからはや二年。
    今や僕は、立派な「専業主夫」だ。献立を考えながら娘の宿題の進捗を監視する。
    それが、かつて教壇に立っていた僕の、現在のささやかな職務である。

     中二になっても、彼女の定位置はキッチン前のテーブル。
    ポケモンのぬいぐるみで溢れかえった自室よりも、初音ミクのフィギュアが鎮座するこの場所の方が、どうやら「捗る」らしい。
    ……。
    ――といっても、開いているページが教科書から漫画にすり替わるまで、そう時間はかからないのだけれど。

     今日の献立は、娘のたっての希望で焼きグラタン。これが僕にとっては鬼門で、いつも焼きすぎては「また焦げてる」と苦情が来る。今日こそは名誉挽回、とオーブンの窓を覗き込んでいた時だった。

    「ねえ父さん、昔から異世界ものの漫画ってあったの?」
    娘が、まるで昭和の遺物でも見るような目で訊ねた。

    「もちろんさ。幽霊の話なんて、その最たるものだよ」
    「えーっ、そんなの異世界じゃない。もっとキラキラしてなきゃ」
    娘は不満げに笑う。

     娘が求める『異世界』は、ここではないどこかへの逃避行だ。
    けれど僕にとってのそれは、逃げ場所ではなく、かつて置き去りにしてしまった誰かの記憶と向き合うための、重たい扉のようなものだった。

     オーブンの熱気とともに、グラタンのクリーミーな香りがキッチンに広がり始める。
    その匂いの端っこに、ふっと、場違いなかび臭さが混じったような気がした。その瞬間、僕の意識は十数年前の、あの湿った古井戸の記憶へと引き戻される。

    あの日、見知らぬ少年のためにお供えした、炊きたての「おむすび」の湯気。あの白く柔らかな匂いと、井戸の底から這い出してきた冷たい土の匂い。

     当時、僕の赴任先は、山口県の中国山地。雲が生まれる地と書いて「生雲(いくも)」と呼ばれる、霧の深い村の小学校だった。
    その名の通り、山あいの懐深くにある村は、いつも乳白色の柔らかな霧に包まれていた。
    重なり合う杉林の奥へと霧が流れ込み、時折聞こえる鳥の声さえも、湿った空気に吸い込まれていく。

     かつて山陰の萩と山陽の防府を結ぶ宿場町として賑わったというその村も、僕が着任した頃には、時が止まったかのように静まり返っていた。
    子どもたちの姿はまばらで、校舎の廊下を歩く自分の足音だけが、やけに大きく響くような場所だった。

     そんな静かな学校の片隅に、娘が憧れるようなキラキラしたファンタジーとは程遠い、けれど確かに「異世界」と地続きになった場所があった。

    それは日常の理屈を越えた、到底信じがたい出来事だった。
    しかし、あの時感じた戦慄と、井戸から吹き上がった冷気は、十数年経った今も僕の指先に疑いようのない現実味をもって残っている。

     もし、あの場所で誰かの孤独や悲しみに触れた経験がなければ、今の僕は、ただ教科書を教えるだけの「教師」で終わっていた。
    そして、今の家族との団らんがどれほど儚く、そして得がたい奇跡であるかという真実に、一生辿り着けなかったに違いない。

     山に囲まれたその村の日暮れは、驚くほど早い。
    なかでも真っ先に夕闇に呑み込まれるのが、僕の赴任した学校だった。
    校舎のすぐ傍らには、鬱蒼とした山を背負うようにして古い神社が佇んでいた。

     学校は、コの字型の古い木造校舎。
    雨の日には、湿った古い木材特有の、少し酸っぱいような匂いが窓際から漂ってくる。その匂いに触れるたび、僕は目に見えない過去の記憶の層に、一歩足を踏み入れたような錯覚に陥った。

     そんな校舎の渡り廊下の隅に、鉄の蓋と十文字に掛けられた鎖で封印された古井戸があった。着任初日から僕は、まるで誰かを十文字で封じたような薄気味悪い井戸が、気になっていた。

     だから、夕暮れ時の巡回は、「だれかいませんか? 入りますよ」と、
    いつものように誰もいないはずの教室に声をかける。
    僕にとって少しだけ勇気のいるルーティン。
    返事がないことに安堵しながら、古井戸のある例の角に差し掛かった時だ。

    「濱中先生も、見えるの?」
    背後から涼やかな声がした。
    同僚の神山先生だ。
    彼女は神主の資格を持つ、少し不思議な雰囲気の女性。

    実家の裏山は、彼女いわく自殺の名所で、人影が帰っていく姿をよく目にしたと、僕に話してくれたことがある。

     「何も見えませんよ。神山先生は……見えるんですか?」
    「ええ、何かいるわね……何か」
    彼女の視線の先、低学年の教室から一人の少年が飛び出してきた。
    一瞬、ギョッとしたが手足がある……ヒロトだ。

     「ヒロト! また忘れ物か?」
    「あ、先生! お母ちゃんに宿題忘れたって怒られちゃって」
    屈託のない笑顔。
    その瞬間、背後で乾いたシャッター音が響いた。

     神山先生のデジカメが、ヒロトの背後にあった「何か」を捉えていた。
    職員室でプリントアウトされた写真。
    まだ強いインクの匂いのする写真には、ヒロトに覆いかぶさるような白い影が映っていた。

     気味の悪さを感じたのは、一瞬だった。
    怖さは感じなかった。よく見ると、あどけなく、そしてひどく悲しそうな顔をした少年。その当時初めて子どもが生まれたばかりの僕には、少年も誰かの子ども、愛され育てられた子どもだと思えたからだ。

    「寂しそうですね、この子。この子も誰かの子どもだったんだろうに」
    自分でも不思議なくらい自然に出た言葉だった。
    「ふふ、やっぱり優しい。先生のそういうとこ、私と同じ場所を見ているよ」
    彼女は、僕の言葉を噛みしめるように頷いた。

     「先生も気づいているんでしょう。あの井戸には何かいるって」
    彼女の言葉にドキッとした。

    以前、彼女は僕にこう語ったことがあった。
    「この力、きっと誰かの役に立てるためにあるんだって、そう思うようにしてるの。神主の資格を取ったのも、自分なりにできることを探した結果なのよ」

    だが、着任したばかりの当時の僕には、初対面に等しい若造へそんな浮世離れした話を平然と語る彼女が、どこか胡散臭く思えていた。
    目に見えないものは存在しないも同然で、それを無視していても実生活に何の支障もない――当時の僕は、そんな薄っぺらな現実だけを信じていたのだ。

     だが、目の前の子どもたちに慕われる彼女の姿は、教師というよりは頼れる「お姉さん」そのものだった。
    午後の光が満ちる教室で、教卓を囲む子どもたちの声に優しく頷く彼女を、僕は何度も目にしていた。

     そんな神山先生が僕に写真を見せたのは、単なる偶然ではなかったと思う。彼女は、僕の中に眠っていた「見えないものへの想像力」を試していたのだと、今、キッチンで娘の背中を見ている僕にはわかる。

     少し動揺した僕を見据え、彼女は言った。
    「あそこに誰かいる……。ううん、あの子だわ。写真に写ったあの少年。……どうしよう、私、放っておけない」
    最後の言葉は小さくなり、僕を見つめる瞳が潤んできた。

    「先生、私どうしても、背を向けられない。昔、救えなかった子がいたの……」
    彼女はそれ以上言葉を続けず、溢れそうになる涙を堪えるように唇を噛んだ。

    僕は、彼女に何があったのかを知りたかったが、彼女の震える肩を見て、それ以上は訊けなかった。

     初めて見る彼女の涙。
    それは、かつて僕が独りきりの職員室で流した、あの苦い涙と同じものだ。
    そういえば時折、彼女は遠くを見るような寂しげな目をする。

    彼女もまた僕と同じように、過去の後悔を振り払えず、それでも目の前の子どものために何ができるかをもがき続ける不器用な一人の教師なんだと初めて気がついた。

     彼女は薄紫のハンカチで涙を拭うと、それを強く握りしめ言った。
    「だから、ここに着任してすぐにあの子が見えた時、今度は後悔したくないと思ったの。でも、こんな話誰も信じてくれない。まして"自分事"として捉えてくれない。……放っておけないなんて言いながら、結局、私一人じゃどうすることもできなくて」
    彼女の瞳には、静かな怒りと悲しみが宿っていた。

     ふっと笑顔になり、彼女は優しく言った。
    「でも、嬉しかったな。濱中先生が写真を見ても怖がらず、自分の子どもをみるように『寂しそう』と言ってくれたこと。先生と私、同じ匂いがする」

    思わず僕は袖の匂いを確かめたが、いつもと同じ洗剤の匂いだ。
    空気を読めない僕の行動に、彼女はクスッと笑った。
    その笑顔を見て、僕は初めて彼女を「不思議な人」ではなく、一人の「同僚」として信じてみたいと思った。

     "あの世"と"この世"を同じ地平線で見ることのできる彼女には、少年の悲しみが見えるのだろう。
    初めての同志(少し頼りないが)になった僕。 一人心に秘めていた思いを語ってくれた神山先生。 でも……見ることができない僕に、何が出来るんだろう。

     「この写真、どうしますか」 僕は、“この世”のヒロトが映っていることが心配になり尋ねた。
    「この霊は濱中先生が言うように、ただ寂しかっただけ。いつも笑っているヒロトと、友達になりたかったんだと思う。ヒロトに何かするような、悪い霊じゃない」
    写真を手に取り、じっくり見ながら話す彼女は、神職の顔になっていた。

     僕たちはその写真を、炊事場の火で静かに送り火にした。
    白い影が炎に包まれて徐々に溶けるように消えていく。 少しツンと鼻につく煙が、夕闇に溶けていくのを僕たちは黙って見送った。

     半月後……故郷学習でお世話になった老人会との懇親会があった。

    会場は、地元の言葉が飛び交う賑やかな熱気に包まれていた。
    昔からの幼友達同士が集まれば、たちまち数十年前の少年少女に戻ったかのような笑い声が弾ける。

     そんな和やかな雰囲気の中、ふとした拍子に古老の一人に、あの写真と「古井戸の少年」の話を切り出した。

    話を聞き終えた途端、古老の持つ箸が止まった。一瞬、空気が凍りついたかのように、古老は震え、顔から血の気が引いていく。
    「……今も……」古老は絞り出すような声で言った。
    「……今でも……、あの子は悲しい顔をしていましたか」

    古老は箸を置き、膝の上で両拳をぎゅっと握りしめた。
    そして、その視線は僕を通り越し、何十年も前の、遠い過去の景色を見つめているようだった。

     会場の喧騒が遠のき、僕たちの周りだけが深い静寂に包まれたようで、僕は言葉を失った。
    長い沈黙の後、古老はぽつり、ぽつりと語り始めた。

    戦時中、学校の敷地は、わずか十五歳からの少年たちを急造の兵士へと作り替える、陸軍の過酷な速成養成所だったこと。

    終戦間近の極限状態、空腹と苛烈な訓練で、養成所内が荒廃していたこと。

    そこで執拗な“いびり”に遭い、空腹に耐えかねて、あの井戸に身を投げた「大庭(おおば)」という少年がいたこと。

     「あの子が死んでから、井戸の周りで白い影が何度も目撃されてな……。それで、鉄の蓋をして、十文字の鎖で封じたんだ」
    古老はそこで一度言葉を切り、深く、重い溜息をついた。今も井戸の近くを通るたび、あの鎖を見るだけで震えが止まらないのだという。

     テーブル越しに宿題と称して漫画を盗み見る娘。
    そんな娘と変わらない年格好だったはずの少年の境遇を思い、今でも僕は、鼻の奥がツンと熱くなる。

     僕は、大庭少年のことをもっと知りたくて訊ねた。
    「大庭少年の……当時の仲間の方は、今もどなたかご存命なのでしょうか」

    僕の問いに、古老はカッと目を見開いて僕を凝視した。何かを言いかけては飲み込み、喉の奥が鳴る。
    その沈黙は、ひどく長く感じた。

    僕が向ける真剣な眼差しが、古老の心の奥に沈んでいた澱をかき乱したのか、彼の肩は目に見えて激しく上下し始めた。

    「俺も……。俺も、あの子をいたぶった一人だ……」

    言い終えると同時に、古老は節くれ立った両手で顔を覆った。指の隙間からこぼれ落ちる涙が、卓上にポツリと染みを作る。

     今振り返ってみても、あの出逢いが偶然だったとは、どうしても思えない。何かに背中を押されるようにして、僕は彼の凄絶な告白を正面から受け止めていた。
    懺悔する古老の姿を前に、僕は、目には見えないはずの誰かの孤独や悲しみに触れた気がした。

     冷たい井戸の底で、暖かい場所を求めていた少年。あのあどけなくも悲しげな顔が脳裏に蘇り、僕の目からも涙が溢れた。
    話を聞き終えた瞬間、僕の中で全ての断片が一つに繋がった。

    間違いない。あの震える影は、大庭君だ。

     目の前で慟哭する古老の姿に、僕はかけるべき慰めが見つからなかった。
    「いじめ」という、現代では記号化されつつある言葉では到底片付けられない、数十年越しの呪縛。
    一人の人間をこれほどまでに長く縛り、その魂を内側から蝕み続ける後悔の深さに、僕は戦慄した。

     かつてこの場所にも「教官」と呼ばれた教師がいたはずだ。
    井戸の底に沈んだ絶望を、当時の教官たちはどう見ていたのだろう。
    気づかなかったのか、それとも「教育」という大義名分で塗りつぶしたのか。

    いや、違う。キッチンで娘の成長を見守る、今の僕なら分かる。
    結局、あの少年の教師は僕自身だった。

    休み時間に図書室へ逃げ込む子の背中には、いつも靴の跡がついていた。
    ただの汚れだと自分に言い聞かせ、震える睫毛を無視し続けた僕だ。
    何気ない一言や、見て見ぬふりをした小さな棘。それが誰かの時間を永遠に止めてしまう凶器になるとも知らずに。
    教壇に立つということは、それほどまでに残酷な特権を握らされているということなのだ。

     震える古老の背中を見つめながら、僕は静かに拳を握る。
    神山先生のような力はなくても、この断絶された二つの魂を繋ぐことならできるはずだ。
    いや、それが僕の、最後の職務だ。

     翌日の緊急職員会議。
    宗教色の強さに反対する同僚たちを前に、僕はただ、一人の老人が背負い続けてきた歳月の重さを語った。
    僕の頬を伝う涙が、会議室の空気を変えていく。
    やがて「郷土学習」という名目で、その小さな弔いは、静かに許された。

     三日後、
    全職員と古老にも参列いただき、井戸の前で小さな儀式を行った。
    神山先生の強い要望で、井戸の十文字の鎖は今日だけは外してもらった。

     「あの子を自由にしてあげなきゃ。あんな鉄の鎖で押さえつけたままで、どうやって空へ帰れというの?」
    神山先生は、教育委員会の担当者を真っ直ぐに見据えてそう言い切った。

    古老をはじめとする老人会からの嘆願書と、彼女の気迫に押されたのか、村の教育委員会にしては異例のことだった。

     錆び付いた鎖を外す作業は、鉄粉が舞い思ったより大変だった。
    錆びた鉄粉の匂いが鼻腔を刺激してむせ返る。
     何より何十年も封印し続けた鎖は、重く冷たかった。

     古井戸の鉄の蓋は、見るからに重い。
    三人がかりで力任せに開けた瞬間、井戸の底から吹き上がる、何十年も澱んでいたカビ臭い冷気が顔に触れ、ゾッとした。
    けれど、僕たちは、少年の首に巻き付いた呪縛を解いたような不思議な感覚を覚え、皆の顔にも笑顔が見えた。

     その後、神山先生の指示で井戸の周り四隅に青竹を立て注連縄を張ると、小さいながら祭場らしくなった。
    風が吹くたび四隅に立てた青竹から少し甘い、そして清々しい香りがする。

     最後に、古老が震える手で祭壇にお供えしたのは、竹の皮に包まれた、まだ温かいおむすびだった。
    湯気とともに立ち上る炊きたての米の甘い香りが、秋の冷ややかな空気をふわりと包み込む。
    空腹のまま逝った少年への、せめてもの手向けだった。

     長く澱んでいた古井戸の冷気は、青竹の清廉な香りと炊きたての米が放つ柔らかな温もりに溶け合い、いつしか秋の空へと吸い込まれて消えた。

     儀式が始まった。神山先生は、いつもの穏やかな同僚の顔ではなく、凛とした神職の顔になっていた。彼女が振る大幣(おおぬさ)が、秋の乾いた風に鳴る。

     神山先生の祝詞が始まると同時に、強い風が吹いた。学校裏にある森の木のざわざわとした葉鳴りの音が、小さな祭場まで届く。
    彼女の指が白く浮き出るほど大幣を固く握りしめ、微かに震える声を張り上げ祝詞を続けた。

    祝詞の調べは、かつて救えなかった教え子の魂を抱きしめるかのように優しく、それでいて、目に見えない理不尽な力に真っ向から立ち向かうような、気迫を孕んでいた。

    穏やかで優しい祝詞の声にもかかわらず、参加者全員の心に直接伝わってくる強さもある。ざわめく木々の音に得体の知れない不安を覚えながらも、私たちは深く頭を垂れた。

    神山先生の祝詞が寄せては返す波のように響き、参列者全員の祈りがその調べに重なっていく。
    「君がいるのはこんな場所じゃない、もっと楽しい光ある場所へ」と。

     祝詞の終わり、「大庭君、もういいんだよ。ここはもう、君を縛る場所じゃない」神山先生の優しく低く通る声が井戸の底まで届くように響いた。

     儀式が終わり頭を上げると、古老が流れる涙を拭いもせず、空を見上げ言った。
    「大庭、大庭君が天に昇っていく……」
    古老の言葉は、優しく慈愛に満ちた最後の祝詞のようだった。

    鳴っていた周囲の葉鳴りが、その瞬間ぴたりと止んだ。
    静寂の中に、誰かが小さく安堵の息を漏らしたような、あるいは「ありがとう」と囁いたような、透明な風の音だけが耳の奥に響いた。

    僕の目には、ただ青い空にぽっかりと浮かぶ白い雲しか見えなかったけれど。

     儀式を終えた夕暮れの職員室は、驚くほど静かだった。
    窓から差し込む斜陽が、神山先生の横顔を濃いオレンジ色に染め上げている。その輪郭はどこか透き通って見え、彼女がまとっていた張り詰めた空気が、ゆっくりと解けていく。

     「あの少年を救いたかったのは、たぶん、自分のためなんです」
    祈るように組まれた指先を見つめたまま、彼女は消え入りそうな声で呟いた。

     語られたのは、かつて救えなかった一人の教え子の記憶。
    「暑い日なのに、彼女は頑なに長袖の制服を脱ごうとしなかったの。忙しさを理由に、その不自然さに気づけなかった」
    制服の下に隠された背中の痣を見落としてしまった、自らの「盲目」への悔恨だった。

     彼女が抱える痛みは、かつて教壇に立っていた僕自身が負うべき十字架でもあった。

    「自分のため」というその言葉は、教師としての義務感などではなく、一人の不器用な人間が絞り出した、震えるような告白だった。
    人は、誰かを救うことでしか、自分自身の過去を許せないことがあるのだろう。

     あの時、秋の空に溶けていったのは、大庭少年の魂だけではなかった。
    彼女の心を縛り続けてきた名もなき少女への鎖もまた、静かに解き放たれたのだと信じたかった。

     疲れの見える彼女へ、今日のため用意した好物の薄紫の和菓子を差し出した。
    彼女は小さく会釈し、慈しむようにそれを受け取った。

    「ありがとう、濱中先生。私の勝手なけじめに付き合わせてしまったわね……」彼女の瞳には、まだ涙の膜が揺れていた。
    けれどその奥には、嵐が去ったあとの夕凪のような、穏やかな光が宿っていた。

     それから、僕の巡回における気味の悪さは消えた。それを少しだけ寂しく感じている自分が不思議だった。


     あれから、それぞれの時間は静かに動き出した。

     かつての少年兵は、今、語り部として学校を回っている。
    手にするのは、古びた資料と消えない後悔だ。
    凄惨な過去をなぞりながら、彼は子どもたちに語りかける。自分のように立ち止まらないために、誰かの心の震えに気づける大人になってほしい、と。

     季節が巡り、絵心のある神山先生から近況を綴った絵葉書が届いた。
    今は遠い海辺の町で教壇に立っているという。

     あの時「同じ匂いがする」と微笑んだ彼女は、今も潮風に吹かれながら、教室の片隅に溜まる「声なき叫び」に耳を澄ませているはずだ。
    彼女の持つ薄紫のハンカチが、今もどこかで誰かの震える心を包み込んでいる。
    その光景が、僕には手に取るように分かるのだ。

    「人の一生は、その人にとっての大切な過去と未来が混じり合ってできている。だから、いつも見えないものも見てあげて」
    彼女が別れ際に残したその言葉は、今も僕の指針となっている。

     僕自身も、困難を抱えた子どもに出会うたび、彼女の背中を思い出す。
    家庭環境に苦しみ、「誰も信じられない」と放課後の教室で机を叩いた少年がいた。

     僕はただ隣に座り、彼が言葉を絞り出すまで何時間でも待ち続けた。
    涙をこらえる少年のあどけない横顔が、あの大庭少年の寂しさと重なって見えたからだ。

     教職を退いた後、縁あって近くの寺で大庭少年の話をさせていただく機会があった。
    講演を終え、片付けをしていた僕の元へ一人の若い檀家が歩み寄り、「怖い怪談だと思って聞き始めたのに、最後は胸が締め付けられるほど悲しくなりました」と静かに語ってくれた。

    その言葉が、何よりの供養に思えた。
    目に見えない少年の存在が、ただの「怪異」としてではなく、一人の「人間」として誰かの記憶に刻まれた瞬間だった。
    僕の拙い言葉が、かつて凍りついた少年の時間を、おむすびの湯気と共にほんの少しだけ溶かしてくれたのかもしれない。

     出逢いは不思議なものだ。教職を辞し、社会との繋がりを失ったような心許なさを抱えていた僕にとって、彼の言葉は暗闇に灯った小さな明かりとなった。

    怪異という言葉の向こう側にある「人の悲しみ」に、彼は気づいてくれた。そのことが、何より嬉しかった。
     自分の居場所を見失っていた僕に、彼は進むべき道を指し示してくれた。
    「この話を、埋もれさせてはいけない」と。

     このエッセイを書こうと思ったのは、目に見えるものだけが世界の全てではないと伝えたかったからだ。
    ふとした瞬間に漂う孤独の影や、消え入りそうな幸福の気配。それらを掬い上げ、言葉を与えること。
    それは、あの井戸の底で凍りついていた少年の時間を溶かすと同時に、僕自身の止まっていた時間を動かすための儀式でもあった。

     暗闇に手をかざし、見えない声に耳を澄ませること。その祈りのような営みが、誰かの孤独に寄り添う一助となることを願ってやまない。

     誰もが、その人だけにしか見えない景色を心に抱えて生きている。
    あの古井戸の前で捧げた祈りは、ただ一人の少年の孤独を分かち合いたいという、静かな願いの集まりだった。

    それは娘が夢見るような華やかな奇跡ではなかったけれど、それぞれの凍てついた魂を解きほぐす唯一の光となった。
    家族のささやかな幸せを見つめる、今の僕にははっきりとわかる。

     「父さん、聞いてる?」
    娘の声で我に返る。

    「ああ、聞いてるよ。異世界はね、案外すぐそばにあるのかもしれないよ。例えば、このグラタンの匂いだって、誰かにとっては懐かしい異世界の入り口になるかもしれない。……父さんのように」

    「意味わかんない。大げさだってば、ただの失敗作の匂いじゃん」
    「はは、元教師の悪い癖かな」

    呆れる娘の頭にぽんと手を置き、
    「でもね、隣にいる人が何を抱えてるか想像してみる。それだけで、見慣れた世界が少しだけ違って見えるんだ。それが一番の魔法かもしれないよ」
    気恥ずかしさを誤魔化すように声を落とし言った。

    「……だから、漫画の話をしてるんだってば」
    娘はこれ以上付き合えないという風に、わざとらしく溜息をついた。

     異世界は、ここではないどこかにあるのではない。

    他人の痛みにそっと手を伸ばしたとき、指先をかすめるあの冷たい風。
    それこそが、孤独の淵にいるのは自分だけではないと教える。
     この確かな感覚を、いつか娘も分かち合えるようになり、それを優しさの源にしてくれればと思う。

     僕は笑って、今日も火加減が分からず黒く焦がしたグラタンをテーブルに運んだ。
    焦げたグラタンの匂いを嗅ぎながら、僕はあの時、井戸の底から吹き上がった冷気を思い出す。
    あの冷たさを知っているからこそ、今、目の前にある不格好な夕食の温かさが、奇跡のような手触りを持って迫ってくるのだ。       

     娘に叱られそうなグラタン。
    あの少年が食べられなかった温かい夕食を、今、自分は失敗しながらも家族と囲んでいる。少し焦げてしまったけれど、これこそが生きている僕たちの、賑やかな夕食の匂いだ。 

     あの古井戸の底、冷たい闇の中で震えていた大庭少年に、今のこの平和な夕食の匂いが届いていればいい。







     
     
    夕飯の支度を終え、中二の娘の帰りを待つ。キャリアを妻に譲り主夫となって数年。ふとした瞬間に、これまで出会った人々の顔が物語の1ページのように蘇る。自分と、誰かの人生か交差した証を残したい。そんな思いで、今日も台所の片隅で温かな記憶を綴っています。

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