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あざとい彼女と仮面の親友ーー真夏のメリークリスマス     創作大賞2026恋愛小説部門応募作品

    あざとい彼女と仮面の親友ーー真夏のメリークリスマス          創作大賞2026恋愛小説部門応募作品                   


    『あざとい彼女と仮面の親友ーー真夏のメリークリスマス』
    ーあらすじー

     「恋は冷徹なチェス」とうそぶき、都会の洗練を装う建築士の「僕」。彼は十年前、不器用な青年ヒロトと、あざとく立ち回るエミの恋を、自ら身を引くことで後押しした。物語は、四人の視点から当時の「奪い合い」の裏側を暴き出す。親友を裏切り、計算で幸せを掴もうとしたエミと、慈愛の仮面の下で優越感に浸っていたマキ、そしてヒロトの決断。それぞれの業と孤独が交錯した聖夜を経て、彼らは真夏の再会を果たす。偽りの自分を卒業し、自らの足で「身の丈の幸福」を掴み取った四人の再生を描く連作短編。
    「本稿は完結済みの連作短編全五章を収録しています」

    ー目次ー
    第一章 僕の『恋は冷徹なチェス』
    第二章 エミの『幸福の略奪法』
    第三章 マキの『慈愛の仮面』
    第四章 ヒロトの『不器用なチェックメイト』
    第五章 僕と茜の『五センチの出逢い』

    #第一章  僕の『恋は冷徹なチェス』

     男は二種類に分けられる。
    本をすぐに読み始める男と、部屋を片付けることから始める男。

     僕は、いつだって後者だ。
     
     久々の休日、今日の午後は付き合って二年になる茜がやって来る。
    かつての僕が好んだ「恋の駆け引き」なんて、彼女の前では何の役にも立たなかった。
    不器用なほど誠実な彼女に、僕はただ誠実さで応えたいと思っている。

     僕は建築士の性分か、何事も構造と設計の整合性で捉えてしまう。

     かつての僕の部屋は、無機質なコンクリートと計算し尽くされたモノトーンの家具で構成された、いわば僕のプライドの結晶だった。
     人との距離は、設計図の余白のように、体温が届かない適切な距離を保つのが僕の美学だった。

     「かっこいい部屋ね。でも、なんだか美術館の展示品みたいで、息をするのがもったいない気がしちゃう」
    初めて僕の部屋を訪れた茜は、小さく笑いながらそう言った。

     二度目に訪れた彼女の腕には、小さな鉢植えが抱えられていた。澄んだ青色のネモフィラだ。

     「私だと思って、毎日話しかけてね。お水は、この子が『喉が渇いた』って顔をした時だけでいいから」
     彼女はそう言って、日の光が差し込む特等席に花を据えた。彼女が指先でそっと撫でた青い花弁が、僕の完璧な設計図を鮮やかに侵食していく。

     その「異物」が入り込んだことに、僕は最初、計算が狂ったような落ち着かなさを覚えていた。けれど、毎日彼女を思い、花に言葉をかけるうちに、無彩色だった僕の独り言の空間に、柔らかな色が滲み出していた。

     次に彼女が持ち込んだのは、量販店で買ったような色気のない温白色の蛍光灯だった。
    「ねえ、この部屋の照明、少し冷たすぎない? 建築士さんのこだわりかもしれないけど、これじゃああなたの顔が寂しそうに見えるわ」

     彼女は僕の制止を待たず、脚立に乗って作業を始めた。
    「危ないよ、僕がやるから」
    「いいの、これは私の『お節介』っていう設計変更なんだから」
     新しく灯された柔らかな光は、僕がこだわった高価なダウンライトの鋭い影を優しく塗り潰していった。

     「どうして、そんな些細なことに気づくんだ?」
    僕の問いに、彼女は覗き込むように僕の顔をじっと見つめて言った。
    「大切な人のことだもん。今必要なものくらい、見てればわかるわよ。本当に大切なものはね、そんなに高くなくて、手の届くところにあるものなの」

     「これで完璧!」と満足げな笑みを浮かべ、彼女はソファーにどっかと体を預けた。
     一息ついたのも束の間、彼女はクッションの配置を吟味するように目を細め、「ねえ、これ。もっとこっちに寄せた方が、お昼寝の時にちょうどいいよ」と、自分の居心地を優先して僕がミリ単位で整えた秩序を、あっさりと書き換えてしまった。
     
     彼女が動くたびに、僕の計算された静寂に「衣擦れの音」や「小さな鼻歌」というノイズが混じる。

     以前の僕なら、整合性を欠いたその光景に耐えられなかったはずだ。しかし、彼女が持ち込んだ色違いのスリッパが玄関に並んでいるのを見るだけで、胸の奥に灯がともるような感覚がある。

     「……勝手な設計変更だな」
    僕は苦笑いしながら、彼女が崩したクッションの隣に、自ら腰を下ろした。

     これまで僕は、人間関係においても「損得」や「効率」という定規を当て、だらだらと続く関係は設計ミスと同じだと思っていた。けれど、茜が持ち込む「一見無駄なもの」たちが、僕の冷え切った構造体を内側から温めていく。

     最近、僕が図面に引く線は、以前よりわずかに丸みを帯びるようになった。
     ただ美しいだけの空間ではなく、誰かがそこで笑い、誰かを許せるような、血の通った場所。設計図には決して描けない「人の体温」という名の補強材を、今の僕は、何よりも大切にしたいと思っている。

     窓際で風に揺れる青いネモフィラ。その花言葉は「あなたを許す」だという。その柔らかな揺らぎが、頑なだった僕の心を丸ごと包み込む、彼女そのものに見えていた。

     今日は、そのネモフィラに……

     ポケットに忍ばせた指輪は、勝利のための駒ではなく、僕の誓いだ。
    彼女を驚かせたくて、僕はいつもより念入りに部屋を磨き上げる。
     茜が座るソファーの脚周り、彼女が愛でるネモフィラの鉢近くまで、慈しむようにノズルを走らせる。

      ふと、ラジオから流れてきたのは南半球のクリスマスの話題。
    真夏のクリスマス……。
    そういえば、僕も一度だけ、真夏のサンタクロースになったことがあった。

     それは、ソーダ水の泡が弾けるような少しだけ苦いそして、甘い思い出だ。

    十年前、冬。 

     海沿い特有の生暖かった潮風が、急激に温度を下げていく。
    鼻腔を抜けるのは、雪が降る直前のツンとした冬の匂いだ。

     大学の冬休み、帰郷した僕は、市内サークル合同のクリスマスパーティーへ足を向けることにした。

     会場となったビルの一角だけが、安っぽい石鹸とシトラスの香料、そして浮ついた若者たちの吐息にかき乱され、凍てつく冬の夜に不自然な熱の塊として浮き上がっていた。

     故郷の無骨な冷気に、都会の計算された香りを一滴落とすように、僕はイタリア仕立てのジャケットの襟を整えた。


     聖夜のパーティー会場。

     重厚なドアを押し開くと、湿り気を帯びた熱気と古ぼけたオールディーズの旋律が、無遠慮に僕を包み込んだ。

    あえてクラシックな選曲を流す演出のようだが、僕にはそれが古臭い芝居の舞台装置にしか見えない。

     僕はイタリア仕立てのジャケットの袖口をいじり、場違いな場所へ迷い込んだ貴族のような足取りでフロアを横切った。
     僕はカウンターに背を預け、ジン・トニックのグラスをゆっくりと回した。カラン、と氷が鳴る。

     「やれやれ、エキストラの質が低すぎる」
    鼻先で小さく笑い、ジン・トニックのグラスを掲げて琥珀色の照明に透かしてみる。

     退屈しのぎに来たパーティーに毒づいてみたけれど、盤面を前にすれば駒を動かしたくなるのが僕の性分だ。この安っぽい額縁に収まるべき「クイーン」を、僕は冷めた眼差しで物色し始めた。
     まずは戦力分析からだ。グラスを傾け、値踏みするような視線をフロアへ送る。

     琥珀色の照明に照らされたフロアは、さながら「着せ替え人形」たちの品評会だ。吊るしのスーツに体を押し込み、何度もネクタイの結び目をいじっては鏡を気にする男たち。

     「……ふん、滑稽だな」
    鼻先で小さく笑う。彼らの身のこなしには、服に命を吹き込む余裕すら感じられない。僕は自分の袖口を優雅に整え、彼らの不格好な身のこなしを細めた目で見下ろした。

    「その結び目、まるで自分で自分の首を絞めているようだよ」

     届くはずのない毒を心の中で吐き捨て、僕はあえて周囲が見渡せるフロアの中央へと歩みを進める。
     視線が磁石のように僕へと集まる快感。この場にいる全員が、僕という主役を際立たせるための、名もなきエキストラに過ぎない。

     恋は、感情を排した冷徹なチェスだ。盤上の駒は、僕が勝つためだけに配置されている。
     ターゲットを見定めるのに、一分も必要なかった。

     パステルブルーのシャギーボレロの裾を、所在なげに指先で弄びながら、彼女は計算された角度でふわりと髪をかき上げた。
    白いファーに縁取られた顎を少し引き、上目遣いに僕を捉える。
    その頬に、わざとらしくも愛らしいえくぼが深く刻まれた。
     「チェック……かな」

     冬の夜に咲いた、甘く計算高いパステルカラー。 
    愛らしいその娘の名は、エミ。

     僕はあえてゆっくりと袖口をずらし、鈍く光るクロノグラフの文字盤を覗き込んだ。
    (さて、この退屈な額縁に、ふさわしい絵を飾るとしようか) 

     僕とエミが踊る姿を想像して、周囲の田舎臭い連中と僕との格差を見せつけたい衝動にかられる。 

    (こういう夜のために、ジルバのステップくらいは抜かりなく仕込んである。)

     「あの……もしよかったら、一曲だけ。君を独り占めしてもいいかな」
    僕は少しだけ首を傾げ、困ったような、けれど自信に満ちた微笑を差し出した。

     彼女が息を呑む一瞬の隙を逃さず、僕はその指先に自分の指を絡める。
    軽快なジルバの曲が流れるたび、僕たちはフロアの喧騒へと滑り出した。
     
     「おっと、ステップが少し硬いかな。僕に預けて。チェスの駒は、指先に力を入れすぎないのがコツだよ」

     僕がリードを強め、彼女との距離を五センチまで詰めると、
    彼女は「チェスなんて、難しそう」と小さく笑い、僕の肩にそっと手を添えた。

     この五センチこそが、僕が仕掛けたチェックメイトへの最終ライン。
    彼女がその境界線を越えてくるのを、僕は確信を持って待っていた。

     「魔法みたい……」
    エミが小さく零した言葉は、ダンスの喧騒に溶けて消えそうだった。
     僕のステップに合わせようと、彼女の靴先がフロアを軽やかに叩く。

    「魔法じゃないさ。君の魅力が、この夜の景色を、このフロアの重力を変えているだけだよ」
    「ふふっ、またそんな上手なことを。……でも、少しだけ、このままでいたいかも」

     曲が静かな旋律へと変わる。僕は彼女を導き、さらに深く、二人の世界へと踏み込んだ。

     「君のえくぼは、雪の結晶よりも繊細だね。触れたら消えてしまいそうで、目が離せない」

     僕の声が耳に届くと、彼女は雪色のファーの中から、潤んだ瞳だけを覗かせて僕を射抜いた。

     「……都会の男の人は、みんなそんな風に甘い言葉で困らせるの?」
    「まさか。僕にとってのチェックメイトは、君という特別に出会うための言葉だよ」
    彼女の指先が、僕のジャケットの袖を、すがるように、あるいは確かめるように強く握りしめた。

    「チェックメイト……。私の負け?、もう逃げられないの?」
    「逃がさないよ。これは、二人で始める新しい物語の合図なんだから」

     指先から伝わる確かな体温。僕は、この夜の勝利が揺るぎないものであることを確信した。

     ふと、背中に刺さるような視線を感じた。
    「ねえ、あそこで僕らをじっと見つめているのは誰だい?」

     エミはハッとしたように顔をあげると、僕の視線を遮るように少しだけ身を乗り出した。
    「ああ、ヒロト君ね。……不器用な人なの」

     エミの瞳が、僕の知らない色に染まった。
    その視線の先には、流行のシルエットをあざ笑うような、野暮ったい小麦色のセーターを着た男が立っている。

     僕は無意識に、イタリア仕立てのジャケットの袖口を指先でなぞる。シルクの裏地の滑らかな感触と、袖口から覗く機械式時計の冷ややかな重量感が、僕と彼の『格』の違いを改めて教えてくれる。  

     僕は肩をすくめてエミに向き直ると、彼女の髪に触れそうなほど顔を近づけた。

    「……なるほど。あれが君の言う『不器用な人』なんだね」と独り言のように呟き、彼女の表情の陰りを値踏みするように見つめた。

     建築科に籍を置く僕の目から見れば、彼の立ち姿は構造的欠陥だらけで、この華やいだ空間における明らかな不協和音だった。

     工場の終礼ベルと同時に作業着を脱ぎ捨て、冷たい夜風を切り裂いてきたのだろう。彼の首筋からは、まだ仕事の熱が蒸気となって立ち上っているかのようだった。

     周囲の若者たちが軽やかにステップを踏む中、彼はただ、泥のついた靴底でしっかりと大地を踏みしめるように立ち尽くしている。

     彼の無骨な佇まいに、どこか切なさを湛えた微笑を浮かべ、彼女はパステルブルーのボレロの襟元を、縋るように強く握りしめた。
     そして、噛みしめるような沈黙のあと、彼女の唇から言葉がこぼれた。

    「サークルで私が失敗しそうになると、彼は何も言わずにフォローしてくれるの。でも、お礼を言おうと顔を覗き込むと、慌てて視線を逸らして『別に』って呟くだけ。何を考えているのか、時々わからなくなるわ」

     弾むような旋律とクリスタルの触れ合う嬌声がフロアを支配していた。 そんな浮ついた熱狂の中で、彼一人だけが凍りついたような異彩を放っている。 その目は嫉妬というより、聖域を侵されることを恐れる巡礼者のような、あまりに誠実な目だった。

     洗練されたエスコートも、気の利いたジョークも、今の彼には縁のない異国の言葉に等しい。
     ただ、安物のスラックスのポケットの中で、節の太い拳が白くなるほど握りしめられ、微かに震えている。

     けれど以外にも、その真っ直ぐすぎる瞳に見つめられると、僕の指先にある勝利の駒が、急にひどく冷たく、空虚なものに感じられた。

     彼の「正体」を暴きたいという衝動が、僕をカウンターへと突き動かした。

    「喉が渇いたね。君にぴったりのカクテルを選んでくるよ」とエミに告げ、僕はヒロトの背後へと滑り込む。

     「モスコミュールを」
    僕は機械式時計の重みを確かめるように手首を返し、指先でカウンターを軽く叩いた。
     
     鏡に映る彼は、毛玉だらけのセーターを窮屈そうに纏い、場違いなほど真っ直ぐに前を見据えている。その無防備な体躯から漂うのは、汗と鉄の混じった、逃げようのない現実の匂いだ。

     ふいに、彼がゆっくりと首を巡らせた。射抜くような瞳と視線がぶつかる。
     「ウーロン茶をください」
    バーテンダーに告げたその一言には、一切の迷いも飾りもなかった。その不器用なまでの潔さを前に、僕の喉は不自然に乾き、カクテルを待つ指先が微かに震えた。

     僕が必死に築き上げてきた「洗練」という城壁が、彼のたった一杯の茶の前に、ひどく安っぽく、滑稽なものに一瞬見えてしまった。

     テーブルに戻り、冷えたグラスをエミに差し出す。
    「ヒロト君、あんなに寂しそうな顔をして……君に何か言いたげだったよ」
    煽るつもりで口にした言葉は、皮肉にも二人の距離を縮める決定打のように響いた。

     「きっと、無理をして来てくれたのね。耳まで赤くして、言葉を飲み込んでしまうような人だけど……」
    そう口にしたエミは、柔らかな笑みを湛えたまま、迷子を見守るような眼差しをヒロトへと向けた。

    「……放っておけないよ、あんな顔されたら。少しだけ、話してくるね」

     彼女はいたずらっぽく微笑んで、僕のジャケットの袖を軽く引いてから彼のもとへ向かった。
     視線の先では、無骨なセーターの男が、彼女の一言一言に頷いている。

     戻ってきたエミは、どこか遠くを見るような目でグラスの縁をなぞり、ふっと息を吐いた。
    「……最後まで、不器用な人」
    僕に言うでもなく呟いた。

     彼女が語るその「不器用さ」という名のヴェールには、
    淡いパステルカラーの情愛が滲んでいた。

     僕はそれを打ち消すように、彼女のグラスに自分のグラスを軽く触れさせた。
    澄んだ音が響く。

    「男の沈黙を読み解くのは、骨が折れるよ。もっと楽に、スマートに楽しもう」
     僕は両手でジャケットの襟を立てなおし、ヒロトの無骨なセーターとは対照的な、自分のジャケットの仕立ての良さを再確認した。

     「エミ、ここを出て、二人で静かに乾杯し直さないか? 泥臭い現実を忘れさせるような、とっておきの場所を知っているんだ」

    彼女は一瞬、迷うように唇を噛んだ。
     しかし、僕が向けた自信に満ちた微笑みに抗えなかったのか、そっと僕の手を握り返した。

     二人が会場の重いドアを開け、雪の降る表通りへ出たその時だ。
    影が一つ、僕たちの前に立ちはだかった。ヒロトだ。
    彼は頭に積もった雪を払いもせず、肩を震わせ、立ち尽くしていた。

     こんな寒い夜、コートも着ていないヒロト。
    終礼ベルの余韻も待たず、彼はなりふり構わず駆けつけてきたに違いない。

     雪を積もらせたその姿は、華やかな街並みの中でそこだけが白く塗り潰されたような、異様な存在感を放っていた。

     エミを見つめるその瞳は、都会仕込みの僕のどんな口説き文句よりも熱く、真剣だった。
     「エミさん……!」
    絞り出すような声が、冷たい空気を震わせる。

    「どうか、今夜だけは……今夜だけは、僕と過ごしてくれないか」

     それは、人生を賭けた男の、不器用で真っ直ぐなチェックメイトだった。
    エミは驚きに目を見開いたが、いつもと違うヒロトの素直な言葉が心に響いたのだろう。
     やがてその瞳に温かな光が宿るのを、僕は見逃さなかった。
    そして、エミは申し訳なさそうな顔で僕を見た。

     「フゥ……参ったな」
    僕は肩をすくめ、ポケットに手を突っ込んだ。

     「エミさん、今日の僕は彼には勝てないよ。これからは、二人の時間だ」
    僕は二人に背を向け、一度も振り返らずに雪の街角へ消えた。

     恋のゲームに負けるのも、たまには悪くない。
    頬に触れる雪が、火照ったプライドを冷やしていく。僕が楽しんでいたのは「恋」ではなく、ただの「勝敗」だったのだと、今さらながらに気づかされる。

     ふと立ち止まり、夜空を仰いだ。
    「メリークリスマス。……似合わないな、僕には」
    自嘲気味に笑いながら、イタリア仕立てのジャケットの襟を立てる。

     あんなに不器用で、あんなに真っ直ぐなチェックメイトを見せつけられては、道を開けるのが唯一の「粋」というものだろう。

     背後で二人の声が遠ざかる。僕は、自分にだけ聞こえる声で「さよなら」と呟き、真っ白な静寂の中へと、一歩踏み出した。


     休暇を終えた僕を待っていたのは、見慣れたはずの大学生活への違和感だった。

     四年間、僕は恋という盤面を自在に操る支配者だと自惚れていた。だが、あの二人が見せた剥き出しの情熱に触れた今、僕の手元に残っているのは、誰の腹も満たさない安っぽいキャンディーの山だけだ。

     それらをばら撒く自分の指先が、ひどく卑小で、滑稽なものに思えてならなかった。

     学内で、流行りのパステルカラーを纏う女の子たちに、甘い言葉のキャンディをばら撒いていた僕。
     「そのニット、君の優しさをそのまま形にしたみたいだ」
    喜ぶ顔を見るのは、悪い気分じゃない。けれど、ふとした瞬間に鏡に映る自分の目は、驚くほど冷え切っていた。

     甘い言葉を投げかける度に、あの聖夜、雪の中に佇んでいた二人の姿が、僕の網膜に焼き付いて離れない。

     「君の瞳は、まるで冬の星座を閉じ込めたみたいだね」
    バーのカウンターで、隣に座る女の子にいつもの「キャンディ」を差し出してみる。
     彼女が頬を染め、僕との距離をあと五センチ詰め、熱を帯びた吐息が僕の耳元をかすめるのを見ながら、僕は心の中で冷めた溜息をついた。

    (……何をやっているんだろう、僕は)

     踏み込めば、あの夜のヒロトのような「剥き出しの熱量」を求められる気がして、僕は臆病に距離を保った。

     グラスの中で溶けかけた氷を、指先で無造作にかき回す。カラン、と響く乾いた音は、僕の胸の空洞に虚しく反響した。

     その虚無を埋めるように、僕は分厚い参考書を机に積み上げた。一級建築士の資格取得。柄にもない努力に逃げ込んだのは、誰の心にも踏み込まず、誰にも踏み込ませない、最後の防壁だったのかもしれない。

     だが、そんな僕の堅牢な城壁は、社会という荒波の中で、ある一人の女性が放った「五センチの妥協も許さない」という鋭い眼差しに、僕はチェックメイトを告げられることになる。


     カレンダーから三度目の冬が消え、勤め始めて最初の休暇。
    帰郷した街は、真夏の風に満たされていた。

     逃げ場のない真夏の光に満ちたメインストリート。

     僕はサングラスの縁を指先で直し、向こうからやってくる家族連れを、少し離れた場所から静かに見つめた。
    彼らが一歩踏み出すたびに、夏の光がその足元で踊っているようだった。

     二歳ほどの幼い娘が、おぼつかない足取りで一歩踏み出すたび、両脇の若い夫婦は自分の腰を深く折って、その小さな手に歩幅を合わせる。

     三人おそろいの麦わら帽子が、夏の強い陽射しを弾きながらリズミカルに揺れ、まるで光の粒を撒き散らしているかのようだ。

     サングラスの奥で目を細める。
    「エミだ」――。彼女が隣の男を見上げ、屈託なく笑う。

     それに応えるように、男が照れくさそうに鼻の頭をかく。その、かつてと変わらぬ不器用な癖。父親という新しい顔を手に入れながらも、根底にある誠実さを隠しきれないその立ち姿は、紛れもなくあの時のヒロトだった。

     僕は彼らの平和な時間をかき乱さぬよう、会釈さえ飲み込んで静かにその場を離れた。
     ヒロトの日に焼けた大きな手が、舞い降りた天使の羽を慈しむように、小さな手をそっと包み込んでいる。

     その掌の厚みこそが、彼があの夜に選んだ、泥臭くも揺るぎない「誠実」の答えなのだと、僕は確信した。

     僕は立ち止まり、眩しさに目を細めて振り返った。天使を真ん中に、三人の影が一つに溶け合って遠ざかっていく。

     僕はそっと胸元に手を当て、自分にだけ聞こえる溜息を風に乗せた。
    通り抜ける風は、僕の空虚な生き方を優しく解きほぐし、彼らの未来へと運んでいくようだった。

     「恋のゲームは完敗だ……ヒロト、君の勝ちだ」
    僕はそう呟いて、天を仰ぐように深く息を吐き出した。

     強張っていた肩の力がふっと抜け、自分でも驚くほど穏やかな微笑みが唇にこぼれる。 チェックメイトを告げられたのは僕の方なのに、心はかつてないほど自由だった。

     照りつける太陽の下、僕は心の中で真っ赤な衣装を着たサンタクロースになっていた。
    あのクリスマスの夜、僕が仕掛けた悪戯なゲームが、一人の男に一生モノの決断を図らずもプレゼントしたのだから。

     真夏の街角で、僕は自分にだけ聞こえる声で呟いた。
    「メリークリスマス、二人とも」

     僕に降りそそぐ真夏の光は、いつの間にか優しい雪になっていた。


    #第二章  エミの『幸福の略奪法』

     女は二種類に分けられる。
    耳に心地よい毒を吐く男と眠る女と、
    自分を雨風から守ってくれる確かな傘と言う経済力を持つ男と眠る女。

     私はいつだって、後者の男を品定めするように見つめてきた。
    ちなみに母は、間違いなく前者の女だった。

     父と母の記憶が脳裏をよぎると、私は汚いものに触れたかのように、無意識に自分の腕を激しく擦った。

     父は、脂で光る指先を母の肌にまとわりつかせ、耳元で腐った果実のような甘ったるい吐息を漏らした。
     「君のその笑顔は、僕の人生にかけられた永遠に解けない魔法だよ」
    映画の端役でも言わないような安っぽい台詞。

     母はそれを、極上の宝石でも贈られたかのようにうっとりと目を細めて受け入れていた。その指先が、昨夜は別の女の髪を弄んでいたことなど、とうに気づいているはずなのに。

     私は、父が母の肩を抱くたびに、部屋の隅で胃の奥がせり上がるような不快感を覚えていた。
     父が「愛」を囁くたびに、家の中からは生活の体温が消えていった。
    テレビが消え、電子レンジが消え、私が宝物にしていたゲーム機までもが、ある日突然、埃の跡だけを残して姿を消した。

     「……あれ? お母さん、私のゲームは?」
    私が尋ねても、母は鏡の前で安物の口紅を引きながら、
    「魔法が解けないように、少しだけお外へお出かけしたのよ」と、力なく笑うだけ。

     夕食のテーブルには、具のない薄いスープが並ぶ。母は空腹を紛らわせるように、鏡に向かって何度も何度も、安っぽいファンデーションを叩き込んでいた。

     残ったのは、空腹で鳴るお腹の音と、父を繋ぎ止めるためだけに塗りたくられた、鼻を突くような化粧品の匂いだけだった。

     それでも母は、父が振りまく甘いキャンディのような言葉を、宝物のように握りしめて離さなかった。
    「その笑顔があれば、何もいらない」――父が残したその言葉通り、私たちは本当に何もかもを失った。

     残された母は、飲み屋街の片隅で、
    重い寸胴鍋のカレーをかき混ぜる毎日を選んだ。
     深夜、疲れ果てて帰宅した母が、腫れた足首をさすりながらレジの小銭を数える背中。
     そのやつれた横顔を見るたび、私は心の中で冷たく誓った。
    私は母のように、愛という名の不確かなものに人生を預けたりはしないと。

     母の傍らには、いつも入れ替わり立ち替わり、父の代わりに甘いキャンディを投げつける男たちがいた。
     「その綺麗な手が荒れていくのを見るのは、僕の胸が張り裂けそうだ」

    脂ぎった指先で母の指をなぞり、そんな使い古された台詞を吐く男に、母はうっとりと目を細めて縋り付く。
     父が残した呪いのような面影を、その男の背中に必死で重ね合わせているのが分かって反吐が出た。

     「これ、似合うかな?」
    母が指にはめたのは、おもちゃ箱から出してきたような、安っぽい輝きのリングだった。男が置いていった「愛という名の餌」を、母は疑うこともせず、大切そうに何度も撫でている。

     部屋に充満する、むせ返るような安香水の匂い。母がその匂いに包まれて恍惚とした表情を浮かべるたび、私の胃の奥には冷たい火が灯ったような熱い痛みが走る。

     「……バカみたい」
    吐き捨てた言葉は、母の耳には届かない。鏡に映る母の横顔は、壊れかけた陶器の人形のように美しく、そして救いようがないほど惨めだった。
     私はその姿から逃げるように視線を逸らし、キリキリと痛む腹部を抱えて、ただ暗い部屋の隅を凝視していた。

     私が小学校の高学年になると、男たちの視線は母を通り越し、私の未熟な身体を舐めるように這い回り始めた。

    「エミちゃん、急に色っぽくなったね。将来が楽しみだ」

     湿った声でそう囁きながら、私の頭を撫でようとする節くれだった手。
    私はその手を振り払い、洗面所で皮膚が赤くなるまで石鹸で洗った。

     ある朝、玄関に安物のブローチと男がくれた指輪が落ちていた。母が唯一持っていた貴金属だが、質屋も受け取らないような代物だ。男はそれを持ち去る手間さえ惜しんで、そこに放り出していったのだろう。

     昨夜まで「君は僕の女神だ」と囁いていた男の姿はどこにもなく、代わりに母の通帳からは、私の進学の為と、毎月少しばかり積み立てていた母の誇りがそっくり消えていた。

     母は、剥げかけたマニキュアの爪でそのブローチと指輪を拾い上げ、裏切られたことよりも、もう男に差し出すものが残っていないことに震え怯えていた。

     鏡の前で口紅を引き、来もしない男のために耳を澄ませる母。
    誰かに選ばれることを待ち、選ばれなければ枯れていくだけの母。
     そんな「待つこと」しかできない女の末路を、私は絶対に辿らないと、奥歯が鳴るほど強く噛み締めた。

     母が派手な香水を振りまいて夜の街へ消えていくと、アパートの部屋には、コンビニの袋がカサリと鳴る音だけが残る。

     そんな私を見かねて、親友のマキはよく
    「エミ、今日のご飯、うちで一緒に食べよう?」と、
    私の袖を遠慮がちに引いた。

     私の家が「夜」だとしたら、マキの家は眩しいほどの「真昼」だった。

     玄関を開けると、柔軟剤と出汁の匂いが混ざったような、生活の香りが鼻をくすぐる。
     マキのお母さんは、物持ちの良さを物語る、年季の入ったエプロンで手を拭きながら、「よく来たね、エミちゃん。さあ、座って」と、温かい手のひらで私の背中をそっと押してくれた。

     お風呂場からは、三交代制の工場勤務を終えたお父さんが、湯船に浸かって「ふぅ……」と深く息を吐く声が聞こえてくる。
     コーン、と小気味よい音を立ててケロリン桶が床に置かれる。その音を聞くたび、私の胸の奥が少しだけチクリと痛んだ。

     「お父さん、エミちゃんが来てるよ!」
    マキが弾んだ声で呼ぶと、お父さんは風呂上がりの赤い顔で食卓につき、キンキンに冷えたビールを喉を鳴らして飲み干した。

     「やっぱり家のご飯が一番だな」
    そう言って笑うお父さんの隣で、お母さんが「もう、飲みすぎですよ」と口を尖らせながら、大皿の煮物を小分けにする。

     湯気の向こう側にある、絵に描いたような「普通の幸せ」。
    私は、割り箸を割る指先に力を込め、マキの屈託のない笑顔を見つめた。
     「マキの家のご飯、おいしいね」
    そう口にしながら、私は自分の声がひどく空っぽに響くのを感じていた。

     道端の捨て猫に、自分の小遣いからミルク代を差し出してしまうような、マキのあの底抜けの善意。
     それは、この温かな食卓と、石鹸の香りがする母親の抱擁によって育まれたものなのだと、子供ながらに悟ってしまったから。

     マキの隣に座っていると、自分の輪郭がどんどん薄汚れていくような気がした。
     勉強もできず、家庭環境も荒れ果てた私。
    マキが「美味しいね」と笑いかけてくるたび、私も無理やり笑い顔をつくり、テーブルの下で自分のスカートの裾を固く絞り上げた。

     彼女から与えられる優しさが、まるで「格下」の私への憐れみのようで、胃の奥が焼けるように熱くなる。
     私は、マキの石鹸の香りに包まれながら、泥水を飲み込むような心地で、その「幸せの残り香」を咀嚼していた。
     そんな私よりずっと高い場所にいるマキを見上げるたび、首筋が強張るような、逃げ出したくなるほどの劣等感に襲われた。

     高校卒業後の進路が分かれた時、私はマキの無欲さに吐き気がした。

     マキの成績なら上の学校も狙えたはずなのに、彼女は採用通知の紙を眺めながら、おっとりとした声で言った。

    「私、お母さんと同じでいいの。身の丈に合った生活が一番幸せだから」

    そう言って、彼女は手に入れたばかりの簿記の資格を大切そうに胸に抱え、街の古びた家具屋の事務員に収まった。
     その「身の丈」という言葉が、泥水を啜って生きてきた私には、恵まれた者の傲慢にしか聞こえなかった。

     卒業式の翌朝、私は使い古されたボストンバッグに、自分の未来だけを詰め込んだ。

     「……行くね」
    鏡の前で、母から教わったのではない、自分だけの紅を引く。振り返ると、母は湿った台拭きを握ったまま、力なく立ち尽くしていた。

     母は、濁った瞳で宙を見つめ、剥げかけたマニキュアの爪で自分の頬を力なく撫で言った。
    「……昔はね、歩いているだけで振り返られたのよ。みんな、綺麗だって、宝物みたいに扱ってくれた。でも、お父さんのあの言葉が、本物の愛だって信じ込んじゃったのが運の尽きね。それからずっと、ボタンを掛け違えたまま……」
    湿った独り言が耳に触れるたび、私の肌に鳥肌が立つ。

     「もういい、黙って!」
    私は、鏡の前で紅を引く手を止め、鏡越しに母を射抜くように睨みつけた。

     突き放すような私の声に、母は力なく肩を落とし、エプロンのポケットからクシャクシャになった一万円札を数枚取り出した。油の匂いが染み付いたその紙幣は、母が切り売りしてきた人生の残骸のように見えた。

     「(震える手で紙幣を押し付けながら)……これ、持っていきなさい。今の私には、これが精一杯なの。本当に、ごめんね」

     母の震える指先が私の袖に触れようとした瞬間、私はそれを払うようにして紙幣をひったくった。

     この人の側にいたら、私の人生もこの安っぽい香水の匂いの中に溶けて消えてしまう。私は一度も後ろを振り返らず、カビ臭いアパートのドアを蹴り出すようにして閉めた。


     私は、地元のデパートの化粧品売り場に潜り込んだ。制服のタイトスカートに足を通し、鏡の前で紅を引く。

    「事務員なんて、一生誰にも見つからない場所で枯れていくだけじゃん」

    私は鏡の中の自分にそう呟いた。
     華やかな照明の下で、より「質のいい男」の目に留まる確率を、私は一分一秒でも稼ぎたかったのだ。

     でも、高卒で何の才能もなく、地方の化粧品売り場に立つ私に、ハイスペックな男との接点なんてそんなにあるはずもない。

     けれど、制服に着替え、鏡の前で口角を数ミリ引き上げる練習を繰り返すうちに気づいた。
    私には「若さと可愛げ」という、この町で唯一通用する武器があると。

     首を少し傾げ、上目遣いで相手の瞳を覗き込む。
    髪を耳にかける指先の角度ひとつまで、男たちの視線を釘付けにするための計算を叩き込んだ。

     冗談を言われれば、わざとらしく両手で口元を隠してコロコロと笑い、相手の腕に一瞬だけ、羽が触れるような軽さで指を置く。

     相手の言葉に大袈裟に目を丸くしてみせたり、困ったように眉を寄せて袖口を少しだけ掴んでみせたり。

     そうして男たちの自尊心をくすぐり、
    網にかかった獲物を見定める。

     聡明の前に「小」と書いて、小聡明《あざと》い、と読む。
    そんな「あざとい」と指をさされるような仕草のすべてが、私にとっては生きるための術だった。

     一人称を「エミ」に書き換えた瞬間、私は私という個性を捨て、男たちが望む「エミ」になった。
    「エミはね、……」と甘ったるい声を出すたび、本当の私は心の奥底へ、誰にも見つからないように沈めていった。

     鏡の前のルーティンは、私にとっての作戦会議だ。

     「生活がかかってるんだから、これくらい当然でしょ」
     鏡に映る虚像を冷めた目で見据え、私はアイシャドウのチップを強く握り締めた。

     化粧品売り場のカウンターは、私にとっての戦場だ。涙袋にハイライトを乗せる手元は、一ミリの狂いも許さない。鏡を覗き込み、わずかに顎を引いて上目遣いを作る。
    「……よし、この角度。これなら、どんな男でも守ってあげたくなる」
     
     接客中、私の視線は客の瞳だけを見てはいない。
    差し出されたカードのランク、袖口から覗く時計のブランド、財布の厚み。それらを瞬時に網膜に焼き付け、脳内の計算機を弾く。

     「今日はメーカーの担当さんが来る日……。なら、こっちね」
     私は最新トレンドのマスカラを手に取り、まつ毛を鋭く、攻撃的なまでに跳ね上げた。彼らには『流行を支配するプロ』の顔を売るのが正解だ。
     
     けれど、お得意様の戸田様のような淑女が姿を見せれば、私の指先は魔法のように別の色を掴む。
    「戸田様、お久しぶりです。お会いしたかった……」
     毒気を抜いた淡いピーチ色のチークを頬に刺し、私は『世間知らずな、愛らしい娘』へと変貌する。

     自分の好みなんてどうでもいい。大事なのは、相手の瞳にどう映るかだ。
    好みという名の贅沢品は、あのカビ臭いアパートの隅に置いてきた。
     
     ファンデーションの厚みは相手の警戒心を解くための防壁、口紅の角度は相手の自尊心をくすぐるための武器。
    「ねえ、今の私、どう見える?」
     鏡の中の虚像に問いかけ、首をかしげる角度をコンマ数ミリ単位で微調整する。

    「……完璧。これでまた、誰かの『特別』を買い取れる」
     鏡に向かって、最も庇護欲をそそる湿った視線を投げかける。それはお洒落などという生易しいものではない。生きるために研ぎ澄まされた、私だけの「軍備」だった。

     「あざとさ」が自然になればなるほど、カウンター越しに、あるいは退勤後のデパートの裏口で、何人もの男たちが私に「キャンディー」を差し出してきた。
     「エミちゃん、そのリップの色、すごく似合ってる。今夜、少しだけ贅沢なディナーでもどう?」
     私はわざとらしく頬を染め、上目遣いで

    「嬉しい、でもエミ、門限が厳しくて……」と、
    嘘の吐息を漏らす。

     喉の奥では、反吐が出るのを堪えていた。
     彼らの言葉は、父が母に投げつけていたあの安物のキャンディーと同じ味がする。
    甘いだけで、腹の足しにもならない、中身の空っぽな誘惑。

     私の人生を買い取れるほどの頑丈で高価な「傘」を持つ男は、私の周りにはいなかった。

     そんな私に、マキが声を掛けてきた。

    「ねえ、ボランティアやってみない?」

     マキの誘いは、相変わらずお花畑みたいに純粋だった。
    ボランティアなんて、私の辞書には「時間の無駄」としか書いていない。

     私は「へぇ、マキちゃん偉いねぇ」と、
    ネイルを眺めながら気のない返事をして、退屈そうに首を傾げた。

     けれど、主催が商工会議所の青年部で、若手経営者たちが顔を揃えていると聞いた瞬間、私の心臓が小さく跳ねた。

     私はすぐに可愛いエミになり、潤んだ瞳でマキを見つめ返した。
    「……エミ、自分に何ができるか分からないけど、マキちゃんと一緒なら頑張れるかも」
    そう言って、彼女の袖をきゅっと掴んで、期待に満ちた顔を作ってみせた。

     私は上目遣いで彼女の反応を伺いながら、
    心の中では、その「青年部」の男たちの前で、どんな色のエプロンを着て、どんな風に汗を拭うのが一番可愛く見えるかを、すでにシミュレーションし始めていた。

     サークル活動は、想像以上に退屈で過酷だった。

    特に海岸清掃なんて最悪。
    ジリジリと肌を焼く太陽の下、私は日焼け止めを塗り直すために何度も鏡をチェックし、溜息をつく。

     周りの女子たちも必死だ。
    首元に巻いたタオル一枚とっても、いかに「健気で可愛い作業姿」に見えるか計算しているのが透けて見える。

     「あざとく」立ち回る女の子たち。
    日陰で休みながら、青年部の男たちにペットボトルの水を差し出すタイミングを虎視眈々と狙っている。

     そんな茶番に目もくれず、マキは日差しを真っ向から受け、泥だらけになって笑っていた。
     彼女の視線は、黙々とゴミ袋を運ぶ無骨なヒロト君に釘付けだ。
    その、隠しきれない恋心に潤んだ瞳を見た時、私は初めて、自分にはない「本物」の熱量に当てられたような気がした。

     工場勤めの油の匂いのするヒロト君は、初めから私の視界の外にいた。
     ヒロト君とマキ。
    似た者同士の不器用な二人が距離を縮めていくのを、
    私はどこか遠い国の出来事のように眺めていた。


     だから、マキから彼の家柄を聞かされた時、
    私の世界は一瞬で色を変えた。

     マキは周囲を気にするように少しだけ声を潜め、私の耳元に顔を寄せた。彼女からは、いつも通りの清潔な石鹸の香りがする。

     「ここだけの話なんだけど……彼、本当は親会社の息子さんなの。現場を学ぶために正体を隠して働いてるんですって」

     彼女は自分の胸元で両手をぎゅっと握りしめ、弾んだ声で続けた。
    「でも、本当は家業を継ぐより、職人として生きたいって葛藤していて。……ねえ、あんなに一生懸命で、嘘のつけない人。見てるだけで胸が苦しくなるくらい、放っておけないと思わない?」

     驚きを隠すように、私はわざとらしく目を丸くして、マキの腕に縋り付いた。
    「すごーい、ドラマみたい!」

     騒ぐ声とは裏腹に、私の指先は計算機を叩くように冷徹に動く。
    誠実さに惹かれたなんて、いかにもマキらしい甘い台詞。
    でも、その誠実さに「財力」という裏付けがあるなら、話は別だ。

     職人として生きる彼を支えたい? そんな安っぽいキャンディで彼を縛り付けるなんて、もったいないにも程がある。
     私は奥歯を噛み締め、剥げかけた爪を手のひらに食い込ませた。こんな事実を打ち明けるほど二人が近くにいるのなら、その隙間に私の毒を流し込むだけ。
     
     彼を次期社長に押し上げ、私をこの泥沼から救い出させる。そのためなら、私はどんな聖女にだって化けてみせる。

     これまで「油臭い」としか思わなかった匂いが、急に高価な香水の予感に変わる。私は首を少し傾け、彼にだけ届くような角度で、とっておきの上目遣いの練習を始めた。

     親友の恋路を邪魔する罪悪感なんて、私の辞書には最初から載っていない。ライバルは、この無防備な親友一人だけでいい。

     それからの私は、退屈だったサークル活動に「熱心な部員」という仮面を被って参加し続けた。

     狙うのは、常にヒロト君とマキの隣。
     三人でいる時は、わざとらしくマキの腕に抱きついて親友の顔をするけれど、彼女が目を離した隙に、私はヒロト君の肌の温もりを感じるまで、一歩踏み込む。
     私はマキにバレない程度の絶妙な角度で、ヒロト君との距離を詰めていった。

     重い荷物を運ぶ彼の袖を「無理しないで?」と指先で軽く引き、
    彼が顔を赤らめるのを楽しむ。

     三人で笑い合っている時はあんなに自然なのに、彼は私と二人きりになると、まるで壊れたおもちゃのようにぎこちなくなった。
    視線は泳ぎ、手持ち無沙汰そうにセーターの裾をいじっている。

     私はそんな彼の横顔を覗き込み、
    耳元で「エミ、ヒロト君といると、なんだか落ち着く」と、
    内緒話をするように囁いた。


     湿った風が入り込む狭い台所で、私はひび割れそうな安い餃子の皮に、心許ない量の種を乗せる。

     指先が機械的なリズムでひだを刻む。
    それは誰かの胃袋を掴むためではなく、このリズムが明日売るための「可愛げ」を買い支える軍資金作りに変わるのだ。
     
     鏡の前で作る嘘の微笑みより先に、この指先が節約の術を完璧に覚えてしまったことがたまらなく滑稽で、私は自嘲気味に鼻を鳴らした。

     ボランティア活動の昼休憩、私はわざと少し照れたように、風呂敷に包んだ三つの曲げわっぱを取り出す。
    「ごめんね、エミ、外食する余裕がなくて……。これ、口に合うかわからないけど」

     頬にかかる髪を耳にかけ、ヒロト君が卵焼きを口にするのを上目遣いでじっと待つ。彼が「美味しい」とこぼした瞬間、マキが飲み物を買いに立った隙を逃さず、私は彼の耳元に顔を寄せた。
    「……エミ、本当はね、もっと時間をかけて作ったものを、ゆっくり食べてほしいんだ」

     悪戯っぽく唇に指を当て、私は彼にだけ、とろけるような満面の笑みを「配給」した。

     マキには「応援してるよ」と微笑みかけながら、机の下ではヒロト君の靴の先に、私のつま先をそっと近づける。
     言葉ではなく、空気の振動で彼を揺さぶる。それが、私にとっての最も効率的な「好意」の伝え方だった。

     夕闇に溶けゆく影は、必死に背伸びした分だけ醜く長く伸び、私の嘘を嘲笑っていた。

     
    偽りの「エミ」は死んだ。演技を捨て、剥き出しの自分をさらけ出すべき時は今だとエミは悟った。
     街を彩るイルミネーションが、私の描いたシナリオを盛り上げるための、ただの照明係に成り下がっていた。

    「マキ、あのね……」

     私は伏せ目がちに、震える指先で自分の袖口をいじってみせた。
    迷い、葛藤し、それでも伝えずにはいられない――そんな「親友」の役を完璧に演じながら、マキの瞳に影が差すのをじっと待つ。

     「ヒロト君、お見合いが決まったんだって。お相手は、彼のご両親も納得するような、家柄のしっかりした綺麗な人らしくて」

     マキの表情が、凍りついたように白く染まる。私は逃がさないように彼女の背に手を回し、氷のような吐息を耳元に寄せた。

     「彼は優しいから、自分からは言えないのよ。マキを傷つけるのが怖くて、一人で抱え込んでる。……ねえ、マキならわかるでしょ? 彼を楽にしてあげられるのは、あなただけなの」

     崩れ落ちるマキを支え、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて彼女の髪をなでる。
    「大丈夫、マキにはもっと『身の丈に合った』、穏やかな幸せが待っているから」

     彼女がかつて誇らしげに語ったその言葉を、今度は私が、逃げ場を奪う呪文としてその耳に注ぎ込んだ。

     私は彼女の背中を何度も、何度も優しくさすりながら、
    『身の丈に合った』幸せ――彼女自身の言葉を、呪文のようにその耳に注ぎ込む。

     マキが涙を拭い、彼を諦める決意を固めるまで、私は慈愛に満ちた親友を演じ続け、彼女の肩を抱き寄せた。

     曇りのないマキの瞳は、泥水を啜って生きてきた私には直視できないほど眩しく、いつも逃げるように視線を逸らしては苛立ちを爪にぶつけていた。
     けれど今、絶望に伏せられた彼女の睫毛を、私は支配者のような心地で見下ろしている。

     震える背中をさする私の指先は、その純粋さを完膚なきまでに汚した喜びと、そうまでしなければ今の泥水からはい出せない、自分の醜悪さに痛みながらも、止めることのできない戦慄に震えていた。


     それ以来、マキは目に見えて彼を避けるようになった。
     人混みの中で独り、迷子のような顔で立ち尽くすヒロト君のもとへ、私は、周囲を気にするふりをして、こっそりと歩み寄る。

     彼の耳元に唇を寄せ、吐息が届く距離で
    「大丈夫、エミは分かってるよ」と囁く。

    その瞬間、私は彼にとって世界でたった一人の「唯一の理解者」になった。

     「ヒロト君、マキちゃんとの間に何かあったんでしょ?エミが間に入ってあげる。パーティー、三人で行きましょう?」

     彼の手の甲に、私の指先が偶然を装って触れる。
    困惑する彼の瞳に映る私は、きっと聖女のように見えているはずだった。


     聖夜のパーティー会場。

     会場の重いドアを開けると、熱気と安っぽい香水の匂いが混ざり合った、いかにも地方のパーティーらしい喧騒が広がっていた。

     私はパステルブルーのシャギーボレロの襟を少しだけ正し、鏡の前で練習した通りの「期待に満ちた無垢な少女」の顔を作ってフロアに足を踏み入れる。

     案の定、入り口にヒロト君の姿はない。あの不器用な彼のことだ、今頃は会場の外で、入る勇気をかき集めているに違いない。

    「……時間がないわね」
    私は小さく舌打ちし、フロアを見渡した。

     彼がようやく重い扉を開けた瞬間、私の隣に別の男がいなければ意味がない。彼の中にある独占欲という名の導火線に、一気に火を付けるための「獲物」を、今すぐ見つけ出さなきゃ。

     ーーそして、獲物はすぐに見つかった。
    都会の香りをこれ見よがしに纏った、イタリア仕立てのジャケットの男。

     彼の視線が私を捉えた瞬間、私はわざとらしく視線を逸らし、誰かを探すふりをして首を傾げる。
    「あざとい」と言われようが関係ない。

     この男は、私がこの退屈な街から抜け出すための、あるいはもっとマシな生活を手に入れるための当て馬「駒」に過ぎないのだから。

     「あの……もしよかったら、一曲だけ。君を独り占めしてもいいかな」予想通り、男が声をかけてきた。
     私は少しだけ肩を震わせ、驚いたように彼を見上げる。
    「えっ……エミでいいの?」
    潤んだ瞳でそう囁きながら、彼に引かれるままフロアへ滑り出した。

     ジルバの軽快なリズムに合わせて踊りながら、
    私は彼の耳元で「魔法にかかったみたい」なんて、吐き気がするほど甘い台詞を吐き捨てる。

     彼は得意げに、チェスがどうの、重力がどうのと、都会仕込みのキザな台詞を並べている。
     滑稽だわ。自分がゲームを支配していると思っているこの男こそが、私の手のひらで踊らされているだけなのに。

     ふと、視界の端にあの「無骨なセーター」が映った。
    ヒロト君。

     彼はカウンターの隅で、壊れそうなほど強く拳を握りしめ、こちらを凝視している。その真っ直ぐすぎる視線は、計算だけで生きている私の肌を刺すように痛い。

     「ねえ、あそこで僕らをじっと見つめているのは誰だい?」

    ジャケットの男が不機嫌そうに尋ねる。
     私はハッとしたふりをして、彼から視線を遮るように身を乗り出した。

     「ああ、ヒロト君ね。……不器用な人なの」
    私はわざと、ヒロトへの同情と親愛が混ざったような複雑な微笑みを浮かべてみせる。

    「サークルで私が失敗しそうになると、彼は何も言わずにフォローしてくれるの。でも、お礼を言おうとすると、慌てて視線を逸らして『別に』って呟くだけ……」

     嘘ではない。けれど、それをこの場で語る私の意図は、この男の独占欲を煽るためのスパイスでしかない。

     でも、ヒロト君のあの誠実な目は、私のような女には眩しすぎる。
    マキも同じ目をしている。
    私にはない「純粋」さ。
     その輝きが私の薄汚れを際立たせ、逃げ場のない苛立ちが私を突き動かす。だから、泥を塗って、私と同じ色に染め上げてやりたくなる。

     「……放っておけないよ、あんな顔されたら。少しだけ、話してくるね」

     私はジャケットの男の袖を軽く引き、困ったような、でも慈愛に満ちた笑顔を残してヒロト君のもとへ向かった。

     ヒロト君の前に立ち、私はわざと視線を床に落とした。

    「マキちゃん、別のパーティーに行っちゃった。……素敵な彼氏ができたんだって」
    ぽつりと零した言葉に、ヒロト君が息を呑むのがわかる。
    私は追い打ちをかけるように、潤んだ瞳で彼を見上げた。

     「エミはね、ずっと前からヒロト君だけを見てた。……あのキザな男に連れて行かれてもいいの? 今すぐ、私を奪い取ってみせてよ」

    混乱し、立ち尽くす彼の胸元に指先を這わせる。
     沈黙に耐えかねたように、私はわざとらしく溜息をつき、踵を返した。

    「……勝手にして。マキに愛想を尽かされた理由が、今やっと分かったわ」

     背後で、彼が激しく息を吸い込む音がした。
    必死な形相で、何度も頷くような仕草をする彼の不器用な熱量を感じながら、私は確信する。
    この男はもう、私の檻から逃げられない。

     チェックメイト。勝ったのは、私よ。

     ヒロト君が追いかけてくるのを確信しながら、都会の香りを気取った操り人形にエスコートされて会場を後にした。

     雪の舞う表通りで私たちの前に立ちはだかったヒロト君の姿は、滑稽なまでに必死で、私の描いたシナリオ通りだった。

     コートも着ず、頭に雪を積もらせ、
    「今夜だけは、僕と過ごしてくれないか」と絞り出す。

     その瞬間、私は驚きに震える少女を演じながら、胸の奥では氷のような冷徹さで、完璧に仕留めた獲物の感触を噛み締めていた。
    同時に、マキの泣き顔が脳裏をかすめ、一瞬だけ胸の奥がざらりと波立つ。

     都会の男はスマートに身を引いた。
    残されたのは、雪の中で震える誠実な塊と母とは違う生き方。
    そして、それを手に入れた私。

     結婚してすぐ、ヒロトは子会社の工場長という重荷を背負わされた。

     現場のベテランたちは、油の染み込んでいない彼の真新しい作業着を薄笑いで眺め、「どうせ親の七光りのボンボンだ」と、聞こえるように舌打ちした。

     ヒロトはそんな視線に耳まで赤くしながらも、逃げ出さなかった。毎日、機械の唸る熱気の中を歩き回り、職人たちの無骨な背中に「……教えてください」と頭を下げ続けた。

     私は、夜遅く帰宅し、疲れ果てて食卓に突っ伏す彼の背中を、そっと指先でなぞった。
     「ヒロト、今日もお疲れ様」
    彼が顔を上げると、私はわざと小首を傾げ、潤んだ瞳でじっと彼を見つめる。

     「現場の人たち、あなたの手のひらのマメ、ちゃんと見てるはずだよ。エミにはわかるもん。……あなたなら、絶対に大丈夫」
    そう言って、彼の大きな手に自分の手を重ね、力を込める。

     翌日からは、私の戦場だった。

     私は、あえて少し野暮ったいエプロンを選び、彩り豊かな手作り弁当を抱えて工場へ通い詰めた。

    「皆様、いつも主人がお世話になっております!」

     休憩室の重いドアを開けるたび、私は化粧品売り場で叩き込んだ「完璧な新妻」の仮面を被る。

     ただ闇雲に愛想を振りまくのではない。
    私は、すれ違う職人一人ひとりの作業着に刻まれた名前を網膜に焼き付けた。次に会うときは、相手が驚くほど自然に、その名を呼ぶ。

     「あ、藤巻さん! その節の太い手、男らしくて格好いいですよね。主人がいつも、藤巻さんの溶接は芸術だって惚れ込んでるんですよ」
     相手の自尊心をくすぐる角度は、コンマ数ミリ単位で計算済みだ。

      話した後に仕入れる情報は、私の「勝利の設計図」に書き込まれていく。
    (野口さん:セブンスター、孫は来月三歳。田中さん:釣り好き、奥様は膝が悪い……)
     エプロンのポケットに忍ばせた小さなメモ帳は、彼らの心の鍵束だった。

     「これ、実家から届いた野菜なんです。……あ、田中さん! 奥様、最近お膝の調子はいかがですか? これ、私が愛用している湿布のサンプルなんですけど、もしよろしければ奥様に」

     私はわざとらしく、少しだけ困ったような、けれど慈愛に満ちた微笑みを添えて差し出す。
    「私、田中さんの奥様にも、いつまでも元気で笑っていてほしいから」

     相手の懐に滑り込むタイミングは、香水を選ぶ客の迷いを見抜くのと同じ。
     頑固な職人が鼻の下を伸ばすのを見計らい、私は一歩踏み込んで、彼らの目をじっと覗き込む。

     そして、上目遣いで、祈るように囁くのだ。
    「主人、まだまだ不器用で……。皆様のような『本物の男』に、厳しく、でも温かく育てていただけたら嬉しいです。……頼りにしていますね?」

     そう言って、相手の腕に羽が触れるような軽さで指を置く。
     一ヶ月も経つと、工場の空気は変わっていた。

     「おい、工場長! 奥さんの弁当、今日も旨そうだな」
    そんな声に、ヒロトは照れくさそうに鼻の頭をかき、職人たちと肩を並べて笑うようになった。

     ある夜、彼は晩酌のグラスを傾けながら、ふと私を見て呟いた。
    「エミ、ありがとう。……君のその『あざとさ』に、僕は救われたよ」
    呆れたような、それでいて深い愛着の籠もった声。

     褒めているのか、けなしているのか。
    けれど、その言葉は私の胸の奥に、どんな高級な香水よりも甘く、確かな「居場所」の匂いとして残った。


     あれから三度の冬を越し、またこの眩しい夏が巡ってきた。

    私はあの時選んだ財力という「傘」の下で、麦わら帽子を被った娘の手を引いている。

     娘の歩幅に合わせて腰を落としたヒロトが、その節くれだった大きな指で、娘の小さな爪を宝物でも扱うようにそっと撫でた。
     その無骨な優しさが胸に沁みて、私は眩しさに耐えるように、ゆっくりと目蓋を伏せた。

     母が縋ったのは男が吐く甘い言葉だったけれど、私が今、この無骨な手に感じているのは平穏と、そしてそれを自ら勝ち取ったという誇りだ。

     でも、計算で手に入れたはずのこの平穏が、いつしか計算できないほどの重みを持って私を支えている。
     彼の手のひらに包まれるたび、私は「あざといエミ」であることを忘れ、ただの私として息ができることに気づく。
    それは、私が人生で一度も想定していなかった、最も幸福な誤算だった。

     私は視線を泳がせ、溢れそうになる涙を隠すようにぐっと顎を上げた。
    白く光る雲の峰を見つめながら、何度も瞬きを繰り返す。
    その眩しさは、私がかつて泥の中から見上げていた、どの宝石よりも鮮やかで痛かった。

     マキが隣町で、あの頃のヒロトに似た男と慎ましく暮らしていると聞いた時、私は確かに安堵……いや、正直に言えば、マキに自分の愚かさを一生悔やんでいてほしかった。

     私は、私を捨てこの椅子を奪い取った。マキはいつも、安全な場所から私を憐れんでいただけ。
    その差が、今の私たちの暮らしにそのまま現れている。

     マキの今を知り、私はようやく、彼女の視線から解放された気がした。

     彼女が手に入れた「慎ましさ」なんて、私にとってはゴミ溜めも同然。
    私との格差が広がれば広がるほど、私の選んだ道が正しかったのだと自分に言い聞かせられる。
     そして、私が奪ったこの椅子が「誰かの使い古し」ではないと、ようやく自分を騙せる気がした。

     私はふふっと小さく笑い、マキがその価値すら知らないであろう高価な日傘を、優雅な手つきで回してみせた。
    彼女の慎ましい生活を嘲笑うように、陽光を弾くシルクの光沢をこれ見よがしに翻し、私は勝利者の微笑みを仮面のように貼り付けた。

     友を蹴落として掴んだこの「勝利」を誇らしく思ってしまう私。
    確かにゲスだと嘲笑いながらも、
    私は今の幸せを確かめるように、柔らかで消え入りそうな娘の手をぎゅっと握る。

     才能も何もない私が、この閉ざされた町で幸せを掴むのは至難の業だった。だからこそ、私はなりふり構わず手を伸ばした。
    針の穴を通すような確率を、私は計算と演技で手繰り寄せた。

     私の生き方を笑う者がいても、笑えばいい。
    今の私はこの幸せを離さない。

     横を通り過ぎる男の足取りに、ふと既視感を覚える。熱気に混じったシトラスの香りが、あの聖夜の記憶を強引に引き寄せた。

     溜息を悟られぬよう、私は麦わら帽子の庇を深く下げて視界を閉ざす。
    それでも脳裏には、あの男の軽やかなステップが鮮やかに蘇る。私はただ、眩しそうに目を細めることしかできなかった。

     ぎゅっと握り返してきた娘の小さな手のひらが、私の指先に確かな熱を伝えてくる。私はその温もりに、思わず喉の奥が熱くなる。

     あの日、私が親友を裏切り演じた「あざといゲーム」の報酬は、ゲスで醜い自分すら包んでしまう隣で笑う不器用な夫と、この小さな手の温もり。

     あの男は、泥だらけの私に「居場所」という名のプレゼントを届けてくれた、サンタクロースだったのかもしれない。

    「メリークリスマス」と、真夏の光に溶けるような声で囁く。

    「メリークリスマス」サンタさん


    #第三章  マキの『慈愛の仮面』


     女は二種類に分けられる。
    手の中にある温もりを信じる女と、鏡の中にしか存在しない理想を追い続ける女。

    私は、いつだって前者だ。

     幼い頃のエミとの時間は、私がどれほど優しいのか、そしてどれほど恵まれているのかを再確認するための儀式のようなものだった。

     エミと出会ったのは、まだ母親が石鹸の匂いでできていると思っていた頃。
     彼女の家から漂う、どこか焦げたような、それでいて甘ったるい匂いが、子供心に怖くて、放っておけなかった。

     「エミの家は夜、お母さんお仕事でしょ? 一人で食べるより、うちの方が美味しいよ」
    私の何気ない一言に、エミの表情が一瞬だけ凍りつく。彼女はすぐに無理な笑顔を作って「……そうだね」と頷いた。

     お母さんが台所で鼻歌を歌いながら野菜を切る音を聞きながら、
    私は隣に座るエミの横顔を盗み見た。
     彼女は、化粧っ気のない母の背中を、まるで触れてはいけない壊れ物でも見るような、熱を帯びた瞳で見つめている。

     エミには知っていてほしかった。普通の母親がくれる愛も、家庭の暖かさも、彼女のすぐ隣にあるのだと。
     そして、その眩しいほどの『普通』を所有しているのが、他ならぬ私であることも。

    「ねえエミ、お母さんの豚汁、すごく温まるんだよ。エミにも食べてほしくて」
    私はわざと明るい声を出して、彼女の細い肩に自分の肩を寄せた。

     「おかわり、あるからね」
    母が差し出したお玉から、湯気と一緒に石鹸と出汁の匂いが立ち上る。

     エミは「ありがとう」と小さく呟き、伏せ目がちに箸を動かした。
    彼女がどれほど必死に、自分の家の「焦げた匂い」を振り払おうとしているか、私には手に取るようにわかった。

     「ゆっくりでいいんだよ。誰も取ったりしないから」
    私はハンカチを取り出し、彼女の口元についた汁を丁寧に拭ってあげた。

     その献身的な自分の仕草に、思わず酔いしれそうになる。
    私の家、私の母、私の清潔な暮らし。彼女が持っていないものすべてを、私は「親切」という包装紙に包んで、彼女の目の前に並べて見せている。

     「美味しい? よかった。エミが喜んでくれるのが、私、一番嬉しいの」
    私は目を細め、聖母のような微笑みを彼女に向けた。

     ガツガツと食べ進めるエミの、ささくれた指先。対照的に、私の手元では手入れの行き届いた桜色の爪が、電球の光を跳ね返して上品に輝いている。
     泥水を啜るような彼女の日常に、私の「普通」という名の光を分け与えてあげている。

     その圧倒的な格差を確認するたび、私の喉の奥には、蜜のように甘く、毒のように刺すような悦びがこみ上げてきた。

     エミがテーブルの下、膝の上でスカートの裾を指が白くなるほど握りしめているのを、私は知っている。その強張った拳を見るたび、私の胸には言いようのない安堵が広がる。
     
     ああ、私はこの温かさの中にいる。私は、彼女が持っていない「普通」を、こんなにも持っている。

     エミが私の家で、宝石を見つけた子供のように目をキラキラさせるたび、私は自分の足元にある「身の丈に合った生活」の価値を再確認する。
    彼女の惨めさが、私の幸福の輪郭をくっきりと縁取ってくれるのだ。

     「エミ、明日もうちに来て。一人で寂しく食べちゃダメだよ」
    私は彼女の手をそっと包み込み、逃げ場を塞ぐように優しく、けれど断固とした拒絶を許さない笑みを向けた。

     泥水を啜るような彼女の生活に、私の家の温かなスープを注ぎ込んであげる。その「施し」をする瞬間、私は自分がどれほど高い場所に立っているかを再確認し、言いようのない全能感に満たされる。

     彼女を救いたいという思いに嘘はないけれど、それ以上に、彼女の惨めさが私の「身の丈に合った幸福」をいっそう輝かせる最高の背景になることを、私は知っていた。彼女を隣に置くことで、私は自分の幸運を、自分の優しさを指先で確かめていたかった。

    その事実を噛み締めるために、私は何度もエミをこの食卓へ招き入れた。

     高校卒業後の進路が分かれた時、やっぱりエミは幸せに縁遠い女だと知った。彼女が選んだのは、華やかだが実体のないデパートの化粧品売り場。

     私は、取ったばかりの「日商簿記」の合格証書を脳裏に浮かべながら、彼女には聞こえないほど小さな溜息をついた。

     「エミ、本当にそれでいいの? 立ち仕事は疲れるし、変な男の人に声をかけられたりしないか心配で……」
    私は彼女の肩に手を置き、諭すように顔を覗き込む。

     けれど、そう口にしながら、私の頭の中は、かつてのエミの母親と同じように、安っぽい男の甘い言葉に溺れて身を崩していく彼女の未来が、鮮明なスライドショーのように映し出されていた。

     エミは、私の「慈愛に満ちた」視線を正面から受け止めると、困ったように眉を下げ、ふわりと自分の髪を指先で弄んだ。

     「マキちゃん、心配しすぎだよぉ。私、そんなに弱くないもん」  
    そう言って、私の肩に頭を預けるようにして、甘えるような仕草を見せるエミ。

     憐れみと軽蔑の混じった視線を彼女に送りながら、私は自分の正しさを確信する。
     この資格という名の「盾」さえあれば、私は彼女のような泥沼に沈むことはない。石鹸の香りに満ちた、揺るぎない平穏へと続く階段を、私は一歩ずつ、着実に登り詰めていくのだ。

     「でも、嬉しいな。私のこと、そんなに考えてくれて。……マキちゃんみたいな優しい親友がいて、私、本当に幸せ者だね」
     
     エミは私の指を一本ずつ絡めるようにして握り、顔を覗き込んできた。
    「でも、マキちゃんみたいな子が事務員なんて、もったいなーい。私だったら退屈で死んじゃうかも」
    鈴を転がすような笑い声が耳元をかすめる。

     私はその甘ったるい響きを、氷のような無機質な心で受け流しながら、穏やかな微笑みだけを返した。

    「私、お母さんと同じでいいの。身の丈に合った生活が、一番幸せだって知っているから」


     働き始めたエミは、見違えるほどきらびやかになった。
    制服を着こなし、完璧なメイクで自分を固めた彼女は、まるで聖域を守る騎士のような厳格ささえ漂わせていた。

     けれど、その美しさはどこか虚ろで、今にも崩れ落ちそうな危うさを孕んでいた。
     丁寧に引かれた紅の輪郭をなぞるように視線を滑らせると、男に縋り付いて生きてきた母親の、あのまとわりつくような嘘の匂いが漂ってくる。
     私は思わず指先で胸元を強く握りしめ、込み上げる不快感を押し殺した。


     「ねえ、今度の週末、ボランティアに行かない?」

    私は、エミの耳元で秘密の相談をするように囁き、彼女の細い手首を少しだけ強く握りしめた。

     「私、エミが隣にいてくれないと不安なの。エミは私の、一番の親友だもん」
    潤んだ瞳で彼女を見つめながら、私は心の中で冷たく計算していた。

     汗を拭い、誰かのために無償で働く私の姿を見て、彼女はどんな顔をするだろう。
     エミといると安心するというのは建前だ。
    本当は、泥にまみれてもなお輝く私の「正しさ」を、彼女の濁った瞳に焼き付けてほしかった。

     かつて私の家の食卓で、湯気の向こうの私を羨望の眼差しで見つめていた、あの幼い頃のエミに、もう一度だけ会いたかった。

     案の定、エミはこの乾いた砂浜で、場違いなほど浮き上がっていた。

     「あ、爪に砂が入っちゃった……」
    パステルカラーのフードパーカーの袖を気にしながら、彼女は指先でつまむように小さな吸い殻を拾い上げ、すぐに手鏡を取り出す。
    十分おきに塗り直される日焼け止めの白い膜が、彼女の顔を仮面のように覆っていく。

     私はそれを見ないふりをして、ヒロト君の隣に自分の居場所を確保する。
     「……重い?」
    私が小声で尋ねると、彼は視線を合わせないまま、ただ首を横に振って大きなゴミ袋を肩に担ぎ直した。

     言葉なんていらなかった。
    彼が動くたびに漂う、微かな油と鉄の匂い。軍手の網目から覗く、節の太い指。その一つひとつが、私の「身の丈」というパズルのピースに、カチリとはまっていく。

     ふと視線を感じて振り返ると、手鏡を閉じたエミと目が合った。
    私はあえて、泥のついた手で自分の頬を拭い、彼女に最高の笑顔を向けた。

    「エミ、大丈夫? 疲れたなら、あっちの日陰で休んでていいんだよ?」

     その「親切」という名の毒が、彼女の完璧なメイクをわずかに歪ませる。
    エミが欲しがっているキラキラした世界よりも、この泥臭い沈黙の方がずっと価値があるのだと、私は確信していた。

     ザッ、ザッ。
    乾いた砂を踏みしめる音が、メトロノームのように私の鼓動を過去へと連れ戻す。

     隣でヒロト君が、作業着の袖で乱暴に額を拭った。その拍子にふわりと漂ったのは、かつて仕事帰りの父の背中に顔を埋めたときに吸い込んだ、あの鉄と汗が混じった「働く男」の匂いだった。

     「……ふふっ、なんだか懐かしいな」
    「え? 何が?」
    不思議そうに首を傾げる彼に、私は首を横に振り、いたずらっぽく微笑んで彼の袖口をきゅっと掴んだ。

     「ううん、なんでもない。ただ、ヒロト君とこうして歩いてると、ずっと先の未来まで見えそうな気がして」
    母が台所で鼻歌を歌い、父が湯船で一日の疲れを癒す。そんな、石鹸と出汁の匂いが混ざり合った「普通の幸せ」。

     私は、掴んだ袖に少しだけ力を込め、自分の「身の丈」にふさわしい、揺るぎない幸福の予感に酔いしれていた。

     エミにとっての恋は、触れた瞬間に溶けてしまう雪の結晶を、ショーケースに閉じ込めておこうとするような、無謀で切ない憧れなのだろう。

     けれど、私が今感じているのは、もっと重くて、温かくて、逃げようのない「生活」の予感だ。
     泥にまみれた作業靴。日に焼けた太い首筋。

     それらを愛おしそうに見つめる私の視線に気づいたエミが、どんなに惨めな気持ちになるか。想像するだけで、私の胸の奥は、春の陽だまりのような残酷な温かさに満たされていった。

     私が彼の家柄をエミに教えたのは、純粋な驚きを伝えたいからじゃない。
    私の手にした「特別」を彼女に見せびらかしたかったからだ。

     私はエミの肩にそっと手を回し、内緒話をするように顔を寄せた。

    「実はね、彼、親会社の息子さんなの。現場を知るためにあんな格好をしてるんですって。でも、本当は跡を継がずに職人になりたいって悩んでいて……。ねえ、その真っ直ぐな悩み、なんだか放っておけないと思わない?」

      私はエミの反応を確かめるように、わざとらしく熱を帯びた吐息を漏らした。

     思った通りエミは息を呑み、まるで未知の宝石を見つけた子供のように目を輝かせて私の腕を揺さぶった。
    「すごーい、ドラマみたい!」

     その無邪気な賞賛が、私の喉の奥を心地よく撫でる。私は、彼女のその羨望に満ちた声を聞くためだけに、この秘密を差し出したのだ。

     そしてもっと言えば、彼が私にだけその素顔をさらけ出しているという事実を、エミに突きつけてやりたかった。特別な背景を持つ彼が、あえて私の隣で『ただの職人』として平穏を望んでいる。その贅沢な光景を彼女に見せつけることで、決定的な格差を分からせたかったのだ。

     でもその日から、明らかにエミの態度は変わった。
     「マキ、その服すごく似合ってる! ヒロト君もそう思うでしょ?」
    そう言って私を褒めちぎる彼女の瞳は、一度も私を見ていない。

     獲物を狙う雌豹のような鋭い視線が、じっとヒロト君の横顔に突き刺さっている。私が飲み物を買いに席を外すと、戻ってきた私の目に飛び込むのは、彼の耳元で吐息を漏らすエミの背中だ。

    「……エミ、ヒロト君のそういう不器用なところ、嫌いじゃないよ」

     戻ってきた私に気づくと、彼女はわざとらしく唇に指を当て、いたずらっぽくウインクしてみせる。

     エミが振りまく魔力に毒されたのか、ヒロト君は私と話すとき、借りてきた猫のようにぎこちなく言葉を濁すようになった。

     隣に座っても、彼の膝は私を避けるように外側を向き、その瞳は吸い寄せられるようにエミのパステルカラーの背中を追いかけている。私の隣にいながら、彼はあの子の魔法の中にいた。

     「ヒロト君、この前の続きなんだけど……」
    話しかけると、彼はビクッと肩を揺らし、まるで隠し事を見つけられた子供のように「ああ、うん。なんだっけ」と、泳ぐ視線を無理やり私に固定する。

     その不自然な優しさが、私の心に冷たい楔を打ち込んだ。
    穏やかな「身の丈の恋」という名の器に、どろりとした執着という毒が混じり始める。

     彼から漂う鉄の匂いが遠ざかり、代わりにエミの毒々しい香りが鼻を突く。それは、私が守ってきた石鹸の香りの世界が、完膚なきまでに汚されていく合図だった。

     ヒロト君を愛しているからじゃない。彼を失うことで、私の「普通」には、もう何の価値も残らなくなるのが怖いのだ。
     私は、震える手でハンカチを握り締め、手のひらにじっとりと滲む嫌な汗を拭い去ろうとした。

     彼を失うくらいなら、この平穏ごと壊してしまいたい。指先が微かに震え、私は自分の爪が手のひらに食い込むまで拳を握りしめていた。

     日に日に彼が遠くなっていく。その焦燥感に背中を押されるようにして、私はある日の仕事帰り、彼を呼び止めた。

    沈みゆく夕日が、工場の錆びた鉄門をどす黒く染めていた。

     私は隣を歩くヒロト君の袖を、祈るような仕草でそっと掴んだ。
    「ヒロト君、あの子の笑顔を信じちゃダメ。エミにとって、可愛げは生きるための『餌』なの。お母さんと同じ道を歩まないために、彼女はそうやって男の人を操る術を身につけてきたのよ」

     私は一歩踏み込み、彼に石鹸の香りが届く距離で、自分がどれほど彼女の泥を拭い、その背中を支えてきたかを、慈愛に満ちた声で説いた。

     「ヒロト君のその手は、誰かを救うためのものじゃなくて、温かな家庭を築くためのものでしょう? エミの嘘を暴きたいわけじゃないの。ただ、私はあなたに、お母さんが作ってくれるお味噌汁のような、穏やかな明日を過ごしてほしいだけ」

     祈るような心地で、彼の無骨な手の甲に自分の掌をそっと重ねた。私の体温が彼に伝わり、彼をこちら側に繋ぎ止めてくれることを願って。

     ヒロト君は弾かれたように私を見た。
    けれどその瞳に宿っていたのは、驚きよりも深い、私を突き放すような憐れみだった。彼は何も言わず、ただ指先から逃げるように、ゆっくりと、けれど確実に手を引いた。

     その空白に耐えきれず、私は震える声で叫んでいた。
    「……本当は、跡継ぎなんて捨ててほしい。お願いヒロト君、目を覚まして! あなたを救えるのは、あんな薄っぺらな演技じゃない。職人として汗を流すあなたと、私が守る温かな『普通の生活』……そこにしか、あなたの居場所はないのよ!」

     彼は長い沈黙の後、自分の足元に伸びる影を見つめたまま、消え入りそうな声で零した。
    「エミさんは……僕の母親に、似ているんだ」

    その一言が、私たちの間に深い亀裂を走らせた。

     続くヒロト君の言葉は、どれもエミを包み込むための温かな毛布のようで、私を突き放す冷たさを帯びていた。私はただ、遠ざかっていく彼の背中を、熱を失った瞳で見送るしかなかった。
     

     それから数日後、
    追い打ちをかけるような言葉が、エミの唇からこぼれ落ちた。

    「ヒロト君、お見合いが決まったみたい。家柄の釣り合う、綺麗な人なんだって」

     エミがそう言ったとき、彼女の指先がわずかに震えているのを私は見ていた。私を突き放そうとする必死な「牙」が、その瞳の奥で光ったような気がした。

     「……そう、なんだ」
    掠れた声が、冷たい空気の中に弱々しく溶けていった。

     崖っぷちに立たされていた自分を、運命が静かに突き落とす。分かっていたはずの結末に、ただ立ち尽くすことしかできない。指先が微かに震え、自覚もないままに、瞳から零れ落ちた雫が、スカートの生地に吸い込まれて消えた。

     エミの言葉が真実かどうかなんて、もうどうでもよかった。
    ただ、彼女が私にその言葉を投げつけたという事実が、私とヒロト君、そしてエミの間にあったはずの、目に見えない細い糸を無慈悲に断ち切ったのだ。

     大好きだった親友の手によって、一番大切だった人との未来が塗り潰されていく。
     私は、私の真っ白だった世界が、一瞬で、見たこともないどす黒い色に染まっていくのを感じていた。

     けれど、それは私の傲慢さが招いた報いだったのかもしれない。
    彼女は私の親友で、彼は私が添い遂げるべき人。
    そんな風に、他人の人生を自分の所有物のように決めつけていた私の身勝手。

     最初から、三人の間にあったのは確かな絆などではなく、ただの危うい均衡に過ぎなかったのだ。
     その甘い幻想に寄りかかっていた罰として、私はたった一夜で、居場所のすべてを失ってしまった。

     エミは私を抱き寄せ、諭すような優しい声で言った。

    「身の丈に合った幸せが一番だよ。ね、分かるでしょ?」

     何度も繰り返されるエミのあざとい慰めの言葉が、意外にも心に刺さった。その言葉はあまりに正論で、ぐうの音も出ない。

     私は力なく笑い、彼女の腕をすり抜けるようにして立ち上がった。

    「……うん。私には、分不相応だったのかもね」

     一週間後、
     電子音が孤独な部屋に鳴り響いた。
    画面に躍るサークル仲間の名前。

    「マキ、チケットの最終確認なんだけど。パーティーどうする? エミが、マキは欠席かもって言ってたけど……」

     心臓が嫌な音を立てて跳ねた。すべてを悟った。
    エミのあの湿った瞳も、震える指先も、すべてはこの瞬間のための舞台装置だったのだ。
     けれど、もう私には、どうすることも出来なかった。

     私は携帯を握り直し、
    湿った喉を無理やり鳴らして、かつてないほど艶やかな声を絞り出す。

    「ふふっ、エミ、言っちゃったんだ。そうなの、私、他に大切な人ができちゃって。クリスマスは二人きりで過ごす予定なの」

     言葉が滑らかに溢れるほど、胸の奥にはどす黒い澱が溜まっていく。
    携帯を切った後、私は膝の上で拳を握りしめた。

    「……あげるわよ、ヒロト君なんて!」

     吐き捨てた言葉とは裏腹に、込み上げる屈辱と、それでも親友を「格下」に突き落としたい気持ちが、ヒリヒリとした痛みとなって喉を焼き尽くした。


     聖夜の雪は、すべての嘘を覆い隠すように降り続いていた。

     ヒロト君の隣でエミが咲かせる、あの計算高い笑顔——想像するだけで胃の奥がせり上がり、私は思わず口元を手の甲で押さえた。
     見たくもない。けれど、その光景をこの目に焼き付け、自分を完膚なきまでに絶望させなければ、私は一生この場所から動けない気がした。

     震える指先でコートのボタンを掛け違いながら、私は逃げ場を塞ぐように、終盤の熱気に包まれているはずの会場へと重い足を踏み出した。

     聖夜のパーティー会場近く

     街角に差し掛かったとき、私はハッとして足を止めた。
    雪のカーテン越しに見えたのは、ヒロト君とエミ、そして異邦人のような佇まいの男。私はマフラーに顔を半分埋め、彼らの声の届かない距離で立ち尽くす。

     若い男が二人に言葉をかけ、静かに去っていく。
    その姿は、残酷なほど美しく、まるで愛の成就を見届けた神父のようだった。私は、自分の肩に積もる雪を払うことも忘れ、ただその光景を凝視していた。

     私の住む世界には、あんなに鮮やかな幕引きは用意されていない。
    私は冷たくなった頬を両手で包み込み、二人の影が雪の夜に溶け込んでいくのを、ただ静かに、永遠のような時間の中で見守り続けた。


     私の身勝手な傲慢さが、二人を強く結びつける接着剤になったのだと、頭では分かっていた。

     結局、すべて私がしてしまったこと……。

     だからこそ、胸の奥には泥のような後悔と嫉妬が沈殿し、時折、呼吸を苦しくさせた。
    「……どうせ、あの二人だっていつかは冷めるわ」
    鏡の前で紅を引きながら、私は自分に言い聞かせる。
     手に入らなかったものを「酸っぱい葡萄」だと決めつけなければ、立っていられなかった。

     カレンダーの数字をただ塗りつぶすだけの毎日。喉の奥に冷たい塊が居座り、呼吸の仕方さえ忘れてしまったかのようだった。

     そんなある朝、母が差し出したお弁当の包みを手に取った瞬間、指先に伝わる温もりが急に恐ろしくなった。
     「マキ、今日はあなたの好きな卵焼き、多めに入れておいたわよ」
    母の屈託のない笑顔に、私は曖昧に頷くことしかできない。

     私は、母が丁寧にアイロンをかけてくれたお弁当を包んだハンカチの端を、無意識に指先でなぞっていた。食卓には、湯気を立てる味噌汁と、彩り豊かなお弁当が当たり前のように並んでいる。

     すべては母が整えてくれたものだ。

     母が耕し、水をやり、温度を保ってくれた温室の中で、私はただ、外の嵐も知らずに『身の丈』なんて言葉を、さも自分の手柄のように口にしていただけだったのだ。

     「……私、何も分かってなかった」
    喉の奥で、苦い独り言が漏れた。 

     誰かが引いてくれたレールの上で、分相応な顔をして座っていただけの自分。その滑稽さに気づいた瞬間、私の足元にあるはずの『身の丈』という地面が、音を立てて崩れ去っていくような気がした。

      エミは……あの子は、あの底冷えするアパートの片隅で、たった一人包丁を動かし、明日の自分を繋ぎ止めるための献立を練っていたのだ。華やかな微笑みの裏で、あの細い指先を粉にまみれさせ、必死に「生」を縫い合わせていた彼女の姿が、今さらながら胸を突く。

     「エミ、外食する余裕がなくて……」
    あの子が少し照れたように笑って取り出した、あの不格好な曲げわっぱ。あれこそが、彼女が自力で掴み取った「身の丈」だったのだ。

     「……私、ずっと、あの子を見下すことで自分を守ってたんだね」
    独り言は、石鹸の香りがする台所の空気に虚しく溶けた。

     身の丈とは、誰かに用意してもらう器のことじゃない。泥にまみれて、自分で削り出していくものだ。
     私は、母の温かな視線から逃げるように、古びたボストンバッグを押し入れから引き出した。



     あれから季節は変わったけれど、夕方のスーパーは今も私を迷わせる。
    一人分の食材しか入らない小さなカゴの軽さが、かえって心細さを際立たせ、私はただ陳列棚の前で動けずにいた。

     これまでは母の後ろをついて歩くだけだった売り場。一つ一つの野菜の値段、献立の組み合わせ……そのすべてを自分で決めることの重圧に、眩暈がする。
     エミは、この孤独な作業を、あの若さで、たった一人で完結させていたのだ。
    「……すごいよ、エミ。あんたには、かなわない」
    私は、安売りのひき肉と小さな玉ねぎをカゴに入れた。

     「ただいま」
    返事のない暗い部屋に、自分の声が虚しく響く。
    実家なら漂っているはずの石鹸の香りはどこにもなく、あるのは古びた畳の匂いだけ。

     慣れない手つきで作った味噌汁。 
    立ち上がる湯気が、私の視界を白く滲ませる。

     「どうして、同じ味噌を使っているのに……」
    私はお玉を鍋の縁にカツンとぶつけ、逃げ場のない苛立ちを吐き出すように唇を強く噛み締めた。

     目を閉じれば、実家の清潔なシーツの香りが鼻腔をくすぐり、温かな記憶が私を連れ戻そうとする。けれど、私は首を振ってその甘い誘惑を振り払うと、煮詰まって苦くなった味噌汁を、喉を鳴らして一気に流し込んだ。

     洗濯機が止まった後の不自然な静寂に、思わず肩をすくめる。
    私はエミが一人で向き合ってきた孤独の重さを、指先の痛みとともに噛み締めていた。

     エミが一人で戦い抜いてきた、この「生活」という名の戦場。その厳しさを肌で知るたびに、私の傲慢な善意は剥がれ落ちていく。
     私はもう、守られるだけの子供には戻らない。

     そんな私の乾いた心に、竜二さんは音もなく入り込んできた。

     彼はいつも、少しだけ油の匂いがする作業着の袖を捲り、はにかんだように笑う。

     ヒロト君を連れ去ったあの日を境に、エミはパタリとボランティアに顔を出さなくなった。
    「目的を達成すれば、用済みってわけね」
     砂浜に落ちた錆びた空き缶を拾い上げ、私は誰に聞かせるでもなく、ぽつりと漏らした。
     彼女らしい鮮やかな引き際だ。一方、ヒロト君もまた、私への罪悪感に耐えかねたのか、姿を見せなくなった。

     二人が去った後のサークルで、私はあえて以前よりも熱心に活動に打ち込んだ。ここで私が辞めてしまえば、これまでの善意がすべて「彼を繋ぎ止めるための偽善」だったと認めることになってしまう。そんな惨めな敗北だけは、絶対に嫌だった。


     軍手越しに感じる風が冷たさを増し、炊き出しの列に並ぶ人々の装いが厚くなっていくのを横目に、私は誰よりも明るい笑顔を振りまき続けた。

    「マキさんは、本当に強いね」

     不意に声をかけてきたのは、同じ時期から活動していた竜二君だった。彼は、私が洗うのを後回しにしていた煤だらけの寸胴鍋を、黙って引き寄せた。
    「誰も見ていないところでも、君の手は休まない。自分の役割を淡々とやり遂げる姿、ずっと素敵だと思ってたんだ」

     その真っ直ぐな言葉は、今の私には鋭い刃のように突き刺さった。私は握っていたお玉を置き、震える声で返した。
    「……買い被りだよ。私はそんなに立派な人間じゃない。ただ、自分のプライドを守るために、必死に『いい人』の振りをしているだけなの」

     視界が熱く滲み、涙が顎の先からこぼれ落ちた。
    私は力なく首を振り、「これが私の、精一杯の身の丈なのよ」と自嘲気味に笑ってみせた。

     俯いたまま動けずにいると、視界の端に竜二君の日に焼けた大きな手が差し出された。彼は私の目を見据えるまで待ってから、静かに、けれど力強い声で言った。

     「死んだ爺さんがよく言っていたんだ。『竹は節があるからこそ、高く真っ直ぐ伸びるんだ』って。今の苦しみは、マキさんが新しい自分になるための『節』なんじゃないかな。今の身の丈で終わる必要なんてないよ」

     彼は少しだけ照れたように鼻の頭をかき、言葉を継いだ。
    「僕と一緒に、二人にとっての新しい『身の丈』を、一から作っていかないか?」

     突然の告白に、私は涙も忘れて彼を見上げた。
     竜二君は、私の無意識の傲慢さも、隠していた醜さも、すべてを包み込むような穏やかな眼差しでそこに立っていた。他人と比べるのではなく、与えられた環境を慈しみ、それをより良くしようと静かに行動する彼。

     私は、彼が差し出してくれた無骨な手の中に、石鹸の香りではない、土と太陽の匂いがする新しい幸福の予感を感じていた。


     「ごめん、今日もここになっちゃった」
     デートの場所は、いつもの公園の噴水前。しぶきが風に舞い、私たちの頬を濡らす。

     彼は、弟たちへの仕送りのために、自分のための贅沢をすべて削ぎ落として生きていた。

     ディナーは、彼のアパートの小さなキッチン。パイプ椅子のきしむ音が響く中、二人で並んで座る。
     彼は、使い込まれた小さな食卓の角を指先でなぞり、肩をすくめた。

    「ごめん。せっかくの休みだってのに、またこんな狭いところで食べさせることになっちゃって……」
    彼は、換気扇の音がやけに大きく響く台所を見渡し、情けなさそうに眉を下げた。

     「竜二さん、謝ってばかりだと、せっかくの煮物が冷めちゃうよ」
    私はわざと口を尖らせ、割り箸を割ってみせた。

     「私が、そんなに不幸せそうに見える?」
    上目遣いに覗き込むと、彼は一瞬戸惑ったように目を泳がせ、やがて私の手を、節の太い大きな手で包み込んだ。

    「……いや。マキさんが、君でよかった」
     
     その言葉は、どんな宝石よりも温かく私の胸に落ちた。
     石鹸の香りがするこの狭い部屋で、彼と分け合う質素な食事。
    「身の丈に合っている」
     かつては自分を縛る呪文だと思っていたその言葉が、今は、私を優しく守る毛布のように心地よく響いていた。



     あの聖夜から三つの季節が三回ずつ通り過ぎ、世界は再び真夏の光に包まれている。

     私は、あの頃のヒロト君に似た、口下手で誠実な人と、小さなアパートで暮らしている。

     ベランダに干した洗濯物から、お日様の匂いがする。
    これが、私の選んだそして、自分で築いた「身の丈」の幸せ。

     風の噂で、エミが幸せに暮らしていると聞いた。
     彼女が私から奪ったのは、ヒロト君という一人の男ではなかった。私が無意識にエミへ押し付けていた、「恵まれている私」という特権的な善意だった。

     彼女は、私の差し出した温かいスープを飲み干して感謝するだけの「かわいそうな友達」でいることを拒み、自ら獲物を狩る道を選んだ。
     それでいい。それが、エミという一人の女の誇りなのだから。

     私は恥ずかしさを隠すように薄笑いし、手に持っていたスポンジを力なくシンクに落とした。
    「……勝てるわけないよね。私の方が、ずっと卑怯だったんだから」
    誰もいないキッチンに、湿った独り言が虚しく響いた。

     私は、エミのささくれた指先を「可哀想に」と優しく包み込みながら、その実、自分の手入れされた爪の輝きを彼女に見せつけていた。

     彼女の誇りを土足で踏みにじっていたのは、エミの嘘などではなく、慈愛の仮面を被って彼女を「格下」と決めつけていた、私のこの白く滑らかな手だったのだ。

     「ねえ、竜二さん。今日の夕飯、何がいい?」

     隣の部屋でプラモ作りをしている夫に問いかけながら、私はふと、あの雪の中に消えていったエミの背中を、遠い日の忘れ物のように思い出す。

     彼女が今、ヒロト君に守られ、本当の自分として息ができているのなら。
    私が手放した恋も、彼女から受け取った痛みも、すべてはあの聖夜に仕組まれた、私とエミの再生のための儀式だったのだと思える。

     あの時、二人を見送った聖夜には言えなかった言葉、今なら言える……。

     「メリークリスマス、エミ、ヒロト君」

     私は、祈るように独りごち、
    光に満ちた夏の空へ、穏やかな眼差しを向けた。

    #第四章  ヒロトの『不器用なチェックメイト』

     男は二種類に分けられる。
    饒舌な言葉で世渡りをする男と、手仕事の跡で自分を証明する男。

     
    僕は、間違いなく不器用な後者だ。

     工場の油の匂いと、鉄を削る火花の音。それが僕の日常のすべてだった。
     親会社の息子だとか、将来の幹部候補だとか、周囲は勝手なラベルを貼るけれど、僕にとっての真実は、この汚れた作業着と、自分の手で何かを成し遂げたいという意地だけだった。

     親父は作業着のポケットを探り、場違いなほど付箋が貼られたビジネス書を取り出した。
    油の染みた指で、大切そうに表紙の汚れを拭う。

    「……時代が変わる。俺みたいな古い人間が、力任せに回せる時代じゃなくなったんだ」
    ぽつりと漏らした言葉は、鉄を叩く音よりも重く響いた。

    「大学へ行って、経営ってやつを学んでこい。現場の油しか知らねえ俺の代わりに、お前が会社に新しい風を入れろ」

     僕はプラモ作りのニッパーを置くのも忘れ、親父の横顔を凝視した。
    冗談めかした口調の裏側に、独りで巨大な壁を押し返そうとしてきた男の、隠しきれない疲労が滲んでいた。

     生真面目な親父が、息子に頭を下げるようにして頼み事をする。その事実が、僕に「次期社長」というラベルの重さも突きつけていた。

     「……頼んだぞ」
    そう言い残して親父が居間を去ると、入れ替わるようにして母が茶を運んできた。

     かつては父の三歩後ろで、その影に溶けるようにして笑っていた母だった。けれど、目尻の皺をなぞるように老眼鏡をかけ直した今の母は、僕の知る母とは明らかに違っていた。
     僕の目を真っ直ぐに見据え、湯呑みを置く指先に微かな力を込める。

    「……ヒロト。あなたは、自分の世界を何より大切にする子でしょう?」
    その声は、静かだが凛としていた。

    「今回だけは、自分の好きな道を選びなさい。お父さんには、私から話すわ。大丈夫、任せて」
     家庭という組織の端で、息を潜めるように生きてきた母の口から出た、初めての反旗だった。

     僕は、ニッパーを握りしめたまま、視線を落とした。
    「……親父が、あんなふうに僕に頭を下げたんだ。それが、なんだか嬉しくて。僕がここで頑張れば、母さんだって親族の中で……今みたいに肩身の狭い思いをしなくて済むだろう?」
     それは、自分自身を納得させるための、答えにならない言い訳だった。

     母はふっと表情を和らげ、けれどどこか誇らしげに顎を引いた。
    「私がこれまで耐えてきたのは、自分のためよ。もちろん、今はあなたのためでもあるけれど。……でもね、最後は自分で決めること。後悔だけはしないで」

     その言葉の重みに、僕は息を呑んだ。後妻という不安定な立場を、母は卑下していたのではない。自らの意志でその場所を掴み取り、守り抜いてきたのだという静かな自負が、その瞳の奥で確かに燃えていた。


     広い講義室を埋め尽くす意味のない私語のさざなみ。

    それは僕の耳には、潤滑油の切れた機械が上げる不快な異音(ノイズ)としてしか響かなかった。

     教壇から流れる言葉に意味を見出せず、僕はただ、手元のシャープペンの先を見つめ続ける。
     
      「ねえ、今度の連休、みんなで海行かない?」斜め後ろから飛んできた浮ついた声に、思わず肩がすくむ。
     流行りの音楽や、誰と誰が付き合ったといった実体のない会話が教室を満たすたび、僕はこの広大な空間に薄く引き延ばされ、消えてしまいそうになる。

     「ヒロト君も行こうよ、次の飲み会!」差し出されたコンパの誘いチラシを、僕は伏せ目がちにやり過ごす。

     「ねえ、あの店美味しかったよ。今度、行ってみない?」「最新のやつ、もうチェックした?」流行という名の濁流に身を任せる彼らを見ていると、僕の足元までぐらついてくる。

     僕はそっと耳を塞ぐ代わりに、筆箱の中の消しゴムの角を整然と揃えた。       華やかな話声が聞こえる度に、自分の輪郭が霧の中に溶けていくような感覚に陥る。

     僕は無意識に、自分の白シャツの袖口を指先でなぞった。
    クローゼットに並ぶのは、季節ごとに揃えた四着ずつの「制服」。

     たまに気分を変えようと街に出ても、看板の原色に目を射られ、派手なロゴや装飾を目にするたび、僕は眩暈を覚えて逃げ出したくなる。

     結局はいつもの量販店で、いつもの白シャツを手に取って安堵する。
    結局、僕が選べるのは、自分を何者にも染めない無地の白と、肌に近い下着だけだった。

     「これでいい。余計な情報は、僕を削るだけだ」
    そう自分に言い聞かせ、僕はまた、自分だけの狭く深い世界へと潜り込んでいく。

     そんな僕の周囲にも、甘ったるい香水の匂いを漂わせ、計算された角度で首をかしげる女子たちがいた。
     僕が何気なく置いた車のキーや、親父から譲り受けた時計のロゴを見つけた瞬間、彼女たちの瞳の奥に卑しい光が灯るのを僕は見逃さなかった。
     
     彼女たちの視線は僕の瞳を通り越し、僕の背後にそびえ立つ「次期社長」という巨大な看板だけを熱心に品定めしている。

     「ねえ、ヒロト君っていつも一人だよね。……そういうミステリアスなところ、嫌いじゃないな」
    吐息混じりに囁きながら、僕の二の腕にそっと指先を滑らせてくる。

     その完璧に作り込まれた笑顔は、僕の目には、安物のアクセサリーが剥げて下地の錆が浮き出たような、ひどく醜いものに映った。

     大学という場所の無意味さに押し潰されそうになっていたある昼下がり。

     学食の喧騒から逃れるように『山と渓谷』のページをめくっていた僕の視界に、不意に影が落ちた。

    「いいよね、山。次の季節が、風の匂いより先に届く感じがして」

     顔を上げると、そこには屈託のない笑みを浮かべた男が立っていた。タクミだ。彼は僕の向かいに断りもなく腰を下ろすと、写真の中の稜線を指先でなぞった。

    「君も、そっち側の人間?……だったらさ、うちの部(ワンゲル)に来なよ。流行りの音楽より、鳥の声の方が詳しい奴らばかりだから」

     誘われるままに足を踏み入れた山の上では、誰も僕の「ラベル」を気にしなかった。ただ一歩ずつ土を踏みしめる音と、荒い呼吸だけが僕の存在を証明してくれた。
     特にタクミは、足元の小さな命に驚くほど詳しかった。彼は登山道の脇にしゃがみ込み、一輪の青い花を愛おしそうに見つめた。

    「知ってる? このネモフィラ。死んだ夫に会いたくて、冥界の入り口で待ち続けた妻が花になった姿なんだってさ」

     タクミはそう言って、はかなげな花びらをそっと指で弾いた。
    「弱そうに見えて、実は誰よりも頑固なんだ。……なんだか、君に似てる気がするよ」

     その言葉に、僕はその花を見返した。か細い花弁を震わせながらも、風を真っ向から受け止めるその姿。そこには、僕の知る母と同じ、誰にも汚せない誇りが宿っているように感じられた。

     山から街へ帰っても、僕の日常は色を変えた。次の山行を思い描きながらグラウンドを走り込み、下宿の狭い床でストレッチを繰り返す。筋肉の心地よい軋みが、僕が僕であることを教えてくれた。

     そんな充実した日々の隙間に、周囲から「就職」という名の現実的な足音が忍び寄り始めていた。

     「内定、大手商社だって? お前すげえな!」
     華やかな内定報告に沸くゼミ室の片隅で、僕は一人、黄ばんだ「旋盤機カタログ」のページをめくっていた。指先が追うのは、最新の経営理論ではなく、無骨な鉄の構造図だ。

     ゼミ室を埋め尽くすリクルートスーツの群れ。その中で、僕は一人だけ異物を飲み込んだような違和感を抱えていた。
     仲間がネクタイを直す仕草を見て、僕は自分のシャツの第一ボタンをそっと外す。
    (……この布切れを締めた瞬間、僕は僕じゃなくなる気がする)

    「似合わないよな、僕には」
    乾いた溜息がこぼれる。背負わされた「次期社長」という看板が、一歩踏み出すたびに背中を強く叩き、まっすぐ歩くことさえ許してくれないようだった。

     「ヒロト君はいいよね、帰る場所があって」
    通りすがりの誰かが投げた無邪気な言葉が、重い鉛のように胸に沈む。
    (帰る場所? 違う。僕が欲しいのは、居場所だ)

     「経営学を学べ」という親父の厳命が、重石となって僕を縛り付ける。
    僕はカタログの中の、油の染みた作業着を着た男の写真を見つめた。

     「……親父、僕は、あんたと同じ匂いのする男になりたいんだ」
    喉元まで出かかった言葉を、僕は冷めたコーヒーと一緒に飲み込んだ。

     だから、卒業を前に親父から「現場へ行け」と命じられた時は、心の底から安堵した。ネクタイを締めたスマートな社員たちに囲まれるより、鉄の匂いにまみれる方がずっと潔い。

     「一つ、条件がある」
    僕は親父を真っ直ぐに見据えて言った。
    「僕が社長の息子だってことは、現場の誰にも伏せておいてくれ。……ラベルで判断されるのは、もう、大学だけで十分だ」
     
     親父は一瞬意外そうな顔をしたが、すぐに鼻で笑って「勝手にしろ」と短く答えた。その無骨な承諾が、僕には何よりの餞別に思えた。

     初めての工場勤務は戸惑いの連続だったが、肌に馴染む鉄の匂いや規則正しい機械音は、思いのほか僕の性に合っていた。

     僕はゴーグル越しに、火花の向こう側を見つめた。
    肌を刺す熱も、鼻を突く油の匂いも、今の僕には心地よい「実体」として響く。

     研磨機を止め、仕上がりを指の腹でなぞってみる。コンマ単位のズレも許さない鉄の冷徹さが、僕の甘えを削ぎ落としてくれるようだった。
    (あんな場所には、もう戻れないな)

     脳裏をよぎるのは、意味のない流行り言葉が浮遊していたあの教室。実体のない「ラベル」を貼り合うだけの世界に比べれば、この汚れきった作業場こそが、僕にとって唯一の真実だった。

     「ヒロト、そこ、もう一息だな」
    隣のラインで作業するベテランの佐藤さんが、油の染み付いた手で僕の肩を軽く叩く。僕は研磨機を止め、ゴーグルをずらして、磨き上げたばかりの小さな歯車を光にかざした。

      鉄を削る火花の匂いと、規則正しく響く機械の重低音。ここでは、僕が「誰の息子か」なんて誰も気にしない。

     「はい。この角のバリが取れると、指先に吸い付くような感触になるんです」
    そう答えると、佐藤さんは「相変わらず細かいな」と豪快に笑った。

     黙々とパーツを磨き上げる時間は、子供の頃に夢中になったプラモデル作りに似ている。けれど、趣味のプラモデルなら「味」で済んだ微細なズレが、ここでは致命的な欠陥品(ジャンク)に変わる。

     僕が研磨しすぎたパーツをノギスで測り、佐藤さんは短く息を吐いた。
    「……ヒロト、これはゴミだ。図面はコンマ単位の精度を求めてる」

     現場で唯一社長の息子だと知る佐藤さんは、僕の手から無造作にパーツを取り上げると、迷いなく廃棄箱へ放り込んだ。金属がぶつかる乾いた音が、僕のプライドを削る。

     「社長の息子だからって、鉄は甘やかしてくれねえぞ。機械の前じゃ、お前はただの『新人』だ。……ほら、次の材料を持ってこい」

     ぶっきらぼうな言葉の裏に、僕を一人の職人として育てようとする熱い期待が宿っているのを、僕はその横顔から感じ取っていた。

     ふと作業の手を止め、軍手で額の汗を拭うとき、胸の奥に冷たい隙間風が吹く。

     親父は、この油まみれの日常の先に、僕に何を見ろと言っているんだろう。将来のため、という言葉が、削りカスの混じった空気の中に空虚に溶けていった。

     「お疲れさん!」
    終礼のベルが響くと同時に、僕は重い安全靴を脱ぎ捨て、自分の作業着を見つめた。袖口にべっとりとこびりついた黒い油汚れ、火花が散って小さく焦げた跡。

     「……今日も、いい汚れだ」
    指先でその汚れをなぞると、鉄の匂いが鼻を突く。それが、今日一日、僕がこの場所で戦った証拠のように思えて、誇らしかった。

     狭いアパートの湯船に肩まで浸かり、ふう、と深く息を吐き出す。湯気に包まれながら、こわばった筋肉が解けていくこの瞬間が、何よりの贅沢だった。
     
     指先に残る鉄の微かな感触を確かめるように、僕は掌をゆっくりと開閉させた。
     タクミが教えてくれたあの花のように、僕もまた、この場所で根を張るのだ。大学の喧騒に溶けそうになっていた自分はもういない。 

     手桶で何度も肩から湯を被り、今日一日の迷いをすべて洗い流す。
    足元を流れる濁った水が消えるのを待ち、僕は鏡に映る自分の瞳を真っ直ぐに見返した。

    「僕は、この場所で生きていく」

     親父が期待する『将来の幹部』という虚像を脱ぎ捨て、ただの『一人の職人』として眠りにつく。その静かな満足感こそが、僕がずっと探し求めていたものだった。

     時折、佐藤さんからの誘いがある。
    「おいヒロト、今日はカミさんが多めに肉じゃが作ったんだ。余らせるのも勿体ないし、食いに来い」
    佐藤さんが、油の染み付いた大きな手で僕の背中を叩く。
    「いいんですか? ありがとうございます」

     食卓を囲み、湯気の向こうで笑う佐藤さん夫婦を見ていると、胸の奥がじんわりと熱くなった。

    (親父の跡を継いで、数字や肩書きに追われる人生に何の意味があるんだろう)

     「ヒロト君、おかわりは?」
    「あ、はい。いただきます」

     差し出された茶碗を受け取りながら、僕は思った。ラベルなんていらない。この温かい味噌汁の匂いと、心地よい疲労感。それだけで、僕の人生はもう、お釣りがくるほど満たされている。
     

     そんな僕の世界に、二人の対照的な光が飛び込んできたのは、あの退屈なサークル活動だった。

     マキさんは、石鹸の匂いがする人だった。
     彼女が隣に座ると、工場の埃っぽさが消え、どこか懐かしい家庭の食卓のような空気が流れる。彼女の向ける笑顔は、冬の陽だまりのように温かく、僕のような不器用な男を根底から肯定してくれる気がした。

     「将来のためだ」と親父に背中を押されて参加した商工会議所のサークルは、僕にはひどく眩しすぎた。海浜清掃の手を休め若手経営者たちは、仕立ての良いポロシャツの襟を立て、最新の経営理論を軽やかに語り合っている。
     他の女子たちも日陰で冷たい飲み物を手に談笑する中、マキさんだけは違った。

     「ヒロト君、そっちの端、持とうか?」
    マキさんは、僕が一人で抱えようとした古タイヤに、迷わずその白い手を添えた。
     「いいよ、汚れるから」
    「ふふっ、ボランティアに来て汚れを気にしてたら、お母さんに笑われちゃう」
    屈託なく笑い、鼻の頭についた泥も気にせず作業に没頭する彼女。

     「せーの」と声を合わせるまでもなく、僕たちは同時にタイヤを持ち上げた。
    砂に沈む足取りも、重みに耐える呼吸のタイミングも、驚くほど自然に重なる。僕が歩幅を緩めれば、彼女もそれに合わせる。

     言葉による確認を必要としないそのやり取りは、まるで長年連れ添った相棒と作業をしているような、不思議な充足感を僕に与えた。

     僕は、大学時代に見てきた「ラベル」を欲しがる女たちとは違う、確かな手応えを感じていた。
    僕と彼女の間には、心地よい沈黙と作業の音だけが流れていた。

     そんな僕たちの聖域に、エミさんは嵐のように、あるいは毒のように紛れ込んできた。
    「マキちゃーん、そんなに頑張ったら明日動けなくなっちゃうよ?」

     エミさんは大きな麦わら帽子の縁を押さえ、僕たちの足元にあるゴミの山を、まるで得体の知れない怪物でも見るような目で見つめていた。

     「これくらい、平気。慣れてるから」
     マキさんは屈託なく笑うと、泥のついた軍手をパンパンと叩いて外した。
    マキさんが軍手を外すと、そこには作業の傷跡が刻まれた、けれど清潔な白い手が現れた。

     赤いナップサックから取り出されたのは、使い込まれたステンレスの魔法瓶と、丁寧に包まれた自家製の外郎(ういろう)だ。
    「エミも休んで。冷たいお茶、淹れるね」

     マキさんが差し出した湿り気のあるお手拭きを受け取りながら、エミさんは眉をひそめてマキさんが足元に置いた軍手を見ていた。
    「……マキちゃん、軍手、指先が破れてるよ?」
    「ああ、これ? さっきの枝に引っ掛けちゃって。いつものことよ」

     マキさんは気にする様子もなく、魔法瓶から冷たいお茶を注ぐ。
    マキさんの「いつものことよ」という言葉が、僕には何より潔く聞こえた。

     笑い飛ばすマキさんの横で、エミさんはわざとらしく溜息をつき、僕の耳元に顔を寄せた。
     「フーン……。エミは、そんなにたくましくなれないかも。ヒロト君も、あんまり無理しないでね。……ほら、耳の横に砂がついてる」
    そう言って、彼女の指先が僕の頬をかすめる。

     日焼け止めの甘い匂いが鼻を突き、僕は反射的に首をすくめた。
    その匂いは、僕が最も苦手とする、あの「都会の空虚な華やかさ」そのものだった。
     この子は、僕が最も遠ざけてきた種類の人間だ。

     そう確信したはずなのに、僕の鼓動は、不快感とは別の理由で、わずかにリズムを乱していた。

     耳の奥に残る彼女の吐息を振り払うように、僕は強く頭を振った。けれど、胸の鼓動は早鐘を打つように激しくなり、握った軍手の中がじっとりと汗ばむ。

    「……クソッ、落ち着け」と自分に毒づき、僕は逃げるように目の前のゴミ袋を掴んだが、震える指先は思うように動いてくれなかった。

     エミさんは、毒の入ったキャンディのような人だった。
     彼女の仕草の一つひとつが、計算され尽くした演技であることくらい、僕にだって分かっていた。

     上目遣いの角度、わざとらしく触れる指先、耳元で囁く甘い声。
     周囲の男たちが鼻の下を伸ばして彼女に群がる中、僕は冷めた目でそれを見ていた。
     ……はずだった。

     商店街の炊き出しボランティアで、大きな寸胴鍋の前に立つエミさんは、ボランティアというより、獲物を探すハンターのようだった。

    湯気の向こう側で、青年部の男たちに小首をかしげながら使い捨ての箸を配り歩く彼女の姿を、僕とマキさんは遠くから静かに見守っていた。

     「エミちゃん、今日も元気だね」
    マキさんが屈託なく笑う。そのあまりに真っ直ぐな瞳に見つめられると、僕は嘘をつけなくなった。

     「実はさ……」
    打ち明けた僕の正体が、マキさんの口からエミさんへ伝わるのに、時間はかからなかった。

     「ヒロト君って、意外と力持ちなんだね」
     翌週、エミさんは僕の腕に、羽が触れるような軽さで指を置いた。それまでの無関心が嘘のように、彼女の甘ったるい声が僕の耳元を支配し始める。
     マキさんに渡した信頼の証が、エミさんにとっては格好の「招待状」になってしまったのだ。

     女性という生き物に免疫のない僕にとって、エミさんの繰り出す仕草は、致死量の毒を含んだキャンディのようだった。

     「エミ、こういう不器用な人、放っておけないんだよね……」
    上目遣いに僕を覗き込み、わざとらしく首を傾げる彼女。
     そのあざとさに気づかないほど愚かではないつもりだったが、一度その毒を飲み込んでしまえば、抗えない引力に引きずり込まれていく自分を止められなかった。

     ボランティアの休憩時間になると、エミさんはいつものように自作の弁当を広げた。「三人で食べたほうが美味しいでしょ?」と少しはにかみ、重そうな袋から手際よくおかずの詰まった容器を取り出していく。

     「実家にお金入れなきゃだから、外食なんて贅沢、私には無理なの」  
    照れ隠しに髪を耳にかけながら、僕とマキさんの分まで甲斐甲斐しく取り分ける彼女。その、少しだけささくれた指先が、僕の記憶の底にある母の手と重なった。  

     母もそうだった。親族の集まりで、誰よりも早く立ち上がり、誰よりも遅く箸をつける。その献身を「計算高い」と揶揄する親戚たちの前で、母はただ静かに、完璧な「良き妻」を演じきっていた。  

     エミさんが今、僕に見せているこの「あざとさ」も、きっと同じだ。それは誰かを騙すための武器ではなく、自分の居場所を死守するための、血の滲むような作法なのだ。  

     自分の空腹よりも先に、誰かの皿を埋めようとするその必死な指先が、僕にはたまらなく愛おしく、誇り高いものに映った。

     僕の迷いを振り払おうとするかのように、ある夕暮れ、マキさんは僕の袖をきゅっと引いた。
     困惑する僕の拳を、まるで壊れ物を扱うような手つきで優しく包み込み、彼女は慈しむような表情で話し始めた。

     「ヒロト君、目を覚まして。エミが求めているのは、あなたじゃない。あなたの背後に透けて見える、社長の息子っていう『肩書き』だけなのよ」

     マキさんは、エミさんの荒んだ家庭環境や、男に縋って生きてきた母親の話を、淡々と、けれどどこか熱を帯びた口調で語り続けた。
    「あの子は、そうやって生きていくしかない可哀想な子なの」
     
     その言葉を聞いた瞬間、反射的に彼女の手を振り払いそうになったが、辛うじて思いとどまり、静かにその手を離した。
     マキさんの瞳の奥に、善意という名のヴェールで包み隠された、エミさんを見下すような醜い優越感が透けて見えたからだ。

     僕は小さく息を吐き、彼女の視線から逃げるように顔を背けた。
    彼女の瞳に映る僕は、きっと実物よりもずっと綺麗に修正されている。

     彼女の曇りのない言葉に晒されるほど、本当の僕の姿が泥の中に沈んでいくような、やりきれない感覚が胸を焼いた。
     彼女は一度も僕の瞳の奥を覗こうとはせず、ただ自分の信じる「正しさ」だけを僕に押し当てていた。

     その眩しすぎる正しさが、皮肉にも彼女が切り捨てたはずの「汚れた側」にある真実を浮き彫りにする。

     エミさんが鏡の前で作る「あざとい笑顔」の裏側に、僕と同じ、必死で現実に抗っている者の「飢え」があることに。
     その必死さが、僕の胸の奥にある、誰にも見せたことのない孤独と共鳴した。

     「エミさんは、母に似ている……。だから、わかるんだ。エミさんのあの『あざとさ』が、どれほど必死なものか」
    彼女が口にした「可哀想な子」という言葉を打ち消すように、僕は小さく首を振って言葉を継いだ。

     「僕の母は後妻として、男の子を産むという役割だけを期待されて嫁いできた。姑は、夜の仕事をしていた母の過去を、事あるごとに泥靴で踏みつけるように罵ったよ」

     空を仰いだ僕の瞳に、夕焼雲の赤が差し込んできた。眩しさに一瞬目を細めたが、僕はそのまま、絞り出すような声で続けた。

     「でも母は、感情を殺したような静かな顔で、姑の介護に明け暮れた。最後まで、誰にも寄りかからずにね。……マキさん、母はあざとく立ち回る器用ささえ持っていなかったけれど、その静かな顔の底には、誰にも汚せない誇りがあった。エミさんも同じだ。彼女は選ばれるのを待っているんじゃない。自分の人生を、その細い指先で無理やり手繰り寄せようとしている。その必死さが、僕にはたまらなく愛おしく、誇り高いものに映るんだ」

     エミの影が二人の間に落ち、言葉は行き場を失った。二人は、ただ夜の気配に耳を澄まることしかできなかった。

     マキさんが僕に「身の丈」の幸せを教えてくれるなら、エミさんは僕に、幸せを自分でつかみ取ろうとする強さを教えてくれる。

     クリスマスが近づく頃、マキさんの態度が目に見えて冷たくなった。
    僕を見る目が、まるで遠くの他人を見るような、諦めに満ちたものに変わった。
     僕が語った母の話が、彼女の耳にどう届いたのかは知らない。
    ただ、マキさんが僕の隣から静かに身を引こうとしていることだけは、肌で感じた。

     彼女の優しさは、僕を追いかけるのではなく、僕を「自由にする」ために離れていく。それが彼女なりの愛なのだと分かっていても、僕の心は、行き場を失って凍りついた。

     そんな僕の心の空隙を突くように、エミさんは音もなく踏み込んできた。

     「ねえ、ヒロト君。このままじゃ、マキちゃんもヒロト君も、二人とも迷子になったままだよ」
    彼女は僕の顔を覗き込み、潤んだ瞳で真っ直ぐに僕を射抜いた。その瞳は、いつものあざとい演技とは違う、切実な熱を帯びているように見えた。

     「エミが二人の間を取り持つから。だから、お願い。……パーティー、一緒に行こう?」
    エミさんの指先が、僕の無骨な手の甲にそっと重なった。

     彼女が演じるそのスローモーションのような誘惑には、今この瞬間にすべてを投げ打つ覚悟が宿っていた。
     マキさんの不在を突きつけ、僕を独占しようとする剥き出しの欲望。

     そのあざとい策略の底に、泥を這ってでも生き抜こうとする健気な熱を感じてしまい、僕は気づけば、彼女を突き放す理由を失っていた。

     けれど、脳裏にはマキさんの寂しげな笑顔がよぎる。エミさんの手を取ることが、本当に僕たちの正解なのか。答えの出ない問いが胸を塞ぎ、僕はただ、彼女の指先の熱に戸惑うことしかできなかった。

     パーティー当日になっても、僕の心は振り子のように揺れたままだった。
     終礼のベルが近づく頃、隣のラインで作業していた佐藤さんが、油の染み付いた手で申し訳なさそうに頭を掻いた。

     「ヒロト、悪い! 嫁さんに頼まれてたケーキ、予約し忘れててさ……今から行かないと、家に入れてもらえねえんだ。残業、代わってもらえないか?」

     佐藤さんの困り果てた顔を見て、僕は一瞬、ポケットの中の招待状を指先でなぞった。けれど、右も左もわからなかった僕に、スパナの握り方から教えてくれたのはこの人だ。

     「……いいですよ。行ってあげてください、奥さんのところへ」

     引き受けたものの、作業台に向かう僕の背中には焦燥が張り付いていた。
    研磨機から飛び散る火花の向こう側に、二人の影が交互に明滅する。

     エミさんの強引なまでの情熱に心がかき乱されるたび、僕は縋るように壁の時計へ視線を走らせた。けれど、秒針が刻む音はマキさんの穏やかな日常を遠ざける足音にしか聞こえない。

     エミさんの潤んだ瞳に吸い込まれそうになる自分を、マキさんの寂しげな背中が必死に引き留めようとする。その板挟みの苦しさに僕は、軍手越しに自分の指先を強く噛み締め、どちらの道を選んでも誰かを傷つけてしまう自分の不器用さを呪った。

     (集中しろ。中途半端な仕事は、佐藤さんの顔に泥を塗ることになる)

     僕は奥歯を噛み締め、逃げ出したくなる心を鉄の塊と一緒に削り出した。
     最後のバリを取り終え、検品を済ませた瞬間、時計の針はパーティー開始から三十分を指していた。

      「まだ、間に合う……!」
     僕はゴーグルを放り投げ、ロッカーに作業着を乱暴に押し込むと、冬の夜気の中へと駆け出した。肺に刺さる冷たい空気が、迷ってばかりいた僕の頭を、ようやく真っ白に塗り潰してくれた。

     今さら、彼女のあざとさを疑うつもりなんてない。むしろ、そのあざとさに救われたのは僕の方だったのだ。

     「ヒロト君といると、私、本当の自分になれる気がする」
     エミさんが潤んだ瞳でそう囁いたとき、僕はそれが彼女の用意した「台本」の一節であることを知っていた。けれど、その嘘を拒絶することはできなかった。

     かつて母も、風邪で寝込んだ僕の枕元で、同じような熱を帯びた嘘を吐いた。「いつかお父さんの仕事が落ち着いたら、二人で誰も知らない綺麗な海を見に行こうね」と。

     その約束が果たされることはないと、子供ながらに悟っていた。けれど、その嘘がなければ、母はあの冷え切った家の中で息を止めていたに違いない。

     エミさんの吐く嘘は、彼女にとっての「祈り」なのだ。泥沼のような現実から一瞬だけ顔を出し、綺麗な空気を吸うための。

     (いいよ、エミさん。その嘘、僕が本当にしてあげるから)
     いつか彼女の細い肩を抱き寄せ、母に届けることのできなかった言葉を告げるために、僕は走った。

     駆け出しながら、僕は無意識に胸元をかきむしっていた。そこにはもう、僕を縛り付けていた見えないネクタイも、「次期社長」という空虚な肩書きもありはしない。
     「親父、佐藤さん……すまない。僕はもう、あんたたちの背中をなぞるだけの人生には戻れない」

     マキさんの優しさを隠れ蓑にし、エミさんの嘘を見下していた自分を、高鳴る鼓動が否定していく。立ち止まりそうになる心を奮い立たせ、僕は拳を固く握り、ただ前だけを見据えて進んだ。

     「ここで逃げたら、僕は一生、何者にもなれない」
     誰のためでもない、僕が僕として生きるための「選択」をする。その覚悟だけが、震える膝を支える唯一の支柱だった。


     聖夜のパーティー会場。

     会場の中央、パステルブルーのコートを春の空のように翻し、エミさんは都会仕込みの男とステップを踏んでいた。男が耳元で囁くたび、彼女は完璧な角度で首をかしげ、鈴を転がすような声で笑う。
    その横顔は最高に美しく、そして吐き気がするほど嘘つきだった。
     
     男の、品定めするような下卑た薄笑いが、かつて大学のキャンパスで意味のない会話をしていた軽薄な連中と重なり、奥歯が軋んだ。
     「……あんな男、眼中にないくせに」      
    僕は、自分に言い聞かせるように呟いた。

     彼女が本当に求めているものが何であるか、僕だけは知っている。
    それでも、男の肩に添えられた彼女の細い指先を見るだけで、胸の奥が焼けるように熱くなった。

     彼女の視線が僕を掠めた。わざとらしく逸らされる瞳の奥で、睫毛が激しく波打っている。それは、僕の存在を確かめずにはいられない、彼女の心の震えそのものだった。

    (見つけて。お願い、私を見つけて……!)

     喧騒を突き抜けて届いたその「声」に、心臓が跳ねる。一瞬だけ見えた彼女の顔は、勝利を確信したハンターのそれではなく、今にも崩れ落ちそうなほど怯えた一人の少女のものだった。

     「……もう、逃がさない」
    僕は拳を固く握りしめた。
     彼女が仕掛けた、泥のような「今」から抜け出すためのゲームを終わらせるには、僕が「不器用な息子」という殻を破るしかない。

     彼女の嘘も、過去も、その業の深さも、すべてを背負って立つ「男」としての覚悟を、彼女の瞳が試していた。

     「エミはね、ずっと前からヒロト君だけを見てた」
    彼女の言葉が嘘か本当かなんて、どうでもよかった。
    ただ、行先も決めれない不器用な僕の腕を、彼女だけが強く、痛いほどに掴んで離さなかった。

     「今すぐ、私を奪い取ってみせてよ」
    その挑発的な瞳を見た瞬間、僕の中で何かが弾けた。 

     僕は会場を飛び出した。降りしきる雪の向こうに、油の匂いが染み付いた工場の景色が重なる。耳の奥で鳴り止まない終礼ベルは、過去の自分への決別を促しているようだった。

     僕は立ち止まり、天を仰いで熱い吐息を吐き出した。
    「身の丈なんて、知るかよ……。そんなものに収まって死ぬのは、もう御免だ」

     震える拳を固く握りしめる。今の僕は空っぽで、何一つ持っていない。けれど、だからこそエミが求めている「男」に、この手で自分を造り変えることができる。彼女の望む虚像を真実へと変えていくこと。それが、今の僕が見つけた唯一の道だ。

     表通りで、二人の前に立ちはだかった。
    震える肩、積もる雪、そして喉の奥から絞り出した声。
    「エミさん……! どうか、今夜だけは……今夜だけは、僕と過ごしてくれないか」

     それは、僕の人生で最初で最後の、不器用なチェックメイトだった。

     エミさんの瞳が驚きに揺れ、やがて、どこか安堵したような光を宿すのを見た。

     都会の男は、スマートに身を引いた。
    彼が去り際に見せたあの表情は、敗北ではなく、まるで「プレゼント」を置いていくサンタクロースのようだった。

     三年の月日が、あの夜の雪を遠い記憶へと変えた頃、僕とエミ、そして娘は、今、真夏の光の中にいる。

    「パパ、遅い! 早くしないとアイス溶けちゃうよ!」
     僕の指をちぎれんばかりの力で引っ張るのは、エミにそっくりな気の強い娘だ。その背後で、エミが麦わら帽子の縁を押さえながら、困ったように、でもどこか楽しげに肩をすくめる。

     「ヒロト、お中元として佐藤さんに何かお礼を送りましょう。あの時のお肉のお返し、まだだったでしょう?」
    彼女の言葉に、僕は驚いて足を止めた。自分の利益のためにしか動かなかった彼女が、今では僕の人間関係を誰より大切に支えてくれている。

     「……エミ、変わったね」
    「失礼ね。私はいつだって、一番大切なものを手に入れるために全力なだけよ」
    彼女はいたずらっぽくウインクしてみせる。その瞳の奥にある、嘘のない真っ直ぐな光を知っているのは、僕だけでいい。

     マキさんが別の町で家庭を築いたと聞いたとき、不思議と胸のざわつきはなかった。
    僕はそっと胸元に手を当て、彼女の面影を呼び起こす。
    「ありがとう、マキさん。僕は、僕の道を行くよ」

     鼻腔をくすぐる石鹸の幻影。それは、かつて僕を救ってくれた聖域の記憶。今でも僕が嘘を嫌い、泥臭く生きようと思えるのは、彼女がくれたあの清廉な匂いが、僕の魂の道標として静かに、けれど確かにそこに在るからだ。

     麦わら帽子を被った娘の手を引く、僕の節の太い手。
    この手はもう、油を拭うためだけにあるんじゃない。
    エミが懸命に手繰り寄せたこの平穏を、一生かけて守り抜くためにある。

     娘の手を引くエミが、ふと僕に顔を向け、いたずらっぽく微笑んだ。
    その刹那、彼女の動いた唇が「メリークリスマス」という形を作ったように見え、僕の意識は一瞬にしてあの聖夜へと引き戻された。

     肌を焦がすような真夏の太陽の下だというのに、僕の掌にはあの夜、彼女の震える指先を握りしめた時の冷たさと、それを上書きした確かな熱が鮮烈に蘇っていた。

     あの嘘つきで愛おしい聖夜が、今の僕たちの礎なのだと改めて突きつけられる。

     あの時、僕に勇気をくれたのは、エミさんの嘘であり、マキさんの沈黙であり、そしてあの男の存在と去り際の後ろ姿だった。
     僕は心の中で、自分たちを導いてくれたすべての縁に感謝を捧げる。

    「メリークリスマス」ありがとうと……。 
     
     真夏の光の中で、僕は確かに、優しい雪の感触を思い出していた。


    #第五章  僕と茜の『五センチの出逢い』


     掃除機を傍に置き、もうすぐ来る茜を待ちながら、僕は曇った窓の一点を、クロスで円を描くようにゆっくりと拭った。

     磨かれた窓から滑り込んできたのは、黄昏を追い越して届いた、あの夏の色をした光だった。  

     あの夏、僕は「恋のゲーム」に完敗した。
    それまでの僕は、今使っているこの相棒の掃除機みたいに、軽快なステップで恋を渡り歩いていた。

     恋なんて、誰かのハッピーエンドか、誰かのバッドエンド。
    ただのゲームだと思っていたんだ。
      
     けれど、あの日、
    夏の光の中で家族となった二人の後ろ姿を見つめながら、僕の心には静かな雪が降っていた。それは、僕の独りよがりなゲームの終焉を告げる雪だった。

     あの夏を境に、僕の時計の針は新しく刻み始められた。それから数年が経ち、建築士としてのキャリアを積み重ねていた頃のことだ。

     人数合わせの誘われ合コン会場。

     「お仕事は何を?」
    カクテルグラスの縁をなぞりながら、正面の女性が上目遣いに問いかけてくる。
    「内装設計を少々」
    「へえ、すごーい。じゃあ、年収とかも設計図通りに右肩上がりなんですか?」
    冗談めかした彼女の笑い声が、僕の耳を素通りしていく。
     結局、彼女たちが探しているのは「僕」ではなく、僕というラベルに付随する「安定」という名のチケットなのだ。

     僕はふと、あの真夏の光景を思い出した。
    あの時、サンタになった僕が見た二人の背中。
    彼らは、相手の条件を値踏みするような目はしていなかった。ただ、目の前にいる愛しい人の世界を、自分ごとのように見つめていた。

     それに比べて、今の僕の視線はどうだ。自分の損得、自分の安らぎ、自分の、自分の……。二人が見ていた世界は、自分の世界より広い世界だ。

     「自分」という殻に閉じこもっている僕には、彼らが見ていたあの広い空は、まだ眩しすぎた。

     (恋のステップを軽快に踏むのは、もう懲り懲りだ。)

     ヒロトのあの熱量、あの不器用な一途さ。
    それこそが本物を手にするための唯一の鍵だと改めて気づかされ、僕は自分の手のひらの空虚さに怯え、益々、恋から遠ざかるようになった。

     

     そんな僕の前に現れたのが、
    外食チェーンでエリアマネージャーを務める茜だった。

     初対面の打ち合わせ、
    彼女は僕が広げた図面に目を落とすこともなく、組んだ腕をデスクに乗せて僕を真っ直ぐに見据え言った。
    「私は、妥協しないから。そのつもりで」

     二歳年上の彼女が放ったその言葉は、
    鋭い先制パンチのように僕の胸に突き刺さった。

     施工主という立場を盾にした挑戦的な眼差しに、
    僕は「なんて嫌な女だ」と心の中で毒づきながら、手に持ったペンを強く握りしめた。

    その日から、僕と彼女の火花を散らすような議論は日常茶飯事となった。

     彼女は、壁紙の見本帳を指先で弾きながら、
    端数単価一円の妥協さえ一切許さなかった。

     そして、客席の照明を見上げては、眩しそうに目を細めて
    「これじゃお客様がくつろげないわ」と、
    光の温度にまで注文をつけた。

     さらに、彼女が身を乗り出し、僕の横顔をかすめるようにしてメジャーを伸ばす。
     ふわりと香る彼女の匂いに、一瞬だけ昔の「遊び人」としての僕が顔を出しそうになる。けれど、彼女の口から飛び出したのは甘い囁きではなく、鋭いナイフだった。

     「この五センチを削れば、車椅子が、もっと自由に旋回できる。……プロなら、見落とさないはずよね?」
    「……分かってるよ、そんなこと」

     僕はわざとらしく視線を逸らし、熱くなった耳裏を隠すように髪をかき上げた。恋の駆け引きなら勝利を確信するこの距離が、今の僕にとっては、プライドをズタズタに切り裂く処刑台の距離だ

     彼女は他にも数多の店舗を抱えているはずなのに、ひとたび問題を見つければ、翌朝には僕より早く現場に立っていた。シャッターの上がる音と共に、冷徹なまでに整った彼女の横顔が視界に入る。
     それが僕にとって、一日の始まりを告げる何よりの憂鬱だった。


     今回の標的は、女子トイレだ。
    「ねえ、これを見てどう思う?」
     彼女は図面を指先で激しく叩き、信じられないものを見るような目で僕を射抜いた。

     「なぜ男子トイレと女子トイレが、鏡合わせのように同じ面積なの?」
    「それは、設計上の効率を……」
    「ここはファミレスよ。親子が手をつないで入る場所なの」

     彼女は僕の言葉を遮り、一歩踏み込んでくる。一言一言が、逃げ場を奪うように僕の癇に障る。
    「父親と母親、どちらが子供を連れて中に入る確率が高いか、想像したことはある? 子供をテーブルに一人で待たせておく不安が、あなたにわかる?」

     彼女は女子トイレの個室予定地に立ち、腕を組んで空間を睨みつけた。
    「女性トイレを待たせない、滞留させない。それがこの業態の鉄則よ」
     ぐうの音も出なかった。正論という名の鋭いナイフで、僕の安易な設計思想がまた一つ、無残に削り取られていった。

     そんな彼女が、激しい雨が降る日、また視察に訪れた。

    傘も差さずに駐車場から入り口までの動線を何度も歩き直していた。

     「雨の日にベビーカーを押して来るお母さんの気持ちになってみて」

     彼女は濡れたジャケットの袖を気にする様子もなく、タイルの滑りやすさを靴底で確かめ、厳しい指摘を投げかけてくる。

     僕は僕で、資材の在庫状況を理由に、現実的な妥協案を差し出した。
    彼女は僕の案をじっと見つめ、納得したように深く頷くと、濡れた顔をハンカチで拭うことも忘れて僕を見つめた。

    「……そうね。これなら、お母さんも子供も笑顔になれる」

     彼女は少しだけ照れくさそうに鼻の頭を指でかくと、いたずらっぽく目を細めて、これまで一度も見せたことのない晴れやかな笑顔を僕に向けた。

     その照れを誤魔化すかのように、彼女はタイルの滑り具合を靴底で確かめながら、独り言のように呟いた。

    「この段差が、誰かの歩みを止めるかもしれない。この照明が、誰かの会話を邪魔するかもしれない……。昔ね、照明一つで店を台無しにしたことがあるの。スタッフをどれだけ動かしても解決しなかった問題が、上司の指示で電球の色を変えただけで消えてなくなった。……あの時の敗北感は、今もこの胸に張り付いたままよ」
     彼女は雨に濡れた顔を拭いもせず、完成間近の店内を愛おしそうに見つめた。

    「結局、私は自分の体裁を守りたかっただけ。お客様が何を求めているかなんて、二の次だった。……そんな自分を、私は一生許さないわ」

     雨の中で凛と立つ彼女の姿は、どんな設計図よりも美しく、完成されていた。いつしか僕の視線は、紙の上の数字ではなく、茜という一人の人間に釘付けになっていた。

     それが、僕の最後の恋の始まりだった。

     
    フィルターを外した目で茜を見つめ直したとき、その輪郭はそれまでとは全く違う色を帯びて見えた。妥協を許さないあの頑なさは、自分を守るために必死で纏った鎧だったのだ。


     いても立ってもいられなくなったのか、茜が夜遅くに事務所へ駆け込んできた。放っておくわけにもいかず、僕は彼女の気が済むまで隣にいることにした。

     時計の針が午前零時を回った頃、図面の上を走り続けていた茜のペンが、ふいにとまった。重い溜息とともに、彼女は両手で顔を覆い、そのまま動かなくなった。

     「……ねえ、これで合ってるのかな。私、間違ってないかな」

    指の隙間からこぼれ落ちたのは、独り言のような、か細い震え声。
     静まり返った事務所には、冷めきったコーヒーの苦い匂いだけが漂っている。いつもは一筋の乱れもない彼女の髪が、今は疲れ果てたように肩に散らばっていた。

     僕はあの雨の日の、あの真っ直ぐな眼差しを重ねた。あんなに強くあろうとした茜が、今、僕の前でだけ折れそうな枝のように震えている。その脆さごと、すべて引き受けたいと思った。
    僕はたまらなく、その細い肩を抱き寄せたい衝動に駆られた。

     いつも僕を射抜くあの鋭い眼差しは、崩れそうな自分を必死に支えるための突っ張り棒に過ぎなかったのだ。彼女が牙を剥いていた相手は僕ではなく、誰にも寄りかかれずにいる自分自身の「怯え」だった。

     僕は黙って茜の隣に座り、付箋だらけの図面を引き寄せた。
    「一人で背負うな。五センチの妥協を許さない君のこだわりを、僕の設計で形にしてみせる」

     彼女が顔を上げ、驚いたように僕を見た。僕はペンを握り直し、彼女が懸念していた動線のデッドスペースに、鮮やかな修正線を引いていく。
     「ここをアール(曲線)にすれば、ベビーカーもスタッフもスムーズにすれ違える。君の理想は、僕が図面という現実に着地させてやるよ」

     彼女の瞳に、いつもの鋭い光が戻った。彼女は僕の手元を覗き込み、
    「……だったら、照明の角度も三度下げて。影が重ならないように」と、僕のペンを奪い取るようにして線を書き加えた。

     深夜の事務所に、二人のペンが走る音だけが響く。それは、かつての僕が知っていた軽薄なジルバのステップよりも、ずっと力強く、確かな未来を刻むリズムだった。

     翌朝、僕たちはまだ工事中の現場に立っていた。茜はヘルメットを深く被り直し、僕が提案した修正案を職人たちに説明する僕の横で、鋭い眼差しで空間を計っていた。

     「棟梁、ここのカウンター、あと数ミリ削れますか? 彼女の言う通り、この数ミリがお客様の『居心地』を作るんです」

     僕が職人の懐に飛び込むと、茜もすかさずメジャーを手に取り、腰を落として床の水平を確かめた。

    「私たちがここで妥協したら、この店に魂は宿りません。お願いします!」

     彼女の真っ直ぐな声が、コンクリートの壁に反響した。職人がニヤリと笑い、「威勢のいい姉ちゃんだ。よし、やってやるよ」と工具を握り直す。

     茜と目が合い、僕たちは言葉を交わさずに小さく頷き合った。ぶつかり合っていたはずの二人の熱量が、今は一つの場所を作り上げるための大きな炎となって燃えていた。

     初めてのデートは、甘いムードとは程遠いものだった。
    僕が用意したとっておきの口説き文句も、茜の耳には届かない。

     彼女はメニューを開くよりも先に、店内の動線を測るように視線を鋭く走らせ、
    「あそこの角、スタッフがすれ違う時に肩がぶつかりそうね」と、
    眉間に小さな皺を寄せた。

     居酒屋での二次会も、彼女にとっては「視察」の延長だった。
    お品書きを検分する指先は、もはや獲物を狙うハンターだ。

     「この塩辛グラタン、面白い構成ね」と目を輝かせたかと思うと、スプーンで具材をリフトアップしてじっくり観察。一口食べては深く頷き、四次元ポケットから取り出したような付箋まみれのメモ帳に、誰にも解読できない独自の理論を書き込んでいく。
     その徹底した仕事ぶりに、僕はただ苦笑いするしかなかった。

     かつての僕なら「ムードがない」と切り捨てていただろう。
    けれど、"夢中でペンを動かす茜の指先を見つめているうちに"僕は初めて知った。
    言葉で飾るよりも、こうして同じ時間を共有できることの尊さを。

     僕はそんな彼女の横顔を眺めながら、不思議と心地よさを感じていた。
    着飾った言葉よりも、目の前の仕事に誠実であろうとする彼女の体温が、僕の心を静かに満たしていく。

     現場ではあんなに凛としていた茜が、
    僕の部屋ではすっかり牙を抜かれた猫のようになる。

     ぶかぶかの僕のパジャマに身を包み、行儀悪くソファに足を投げ出してテレビを眺めている。
     僕が作った手料理に「お肉が足りない!」と子供のように膨れてみせ、
    僕の皿を覗き込んでは「私のほうがお肉が小さい」と理不尽な抗議。

     そんな他愛もないやり取りが心地いい。
     外で見せるあの鋭い眼差しはどこへ行ったのかと苦笑してしまうが、僕の前でだけ武装を解いてくれるその姿が、何よりも愛おしかった。
     茜の「本当の顔」を知っているのは世界で僕一人だけだという事実に、僕は静かな幸福を感じていた。

     ただ、彼女が彼女らしくある姿を隣で見ているだけで、僕は十分に幸せだった。

     あの遠い夏、故郷で見た二人の幸せの形がようやく理解できた。身近にいる誰かの幸せを願い、今を生きること。誰かのために生きている幸せを感じること。茜の為に生きたいと願っている、今の僕は、それが痛いほど嬉しく分かる。


     掃除機の唸りが消えた部屋には、洗剤の微かな香りと、澄み渡った静寂だけが満ちている。窓枠に肘を預け、黄昏に染まる街角に、もうすぐ届くはずの彼女の気配を探した。

     「ヒロト、エミ……君たちも、こんな風に心臓の音を数えていたのか?」
    僕は大きく息を吐き出し、震える右手を左手でぎゅっと抑え込んだ。あの時、彼らが必死に手繰り寄せた未来。
    今度は僕が、この手で茜との未来を掴み取る番だ。

      ポケットの中で、小さなケースの角が指先に触れた。
    僕はそれを引き出し、窓から差し込む街灯の光にかざしてみる。

     「身近な誰かの幸せを願うことが、自分の生きる理由になるなんて……あの頃の僕が聞いたら、鼻で笑うだろうな」
    自嘲気味に呟いたが、口角は自然と上がっていた。

     (茜、僕は君のために、この不器用な誠実さを使い切りたいんだ。)

    彼女には聞こえない誓いを立て、僕は指輪を大切にポケットへ戻した。

     開け放した窓から、
    雨の予感を孕んだ風が滑り込んできた。
    掃除機を所定の位置に戻し、
    僕は、茜色に溶けていく空を仰いだ。

     今夜の雨は、
    彼女を僕の部屋へ閉じ込めるための神様の悪戯かもしれない。
     テーブルには、
    プラチナの光を放つ小さな約束と、彼女の肌を優しく包むための、雲のように真っ白なバスタオルをおいた。

     ここまで導いてくれた二人の真夏のサンタに、

    「メリークリスマス」


    追伸……本物のサンタさんへ


     僕たちはみんな、嘘つきだった。
     けれど、あの時ついた優しい嘘や、残酷な嘘、自分を守るための嘘、それからーーあのわずかな思い違いがなければ、僕たちは今、この場所に立っていなかっただろう。
     それに気づかせてくれて、ありがとう。

              心を込めて「メリークリスマス」

                ……エミ、マキ、ヒロトそして、僕より


     
     
    夕飯の支度を終え、中二の娘の帰りを待つ。キャリアを妻に譲り主夫となって数年。ふとした瞬間に、これまで出会った人々の顔が物語の1ページのように蘇る。自分と、誰かの人生か交差した証を残したい。そんな思いで、今日も台所の片隅で温かな記憶を綴っています。

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