怠惰の効用
人間レベルが上がってくると
他人を〈もしかの自分〉と思ってみなさいと
広義の愛のファーストステップは求める。
でも他人は自分じゃない。
自分と思って大事にするのは難しい。
この世で目にする悪いことはすべて、今か、過去生をも含む、かつての自分がやったことだと言う。
あんな酷いことは許せないと、特に激しい反応をすることほど、過去に自分が誰かにやったことなのだそうだ。
とてものこと、認められない。
認めたくない。
けれど数多の悪徳の中で、怠惰というものは、少々特別なようである。
怠惰だけはどうも、人は持っていることを認めやすいようなのである。
怠け心やダラシナサなんてものは、誰しもが持っているからか。
そして、みんな何故かこれに厳しい。
他人のものにも自分のものにも。
誰にでもあるからだろうか。
誰にでもあるということは、人類にとって駆逐しづらかった、ということか。
しつこいカビのように、どれだけ掃除しても、まだ取れずに蔓延っている、すなわち大敵だからなのだろうか。
どんなに怠惰に吞まれている人間であっても、心のどこかでは、こんなことではいけないと思っている。
人は怠惰にあらがえなくとも、怠惰を駄目だと思う気持ちだけは、残しているものなのだ。
そして他人の怠惰を見た者は、不思議と他人事と思えない気持ちにさせられる。
怠惰な他者を、もしかの自分、と自然と思えているのである。
おお!愛の始まりだ!
罪を犯したことの無い者だけが、石を投げなさい!
怠惰は他人と自分の間を満たして繋げる潤滑油だ。
逆上がりのできない私を、難なく背中で押し上げて「ほら、今できてたじゃん」と言ってくれるのが怠惰の徳だ。
怠惰は知らぬうちに自他の境界を溶かす。
ああ、ああいうとこ、自分にもあるなぁ。
あれ、自分もやるなぁ。
わかる。それ、やっちゃうよねぇ。
ひとの怠惰も自分のものと思える時、私はその人になっているし、その人は私になっている。
そら、愛の始まりだ。
より広い愛、持ちづらい高尚な愛、人類愛の萌芽である。
怠惰はこのために、人々に備わっているのかもしれない。
人間は愛を知るために存在する。
よって人間という存在を動かしているシステムの、根幹に関わるものとして、消去できないプリインストールアプリの一つが怠惰なのだろう。
だからこそ、消去できないものとして、怠惰はコビリ付いているのだ。
私は怠惰にまみれている。
日曜なのに、目覚めたら雨が降っていたから、起きるのをやめた。
愛を知るための機能が今、まさに発動しているのである。