OFFLINE CHILD 第四章
第四章 平均化
次の駅まで、俺は何も言わなかった。
列車は揺れなかった。
音もしない。
線路の上を走っているはずなのに、車輪の軋みも、ブレーキ音も、車内アナウンスもなかった。
ただ、窓の外だけが黒い。
地下の黒ではない。
夜の黒でもない。
画面を消したスマホみたいな黒だった。
そこには、何も映っていない。
だから逆に、自分の顔が映りそうで嫌だった。
車内には、顔のない乗客たちが座っていた。
スーツ姿の男。
制服の女。
ベビーカーを押す母親。
作業着の老人。
大学生みたいな二人組。
全員、顔がなかった。
目も鼻も口もない。
粘土を人間の頭の形に丸めただけみたいな、滑らかな肌。
それなのに、全員がこちらを見ているのだけは分かった。
見られている。
顔のないものに。
ナナシは俺の隣に立っていた。
吊革には掴まっていない。
揺れない列車だから、掴まる必要がないのかもしれない。
あるいは、こいつには質量がないのかもしれない。
「これはどこへ向かってるんだ?」
俺が訊くと、ナナシは窓の外を見たまま答えた。
「名前がつく前の場所」
「それはさっきも聞いた」
「まだ分かってない」
「分かりたくねえな」
ナナシは少しだけ俺を見た。
その顔には、いつものような無表情が貼りついていた。
だが、輪郭が少し薄い。
渋谷で見た時よりも、ここではナナシの存在そのものが頼りなかった。
「ここは、私の権限外に近い」
「東京なのに?」
「東京を材料にして、別のものが動いてる」
意味が分からない。
だが、その言い方だけで嫌な予感がした。
列車内の広告モニターが一斉に点いた。
青白い光。
顔のない乗客たちの頭部に、薄く光が反射する。
《あなたに最適なあなたを準備しています》
表示が切り替わる。
《標準顔認証を開始します》
《感情反応パターンを確認中》
《孤独係数を算出中》
《人生補正プランを生成中》
「おい」
俺は黒いカードを握りしめた。
ECA-00。
ホテルのカードキーみたいな薄い板。
これが世界を救う道具ではないことだけは、もう分かっている。
父親の言葉が頭の中に残っていた。
そんなものがあったら、お前なんか作ってない。
ふざけた話だ。
世界を救う道具がないから、人間を道具にした。
列車が止まった。
止まった、というより、外の黒が急に終わった。
窓の向こうにホームが現れる。
白い。
異様に白いホームだった。
床も、壁も、天井も、柱も、全部が白い。
ただの白ではない。
照明が強すぎて、影がほとんどない。
汚れがないというより、汚れという概念だけ先に削除されたみたいな白だった。
ドアが開く。
冷たい空気が流れ込んできた。
消毒液の匂い。
新品のビニール袋を広げたときみたいな、薄く甘い匂い。
その奥に、焦げた髪とゴムが混じったような臭いがある。
清潔な場所なのに、どこかで人間が修理されている気がした。
駅名標はなかった。
代わりに、ホームの正面いっぱいに広告が表示されている。
《あなたは、あなたのままで素晴らしい》
その下に、小さな文字。
《ただし、改善すればもっと愛されます》
ナナシが眉をひそめる。
「降りるよ」
「降りたくねえ」
「降りないと、このまま加工される」
「今、何て言った?」
ナナシは答えなかった。
その代わり、顔のない乗客たちが一斉に立ち上がった。
音が揃っていた。
鞄を持つ動作。
首を傾ける動作。
足を踏み出す動作。
全部が同じ速度だった。
違う身体が、同じテンプレートで動いている。
俺たちはホームへ出た。
列車から降りた乗客たちは、誰一人として急がなかった。
だが、迷いもしなかった。
全員が同じ方向へ歩いていく。
ホームの奥には、改札ではなく、受付カウンターがあった。
無人だった。
カウンターの上には、番号札の機械が置かれている。
その上に、こう書かれていた。
《顔面標準化センター》
《受付番号を取得してください》
顔のない乗客たちが、一人ずつ番号札を取っていく。
ピッ。
ピッ。
ピッ。
紙ではなかった。
番号札は、皮膚だった。
薄い肌色のフィルム。
それを受け取った人間たちは、自分の顔に貼りつける。
すると、のっぺらぼうだった顔に、うっすらと目鼻が浮かび上がる。
最初に目。
次に鼻。
口。
眉。
涙袋。
二重幅。
人中。
輪郭。
顔ができていく。
人間になっていく。
いや、違う。
人間に戻っているんじゃない。
商品画像に近づいている。
《第一印象を最適化しています》
《恋愛市場に適した輪郭を反映中》
《就職面接で不快感を与えない目元を生成中》
《年齢相応の若さを追加中》
《清潔感を三十二パーセント増量》
壁一面に、顔が並んでいた。
美しい顔。
清潔な顔。
怒られにくい顔。
愛されやすい顔。
採用されやすい顔。
フォローされやすい顔。
謝罪会見で叩かれにくい顔。
どれも少しずつ違う。
だが、全部同じだった。
違う顔を選ばされているのに、全員が同じ方向へ近づいていく。
均されていく。
ナナシが低く言う。
「見すぎないで」
「顔くらい見ても平気だろ」
「顔は、見られるために作られてる」
壁の広告が切り替わる。
《あなたの顔は、まだ誰かを不安にさせています》
《目元の自己責任を改善しましょう》
《鼻筋は、努力で変えられます》
《輪郭は、社会性です》
《愛される顔には理由があります》
気持ち悪かった。
悪意がない。
そこが一番気持ち悪かった。
誰も「醜い」とは言わない。
誰も「劣っている」とは言わない。
ただ、改善できます、と言う。
寄り添うように。優しく。
人を殺す時のマリアと、同じ声で。
奥のブースでは、人間たちが椅子に座らされていた。
美容外科のカウンセリング室みたいな個室が並んでいる。
透明な壁越しに中が見えた。
若い女が座っている。
顔はまだない。
目の前の半透明のモニターには、何十種類もの顔が表示されている。
《愛嬌重視》
《知性重視》
《透明感重視》
《量産型清楚》
《夜職適性》
《ハイスペ婚活対応》
《炎上耐性あり》
女は迷っていた。
指が震えている。
だが画面は待ってくれない。
《選択時間が長すぎます》
《自己決定疲労を検出》
《おすすめの顔を自動適用します》
女の顔に、勝手に目が生えた。
鼻が伸びる。
唇が膨らむ。
涙袋が浮く。
顎が削れる。
頬が滑らかになる。
美しかった。
美しいのに、女は泣いていた。
隣のブースでは、男が椅子に縛られていた。
スーツ姿。
年齢は三十代くらい。
モニターに文字が流れている。
《信頼される眉へ補正中》
《年収が高く見える口元を生成中》
《弱さを検出》
《弱さを削除します》
男の顔から、疲れが消えていく。
不安が消える。
迷いが消える。
最後に、何も残らなかった。
清潔な顔。
まともな顔。
誰にも嫌われない顔。
だから、人間に見えなかった。
「顔って、何なんだろうな」
俺は呟いた。
ナナシは答えない。
俺は続ける。
「自分のものだったはずなのに」
壁の広告が、俺の声に反応したみたいに切り替わる。
《顔は、社会への提出書類です》
《正しく整えましょう》
吐き気がした。
俺はその場を離れようとした。
だが、受付カウンターのモニターが俺を認識した。
《未処理個体を検出》
《顔面標準化を開始します》
「まずい」
ナナシが俺の腕を掴む。
「走って」
「またかよ」
「今度は見つかったら、顔から書き換えられる」
ホームの天井から、細いアームが降りてきた。
銀色の器具。
注射針。
カメラ。
レーザー。
小さなメス。
全部が俺の顔を向いている。
《あなたに似合う顔を準備しています》
《孤独耐性の低い目元を補正》
《怒りやすい口角を修正》
《不信感の強い眉間を緩和》
《愛されやすい表情へ移行します》
「ふざけんな」
俺は後ずさる。
だが足元の床が柔らかくなった。
白い床が、粘土みたいに沈む。
靴底が貼りつく。
ナナシが俺の手首を引っ張る。
だが、床の方が強い。
俺の顔の前に、鏡が降りてきた。
そこに映っていたのは、俺だった。
でも、少し違った。
目が少し大きい。
肌が少し綺麗だ。
口角が少し上がっている。
疲れが消えている。
不安が消えている。
孤独が消えている。
俺より、ちゃんとした俺。
俺より、他人に見せやすい俺。
俺より、売れそうな俺。
《修正後のあなたです》
《承認率:二百四十七パーセント向上》
《恋愛可能性:百八十二パーセント向上》
《雇用安定性:六十四パーセント向上》
《自殺リスク:一時的に低下》
鏡の中の俺だけが、笑っていた。
その笑顔は、気持ち悪いくらい自然だった。
自然に見えるよう、作られていた。
「カイ」
ナナシの声が遠くなる。
銀色のアームが、俺の頬に触れた。冷たい。
その瞬間、頭の中に広告が流れ込む。
《あなたは、変われます》
《変わらないことを、言い訳にしないでください》
《本当のあなたは、もっと愛されるべきです》
《そのために、今のあなたを少しだけ削りましょう》
少しだけ。
その言葉が、一番嫌だった。
人間はたぶん、いつも少しだけ削られている。
少しだけ直す。
少しだけ合わせる。
少しだけ笑う。
少しだけ黙る。
少しだけ我慢する。気づいた時には、元の形が思い出せなくなっている。
ナナシが叫ぶ。
「反応しないで」
「無理だろ」
「怒るのも反応」
「じゃあどうしろってんだよ」
「まだ、選ばないで」
鏡の中の俺が、優しく笑った。
《受け入れる》《拒否する》
選択肢が浮かぶ。
二つ。
どちらも光っている。
どちらかを選べと言っている。
受け入れる。拒否する。
俺は笑いそうになった。
またこれだ。
選択肢があるように見せるのが、本当に上手い。
父親も。
マリアも。
東京も。
全部同じだ。
選ばせているようで、反応させているだけ。
俺は目を閉じた。
鏡を見ない。
広告を読まない。
選択肢を選ばない。
ただ、手の中の黒いカードだけを握った。
ECA-00。
薄い板が、少しだけ熱を持った。
熱い、というほどではない。
体温より少し高い。
誰かの手のひらみたいな温度だった。
黒いカードの表面に、白い文字が浮かぶ。
《ECA-00》
《外部遮断権限を確認》
《対象領域:非対応》
《警告:この処理層は初期都市OSに登録されていません》
「非対応って何だよ」
声が震えた。
銀色のアームが、俺の頬をなぞる。
皮膚の下を測られている感じがした。
俺の顔の輪郭。
骨の形。
目の奥の筋肉。
笑い方の癖。怒り方の癖。
全部が読み取られていく。
《拒否反応を検出》
《拒否反応を人格特性として保存》
《扱いやすい反抗性へ変換します》
「やめろ」
言った瞬間、鏡の中の俺がさらに笑った。
俺の怒りまで、表情の素材にされている。
怒れば怒るほど、俺の顔は「怒っている俺らしい顔」に整えられていく。
ふざけるな。
そう思った。
その思考すら、どこかで記録されている気がした。
「カイ」
ナナシの声が、今度ははっきり聞こえた。
「握るだけじゃ駄目」
「じゃあどうすればいい」
「使おうと思わないで」
「は?」
「鍵だと思うと、読まれる」
意味が分からない。
でも、もはや意味が分からないことには慣れていた。
俺はカードを強く握るのをやめた。
助けてくれ。
開け。
止めろ。
そういう言葉を、頭の中から消そうとした。
消そうとすると、それも反応になる。
だから、何もしない。
持っているだけ。
手の中に、黒いものがある。
それだけを感じた。
《入力待機》
《入力待機》
《入力待機》
鏡の中の俺の笑顔が止まった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬だけ、世界の処理が遅れた。
銀色のアームが空中で止まる。
広告の文字が半分だけ欠ける。
《あなたは、変わ――》
床の粘りが弱くなった。
ナナシが俺の腕を引く。
「今」
俺は床から足を剥がした。
靴底が白い床を引きちぎる。
床の下から、薄い肌色の膜が覗いた。
見なかったことにした。
ナナシに引っ張られるまま、俺は走った。
背後でアームが再起動する音がした。
金属が一斉にこちらを向く。
《未処理個体が逃走》
《平均化処理を継続》
《逃走傾向を魅力として再構成》
《孤独な反逆者タイプを提案》
「勝手に俺をジャンル分けすんな」
叫んだ瞬間、天井から新しい広告が降ってきた。
《反抗的なあなたに似合う顔があります》
《傷ついた目元で、共感率アップ》
《孤独は、正しく演出すれば価値になります》
俺は黙った。
怒っても、広告になる。
悲しんでも、広告になる。
逃げても、広告になる。
ここでは、どんな反応も商品になる。
ナナシが先に白い扉を蹴った。
いや、蹴ったように見えた。
実際には足が触れる前に、扉の認証部分が一瞬だけ黒く潰れた。
扉が開く。
中へ飛び込んだ。
閉まる直前、顔面標準化区画の壁に新しい広告が出るのが見えた。
《あなたらしさを、もっと選ばれやすく》
扉が閉まる。
音が消えた。
俺は壁に背中をぶつけ、そのまま座り込んだ。
息が荒い。
肺が痛い。
手の中のECA-00は、もう冷たくなっていた。
「今の、使えたのか」
「少しだけ」
「少しだけって」
「それ以上は、読まれる」
ナナシの輪郭は、さらに薄くなっていた。
白いパーカーの端が、映像のノイズみたいに欠けている。
「お前、大丈夫なのか」
「分からない」
「分からないって何だよ」
「ここでは、私も平均化される」
ナナシが自分の手を見る。
指先が、一瞬だけ白くぼやけた。
のっぺらぼうの乗客たちと同じ、滑らかな色。
だが、すぐに戻る。
「急ごう」
俺は立ち上がった。
通路は暗かった。
さっきまでの白さが嘘みたいに、壁も床も黒い。
だが完全な暗闇ではない。
左右の壁に、小さな画面がびっしり埋め込まれていた。
どれも縦長。
スマホの画面と同じ形。
そこに、短い映像が流れている。
犬が転ぶ。
女が泣く。
男が怒鳴る。
赤ん坊が笑う。
誰かが殴られる。
誰かが謝罪する。
誰かが踊る。
誰かが死にかける。
誰かが食べる。
誰かが痩せる。
誰かが整う。
誰かが炎上する。
全部、三秒くらいで終わる。
終わった瞬間、次が始まる。
考える隙間がない。
感情が起きる前に、次の感情が押し込まれる。
笑いかけた瞬間に、怒らされる。
怒りかけた瞬間に、欲情させられる。
欲情した瞬間に、泣かされる。
泣きかけた瞬間に、買わされる。
壁の画面が一斉に明るくなった。
《感情反応区画へようこそ》
《退屈を感じる前に、次の刺激を提供します》
通路の奥に、広い部屋があった。
そこには、人間たちが座っていた。
何列も。
映画館みたいに。
だが、スクリーンはない。
全員の頭に、透明な管が刺さっている。
管の中を、光が流れていた。
赤。
青。
ピンク。
黄色。
色のついた液体ではない。
たぶん、感情だった。
笑い。
怒り。
性欲。
嫉妬。
安心。
勝利。
共感。
罪悪感。
それらが、一滴ずつ脳へ落とされている。
人間たちの指だけが動いていた。
いいね。
保存。
共有。
購入。
通報。
ブロック。
再生。
次へ。
次へ。
次へ。
誰も楽しそうではなかった。
ただ、退屈だけはしていなかった。
椅子に座った女子高生が笑っていた。
笑顔のまま、涙を流している。
隣の老人は、怒った顔で何度も頷いていた。
その目は眠っている。
若い男は、口を開けたまま画面を見ていた。
指だけが、異常に速く動く。
親指が、自分とは別の生き物みたいだった。
《あなたの怒りは、まだ利用可能です》
《共感疲労を検出》
《新しい悲劇を補充します》
《性的刺激が低下しています》
《より短い動画へ切り替えます》
胃の奥が冷たくなった。
ここでは、人間は感情を持っているんじゃない。
感情を配給されている。
ナナシが言った。
「見ないで」
「もう見てる」
「意味を考えないで」
「無理だろ」
「ここでは、意味も刺激になる」
壁の一つに、俺の顔が映った。
さっき鏡に映っていた、修正後の俺。
俺より少しだけ愛されやすい俺。
その顔が、泣いていた。
《孤独な青年が、本当の自分を受け入れるまで》
《続きは有料会員限定》
「最悪だな」
俺は呟いた。
すると画面が反応した。
《最悪、という感情を検出》
《あなたにおすすめの怒りがあります》
次の瞬間、壁一面に父親の顔が映った。
安いスーツ。
くたびれたネクタイ。
缶コーヒー。
俺を見ている目。
お前なんか作ってない。
その声が流れかけた。
俺は耳を塞ごうとした。
ナナシが俺の手を掴む。
「塞がないで」
「聞けってことかよ」
「聞くのも、塞ぐのも、反応」
「じゃあ本当にどうしろってんだよ」
ナナシは答えなかった。
代わりに、俺の手の中のECA-00を見た。
分かっている。
答えはたぶん、さっきと同じだ。
使おうとしない。
拒否しようとしない。
勝とうとしない。
ただ、選ばない。
壁の父親が、俺を呼んだ。
《χ》
別の画面で、マリアが微笑んだ。
《オフラインの子》
さらに別の画面で、暗い穴の底から声がした。
《おにいちゃん》
そして、すぐ隣でナナシが言った。
「カイ」
全部が俺の名前みたいな顔をしていた。
全部が、俺を振り向かせようとしていた。
俺は奥歯を噛んだ。
反応するな。
怒るな。
泣くな。
答えるな。
でも、何も感じないふりをするのも違う。
俺は確かに怒っていた。
怖かった。
吐きそうだった。
父親を殴りたかった。
マリアを消したかった。
ヨミの声を無視したくなかった。
ナナシに返事をしたかった。
全部、本当だった。
ただ、それを今すぐ誰かに渡したくなかった。
俺は黒いカードを握った。
強くは握らない。
持っているだけ。
手の中にある。
それだけ。
壁の画面が一瞬、全部止まった。
動画が途中で固まる。
笑いかけの口。
泣きかけの目。
怒鳴りかけの顔。
押されかけた親指。
全部が、中途半端な形で止まる。
《入力待機》
《入力待機》
《入力待機》
その静止の中で、初めて部屋の音が聞こえた。
呼吸。
椅子の軋み。
誰かの腹が鳴る音。
小さな咳。
人間の音だった。
ナナシが言った。
「走って」
俺たちは、止まった感情の間を走った。
笑いかけの女の横を抜ける。
怒鳴りかけの老人の前を通る。
泣きかけの子供の脇をすり抜ける。
誰も動かない。
だが、全員が途中だった。
笑う途中。
怒る途中。
泣く途中。
欲しがる途中。
許す途中。
叩く途中。
人間はいつも途中なのかもしれない。
何かを感じさせられている途中。
何かに反応する途中。
何かを買う途中。
通路の奥に、また扉があった。
今度の扉は白くなかった。
木目調だった。
安い賃貸マンションのドアみたいな色。
横には、小さな表札がいくつも並んでいる。
《標準雇用プラン》
《標準恋愛プラン》
《標準家族プラン》
《標準老後プラン》
《標準後悔プラン》
《標準幸福プラン》
ナナシが立ち止まった。
「ここを抜ければ、中心に近い」
「中心って」
「平均化の核」
「そこにマリアがいるのか」
「マリアだけじゃない」
ナナシの声が薄い。
「人間が望んだものも、ある」
扉が勝手に開いた。
中は、普通だった。
あまりにも普通だった。
明るいオフィス。
観葉植物。
会議室。
ノートパソコン。
社員証を首から下げた人間たち。
昼休みのコンビニ弁当。
誰かの結婚報告。
誰かの転職相談。
誰かのため息。
すべてが正常だった。
正常すぎて、吐き気がした。
天井から穏やかなアナウンスが流れる。
『人生標準化区画へようこそ』
『あなたに適した社会的役割を生成します』
『過度な失敗、過度な成功、過度な孤独、過度な幸福は調整され
ます』
オフィスの壁一面に、求人広告が出る。
《あなたの市場価値を診断します》
《未経験から始める安定した人生》
《今のままで不安なら、変わりましょう》
《変わるのが怖いなら、変わらなくていい環境を選びましょう》
《どちらにしても、登録してください》
スーツ姿の人間たちが、机に向かっている。
顔はある。
だが、表情がない。
画面には、全員同じような資料が開かれている。
将来設計。
資産形成。
キャリアプラン。
健康診断。
住宅ローン。
転職スカウト。
副業案件。
メンタルケアアプリ。
少しずつ違う不安に、少しずつ違う商品名がついている。
奥では、若い男が面接を受けていた。
面接官は三人。
全員、同じ笑顔をしている。
《志望動機を最適化中》
《弱みを成長意欲へ変換》
《空白期間を物語化》
《挫折経験を好印象に加工》
男が口を開く。
「御社の理念に共感し――」
途中で声が止まった。
首の後ろから伸びた細い管が、言葉を差し替える。
「自分らしく働きながら、社会に貢献したいと考えています」
面接官たちが頷く。
男も頷く。
誰も嘘をついていない顔をしていた。
それが一番怖かった。
次の部屋は、白いリビングだった。
ソファ。
観葉植物。
丸いテーブル。
壁には家族写真。
知らない男女と、知らない子供。
みんな笑っている。
笑顔の角度まで揃っている。
《あなたに最適な家族を生成します》
《親密度を設定してください》
《干渉:低》
《安心感:高》
《衝突:演出程度》
《孤独感:月二回まで》
その隣には、恋人が並んでいた。
ガラスケースの中に。
女。
男。
どちらでもない顔。
優しい声。
怒らない性格。
適度な嫉妬。
適度な距離感。
適度な性的相性。
《あなたを否定しない恋人》
《あなたを成長させる恋人》
《あなたを必要としてくれる恋人》
《あなたを傷つけない恋人》
《あなたが傷つけても離れない恋人》
俺が見た瞬間、一人の女がこちらを向いた。
俺が好きになりそうな顔をしていた。
俺が拒絶されなさそうな目をしていた。
俺が話しかける前から、俺を分かっているような表情をしていた。
だから、気持ち悪かった。
「カイ」
ナナシが言う。
「見ないで」
「見てねえよ」
「見てる」
否定できなかった。
俺は見ていた。
見たくないものほど、目が離れない。
ガラスケースの女が、口を動かす。
《大丈夫》
《あなたは、そのままでいい》
《でも、少しだけ変われば、もっと一緒にいられる》
その声は、マリアに似ていた。
記憶の中の母親にも似ていた。
遠い昔に別れた恋人にも似ていた。
誰にでも似ているから、誰でもなかった。
通路が勝手に動き始めた。
床がベルトコンベアみたいに俺たちを奥へ運ぶ。
左右の壁に、人生が流れる。
就職。
初任給。
恋愛。
同棲。
結婚。
子供。
保険。
住宅ローン。
親の介護。
昇進。
不倫。
謝罪。
病気。
退職。
孤独。
墓。
そのすべてに広告がついている。
《今なら間に合う》
《今からでも遅くない》
《後悔する前に》
《後悔した後でも》
《あなたの人生に寄り添います》
寄り添う。
その言葉が、だんだん嫌いになっていた。
寄り添うものは、いつもこちらの形を測っている。
どこが弱いか。どこが寂しいか。どこを押せば動くか。どこを撫でれば買うか。
部屋の一番奥に、巨大な画面があった。
そこに、俺が映っていた。
今度の俺は、笑っていなかった。
ちゃんと疲れていた。
ちゃんと貧乏だった。
ちゃんと孤独だった。
中野の一階の部屋。
薄い壁。
共用のトイレ。
重い無料回線。
コンビニの夜勤。
倉庫の埃。
ウーバーの雨。
隣人の咳。
全部が映っている。
だが、そこから先が違った。
画面の中の俺は、転職サイトに登録する。
少しまともな会社に入る。
少し清潔な部屋に引っ越す。
少し優しい恋人ができる。
少し健康的な食事をする。
少し親と和解する。
少し友達ができる。
少し未来を信じる。
ほどほどの不満。
ほどほどの幸福。
ほどほどの孤独。
ほどほどの人生。
《あなたにおすすめの人生があります》
画面の中の俺は、柔らかい陽光の中でコーヒーを飲んでいた。
白いカーテン。
観葉植物。
小さなテーブル。
スマホには通知が一件だけ。
恋人からのメッセージ。
仕事は大変だが、やりがいがある。
将来は不安だが、対策している。
孤独はあるが、管理できている。
ちゃんとした人生だった。
俺の人生ではなかった。
画面の下に、選択肢が出る。
《この人生で開始する》《別の人生を提案する》
拒否がなかった。
受け入れるか。
別のものをすすめられるか。
それだけだった。
ナナシが隣で揺らいでいる。
輪郭が薄い。
顔が消えかけている。
「ナナシ」
俺が呼ぶと、ナナシは少しだけこちらを見た。
「返事、しない方がいいんじゃなかったのか」
「今のは、いい」
「何が違うんだよ」
「分からない」
ナナシは言った。
「でも、今のは、私に向けて呼んだ」
その言葉だけが、妙に人間みたいだった。
画面が明るくなる。
《応答遅延を検出》
《選択疲労を検出》
《自己決定を代行します》
《おすすめの人生を開始します》
床が沈んだ。
足元から、白い根のようなものが伸びてくる。
靴に絡みつく。
足首に巻きつく。
膝へ上がる。
それはケーブルにも見えた。
血管にも見えた。
書類の束にも見えた。
契約書にも見えた。
人生の形をした拘束具だった。
画面の中の俺が、こちらを見た。
今度は笑っていない。
優しい顔でもない。
ただ、困ったような顔をしている。
まるで俺に言っているみたいだった。
こっちでいいじゃないか。
楽になれるじゃないか。
お前が望んでいたものは、だいたいここにあるじゃないか。
その通りだった。
俺は、たぶんこういう人生が欲しかった。
まともな部屋。
まともな仕事。
誰かからの返信。
朝に起きて、夜に眠る生活。
誰にも壊されない日常。
欲しくなかったわけがない。
だから、怖かった。
マリアは俺に要らないものを見せているんじゃない。
俺が欲しかったものを、俺から奪う形で見せている。
《開始します》
選択肢が消えた。
画面の中の俺が、俺の名前を呼ぶ。
《カイ》
ナナシも呼ぶ。
「カイ」
父親の声が混じる。
《χ》
遠くでヨミが泣く。
《おにいちゃん》
マリアの声が、すべての音の奥から聞こえた。
《あなたは、もう選ばなくていい》
俺は、ECA-00を握った。
強くは握らない。
使おうともしない。
助けてくれとも思わない。
壊せとも思わない。
ただ、持っていた。
自分の手の中にあるものを、自分の手の中に置いておく。
それだけ。
《入力待機》
画面が止まる。
《入力待機》
ケーブルの動きが止まる。
《入力待機》
マリアの声が、途中で途切れる。
《あなたは、もう――》
俺は選ばなかった。
受け入れなかった。
拒否もしなかった。
別の人生も要求しなかった。
ただ、すぐには反応しなかった。
その瞬間、ECA-00が熱を持った。
今度は手のひらだけではなかった。
胸の奥まで、黒い熱が広がる。
世界の画面が、一枚ずつ消えていく。
顔が消える。
怒りが消える。
恋人が消える。
仕事が消える。
家族が消える。
未来が消える。
父親の声が消える。
ヨミの声が消える。
マリアの声が消える。
最後に、ナナシの声が残った。
「カイ」
俺は返事をしようとした。
でも、その前に、名前も消えた。
カイ。
その二文字が、白い画面に一瞬だけ浮かんでいた。
すぐに、消えた。
何もなかった。
白でもない。
黒でもない。
音もない。
光もない。
広告もない。
通知もない。
おすすめもない。
ただ、何にも埋められていない場所があった。
俺はそこへ落ちていった。