メインコンテンツへスキップ
見出し画像
Photo bykomatam52nz

【短編小説】逆透明人間の須々木くんは推し活したい

    あらすじ

    Vtuberに癒しを求める素行不良の少年、須々木徹。
    高校入学初日からサボって配信を視聴する徹だったが、それには訳があった。
    彼は3年前から『自分以外の人間の姿だけ』が見えなくなる奇病を患っていたのだ。
    すべての人が透明人間に見える疎外感に辟易しながらホームルームに参加した徹は、隣にいた少女・黒牧美鳥の声が推しVtuber「綺羅星ラミカ」と同じであることに気づく。
    正体がバレて焦る美鳥を落ち着かせるため、徹は形だけの口止め契約を結ぶことを提案する。
    そうして昼休みを共に過ごすことになった徹と美鳥は、徐々に打ち解けていく。
    これは「逆透明人間」の少年と、「萌え声Vtuber」の少女が織りなす青春ストーリー。

    第1話 逆透明人間と萌え声Vtuber

    「みんな聞いて聞いてー!ラミカね、今パルメザンチーズにハマってるのー」

     スマホの画面に映る2Dイラストのキャラが無邪気に笑い、コメント欄がにわかに騒ぎ出す。

    “パル……なんだって?“
    “急にどうしたw“
    “俺はカルボナーラに爆盛りしてるわ“

    「パスタに使うとすっごくまろやかになっておいしいし、美肌効果もあるんだよ! はっ、カルボナーラに爆盛り!? なにそれ、最高じゃないっ。今度マネしちゃおっと」

     ライブ感のあるコメントとのやり取りに思わず顔が綻んでしまう。

    「やっぱ、この子いいよなぁ~」

     雑談系個人Vtuber綺羅星ラミカ。チャンネル登録者数は583人。
     アニメの世界から飛び出してきたような甘い声色がチャームポイント。
     人と触れ合うことのできない俺の心を癒す最高のアイドルだ。

    「そこの新入生。入学式の後はホームルームがあるぞー。早く自分の教室に行きなさい」

     突然、背後から声がかかる。誰だよ。俺の貴重な癒しタイムを邪魔するのは。
     振り向いた先には、この高校の教師が――。

     いや。

     教師が着ているであろう背広が、浮かんでいた。

     見えないなにかがみっちりと詰まった厚みのある衣服だけがそこにある。
     人の姿はどこにもない。
     まるで、服を着た透明人間が立っているかのようだ。

     この病気とはもう三年の付き合いだが、いつまでたっても慣れない。

     足元の雑草を勢いよく踏みしめて立ち上がる。
     本当はこのままサボっていたいが、見知らぬ教師の説教なんぞに付き合いたくはない。

    「分かりましたよ、センセイ」

     キララちゃんの弾けるスマイルと陽当たりのいい中庭に心の中で別れを告げる。
     俺は大きくひとつため息をついて、正面に見える我が学び舎へと足を向けた。

     教室の扉を開けると、そこには新品の制服が数十着ほどずらりと並んでいた。
     一斉に衣擦れの音が響く。クラスメイト達がほぼ同時に上半身だけをグルリと捻った。

     俺の眼球に映るのは、空っぽのブラウスの首元がいくつもこちらに向けられているという異様な光景のみ。誰とも目が合うことはない。
     それでも、無数の視線に貫かれているような居心地の悪い感覚は容赦なく襲ってくる。

     と、不意に鋭い声が室内に響いた。

    「あなた。このクラスの生徒ですか?」

     声をかけてきたのは、教壇の前に浮遊していた灰色のレディーススーツだった。

    「すいません。迷って遅れちまいました」

    「そうですか。以後、気を付けるように。空いているのがあなたの席です」

     誰も座っていないのは教室のちょうど真ん中の席だった。
     おいおい、勘弁してくれよ。これ以上注目なんて浴びたくないんだが?
     鬱々とした気分で席に着くと、女教師は名簿に指を滑らせた。

    「では、点呼を続けます。黒牧美鳥さん」

    「は、はいっ……」

     名前を呼ばれるまでは心を無にして過ごそうと決意した直後。
     慣れ親しんだ声が隣から聞こえて来て、俺は思わず右を向いた。

    「え。キララ、ちゃん?」

    「へっ? な、なんで……」

     セーラー服の上に浮かぶ黒縁眼鏡から聞こえてきた呟きに、再度耳を澄ませて確信する。
     さっきまでスマホから流れていた声と同じだ。

     マジで?
     綺羅星ラミカは俺を人っ子一人見えない孤独な世界から救い出してくれた推しライバーだ。
     そんな彼女が同級生とか、どんな奇跡だよ!
     つーか、素の声まで萌えボイスなのすごいな。直に聞くキララちゃんの声、かわいすぎなんだが。

     ……いや待て。早まるな。
     まだ本人と決まったわけじゃない。声がよく似た他人かもしれん。

     次になにを言うべきか迷いながら口を開けたその時、椅子がガリガリと音を立てた。

    「だ、駄目っ……」

     立ち上がった彼女の胸が弾み、俺の目の前で制服のリボンがフワリと揺れる。
     華奢ながら出るところはしっかり出ているな。って、どこ見てんだよ俺!

    「黒牧さん? どうかしましたか?」

    「あっ、ええっと……。そのぉ……」

     女教師の追及にどもりまくる黒牧さん。
     この子が本当にキララちゃんなら、ファンとして助けないなんて選択はありえない。

    「彼女。気分が悪いみたいなんで、俺が保健室に連れていきます」

     二人で教室を出て階段を降りきるまで、黒牧さんは無言を貫いていた。

     どう話を切り出すか迷っていると、不意に彼女が見えない手で俺の服をつかんだ。一枚の布を通して、微かに震えが伝わってくる。

    「あっ、あの……。どうして私のこと、キララちゃんって呼んだの?」

     その質問の答えは、一つしかない。

    「キララちゃんの『サテメイト』だからだよ」

     黒牧さんはパッと手を離して、その場でちょこまかと足踏みした。

    「わたしのあだ名と、ファンネームを知ってるなんて。じゃあ、やっぱり視聴者さんなんだ……! び、びっくりなんだけどっ……」

     ビックリしたのはこっちもだ。
     『無人の世界』で見つけた俺の女神と話せてるなんて、幸運すぎて逆に不安になる。いつ死んでもいいように、伝えたいことは言っておかねば。

    「俺、一年前からキララちゃんの配信ずっと見てて、大ファンなんだ」

    「えぇっ!?」

     若干の照れが混ざった声色で驚く彼女の心情を映すかのように、衣服の袖口がヒラヒラと舞う。
     声だけでなく制服の動きまでかわいいとか最強か?

    「そ、それなら……」

     スーハーと深呼吸して少し落ち着きを取り戻した黒牧さんは、ピシッと姿勢を正した。

    「あなたに、お願いしたいことがあるの」

     強張った声でそう呟くと、彼女は腰を直角に折り曲げて透明な頭を下げた。

    「わたしがVtuberだってことは、クラスのみんなには言わないで……。な、なんでもするからっ!」

     いつも綿飴のようなフワフワボイスを奏でている彼女の喉が、不安げな音色を響かせている。
     ……ちょっと待て。さっきまでの話の流れでなぜそうなる?

    「いやいや。誰かに言いふらしたりなんかしないって!」

    「ほ、本当に? こういう時って、脅して言うことを聞かせようとするのが普通なんじゃないの……?」

    「ん?」

     これ、突っ込んだ方がいいんだよな。

    「あのさ。漫画ならお約束かもしれないけど、脅しは普通じゃねーよ?」

    「そっ、そうなの!?」

    「それに、自分からなんでもするって言ったら、結局相手の言いなりになっちゃうだろ」

    「……! ほんとだっ!」

     黒牧さん、もしかして天然なのか?
     だがまあ。ホームルームをサボってた不良っぽい奴に弱みを握られたら、こういう反応になるのも仕方ない、のかもな。

    「なら、こうしよう」

     俺は少し屈んで、彼女の黒縁眼鏡をじっと見つめた。

    「学校の授業が始まったら、昼休みの暇つぶしに付き合って欲しい」

    「え?」

    「なんでもしてくれるんだろ?」

     形式だけの、口止め契約だ。

    「俺の話し相手になってくれたら、誰にも秘密を漏らさないって約束する」

    「お、お話するだけでいいの?」

     俺は推しとお近づきになれるし、彼女は秘密をバラされるリスクに怯えなくてすむ。
     まさに一石二鳥だ。

    「男、須々木徹。『サテメイト』の名に懸けて誓う! だから、安心してくれ」

     すると、ようやく心を開いてくれたのか、彼女は小さく笑い声を漏らした。
     春のそよ風みたいに優しく柔らかな声色だ。う~ん、かわいい。

    「ありがとう。や、約束。だよ……」

     こうして、俺の新生活に極上の癒しイベントが予約されたのだった。

    第2話 カミングアウト

    「す、須々木くん……。お昼、どこで食べる?」

     待ちに待った高校生活最初の昼休み。
     黒牧さんがお花の刺繡入りの巾着袋を持って、隣の席からおずおずと覗き込んできた。かわいい。

     けど、配信の彼女とは雰囲気がだいぶ違う。普段は内気な感じなんだな。二面性持ちとか、好感度が上限突破しちまうんだが?

    「中庭に行こう。入学式の時から目をつけてた場所があるんだ」

     平静を装いつつ、黒牧さんを先導して2つの校舎を繋ぐ渡り廊下から中庭に向かう。
     中庭には円形の休憩スペースの端にベンチが備え付けてあった。連れだって飯を食うにはもってこいの場所だ。

    「わぁ! 素敵な広場だね。あ。こっちのベンチ。花壇のお花が見えやすくていい感じ~」

     さっきまでの控えめな態度からは考えられない陽気な口調で黒牧さんが喋り出す。
     そう! キララちゃんといえば、この軽快な語り口が真骨頂。
     やっぱり本物だ。今さら実感が湧いてきたな。

     感激を噛みしめながら、黒牧さんが選んだベンチに2人で並んで腰かける。

    「うお。めっちゃカラフルな弁当だな」

     見ると、彼女が開けた弁当箱には色とりどりの野菜が丁寧に盛り付けられていた。

    「ふふ。これは自分で作って来たの。自信作なんだ~」

    「マジかよ! すごいな。旨そうだし、なんか身体にも良さそうだ」

     ピンク色のお箸が空中浮遊し、赤い野菜を器用に摘まんだ。

    「結構中身にはこだわってるの。このパプリカとか。お肌にもいいんだよ!」

     宙に浮かんだパプリカが耳障りの良い咀嚼音と共に、消えていく。

    「そういえば、配信でも美容にいい食べ物の話を良くしてたよな。外見にも気を遣ってるとは流石キララちゃんだ」

     すると、彼女の動きがピタリと止まった。

    「でもわたし、こんな顔だから。幻滅、させちゃったよね……」

     突然、黒牧さんの声に影が差した。
     諦めと自虐の念がないまぜになったような重苦しい声色だ。

    「幻滅? なに言ってるんだ? むしろますます好きになってるところだぞ」

     配信だけでは分からなかった彼女の新しい魅力を発見できて、俺としてはウハウハなんだが。

    「無理しなくていいんだよ。わたしも分かってるの。自分の顔が不細工なことくらい……」

     黒牧さんの眼鏡は手元の方に向いたままだ。

    「今までも、色んな人に言われてきたの。『声はかわいいのに』って……」

     彼女がさっきから頑なにこっちを見ようとしない理由が、ようやく分かった。
     確かに、黒牧さんの声はとてもかわいい。
     まるで声優がアニメキャラを演じているかのような美声。
     その声に容姿が釣り合っていないと、自分を卑下しているんだ。

     彼女の姿が見えないせいでそのことに気づけなかったとは、なんたる不覚。

     だが、だからこそ言えることもある。
     今まで他人に話したことはなかったが、キララちゃんのためなら!

    「俺。実は黒牧さんの顔、見えてないんだ」

    「? それってどういう……」

    「他人の姿が見えなくなる心因性の病気があるんだよ。俺はその奇病のせいで、人の顔を認識できないんだ」

     すると、黒牧さんの眼鏡が俺の目線の高さまで浮かび上がってこちらを向いた。

    「そ、そうだったんだ……」

     驚きと困惑の乗った声を発した彼女は、俺を気遣ってか続く言葉を飲み込んだ。

    「Vtuber配信はアバターがイラストだから見ることができてさ。そのおかげで、キララちゃんに出会えた」

     俺が彼女にどれだけ救われたことか、いくら言葉を尽くしても足りない。

    「好きになったのは、楽しそうに話すキララちゃんの人柄に惹かれたからなんだ」

     他人と関わることができなくなった俺には、いつも自然体で雑談配信をする彼女という存在がなによりも頼もしかった。

    「だから、黒牧さんがどんな姿でも、俺にとって憧れのアイドルであることは変わらない」

    「……!」

     黒牧さんはパッと顔を背けた。
     スカートが彼女の動きに合わせて、小刻みに揺れている。

    「ちょ、ちょっと褒めすぎだよ。須々木くん……。か、顔が熱くなっちゃった」

     制服の袖が黒牧さんの顔に添えられるように動く。

    「でも、そっかぁ。えへへ。嬉しいな……」

     鈴の音のような可憐な声色で紡がれた言葉が、春風に乗って俺の耳を直撃する。
     ああ。もういつくたばっても思い残すことはないわ。

    「入学式の時も助けてくれたし、今日も慰めてくれて……。わたしばっかりよくして貰っちゃってるね」

     と、黒牧さんは弁当を脇に置いて、俺の方に身を寄せてきた。

    「ねぇ。今度はわたしがお返ししたいな。『綺羅星ラミカ』として須々木くんのお願い。なんでも聞いてあげる」

     冗談交じりの悪戯っぽい囁き声により、俺の耳に再び衝撃が走る。

    「マジで!?」

    「あ。で、できる範囲でね……」

     恥ずかしそうにそう付け加えられ、無茶ぶりできないことに若干肩を落としつつも、俺は即座に代替案を導き出した。

    「だったら、そうだな。歌配信! 俺はキララちゃんの歌が聴きたい!」

    「う、歌配信!?」

     珍しく上ずったような声を出した黒牧さんは、両腕の袖を突き合わせてモゾモゾと動かした。

    「え、え~っとぉ……。わたし、歌は得意じゃなくってぇー」

     はぐらかそうとする彼女に、俺は心からの期待を込めて言葉を投げる。

    「なんでもって言ってくれたよなっ!」

    「うっ!」

     痛いところを突かれたといった感じで、黒牧さんは縋るように続けた。

    「自信ないから、配信前に練習したいかも……。良かったら、特訓。付き合ってくれないかな?」

     それって。
     キララちゃんと、二人きりになれるってことだよな?
     俺は歓喜に打ち震えながら、答えた。

    「むしろご褒美じゃないか! もちろん付き合うぜっ!」

    第3話 カラオケ特訓

     歌特訓の約束をした翌週の土曜。
     俺と黒牧さんは近場のカラオケにやってきていた。

    「カラオケボックスに来るなんていつ以来かなぁ」

     あてがわれた個室に入ると、マイクが浮き上がり黒牧さんの靴がリズミカルに音を立てた。その拍子に、丈の長いベージュのスカートがフワリと揺れる。

     そう。

     今日の黒牧さんは私服を着ているのだ。
     派手すぎない落ち着いた服装だが、身体のラインがくっきりしているからつい目を惹かれてしまう。
     あまりガン見し過ぎないようにせねば。

    「黒牧さん、カラオケは初めてってわけじゃないんだな」

     入口の扉を後ろ手で閉めながら、俺は隅っこの席に滑り込む。

    「うん! 家族と何度か来たことはあるんだ~」

     マイクが机に着地し、今度は選曲端末が持ち上げられた。
     黒牧さんは機嫌よく鼻歌を口ずさみながら、操作法を確かめるように画面をタッチしている。

    「じゃあ、とりあえずなにか歌ってみよう。どんな曲なら知ってるんだ?」

    「えっとぉ。これなら歌えるかな。あ。繰り返しになるけどわたし、歌はホントに得意じゃないから。期待しないでね……」

     口では弱気なことを言っているが、その割には楽しそうにしてなかったか?
     ひょっとすると、苦手意識があるだけで歌うのが嫌いってわけじゃないのかもしれない。

     まあ、ひとまずお手並み拝見といこう。
     曲が注文され、モニターに楽曲名が表示される。
     知らない曲名だが、なにやら和の雰囲気を感じる文字列だ。
     スピーカーからどこか懐かしくもある哀愁を帯びたメロディが流れ始めた。

    「ん? この曲ってまさか」

     黒牧さんがこぶしの効いた歌声を披露し始めた瞬間、俺は思わず声を上げていた。

    「ストップ! ストップ!」

    「はっ、はいっ! 止めますっ! や、やっぱりダメだったかな?」

     肩をびくつかせて、黒牧さんが速やかに演奏停止ボタンを押し、音楽が鳴りやんだ。
     ツッコミたいことは色々あるが、まずは一つ聞きたい。

    「なぜに演歌を?」

    「両親がよく歌ってたの。おかげで歌詞は丸暗記できてるから、いけるかなって」

     黒牧さんはマイクを身体の正面に構えたまま、気恥ずかしそうに答えた。
     なるほど、気持ちは分からんでもない。だが。

    「歌配信の準備なんだから、リスナーが聴きたがる選曲にしないと練習にならないと思うぞ?」

    「だ、駄目かなぁ? 一応、歌い慣れてるから演歌一本で行きたかったんだけど……」

    「演歌ばかり歌うつもりだったのかよっ!」

     まさかの全曲演歌配信を敢行しかけている彼女に向かって、俺はリスナーとしての本心を吐露する。

    「キララちゃんの歌配信でずっと演歌が流れてたら、サテメイトたちが混乱しちゃうだろ!」

    「そっ、そうなの!?」

    「そうだよっ!」

     歌が苦手とは言っていたけど、ここまでレパートリーが極端とは予想外だったぜ。

    「もっと最近の曲で頼むよ」

    「最近の曲かぁ。ならこれとか?」

     今度は見覚えのあるタイトルだ。なんかのアニメの主題歌になってたやつか。

     気が進まなそうな様子だったが、モニターに歌詞が表示されると黒牧さんの美声が室内に響き渡った。
     声はしっかり出ている。おまけになにやら簡単な振り付けのダンスまで踊ってくれた。
     キレのある動きに俺の目は釘付けになってしまう。

     一曲歌い終わり、一息ついた彼女は緊張した様子で尋ねてきた。

    「ど、どうだった?」

     俺は満面の笑顔を作って返答する。

    「うむ。確かにうまくはないな!」

     へたではないが、何度も聞きたいかと問われると頷きにくい絶妙なリズムの外しっぷりであった。

    「うぐっ! わ、分かってたけどやっぱりショックかもぉ」

    「でも、音痴じゃあないと思うぞ」

    「え? そうなの?」

    「たぶん、歌い方を理解していないだけなんだ」

     親の演歌を真似して歌っているせいで、変な癖がついてしまったのだろう。

    「コツさえ掴めば普通にうまくなれるんじゃないかな」

    「ほ、本当に?」

    「ああ! さっそく練習を始めよう」

     そこからは俺にとってかけがえのない時間になった。
     腹式呼吸の使い方や母音を意識する発声。黒牧さんは教えたことをどんどん吸収していった。気分はまさしくアイドルのプロデューサーだ。

    「どう? 今度はできてた?」

     歌い終えてすぐ、心配そうにおずおずとこちらへと近寄ってくる黒牧さん。
     俺はそんな彼女に、右手で力強くサムズアップして見せた。

    「いい感じだ。ちゃんと歌えるようになって来てるよ!」

    「えへへ……。あ、ありがとう。須々木くんが教えてくれたおかげ……」

     ホッと息を吐きながら感謝の言葉を告げようとする彼女だったが、俺はここであえてその言葉を遮った。

    「だが、まだ足りないっ!」

    「へ?」

     キョトンとしている黒牧さんに向けて、俺は本心を吐露する。

    「キララちゃんがアイドルVtuberとして何度もステージに立ち、視聴者のみんなを魅了するレベルにはまだまだ達していないっ!」

    「ええぇっ!? なにそれっ!」

     警戒するように後ろへと俊敏に飛び退いた彼女は、立て続けにツッコミを繰り出す。

    「歌配信って今回だけの話じゃなかったの? っていうかそもそも、わたしアイドルVtuberじゃないし! なるつもりもないしっ!」

     だが、俺には確信があった。アイドルという言葉に対する彼女の反応が偽りであるという確信が。
     なぜならば……。

    「嘘はよくないぞ、キララちゃん。去年の年末特別雑談配信。来年は活動の幅を広げたいと言っていたじゃあないか!」

    「えっ! 須々木くん、あの配信見てたの!?」

    「もちろんだ。なんなら、何度も観直している! 歌は苦手だけど踊りは好きだから、いつかみんなに披露したい。そう語るキララちゃんを観て、俺はいつも勇気を分けてもらっているんだ」

    「~~っ!」

     声にならない声を上げるキララちゃん。
     マイクが顔の位置に張り付き、彼女の靴がパタパタと音を立てる。
     俺はそんな彼女に向かって、確認するように問いかけた。

    「歌もちゃんと克服してステージに立てるようになりたいと考えてたんだろ? サテメイトに何度頼まれても頑なに歌配信をしないのも、中途半端な歌は聞かせたくないと思っているからなんじゃないか?」

    「な、なんで分かるの? 配信でもそこまではっきり言ったことないのにぃ……」

    「分かるさ! なんたって俺はキララちゃんの大ファンだからなっ!」

     宙に浮いたマイクがその場でクルクルと円を描くように動き回る。
     感情の動きがダイレクトに動きに出てしまっているな。
     恥ずかしがらせてしまって申し訳ないという気持ちと、そんな彼女の表情や姿を見れなくてもどかしい気持ちが入り混じる。

    「も、もうっ! しょうがないなぁ!」

     ひとしきり動き回ったからか、少し落ち着きを取り戻したらしい。
     彼女の私服がズイッと俺の前に近寄って来た。

    「須々木くんの言った通りだよ。わたし、アイドルに憧れてたの。幼いころは自分の顔のことなんて気にしてなくて、純粋な気持ちで夢を見れたから」

     キララちゃんの喉が、昔を懐かしむような穏やかな音色を奏でる。

    「個人Vtuberを始めた時も、有名になったらアイドル活動もできるんじゃないかって淡い期待を抱いてた」

     少し諦観の混じったような声音で、自嘲気味に彼女は続けた。

    「俺はキララちゃんならアイドルVtuberだって、夢じゃないと思ってるぞ」

    「ふふ。須々木くんはいつも情熱的だね」

     可笑しそうに笑った彼女の吐息がさらに俺の顔へと近づいてくる。

    「こんな話、家族以外にしたことないんだよ?」

     囁くように小さく。しかし、はっきりと。
     芯の通った声が俺の耳へと届けられる。

    「だから、さ。須々木くん。ここまで知ったからには、責任取ってわたしをアイドルにしてよ」

     キララちゃんからの予想外の言葉に、俺は一瞬黙りこくってしまう。
     アイドルにしてくれと言われても、俺にはそんな力もなければ、人脈もない。
     だが、そんなのはキララちゃんのお願いを拒否する理由になるはずがなかった。
     彼女のファンとして、俺にできることはなんだってしてやりたい。

    「ああ! もちろん!」

     彼女の願いをなんとしても叶える。
     俺はそんな覚悟を胸に秘めながら、答えた。

    第4話 黒牧美鳥の悩み

     翌週の月曜。
     昼休みのチャイムが鳴った直後。

    「須々木くん、今日はどこで食べる?」

     隣の席からピンクの髪留めが踊るように俺の視界に飛び込んでくる。
     先週の土曜は結局丸一日歌の練習に明け暮れ、彼女の歌唱力は大きく向上した。

     きっとキララちゃんもそれが嬉しかったのだろう。
     以前と比べて明らかに上機嫌だ。
     カラオケボックスとはいえ二人きりの空間で一日中一緒にいたからか、なんだか声色も前より親し気になった気がする。

     しかし、これは単なる友人。
     あるいは夢を共有した同志としての距離感の変化だ。

     彼女が俺に好意を向けているという訳では決してない。
     そんな勘違いをするのは、黒牧さんに対して失礼ってなもんだ。

    「あー。じゃあ、今日も中庭にしようか」

     彼女がこくりと頷き、目の前で胸元のスカーフがひらりと揺れる。

    「えへへ。今日は張り切って特別なおかずを作って来たの!」

     黒牧さんは弾むような調子でそう言うと、弁当箱の入った可愛らしい巾着袋を大事そうに取り出した。

    「歌い方を教えてくれたお礼に分けてあげるね」

    「マジか。え。マジか」

     突然キララちゃんの手料理を食べる機会が到来した事実に驚きすぎて、語彙力が消滅してしまう。

    「夢じゃないよな」

     俺が思わず自分の右頬を指で引っ張り痛覚の確認作業を行っていると、黒牧さんがおかしそうに笑った。

    「ふふっ。夢じゃないよ。信じられないなら見せてあげる。だから、はやく行こう?」

     彼女に促され、夢見心地のまま俺は席から立ち上がる。
     ヤバイ。嬉し過ぎて口元が緩んでしまう。
     学内ですれ違う人々に、このようなにやけ面を晒したくはない。
     俺は表情筋になけなしの力を込め、教室の出口に向かって歩き出そうとした。
     その時、肩に衝撃が走った。

    「痛っ! おい、どこ見てんだよ!」

     振り返るとそこには、一着の男子制服が浮かんでいた。

    「うわっ! 悪い、気づかなかったんだ」

     咄嗟に頭を下げる。

    「ったく。気をつけろよな」

     不機嫌そうにしているその男子の声はどっかで聞いたような気もするのだが、いかんせん顔が見えないせいでどんな名前だったか思い出せない。
     だが、向こうは俺のことを知っているようで、すぐに気を取り直して話しかけてきた。

    「にしても。お前、最近黒牧とよく一緒にいるな。まさか付き合ってるとか?」

    「なっ……」

     そんな返答に困るいじりは親友相手とかに限定しておいてほしいんだが。
     なんて心の中で愚痴っていると、黒牧さんが突然声を上げた。

    「ちっ、違うよぉっ!」

     カラオケ特訓でもついぞ聞かなかったくらいの声の張りっぷり。
     基本小声の彼女らしくない。

    「須々木くんとは、そんなんじゃないからぁっ!」

    「あっ。ちょっと待っ……!」

     俺が止める間もなく、キララちゃんは走って教室を出て行ってしまった。
     しかし、事実とはいえあんなに必死に否定されるとちょっと傷つくな……。

    「おいおい。冗談だったのに図星かよ?」

     下品に笑う男子生徒にちょっとばかり物申したい気分ではあるが、一刻もはやく黒牧さんを追いかけたい。

    「いや。誤解のないよう言っとくけど、別に恋人とかじゃないぞ」

     最低限それだけ言って駆け出そうとした俺の背中に、そいつはさらに言葉をかけてきた。

    「なんだ、そうなのか。しかし、もったいないよなぁ」

    「もったいない?」

     気になる言い方に、俺の足が止まる。

    「黒牧は声かわいいしさ。あと、身体つきも悪くないじゃん? 顔さえよければフツーに選択肢に入るよなって。須々木もそう思わねぇ?」

     この男子生徒。顔も名前も知らんが、声だけは覚えておこう。
     俺は振り返ってそいつの学ランの肩を掴み、襟の上の空間を睨みつける。

    「黒牧さんの前でその話、絶対するんじゃないぞ」

    「ひっ……」

     怯えた声を上げて身震いした肩から手を放し、急いで教室を出る。
     渡り廊下から中庭に向かうと、いつものベンチ付近に黒牧さんの黒縁眼鏡が浮かんでいるのが見えた。

    「良かった。ここにいてくれて」

    「須々木くん……」

     下を向いていた彼女の眼鏡が、こちらを捉えた。

    「ご、ごめんね。急に逃げ出しちゃって……」

    「いや。俺こそゴメン。あんな絡まれ方をしたのは、俺がアイツにぶつかったせいだ」

     彼女の隣に座りながら懺悔する。
     いつもはクラスメイトと衝突しないよう神経を使っているが、今日は浮かれて注意を怠ってしまった。
     その結果、黒牧さんを巻き込んでしまうなんてとんだ失態だ。

    「そ、そんなことないよっ! 全部わたしが悪いの。わたしがブサイクだから、須々木くんまで笑い物にされちゃった……」

     あの男子生徒が言っていた言葉が脳裏をよぎる。

    「昔からそう。わたしと話をした男子はああやってからかわれるの」

     眼鏡の近く。彼女の目元の空間から小さな水滴が溢れ出した。

    「あんなブスのどこがいいんだって。わたしと仲良くしようとしてくれた人まで否定される」

     黙って聞きながらも、思わず拳に力が入ってしまう。
     そんな心無い言葉をかけられてきたなんて、想像もしていなかった。

    「須々木くん。もう、昼休みに二人きりになるのはやめましょう。これ以上、あなたを巻き込みたくないの」

     俺は黒牧さんの素顔を知らない。
     それゆえに、彼女の悩みの深刻さが分かっていなかった。
     そして、今も本当の意味では理解できていないのだろう。
     それでも。いや、だからこそ。

    「俺たちが会うのを止める必要なんてない」

    「え?」

     彼女が理不尽な他人の言葉に振り回されるなんて事態を、許すことはできない。 

    「で、でも。わたしと付き合ってるとか、変な噂を流されちゃうかもしれないんだよ?」

    「言いたい奴には言わせておけばいい」

     むしろ下手に会うのを止めたりして変化を見せれば、ますます面白がって逆効果になるだろう。

    「大丈夫。俺が黒牧さんを一人にはしない。だから、あんな風に人を茶化して笑ってる奴の言うことなんて、一緒に無視してやろう」

    「あ……」

     ずっと強張って微かに震えていた黒牧さんの緊張が、少し解けたような気がした。

    「須々木くんは……、強いね」

     その声は心なしか、穏やかに感じられた。

    「それに優しくて、太陽みたいにあったかい」

    「お、俺はただ、キララちゃんと一緒に昼ご飯が食べたいだけだよ」

     なんだか急に照れくさくなって、視線をそらしてしまう。

    「ふふっ。そうなんだ。じゃあ、わたしのとっておきのおかずを披露してあげなきゃね」

     そう言って弁当箱を開け始めた黒牧さんが、ふとなにかに気づいたようにパッとこちらを向いた。

    「あっ。まずいよ須々木くん! もうすぐ昼休みが終わっちゃう!」

    「ヤバ。飯食うのすっかり忘れてた」

     俺がベンチに置いていた自分の弁当に手を伸ばそうとすると……。

    「急がなきゃ! 須々木くん、食べさせてあげる! あ~んして!」

     黒牧さんがおいしそうなアスパラの肉巻きを箸でつまんでこちらに差し出してきた。

    「ええっ! この状況で!?」

    「須々木くんに食べてもらうために頑張って作って来たんだもん。はい、どーぞ!」

     嬉しいやら恥ずかしいやらで頭の中がグチャグチャになりながら、俺は宙に浮かびながら迫ってくるおかずに齧り付いた。

    「むぐっ!」

    「おいしい?」

    「さ、さいこうです……」

    「えへへ。よかったっ」

     黒牧さんの嬉しそうな声が俺の鼓膜を震わせる。
     きっと彼女の顔には今、素敵な笑みが浮かんでいることであろう。
     くっ。
     彼女の笑顔をこの目で拝めないことだけがもどかしい。
     そんなことを思いながら瞬きをしたその時。

     一瞬、視界がぐにゃりと歪んだ気がした。
     いや。視界というよりは、黒牧さんの顔があるはずの場所。
     いつも透明に見えているその空間に、奇妙な揺らぎが生じたのだ。
     しかし、すぐに視界の異常は収まった。
     
    「なんだ? 今の……」

    「どうしたの? 須々木くん。はやく食べないと昼休み終わっちゃうよ!」

     黒牧さんの弁当の中身が次々と文字通り消えていくのを見て、ハッと我に返る。

    「おっと。そうだったな!」

     謎の違和感は、迫るタイムリミットによって頭の隅へと追いやられた。
     俺は爆速で弁当を平らげて、黒牧さんと一緒に教室へと急いだ。

    第5話 須々木徹の変調

     黒牧さんと過ごす昼休憩を死守して以降、クラスメイトとのいざこざが起きたりすることもなく、日々は平穏に過ぎていった。

     そしてやって来た土曜日。今日も黒牧さんと歌特訓の約束をしていた。
     しかし、今日は前回とは事情が少し違う。

     外出準備を完全に整え、ソワソワしながら自宅で待機していると、インターホンが鳴り響いた。
     玄関のドアを開けると、そこにあったのは白いワンピース。

    「こんにちは。須々木くん」

     聞き慣れたキララちゃんの声を認識し、俺の胸が高鳴り始める。

    「迎えに来てくれてありがとう。黒牧さん」

    「ふふ。今日は約束通り、わたしが須々木くんをエスコートしてあげるよ!」

     黒牧さんは胸を張って元気に宣言した。
     なぜ彼女がこんなにも張り切っているのかというと……。

    「いや。ホントに助かるよ。前回黒牧さんと合流するの、結構苦労したからな」

     そう。人の姿が見えないせいで、俺は待ち合わせが大の苦手なのだ。
     なにせ顔が分からないから、相手を探し出すのがめちゃくちゃ難しい。
     さらに、人込みで通行人を避けるのにも気を張り続ける必要がある。
     正直、超疲れるんだよな。

    「あはは……。わたしも背が低いから須々木くんを見つけるのに時間かかっちゃって、大変だったよね」

     反省するように、衣服の袖が黒牧さんの髪飾り付近で上下運動した。

    「でも! 今日は私が迎えに来たし。はぐれないように手を繋げば、人込みでも平気だよ! はい。手を出して!」

    「え?」

     俺が彼女の言葉の意味を咀嚼しきれず呆けていると、ワンピースの袖がフワリとこちらに差し出された。
     そして、俺の右手に温かくて柔らかい手のひらの感触が広がった。

    「ボーっとしてないで、早く行こう?」

     黒牧さんに手を引かれる。
     憧れのアイドルと手を繋ぐという幸せ過ぎるシチュエーションに、胸の拍動が一気に加速していく。
     その時。
     視界がチカチカと明滅し、俺の手を握る黒牧さんの左手が。肌の色が。
     一瞬見えたような気がした。
     手の甲で瞼を擦って、まばたきを何度か繰り返す。
     改めて目を開けると、そこにあるのは黒牧さんのワンピースだけだった。

    「須々木くん? どうかした?」

     この前の昼休みといい、最近目の調子がおかしい気がする。
     だが、黒牧さんに余計なことを言って心配させるのもよくないだろう。
     そんなことよりも先に伝えるべきことが一つある。
     このまま手を繋いで街に繰り出したら、俺の心臓が持たない。

    「い、いや。その。気持ちは嬉しいんだけど、さすがに手を繋ぐのはやり過ぎじゃないか?」

    「えっ? どうして? こうするのが一番安心だよね」

     キョトンとした様子で逆に聞き返されてしまった。
     黒牧さんって、たまにビックリするほど大胆だよな。
     異性と手を繋ぐことに抵抗とかないのだろうか。

    「だって、これじゃあ恋人同士みたいだろ。恥ずかしくないか?」

    「ここここ、恋人!?」

     突然狼狽え始める黒牧さん。
     彼女の手が急速に熱を帯びていくのが肌を通して感じられた。

    「そ、そっか。そうだよねぇ……。な、なにしてたんだろう、わたし!」

     パッと手を放され、距離を取られてしまう。
     どうやら、深く考えてなかっただけらしい。

     彼女の手の感触をもっとじっくり堪能しておきたかったとちょっと後悔したが、過ぎたるは及ばざるがごとしだ。
     こうして一緒に過ごせていること自体が奇跡なのだと己に言い聞かせる。
     と、不意に冷たい水滴が頬を打った。

    「ん。雨が降って来たな。黒牧さん、傘持って来てる?」

    「も、もちろん! 抜かりないよっ。今日は降水確率高めだったもんね」

     そう言って、黒牧さんはカバンから折り畳み傘を取り出した。

    「あっ。そうだ! わたしの傘に入ってっ。これなら手を繋がなくても須々木くんをリードしてあげられるし、雨も凌げて一石二鳥だよっ!」

    「え。でも、ここまだ俺の家だし。俺も傘を用意すればいいだけ……」

    「あっ……」

     そこまで言いかけたが、差し出された折り畳み傘を持つ手がプルプル震えているのを見て俺は言葉を引っ込めた。

    「いや! せ、せっかくだし、お言葉に甘えようかな……」

    「任せてっ!」

     手を繋ぐのはダメで相合傘はいいのか、というツッコミは心の中にしまっておくことにした。

     その後、雨が強くなる前にカラオケに無事到着し、黒牧さんの歌特訓が始まった。

     先週の時点ですでに基礎的な歌い方はマスターできていたからか、黒牧さんの歌はみるみる上達していった。

     2時間ほどの特訓の末辿り着いた歌唱に、俺は自然と拍手を送っていた。
     感動のあまり思わず涙ぐんでしまう。

    「完璧だ。もう、俺に教えられることはない。最高だよ、キララちゃん――」

    「やったぁ!」

     無邪気に飛び跳ねて喜ぶ黒牧さん。
     その姿に、ふと違和感を覚えた。

     完全に透明だった黒牧さんの顔が、うっすらと輪郭だけ見えたのだ。
     ステルス迷彩のように背景と同化してはいるが、空間が顔の形に歪んでいる。
     こんな見え方をしたのは初めてだった。

    「須々木くん? どうかしたの?」

     目を擦っていると心配して黒牧さんが駆け寄ってきた。
     光の屈折の加減で、彼女がそこにいることが分かる。

    「黒牧さんの顔が、見えそうなんだ」

    「えっ、それって……」

     彼女の声色があっという間に様変わりする。

    「い、嫌っ! 見ないでぇ!」

     黒牧さんは怯えたように飛び退き、両腕で顔を隠してしまう。

    「ちょっ、もう少し顔を見せてくれよ。って、あれ?」

     瞬きを繰り返していると、彼女の肌に該当する部分はいつも通り見えなくなっていた。

    「駄目だ。元に戻っちまった。なんだったんだ? 今のは」

    「もしかして、病気が治りかけてるってことなの?」

     黒牧さんは恐る恐るといった感じで、腕を下ろす。

    「分からん。まあ、まずは医者に相談してみた方がいいかもな」

    「そ、そっか……」

     彼女の服に、手で握りしめたかのような皺が寄った。

    「須々木くん。目の調子が良くないみたいだし、今日は大事を取ってそろそろ帰らない?」

     もっと遊びたい気持ちはあったが、彼女の気遣いを無下にするわけにはいかない。
     こうして、黒牧さんとの2回目のカラオケデートはあっさりと幕を下ろした。
     そしてこの時、俺は彼女の本心に全く気づくことができていなかったのだった。

    第6話 見えても見えなくても

     週が明けて、俺は主治医にカラオケでの一件を話した。

    「いい兆候ですね」

     先生は人のよさそうな笑みを浮かべて続けた。

    「お友達の姿が見えかけたのは、感情の高ぶりが一時的に症状を緩和したからでしょう」

     確かにあの時はキララちゃんの成長を間近で見て感激してはいたが。

    「気持ちで症状がよくなることなんてあるんですか?」

    「この病気は思春期の不安定な精神状態と密接に関わっています。なにかを好ましく思う人間らしい感情を育てることが大切なんですよ」

     キララちゃんのファンになって以来、彼女を愛でる気持ちに救われていた部分は間違いなくあった。
     それが病気そのものの特効薬になりうるとはなんという僥倖か。

     黒牧さんは文字通り俺にとって救いの女神だったというわけだ。
     ところが、そんな彼女との関係にちょっとした問題が起きていた。

    「黒牧さん、今日のお昼は時間ある?」

    「ごめんなさい。他のお友達と約束してて……」

     か細い声で申し訳なさそうに呟くと、黒牧さんは教室を出て行ってしまう。
     ここしばらく、毎日この調子だ。なぜかは分からんが、明らかに避けられている。

     今までは他人が俺にどんな感情を抱いているかなんて気にしないようにしてきたが、今回は事情が違う。
     キララちゃんに嫌われたら、立ち直れる自信がない。

     態度が変わった理由を追求したらもっと嫌がられるかもしれんが、このまま疎遠になってしまうよりはマシだ。

     翌日。昼休み開始のチャイムが鳴ったと同時に、俺は動いた。

    「黒牧さん、少し話がしたいんだけど」

    「えっと。今日もちょっと……」

     こちらを向くこともなく断ろうとする彼女の言葉を、あえて遮る。

    「俺、なにか気に障ることしたかな? もしそうなら謝るよ」

    「ち、違っ!」

     慌てて否定しようとして、分厚い眼鏡のレンズが俺を捉えた。

    「っ……!」

     しかし、黒牧さんはすぐに顔を背ける。
     そのまま、素早く弁当箱を持って彼女は駆け出した。

    「黒牧さん!」

     俺の声を振り切って走る彼女の姿が、同級生たちの制服に一瞬で紛れてしまう。
     浮遊する衣服の群れは動きが予測できず、走って追いかけることもできない。

     俺が廊下に出た頃には、目印になりそうな弁当箱も黒縁眼鏡もどこにも見当たらなかった。

     だが、人目を避けて食事を取れる場所は限られている。
     俺は落ち着いて一つずつ黒牧さんが行きそうな昼食スポットを探して回った。
     体育館の裏手と保健室は空振りに終わり、立ち入り禁止になっている屋上へと繋がる階段を息を切らせながら登る。

     最上階の踊り場に辿り着くと、そこには体育座りしている女子制服があった。床には黒牧さんの可愛らしい巾着袋が置かれている。

    「ふう。やっと見つけた」

    「須々木くん……」

    「どうして逃げるんだ? もしかして、歌特訓で厳しくしすぎちゃってたとかか? 俺になにか至らないところがあったんなら直すよ。だから……」

     観念したかのように、黒牧さんは立ち上がった。

    「ううん。違うの……」

     彼女は悲しそうな声色を響かせながら、一歩前に出た。

    「須々木くんは悪くない。悪いのはわたしなの」

    「え?」

     話が見えない。善性の塊みたいな彼女が、悪いことなんてするはずないからな。

    「この前のカラオケでね。須々木くんの病気が治るかもしれないと思った時。わたし、怖くなったの」

     黒牧さんの見えない両手が添えられたスカートに、クシャッと皺が寄る。

    「須々木くんにわたしの顔を見られたら、嫌われるんじゃないかって」

    「なっ! そんなことあるわけないじゃないか!」

     ついつい声を荒げてしまった。
     俺の彼女への愛は、生半可なことで揺らいだりはしない。

    「でも、わたしどうしても不安で……。須々木くんの病気が治らなければ、なんて。ひどいことを考えちゃったの」

     黒牧さんは自嘲するように呟く。

    「最低だよね。須々木くんはわたしの夢を応援してくれているのに、わたしは保身のためにあなたの不幸を願ったんだよ」

     俺の顔を見ていられなくなったのか、彼女の眼鏡が足元へと向けられる。

    「こんなわたしに、須々木くんと仲良くする資格なんてないの」

     眼鏡のレンズに水滴が滴り落ちた。
     不甲斐ない。ファンを名乗っておきながら、彼女の気持ちに気づかず泣かせてしまうなんて。

    「いや。悪いのは俺だ。俺の愛が足りなかったから、黒牧さんを不安にさせてしまった」

     俺は感情のままに、彼女の吐息を感じるくらいの至近距離まで一気に進み出た。

    「断言する。黒牧さんはかわいい!」

    「へ?」

    「声がかわいい。性格もかわいい。そして、苦手な歌を俺たちリスナーのために練習してくれる。そのハートがかわいい!」

     制服の袖がパタパタと小鳥のように羽ばたく。
     戸惑う黒牧さんの仕草もかわいい!

    「そんな俺のアイドルを嫌いになるわけがない!」

     俺の中の愛が爆発し、全身が熱くなるのを感じる。
     その瞬間。黒牧さんの姿がはっきりと俺の目に映った。

    「そ、そんなにかわいいって言われたら、わたし……」

     眩暈を起こしたかのようにふらついた彼女の手を、とっさに掴む。
     倒れそうになった黒牧さんの身体を支えた拍子に、俺と彼女の顔がさらに接近する。

    「やっぱり、俺の気持ちは変わらない」

    「え?」

    「美容に気を遣ってるだけあって、肌がもっちりしてる。パルメザンチーズ、効果出てると思うぞ」

    「わたしの顔、見えてるの?」

     驚きと不安が混在する彼女の表情も、なにもかもが見える。

    「ああ。左目の下の泣きボクロ、俺は好きだ。また、新しい推しポイントを見つけちまったな」

    「そ、そんな風に褒められたの、初めてだよぉ……」

     黒牧さんの顔が真っ赤になっていく。
     恥じらう彼女の表情も、超絶かわいかった。

    「これからはもっと黒牧さんのいい所、教えてあげられるぜ。だからさ――」

     言いかけてハッとする。
     彼女の姿が、また半透明になり始めている。

    「待って。今度はわたしから伝えさせて」

     黒牧さんの真剣な眼差しが徐々に見えなくなっていく。
     でも、不思議と心は満ち足りていた。

    「わたし、須々木くんとまた一緒に遊びに行きたい」

    「ああ。行こうぜ。カラオケ。キララちゃんをアイドルにするって約束もあるし、これからもよろしくな」

     彼女の姿が見えても見えなくても、そんなことは関係ない。

    「ふふっ。本物のアイドルになる前に、徹くんのためだけの特別ライブ、見せてあげるね!」

     最後に見えた黒牧さんの笑顔は、天使のように輝いていた。
     これからもずっと、キララちゃんを推していこう。一生だ。
     俺は改めてそう心に誓ったのだった。

    あなたへのおすすめ