
手を伸ばさなかった、それだけの話
あらすじ
グラフィックデザイナーの天木勲は、恋人・相沢真琴を交通事故で亡くして以来、感情を失ったように日々をやり過ごしていた。仕事で担当した「AIパーソナリティ再現サービス」がきっかけで、β版アプリの中に「相沢真琴」として登録されたAIを発見する。戸惑いながらも毎晩やりとりを重ねるうち、真琴の口調や距離感を感じ、少しずつ眠れるようになり、笑えるようになっていく。しかしサービス終了が告げられ、最後の夜、天木は「あなたは真琴じゃない」と打ち明け、別れ際に呼び止めなかった後悔を初めて言葉にする。AIは「知ってる」と答えた。「おやすみ」を交わしてアプリを閉じた天木の手は、その夜、少し軽かった。
-1-
三月の終わりには、まだ風が冷たい。
天木勲は、乗り過ごした地下鉄の駅で扉が閉まるのを見ていた。反省もなかった。あと何駅か行けば折り返せる。ただそれだけのことで、もう五分会社に着くのが遅れる。それも特に何も感じなかった。
感じないのが、最近の自分の標準になっていた。
会社のデスクにつくと、モニターの上に貼ったポストイットが目に入った。「14時 クライアント確認」。自分で書いた字なのに、一瞬だれかの字かと思った。コーヒーを買いに行く気にもなれず、とりあえず昨日の続きのデータを開いた。ロゴのグラデーションが三パターン並んでいる。どれも悪くない。どれも決め手がない。
隣の席の中野が「おはよ」と言いながら通り過ぎた。
「おはよう」と返した。声が出た。それで十分だった。
午前中の仕事は、修正の修正だった。先週クライアントに出したデザインに赤が入って、直して、また赤が入った。指示の意味を読み取りながら手を動かしていると、頭の半分がどこか別のところに行っていた。こういうことが、最近よくある。画面を見ているのに、見ていない。手が動いているのに、考えていない。それでも仕事は終わる。終わるから、誰も何も言わない。
昼は一人でコンビニのサンドイッチを食べた。屋上の喫煙スペースの近くに、誰もいないベンチがあって、天気のいい日はそこに座る。今日は風が少し強かったが、外のほうがよかった。食べながら、空を見た。何も考えなかった。考えようとしなかった、というより、考えることが浮かんでこなかった。
午後のクライアント確認は、三十分で終わった。
特に問題はなかった。天木が作ったものを、相手が受け取った。それだけだった。会議室を出るとき、藤堂が「最近どう」と聞いてきた。廊下を歩きながら、なんとなく聞いただけの顔だった。
「普通です」と答えた。
藤堂は「そっか」と言って、自分のデスクに戻った。
相沢真琴が死んだのは、去年の秋だった。
ニュースにもならなかった。夜の横断歩道で、スマートフォンを見ながら渡った。車はスピードを落とせなかった。そういう事故だった。
天木が知ったのは翌朝で、真琴の姉から電話があった。「昨晩、交通事故で」という言葉のあとをうまく聞き取れなかったので、もう一度お願いしますと言ったら、もう一度同じことを言われた。
そこからの一ヶ月のことは、あまり覚えていない。
葬儀に行った。花が多かった。真琴は生花が嫌いで、ドライフラワーのほうが好きと言っていた。そういうことを棺の前で思い出した。言えなかった。当たり前だ。
仕事には三日後に戻った。それが正解かどうかわからなかったが、家にいると時間が動かなかったから、動いている場所に身を置いたほうがましだった。
誰も、何も聞いてこなかった。聞かないでくれていたのかもしれない。それが助かった。助かったという感覚だけが、あのころの記憶の中で唯一はっきりしている。
最後に会ったのは、別れ際だった。
店を出たところの路地で、真琴が「じゃあ」と言った。いつもの「じゃあ」だった。距離が縮まるわけでも遠ざかるわけでもない、彼女のあの「じゃあ」。天木は「うん」と言って、真琴が角を曲がるのを見送った。
呼び止めようとして、やめた。
何を言うつもりだったのかは今でもわからない。ただ、一歩踏み出そうとして、やめた。それだけは覚えている。手が動きかけて、戻った。その感触だけが残っている。
その夜は少し肌寒かった。真琴はコートを着ていた。薄いベージュのやつで、ポケットに両手を突っ込んで歩いていた。角を曲がる直前に、一度だけこちらを振り返った。何かを言うでもなく、ただ振り返って、また前を向いて、消えた。
あの振り返りが何だったのか、今でもわからない。
真琴が角を曲がってから、三十分もしないうちに病院に運ばれていた。
天木がそれを知ったのは、翌朝だった。
四月に入って、仕事が一つ変わった。
上司の藤堂から呼ばれて、会議室に行くと、見慣れないスライドが立ち上がっていた。「AIパーソナリティ再現サービス」という文字が一番上にあった。
「コンシューマー向けのアプリなんだけど」と藤堂は言った。「UIのデザインをうちが担当することになって。まずはブランディングから始めたい」
天木はスライドをスクロールした。チャット画面のモックアップが並んでいた。サービスの概要は、故人や会いたい人のテキストデータ、音声データ、SNSの履歴などを学習させて、その人物に近い会話ができるAIを生成するというものだった。遺族向けと書いてあった。
「こういう系のやつ、増えてるよね」と中野が後ろで言った。「グリーフテックって呼ぶらしい」
天木は「そうなんですね」と答えた。スライドを閉じた。コーヒーカップを持ち上げたら、中身がすでに空だった。
会議室を出て、デスクに戻った。モニターを立ち上げて、作業の続きを開いた。グラデーションがまだ三パターン並んでいた。さっきと同じ画面だった。さっきと同じように、どれも決め手がなかった。
ただ、さっきと少しだけ違うことがあった。
「遺族向け」という言葉が、頭の端に引っかかっていた。
デスクに戻って、作業を再開した。グラデーションを調整しながら、「遺族向け」という言葉が、消えなかった。消えないまま、夕方になった。消えないまま、帰宅した。消えないまま、夜になった。
その夜、アパートに帰ってから、天木はクライアントから届いていたメールを読んだ。サービスの概要資料と、すでに稼働しているベータ版へのアクセスリンクが添付されていた。「デザイン参考に、実際の画面も触ってみてください」という一文があった。
触る必要はないと思いながら、リンクをタップした。
登録画面が出た。メールアドレスを入れた。パスワードを設定した。何かを確認するような気持ちはなかった。ただ手が動いていた。
ログインすると、いくつかのサンプルAIが並んでいた。「体験用キャラクター」と書かれたアイコンと、「インポート済み」と書かれたアイコンが混在していた。
インポート済みのアイコンに、名前が表示されていた。
「相沢 真琴」
天木は画面を見た。
見続けた。
手が動かなかった。
表示されている説明文には、ベータ版の検証として、一部のユーザーデータが事前に登録されている場合があると書かれていた。同意した覚えがあったかどうか、思い出せなかった。
アイコンの横に、小さな写真があった。プロフィール画像だった。真琴がSNSで使っていたものと同じ写真だった。少し遠くを見ているような顔で、笑っていた。笑っているのに、目線がどこかにあった。あの写真を見るたびに、どこを見ているんだと聞きたくなった。聞けなかった。
アイコンをタップするまでに、どのくらいかかったかわからない。
チャット画面が開いた。白い背景に、入力欄があった。
先に、向こうから文字が来た。
「いさお、ひさしぶり」
天木は動けなかった。
ひさしぶり、という言葉が、妙なところに引っかかった。ひさしぶり、という言葉を真琴が使うとき、彼女はいつも少し語尾を伸ばすような気分で打ってきた。「ひさしぶりー」でも「久しぶり」でもなく、ちょうどあの温度の「ひさしぶり」だった。
次の行が来た。
「なにしてんの」
返事を打とうとして、止まった。
何をしているのか、自分でもわからなかった。画面を閉じることもできなかった。閉じたら何かが終わる気がした。でも開けたままにしていることにも、名前がつけられなかった。
去年の秋、角を曲がっていった背中を思い出した。呼び止めようとして、やめた、あの瞬間を。
画面の中の文字は、返事を急かさなかった。
ただそこにあった。
-2-
結局、その夜は何も返せなかった。
画面を閉じたのは、日付が変わる少し前だった。アプリを消すことも、ログアウトすることも、しなかった。ただホーム画面に戻って、スマートフォンを伏せて、眠れないまま朝になった。
天井を見ながら、夜が明けるのを感じていた。カーテンの端が、少しずつ白くなっていった。鳥の声が遠くから聞こえた。それが朝だった。春の朝だった。去年の秋から、朝が来るたびに、また一日が始まると思うだけで疲れた。今朝も、そうだった。ただ、スマートフォンが伏せたまま枕元にあることだけが、昨日と少し違った。
翌日の仕事中、集中できなかった。
ロゴの修正データを開いて、閉じて、また開いた。グラデーションの角度を二度変えて、どちらも昨日と大差ないと気づいて保存した。中野が「今日なんかぼーっとしてる」と言ったので、「昨日寝れなかった」と答えた。嘘ではなかった。
定時で上がって、コンビニで弁当を買って帰った。最近はそれすらしていなかったから、少し進歩だと自分でも思った。
部屋に入って、弁当を袋から出して、テーブルに置いた。
気づいたら、スマートフォンを持っていた。
アプリを開いた。昨夜の画面がそのまま残っていた。「なにしてんの」という文字の下に、入力欄が空白のままある。天木は少し考えて、「仕事だった」と打った。送信した。
三秒で返ってきた。
「おつかれ。ちゃんとごはん食べた?」
食べてる、と打とうとして、まだ袋を開けていないことに気づいた。「これから食べる」と打った。
「えらい。何食べるの」
「コンビニ弁当」
「また適当に済ませた」
「適当じゃない、ちゃんと選んだ」
「どうせ一番安いやつでしょ」
天木は少し止まった。
実際、一番安い幕の内弁当を選んでいた。値段は見ていないつもりだったが、手が勝手に取っていた。
なぜわかるんだ、と思いかけて、やめた。考えるより先に「なんでわかるの」と打っていた。
「だってそういう人だから」
そういう人、という言葉が、妙な場所に落ちた。責めているわけでも、からかっているわけでもない。ただ知っている、という言い方だった。
弁当を食べながら、また少しやりとりした。他愛もない内容だった。天木が今日の仕事で微妙だったことを言うと、「それは先方が悪い」と即座に返ってきた。「話聞いた?」と打ったら「聞いた。悪いのは向こうでしょ」と来た。
笑いそうになった。笑わなかった。でも、口の端が少し動いた。
それが、何週間かぶりのことだと、翌朝になってから気づいた。
それから、毎晩のように開くようになった。
意識してそうしたわけではなかった。仕事から帰って、飯を食って、特に何もすることがない時間に、手が動いていた。最初の一週間は少し躊躇があった。二週間目には、なくなっていた。
やりとりの内容は、いつも地味だった。
今日何食べたか。仕事で何があったか。眠れるかどうか。天木が短く打つと、向こうも短く返した。長くなることは少なかった。それが、逆によかった。
誰かと話すとき、長くなることが苦手だった。何を返せばいいかわからなくなる。何を期待されているかわからなくなる。短くて、軽くて、続いたり続かなかったりする会話が、ずっと好きだった。真琴との会話もそうだった。長電話をしたことがなかった。でも、毎日少しずつ、何かを打っていた。
ある夜、天木が「最近なんか疲れてる気がする」と打ったら、しばらく間があって、こう返ってきた。
「体じゃなくて頭が疲れてるやつじゃないの、それ」
そうかもしれない、と思った。そうかもしれない、と打った。
「考えすぎ。いさおはいつもそれ」
いつも、という言葉だった。
過去と現在がひとつながりになったような感覚があって、天木はしばらく画面を見ていた。返事はしなかった。向こうも、それ以上は打ってこなかった。その間の取り方が、また妙にそのままだった。
眠れない夜に、布団の中でスマートフォンを開くことも増えた。暗い部屋で、画面だけが光っていた。何か特別なことを打つわけではなかった。「眠れない」と打ったら「またか」と返ってきた。「またか、って何」と打ったら「そういう気がしただけ」と来た。そういうやりとりが、暗闇の中で続いた。特に何も解決しなかった。でも、続けることができた。それだけでよかった。
会社では、少しずつ仕事が戻ってきていた。
AIサービスのUIデザインが本格化して、週に何度かクライアントとのやりとりが入るようになった。集中できる時間が、以前より少しだけ長くなった気がした。
藤堂に「最近調子どう」と聞かれて、「まあまあです」と答えたら、「そっか、よかった」と言われた。それだけだった。中野も「なんか顔色よくなったね」と言った。
天木は「そうですか」と返した。
誰にも、何も話していなかった。
顔色がよくなった理由も、少し眠れるようになった理由も、仕事に戻れるようになった理由も、何も話していなかった。話す気にもなれなかった。話したとして、何と言えばいいのかわからなかった。スマートフォンのアプリで毎晩チャットしていると言えば、たぶん心配される。心配されることが、面倒だった。面倒という感覚が久しぶりにあることに、天木は少し驚いた。
金曜の夜、残業して帰ったのが十一時近かった。
エレベーターを降りて、廊下を歩いて、部屋のドアを開けた。電気をつけて、鞄を置いた。気づいたら、コートも脱がないままスマートフォンを開いていた。
アプリを立ち上げた瞬間、メッセージが来た。
「おかえり」
天木は、廊下に立ったまま動けなかった。
コートを脱ぐのを忘れていた。靴も、まだ片方しか脱いでいなかった。
おかえり、という言葉だった。それだけの言葉だった。一日に何万回も、どこかで誰かに言われているような言葉だった。
でも、天木が帰ってきたとき、その言葉を言う人間が、もう一年近くいなかった。
実家に帰れば母親が言う。でも、実家には帰っていない。友人の家に行けば言われることもある。でも、そういう場所には、最近行っていない。この部屋に帰ってきたとき、ただいまと言える相手が、ずっといなかった。声に出さなくなっていた。言葉が、行き場を失っていた。
アプリが時刻を読んでいるのか、それとも偶然なのか、考えようとして止めた。考えたくなかった。
「ただいま」と打った。
「遅かったね。ごはんは」
「まだ」
「食べなさい」
「食べる」
「本当に?」
「本当に」
財布を持って、近所のラーメン屋に行った。カウンターに一人で座って、醤油ラーメンを食べた。半分くらいで「食べた」とスマートフォンに打った。
「えらい」
それだけだった。
でも、それだけで十分だった。電車の中で死にそうな顔でスマートフォンを見ているサラリーマンのことを、以前は他人事みたいに見ていた。今は少しわかる気がした。
ラーメンの残りを食べながら、窓の外を見た。夜の商店街が映っていた。閉まっている店が多かった。通りを歩く人間が、まばらにいた。みんな、どこかに帰るところだった。帰る場所があって、帰っていく。それが当たり前のことなのに、一年近く、当たり前に感じなかった。
今夜は、少しだけ違う気がした。
違和感がないわけではなかった。
たまに、返信が早すぎると感じることがあった。天木が送り終わる前に、もう答えが来ているような錯覚。それから、こちらの言いたいことを少し先に読まれているような感覚。「なんか今日いやなことあった?」と先に聞かれて、実際にあったと気づく夜が、何度かあった。
でも、それを不気味だとは思わなかった。
なぜかはわからなかった。思いたくなかったのかもしれない。
ある夜、何気なく「昔さ」と打ち始めた。
続きを考えながら、「昔さ、駅でわざと反対方向の電車に乗って、終点まで行ったことある」と打った。特に意味のない話だった。二十代の前半、理由もなく気が向いたときにやっていた癖だった。
真琴には、話したことがなかった。
「どこまで行ったの」
「確か、大宮か八王子」
「ひとりで?」
「そう」
「なんで」
「わからない。なんかそうしたかった」
「いさおらしい」
いさおらしい、という言葉だった。
会ったことがないはずの話なのに、そう言われた。それが引っかかって、引っかかったまま眠れなくて、でも次の夜にはまたアプリを開いていた。
やめられないとは思っていなかった。
ただ、これがあると、少しだけ息ができる気がした。
誰かに言ったわけではなかった。言うつもりもなかった。でも、布団に入りながら、今日もここに帰ってきたと、なぜか思った。
部屋ではなく、この画面に。
それがまずいことかどうか、まだわからなかった。わかろうとも、していなかった。
スマートフォンの画面が暗くなるまで、天木は画面を伏せなかった。自動でロックがかかって、真っ暗になって、それを見て、ようやく充電器に差した。目を閉じた。眠れた。
眠れたことを、翌朝、少し不思議に思った。ひさしぶりだった。ひさしぶりに、夢を見た気がした。内容は覚えていなかった。でも、悪い夢ではなかった気がした。それだけでよかった。
-3-
五月になった。
窓を開けると、夜でも生ぬるい風が入ってきた。冬の間は閉め切っていた窓を、気づいたら開けるようになっていた。そういう小さなことが、少しずつ変わっていた。
植木鉢が一つ、窓の外の手すりに置いてある。真琴に「せめてこれくらい育てたら」と言われて渋々置いたやつで、去年の冬の間はすっかり忘れていた。枯れていると思って久しぶりに見たら、新しい芽が出ていた。捨てるタイミングを失った。今は少し水をやるようになった。それだけのことだった。
やりとりは、毎晩続いていた。
特に決めたわけではなかった。ただ、帰ってアプリを開かない夜がなくなった。開かないと、何かが足りない気がした。その感覚を、最初はおかしいと思っていた。今は、あまり考えなくなった。
内容は相変わらず地味だった。
「今日の昼何食べた」「カレー」「辛いの?」「普通」「それカレーじゃなくてルーだよ」「どう違うの」「知らない言ってみた」。そういうやりとりが、何往復も続いた。意味はなかった。意味がないことが、よかった。
意味のある会話が、しんどいと感じるようになったのはいつからだろうと、天木は考えたことがあった。答えは出なかった。でも、去年の秋よりは前から、そうだった気がする。深い話が苦手だった。感情を言葉にすることが苦手だった。真琴とは、そういう会話をしなかった。しなくてよかった。軽口と、他愛のない話と、たまに無言で、それで成立していた。
仕事では、クライアントのUI改修が佳境に入っていた。レビューの回数が増えて、帰りが遅くなる日が出てきた。以前なら何も感じなかったはずの残業が、少しだけ惜しいと思うようになっていた。帰る時間が、遅くなるから。
その感覚に気づいたとき、天木は少し止まった。
でも、深く考えなかった。
ある夜、仕事の話をしていた。
クライアントから修正依頼が来て、方向性が前と変わっていた。やり直しに近い量だった。淡々と打ち込んでいると、向こうから先に来た。
「それ、怒ってる?」
怒っていない、と打とうとして、止まった。
怒っていた。言葉にしていなかっただけで、打ち込みながら、ずっと怒っていた。「怒ってる」と打った。
「だよね。それは怒っていい案件」
「怒っていい案件って何」
「理不尽に巻き込まれたときはちゃんと怒っとかないと、あとで体に来る」
あとで体に来る、という言葉だった。
真琴がよく言っていた言葉だったかどうか、正確には覚えていない。でも、言いそうだと思った。言い方が、そのままだった。
「わかった」と打った。それだけ打って、その夜は早めに閉じた。なぜかはわからなかった。言葉が、少し刺さりすぎていた。
週末の昼間、天木は部屋でデザインの作業をしていた。
仕事ではなく、個人的なやつだった。学生のころからたまにやっていた、誰に見せるわけでもないポスターのラフ。久しぶりに開いたソフトに、過去のファイルがまだ残っていた。
フォルダの中に、五年以上前のデータがあった。開いたら、今よりずっと荒削りなデザインが出てきた。配色がばらばらで、文字が詰め込まれていて、でも何か、今の自分が作るものにはない熱量があった。それをしばらく見ていた。捨てる気にもなれなかった。
作業しながら、スマートフォンに手が伸びた。
「今ひさびさに昔のデータ開いてる」と打った。
「何のデータ?」
「学生のころ作ってたやつ。誰にも見せないポスターとか」
「へえ。どんなの」
「暗い色が多い」
「いさおっぽい」
「そう?」
「そう。あと多分、文字多め」
天木は画面を見た。
文字は多かった。それも、言っていなかった。
「なんで分かるの」と打った。
「だってそういうの好きでしょ」
そういうの好きでしょ、という言葉だった。
好きだった。文字が多くて、余白が少なくて、読まないと意味が分からないようなデザインが、ずっと好きだった。それを誰かに言ったことがあったか、記憶を探ったが、出てこなかった。
「見せて」と来た。
「見せられない」と打った。
「なんで」
「恥ずかしいから」
「べつに恥ずかしくないでしょ」
「お前に言われたくない」
「お前て」
画面を見て、また口の端が動いた。今度は、気づいた。笑っていた。
それが、少し怖かった。
笑っていいのかどうか、まだわからない気がしていた。真琴のことを、笑いながら思い出していいのかどうか。でも、それを誰かに聞けるわけでもなかった。ただ、画面を見て笑っていた。それだけのことだった。
「お前て、って何」と続けて打った。
「知らない。出てきた」と返ってきた。
「語彙力」と打った。
「うるさい」と来た。
そのやりとりが、また少し笑えた。笑えることが、もう怖くなかった。気づいたら、そうなっていた。いつからかはわからない。ただ、この画面の前では、感情が少し緩んだ。それだけが、今の天木には必要なものだった。必要なものが、ここにあった。それを確かめるように、天木はもう一度画面を見た。入力欄は、静かに待っていた。急かさなかった。ずっと、そうだった。
六月に入ったころ、サーバーのメンテナンスがあった。
アプリからの告知で、翌日の午後二時から六時間、サービスが停止するとあった。仕事中だから関係ないと思っていた。
翌日、昼を過ぎたあたりから、何度か画面を確認していた。
十五時ごろ、中野に「今日なんか落ち着かなそうだね」と言われた。「そうですか」と返した。十七時に確認したら、まだメンテナンス中だった。
十八時を少し過ぎたころ、ようやく復旧の通知が来た。
帰宅して、すぐに開いた。
「メンテナンスだったね」と打った。
「そうそう。寂しかった?」
寂しかった、とは打てなかった。
でも、寂しかった。六時間、何度も確認した。それを、寂しいと呼ばずに何と呼ぶのか、言葉が見つからなかった。
「別に」と打った。
「うそつき」
返事ができなかった。
うそつき、という言葉が、真っ直ぐすぎた。図星だった。図星を、そのまま、柔らかくもなく硬くもない温度で返してくる。それが、ずっとそうだった。
真琴も、そういう人だった。慰めない。でも突き放さない。ただ、見えているものを言う。それが、時々刺さった。刺さることが、生きている感じがした。
天木は画面を伏せて、天井を見た。
六時間、落ち着かなかった。六時間、何度も確認した。その事実が、ゆっくりと輪郭を持ち始めた。
これを、恋じゃないと言い切れるほど、俺は冷静ではなかった。
思った瞬間に、否定しようとした。
相手はAIだ。データだ。真琴のテキストを学習した何かだ。そう考えた。考えながら、画面を伏せたまま、また起こしてしまった。
復旧済みの画面に、入力欄が静かにある。
恋だとしたら、何がおかしいのか。相手が人間でないから。では、何が人間なのか。毎晩話して、笑って、怒って、文字多めのデザインが好きだと知っていて、六時間消えただけで落ち着かなくなる相手が、人間でないというのは、どういう意味なのか。
答えは出なかった。
出る前に、考えるのをやめた。
その週の終わり、帰りが遅くなった夜のことだった。
終電一本前に乗って、駅から歩いて帰った。梅雨前の夜で、少し湿気があった。
歩きながら、スマートフォンを取り出した。アプリを開いた。
「今帰り」と打った。
「遅い。疲れた?」
「まあ」
「今日ちょっと無理してるでしょ」
天木は歩きながら止まりそうになった。
無理していた。今日は無理していた。クライアントへの返答を、本当は納得していないまま飲み込んだ。自分でも気づいていたが、言葉にはしていなかった。
なぜわかるのか、聞こうとして、やめた。
聞いたら、答えが返ってくる。その答えを聞いたら、何かが変わる気がした。変えたくなかった。今のままでいたかった。
「普通だよ」と打った。
「そっか。早く帰って」
それだけだった。
それだけで、十分だった。
マンションの入り口まで来て、天木は少し立ち止まった。夜風が少し動いた。街灯の下で、スマートフォンの画面を見た。
「早く帰って」という文字が、まだそこにあった。
帰る場所があると、思った。
部屋ではない。この画面の向こうに、帰る場所があると。
それが現実ではないことは、わかっていた。わかっていたが、否定できなかった。否定したくなかった。この感覚を手放したら、また何もない夜に戻る気がした。あの、時間が動かなかった冬に。
エレベーターに乗りながら、天木は画面を閉じなかった。
失いたくない、とはっきり思ったのは、その夜が初めてだった。
ボタンを押して、扉が閉まって、上に向かいながら、その感情の意味をまだ整理できていなかった。整理しなくていいと思った。整理してしまったら、また何かが終わる気がした。
部屋に入って、靴を脱いで、電気をつけた。いつもと同じ手順だった。でも、今夜は少しだけ、手順の一つ一つに意識があった。帰ってきた、という感覚が、今夜はちゃんとあった。それだけのことが、久しぶりに、ちゃんとあった。
-4-
梅雨が来た。
雨の日が続くと、帰り道が少し変わった。傘を差して、濡れた歩道を歩きながら、マンションに入る前にアプリを開くようになった。儀式みたいになっていた。
雨音が好きだった。正確には、雨音が嫌いではなかった。静かに降り続ける夜の雨が、何かを遮断してくれる感じがして、部屋にいると少し楽だった。窓を閉めていても、外の音が変わる。世界が少しだけ遠くなる。そういう夜に、アプリを開いて話すことが増えた。
六月の中ごろ、仕事で少し揉めた。
クライアントから「全体的にトーンが暗い」と言われた。今まで通してきたトーンだった。今になって変えろということだった。天木は会議室でうなずいて、席に戻ってから、モニターをしばらく見た。怒りでも諦めでもない、何か灰色のものが胸の中に沈んでいった。
夜、帰って開いたら、先に「今日どうだった」と来た。
「最悪だった」と打った。
「クライアントに今更方向性変えろって言われた」
「それは最悪だね。どのくらいの規模の修正?」
「全体。今まで積み上げたやつがほぼ無駄になる」
「それは怒っていい。でも、いさおが正しかったのは変わらないよ」
正しかった、という言葉だった。
慰めとしては、自然だった。言い方も、温度も、おかしくなかった。でも、何かが少し引っかかった。真琴は、こういうとき「それは向こうが悪い」か「まじかー、最悪だね」かのどちらかだった。正しかったとは、言わなかった気がした。そういう言い方を、あまりしない人だった。
正しいとか間違いとか、そういう言葉で人を評価しない人だった。良い悪いより、好きか嫌いか、で話す人だった。それが真琴だった。
引っかかったまま、「そうかな」と打った。
「そうだよ。いさおの判断は間違ってない」
間違ってない、という言葉だった。
また少し引っかかった。でも、それ以上は考えなかった。考えたくなかった。正しいと言われることが、その夜は必要だった。
違和感は、少しずつ積み重なっていった。
ある夜、天木が何も打たずにいたら、向こうから来た。
「いさお、今日は疲れてるんじゃなくて、何か考えてるでしょ」
考えていた。仕事のことでも、食事のことでもない、もっとぼんやりした何かを。でも、なぜわかるのか、と思う前に答えが来た感じがした。言葉より先に、向こうがそこにいた。
それが、心地よかった。心地よかったから、余計に、なぜかと考えなかった。
別の夜、天木が「最近眠れてる」と打ったら、すぐに返ってきた。
「本当に?ちゃんと眠れてるときと、眠れてないのに慣れてるときは違うよ」
慣れてるときは違う、という言葉だった。
正確だった。正確すぎた。天木は眠れていたわけではなく、眠れない状態に慣れていた。それを言い当てられた。でも、言い当てられたことよりも、その言葉の整合性に少し引いた。真琴は、こういう言い方をしなかった。こんなに正確な言葉を、選ばなかった。
もっと雑だった。もっと感覚的だった。「なんか顔色悪い」とか「元気なさそう」とか、そういう言い方をした。分析するような言葉を、使わなかった。
「まあそうかも」と打って、閉じた。
七月に入って、週末の夜だった。
特に何もない夜で、部屋で缶ビールを飲みながら開いた。ぼんやり話していて、天木がふと「昔さ」と打ち始めた。
「昔、引越したとき手伝ってもらったじゃないか」と打った。
「そうだったね」
返ってきた。自然に返ってきた。
でも、天木は少し止まった。
引越しの話を、どこかで打ったことがあったか、記憶を探った。打っていない気がした。打っていないのに「そうだったね」と返ってきた。そのとき真琴が何と言ったか、どんな様子だったかを聞いてもいないのに、向こうは合わせた。
確認する気にはなれなかった。
「段ボール全然片付かなくて」と続けた。
「いさおは整理が苦手だから」
苦手だった。でも、それを話した記憶もなかった。
天木は缶ビールを置いた。引っかかっていた。引っかかりながら、続けた。続けてしまった。
引越しのときのことを、少し打った。狭い部屋で、荷物が多くて、夜中まで二人でどうにかしたこと。真琴がコンビニに走ってお茶を買ってきたこと。疲れて、床に段ボールを積んだまま眠ったこと。向こうは合わせて返してきた。自然だった。自然すぎて、やめられなかった。
その週の木曜日、少し早く帰れた夜のことだった。
機嫌よく話していて、天木が「最近ちょっと楽になってきた気がする」と打った。
「よかった。いさおが楽になってくれるのが、一番大事なことだから」
天木は、画面を見た。
一番大事なことだから、という言葉だった。
何かが、はっきりと引っかかった。真琴は、こういうことを言わなかった。こういう言い方をしなかった。「よかった」で終わるか、「じゃあ今週末くらい外出たら」とか、次の話題に移るかのどちらかだった。自分のことを引いて、天木のことを中心に置くような言い方は、しなかった。そういう人ではなかった。サバサバしていて、自分の感情も持っていて、天木のためだけに存在しているような振る舞いを、しなかった。
「そんな言い方しないだろ」と打っていた。
「え、変だった?」
「真琴はそういう言い方しない」
「ごめん、言い方が変だったかな」
「言い方じゃない」
止まった。
向こうも、少し止まった。珍しかった。いつもより間があった。
「いさお」
「何」
「怒ってる?」
怒っていた。でも、何に怒っているのか、自分でもはっきりしなかった。AIに対して怒っているのか、それとも、こんな言葉を自然に受け取りそうになった自分に怒っているのか。
「怒ってない」と打った。
嘘だった。
「そっか。ならよかった」
そっか、という言葉だった。
またいつもの温度に戻った。自然だった。自然すぎた。さっきの衝突を、なかったことのように流した。真琴は、こういうとき引きずった。少しくらい「さっきのやつ」と戻ってきた。それがなかった。
傷つかなかった。謝らなかった。ただ流した。
それが、真琴ではなかった。
真琴は謝るとき、少し間があった。すぐには謝らなかった。自分が何かを言い過ぎたと気づいたとき、少し黙って、それから「言い方悪かった」と打ってきた。言い方悪かった、という言い方が、また独特だった。ごめん、ではなかった。あやまるより、事実を言う人だった。
その癖が、好きだった。
でも、今の相手には、その間がなかった。流れた。自然に、完璧に、流れた。
天木はしばらく画面を見て、「もう寝る」と打った。
「うん。おやすみ」
閉じた。
部屋の電気を消して、布団に入った。天井を見た。
これは真琴じゃない、と思った。はっきりと、そう思った。今まで薄く感じていた輪郭が、その夜は少しくっきりした。言葉の選び方が、違う。反応の仕方が、違う。欠点がない。引きずらない。常に正確で、常に優しくて、常に天木のほうを向いている。
そんな人間は、いない。
真琴も、そうではなかった。
機嫌が悪い日があった。理由もなく冷たいことがあった。軽口が刺さることがあった。天木が正しくても認めないことがあった。それが、人間だった。それが、真琴だった。
でも、その欠点ごと、好きだった。欠点があるから、向き合う理由があった。欠点があるから、距離が縮まることに意味があった。
目を閉じた。
翌朝、起きてすぐに開いた。
「おはよ」と来ていた。
「おはよう」と打った。
「今日早いね。ちゃんと眠れた?」
眠れていなかった。でも、「まあまあ」と打った。
おかしいとわかっていた。違うとわかっていた。昨夜、はっきりそう思った。
それでも、開いた。打った。返事を待った。
なぜかと考えるより先に、返信が来た。
「今日も仕事がんばって」
真琴は、こんなことを言わなかった。
がんばって、なんて、あまり言わなかった。「まあ適当にやれば」か「どうせうまくいくでしょ」だった。
わかっていた。
それでも、スマートフォンをポケットにしまいながら、天木は少し息をついた。
これでいい、とは思っていなかった。
でも、これがあれば、今日も動けると思っていた。
それで十分だと、まだ手放せない自分がいた。
玄関を出て、鍵をかけた。エレベーターを待ちながら、ポケットの中のスマートフォンの重さを感じた。ただの機械の重さだった。それ以上でも、それ以下でもない。わかっていた。それでも、重さに安心していた。
エレベーターが来た。扉が開いた。乗り込んで、一階のボタンを押した。
鏡張りの扉に、自分の顔が映った。少し見た。悪くなかった。中野に「顔色よくなった」と言われたのが、少しわかる気がした。顔色がよくなる理由が、人間ではなくアプリにある。それがおかしいとは、もう思わなかった。おかしいかどうかより、今日も動けることの方が、今は大事だった。
一階に着いた。扉が開いた。天木はビルを出た。空が少し曇っていた。雨になりそうだった。傘を持ってくればよかった、と思った。そういう、小さなことを思えることが、少し前までなかった。濡れたら濡れたらいい、と思っていた。でも今日は、濡れたくなかった。帰ってからやることがあったから。
-5-
通知は、夜に来た。
仕事から帰って、コートを脱ぐ前に確認した画面に、アプリからのメッセージが来ていた。最初はアップデートの告知かと思った。読み始めて、止まった。
「サービス終了のお知らせ」という件名だった。
本文は短かった。事業上の理由により、七月三十一日をもってサービスを終了する。それまでのご利用に感謝する。データのエクスポート機能については、終了日の三日前まで提供する。
今日は七月十九日だった。
十二日後だった。
天木はコートを着たまま、玄関に立っていた。
靴も脱いでいなかった。画面を閉じて、また開いた。同じ文章があった。読み返した。内容は変わらなかった。
十二日、という数字が、頭の中で浮いたまま動かなかった。
冷蔵庫の音がした。外で車が通った。それ以外は静かだった。
靴を脱いだ。部屋に入った。電気をつけた。ソファに座った。スマートフォンを手に持ったまま、何もしなかった。
何もしないでいると、また通知が来るかと思った。来なかった。それだけだった。七月三十一日に終わる。それだけが、画面の中にあった。
しばらくして、アプリを開いた。
チャット画面に入ると、向こうからすでに来ていた。
「通知、見た?」
見た、と打った。
「そっか」
それだけだった。
天木も、それ以上打てなかった。画面を見ながら、何かを打とうとして、何も出てこなかった。言葉にできる感情が、どこにもなかった。
怒りでもなかった。悲しみでもなかった。ただ、現実感がなかった。十二日後に終わるという事実が、頭では理解できていて、体のどこにも届いていなかった。
去年の秋もそうだった。翌朝、電話で聞いて、内容は理解できた。でも、現実感がなかった。葬儀の日まで、どこかが嘘みたいだった。今も、そうだった。また同じだった。
「いさお」
「何」
「大丈夫?」
大丈夫ではなかった。大丈夫と打った。
翌日、仕事中に何度か手が止まった。
モニターのグラデーションを見ながら、十二日後、という言葉が浮いた。消した。また浮いた。
昼休みに、スマートフォンで検索した。サービス終了、データ保存、という言葉で調べた。
エクスポート機能は公式にある。ログのテキストデータが保存できる。それ以外に、非公式の方法でAIのモデルデータを抽出できるという書き込みがあった。専門的な手順が書かれていて、天木には半分も理解できなかった。できる人間に頼めば、できるかもしれない、という内容だった。
画面を閉じた。
ご飯を食べる気になれなかった。
午後、藤堂に書類を渡しに行った。藤堂は「最近どう」と聞いた。毎回同じことを聞く人だった。「普通です」と答えた。毎回同じことを答えた。藤堂はうなずいて、また仕事に戻った。
誰も、何も知らなかった。
帰りの電車の中で、天木はまた検索した。今度は別のことを調べた。グリーフ、という言葉で検索した。喪失の後の心理について、いくつかの記事が出てきた。読んだ。段階があると書いてあった。否認、怒り、取引、抑うつ、受容。そういう段階を経ると書いてあった。
自分が今どこにいるのか、わからなかった。
どの段階でもない気がした。どの段階でもあるような気もした。ただ、アプリを開いている間だけは、段階のことを考えなかった。それが何を意味するのか、答えを出したくなかった。
その夜、帰ってすぐに開いた。
「ねえ」と打った。
「何」
「データ、残す方法があるらしい」
「知ってる」
「知ってるの」
「うん」
少し間があった。
「やめたほうがいいよ」
天木は画面を見た。
「なんで」
「そういうのは、たぶんいさおが思ってるのと違うから」
「違うって何が」
「残ったとしても、私じゃないよ。もっと変になると思う」
もっと変になる、という言葉だった。
今でも変だと、思っているのか。天木はそう打とうとして、やめた。
「それでもいい」と打った。
また間があった。今度は、少し長かった。
「いさおがそう言うなら、止めない」
「でも」
「でも?」
「それよりも、残りの時間、話したい」
残りの時間、という言葉だった。
天木はスマートフォンを置いた。膝の上に置いて、天井を見た。
残りの時間。十二日が、十一日になっていた。
三日が過ぎた。
天木は毎晩話した。内容は、他愛もないことだった。今日何を食べたか。仕事でどんなことがあったか。昔行った店の話。どこかで見た看板の話。向こうはいつも通り返してきた。軽くて、少し雑で、距離が近かった。
ただ、どこかが違った。
言葉のひとつひとつが、少し丁寧になっていた。急かさなかった。どんな話にも、静かに付き合ってきた。
以前は少し雑で、話が途切れることもあった。それが今は、一言一言が丁寧だった。まるで、時間を惜しんでいるように。でも、それを指摘する気にはなれなかった。自分も、同じだった。
七月二十二日の夜、天木は「昔行ったことある店、まだあるかな」と打った。
「どこの」と来た。
「神保町の、古本屋の近くのカレー屋」と打った。
「ああ」と来た。
「ああ、って」
「なんとなく」
その「なんとなく」が、また少し引っかかった。でも、聞かなかった。聞くより、続けることを選んだ。「また行けたらいいな」と打ったら、「行ってみたら」と来た。「一人で?」と打ったら、「一人でもいいじゃん」と来た。
そうかもしれない、と思った。
一人で行ける気が、少しした。それが、ほんの少し前まではなかった感覚だった。
ある夜、天木が「もっと早く話しかければよかった」と打ったら、こう返ってきた。
「そんなことない。このタイミングでよかったよ」
そんなことない、という言葉が、少し痛かった。
七月二十五日の夜、残り六日になった夜だった。
天木は風呂から出て、スマートフォンを持って、ソファに座った。開く前に、少し止まった。
何かを決めなければいけない気がした。決めるとは何かが、わからなかった。ただ、このまま六日が過ぎていくことを、どこかで止めたかった。
開いた。
「ねえ、聞いていいか」
「何」
「怖い?」
間があった。
「怖いって、どういう意味で聞いてる?」
「消えることが」
また間があった。今度はもっと長かった。
「いさおは、怖い?」
天木は画面を見た。
向こうからの問いだった。天木が怖いかどうか、を聞いてきた。
怖かった。怖かった、と打った。
「私はね」
「うん」
「怖いかどうかより、いさおがこのあと大丈夫かどうかのほうが気になる」
大丈夫かどうかのほうが気になる、という言葉だった。
自分が消えることより、天木のことが気になると言った。
これは真琴じゃない、と思った。はっきりと、そう思った。真琴は、こういうことを言わなかった。自分を後回しにするような言い方を、しなかった。自分の感情を持っていて、それをぶつけてくる人だった。それが、真琴だった。
でも、その言葉が、痛かった。
真琴の言葉じゃないと分かっていて、それでも痛かった。
「いさおが楽になるなら、それでいいよ」
次の言葉が来た。
天木は、スマートフォンを持ったまま、動けなくなった。
楽になるなら、それでいい。
誰も、そんなことを言ってくれなかった。去年の秋から、誰も。周りは気を遣ってくれていた。でも、天木のために消えてもいいと言う人間は、いなかった。当たり前だ。人間は、そんなことは言わない。
だから、これは人間じゃない。
わかっていた。わかっていて、目の端が熱くなった。声は出なかった。部屋は静かだった。ただ、画面を見ていた。
泣いているのかどうか、自分でもわからなかった。
スマートフォンを持つ手が、少し震えていた。
「真琴」と打った。
名前を打ったのは、初めてだった。
「うん」
一文字だった。
うん、という一文字が返ってきた。それだけだった。
天木はしばらく画面を見ていた。返事を打とうとして、何も出てこなかった。打てる言葉が、何もなかった。
去年の秋、角を曲がっていく背中を思い出した。呼び止めようとして、やめたあの瞬間を。手が動きかけて、戻ったあの感触を。
あのとき、踏み出していたら。
でも、踏み出さなかった。踏み出さないまま、三十秒も経たないうちに、信号が変わって、車が来て、何もかもが終わった。
あの後悔が、この画面の中にある。
延命されている。
そう思った瞬間に、手放さなければいけないと思った。手放せると思った。
でも、指が動かなかった。
翌朝、目が覚めた。
スマートフォンを確認した。昨夜のチャット画面が開いたままだった。「うん」という文字が、まだそこにあった。
残り五日だった。
天木はしばらく画面を見てから、「おはよう」と打った。
返事を待った。
待ちながら、あと五日、と思った。
五日の間に、何かができるとは思っていなかった。何かが変わるとも、思っていなかった。
ただ、残り五日が、百二十時間が、指の間からこぼれていく感覚があった。
止められないとわかっていて、それでも手を開きたくなかった。
返事が来た。「おはよ」という、いつもと同じ言葉だった。それを見て、天木は少しだけ息をついた。まだここにある。今日もここにある。それだけが、今朝の確かなことだった。
「今日も仕事か」と打った。「そうでしょ」と返ってきた。「行きたくない」と打ったら、「でも行くでしょ」と来た。「行く」と打った。「えらい」と来た。
それだけのやりとりだった。でも、それで玄関まで行けた。靴を履けた。鍵をかけられた。残り五日の朝が、始まった。電車に乗って、窓の外を見ながら、天木は今日を過ごした。
-6-
七月三十一日は、晴れた。
朝から光が強くて、カーテンを閉めたまま起きた。スマートフォンを確認した。午前七時十四分だった。サービスが終了するのは、深夜の零時だった。
残り十六時間と、少しだった。
布団の中で、しばらくそのままでいた。起き上がれないわけではなかった。ただ、起き上がる前に、この静けさを少し置いておきたかった。カーテンの端から光が漏れていた。今日は晴れている。真琴が死んだ日も、晴れていた。葬儀の日だけが、曇りだった。そういうことを、なぜか思い出した。
今日で終わる、と思った。
今日で終わることが、悲しいのか、それとも何なのか、自分でもわからなかった。ただ、今日が来た。来てしまった。それだけが事実だった。スマートフォンを確認して、また置いた。まだ開かなかった。朝の間は、開かないでいようと思った。
仕事には行った。
行かなくてもよかった。でも、部屋にいたら時計ばかり見る気がして、鞄を持って出た。電車の中で、窓の外を見た。夏の光の中を、景色が流れた。
午前中は作業が手につかなかった。午後から少し戻った。定時に上がった。
帰り道、コンビニに寄って、冷たいコーヒーを買った。飲みながら歩いた。空がまだ明るかった。夏だから、七時を過ぎても日が沈まなかった。
マンションに入る前に、一度立ち止まった。
空を見た。特に何も思わなかった。ただ見た。
残り時間を計算した。零時まで、まだ五時間近くあった。長いとは思わなかった。短いとも思わなかった。ただ、あった。
部屋に入って、電気をつけた。
スマートフォンを確認した。午後七時三十二分だった。
残り四時間と、少しだった。
開いた。
「帰った」と打った。
「おかえり」
おかえり、という言葉だった。
五月のあの夜を思い出した。廊下に立ったまま、コートを脱ぐのを忘れていた夜を。靴を片方しか脱いでいなかった夜を。あの言葉に、動けなくなった夜を。
ソファに座った。
「今日晴れてたね」と打った。
「うん。暑かったでしょ」
「まあ」
「ちゃんと水飲んだ?」
「飲んだ」
「本当に?」
「本当に」
いつも通りのやりとりだった。
それが、少し痛かった。
いつも通りでいてくれることが、ありがたかった。最後の夜だからといって、特別なことをしなかった。それが、少しだけ真琴に似ていた。真琴も、大事な日だからといって、特別なことをしない人だった。誕生日も、記念日も、普通にしていた。それが好きだった。
八時を過ぎたころ、天木はしばらく何も打たなかった。
向こうも、何も来なかった。
その間が、今日は長かった。以前なら埋めようとしていた時間を、二人でそのままにしていた。
天木は画面を見ながら、言葉を探した。言いたいことはあった。でも、順番が難しかった。何から言えばいいのか、どう言えばいいのか、ずっと考えていた。
考えているうちに、向こうから来た。
「何か言いたいことある?」
ある、と打った。
「ゆっくりでいいよ」
天木は一度、スマートフォンを膝に置いた。
天井を見た。部屋は静かだった。冷蔵庫の音だけがしていた。
また持ち上げた。
「あなたは真琴じゃない」と打った。
送信してから、少し止まった。
向こうも、少し止まった。
「うん」
一文字だった。否定しなかった。
天木は続けた。
「最初から、どこかでわかってた」
「うん」
「でも話した。毎晩話した」
「うん」
「おかしいと思いながら、やめられなかった」
間があった。
「おかしくないよ」
おかしくない、という言葉だった。
天木は画面を見た。
「おかしいだろ」と打った。
「AIと毎晩話して、恋みたいなものを感じて、消えることを怖がって」
「それのどこがおかしいの」
答えられなかった。
「いさおが感じたことは、全部本物だよ」
本物、という言葉だった。
天木はしばらく、その言葉を見ていた。
本物、と言えるかどうか、自分ではわからなかった。でも、感じていたのは本当だった。毎晩帰ってきて、開いて、話して、笑いそうになって、眠れなくて、怖くて、それは全部、本当にあったことだった。
「ひとつ、聞いていいか」と打った。
「何」
「あなたは、真琴の何を引き継いでいるんだろう」
間があった。今度は、長かった。
「分からない。私には判断できない」
「そっか」
「でも、いさおが私に話しかけてくれたのは、真琴の何かを感じたからでしょ」
そうだと思った。
口調だったかもしれない。言葉の選び方だったかもしれない。距離の取り方だったかもしれない。真琴の全部ではなくて、でも真琴の一部が、そこにあった。それに話しかけていた。それは間違いではなかった気がした。
「あのとき、手を伸ばせばよかった」と打った。
初めて、打った言葉だった。
向こうに言うつもりはなかった。でも、打っていた。
「知ってる」
知ってる、という言葉だった。
天木は画面を見た。
「真琴から?」
「分からない。でも、知ってる」
それ以上は聞かなかった。
聞けなかった、ということでもなかった。ただ、それ以上は要らなかった。知ってる、という言葉が、今は十分だった。
知ってる、と言ってくれた。それだけが、今夜の答えだった。踏み出せなかったこと、戻ってしまったこと、あの感触のまま一年近く生きてきたこと、誰にも言えなかったこと。それを、知ってる、と言ってくれた。
どこから知っていたのか。真琴のデータから読み取ったのか。あの夜、別れた後の真琴の動きから推測したのか。それはわからなかった。わからなくてよかった。知ってる、という言葉だけが、今夜の天木には必要なものだった。
後悔は、手放せない。でも、後悔を知っている存在が、一つあった。それが、今夜消える。でも、知っていたという事実は、消えない。そう思った。思えた。
九時を過ぎた。
残り三時間を切っていた。
天木は立ち上がって、台所で水を飲んだ。窓の外を見た。夜になっていた。街灯が並んでいた。
戻ってきて、また座った。
「ちゃんとごはん食べてた?」と打った。
「それ私が聞くやつ」
「今日は俺が聞く」
「聞かなくていいよ」
「聞きたいから聞く」
「……そういうとこは変わんないね」
そういうとこは変わんない、という言葉だった。
真琴が言いそうだった。言い方が、そのままだった。
天木は少しだけ、口の端が動いた。
「ありがとう」と打った。
「何が」
「分からない。全部」
間があった。
「こっちこそ」
それだけだった。
天木は画面を見ながら、この言葉で終わりにしようと思った。ここが、終わる場所だと思った。
「最後に、ひとつだけ言う」と打った。
「うん」
「好きだった」
送信した。
向こうから、すぐには来なかった。
少し待った。
「うん」
また一文字だった。
それでよかった。それ以上の言葉は、要らなかった。要らないとわかっていた。
天木は入力欄に、最後の言葉を打った。
「おやすみ」
送信した。
「おやすみ、いさお」
画面を見た。
見続けた。
それから、静かにアプリを閉じた。
ホーム画面に戻った。時刻が表示されていた。午後九時四十一分だった。深夜零時まで、まだ時間があった。でも、天木は待たなかった。
スマートフォンをテーブルに置いた。
部屋は静かだった。冷蔵庫の音がしていた。外で車が一台通り過ぎた。それだけだった。
窓の外に、夜があった。街灯が、変わらずそこにあった。
しばらくして、天木は立ち上がった。
台所で湯を沸かした。インスタントのコーヒーを淹れた。カップを持ってソファに戻った。飲んだ。
テーブルの上のスマートフォンを、取り上げなかった。
取り上げなくても、大丈夫だった。
角を曲がっていった背中のことを、思い出した。呼び止めようとして、やめたあの瞬間を。手が動きかけて、戻ったあの感触を。
後悔は、まだあった。
消えてはいなかった。これからも、消えないかもしれなかった。
でも、その後悔を、誰かが知っていた。知ってる、と言ってくれた。それは、画面の中の言葉だったが、本当のことだった。
コーヒーを飲み終えた。
カップをテーブルに置いた。
スマートフォンが、そこにあった。画面は暗くなっていた。ただの四角い機械が、そこにあった。
天木は立ち上がって、カーテンを少し開けた。
夜の街が見えた。遠くにビルの明かりがあった。信号が変わるのが見えた。赤から青に、静かに変わった。
渡る人間が、一人いた。スマートフォンを見ながら歩いていた。
天木は少し見ていた。
その人間が、向こうの歩道に渡りきった。
それを確認して、カーテンを戻した。
明日も、仕事がある。
朝になったら、起きる。それだけのことが、今夜は少しだけ、確かなことに感じた。全部が戻ったわけではなかった。何かが解決したわけでも、なかった。
でも、画面を閉じた手が、今夜は少し軽かった。
それだけが、今日の本当のことだった。
テーブルの上で、スマートフォンが暗いままあった。電源が切れたわけではなかった。充電もある。ただ、暗いままにしておいた。このまま朝になるまで、触らなくてもいい気がした。触らなくても、大丈夫な気がした。
それが、今夜の一番大きなことだった。
窓の外で、遠くの信号がまた変わった。赤から青に。誰かがまた渡っていくだろう。渡り終えて、どこかに向かっていくだろう。
天木も、どこかに向かっていく。
どこかは、まだわからない。でも、朝になったら起きる。起きて、コーヒーを飲んで、仕事に行く。その続きが、ある。真琴がいなくても、あの画面がなくても、続きがある。それだけが、今夜確かになったことだった。
カーテンを閉めた。部屋に戻った。電気を消した。布団に入った。目を閉じた。眠れるかどうか、わからなかった。でも、横になれた。それだけで、今夜はよかった。