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愛は盲目?、でも老眼にはちょうどいい

    一、はじめに——「あの人」が輝いて見えた話

    思い返せば、あれは確かに異常な状態だった。

    路面電車の中で向かいに座った人の、ただそれだけで心拍数が上がる。その人が何か言葉を発するたびに、脳内のどこかがそっと花火を打ち上げる。コーヒーを飲む仕草が、傘を畳む動作が、くしゃみのあとの照れ笑いまでもが、なぜか愛おしくてたまらない。

    客観的に見れば、ただの人間である。骨と肉でできた、睡眠が足りないと機嫌が悪くなる、ごく普通の哺乳類だ。しかし恋に落ちた目には、そのどこにでもいそうな哺乳類が、後光を背負った何かのように見えてしまう。部屋の照明は変わっていない。季節も変わっていない。変わったのは、こちらの目だけだ。

    恋愛とはつまり、世界の見え方が変わってしまう現象である。眼科に行っても「異常なし」と言われる種類の、しかし確実に視力に影響を及ぼす、奇妙な感染症のようなもの。そしてたちが悪いことに、罹っている本人だけが気づかない。

    二、盲目という名の才能

    恋愛中の人間が相手の欠点を見えていないことは、古来より「愛は盲目」と表現されてきた。ニーチェはこう言っている——「愛は盲目であり、友情は目をつむる」と。なかなか意地の悪い言い方だが、言い得て妙だ。そしてたちが悪いことに、罹っている本人だけが気づかない。。

    しかしここで少し立ち止まって考えてみたい。本当に「見えていない」のだろうか。

    たとえば、付き合い始めて三ヶ月の恋人が、待ち合わせに毎回十五分遅れてくるとする。最初の一回目は「ドジなところが可愛い」。二回目は「まあ、しょうがない」。三回目は「そういう人なんだよな」と、むしろ愛着に変換される。これは見えていないのではなく、見た上で別の引き出しにしまっている。欠点という名札を剥がして、個性という棚に移動させているのだ。

    これはある種の才能ではないかと私は思う。同じ事実を、まったく違う意味として受け取る能力。クリエイターが「制約をアイデアに変える」と言うのと、構造としては大差ない。恋愛中の人間は無意識のうちに、相手のネガティブな属性をリフレーミングし続けている。脳が勝手にポジティブ編集をかけているのだ。

    もっともこの才能には、厄介な副作用がある。他人の目には「いや、それは普通に問題では?」と見えているものが、当人にはまったくそう映らない。友人が心配して「あの人、ちょっと……」と言い始めても、「あなたにはわからないの」という鉄壁の防御が発動する。愛の盲目とは、視力の低下ではなく、フィルターの過剰装備なのかもしれない。

    三、老眼のすすめ

    「愛は盲目」という言葉は、どこか自嘲的なニュアンスを帯びている。盲目とはつまり、見えていない状態であり、それはどちらかといえば批判的な含意を持つ。冷静さを欠いた状態、判断力が曇った状態、早く目を覚ませという状態。

    しかし私はここで、別の比喩を提案したい。盲目ではなく、老眼だ。

    老眼とは、近くのものがぼやけて、遠くのものはよく見える状態である。手元の細かい文字は読めないが、遠くの景色はむしろはっきりしている。これは視力の「欠落」ではなく、焦点の「移動」だ。

    恋愛における視力もこれに近いのではないかと思う。相手の近くにある粗——洗い物を溜めがちなこと、返信がいつも遅いこと、笑うときに少し口が曲がること——そういった細部はぼやけて見える。しかし遠くにある輪郭、その人の本質的な温かさや、一緒にいるときの空気の柔らかさや、何かに夢中になっているときの横顔は、驚くほどくっきりと見える。

    これは欠陥ではないと思う。むしろ、本質を見る目と言えないだろうか。木を見て森を見ずという言葉があるが、愛する目は逆だ。木の一本一本の傷より、森全体の美しさを見ている。洗い物が溜まっていても、その人が森であることに変わりはない。

    老眼鏡をかけた人が「見えなくて不便だ」と嘆く必要はない。近くがぼやけているのは、遠くをよく見るための、ささやかな代償に過ぎないのだから。

    四、「好き」が「愛」になる瞬間

    恋愛には、静かな転換点がある。

    ある日ふと、相手の欠点が見えてくる。フィルターが外れるのではなく、フィルター越しでも輪郭がはっきりしてくる、とでも言おうか。洗い物が溜まっていることも、返信が遅いことも、笑うときに口が曲がることも、ちゃんと見えている。見えた上で、それでも離れたくないと思っている自分に気づく。

    そのとき「好き」は、静かに「愛」へと移行しているのだと思う。

    「好き」は対象の輝きに惹かれる感情だ。後光が見えている状態、BGMが流れている状態、つまり第一章で書いたあの異常な状態に近い。対象が美しいから、眩しいから、好きだ。しかし「愛」は少し違う。輝きが落ち着いてきても、後光が薄れてきても、それでもそこにいたいという、もう少し地に足のついた感情だ。

    盲目から老眼へ。これはそのまま、「好き」から「愛」への変化の比喩になる。

    近くのものが鮮明に見えすぎる状態(盲目的な恋)から、近くの細部はぼやけても遠くの本質がよく見える状態(老眼的な愛)へ。視力が変化するように、感情も変化する。そしてその変化は、退化ではなく成熟だ。

    もっとも、これは簡単なことではない。欠点が見えてきた瞬間に「やっぱり違った」と離れていく恋も、世の中には山ほどある。老眼になれるかどうかは、ある意味でその関係の強度を測る試験のようなものかもしれない。近くがぼやけても、遠くに見える森が美しければ、人はそこに留まることができる。

    そういえば、老眼鏡というものがある。近くを見るために使う道具だ。長く連れ添った夫婦が互いの欠点を笑い飛ばせるようになるのは、もしかしたらこの老眼鏡を、時間をかけてふたりで手作りしてきたからではないだろうか。

    五、おわりに——それでも人は恋をする

    愛は、どう考えても面倒くさい。

    視力はおかしくなるし、心拍数は乱れるし、判断力は低下するし、友人の忠告は耳に入らなくなる。相手の欠点を個性と呼び始め、老眼のように近くがぼやけ、気づけば森ごと好きになっている。コスパで考えれば、最初から割に合わない投資だ。

    それでも人は恋をする。

    なぜかと問われれば、結局のところ「そういうふうにできているから」としか言いようがない。恋愛を経済学で説明しようとした人も、脳科学で解明しようとした人も、哲学で定義しようとした人も、みんな途中でどこか諦めたような顔をしている。愛はいつも、言葉より少しだけ広い。

    ただ一つ言えるとすれば、盲目も老眼も、どちらも悪くないということだ。盲目は恋の入り口であり、老眼は愛の深まりである。近くが見えすぎて眩しい時期があって、やがて遠くの輪郭だけがくっきりと残る時期がくる。その変化を怖がらなくていい。視力が変わるのは、長く見続けてきた証拠なのだから。

    眼科に行っても「異常なし」と言われる。それでいい。この種の視力の変化は、薬でも眼鏡でも治せないし、治す必要もない。

    ただ、できれば。遠くに見える森が、いつまでも美しくありますように。そしてその森の中で、老眼鏡をふたりで笑いながら手作りできる相手と、出会えますように。

    それが、愛というものへの、私なりの祈りである。

    #創作大賞2026 #エッセイ部門


     
     
    とりあえず、ご近所の流行に乗っかってみたwww 色々書いたりもしてます。コメントやメッセージいただけると喜びます。

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