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多様性という名の不寛容(たんなる愚痴を吐き出してみた)

     リバタリアニズムは「自由」を信じ、リベラリズムは「平等」を夢見る。コミュニタリアニズムは「共同体」の温もりにすがり、公利主義は「結果としての最大幸福」を追いかける——そのどれもが、ある時代の理性であり、信仰でもあった。

     そして、いま私たちは「ダイバーシティ(多様性)」の時代を生きている。肌の色も、性のあり方も、信じる神も、すべてが違っていい——その理念は、たしかに美しい。
     だが、現実の「多様性」運動を観察していると、奇妙な矛盾に気づかずにはいられない。多様性を掲げるはずの人々が、異なる意見や価値観に対して、苛烈なまでの「排除」を行っている。
     SNSで吊し上げられる有名人。「無自覚な差別」を理由に炎上する企業。あるいは、正義の名のもとに解雇される大学教授。

     なぜ「寛容」のはずの多様性が、ここまで「不寛容」になるのか?

     この問いには、社会理論的な視点が必要になる。
     もともとダイバーシティという言葉は、経済合理性と人権の両面から生まれてきた。たとえば、米国の大企業では、様々な背景をもつ人材を採用することがイノベーションの源泉になるとされ、「多様性=経営資源」という文脈で語られる。一方、アカデミズムの世界では、被抑圧集団の歴史的経緯に注目し、「マイノリティの声を可視化する」という運動として発展してきた。

     ところがこのふたつの「ダイバーシティ」は、似ているようでいて、根本的に異なる。前者は功利的であり、後者は倫理的である。そして倫理的なダイバーシティは、次第に「正しさ」の独占へと変貌していく。
     すなわち、「マイノリティに寄り添う私たちは正しい」という立場に立ったとき、「異なる意見」は「倫理的に間違っている」として排除される対象になる。

     ここに、「多様性という名の同調圧力」が生まれる。

     リバタリアンなら、「発言の自由」を守るべきだと主張するだろう。だが現代のリベラルは、その自由がマイノリティを傷つけるならば制限されるべきだと考える。
     コミュニタリアンは、共同体の規範を重視するあまり、異物に対して過敏になる。
     公利主義者は「全体の幸福」に貢献しない存在を、冷徹に排除しようとする。

     つまり、どの思想にも実は「異端者を排除する論理」が内在しているのだ。ダイバーシティもまた、例外ではない。

     さらに言えば、いま私たちが生きているのは、インターネットによって「コミュニティが無限に分断される社会」である。
     タイムラインには、自分と似た意見ばかりが並び、少しでも異なる価値観に触れると、すぐに「敵」扱いされる。多様性が拡大するほど、逆説的に「自分の正しさを証明する戦い」が激化するのだ。

     心理学の世界では、これを「道徳的確信(moral conviction)」という。人は、自分が倫理的に正しいと信じるほど、他者への攻撃を正当化しやすくなる。宗教戦争や革命がそうであったように「善の名を借りた暴力」は、いつの時代も凄惨だ。

     多様性が掲げられる社会では、誰もが「違っていい」と言われる。
     だが、ほんとうに違っていられるためには「違っているあなたも尊重します」と言える寛容さが必要だ。問題は、多くの人が「違うこと」を認められるほど、成熟していないということだろう。

     わたしたちは、寛容を学ばなければならない。
     自由も、平等も、共同体も、そして多様性も、それを支えるのは「他者を許す力」である。正義とは、自分と異なるものに手を差し伸べる勇気であり、それを欠いた理念は、たとえどれほど高尚であっても、ただの暴力に堕する。

     多様性を語るならば、「正しさ」の殻を一度脱ぎ捨てることから始めるべきなのかもしれない——そう思うのだが、どうだろうか。

     
     
    https://note.com/big_hilo 世の中の綺麗事の裏側にある不都合な真実を言語化しようとする実験的note。幸福の土台は感情論ではなく冷徹な合理性にあるのでは!?そんな少し皮肉で限りなく自由なコラムを模索中。読後、あなたの常識が少しだけ書き換わるかもしれません。

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