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「自由にしていいよ」の不自由さ

    加々本裕樹

     「なんでも自由 すきにしたらいいよ」
     上司からそう言われたとき、あなたはどんな気持ちになるだろうか。

     ワクワクする?
     それとも、ちょっと不安になる?

     本来、「自由」はポジティブな言葉だ。
     自分の意思で選び、動けること。誰からも制限されないこと。

     だが実際には、「自由にしていいよ」と言われて戸惑う人は少なくない。
     どうしていいかわからず、かえって思考が止まり、『正解』を探し始めてしまう。

     自由は解放のはずなのに、不安と混乱を招いてしまう。
     その理由は、私たちが育った構造にある。

    ***

     義務教育は、そのほとんどが『枠の中で生きる』練習だった。

    • 問題には必ず「正しい答え」がある

    • 評価は「決められた基準」によって下される

    • やるべきことは「上から与えられる」

     このような「従属型の構造」のなかで育てられた私たちは、「答えのない状態」に耐性がない。

     つまり、自由=判断の連続=自己責任という構造に、身体が慣れていないのだ。

     そのため、「自由すき にしていいよ」は、 「自分で決めて、自分で責任を取ってね」という無言の圧力として受け取られる。


     この構造の怖いところは、表面的には「あなたを信頼している」というポジティブな形をとっていることだ。だが実際には、自由を与えることと、設計や支援を放棄することが混同されているケースも少なくない。

     たとえば──

    •  新人に「自由にやって」と言いつつ、失敗すると評価を下げる

    •  裁量を渡したのに、進め方の正解は暗黙で決まっている

    •  自由に動いた結果、「そんなやり方じゃ困る」と否定される

     このように、「自由」と言いながら、実際には『許容範囲が不明確』という構造が、不安や躊躇を生み出してしまう。

     では、自由とは本来、どう扱うべきものなのか。

     自由とは、「好きにやっていいよ」ではない。
     選べる構造の中で、目的と責任を共有することだ。

     つまり

    •  なぜそれをするのか(目的)

    •  どこまで裁量があるのか(設計)

    •  どんな形で成果を共有するのか(評価)

     この3つが整ってはじめて、『自由』は不安ではなく“動機”モチベーション となる。

     ところが、多くの現場では『設計』が抜け落ちたまま『裁量』だけが投げられる。その結果、「自分の判断が正しいか?」という問いに、ひとりで苦しむことになる。

     『自由』は、与えられるものではなく、支えられるものだ。

     設計のない自由は、「放任」であり「責任の丸投げ」になりやすい。そして、設計された自由は、人を最も強く、創造的にする。

     つまり、「自由にしていいよ」と言われて動けなくなるのは、あなたの意志が弱いからではない。『自由を支える構造』が存在しないからなのだ。

     自由に動けないことを、「自分のせい」と思わなくていい。
     「自由」を怖いと感じたなら──

     それ、たぶん“構造”のせいです。


    前回の #構造分析論シリーズ は…

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    https://note.com/big_hilo 世の中の綺麗事の裏側にある不都合な真実を言語化しようとする実験的note。幸福の土台は感情論ではなく冷徹な合理性にあるのでは!?そんな少し皮肉で限りなく自由なコラムを模索中。読後、あなたの常識が少しだけ書き換わるかもしれません。

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