
布団の中で考える明日と机の前で考える明日はきっと別の明日だと思ふ
夜、布団に入ってから眠りに落ちるまでの十五分間、僕は別人になる。
これは比喩ではなく、ほとんど観察上の事実である。
その十五分のあいだ、僕は実に立派な人間なのだ。
明日は六時に起きて、走る。朝食はきちんと作り、午前中に厄介な仕事を片づけ、午後は溜まっていた本を読み、夜は手紙の返事を書く。計画は具体的で、意欲に満ち、実現可能性すら高く見える。
あまりに見事な明日なので、僕は少しうっとりしながら眠りに落ちる。
そして朝が来る。
六時に鳴った目覚ましを、僕は片手で黙らせる。布団の中の僕が立てた計画を、布団の中の僕が握りつぶすのだ。七時半にようやく起き、走らず、パンを焼くだけ焼いて、厄介な仕事は午後に回す。
夜の僕が見たら卒倒するだろう。だが夜になると、僕はまた布団の中で、立派な明日を設計し始める。
この往復を、僕はかれこれ数十年続けている。
長いあいだ、これを意志の弱さだと思っていた。夜の計画が本物で、朝の自分が裏切り者なのだと。
でもあるとき、ふと思った。順番が逆ではないか、と。
夜の布団の中というのは、考えてみれば特殊な環境だ。
暗くて、温かくて、明日まではまだ距離がある。そこで考える「明日」には、重力がかかっていない。眠気という名の酒も、少し入っている。
つまりあれは、計画というより夢の下書きなのだ。一方、朝の机の前で考える明日には、ちゃんと重力がある。
寒さ、眠さ、メールの着信音。朝の僕は裏切り者ではなく、現場の人間なのだ。
本社が立てた威勢のいい計画を、現場の事情に合わせて修正している、実務担当者。
だとすれば、夜の自分を責めるのも、朝の自分を責めるのも、どちらも筋が違う。あれは二人で一つの仕組みなのだと思う。夜の僕が方角を指し、朝の僕が歩ける距離を決める。夜の僕しかいなければ、計画は宙に浮いたままだし、朝の僕しかいなければ、人生はたぶん一歩も遠くへ行かない。
走る計画は十回に九回は潰れる。でも十回に一回、朝の僕が「まあ、今日くらいは」と腰を上げる日がある。その一回は、夜の僕が九回指さし続けた方角の上にしか生まれない。
だから僕は今夜も、布団の中で立派な明日を設計するつもりだ。
明朝それが握りつぶされることも、織り込み済みで。無駄ではない。あれは発注書なのだ。納品は遅れる。だいたい九割は欠品する。それでも発注しなければ、何も届かない。
ちなみに今朝の僕は、六時に起きて走った。
なぜ走れたのかは、わからない。
たぶん夜の僕が、よほどしつこかったのだと思う。
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