メインコンテンツへスキップ
見出し画像

教養としての「あきらめ」

    加々本裕樹

     #現代人のための処方箋シリーズ 第三回として、今回は「自分らしさ」という蟻地獄を抜け出したその先、あるいはその手前に横たわる、動かしがたい「絶望あきらめの地形図」を眺めてみることにしよう。
     現代社会が我々に強いる最も残酷な強迫観念とは「努力すれば何者にでもなれる」という、あの甘ったるい啓蒙主義の遅効性のドクに他ならない。

    教養としての「あきらめ」

    「夢を諦めないで」――。

     テレビやSNSからは、成功を収めた一握りの「生存者」たちが、そうした無責任な励ましを振りまいている。

     しかし、社会学や行動遺伝学の知見を引き合いに出すまでもなく、個人の人生の輪郭は、本人の努力とは無関係な「初期設定」――すなわち、親の経済力、居住地域、そして何より遺伝という名の「運命のカード」によって、その大半が規定されている。
     これを直視せず「努力不足」という精神論で格差を正当化する風潮は、封建時代の身分制度よりもタチの悪い、現代版の「自己責任という名の呪術」と言えるだろう。

     かつての若者が抱いた中二病的な全能感は、現実という壁にぶつかって砕け散ることで、大人としての節度へと昇華される通過儀礼であった。
     ところが現代では、この「砕け散る」プロセスさえもが、資本主義の集金システムに組み込まれている。

     誰もが成功者になれると煽り、高額な教育費を注ぎ込ませ、挙句の果てに「敗北」を個人の無能の証として突きつける。
     この残酷なゲームに真面目に参加し続けること自体が、実は支配層にとって最も好都合な「搾取されるための準備」なのだ。

     ここで我々に必要なのは、単なる悲観ではない。
     自らの限界を正確に見極め、無駄な戦いからスマートに撤退するための、知的な「あきらめ」の作法である。

     あきらめるの語源は「明らかにし、見極める」ことだ。
     自分が「遺伝ガチャ」のどの地点に立ち、どの程度の能力(スペック)を配分されたのか。それを冷徹な観察者として認識したとき、初めて人は「他者の物差し」という名の呪縛から解放される。

     現代のオタクが、虚構の物語の中に「救い」を見出すのは、ある意味でこの残酷な現実に対する防衛反応だろう。
     しかし、その虚構が「公式」への無批判な従順や、他者との優劣を競うための道具に成り下がっている現状は、前回述べた通りだ。
     真に教養ある絶望あきらめた者とは、自分が「特別な物語の主人公」ではないことを受け入れた上で、それでもなお、自分だけの小さな庭を耕し続ける者を指す。

     誰にも見向きもされない趣味、金にならない技術、他人には理解されないこだわり。そうした「無用の長物」の中にこそ、システムの評価軸から切断された、真の自由が宿るのだ。

     正しく『あきらめ』を知る者は、もはや「オンリーワン」を目指して精神を摩耗させることはない。
     むしろ、凡庸であることの平穏を愛し、格差という荒波を「やり過ごす」術を身につける。上昇志向という名の麻薬を断ち、身の丈に合った幸福を再定義すること。それは、現代の消費社会が最も恐れる「不買」という名の静かな革命でもある。

     あなたはいつまで、届きもしない星を見上げて、自分の足元にある土の匂いを忘れ続けるつもりだろうか。

     『あきらめ』とは、終わりではなく、新しい生の始まりである。
     虚妄の希望を捨て去ったその瞬間に、あなたの目の前には、誰にも邪魔されない「自由」が姿を現すはずだ。

     しかし、その自由を享受するためには、世間からの「期待」という名の憐れみを、笑顔で踏みにじるだけの度胸が必要なのだが……。

    #現代人のための処方箋シリーズ
    #なんのはなしですか
    #酔った勢いで変な事を書いてるが後悔しない
    #深夜
    #ウイスキー山陰を3ショットだけ

    この記事が参加している募集

     
     
     
    https://note.com/big_hilo 世の中の綺麗事の裏側にある不都合な真実を言語化しようとする実験的note。幸福の土台は感情論ではなく冷徹な合理性にあるのでは!?そんな少し皮肉で限りなく自由なコラムを模索中。読後、あなたの常識が少しだけ書き換わるかもしれません。

    あなたへのおすすめ