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俺の背中を猫が推す

    猫に餌をやっているつもりだった。けれど本当は、社会の視線に弱った自分の背中を、猫たちにそっと支えられていたのかもしれない。

    ミントちゃんは菩薩のような顔をして高級パウチを要求してくる。

    しかも、あるとき突然、お気に入りにぷいっと背を向けるような、なかなかの曲者でもある。


    こちとら暑い最中、わざわざ買い物に出向き、彼女の好物を箱買いまでしてきたというのに、そんな日に限って、気まぐれがまた始まった。

    皿に出した〝ちょっとだから美味しい〟などと謳っているあのやつを、まるで下々の献上品を一瞥で退ける王女のように拒否ってみせる。


    「え、どうして食べないの? ミントちゃん」猫のご機嫌をうかがっている俺の背中に、ふと棘が刺さった気がした。

    その感じには覚えがあった。

    非常勤の研究員だった若い頃のこと。時間だけはあった。日中に図書館や喫茶店で文献を読み耽ったりすることもだから珍しくなかった。

    だが、「この人は何をしている人なんだろう」意図せず、そんな目を何度も向けられた気がする。

    研究という仕事は、地味なものだ。イスに座ってテーブルに肘をつき本のページをめくる。時々、つかれて突っ伏す。顔がひんやりとする。そんなのも働いているうちなんだが、外からはサボっているようにしか見えなかったらしい。

    そりゃそうだわな、と今更ながら自虐の吐息が漏れた。

    今度は、平日昼間の公園で、いい年をしたヨレたオッサンが野良猫に餌やりながら、あまつさえ話しかけてまでいるのだし。もはや言い訳の一つもできないよな。

    ただ一点、その当時と違うことと言えば、俺はそれでも一応、教授というやつにはなった。とはいえ、しがない身の上。猫吸いなどして、本でも一発売れんかなぁ……などと都合のいい夢を見ながら、どうにか研究の場にしがみついていたりだったりする。

    あの頃はまだたしか博士号をもらったばかりだったか。仕事など本当になにもなくて、大事な研究発表への参加旅費を一体どこから捻出するかと思案に暮れた日々でもあった。生き残りをかけての論文執筆に、全霊で取り組んでいただけなのに、周囲の勝手な思惑がこもった眼差しには、じわじわ削られた。

    まだ若かったから、胸中で罵詈雑言を返すことでどうにか耐えてみせた。

    こう見えて、俺は正真正銘、博士なんだよ。これはとりあえずの仮の姿なんだ。あんたたちには到底わからんだろうがな。今に見てろよ。
    珈琲の強い苦みが舌先に蘇る。

    精一杯強がっていたあの日々が懐かしい。


    「末は博士か大臣か」という言葉の残り香をかろうじて拾うことができた最後の頃のことである。



    それからほぼ二十五年。



    俺の背中は強度を失った。

    視線がもう痛すぎてたまらない。


    それほどの屈辱に晒されながら餌をあげにきたというのに、ミントちゃん、君っていったい何様なの? その時だった。林の向こうから弾丸の速さでこちらへやって来る三毛猫の気配を察知した。みーだった。

    すぐに足元にまとわりついてきてこちらを見上げると啼き声をあげはじめた。


    コイツも餌くれだ。


    丁度いい。ミントの残り物が、いやそもそも手すらつけられなかったご馳走がある……。

    みーに好き嫌いはない。餌にも、人にも。

    誰にでも突撃し、上手に餌をせしめる。


    ミントは名前を呼べば来るが、それまではどこかに隠れている。だからしばし探して公園をうろつかねばならない。

    だが、みーは、呼ばなくてもどこからかこちらの気配を察知して現れる。そして、どこまでもついてまわる。ストーカー猫だ。


    そのうち、自宅まで特定されたらどうしよう……。


    コイツの天真爛漫さはいかにも天賦のものだ。こちらがうっかり餌を持たずに散歩していたとしても歓待してくれる度量の広さすら漂わせるほどに。

    人間社会では珍獣扱いの類い……。いや、ただ抜けてるだけか。


    たとえ博士でも「肩書」ってやつを持たなければ俺たちの社会では空気扱いされるだけやしな。


    実際のところ、組織人が持つ実権なんかってのは、人を虜にする蜜の味にも近かろうよ。


    そこからすると、俺なんか、さぞ味気ないに違いない。


    当然、見向きもされず箸を置かれることになる。

    とまれ、猫は、俺を値踏みしたりなどしないし味見もしない。

    そうだ、あの三毛猫もまさにそうだった。


    ——ミャアさん。


    ***


    いつの間にか、俺は公園の猫を追うことに夢中になっていた。
    その仕草をレンズに収め、しゃかりきに動画へと縫いとめる日々。



    流行の波なんてものは避けてきたはずだったのに……。
    こう言うと意外に思われるだろうが、以前の俺は YouTube のような賑やかな世界には、すすんで足を踏み入れたことなどなかった。押し寄せていた動画全盛の波にも、頑なに背を向けて。

    それが今や寸暇を惜しむようにして、野良猫を撮りためてはアップしている。

    思い返すにきっかけは、愛猫の死にあったと思う。


    忘れがたくて、それまで撮りためていた写真や、iPhoneに収めていた細切れ動画を、繰り返し眺めては嘆息していた。



    脳裏には、愛猫が生き生きと動く往時の姿が浮かぶ一方で、手元にある映像や写真は、まとまりなくバラバラで、その落差はあまりに大きかった。
    だからこそ、彼女をもとの優雅な仕草のままに、娑婆へどうにか呼び戻してみたいとの誘惑が、胸の底から静かにせり上がった。


    初めて作った映像は、見るも無残な仕上がりだった。

    扱ったこともないiMovieに四苦八苦しながら、それでも何とか形には仕上げた。
    苦闘したからか、不思議と俺の心の奥にはひとすじの充足が滲んでいた。


    ——誰かに見てほしい。


    欲が膨らんだ瞬間、急に現実に引き戻された。

    あの三毛猫を知る人間など、ほとんどいないということに。


    生きた証や喜びを分かち合える相手は、思いのほか狭い。



    人にとっても、猫にとっても。


    愛猫が急に不憫に思えてきた。
    俺だけはきっと君を忘れないよと誓ってみる。けれど……。

    実家の駐車場に張られた床には一時、セメントが固まる前に歩いた〝犯ニャン〟の肉球が型取られていたはずだが、今や割れて粉々に砕け散っている。


    ***


    ある日、その三毛猫はふとこの世へ転がり込んできた。こわれ物のようなその命は、人知れず消えゆく運命を背負わされていた。 せやけど、俺が拾ったんで大逆転やな……。

    ——にしても、危なかった。


    愛猫が俺を柄にもない哲学に誘いかけたけれど、似合わないことなんてするもんじゃない。

    もし、命なんてものを見つめたくなったなら、気休めでもいいから、仏教の教えにでもすがるほうが面倒じゃなくていい。


    手元に都合良くあった父の手垢でテロテロになった聖典をペラペラめくってみる。何度もそこを開いたであろうページが指にカタンと引っかかる。

    「人はなぜ生まれてきたのか」目に飛びこんできたその一文の迫力に、さすがにのけぞりそうになった。


    仏さん、ちょっと重たすぎるよ、と思わず俺は胸中で苦言を呈した。


    だが、だまって読めとでも仏さんはおっしゃりたいのか——いや、父の残滓が俺を誘う。

    人は、仏の教えに出遇い、いま救われるために生まれてきたらしいとよ。
    そして、もし救われたんなら……。今度は「救う側」として、あちらからはたらかんといかんらしか。



    オトン……、アタマの中に直接話しかけんでくれ。


    それはそうと、あのぉ仏さん、人間は死んでもまだ働かないとあかんのでっか?

    「任期付き」にしか縁がなかった俺は反射的に、やってはいけない反論をぶっ込んでしまった。



    それにしても、いやだからだろうか、父は晩年、何かを悟ったかのようなことをしきりに語っていた。


    「自分は消えるんじゃない。必ずまた戻って来る」


    時折、痰を切るようにして、喉の奥を絞っていた。

    それを耳にした俺は、いよいよかと覚悟したものだが。

    父は、こちら側とまだ繋がっているのだろうか。
    今朝方、庭先のバンコに腰掛ける気配に触れた気もしたが……。


    仏さんの背中に乗せてもらうと、なんだかちょっとだけ遠くが見える気がする。

    ミャアなど今頃は、息を潜めて縄張りのどこかに網を沈めて俺の足が引っかかるのを虎視眈々と狙っていたりして……。

    まるで、いつか自分にお供えの影が差すことに淡い期待を寄せて立っているお地蔵さんのようやな。


    ぷっと吹いた。


    そんなやんちゃで頑固な菩薩猫ちゃんの痕跡は、いまも家のあちこちに息づいている。

    爪とぎで削られた柱。粗相のたびに苦笑しながら拭いた畳。大怪我をして戻った夜、床に散った血の赤。

    どれも消えゆくはずの痕が、今なお温かい記憶として時の中に宿っている。

    もしあれがあのまま外猫のままだったなら、その何よりも大事な胸の灯は何ひとつ残らなかった……。


    ——あの日の奇妙な出会いは、だからこそ、ミャアのためというよりも俺のためにこそあった気もする。


    実家の軒下に居ついていた猫は、動物嫌いの母の癇癪にあい、とうとう追い出されようとしていた。かつての俺がまさにそうであったように。

    父は、帰省していた俺に懇願した。

    あれは年寄りなんだ。捨てられたら死んでしまう。お前何とかしてくれ。


    懐かしくも無責任極まりない、あの老いたしゃがれ声が蘇る。


    ***


    さまざまな思い出を抱えながらカメラを回し続けているうちに、俺はちょっとした発見をしてしまい、更にそのことで余計な悩みの沼に落ちることとなった。

    後から見返すと、画面に鳥などが映り込んでいたことが度々あった。

    撮影中は不思議とまったく認識できていないのに、目の前を確かに通りすぎていた。


    見えていながらも見えていない。俺の頭の中の電球が、「逆もあるぞ」とポンと点灯する。幽霊などいないはずなのにいる。いかん、頭痛がしてきた。

    父が居たときは当たり前すぎてその存在をことさらに感じたことはなかった。名残惜しむようになると気配をいつも探すようになった。

    猫たちも同じかもしれない。公園の猫は見えるけど、野良猫は見えない。

    ミャアなど、居るのに亡き者にされようとしたからな……。

    とまれ、映像に命の足跡を残そうとするのは、高尚な使命感からなどではない。

    そんなものを本当に抱ける人間は、たぶんそう多くはない。

    俺の場合、ただ、猫を取り巻く理不尽ってやつに、どうしようもなく胸がざわついたにすぎない。


    のび〜をする猫の姿を当然と受けとめ、得意面だった日向の縁側でさえ、ある日を境に主役を失ったしょぼくれた姿へと変貌させてしまうほど唐突に、奴らは消える。



    俺たちは明日も同じ日がまた続くと信じている。だが、公園の猫たちが明日も居るかは誰にもわからない。



    そうだからこそ、記憶の肉片ってやつを、人なら誰だってやっぱり未来に手渡したくなったりもするんじゃなかろうか。

    少なくとも俺は、そっち派だ。そういう訳で身近な人には一応こう勧めることにしている。


    自分の肉声をきちんと残しておくといいですよ、できれば動いている姿も、と。

    小さく腰を曲げて透明になりながら歩く父が重なってしまう。


    出しゃばりなのは承知のうえだ。
    けれど、たとえばあの父がいまここに居たなら、はにかみながらもピースサインを出してくれることだろう。

    野良猫をカメラ片手に眺める俺の薄っぺらい背中に、虫が止まった感触がして、腕を後ろに回す。


    あれたち、まるで「わたしたちを、忘れないで」と、お前を拝み倒しているみたいだな。ちょんと撮ってやれよ。そんな声がした気がした。


    ***


    公園で一心に猫撮影をしていると、通りがかりの人に声をかけられることが増えてきた。

    「何をしてるんですか?」

    「YouTuberですか?」

    「お仕事はそっち系ですか?」

    本当なら、素直に答えればいいのに、元来、人が苦手な俺は心の中でつい余計な突っ込みをいれてしまう。


    ——うるさいな、念仏くらわすぞ……


    俺の弱りきった背中とて、火が入る瞬間に立ち会うと、辛うじてしなやかさを取り戻すくらいの元気はまだ残っている。


    にやりとしてみせながら、しかし、ハッとなった。
    いかん、これじゃ会話が続かないではないか。

    反省して、こちらから「おたくは猫に名前とかつけるクチですか?」などと、満面の笑みでそれらしく訊き返してみる。

    その問いに返ってくる答えは、たいてい「ない」の一択だ。
    無論、そのときもそうだった。

    名など間違ってつければ情が湧いてしまうことを誰しも知っているのだ。
    どれほど可愛がっていても、野良猫などいつかふいに姿を消してしまう。

    だからこそ、あえて距離を置く。

    俺もそうしていたはずだった。

    されど、ある日そっと、その猫の背に手を置いたとき電気が走った。背骨の弧や尻尾へと続く丸みが、亡き愛猫とあまりに似ていた。

    瞬間、その仔はもう特別になっていた。


    思わず口をついて出た——ミントちゃん。


    特に考えたわけではない。ただ唇に浮かんだ。


    白ぶち模様を見ながら、大好物のミントアイスクリームのチョコチップを思い出していたせいかもしれない。


    それ以来、日がな一日撮影などしていると、通りすがりの人から「今日もミントちゃんは可愛いですね」と声をかけられるようになった。

    どうして、この仔の名を知っているのだろう?

    俺は、誰にも聞こえないように小さな声で呼んでいたはずなのに。


    公園に集う人たちに、悪い人などいない。うん、恐らく。



    気さくに声をかけてくるおばさんは学校関係らしい。

    チュール片手に猫を手なずけるおっちゃんは、見るからに人の好さが滲む顔をしている。

    地域の見回りも兼ねるそのおっちゃんは、俺が餌の容器を持ち帰るのを見て、いつも褒めてくれる。


    大人になっても、認められるのはやはり嬉しいことだ。

    博士号をとってからというもの、そうした記憶などほとんどないだけに一入だ。

    ほどなくして、この公園には、この場所なりの不思議なルールがあることを知った。

    初めての人には、警戒心から少し探りを入れる。

    しかし、一度でも「大丈夫そうだ」とわかれば、それ以上は詮索しない。

    顔見知りにはなっても、誰がどこで何をしている人なのか、互いに深くは知らない。自分から話さなければ、誰も尋ねてこない。


    ここでは皆、ただ猫を愛でる仲間として並び合う。肩書きも、性別も、年齢さえも消えて——残るのは、ただの人の繋がり。いや連なりか。
    不思議なことだが、俺はこの公園に足を踏み入れると、鎧の紐に絡まって息苦しかったこの体がどうしてだかじわりと緩んでくる。

    あるとき、体調を急に崩して猫詣でがかなわないことがあった。

    数日後に行くと、見知った顔のおばちゃんから訳を尋ねられた。

    もう大丈夫と返事をすると、「あなたが来ないから猫が寂しがっていたわ」と、肩をとんと叩かれた。

    そんな距離の詰め方をここでされたのは初めてだったが、触られた肩の付近に予期せぬ温もりが広がった。

    「猫は俺じゃなくて餌を待っているだけでしょう」恥ずかしさを隠すように返すと、真剣な目が向いた。


    「そう、餌係が居なくなったらあの猫ちゃんたち痩せ細ってしまうわ。だから、ちゃんと来てね」

    俺は久しぶりにもらったそんな言葉に素直に嬉しさを感じた。が、妙なプライドが余計な一言を吐いた。

    「いや、仕事があるから毎日は難しいんですよね」言ってドギマギした。

    それは、自分の心の奥底が少しよじれたからなのかもしれない。

    本音を言えば、本当はあまりここには居たくなかった。同期の顔が脳裏をかすめる。

    相手に一瞬怪訝な表情が浮かんだように見えたがそれ以上は何も言われなかった。

    カラスが仲間同士で啼きあっていた。

    夕方の空気に海風が混じって頬を撫でる。薄く潮の匂いが喉の奥に沈んでいく。

    ここにはしばしば妙な鎮けさが落ちてくる。

    そんな静謐に揺らぎを差し込む存在があるとすれば、それは猫だ。

    その日の気分で、最初に駆け寄る相手を選び、餌をねだる。

    一番に選ばれれば嬉しいが、外れるとかなり複雑な気分になる。

    やはり、あっちのあいつの秘密成分入りの餌には敵わないのか、と悔しさがよぎる。

    ならこっちも今度こそ、幻のカツオ節でも仕入れて挑んでみようかなどと、そんな思いさえ生まれてしまう。

    喜び勇んであちらの主さんの元へ去りゆくミントの後ろ姿を、がっくりと肩を落として見送っていると、みーが向こうから怒濤の勢いでやって来るではないか。

    みー。呼ぶと、にっくきライバルをスルーして俺のもとへきた。

    みーのビロードのように柔らかい毛並みが風にふわっと揺れる。

    撫でて恍惚となってみせながら俺はそいつ——西村さんに対してドヤ顔になった。

    強面だが猫と俺たち猫派にだけは優しかった。犬派には恐れられていたようだが。

    まだ十分現役そうだが、昼間によく遭遇するあたり、何者だろうか、と互いにきっと思っている。

    でも無粋なことを一切聞かないのがこの人のいいところだ。

    そんな西村さんの表情がその時——みーが素通りした瞬間、サッと曇ったのを俺は見逃さなかった。こめかみに浮いていた青筋は見なかったことにしよう……。

    勝った、と内心ガッツポーズをつくった。

    俺のドヤ顔の後ろに、嫉妬の濁りを呼び込んでしまったようで、いくぶん申し訳ない気がしないでもないけれど……。

    なんにせよこれまで俺は、猫とは癒しをもたらす存在だと無邪気に信じて疑わなかった。

    いつしか、自分の中に情念の澱が幾重もの層となって沈んでいくのを感じながら、ふと思った。


    猫とはもしかして、人の内側へ静かに侵蝕してくる「使徒」なのかも。
    でもな……、人と猫との間なんかに〝ATフィールド〟とか張れないしな……。

    そんなことを考えている自分が可笑しくて、俺は無垢な村人みたいな顔をつくりながら、小さく肩をふるわせた。しばらくしてミントちゃんが側に戻って来た。くりくりした目がこちらに向いたその瞬間だった。口に溜まっていた愛憎が零れた。

    可愛い面差しで、お前という奴はなんと恐ろしいやつだ。
    罰として今日は、シーバの特上を献上しよう。外はカリカリ、中はクリーミーだ。大いに喜ぶがいい。

    ……なのに、どうしてそう切なげな顔をするのだ。もしや、そちらではなく別のほうがよかったのか。

    ためしにパウチの袋を差し出すと、ミントちゃんが今度は強烈に反応した。

    何というワガママ娘か。俺が社会でそんな真似でもしようものなら即座に打ち首ものだよ。

    一瞬ためらったものの、別の器に移してしぶしぶ差し出す。
    猛烈に食らいつくその姿に、やはり、そちらがお望みであったかと、俺はもうすべてを観念した。


    俺も次こそは猫に生まれたい……。

    みーの愛らしい姿が想像力を掻きたてる。こいつらと一緒に猫になって遊んだら面白いだろうな……。すると、目を細めた西村さんが俺とは露とも知らずヨシヨシしてニヤけてる風景までが押し寄せてきて腹が捩れてしまった。

    いや、人間も案外いいかもしれん。なぜだかちょっとそんな風に思えたことに自分でも驚いた。

    ともあれ、何とかミントちゃんに喜んでもらえたようで、俺のなかに得も言われぬ屈折した喜びが込み上げた。

    それにしても、不覚と言えば不覚。嫉妬やドヤ顔に加えて、惜しみ・羨みの気持ちまで芽生えてしまうなんて……。

    もし閻魔様にでも見つかったなら、けしからんと地獄に落とされてもおかしくはない。

    そしたら俺は、苦し紛れにこう反論することだろう。

    目の前のこの仔が悪いんです。俺を惑わせる悪女なんです。
    もしどうしても「あかん」と仰るなら、せめて〝任期〟を付けて下さい。
    言いながらハッと我に返った。

    冷静になると、束の間でも猫などを奉ってしまった自分の浅はかさに、俺は深く恥じ入った。

    だがそんな殊勝な気持ちも覚め遣らぬ次の瞬間だった。菩薩ならぬその放蕩娘——もとい猫は、妖しさを隠さぬまま王女のように振る舞いはじめたではないか。

    優雅に食事を終えたミントちゃんが、こちらを見て小さく啼いた。
    まるで「美味であった、許す」とでも告げるかのように。

    そのままごろりと転がり、何度も身をくねらせる。

    草の濃厚な匂いが鼻を満たす。
    撫でてよし、のフラグが立った。


    俺は下僕としてのお勤めをそそくさと思い出し、毛繕いのお手伝いをただちに始めた。

    ミントさまのお腹や背に手を添えて、そっと撫でる。いや失敬。撫でさせていただく。

    得も言われぬ手触り。みーの背中はペルシャ絨毯級のふかりだが、ミントのそれはツルッツルなのがまた妙に心地良い。ああ、こここそ極楽だと思う。


    猫を世話しているつもりだったが、俺のほうこそ世話されているのかもしれない……。


    鬼子母神が放逐しようとした半野良猫が、俺の家族になったあの偶然の導きへ感謝の念がふと湧いた。


    ミャアは俺によく喋りかけた。


    俺はまるで親馬鹿そのものみたいに彼女を溺愛しながらそれに応じた。

    だからと言う訳でもなかろうが、ミャアの啼き声は時折、俺の中でしばしば脳内変換された。

    「拾ってくれてありがとにゃ。大将のことずっと忘れないにゃ。大事にするにゃ。嫌いな人がいたらまかせるにゃ」

    そのたびに俺は戸惑ったものだ。猫に大事にするとか言われてもな、となぜか浮かんだ母の顔を強く振りほどいた。ミャアから何か重大発言があったような気もしたがそれは聞かなかったことに俺はした。


    へそ天でくねくねしているミントの尻尾の先にふと俺の目が釘付けになった。
    黒い三角の影がちらりと見え隠れしている……。


    ——思い過ごしだろう。ただの黒ぶち模様を、心が物語に変えただけだ。

    俺はそっと目を閉じる。
    掌に伝わるひたすらに柔ツルな感触が俺をただ無力にしていく。

    どこまでも落ちていく感覚にそのまま身を委ねた。


    夕日がミントに差し込み、白毛をひときわまぶしく磨き上げていく。
    地面に映る翳は、幾重にも姿を遷しながら、俺につまらない問いをずっと突きつけている。


    ——やがてそんな影も消えゆく……



    だから俺は目の前のそれをそのままにレンズに刻んでおこう。


    あの猫は確かに、ここにいた。


    ***


    その日も、俺が夕暮れのミントたちを激写していると、背中へ不意に威勢のいい声が飛んできた。

    「精が出るね。猫も嬉しかろう」振り返ると西村さんだった。

    「あんたが何者かは聞かんけど、もしどこかに行く時はちゃんと教えてくれよ」

    後ろからひょっこり顔を出したおばさんがそこに声を被せる。

    「転勤する時はぜったいわたしたちに届け出をしてからよ」


    足元にはいつの間にか猫二匹が居た。

    こっちを見つめてちょこんと座っている。

    俺は苦笑しながら、じわりと汗をにじませていた。

    けれど、全身はどこかほぐれていた。

    二人を見ずに足元へ向けて呟いた。


    俺はたぶん、もうどこへも行きませんよ。


    こいつらに、叱られるから……。


    な、ミントちゃん。


    と猫耳の間にちょこんと広がる狭い額をトンとしたら、横でみーが目を剥いた。


    「なんや大将、モテモテやな」西村さんの目の底が冷たく光を放った。

    この人、こっちが本物か。俺の背筋に冷や汗がツーと流れた。

    殺気成分を混じらせる大きなダミ声に驚いたのか猫が二匹揃って啼いた。

    ぴゅうと風がそれをさらう。

    西村さんとおばさんは強ばっている俺を指して二人して笑いあっていた。

    薄紫の空が、そこに居る俺たち全員を静かに包みはじめた。

    明日もちゃんと来ないとだめだからね。おばさんの目が俺に向く。


    そのうち町内会にも誘われだしたら俺はどうしたらええんや……と、パニくる気持ちを深呼吸して整える。


    ——ふう。うん、明日は明日の猫次第ということで。


    俺は胸中でペロッと舌をだしてみせた。





    #創作大賞2026 #エッセイ部門

     
     
    Shodo Mizuki|Official 永遠の15歳、三毛猫ミャアの飼い主。 博士(人間環境学/九大)・立命館大客員教授。 著書に『子どもの道くさ』(絶版からの復刊経験あり)など。 【Michikusa.】 猫と路地と、 世界を少し拾いなおす。

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