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第29話|静けさだけが

    朝になっても、
    換気扇は止まらなかった。

    窓の外は白かった。

    昨日と同じ白さだった。

    シンクの中の豆腐は、
    そのままだった。

    濁った水の表面は平らだった。

    白いゴミ袋は、
    縁へ畳まれたまま置かれている。

    新聞も、
    充電ケーブルも、
    同じ位置にある。

    洗濯機の横では、
    落ちたハンガーが、
    白い床の上で少し歪んだまま止まっていた。

    私はリビングにいた。

    換気扇の形をした静けさだけが、
    部屋の真ん中を回っている。

    向かい側の椅子は、
    まだ少し引かれたままだった。

    私はテーブルを見る。

    半分に折られた新聞の端は、
    もう壁の白さと区別がつかなかった。

    充電ケーブルの線だけが、
    暗い木目の上で細く残っている。

    窓の外で、
    遠くの車の音がした。

    ここまでは上がってこない。

    私は立ち上がる。

    床を擦る音が、
    少し遅れて返ってくる。

    玄関を見る。

    小さな段ボールは、
    まだ置かれていた。

    閉じられている。

    ガムテープは貼られていない。

    蓋の隙間だけが、
    細く黒かった。

    私は近づく。

    隙間の暗がりの奥で、
    少し折れた白い紙の端だけが、
    動かずに止まっていた。

    私は触らなかった。

    窓の外を、
    白い車が通り過ぎる。

    その瞬間だけ、
    玄関の床へ影が落ちた。

    段ボール。

    私の靴。

    何もない空白。

    三つの影の線の間隔だけが、
    床の上で不自然に広く伸びたままだった。

    すぐ消える。

    私はリビングへ戻る。

    換気扇の形をした静けさだけが、
    まだ回っている。

    私はテーブルの前で止まる。

    向かい側の椅子を見る。

    座らなかった。

    廊下を見る。

    洗面所の電気は消えていた。

    鏡の前にも、
    誰もいない。

    でも、

    そこが空なのかどうか、

    もう分からなかった。

    窓の外の白さだけが、
    少しずつ薄くなっていく。

    私はキッチンへ向かう。

    換気扇の下で止まる。

    羽は止まっていた。

    私はしばらくそれを見ていた。

    音はしなかった。

    でも、

    静けさだけが、

    まだ回っていた。

    私は手を伸ばす。

    換気扇のスイッチへ、
    指先だけを置く。

    ずっと動かされていない四角いプラスチックは、
    指先の下で、
    ただ冷たく固定されていた。

    私は押さなかった。

    そのとき、

    シンクの方で、

    小さく音がした。

    私は振り返る。

    濁った水の表面が、

    少しだけ揺れていた。

    何も落ちていなかった。

    何も増えていなかった。

    白い部屋の中で、

    濁った水の表面だけが、

    ゆっくりと揺れていた。

    換気扇の形をした静けさだけが、

    部屋の真ん中を、

    ずっと回り続けていた。

     
     
    離婚したあとも、 夫婦は同じ部屋に住み続けていた。 引かれた椅子が戻らなくなった頃から、 二人の距離と一緒に、 部屋の中の何かも少しずつズレ始める。

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