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🤩❤🥰【GO to KASHII キャンペーン】「樫椎の音楽レーベル『ホレストウッズ・ヱンターテヰンメント』」

    森林 樹


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    祝!You tube 『DONGURIS』登録者1名、再生回数合計18回達成!!(2025年5月4日時点) まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの樫椎が生んだロックバンド!『DONGURIS』が所属する総合エンターテインメント企業が、樫椎ホレストウッズ・エンターテインメントだ。

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    DONGURIS 最高のラブソング

    樫椎ホレストウッズ・エンターテインメントが激推しする『DONGURIS』が全ての男女に捧げる至極のラブソング『小粒なマーメイド』は2025年夏の
    GPC「郡北地方の今日の天気 (28:56~28:59)」のテーマソングに決定!

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    樫椎ホレストウッズ・ヱンターテヰンメントの歴史

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    樫椎ホレストウッズ・ヱンターテヰンメントは平成11年(1999年6月) 東京で夢破れて樫椎に戻ってきた樫椎 二郎かしい じろう(本名:仁見 京三郎ひとみ きょうざぶろう)によって同年8月、仔馬宿崖下こまやどがけしたに設立された。

    創設者 樫椎 二郎かしい じろう

    樫椎 二郎かしい じろうは太平洋戦争前の昭和10年に樫椎の仔馬宿崖下こまやどがけしたに生を受けた。

    戦争が始まっても疎開してくる者さえいなかった山深い樫椎地域で50歳になるまで山菜を採ったり、街へ出て寸借詐欺をしながら蛇平の闇飲み屋街などで呑気に歌を歌い暮らすろくでもない男だった。

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    よく分からない酒を出し、アコーディオンやピアニカでカラオケが出来る闇飲み屋のホステスたちに「お歌がお上手ね!」とおだてられ続けるうちに、二郎は東京で歌手になるという夢を抱くようになった。

    50歳の時に「東京で一旗揚げて、故郷に錦を飾ろうまいか!」と、
    一念発起して上京した。昭和60年(1985年)のことである。

    二郎は場末のスナックで働いたり、寸借詐欺などをしながらレコード会社にカセットテープを持ち込んでは自分を売り込み続けていたが、全く相手にされなかった。

    レコード会社に門前払いされ続け、音楽のデジタル化が進む中、カセットテープが次第になくなってきて、1999年6月、二郎は怒りに震え、樫椎に帰ることを決断した。

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    当時の苦悩が窺える二郎の日記。

    1999年7月は故郷樫椎で、ただただ空を拝み怯えながら過ごした二郎は、
    8月になると「1999年7月に一度死んだつもりで、東京を見返してやるっち!」と精力的に動き出す。

    樫椎の人間はラジカセすら誰も見たことがなかった中、Wデッキのラジカセを唯一持つ男としてのメリットをフルに利用して、本来、著作権、版権的に許されないような商売を始めた。

    二郎は人気の歌謡曲を前半、後半とぶった切って、間に自分の歌を入れるという今時の動画のCMのようなやり方を開発した。

    カセットテープのツメを折り(自分の歌の上から録音できなくなる方法)、
    ソニーウォークマンを真似たよく分からない安物ポータブルカセットプレイヤーをよく分からないルートから仕入れ、一緒に樫椎で販売した。

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    Wデッキラジカセはカセットテープからカセットテープにボタン1つで音楽を複製できる夢のマシン。当時、携帯ラジオしかなかった樫椎地域に二郎はカセットテープとポータブルプレイヤーを持ち込んで商売を始めた。

    樫椎民どころか郡部民はカセットテープでラジオやテレビで聴いていた曲がいつでも聴けることに驚き、毎日、二郎の店に行列を作った。

    東京で買えば3000円ぐらいの安物プレイヤー『KYOKUKIKU SAN』が、樫椎では10倍の30000円で飛ぶように売れた。

    著作権を無視して人気曲をWデッキラジカセでダビングして、間に二郎の歌をねじ込んであるカセットテープも1本2000円で販売していた。

    その店が後に『ホレストウッズ・ヱンターテヰンメント』となり、ずっと収益の殆どはポータブルプレイヤーとダビングカセットテープだったが、
    歌手デビューを諦めきれない二郎はセルフプロデュースし、自分の楽曲も販売するようになった。

    樫椎 二郎かしい じろう『男、どんぐり一代』

    二郎の椎山のどんぐり農家を歌った『男、どんぐり一代』は郡北地域で108本の販売を達成。

    しかし、それよりも人気歌謡曲をぶった切って、間にこの曲をねじ込んだダビングテープ販売効果で、地域で知らない者はほぼ居ない曲となった。

    闇飲み屋のママをデビューさせる。

    二郎は特別な関係になっていた蛇平の闇飲み屋のママの丸代をプロデュースして、あの力づくで曲を割り込ませる手法で御豆 丸代おまめ まるよの米子へ行ってしまった忍沢の小魚漁師を想う『樫椎慕情かしいぼじょう』を地域民の誰もが知る曲にすることを成功させた。

    息子の仁見 平太ひとみ へいたが二代目社長に

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    樫椎ホレストウッズ・ヱンターテヰンメント社 二代目社長 仁見 平太ひとみ へいた氏「時代は既にIT革命、ウチもISDNから大容量ブロードバンドとかいうADSLに切り替えて、パソコン通信で獲得したファンを更に拡大して、樫椎、郡、県央、県、隣県、地方、都会、大都会、諸島部、と日本を制覇して、いずれは東アジア、アジア、世界に打って出るっち」と力強く語る。

    二郎は「もう歳も歳だし、歌い手に専念しようまいか。」と言い、ブラブラしていた息子の平太に会社を引き継いだ。

    平太自身も何曲かリリースしたが、さっぱり売れなかった。

    すると平太は父親のビジネスを参考に、CD、CDプレイヤー、『CDを焼く(複製する)』というハイテク技術を樫椎に持ち込むという起死回生の一打で、版権や著作権に大いに問題があるが、ビジネス的には成功した。

    県警に摘発を受けた後は、ホレストウッズ・ヱンターテヰンメントは開店休業状態だったが、凄いバンドがいると聞いて関谷学園の文化祭を見に行きDONGURISを見て感激した平太は、

    「オマエらなら郡制覇できる!もしかしたら県央でも売れるかも知れないっち!金の匂いがするっち!」

    そう熱くメンバーに語って『DONGURIS』と契約して、

    父親の樫椎 二郎かしい じろう、父の愛人の御豆 丸代おまめ まるよ、自身、仁見 平太ひとみ へいたに続く、4番目の所属アーティストとした。

    DONGURISの楽曲

    DONGURISの代表曲『ROCK IS DONGURI』。
    この曲を聴いて社長仁見 平太ひとみ へいたはDONGURISの"郡制覇"を確信したという。

    DONGURIS初期の名曲。忍沢地区のエアガン漁にインスパイアされたらしいが、基本的に何を言っているのかよく分からない曲。

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    樫椎ホレストウッズ・ヱンターテヰンメントは郡にとどまらず、noteを通して、多くの都会や海外在住の方にまでも支持されている『ワールドワイド・アーバン・エンターテイメント企業』です!

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    全ての日本人に忘れ去られ、取り残された樫椎地域。『どんぐり農家とその地域』をご紹介します! 現在、蟄居中に出奔、脱山して、下総でエグゼクティブクロスメディアクリエイターとして大活躍中です。 作品紹介も致します。

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