
天才論 『外れ往く者の正対』
序
撰ばれてある
恍惚と不安
二つわれにあり
周りに聞こえても構わぬ声量で、ちょっとした説教のようなものをものしている人が居ます
私です
誰も相手など居ません
いつからか、説教を下す相手を求めてきたのでしょう
そのほんのちょっとの来し方に就いて、説教のつもりで聞いて下さい
破
潜趨勢・指数関数的諸力としての「取り返す様」
一度、打ち込めば、天にも昇って行くように遠くまで駆け出していく、青年が居ます
私です
表題のこれは、多くの場合日本国それ自身の生成に、非常に沿うような形で、私もガラパゴス化の王様かの様です
例えば、古来神道の普及した日本では、厩戸王による、仏性政治の様に、大和に生きることは、旧来性に比して優れたつぎはぎを用意することだったのかもしれません
時代が往けば、神仏習合していく過程で、江戸時代の儒教の最盛を迎え、やがて維新を経て仏教を排した、神道の国教化につながってゆきます
時代を経るというのが、当たり前に流転の事だと言え、余りに手前勝手なのが、日本の思想のようなものであろうと、想う次第です
しかし、殊に近代美術の成立は、やはりこの「取り返す」という趨勢の延長に、島国としての根性を焼き直していると、そう強く感じます
ナショナリズムが、欧化主義に対する反動思想の謂いであるのはいうまでもないことながら、すくなくとも「美術」に関するかぎり、その主張とは裏腹に欧化を積極的に推し進めていったと考えられるのだ
私たちの先祖は、同じホモ・サピエンスにしても、ホモ・オポーネントでもあったりして、もしかするとサピエンス史というのはどこかに大きな断絶があっても良かろう程の、隔たりを感じます
時に、同じように、「取り返す様」の他人に、恐れを持つことが在りましょう
「取り返しのつかないところまで、突っ走って突っ走り方を取り返すのさ」というのは竹原ピストルの歌詞ですが、どこかにこの態度は普遍な面持ちをしていると想いませんか
私たちは、「持ちえなかった」諸契機と、「持ち得たい」夢の狭間に居ますが、私は次のように想います
「持って居ると想ったら、
底が抜けて、
走って戻らないと、
届かないところまで
転げてしまって居る」と
じっさい、その様に思い過された日々の中にしか、不和というものはありません
多教的で在り、オーソドクスからガラクタまでが同じ展示の命の上で、なんとか帳尻合わせを図るようにしか、私たちは一生懸命になれぬのです
天才には、このような万能感における無欠の強さではなく、補充され続けているはずなのに底の抜けた、したがっていつまでも空っぽな心身に、「取り返す指数関数的諸力」を与えるものが必要です
起こり・均質的個性と特異的「個」性
自分の男性器に生殖をされたい変質者が居ます
私です
私たちは、日常が十分に日常だから、テーマパークに非日常を求めます
ハレとケというものですね
充分にケがケでないと、ハレは十分なハレではないのですね
それで、集団と個ではどっちがハレで、どっちがケなのでしょう
ヒントとしては、より基本的で、時間が長く設定された方が、私はケだと想って居ますよ
集団と個では、基本的で、当たり前なのはどちらか、です
常日頃、私は個が集団の単位だと想って居ます
集団が先んじて「抑止力」や「統率」を磨いても、構成員の個がなければ、誰に対するイデオロギーか、判然としないもので、オッカムが剃刀を持って居れば(*1)、ちゃんと剃ってくれると想うのです
「個」性というのが大体このようなことだと想ってください
換言して「どうしようもなく個として先んじている」様だと言えます
ちなみに、イントネーションは「個」性で、美学とかデュシャンとか、そんな具合だと想ってください(それお前の出身地に拠るやろ)
同じ個性というものを、美術手帖がこっぴどく批判していたのを、確かに記憶しています(出典は忘れました)
「均質化したパーソナライゼーション」そして「そこから逃避できない犠牲者としての教育」の様な範疇を説明していたように記憶します
私たちは、誰かの客体である前に、
己の主体ではありませんか
踊らされるな、自ら踊れ
もっと言うなら
「踊らされるなとか、踊れとか、
その前に踊り狂って
神秘主義の開祖に成ってまえ」
って感じだと想うんです
私たちは「個」性を生きたいのだと想います
恐らくは、生き甲斐のようなものも、読書してちょっとした料理をして、夢想に耽っては縫物をすることで、別に他人のために生きることを本分だと想って居ない人が大半だと想うのです
かく言う私も、大学の専攻に関して、哲学など選ぶ、人文の民です
アホほど読み腐って、寝腐って、ちょいとつまはじきに逢えば、それでよいと想って居ます
天才というものは、孤独であるよりは孤高なものです
飲み残した一杯のアブサンを探す太宰の隣で、オキニのセクシー女優のアカウントを探している様な吾人です、天才の輪郭だけは分かって居ますが
「個」性というのは、あらゆるしがらみに対する、最自己優先的な、或る意味のピカレスクですから、あのプラスチックのてらてら光ってあるのより、幾分鋭いということしかわからぬ人に、「獰猛だ」と想われておけばよいのです
流離譚・反転図式が地続きに見える「どうしようもなさ」
サカナクションの「夜の踊り子」に、「朝っぱらから乾布摩擦の踊り子が踊り狂ってないとその修飾はおかしくないか」と突っ込んでいる人が居ます
私です
そろそろ天才論に就いて、少しくは分かってもらえているものと、想って居ますが、どうでしょう
鼻についていますか、ちんぷんかんぷんですか(これが最も平均的態度)、「俺のことやんけ」ですか(いいから納税してください)
いずれにせよ、天才の生理というのは多くの人にとっては、謎なものです
天才とは、表に出ることのできぬ、或る種の性向が在ります
平常の気で生きてきた中央値的人間が、いつしか羨望の眼差しにまばゆくひそめる様な、そんな天外の中に居るのですから
いつしか人は、それを病蹟と呼ぶようになりました
とっちらかった行動原理を、病気の所為にしてしまえ、という何とも愚かな試みです
私は、病理の犠牲者ですが、
犠牲者であることで、反転図式を得ました
しばし、メルロ=ポンティを差しはさんでおきましょう
出典は『知覚の現象学』などを参照にしてください
彼の現象学理論の大枠は、人間の視線の解放のようなものだと想います
コップを一周見て回ってみてください
見えた面に地続きに次の面がなぞって行かれ、やがて突起になっている部分を俯瞰してみる位置に就いて、「ああ、かくかくしかじか」と横手を打ってみます
パースペクティブ性と呼ばれる彼の視線解放は、このように、「見えた面」と「次の面への視線移動」と、「俯瞰位置への身体移動」と、この三つを、原因と結果の無限のやり取りの中に沈め、確たる原因性、目的たる結果などを蔑ろにしていく傾向にあります
これは彼の、身体図式の観念より、「見ている身体」の動線が「見ようとして動く身体」に自然と連れ立って歩まれていく、そのそつなさを体現します
例えば、ボールを投げる、という動作を、いちいち、三角比(sinとかcosとか、ああゆうの)を用いて、初速度V0を与え、云々などしませんで、ただ身体が「覚えた」通りの動作を完遂します
この「体が覚える」根拠が、彼における身体図式です
従って、己一人に共有された己の行動原理のようなものだと想ってください
これを、ヘーゲル的に言えば、「テーゼ(定立 / 暫定的な前提知識)」としておきましょう
はたまた、それに真っ向からぶつかってくるような立論が在ります
これを、同じように「アンチ・テーゼ(反定立 / 後発的な反論)」としておきますが、それを述べておこうと想います
己の行動原理に
何も疑問が差し挟まれなかったことは
幸福なことです
テーゼ、身体図式論の日常的敷衍、
散漫、沈溺に就いて、或る日を境に、
すべてを懐疑の坩堝に
転落させる日が来るのが、病理です
アンチ・テーゼとして、身体図式に対する謀反、これは反転図式です
今までの関係性総てに一旦の区切りがついて、ほぼ家族に養われるだけの幸福に座することしかなくなります
これまでの、些細な胸の突っかかりに、ほとんどの場合に理由がついてしまいます
「あの時、頑張りきれなかった、
あの時、鬱、あそっか」
「喧嘩をしたようで、
症状が殴ってくれたから、
症状が庇ってくれたから」
「それでも、それでも」
諦めたくはないものです
出来るなら、ヘーゲル的な「ジン・テーゼ(合定立 / いいとこどりの折衷案)」に歩まれたいものです
その一歩は、「ああ、どうしようもねえな」って、
しっかりと病に打ちのめされておくことです
天才のいいところは、この「どうしようもねえ」ってくねくねダンスを毎週末パーティで催して、一番ダサいところをちゃんと見せびらかすことです
己の反転図式が、よほど世間の目、時代の声とずれてますから、ジン・テーゼに成りきらぬように、お道化て見せてあげています
飲みの場で「ギロチンギロチンシュルシュルシュ」と言って居る男が居ます
それは、太宰です
こればっかりは、真似できませんでした
最後は、表題の『外れ往く者の正対』に就いて、天才論の核心を示しておきましょう
急
「外れ往く者の正対」
起
RadioheadのCreepの大サビで、"run, run, run, run!!"で射精をしている人が居ます
私です
時に、AIがあまりに良き相談相手の様な積もりで、肉を纏う人間のインタラクティブをよく、忘れるものです
AIに対する、私の見方というのは、少し世情と異なると思って居ます
ちゃんと、今から話すことに繋がってまいりますから、一寸の脱線です
承
人間は永らく、宗教と共に、取分け三大宗教や、日本では神道の形をとって、神を実感して生きてきました
キリスト教に端的な、「創造主」たる、神の存在は現在でも廃れないものです
西洋の歴史を概観すると、古代の勃興、中世の継承と発展、混交を経て、近代的ルネサンスで人間に関する視野が転移していき、国家観をも、王権神授の瓦解と共に人間主導の位置に導いてきました
人間は、神の圧倒的な主権を奪ってきました
人間の、「神の真似事」は、己がAIの創造主たることで、最盛を極めている様な観が私には在ります
神ー人間の系列に対し、
人間ーAIの系列を付し、
AIに対する神的態度の発露が在ります
私たちが、天才について何かを語るときには、この、「神ー人間ーAI」の系列をもとにすると、面白いです
転
天才とは、蝶を追っていつのまにか山頂に登っている少年である
少し話を、前段階までの話と関連付けておきます
①指数関数的「取り戻す力」
②圧倒的自問「己のどうしようもなさ」
③違和の総て「病理であることの絶望」
順番は少し前後しますが、大抵の天才というのは②→③→①の順番で、開花してゆくものです
順を追うと、これは哲学上の問題ですが、「どうしてこの世は有であって、無ではないのか」(*2)という様な、己の視点や、世界の実在に就いての或る嫌悪にも近い感情が在ります
また、多くのこの問題にはデカルト的コギト(*3)の発見がつきものです
そして、類稀な才能に対するせめてものレッテルとしては、病理が似つかわしいものです
「かくかくの性向に対するしかじかの病状の整合」という、あまり嬉しくはない発見がそこに在ります
ここで、②と③の相乗としての正対の向きが明らかになってきます
「地図の最短距離走破条件を満たす、出鱈目なストライド走法」を見出すに至るのです
これがどこまでも、徹底されて①に帰ってゆくのです
天才の多くが有したこの性向というのは、単に己一身の人生の買戻しなのです
よく、他人を買いたたいて悦に浸って居る様な人々が、天才だなんだと言われていますが、あれは、己の落ちくぼみが浅はかである故の、「人の包囲網の中心に自身を位置づける」試みであって、単に「己を己で」という決意の欠落と見ることもできます
ですから、己の買戻しのために、ひらひらと蝶々が導くように山のてっぺんまで駆け出してゆく、それ以外の目がないくらいで、天才は丁度いいものです
結 神の国はあすこ
あそこ、のことを「あすこ」と表現するのが大好きなアホが居ます
私です
一寸考えてみると、「明日」「来」の塩梅で、「将来的に夢見られた」くらいの含みをこじつけるのは、どうして楽しいものですね
さて、天才というのは夭逝(*4)します
27才クラブというのが在り、若くして死んだアーティストや才覚の人間どもの根拠となるかのような、そういうくくりです
そして先の様に、天才はずっと人生の買戻しをしているものです
そのうち、大傑作をこさえて、おめおめ若く死んでゆきます
やりきってしまうのです、天才だから
まだ生きている天才というのは、美術ではウォーホルよろしく、バスキアなどを囲って、先にも出た「買いたたく」ことに移るような人々も居ます
注意してほしいのは
「買いたたく」⇒「天才」は真理値0
「天才」⇒「買いたたく」は真理値1
ということです
そこは全く本質ではなくて、夭逝の天才が、何故天才か、これを覚えて行ってもらおうと想います
神の主権の奪取としての現代、のようなことを冒頭に述べました
中央値的な人間というのは時代の声に対して、或る程度不感で、その代わり反論なく受け入れの体制を取って居ます
「神様っていないよね」というのは時代の声のような気がします
しかし「神の国」として語られてきた、キリスト教における理想郷が在ります
聖書をもとにした、異端排斥と、「神の国」概念の存在、発展、行く末までを、アウグスティヌス(*5)が述べたものとされています
正確に言えば、アウグスティヌスはキリスト者として哲学を発していた先人ですので、純粋な信仰ともまた違うのですが、ここではその、「神の国」を私の王国に作り替えてみようと想います
神とは言え、慰みものが欲しいものだと想います
神は言いました「奏者あれ」
カート・コバーンが死にました
神は言いました「絵描きものせ」
バスキアが死にました
神は言いました「物書きの御霊」
私が、死ぬ予定です
こちらに見たのは、単に有名というだけでなく、「27クラブ」と呼ばれる、カリスマの内に死んでしまった、弱冠の有志どもです
あんまりに、人間の世で評判だったのです
神は言いました
「そんなに評判なら、一度見聞きしたい」
私の神の国の概念は、神の主権がまだ健在です
丁度、先のAIにおける人間の立ち位置の様に、有効打に対する選別のようなものがそこに在ります
人間の内に抜きん出てしまった外れものを、一寸かいつまんで自分の持ち物にしてくのです、神というものは
この世の傑作に、神の聖撰が在る
目的の国は神の御手に在る
私たちは、ほんのちょっとした神の手遊びの結果です
私たちがスマホでAIに悪戦苦闘のテキスト送信をするように、神様は選りすぐりのマイスターを、今か今か、と待って居ます
天才論に就いてはここで終わりになります
凡そ、現代のエッセイには、こんなことは書かれていません
豊かな情感の為だけの創作が、文学の化けの皮に包まれているとすると、最後の一文を読むためだけの、その行いを、私たちが「芸術」に正対しない向きで、消費するのです
人は、駄弁の方が、却ってよくおしゃべりなものです
私たちは「外れ往く正対」を取る者たちに、それこそ、今日こそ、正対しなければなりません
それが、いつの日か、私を救うための方便だと、私は知って居るからです
佳き日には祈りを
わろき日には安息を
己の数年後の看護人の己には幸をどうか
Hallelujah!!
注釈
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*1 13世紀末から14世紀中盤の神学・哲学者。彼の普遍論争上の立場、唯名論の観点で、不要に多数の存在者(性質や普遍)を存在させるべきではないという意味で、不要な髭を剃り落とす「剃刀」の議論として有名。
*2 哲学における存在論の究極的な立場。
*3 近代哲学の祖と言われるが、時代としては近世寄り。「コギト」というのは「私が考える」という意味のラテン語で、「考えて居る私」を特にさして「デカルト的コギト」と表記することがしばしばある。疑っても疑いきれない「考える自己」についての洞察。
*4 「ようせい」と読んで、「若くして死ぬこと」の意。
*5 古代中性の橋渡し的存在の、西洋の人物。教父哲学として知られる彼のキリスト教義と哲学的思索の融合した独自の観点は、今日的にも普遍的な価値が在るが、中世の最盛期、トマス=アクィナスの「哲学は神学のはしため」による哲教分離の中、忘れられてゆく。