
なぜ私は、こんなにも自信がなかったのか
最近になってやっと、私がずっと自信がなかった理由が腑に落ちた。
心理業界にいてセラピストをやっているから、もちろん頭では理由はわかっていたつもり。
でも「頭で理解している」ことと「腹落ちすること」って全然違う。
じゃあなぜ私が自信を持てなかったのか?
それは、今振り返ると「自信を持てる環境で育っていなかった」から。
私は親の希望で小学校受験をして、国立の小中一貫校に入学した。
幼稚園が一緒だった友達とは離れ離れになるので、「いやだ〜!」って泣いたことを覚えている。
国立の小学校に入ってから、私の何かが変わりだした。
子供の時は意識していなかったけれど、周りは頭の良い子たちばかり。
親同士も、我が子の成績と他の子供たちの成績を意識しているのが、「空気感」から伝わってくる日々。
附属の高校には全員はいけないから、小学生から塾に通っている子も多かった。私も通っていたけれど、附属の高校には行けなかった。
その学校での私の成績はいつも中くらいだったと思う。
当時一番仲良かった子とは、テスト後に点数を見せあったり、成績の話もした覚えがある。
「友達」は常に「比較する対象」でもあった。
当時、私は太っていて、そのこともすごく気にしていた。
痩せたくても痩せられない、自分も嫌だった。
母は私の成績をいつも気にしていたと思う。
小学2年生の時、「九九を1の段から9の段まで先生に言えたら合格」というテストがあった。
私は楽しくて夢中になり、クラスの中で一番に合格した。
母はそのことがとっても嬉しかったみたいで、そのエピソードは大きくなるまで何度も聞かされた。
「それしか自慢はないのか」って恥ずかしくなって、なんだか複雑な気持ちだった。
両親はあまり仲が良くなかったし、家では母にはいつも「自信を持ちなさい」と言われて、それが私をさらに追い詰めていた。
「自信持てない私はなんて根暗なんだろう」って。
最近、私の中にいる「自信がない子」と対話をしていたとき、「あぁ、あの環境にいたら、自信を持てなくて当然だったよね」と、ようやく心から思えた。
自信を持つには、二つのパターンがあると思う。
「誰かと比較して自分の方が優れている」と感じる場合の自信。
もう一つは、「そのままの自分で受け入れてもらえている」という安心感からくる自信。
私の小・中学校時代、誰かと比べて自分の方が優れていると感じられるものは何もなかった。
友達ですら「比較する対象」だったから、心から繋がれる感覚も薄かったかもしれない。
そして何よりも「そのままのあなたで十分だよ」というメッセージを、家でも学校でも、言葉でも非言語でも、受け取った記憶がなかった。
その状態で、自己の土台が形成される時期を過ごして、「自分っていいな」という感覚を持てるわけがなかったのだ。
そのことが腑に落ちた時、子供時代の私に、理解と思いやりの気持ちを、心から向けられた。
大袈裟に言えば、これは私の中で一つの「パラダイムシフト」だった。
その当時、周りからもらえなかった、「あなたはそのままで十分だよ。誰とも比較する必要がないし、あなたはあなたで素敵だよ」というメッセージを、今は私から、私の中にいる小さな子に、何度も伝えてあげたい。
一つ伝えておきたいのは、私は親やその当時の友達、環境のすべてを否定したいわけではない。
実際、恵まれていることもたくさんあったと思う。
ただ、「私が自信を持てない構造」を客観的に理解できたことが、私にとって何より大事なプロセスだったのだ。
「なぜ大きなトラウマらしきものはないのに、こんなにも生きづらいんだろう?」
長い間、そう思っていた。
心理の世界に入って知ったのは、実は分かりやすい大きなトラウマ(ビッグT)よりも、日常的なショックや微細なストレス(スモールt)の積み重ねの方が、癒すのに時間がかかることもある、ということ。
まさに小・中学校時代の日々は、ジワジワと効いてくるボディーブローのようだった。
人との比較から生まれるピリピリとした緊張感や劣等感、太っていることへのコンプレックス、家でも「そのまま」を受け入れてもらえない寂しさ。
それらが大人になってからも、自分の思い込みやセルフイメージに大きな影響を与えていたのは、当然のことだったのだ。
これを読んでいる方の中にも、同じような思いを抱えている方がいるかもしれない。
「自信を持とう」とする前に、まずは「自信がない」と感じている今の自分に、思いやりの眼差しを向けてみてほしい。
それを始めてあげられるのは、世界であなただけだから。