
佐々木喜善は、本当に「ヒーロー」だったのか―『遠野物語』に隠されたもう一つの還元(探究ノート・その1)

■彼は、守ったのか。それとも、奪ったのか。
『遠野物語』の生みの親、佐々木喜善。
彼は長らく、こんな物語の主人公として語られてきた。近代国家のエリート官僚・柳田國男が、遠野の怪異を冷徹な文語体で「標本箱」に収めていったのに対し、喜善はあえて泥臭い方言や擬音語を使い続け、体験の生々しい手触りを守ろうとした―柳田の「均す力」に、たった一人で抗い続けた語り部。
この構図は、美しい。そして、おそらく半分は正しい。
しかし、もし喜善自身もまた、誰かに対して、柳田と似たようなことをしていたとしたら?―これは、確定した答えではなく、疑うに足る具体的な理由がある、という話である。
彼が守ろうとしたはずの「生々しい声」は、そもそも誰のものだったのか。祖母オイナをはじめとする、文字を持たない村の女性たちである。喜善は、彼女たちから聞いた言葉を、自らの著作として世に送り出した。その時、彼は柳田に「されたこと」を、今度は自分が「する側」に回っていたのではないか。
これは、佐々木喜善という一人の書き手をめぐる、ヒーロー物語への小さな、しかし見過ごせない疑いについての記録である。
■二つの「均す力」
まず、これまでの研究(石井正己、赤坂憲雄)が明らかにしてきたことを確認しておきたい。柳田の文章は、怪異を「神」や「動物」といった学問的なカテゴリーへ位置づけ、三人称の簡潔な報告として提示する。対して喜善が後年みずから書いた体験談―たとえば、幼い頃にザシキワラシと遭遇した記憶―は、暗い部屋の物音や、背筋が凍りつくような身体の反応に即して書かれている。
この違いを、ひとまず「還元A」と呼ぶことにする。体験の生々しい質感を、整った報告へと均してしまう力のことだ。柳田はこの力を喜善の語りに対して行使し、喜善はそれに、自分の文体で抗おうとした―ここまでは、既存の研究がすでに確かめてきた事実である。
だが、力はこれだけではない。もう一つ、見過ごされがちな力がある。「還元B」―特定の夜、特定の相手との間で交わされた、たった一度きりの発話を、「誰それの著作」という一つの箱に詰め込み、その場の固有の状況を消し去ってしまう力である。
『遠野物語』は、柳田の書斎で交わされた何度もの語らいの夜を、「柳田國男の著作」という一つの器に流し込んだ。同じように、喜善の著作もまた、祖母オイナたちが語った幾つもの夜を、「佐々木喜善の著作」という一つの器に流し込んでいる。この意味で、還元Bについては、柳田も喜善も、同じ側にいるように見える―ただし、この対応関係そのものを、私はまだ独立に確かめたわけではない。この点は、あとで改めて触れる。
■疑惑の核心―喜善は、抜け出せていたのか
ここで、まず控えめなところから確認しておきたい。自分の記憶を語ることと、他人から聞いた話を書き記すことは、そもそも書き手の立ち位置が違う。この違いだけで、「自分の体験を語るときの喜善」についての証拠を、「他人の言葉を記録するときの喜善」にそのまま当てはめてよいわけではない、ということは、すでに言える。
その上で、もう一歩踏み込んだ仮定を置いてみる。喜善が語り手たちに対して占めていた位置は、柳田が喜善に対して占めていた位置と、機能的にそっくりではなかったか、という仮定である。
この仮定を認めるなら、次の疑いが生まれる。柳田が喜善の語りに及ぼした「還元A」―体験を均そうとする力―は、同じ構造上の位置に立つ喜善自身によって、今度は語り手たちの言葉に対しても及ぼされていたのではないか。この仮定自体は、まだ確かめたわけではない。だが、これを置くことで、単に「別の問いとして気になる」という以上に、「なぜその再演を具体的に疑いうるのか」という理由に、輪郭が与えられる。
整理すると、疑いの形はこうなる。
柳田國男 ──(均す力・還元A)──> 佐々木喜善(被害者/抵抗者)
佐々木喜善 ──(均す力・還元A?)──> 語り手たち(?)
もしこの二つの矢印が、同じ性質のものだとしたら。喜善は、抵抗者であると同時に、加害者でもあったのではないか。それが、私の抱いた疑いだ。ただし、下の矢印に「?」がついている通り、これはまだ疑いの段階に留まる。
もしこの疑いが本当なら、私たちがこれまで喜善に贈ってきた称賛―「柳田的な均一化への孤高の抵抗者」―は、実は半分しか正しくないことになる。喜善が方言や擬音語で守ろうとしたのは、あくまで自分自身の記憶の質感だった。彼が語り手たちの言葉を記録する時にも、同じように質感を守ろうとしていたのかどうかは、まったく別の問題として、確かめ直さなければならない。
■いま、私が確かめられたこと。確かめられなかったこと。
正直に言うと、私が佐々木喜善に引っかかってしまうのは、彼を「善玉」と「悪玉」のどちらかに振り分けて済ませる物語に、昔からずっと居心地の悪さを感じてきたからだと思う。
今回、この疑いを検証しようと資料にあたってみたが、「喜善が語り手たちの言葉を記録する際にも、質感を守ろうとしていたかどうか」を直接に示す記述を、見つけることはできなかった。
これは、「そんな研究はこの世に存在しない」ということではない。あくまで、私が今回参照できた範囲では見つからなかった、というだけのことだ。この違いは、地味に見えて、実はとても大事だと思っている。「証拠がない」と「調べたが分からなかった」は、似ているようで、まったく違う。
この疑いに本当に決着をつけるには、遠野市立博物館編『佐々木喜善全集』に収められた採集ノートと、実際に出版された最終稿とを、一字一句、突き合わせる作業が必要になる。喜善が語り手たちの言葉を、どこで、どう書き換えたのか。あるいは書き換えなかったのか。それは、いま私の手元にはない資料を要する、この先の課題である。
還元Bの対応関係についても、先に触れた通り、ここはまだ、手をつけられていない。柳田自身がどんな編集の手順を踏んだのか、それと喜善の手順とを比べる作業が、本来は必要になる。
■開かずの扉の前で
いま、私はこの疑いを、証明できないまま、ここに置いていく。
『佐々木喜善全集』の採集ノートという、まだ開けていない扉が目の前にある。もしこの扉が開き、喜善が語り手たちの言葉をどう扱ったかが分かる日が来たら―そのとき、『遠野物語』をめぐる風景は、きっと今とは違って見えるはずだ。喜善は、抵抗者のままでいられるのか。それとも、彼もまた、柳田と同じ側に立っていたことが明らかになるのか。
この先の一歩として、まず現実的に着手できるのは、遠野市立博物館編『佐々木喜善全集』の目録を確認し、該当する採集ノートが現存し参照可能な形で保存されているかどうかを確かめることだろう。その2では、この目録確認の結果を足がかりに、先に触れた柳田と喜善それぞれの編集手順の比較にも、もう少し踏み込んでみたいと思っている。どこまで進められるかは、正直なところ、いまの私にも分からない。それでも、この先を追いかけてみるつもりでいる。
■参考文献
・柳田國男(一九一〇)『遠野物語』聚精堂書店(角川ソフィア文庫版等を参照)
・佐々木喜善(一九二〇)『遠野のザシキワラシとオシラサマ』中央公論新社
・佐々木喜善(一九二四)『紫波郡昔話集』
・佐々木喜善(一九三一)『聴耳草紙』磯部甲陽堂(筑摩書房版等を参照)
・佐々木喜善(一九九九)『佐々木喜善全集』全四巻、遠野市立博物館編
・石井正己(二〇〇〇)『遠野物語の誕生』筑摩書房
・赤坂憲雄(二〇〇一)『遠野/物語考』宝島社
・前田愛(一九八九)『近代読者の成立』岩波書店