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【新書が好き】「弱者」とはだれか

    trafalgar

    1.前書き

    「学び」とは、あくなき探究のプロセスです。

    単なる知識の習得でなく、新しい知識を生み出す「発見と創造」こそ、本質なのだと考えられます。

    そこで、2024年6月から100日間連続で、生きた知識の学びについて考えるために、古い知識観(知識のドネルケバブ・モデル)を脱却し、自ら学ぶ力を呼び起こすために、新書を学びの玄関ホールと位置づけて、活用してみたいと思います。

    2.新書はこんな本です

    新書とは、新書判の本のことであり、縦約17cm・横約11cmです。

    大きさに、厳密な決まりはなくて、新書のレーベル毎に、サイズが少し違っています。

    なお、広い意味でとらえると、

    「新書判の本はすべて新書」

    なのですが、一般的に、

    「新書」

    という場合は、教養書や実用書を含めたノンフィクションのものを指しており、 新書判の小説は、

    「ノベルズ」

    と呼んで区別されていますので、今回は、ノンフィクションの新書を対象にしています。

    また、新書は、専門書に比べて、入門的な内容だということです。

    そのため、ある分野について学びたいときに、

    「ネット記事の次に読む」

    くらいのポジションとして、うってつけな本です。

    3.新書を活用するメリット

    「何を使って学びを始めるか」という部分から自分で考え、学びを組み立てないといけない場面が出てきた場合、自分で学ぶ力を身につける上で、新書は、手がかりの1つになります。

    現代であれば、多くの人は、取り合えず、SNSを含めたインターネットで、軽く検索してみることでしょう。

    よほどマイナーな内容でない限り、ニュースやブログの記事など、何かしらの情報は手に入るはずです。

    その情報が質・量共に、十分なのであれば、そこでストップしても、特に、問題はありません。

    しかし、もしそれらの情報では、物足りない場合、次のステージとして、新書を手がかりにするのは、理にかなっています。

    内容が難しすぎず、その上で、一定の纏まった知識を得られるからです。

    ネット記事が、あるトピックや分野への

    「扉」

    だとすると、新書は、

    「玄関ホール」

    に当たります。

    建物の中の雰囲気を、ざっとつかむことができるイメージです。

    つまり、そのトピックや分野では、

    どんな内容を扱っているのか?

    どんなことが課題になっているのか?

    という基本知識を、大まかに把握することができます。

    新書で土台固めをしたら、更なるレベルアップを目指して、専門書や論文を読む等して、建物の奥や上の階に進んでみてください。

    4.何かを学ぶときには新書から入らないとダメなのか

    結論をいうと、新書じゃなくても問題ありません。

    むしろ、新書だけに拘るのは、選択肢や視野を狭め、かえってマイナスになる可能性があります。

    新書は、前述の通り、

    「学びの玄関ホール」

    として、心強い味方になってくれます、万能ではありません。

    例えば、様々な出版社が新書のレーベルを持っており、毎月のように、バラエティ豊かなラインナップが出ていますが、それでも、

    「自分が学びたい内容をちょうどよく扱った新書がない」

    という場合が殆どだと思われます。

    そのため、新書は、あくまでも、

    「入門的な学習材料」

    の1つであり、ほかのアイテムとの組み合わせが必要です。

    他のアイテムの例としては、新書ではない本の中にも、初学者向けに、優しい説明で書かれたものがあります。

    マンガでも構いません。

    5.新書選びで大切なこと

    読書というのは、本を選ぶところから始まっています。

    新書についても同様です。

    これは重要なので、強調しておきます。

    もちろん、使える時間が限られている以上、全ての本をチェックするわけにはいきませんが、それでも、最低限、次の2つの点をクリアする本を選んでみて下さい。

    ①興味を持てること

    ②内容がわかること

    6.温故知新の考え方が学びに深みを与えてくれる

    「温故知新」の意味を、広辞苑で改めて調べてみると、次のように書かれています。

    「昔の物事を研究し吟味して、そこから新しい知識や見解を得ること」

    「温故知新」は、もともとは、孔子の言葉であり、

    「過去の歴史をしっかりと勉強して、物事の本質を知ることができるようになれば、師としてやっていける人物になる」

    という意味で、孔子は、この言葉を使ったようです。

    但し、ここでの「温故知新」は、そんなに大袈裟なものではなくて、

    「自分が昔読んだ本や書いた文章をもう一回読み直すと、新しい発見がありますよ。」

    というぐらいの意味で、この言葉を使いたいと思います。

    人間は、どんどん成長や変化をしていますから、時間が経つと、同じものに対してでも、以前とは、違う見方や、印象を抱くことがあるのです。

    また、過去の本やnote(またはノート)を読み返すことを習慣化しておくことで、新しい「アイデア」や「気づき」が生まれることが、すごく多いんですね。

    過去に考えていたこと(過去の情報)と、今考えていること(今の情報)が結びついて、化学反応を起こし、新たな発想が湧きあがってくる。

    そんな感じになるのです。

    昔読んだ本や書いた文章が、本棚や机の中で眠っているのは、とてももったいないことだと思います。

    みなさんも、ぜひ「温故知新」を実践されてみてはいかがでしょうか。

    7.小説を読むことと新書などの啓蒙書を読むことには違いはあるのか

    以下に、示唆的な言葉を、2つ引用してみます。

    ◆「クールヘッドとウォームハート」

    マクロ経済学の理論と実践、および各国政府の経済政策を根本的に変え、最も影響力のある経済学者の1人であったケインズを育てた英国ケンブリッジ大学の経済学者アルフレッド・マーシャルの言葉です。

    彼は、こう言っていたそうです。

    「ケンブリッジが、世界に送り出す人物は、冷静な頭脳(Cool Head)と温かい心(Warm Heart)をもって、自分の周りの社会的苦悩に立ち向かうために、その全力の少なくとも一部を喜んで捧げよう」

    クールヘッドが「知性・知識」に、ウォームハートが「情緒」に相当すると考えられ、また、新書も小説も、どちらも大切なものですが、新書は、主に前者に、小説は、主に後者に作用するように推定できます。

    ◆「焦ってはならない。情が育まれれば、意は生まれ、知は集まる」

    執行草舟氏著作の「生くる」という本にある言葉です。

    「生くる」執行草舟(著)

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    まず、情緒を育てることが大切で、それを基礎として、意志や知性が育つ、ということを言っており、おそらく、その通りではないかと考えます。

    以上のことから、例えば、読書が、新書に偏ってしまうと、情緒面の育成が不足するかもしれないと推定でき、クールヘッドは、磨かれるかもしれないけども、ウォームハートが、疎かになってしまうのではないかと考えられます。

    もちろん、ウォームハート(情緒)の育成は、当然、読書だけの問題ではなく、各種の人間関係によって大きな影響を受けるのも事実だと思われます。

    しかし、年齢に左右されずに、情緒を養うためにも、ぜひとも文芸作品(小説、詩歌や随筆等の名作)を、たっぷり味わって欲しいなって思います。

    これらは、様々に心を揺さぶるという感情体験を通じて、豊かな情緒を、何時からでも育む糧になるのではないかと考えられると共に、文学の必要性を強調したロングセラーの新書である桑原武夫氏著作の「文学入門」には、

    「文学入門」(岩波新書)桑原武夫(著)

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    「文学以上に人生に必要なものはない」

    と主張し、何故そう言えるのか、第1章で、その根拠がいくつか述べられておりますので、興味が有れば確認してみて下さい。

    また、巻末に「名作50選」のリストも有って、参考になるのではないかと考えます。

    8.【乱読No.50】「「弱者」とはだれか」(PHP新書)小浜逸郎(著)

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    [ 内容 ]
    「弱者に優しい政治を」「差別のない明るい社会を」といった、だれも異議を唱えることのできないスローガン。
    しかし、現代社会における「弱者」とは、ほんとうはどういう存在なのだろうか?
    本書では、障害者、部落差別、マスコミの表現規制など、日常生活で体験するマイノリティの問題について、私たちが感じる「言いにくさ」や「遠慮」の構造を率直に解きおこしていく。
    だれもが担う固有の弱者性を自覚し、人と人との開かれた関係を築くための考え方を「実感から立ちのぼる言葉」で問う真摯な論考。

    [ 目次 ]
    第1章 「言いにくさ」の由来(「弱者」というカテゴリー個別性への鈍感さ ほか)
    第2章 「弱者」聖化のからくり(建て前平等主義部落差別をめぐって)
    第3章 「弱者」聖化を超克するには(共同性の相対化言葉狩りと自主規制問題)
    第4章 ボクもワタシも「弱者」(既成概念の見直し新しい「弱者」問題)

    [ 発見(気づき) ]
    マイノリティが語られる際の欺瞞性(嘘くささ)について真っ向から論じた、画期的な本だ。
    障害者の努力を紹介する新聞記事、障害を持つ子供の親を取材した女性週刊誌・・・盲目的な賛美の構造を、著者は冷徹に分析する。
    苦しい現実を背負った人々に対し、恵まれた立場にある読者は“負い目意識”を抱いている。
    そこに「この障害者(親)は偉い」と報じる。
    「その通り」と賛同することで、読者は安心。
    その先の面倒な思考をせずに済む。
    障害者に理解がなくても(理解する気がなくても)、とにかくほめていれば、少なくとも非難されることはない。
    著者の舌鋒は、マイノリティの側にも向けられる。
    弱者であることに固執する連中がいる。
    当事者集団でなれ合い、理解しようと歩み寄る人を「この苦しみは我々にしか分からない」と拒む。
    そのくせ、無理解な者は厳しく糾弾する。
    ・・・弱者自らが差別を助長する現実もあるのだ。
    弱者は、相互理解を拒む人たちが生み出している。
    私はそう思う。
    現代の日本において障害者、特定の地域(部落)出身者、高齢者、こども、性的マイノリティ、女性などは「弱者」として扱われる。
    外部の人間が、この「弱者」に言及するにはさまざまなタブーが存在する。
    マイノリティ以外の人間はその問題について語る資格がないかのように扱われる。
    著者はそこには弱者の聖化という現象があるという。
    逆に、社会的に「弱者」として認定された人々自身はその問題について語る聖なる特権を得る。
    言論上、マイノリティとマジョリティの間で立場の逆転が起きる。
    マイノリティの権利は無条件に保護されなければならないことになったり、批判や必要な区別が許されないような雰囲気が形成されることがある、という現象だ。
    その結果、「強者」は「弱者」が平凡なことを言っても拍手を送ったり、ハンディを考慮するにしても、できて当然の行為を賞賛したりする。
    著者はこれを両者の共犯関係がうみだす「情緒のファシズム」と呼び、相互理解の大きな障害となっていると指摘する。
    この本は極めて語りにくいことについて、どう語るかの著者の挑戦である。
    マイノリティについてはっきり語ることで両者の本当の相互理解と問題解決ができる雰囲気を作るにはどうしたらよいかという問題についての本である。
    「五体不満足」の明るさへの違和感、高齢者は皆寝たきり弱者と考える政策、優遇制度を濫用する確信犯「弱者」の存在、強者の自殺、誰も傷ついていないのにテレビの不適当な発言がありました謝罪、日本だけの「ちびくろサンボ」発禁事件、ミスコンは差別か。
    言いにくさをめぐる評論オンパレード。
    著者は現代を過剰遠慮社会だと指摘している。
    解決策としてマイノリティと身近に長時間暮らすことで、大抵の差別や遠慮は自然に消えるとしている。
    多様な価値観を認めることで、弱者-強者の関係を流動化し、言いにくさの壁を取り払えという。
    すべての人が何らかの弱者でもあるということに気がつけということである。
    また、障害者・部落民と呼ばれる人たち・女性・老人・子供、いろいろな「弱者」が、世の中には存在すると考えられている。
    今あげたいずれの属性も持たない人は、「強者」としておこう。
    では、これらの「弱者」たちは、本当に常にあらゆる側面において、「強者」より弱いと、判断していいのであろうか。
    ならばどうして、壮年男性の自殺が相次いだりするのか。
    彼らは「強者」そのものであるはずなのに。
    「弱者」と呼ばれる人たちが、生活のすべての場面において、どのような角度から見ようと「弱者」であるという見方は間違っていると、筆者はいっている。
    「弱者」は場面場面で定義されてしかるべきであり、その上で個別に対応の仕方を考えるべきものである、というのである。
    そして、「弱者」とされた人々には、美談がついて回る。
    まず、苦しい現実を背負った人々を、そのことだけで一括りにし、「同情」の札をかき集める。
    「同情」という感情は、めぐまれた立場からめぐまれない立場を思いやるところに成り立つから、もともと自分の恵まれた立場そのものに対する負い目意識と切り離すことができない。
    記事は、読者のこの負い目意識を巧みに利用しながら、突如「あなた方は同情などという優位に立った感情を抱いてはならない、この人たちは、逆境にもめげずこんなに明るく自信に満ちて生きているのだ、この人たちはあなた方よりも偉いのだ」と宣告する。
    この宣告によって、信頼の力関係が逆転し、読者の心理の中で、「弱者」が「聖者」としての特権性を帯びるようになる。
    まとめてみると、ある人が特定の場面で「弱者」であったとしても、それだけで彼らが直ちに偉大であるとはいえない。
    もしわたしたちがそう思っているとすれば、それは負い目感覚と、そこから生じる「とりあえず祭り上げて意識から追い出してしまおう」という意識に根ざしている可能性がある。
    ということになるであろうか。
    「ほんとに彼らは弱いと言い切れるんだろうか」「障害をもっているって、偉いことなの?」そういうもやもやに、一つの解決を与えてくれた本として、わたしはこの本を高く評価している。

    [ 問題提起 ]
    現代社会における「弱者」とは本当はどんな存在なのかをテーマに、日常生活で私たちが感じる「言いにくさ」や「遠慮」の構造を率直に解きおこした一冊。
    印象に残った部分はいくつかあるが、例えば交通機関の「優先席」の存在。
    混雑していても優先席だけは空いている状態、なぜ座ってはいけないのか(遠慮?)、座っていたって時がきたら自分の意思で譲れば良いだけの事では・・・そもそも「優先席」がある事自体(なにかおかしくない?)。
    日頃感じていた違和感をストレートに表現している。
    この本の中で紹介されていた「どんぐりの家」という聴覚障害と知的障害を併せ持つ子供たちと、その子達を取り巻く大人たちの生きる姿を描いた長編マンガもさっそく読んでみた。
    「どんぐりの家(1)」(ビッグコミックススペシャル)山本おさむ(著)

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    これまで知らない世界を身近に感じた読み応えのある内容だった。
    この本のテーマは難しいと思う。
    「難しい問題だ」で片付けない著者は尊敬する。
    「弱者」のハンディは一様ではないし、その程度を統一尺度で測ることは難しいと思う。同じハンディに苦しんでいる人もいれば、普通に生きている人もいるだろう。
    表面的には保護されたくないと表明していても、内面ではそれを望んでいる複雑な心境の立場もあるはずだ。
    だからマイノリティを保護する施策には、ある程度の冗長性をもたせる必要はあると思った。ただ、その按配がどこか狂っていることは、分かる気がする。
    ところでこの本を読みながら、ここでは触れられていない別のことを考えていた。
    最近メディアでたびたび取り上げられるニート(若年無業者)増加問題である。
    労働白書によると2003年時点でニートの数は53万人とされた。
    そして今後の予測として次のような記事もある。

    「では、日本のニート人口はどれぐらいか。
    国勢調査によれば、2000年のニート人口(15-34歳の非労働力人口のうち、通学と家事手伝いを除いた者)は75.1万人に達し、15-34歳人口全体の2.2%を占める(注)。
    95年調査の29.4万人と比べて2.6倍に膨らんだ(図表1参照)。
    試算によると、05年のニート人口は87.3万人(15-34歳人口比2.7%)となる。
    少子化が進み、この年代の人口が縮小する中にあっても、00年から12.2万人増加する計算だ。
    15年には100万人の大台を突破、20年には120.5万人(同4.8%)に達する見込みである。」
    この数字の算出方法にも大いに疑問が残るが、ここは認めるとして、
    「こうしたニートの増加は、日本経済の成長を抑制する要因になる。
    働く意欲を持たず、労働市場に参入しないニートの増加で、日本の潜在成長率にどれだけの下押し圧力がかかるかを検証してみよう。
    潜在成長率は、労働力、資本設備など生産活動に必要な要素をすべて使った場合に達成可能な成長率を示す。
    ニートの増加は、直接的には投入される労働量を減少させることによって、潜在成長率の下押し要因となる。
    また、労働投入量が減ると資本の投入量も影響を受けるため、ニートの増加は間接的に資本の投入量も押し下げる。 」
    この検証方法はおかしいと思う。
    まず、
    「労働力、資本設備など生産活動に必要な要素をすべて使った場合に達成可能な成長率」
    などという比較指標が現実的でないだろう。
    「日本という工場がフル稼働したらこれだけの達成可能な生産力がある」という意味だろうが、市場の需要という要請がなければ工場は稼働しないし、工場は稼動しても理論上最高の生産力はでないはずである。
    日本という工場に対する市場の需要とはニートが働いた結果受け取る給料であり、消費であろう。
    でも、かじれる親のスネがあるうちは需要はない。
    スネを完食した後、明日の食べ物を買うお金に困ったニートは大半が働き始めるだろう。
    それでもなお清貧を貫いて、「働いたら負け」だと思う筋金入りのニートはたいしたものだ。
    拍手を送りたい。
    結局、ニートはそれなりの資産を持つ親の世代の影に過ぎないと思う。
    ニートは数の上ではマイノリティだし、定義からして社会的影響力を持たない層である。
    ふらふらしている人というのはいつの時代にも一定数いただろう。
    ふらふらの中で何かを見つける人も多い。
    最近ニートが目立つしても、それを養える親や社会が豊かになったということに過ぎないと考える。
    「ボク、ニートなんですよう」と嬉々として主張する偽ニートも大勢みかける。
    よく聞いてみると、大抵は余裕のある失業者だったり、大学院生だったりする。
    彼らは本来は、モラトリアムを謳歌している、強者の一種と分類できるはずだ。
    明治時代なら高等遊民と呼ばれていたかもしれない。
    ダメ人間を演じている偽者は数多い。
    偽ニートがニートブームに拍車をかける。
    だから、ニートはここまでメディアで話題にするほどの重要テーマとは私には思えないのだ。
    ニートは働かなくても生きていける強者だと思う。
    一方で働いても生きるのが難しい弱者がいるのだから。
    マジョリティはニートについて語るのが好きなのだと思う。
    誰もがニートに対しては高い立場から評論できる。
    説教できる。
    擁護することもできる。
    とにかく言及することで優越感や自己愛を満足させる格好のネタだと思う。

    [ 結論 ]
    「こういう若者が増えた日本の未来はどうなってしまうんだ?」と社会派を気取るのも知的な自分が心地よい。
    だが、影響力のある少数の人たちが国を滅ぼすことはあっても、逆はないだろう。
    「少年犯罪が増加して治安が悪くなった」という嘘と同じことではなかろうか。
    本当の日本の問題はリーダーやエリートがその責任を果たさないことにこそあると思うのだが。
    また、弱者、 ということばをめぐって、さまざまな見解がたちならぶ。
    「弱者にやさしい政治を!」というもの、「弱者を甘えさせるな!」というもの、「弱者なんてものはないんだ!」というもの・・・
    ここに見られるのは、端的な混乱である。
    どの意見を眺めても、 それなりに正しいように感じるが、なんとなく違和感が残る。
    このことは、これらの見解を個々バラバラに見るのでなく、つきあわせてみるとよりハッキリする。
    それぞれに納得のいく部分と、いかない部分とがあるはずである。
    なぜだろうか。
    その理由は明らかであるように思う。
    「弱者」ということばがいったい何を指しているのかきちんとした定義を立てないために、その概念成立の根拠とその可能性の限界とが明らかでないからである。
    弱者という概念の存在には、それなりの必然性がある。
    たとえば公害のような問題は、これをキーコンセプトにしなければ常識的な解決のつかない問題ではなかったか。
    その一方で、「弱者」は、現実感覚をはなれた「コトバの一人歩き」をしている観がある。
    「児童は一方的な弱者である」ということから学級崩壊の責任を学校側に一方的におしつける論調、「彼も現代社会の被害者の一人なのだ」ということから遊び感覚で殺人を犯した加害者を徹底的に擁護する論調、等々。
    ぼくはいま福祉の世界に片足をつっこんでいる。
    そこはとても大事なところだと感じている。
    だがその一方で、そこにはまた、「ノーマライゼーション」やら「ピープルファースト」やら「ポリティカルコレクトネス」やら、概念の一般化に疑念を感じる理念命題がゴロゴロしている。
    いったいこれらの概念が、どういう文脈において、どこまで正しいのか。
    どこまでが「当然の権利」でどこからが「甘え」なのか。
    画するべき一線というものは、確実に存在するはずである。
    そういう議論を踏まえず、理念の一人歩きを許すことは、 「福祉教(福祉ズム)」と言うべきである。
    この本には、 その一線がどこにあるかハッキリしたことはあまり書かれていない。
    どう求めるべきかについてのヒントが述べられているのみである。
    しかし、この問題を考えるうえでそれは重要なヒントであるように思う。
    少なくともこの本で提起されたようなことごとに 「弱者」「被差別者」 ということばで自らの問題を表現する人々は耳を傾けるべきであろう。
    人間は、障害者であるか否か、高齢者であるか否かにかかわらず、一人の自立した人格として、この社会や国家において権利を行使すると同時に義務を履行すべきである。
    今後われわれが模索すべきは、だれもが社会の正当な構成メンバーとして活躍し、その活動に際して残されたしかるべき「結果」によって自らの「矜持」を保ちうる社会である。
    障害者も高齢者も、社会への貢献によってタックスペイヤーとなるべきなのだ。
    そのために国家が民政においてなすべきことは、同情や恩恵によって「弱者」を閉鎖空間に囲い込むことではなく、国民の権利の行使と義務の履行が正当になされるための障壁を取り除き、より自由な活動が保証されるような現実的な「支援」に徹することである。
    この原理からすれば、「強者」から「弱者」への、「中央」から「地方」への富の還流をもっぱら政治課題と考え、卓越という価値を否定する平等主義に呪縛されてきた戦後政治の理念はすでにその使命を終えている。
    これからは、ひとり福祉行政にとどまらず、教育、国土建設などのあらゆる内政分野において、国家への依存意識と利益誘導に溺れない、新しい個人と国家の関係を築く必要がある。
    現代社会における社会的風潮として、「弱者」問題を考える際に、遠慮、畏れ、違和感を抱くことが挙げられる。
    本書はその「おかしさ」の構造の解明、そして現代社会における「弱者」とは自明性を帯びた存在であるのかという問いに挑んでいる。
    社会生活を営んでいる人なら誰もが、障害者、部落差別といった問題に直面したことがあるだろう。
    そしてその問題に関して言いにくさを感じたり、意識的に避けてきたのではないだろうか。
    近代文明社会のイデオロギー(ここではその時代、社会により規定される「正しさ」の観念の意)に支えられた平等思想、人権民主主義の前では、弱者問題への疑問、批判は非難され、タブー視される。
    イデオロギーとの対峙による社会的、思想的孤立の恐怖心から無関心、不干渉の立場をとるのである。
    しかし根本的な問題として、「弱者」とは誰であるのか。
    本書は「弱者」に絶対的自明性は無く、イデオロギーによりカテゴライズされた相対的な存在であると論じている。
    ここで言えることは、現代の平等主義社会において恰好の政治理念の具現対象として「弱者」が作りだされたのではないかということである。
    弱者同様、強者もまた相対的である。
    流動化する社会の中で既成概念を捨て、複層的、重層的な関係性を構築することが相対化からの防護壁となるのではないだろうか。
    特に新情報というものではなさそうだが、「差別と差別語」について以下にちょっと紹介させてもらう。
    1.差別語と見なされる職業用語
    百姓・漁師・八百屋・床屋・肉屋・屑屋・土建屋・土方・ドサ回り・小使い
    2.保育園、幼稚園の行事及び園児の遊びにおける規制
    白雪姫・ピノキオ・みにくいアヒルの子・王子と乞食・こぶとり爺さん・桃太郎・王子様ごっこ・お姫様ごっこ・ひな祭り・鯉のぼり・スイカ割り・福笑い
    1.項の職業名には身分的な差別性があると考えられて公共性の高い出版物の用語としては禁止か要注意の扱い(※職業名のあとに「さん」をつけてもダメ)。
    2.項は身体的差別と見なして自主規制。
    スイカ割りは視覚障害者に対する差別、福笑いは奇形を作る遊びと考えられて規制、王子様ごっことお姫様ごっこには身分差別だとする親のクレームが。
    またひな祭りや鯉のぼりは家父長制を助長するという抗議があって自粛。
    スイカ割りや福笑いを自粛させる理由もすごいがど、ひな祭りや鯉のぼりが家父長制の助長と。
    子供の遊びに何か恨みでもあるんですかと問い返したくなるような抗議のしかたが何ともいやはや。
    本書は一口で言えば「弱者」聖化のからくりを分析している内容で、現代社会における弱者とは本当はどういう存在なのかを問い直しながら、むしろことさらに弱者問題を取りあげようとする側とそのために社会から弱者を探し出してしまう側の理由背景について言及、社会に混在する多様性や個別性のある凹凸をすべて一律平坦にならしてしまおうとすることの無理な強引さに対してもっと思考を煮詰めよ、まず自らの経験と感覚に問い尋ねよ、と訴える意見の書だ。
    また、この本を読み、深い示唆を受けた。
    この著作の功績はいくつかあげることができるが、その最大のものは、これまで「差別」問題として扱われてきた課題をまったく新しいフィールドに移し変えた、という点に尽きるだろうと思う。
    無論そこには、竹田青嗣や櫻田淳のすぐれた仕事が先例としてある。
    しかし小浜はそれを受け継ぎつつも、「弱者」でもなければ格別の被差別体験もない普通の人間が、この問題をどのように論じることができるか。
    同情を寄せるのでもなく、社会施策を示すのでもなく、自らの生活意識を起点としながら「我がこと」として考えるためには、どのような理路を必要とするか。
    この著作のモチーフは、そこに見定めることができる。
    かつて差別問題について何事かを語ろうとする時には、「当事者性」が暗黙のうちに条件とされていた。
    言説の内容それ以上に、いかに書き手が当事者性を持っているか。
    そのことによって、ときには論じる資格の有無さえ計られてきた。
    当事者性という免罪符を欠いた言説に決まって投げつけられたのが、あの「踏まれた者の痛みは踏まれた者にしか分からない」という、「錦の御旗」であった。
    小浜は、その当事者性という意味を変更させた。
    いや、当事者性の持つ意味の、この変更こそが現代的で、きわめて厄介なところだと指摘し、それを解きほぐす理路を指し示すことによって新しい視野を切り開いた。
    『「弱者」とはだれか』というタイトルもここに由来する。
    弱者=被差別者=保護される者、という一面的、図式的理解はもはや通用しないし、それは特定の「だれか」の問題なのでもない。
    実は、自己の了解の問題であり、了解としての関係の問題である。
    さまざまな関係の局面において、私たち自身が、どこまでエロス性を多様なものとして「開く」ことができるか。
    その開き方の感度の問題なのだ。
    小浜がさまざまな観点から丹念に述べていることを、私はそのように受け取った。
    私たちは今、さまざまな関係において、配慮性をどこまで持ちこたえられるかという、おそらくこれまでになかった厄介な時代を生きている。
    男―女でも、子ども―大人でも、親―子でも、教師―生徒でも、医者―患者でもよい。
    これまで固定化されていた意義や役割性は壊れつつあると感じられ、そこに多様なまなざしが注がれることになった。
    その多様さを、どこまで引き受け、なにをふるいにかけるか。
    それは個々のそのときどきの感度や、どのような人間関係を生きようとしているのかという、ひとりひとりの「構え」に委ねられることになってしまったということでもある。
    つまり、私たちは自らの関係の感度をつねに晒しながら生きていかなければならない時代の中にある。
    しかし配慮性とはまた一方で、小浜の指摘する「遠慮の構造」を生み出す要因ともなるものだ。
    おそらくここが問題の端緒であり、本書の入口であると見定めてよい。
    たとえば、配慮性が無闇な「ことばの自主規制」となったり、厄介さの前につい口ごもったりする光景は、もはや私たちには見慣れたものとなっている。
    それだけではない。
    他者が配慮を示すことを当然と見なすことによって、きわめて硬直したイデオロギーとなって他者を抑圧してゆく光景もまた、私たちがよく目にするところだ。
    例えば「ジェンダーフリー」やら「弱者の人権」ということばがある。
    このことばそのものは、きわめてまっとうなところから始まったことだということを、まずもって確認しておこう。
    そこでは個別の関係において、性差や権威性(あるいはある種の権力性)に対する一方の「鈍感さ」が感知されており、配慮性の欠如への異義申し立てがはじまりであったからだ。
    むろん、社会制度と心情が複雑に絡み合うことで生じていた、異議申立てのできにくい事情があったことも言うまでもない。
    しかし、配慮性とは、他から要求されて示すものではない。
    ましてや他へ要求するものでもない。
    しかし「要求するものではない」要求を、それでも言上げしたいときに仮託されるのが、「ジェンダーフリー」や「人権」という言葉の背後にある社会性、社会的合意を得たのだという「錦の御旗」である。
    そしてそれらがイデオロギーとなるのはここからだ。
    そうした事態とは、社会的な権利なるものと個々の関係の中での配慮性とが、うまく腑分けできなくなっている私たちの足腰の弱さが露呈していることでもある。
    言ってみれば、配慮性にさえ配慮しながら、私たちは関係を生きなければならなくなっている。
    繰り返すが、小浜の見事なのは、その厄介さに臆することなく、あるいは投げやりになることもなく、一つずつ解きほぐして行ったことによる。
    それがこの著作の醍醐味であると私は思う。
    そしてもう一点、指摘しておきたいことがある。
    ときに蛮勇と思えるほどの思いきった指摘がなされているのだが、その剛胆さを支えるように、小浜の感性と手法が、きわめて繊細であることだ。
    この著作をすぐれたものにしている理由の過半は、おそらくそこにあるだろう。
    たとえば本書の中で、ミリオンセラーとなった乙武洋匡の「五体不満足」に触れ、
    「五体不満足 完全版」(講談社文庫)乙武洋匡(著)

    画像

    小浜は次のように書く。
    共感、肯定を一通り述べたあと、ここはあえて違和を述べる場であるとして、まず「明るさ」への違和を取り上げる。
    その誕生に際しての記述が明るすぎること。
    それが人間心理の陰影を隠してしまったと指摘し、「ここには『文学』が見当たらない」と書く。
    「かわいい」と呟いた母親の言葉は嘘ではなかったかもしれないが、それと同時に沸き起こったはずのさまざまな感慨や不安などが、あえて「省かれている」。
    つまり、「明るさ」を強調するために、そのようなネガティヴな感情が意図的に隠されている、と小浜は指摘する。
    また「聾学校はいらないか」とリードのふられた章においては、障害者がいることによって学級がすばらしくなる云々という乙武の言説を取り上げ、それはあまりに楽天的にすぎ、学校一般の危機への視野も、親の複雑な意識や人間性へのまなざしもない、と書く。
    また別の章では、事故で手足を失った障害者が、常人にできないことをなしとげたことに対する、マスコミやそれに雷同する人々が示す過剰な「感動」への違和を述べている。
    人間はたとえ手脚を失ったとしても、神経生理を状況に合わせて再編する力や、器官としての喪失を補う傾向を持っている。
    それは人間の「自然な能力」なのだと。
    私は、小浜の評価が厳しすぎるとも、もっと「同情」の目を持って見てもよいのではないかなどと言いたいのでもない。
    繰り返すが、小浜が示した評価に、私は基本的に同意する。
    乙武の言説の所々に見られる甘さは、小浜の指摘する通りだし、その「明るさ」に対しても乙武のすぐれた資質であることは認めながらも、そこに出版における「戦略」のあざとさといったものをかぎとってしまう。
    乙武に対し、小浜のような批評をだれかが示して見せることは必要であり、重要なことである。
    その批判的言辞が、いかに多くの「理解溢れる」大衆の難詰に晒されることになったか。
    その応戦がいかに不毛でありながらよく小浜が耐えてきたか。
    ところで、そうした小浜の営為を十分に認めつつも、もうひとつの批評のあり方が、ここに存在する余地はないか。
    私のこだわりは、長いこと、そのことを巡り巡ってきた。
    たとえば、乙武が臆することなく行動の範囲を広げ、学業に専念できるためには、彼に与えられた資質、天分、類まれな努力があっただろう。
    それとともに、そこに日常の中でなされた何気ない工夫や、援助者の配慮や技術といったものが存在したはずである。
    彼が文字を習得し、それを使いこなすまでのプロセス。
    書字はどうしたのか。
    それに変わるどんな方法を習得し、彼を取り巻く人々は、どんな形でそこに関わったのか。
    乙武の行動に際し、安全はどんな形で確保されたのか等々、『五体不満足』を読んで、私には知りたいことだらけだったのだ。
    それが明かにされるならば、身体に障害を持ち、もう一つ学業に専念することに難渋している人々や介護者にとって、少なくないものをもたらすのではないか。
    それは、外に出たい、もっと広い世界に出て行きたいと願っている人々にとって、なにごとかであるはずなのだ。
    言ってみれば、「障害は不便ではあるか不幸ではない」とは彼の言であるが、その不便さを乗り超えるためのノウハウこそ、私は知りたい、もっと知られてよい、ということなのだ。
    その不便さのなかでなされる工夫と努力。
    多分それは私たちの想像を超えているだろう。
    努力が想像を超えているのではなく、そこになされているはずの工夫にはある「秘訣」があるはずであり、その卓抜さが及び難いのだ。
    努力とは、闇雲なエネルギーの消費ではない。
    がんばれ、へこたれるな、という根性論的な激励が及ぶのも限界がある。
    エネルギーをいかに有効に使うか、それを支えるどんな工夫が存在したのか。
    それを知ることは、彼らのためにだけ必要なのではなく、私たちにとっても同様に必要で、重要なことである。
    ところで、障害を持つ人々との付き合いにおいて「慣れる」ということの大事さを乙武は書き、小浜もまたこの問題を乗り越えるための出発点は、「個別の接触体験」を深めることだ、と指摘している。
    私もまったくその通りだと思う。
    生活の時間の中で、彼が当たり前のようにそこに存在すること。
    彼のなすあれこれが、当たり前のことだと感知されるようになること。
    そのとき「慣れ」ているのだが、そこでは「工夫」もことさらの工夫ではなく、当たり前の一こま、彼や彼と共にある人々の生活そのものとなっているだろう。
    そのとき「支援」や「援助」はことさらのものではなく、具体的な関係でのありふれた配慮のひとコマとなっているはずである。
    乙武の場合も同様ではないか。
    彼がものした「自己表現」にいたる努力が、どんな工夫によって支えられていたか、それがもっと目に見える形になること。
    そして私たちも、ただ驚き、同情や賞賛するだけでなく、そこに目を向けようとすること。
    それを問い訊ねることに対して、遠慮や気兼ねなどは不要なのだ。  
    しかしこの、「工夫」を開いたほうがいいという私のモチーフは、多少なりとも彼らとの「関わり」を生きてきた者のこだわりであり、そうではない多くの人々にとっては、あまり切実なものではないかもしれない、という危惧を一方では抱く。
    そのことを抜きにしてしまっている限り、私の言表も、やはりある「聖化」や抑圧に転じることは免れない。
    このことを、小浜の論理に戻りながらもう少し考えてみよう。
    乙武になされた小浜の批判は、彼の人間認識から汲み取られた言葉、きわめて開かれた言葉である。
    しかしそれが教条的に受けとられたとき、「弱者聖化」への単純な対抗論理として抑圧的に働いてしまう危険性もまたないか。
    大江光を例にしよう。「君は大江光の曲や乙武の著作をすばらしいという。しかしそれは単に弱者を美化しているだけではないか」というように、曲や著作それ自体への批評が戦われる前に、形骸化した言説へと落ちこんでしまう、そのような可能性があることもまた指摘しておきたいのだ。
    小浜の論理がそうだと言いたいのではない。
    小浜の指摘をそのように受け止めてしまったとき、『「弱者」とはだれか』というの著作の最大の美質は損なわれてしまう。
    いうまでもなく、乙武の言説それ自体に感銘を受けたという受け取りはあってもいいし、その理路が示されることもまた塞いではならない。
    むろんときには、それは「泣き叫ぶ魂」がそこにはあるなどという評言となって現われてきたりすることもあるわけだが、それはそれで、その評価はおかしいと批判すればよいことだ。
    関係の具体性を手放さないこと。
    言ってみれば私の見解はそこに尽きるのだが、その具体性を知る手がかりとして、乙武が、彼らの表現を獲得するまでにどのようなプロセスがあったのか、その着眼を私は「工夫」と言う言葉で指摘してみたかったのだ。
    このような具体的な視線を積み上げて行くことこそが、「障害を持つ人々とともに生きる」とか「共生」などという言葉がただのお題目ではなく、生きた言葉となるためのはじまりなのではないか。
    そのようなことを考え始める格好のテキストとして、乙武の著作を捉えることもできるのではないか。
    それが、私が感じてきたこだわりの内実である。
    そしてそこから、私なりの「弱者論」、「ハンディキャップ論」が始まるのだろうと考えている。 
    この世には格差と序列というものが必ず存在する。
    しかし戦後の社会は平等主義や差別バッシング、民主政治を理想として掲げてきたから、そういう社会をまじめに信じてきた人々は現実との落差にひどく傷つき、驚き、バカを見るだけだろう。
    現実や上下格差を肯定・順応するための苦悩期間が長くなるだけである。
    差別というのは平等観念が生まれ、強くなっていったときに目立ち、そしてその苦痛がひきのばされるかたちで歴史のひどい差別がクローズ・アップされてくる。
    平等のネガとして差別はたちあらわれる。
    理想がある。
    現実がある。
    そのはざまにおいて弱者の利権を獲得してゆく者たち、あるいは理想を信じて現実にうちのめされる者たちが出てくる。
    理想としてのあるべき社会像ははたしてわれわれに現実の生きやすさ・現実のありようを教えてくれただろうか。
    さて、私は自分の日常とかかわりのあることを興味の中心とするのでこの弱者論にはいまひとつ問題意識をもてなかったのだが、ふつうの人にとってはそういう日常の格差や序列とどうつき合うかというがいちばん問題ではないのかとわたしは思う。
    であれば、こういう本はとくにあえて読まれなくていいのかもしれない。
    あたりまえのこと、だれにでもわかる当然のことしか書かれてないからだ。
    ただしここに書かれてあることをほとんど意識化できずに「弱者」ということを無批判に当然視している方にとっては必読書で、現代日本の、「弱者」や「差別」をめぐる一連の病気的現象をじっくり見据えてみる必要があるように思う。
    問題は、こうしたテーマの本がなかなか書きにくい状況であるということと言われなければわからない人たちがいるということなのだろうと思う。
    嘆くべきは、そうした方があまりにも多いということなのだろう。
    実際、わけのわからない平等主義という病気は後を絶たないし、わけのわからない「弱者」のいわば「聖化」は、ちゃんと考えればわかりそうなことを、みんなわからないふりをしてごまかすことに懸命なようだ。
    人はひとりひとり違っていて「差」があるから、それを隠蔽するということは問題をむしろ深くしてしまう。
    重要なのはただ「差」を蔑視の対象にしないことであり、もし蔑視の対象としてとらえてしまったとしたら、それをできうるかぎりそれを意識化してみることだろうと思う。
    人はひとりひとり異なっている、置かれている状況も異なっている。
    つまり、「個」の可能性が開かれているし、同時にそれを克服し、「個」を発揮し、育てていける可能性に向かって開かれている。
    そのことが重要であり、そのなかでいかに「共同」できるかということが重要となる。

    [ コメント ]
    「差」を隠蔽したり、隠蔽できず、それが「弱者」をつくるときには、それを「聖化」してしまったりするということは、「個」の可能性を否定し、「共同」の可能性をも否定することになる。
    現在のような「弱者」を「聖化」するような在り方は、人間の可能性を蔑視するものでしかない。
    人間はそんなに可能性のない存在ではない。
    人間であるということを限りなく肯定的にとらえること。
    そこからの発想のない視点は、すべてをスポイルしてしまうだけだろう。
    人の愛も勇気も否定してしまうものでしかない。

    9.参考記事

    <書評を書く5つのポイント>
    1)その本を手にしたことのない人でもわかるように書く。

    2)作者の他の作品との比較や、刊行された時代背景(災害や社会的な出来事など)について考えてみる。

    3)その本の魅力的な点だけでなく、批判的な点も書いてよい。ただし、かならず客観的で論理的な理由を書く。好き嫌いという感情だけで書かない。

    4)ポイントを絞って深く書く。

    5)「本の概要→今回の書評で取り上げるポイント→そのポイントを取り上げ、評価する理由→まとめ」という流れがおすすめ。

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