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【コラム】徒然草 × 行動経済学:捨て去る者の眼差し―兼好法師の「非情」な幸福論

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    嵐田大志さん撮影

    兼好法師。この男ほど、現代人を「甘やかし」から突き放す書き手はいない。
    『徒然草』を紐解くと、そこには単なる隠者の静かな暮らしなどない。あるのは、執着にまみれた人間への、氷のように冷徹な観察眼だ。彼は「執着を捨てろ」と言うが、それは道徳的な勧めというより、もっと即物的な「リソース管理」の話に聞こえる。

    私たちは今、かつてないほどの「選択の洪水」に溺れている。
    スーパーの棚を埋め尽くすドレッシング、SNSに溢れる「おすすめ」、将来のために必死で積み立てる新NISA―。私たちは、選べる自由こそが幸福の証明だと信じ込まされている。だが現実はどうだ。選べば選ぶほど、脳は意思決定という名の労働に疲れ果て、選ばなかった「別の可能性」に後ろ髪を引かれ続ける。心理学者バリー・シュワルツの言う「選択のパラドックス」を、兼好は七百年前にこう予見していた。
    「大事を成そうとする者は、他の全てのことを捨てなければならない」
    この一文の「捨てなければならない」という断定の鋭さに、少し震える。ここには、私たちの優柔不断さを許さない凄みがある。

    行動経済学が「プロスペクト理論」で解き明かした、失うことを病的に恐れる「損失回避」の性質。一万円を拾う喜びよりも、落とす苦痛を二倍も重く見積もる私たちの「バグ」。兼好は、この人間の弱さを「お金を稼ぐことより、使い方が難しい」という言葉で見抜いた。
    私たちは「失うこと」への恐怖から、保険をかけ、蓄財に奔走し、賞味期限切れの未来を買い貯める。だが、脳科学の視座に立てば、蓄財によるドーパミンは一過性に過ぎない。前頭前野が真に歓喜するのは、数字の積み上げではなく、その資産をどう「意味」に変換するかという、高度で残酷な価値判断の瞬間だ。
    ビル・パーキンスの『DIE WITH ZERO』が現代を揺るがしたが、兼好に言わせれば「何を今更」だろう。死後に財産を残すことを、彼は「愚か」と切り捨て、人生のピークにおける資産の完全燃焼を求めた。

    しかし、私が本当に『徒然草』に「引っかかる」のは、彼の時間に対する非情なまでの効率性だ。
    「明日のために今日を犠牲にするな」―彼はそう繰り返す。現代の私たちが抱える「時間飢餓」、すなわち常に何かに追われている感覚に対し、兼好は「無用の用」という、一見生産性のない空白を差し出す。
    脳が何もしていない時に起動する「デフォルト・モード・ネットワーク」が、創造性を育む。そんな科学的知見を待つまでもなく、兼好は、ぼんやりと空を眺める「暇(いとま)」の中にこそ、自己をメタ認知するための聖域があることを直感していた。

    さて、この記事をどう締めくくるべきか。
    「引き算の設計が大事だ」などと、整った言葉でまとめるのは、兼好に対する不誠実な気がする。なぜなら、私自身、未だに古い書類も、意味のない人間関係も、明日への不安も捨てられずにいるからだ。
    兼好の言葉は、処方箋というよりは、鋭い外科手術のメスに近い。
    資産も、名声も、肉体さえも「借り物」だと言い切る彼の冷徹なリアリズム。その刃に身を晒したとき、私たちはようやく、自分が握りしめていたゴミの重さに気づく。捨てた後に残る「本質」とやらは、案外、寒々しくて心細いものかもしれない。だが、その心細さこそが、本当の自由の始まりなのではないだろうか。

     
     
    固定観念や社会の物差しに捉われることなく、まずは自分(being)、それから自分のやるべきこと(doing)を考えて、発想の転換や内面的・本質的な成長を促していくテーマを決めて書いていこうかなって考えています。

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