
化石の塩、羊肉の湯気
プロローグ
ゲームなら、8人そろった時点でパーティーは完成する。
現実では、席順すら決まっていなかった。
モンゴル料理店の円卓を囲み、男性4人と女性4人が、まだ少し遠慮の残る距離で座っている。
中央には、骨付きの羊肉を塩でゆでたチャンスンマハが置かれていた。
大皿から立ち上る湯気に、羊肉の脂の匂いと、ほのかな塩気が混じる。表面は飾り気がない。ナイフを入れると、やわらかい肉が骨から静かに離れた。
三浦が肉を見た。
「思ってたより、かなり肉だな」
「羊肉だからな」
平良が言った。
「そういう意味じゃねえよ」
その横には、白く濁ったアイラグのボトルが置かれていた。
馬乳を発酵させた酒だという。
由良(ゆら)が小さな杯に少しだけ注いだ。
「飲む?」
最初に清依(さより)へ。
次に沙智(さち)、和(なごみ)へと酌をした。
「ちょっと酸っぱいですよね」
清依が一口飲んで言った。
舌の上に軽い酸味が広がり、そのあとを細かな泡が追いかける。炭酸飲料ほど強くはない。発酵の気配だけが、喉の奥でかすかにはじけた。
由良も自分の杯に注いだ。
「でも、嫌いじゃないかも」
そう言って、もう一口飲んだ。
由良は、料理より先に全員の顔を見ていた。
清依は、途切れそうになる会話を自然につないでいる。
沙智は必要なところだけ短く口を挟み、和は誰にも言われないうちに、空いたグラスをテーブルの端へ寄せた。
男性4人については、説明するまでもない。
平良は既婚者の余裕を装っていた。
野口は、まだほとんど話していない。
三浦は、まだ何も起きていないのに、何かを起こしそうだった。
そして、栗須は全員を観察していた。
「栗須さん」
由良が栗須を見た。
「さっきから、みんなの顔ばっかり見てない?」
「見ている」
「何を?」
「時間だ」
三浦が羊肉を噛みながら言った。
「人の顔に時計でもついてんのか?」
栗須は箸を1本取り、円卓の上に横向きに置いた。
「ここを20歳とする」
箸の根元を指す。
少し右へ指をずらす。
「30歳」
さらに右へ動かす。
「40、50」
三浦が顔をしかめた。
「モンゴル料理の席で、人生の横軸を引くな」
栗須はもう1本の箸を取った。
2本の箸は20歳付近で交差し、その先では、それぞれ別の方向へ伸びていた。

全員が、箸を見た。
清依が確認するように聞いた。
「債券のデュレーションとは、少し違いますよね?」
「人間に移植しているからな」
「無理やりなんだ」
由良が笑った。
いつの間にか、アイラグのボトルは由良の右手側へ移っていた。
「債券のデュレーションは、将来のキャッシュフローを受け取るまでの平均期間や、金利変化に対する価格感応度を見る」
栗須は、50歳側に大きく開いた箸を指した。
「例えば、修正デュレーションが10年なら、金利が1パーセント上がったとき、価格はおおむね10パーセント下がる」
平良が補足した。
「金利が1パーセント下がると、価格はだいたい10パーセント上がる」
三浦が眉を寄せた。
「飯を食いながら金利ショックを起こすな」
「デュレーションが長いほど、小さな前提変化が現在価値に与える影響は大きくなる」
栗須は、20歳から50歳までの横軸を指でなぞった。
「人間も同じだ。20歳時点から10年、20年、30年先を見るなら、仕事、金、家族、承認欲求、恋愛、失敗。わずかな前提の違いで、将来像は大きく変わる」
「つまり、若い人は値動きが荒いってこと?」
由良が聞いた。
「若さそのものが悪いわけじゃない。価格感応度が高い」
「価格感応度?」
「環境が変わったとき、失敗したとき、誰かと関係を持ったとき、その人がどれだけ揺れるか。そして、どちらへ動くかだ」
その感応度が実際の揺れとして表れたものを、栗須は人間性ボラティリティと呼んでいた。
栗須は、2本の箸が交差する交点を30歳付近に移した。
「30歳くらいになれば、揺れが消えるという話じゃない」
「じゃあ、何が見えるの?」
「生き様の方向性だ」
場が少しだけ静かになった。
「何に傷つき、何を守り、失敗したあとにどちらへ進むのか。それが少しずつ見え始める」
由良が箸の交差点を見ていた。
やがて、何かを思い出したように笑った。
「でも、ちょっとわかるかも」
「何が?」
「小学生の頃、いたじゃん。足が速くて、顔もよくて、クラスで一番モテてた男子」
和が頷いた。
「いたね。運動会で一番目立つ子」
「そうそう。あの頃は、足が速いだけでストップ高だった」
三浦が言った。
「小学生市場、評価項目が少なすぎるだろ」
由良は、自分の杯にアイラグを足した。
注いだとき、白い液面に小さな泡が浮かんだ。
「でも、15年後の同窓会で会ったら、全然印象が違ったりするじゃん」
「逆もありますよね」
清依が言った。
「当時は目立たなかった人が、話してみたらすごく素敵になっていたりします」
和が少し笑った。
「人への接し方とか、仕事の話し方とか。大人になってから見えるものって多いよね」
沙智が短く言った。
「小学生時代は初値です」
三浦が吹き出した。
「同窓会を上場15周年記念日にするな」
栗須は、箸の交差点をもう一度指した。
「そういうことだ。若い頃の初値だけでは、長期保有価値はわからない」
由良が栗須を見る。
「だから、30歳くらいまで待つの?」
「待つんじゃない」
栗須は答えた。
「何に反応して、どちらへ変わってきた人なのかを見る」
「それ、観測っていうより、ためらってるんじゃない?」
箸を持つ栗須の手が止まった。
三浦が笑った。
「初回から本質を刺されたな」
「でもよ」
三浦は、横軸の20歳付近を指した。
「若いうちに化けるやつもいるだろ。恋愛だって、テンバガー狙えばいいじゃねえか」
「恋愛でテンバガーを狙うな」
「夢がねえな」
「長期保有するなら、高格付けソブリン債の方がいいだろう」
女性陣4人が、一斉に栗須を見た。
和が小さく笑った。
「恋愛相手を、国債みたいに考えるの?」
「信用力の比喩だ」
平良が口を挟んだ。
「で、栗須は発行体格付けを見てるの? それとも長期債務格付けを見てるの?」
三浦が箸を置いた。
「恋愛でノッチ差を聞くな」
栗須は少し考えた。
「発行体格付けだ。まず、相手そのものの信用力を見る」
「でも、発行体格付けが高くても、個別債務の履行可能性まで同じとは限らない」
それまで黙っていた野口が言った。
声は小さかったが、全員の視線が集まった。
野口はグラスを置いた。
「人柄がいいことと、長期の約束を守れることは別だ」
清依が頷いた。
「ですよね。わかります。本人の人柄と、実際に約束を守れるかは、少し違いますよね」
沙智が言った。
「信用力と履行可能性です」
「それに、ソブリンシーリングもある」
野口は続けた。
三浦が眉を寄せた。
「まだ天井があるのかよ」
「本人の信用力が高くても、家族、仕事、生活圏、過去の関係、価値観が、関係性の上限になることがある」
和が少し考えてから言った。
「でも、環境でその人を決めつけるのは違うよね」
「制約条件です。人格ではありません」
沙智が短く補足した。
「ですよね」
清依が言った。
「環境は見た方がいいですけど、それだけで本人を格付けしない方がいいですね」
栗須は野口を見た。
「発行体格付け、長期債務格付け、ソブリンシーリング。それでも足りないのか」
「補助線にはなる」
野口は、栗須が箸で作った人間デュレーションを見た。
「だが、格付けは信用力の代替指標にすぎない」
「じゃあ、何を見る」
「お前が最初に言っただろう」
野口は、50歳側に開いた箸を指した。
「価格感応度だ」
栗須は黙った。
「何が起きたときに、どれだけ揺れるか。揺れたあと、どちらへ進むか」
野口は続けた。
「格付けより、そちらの方が本人に近い」
平良が、羊肉を骨から外しながら言った。
「遊んでそうな男が、実際に遊んでる。それは想定内だろ」
由良が頷いた。
「まあね。腹は立つけど、驚きはしないかも」
「でも、遊んでそうな男が一途だったら?」
和が少し笑った。
「印象は、かなり変わるよね」
平良は続けた。
「逆に、遊べなさそうな男が、裏で遊んでいたら?」
由良の表情が変わった。
「あたしのソブリン債が、いきなりジャンク債になったらキレる」
平良が頷いた。
「だろ?」
野口が短く言った。
「価格を動かすのは、絶対値ではない。予想との差だ」
三浦が首をかしげた。
「遊んでそうな俺が一途だったら、ストップ高か?」
沙智が答えた。
「まず、一途であることを確認してください」
清依が笑った。
「ですよね。自己申告だけでは、まだ材料不足ですね」
三浦が不満そうにチャンスンマハを口へ運んだ。
「俺だけ、信用格付けの審査が厳しくないか?」
「トラックレコードの問題だ」
平良が言った。
三浦は野口を指した。
「じゃあ野口はどうなんだよ。黙ってるだけじゃねえか」
野口は少し考えた。
「沈黙を、シグナルとして使いすぎる」
「自覚あったのか」
「相手が勝手に意味を読む」
由良が言った。
「それ、ずるくない?」
「意図していない」
「意図してない方が、たち悪いよ」
野口は黙った。
その沈黙に、由良が少し笑った。
由良は、今度は女性陣へ目を向けた。
「清依は?」
「私は、整理しすぎるかもしれません」
清依はグラスに触れながら言った。
「相手の事情や気持ちを考えて、関係を整えようとしているうちに、自分がどうしたいかを後回しにします」
沙智が言った。
「私は逆です。迷いが長引くなら切ります」
「早くない?」
「遅いよりはいいです」
「和は?」
和は少し困ったように笑った。
「私は、相手が喜ぶと思うと、つい何かしてあげたくなるかな。やりすぎてることに、自分では気づきにくい」
「由良は?」
平良が聞いた。
由良は、自分のすぐ横に置かれたアイラグのボトルを見た。
いつからそこが定位置になったのか、誰も覚えていなかった。
由良は自分の杯に少し注ぎ、酸味に目を細めた。
「私は見る」
「見てるな」
「変化には早く気づく。でも、自分が揺れてるときは、気づくのが遅いかも」
それぞれ違うやり方で、全員が少しずつ間違えていた。
読む。
織り込む。
黙る。
整える。
切る。
与える。
揺らす。
そして、全部を成行で突っ込む。
恋愛癖に格付けがあるなら、この8人は全員、見通し不明だった。
チャンスンマハの大皿には、骨とわずかな肉だけが残っていた。
羊肉の脂が冷え始め、白く濁ったアイラグのボトルだけが、由良の右手のそばでまだ微かに泡を立てていた。
そのとき、店員が新しい取り皿を重ねて持ってきた。
三浦の目が動いた。
栗須が気付いた。
「お前、おしぼり何枚使った?」
三浦の前には、小さなおしぼりの山ができていた。
「知らん」
「知らんわけないだろ」
「羊だぞ?」
由良が笑った。
「理由になってない」
野口が山を見た。
「流動性が高いな」
「おしぼりに流動性を求めるな」
平良が言った。
店員は何も言わなかった。
ただ、新しいおしぼりを一枚置いた。
三浦は無言でそれを取った。
「増やすな」
【三浦おしぼり時系列ログ】
18:03 おしぼり配布
18:04 手指清拭。正常利用。
18:07 顔面市場へ対象範囲拡大。
18:09 首筋到達
18:13 追加発行。
18:18 実需・ヘッジ体制
18:38 赤茶色ソース/評価損発生。
18:42 追加発注未遂/取引停止。

Koiji Bug End
An 8-bit requiem for leveraged hearts, secret libraries, and failed resurrection codes.
Game Over.
Continue.
No false spell can restore a broken market.
Only a new journey can.
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