
逃げた夜の続き
あらすじ
1990年の名古屋。かつてライブハウスで出会った彼女に言葉もかけられず、逃げるように別れた男は、その後40年近くを後悔の中で生きてきた。ある日、彼は“今の記憶を持ったまま過去に戻り、好きな姿と能力を選び直す”という不可解なやり直しの機会を得る。過去の自分を超える力を手に入れ、再びあの夜へと向かう男。しかし彼の選んだ“ヒーローとしての力”は、恋を近づけるほど日常を遠ざける代償を秘めていた。逃げた夜の続きに、今度こそ触れられるのか。
第一章 消えた背中
名古屋の夜は、記憶より少しだけ湿っていた。
千種区の外れ。
今ではもう建て替えられた古い雑居ビルの前で、男は立ち止まっていた。
「ここだったよな……」
誰に向けるでもない声が、夜気に溶ける。
40年近く前。
この場所には小さなライブハウスがあった。
音は荒くて、照明は安っぽくて、でも妙に心だけは震えた。
あの日も、こんな夜だった。
ステージの上にいたのは、まだ無名のバンド。
その隣にいたのが、彼女の妹だった。
彼女の名前は、もう声に出すのが怖いくらい遠い。
「ちゃんと目を見て話せばよかった」
何度も何度も繰り返した言葉は、結局どこにも届かなかった。
あの夜。
紹介された瞬間、世界が少しだけ歪んだ。
可愛すぎた。
それだけで思考が止まった。
言葉が出ない。
目が合わせられない。
手の置き場も分からない。
「やばいな……」
そう思ったのを最後に、彼は逃げた。
ライブが終わる前に、彼女を置いて帰った。
理由は、今なら分かる。
怖かったのだ。
嫌われるのが。
幻滅されるのが。
自分が「ただの人間」だと突きつけられるのが。
だから逃げた。
そして、そのまま人生は流れた。
音楽は続けた。
それなりに名前も出た。
“ヒーローになりたい”という夢も、完全には捨てなかった。
でも、心のどこかにずっと穴が空いていた。
埋まらない場所があった。
「もし、あのとき」
その言葉だけが、40年分のノイズになっていた。
ビルの前に立ち尽くしたまま、男は空を見上げる。
雲は低い。
街の光はぼんやりしている。
その瞬間だった。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
呼吸が止まる。
視界が白くなる。
「……え?」
次の瞬間、世界が反転した。
⸻
目を開けたとき、天井が違っていた。
安っぽい蛍光灯。
薄い木の天井板。
古いエアコンの音。
知らない部屋だ。
だが、妙に懐かしい。
身体が軽い。
いや、軽すぎる。
手を見る。
細い。
若い。
血管も浮いていない。
「……嘘だろ」
声が違う。
鏡があった。
覗き込んだ瞬間、息が止まった。
そこにいたのは、見覚えのない顔だった。
整っている。
バランスがいい。
そして、どこか現実味がないほど“作られたように美しい”。
「これ……俺か?」
さらに違和感はそこだけじゃなかった。
立ち上がる。
一歩踏み出す。
身体が、軽いどころじゃない。
重力の扱いが違う。
踏み込みが勝手に最適化される。
「身体能力……?」
机の上にあった紙を無意識に掴む。
瞬間移動みたいに手が動いた。
反応速度が異常だ。
「なんだこれ……」
そのとき、ドアが開いた。
「起きた?」
女の声だった。
振り向く。
そこにいたのは、まだ若い女性だった。
そして、その顔に見覚えはなかったはずなのに――
心臓が跳ねた。
理由は分からない。
ただ、確信だけがあった。
これは、あの時の「彼女」と関係がある。
「ここ、どこですか」
自分の声が落ち着いていることに驚く。
女性は少し笑った。
「千種だよ。1990年の」
――1990年。
頭の中で何かが崩れた。
冗談ではない。
夢でもない。
説明できないが、理解だけが先に来る。
「じゃあ……俺は」
女性は少しだけ目を細めた。
「選んだんだよ。やり直しを」
「……誰が?」
「あなたが」
その瞬間、脳裏にあの夜が一瞬で蘇る。
ライブハウス。
眩しいステージ。
彼女の妹の顔。
そして、逃げた自分。
女性は続けた。
「今の記憶を持ったまま、過去に戻るっていうの。好きな姿と能力を選んで」
喉が鳴る。
「じゃあ俺は……」
「ヒーローになれるよ。今度は」
その言葉が、やけに静かに響いた。
ヒーロー。
ずっと欲しかった言葉。
でも今は、それよりも気になることがある。
「彼女は……いるんですか」
女性は一瞬だけ黙った。
そして、ゆっくり言った。
「まだ。あの夜のまま」
胸の奥が熱くなる。
40年の後悔が、一気に形を持ち始める。
「今度は逃げないで」
そう言われた気がした。
⸻
外に出ると、90年代の千種の街が広がっていた。
古い看板。
まだ新しいコンビニ。
どこか危うい夜の空気。
全部が、生きている。
「やり直し、か……」
男は拳を握る。
身体は軽い。
反応は速い。
そして、何より――
時間がある。
40年前に置いてきたものを、取り戻すための時間が。
ただ一つだけ問題がある。
彼女はまだ、あの夜の先にいる。
そして、自分はまた――
逃げるかもしれない。
その未来を変えられるかどうか。
それだけが、この人生のすべてになる。
第二章 アンプの匂い
目覚めてから三日が経っていた。
1990年の名古屋。
千種区の片隅。
最初は夢だと思った。
だが、時間の流れはあまりに現実的だった。
商店街の雑音。
古い車の排気音。
まだスマホもインターネットもない街の空気。
すべてが“過去”として完成している。
そして何より違うのは、自分の身体だった。
軽い。速い。狂っているほど反応がいい。
少し走れば、地面を蹴る感覚が消える。
階段は踏み外す気配すらない。
「ヒーローになれるよ」
あの女の言葉が、頭の奥で残響している。
ヒーロー。
その意味をまだ測りきれないまま、男は歩いていた。
目的地は一つ。
ライブハウス。
あの夜が始まった場所。
⸻
入口の扉を押すと、湿った音の壁が押し寄せてきた。
リハーサル中のギター。
調律のズレたドラム。
アンプの低い唸り。
懐かしいというより、身体が覚えている感覚だった。
「お、見学か?」
スタッフらしき男が声をかけてくる。
「いや……ちょっと知り合いを探してて」
言いながら、心臓が少し速くなる。
ステージの奥。
楽屋へ続く通路。
そこに、彼女はいるはずだ。
まだ出会っていないはずなのに、確信だけがある。
“あの夜”は、まだ始まっていない。
⸻
廊下の奥で声がした。
笑い声。
軽い足音。
そして――
その瞬間、世界が止まったように見えた。
彼女がいた。
まだ“あの夜の彼女”ではない。
ただの少女だった。
髪は少し乱れていて、目だけがやけに真っ直ぐだった。
その隣に、姉がいた。
記憶の中の人物。
そして、彼女の妹。
胸の奥が締め付けられる。
あの夜、言葉を失った相手。
今はまだ、何も起きていない。
だからこそ怖い。
「……あれ?」
妹の方がこちらに気づいた。
視線がぶつかる。
呼吸が一瞬遅れる。
逃げるか。
話すか。
身体は動かない。
昔の自分なら、ここで終わっていた。
だが今は違う。
“やり直し”の中にいる。
一歩、前に出た。
「初めまして」
声は驚くほど落ち着いていた。
妹は少し首をかしげる。
「誰?」
姉の方が少し笑った。
「知り合い?」
男は一瞬だけ言葉を選ぶ。
正解なんてない。
でも間違いは知っている。
“逃げること”。
それだけは、もう選ばない。
「……音楽が好きで、ここ来ました」
それだけにした。
嘘でも本当でもない言葉。
ただの入口。
妹は少しだけ目を細めた。
「ふーん」
その反応だけで十分だった。
拒絶ではない。
まだ何も決まっていない。
未来は、ここにある。
⸻
その日の夜。
ライブハウスの外で、男は壁にもたれていた。
中から漏れる音。
さっきの会話が、まだ手の中に残っている。
あの瞬間。
目を合わせられた。
逃げなかった。
それだけで、何かが少し変わっている気がした。
「ヒーローって、こういうことか?」
誰に聞くでもなく呟く。
だがそのとき――
背後から声がした。
「変な人」
振り向く。
そこにいたのは、妹だった。
一人で立っている。
さっきより少し距離が近い。
「さっき、ずっと見てたよね」
心臓が跳ねる。
バレている。
だが不思議と、怖くはない。
むしろ、どこかで待っていた感覚すらある。
「……気になって」
正直に言った。
妹は少しだけ笑った。
その笑い方が、記憶のどこかを揺らす。
「名前は?」
一瞬、息が詰まる。
ここからすべてが始まる。
逃げれば終わる。
踏み込めば続く。
「……まだ秘密でいい?」
少し意地の悪い返し。
妹は一瞬だけ驚いたあと、肩をすくめた。
「変なの」
だが、その声は嫌悪ではなかった。
⸻
その夜、男は理解していなかった。
これは“やり直し”ではあるが、
同じ道をなぞることではない。
選択の積み重ねで、未来が変わる世界だということを。
そしてもう一つ。
この世界には、まだ知らない“代償”がある。
ヒーローになるということの。
第三章 近すぎる未来
それから数日、男はライブハウスに通うようになった。
目的は曖昧だった。
いや、正確には一つだけだった。
彼女に会うため。
だが、会えば会うほど分からなくなる。
あの夜の“彼女”になる前の彼女は、思っていたよりずっと普通だった。
笑うときに少しだけ歯を見せる。
気分で言葉の距離が変わる。
気を抜くとすぐに人を試すような目をする。
その全部が、いちいち引っかかる。
「また来たの?」
ある日、入口で声が飛んできた。
妹だった。
名前はまだ教えてもらっていない。
それなのに、距離は少しずつ縮まっている。
「暇だったから」
そう言うと、彼女は少しだけ笑った。
「絶対嘘」
その一言が、妙に軽く刺さる。
この時代の空気は不思議だった。
まだ“全部が未完成”で、だからこそ何でも起きる余白がある。
そして、その余白の中心に彼女がいる。
⸻
その日、リハーサルが終わったあと。
誰もいないステージに、男は立たされた。
「ギター持てる?」
バンドのメンバーが軽く言っただけだった。
断る理由はなかった。
アンプに繋ぐ。
コードを鳴らす。
その瞬間、空気が変わる。
指が勝手に動いた。
正確すぎる。
無駄がない。
音が“思った通りに出る”。
「……何それ」
ドラムが呟いた。
男自身が一番驚いている。
これは技術じゃない。
経験でもない。
身体がすでに完成されている。
まるで“設計されたヒーロー”のように。
視線の端で、彼女が見ていた。
驚きとも違う。
興味とも違う。
何かを測っている目だった。
⸻
帰り際。
妹が一人で外に出てきた。
「ねえ」
呼び止められる。
「さっきの、何?」
何のことか分かっているのに、すぐに答えられない。
「ただの……趣味」
「嘘つき」
即答だった。
そして少しだけ間が空く。
「でも、ちょっとかっこよかった」
その言葉は、想定していなかった。
胸の奥がわずかに揺れる。
40年分の後悔の中で、最も欠けていたもの。
“最初の肯定”。
⸻
その夜、男は一人で歩いていた。
千種の夜はまだ静かだった。
街は完成していない。
どこか歪んでいる。
その歪みの中に、自分がいる。
「順調すぎるな」
独り言が漏れる。
やり直しは成功しているように見える。
少なくとも、過去とは違う選択をしている。
だが――
身体の奥に、違和感がある。
走るときの軽さ。
反射の速さ。
音に対する異常な適応。
これは“努力の結果”ではない。
誰かが与えたものだ。
そして、理由があるはずだ。
⸻
そのときだった。
視界の端で、誰かが立っているのが見えた。
あの女だった。
やり直しを告げた女。
彼女は夜の電柱にもたれ、静かに言った。
「順調そうだね」
「これ、何なんですか」
即答だった。
女は少しだけ笑った。
「ヒーローになるための“条件付きリセット”」
「条件?」
「うん。逃げなかったあなたじゃないと、成立しない」
意味が分からない。
だが、続きはもっと嫌な予感がした。
「その代わり、代償がある」
「……何を失う?」
女は一瞬だけ目を細めた。
そして言った。
「“普通の幸せ”」
風が止まった気がした。
第四章 選ばれた代償
「普通の幸せを失う」
その言葉だけが、頭の中で何度も反響していた。
夜道を歩いても消えない。
音楽を聴いても上書きされない。
千種の街は変わらないのに、自分の中だけが少しずつ歪んでいく。
⸻
翌日。
ライブハウスに行くと、彼女が先に来ていた。
妹のほうだ。
椅子に座って、足をぶらつかせている。
「遅い」
それだけ言って、こちらを見た。
最近、この距離感が当たり前になってきている。
名前はまだ聞いていない。
それなのに、名前より近い場所にいる気がする。
「ちょっと考え事」
「いつもそれ」
軽く笑われる。
その笑いが、妙に安心する。
だが同時に、胸の奥に小さな棘が刺さる。
この時間は“正しい”のか。
それとも、どこかで壊れていく前触れなのか。
⸻
リハーサルが始まる。
音が鳴る。
その瞬間、また身体が勝手に反応する。
前よりも正確に。
前よりも速く。
前よりも“完成された音”になる。
メンバーの視線が変わっていく。
「お前、何者だよ」
冗談のようで、冗談じゃない声。
そのとき、妹がぽつりと言った。
「ほんと、変」
でもその目は、もう怖がっていない。
むしろ、少しだけ期待している。
その視線が、いちばん危ない。
⸻
夜。
帰り道。
妹が並んで歩いてきた。
「ねえ」
「ん?」
「なんでそんなに真剣なの?」
不意の質問だった。
答えがすぐには出ない。
真剣。
自分は何に対して真剣なのか。
ヒーローになることか。
やり直すことか。
それとも――
「昔、逃げたから」
それだけ言った。
妹は少しだけ黙った。
「ふーん」
それ以上は聞いてこなかった。
普通ならここで終わる会話。
でも彼女は、もう一歩だけ踏み込んだ。
「じゃあ今は逃げてないんだ」
その言葉が、妙に重かった。
⸻
その夜、男は夢を見た。
ステージの上に立っている。
観客は歓声を上げている。
その中に、彼女がいる。
しかし顔が見えない。
近づこうとすると、距離が伸びる。
何度も繰り返す。
そのたびに音が歪む。
そして最後に、声がした。
「それはあなたの幸せじゃない」
目が覚めた。
汗はかいていない。
ただ、胸の奥だけが冷えている。
⸻
翌日。
女がまた現れた。
「気づき始めたね」
「何をですか」
「選ばれたヒーローは、代償とセットだってこと」
彼女は淡々としている。
まるで結果だけを見ている観測者のように。
「恋を深めるほど、能力が強くなる」
「でもその分、“普通の関係”は壊れていく」
意味が分からない。
いや、分かりたくない。
「じゃあ俺はどうなる」
女は少しだけ間を置いた。
「彼女を救うほど、彼女から遠ざかる」
その瞬間、世界の音が少しだけ遠のいた。
第五章 触れてはいけない距離
その夜は、妙に静かだった。
ライブハウスのリハーサルが早く終わり、帰る人もまばらだった。
外に出ると、湿った風だけが残っている。
「ねえ」
背後から声。
振り向くと、妹が立っていた。
いつもより近い。
「今日、ちょっと時間ある?」
その言い方だけで、空気が変わる。
断る理由はなかった。
むしろ、断れない何かがあった。
⸻
2人で歩いた。
千種の夜道。
コンビニの光。
遠くの車の音。
まだ“完成していない街”の呼吸。
「名前、まだ教えてないよね」
彼女が言った。
「今さら?」
少し笑う。
「なんか、タイミング逃してた」
その言葉に、妙な既視感が刺さる。
逃す。
まただ。
⸻
少し歩いたあと、彼女が立ち止まった。
「ねえ」
「うん」
「あなたってさ」
言葉が止まる。
視線が真正面に来る。
逃げられない距離。
「誰かとちゃんと向き合ったことある?」
胸が一瞬だけ詰まる。
答えは、過去にある。
でもそれを言った瞬間、この関係は壊れる気がした。
「……昔、失敗した」
それだけ言った。
彼女は少しだけ目を細める。
「やっぱり」
その“やっぱり”が、なぜか怖い。
⸻
そのときだった。
遠くでサイレンの音がした。
次の瞬間。
空気が変わる。
身体の奥が勝手に反応する。
視界が少しだけ鋭くなる。
時間の流れが遅くなる感覚。
「……まただ」
能力が勝手に起動している。
理由は分かる。
目の前の彼女の存在が、引き金になっている。
感情が強くなるほど、身体が反応する。
「ねえ、どうしたの?」
彼女の声が遠い。
いや、世界が遅い。
⸻
その瞬間、路地の奥から音がした。
ガラスの割れる音。
誰かの叫び。
暴力的な気配。
本能が動く。
行かなきゃいけない。
でも――
彼女がいる。
この距離で。
⸻
「行かないで」
小さな声だった。
その一言で、世界が揺れる。
能力が跳ね上がる。
心拍が上がる。
何かが壊れそうになる。
「お願い」
その瞬間、選択が二つに割れる。
ヒーローとして動くか。
彼女のそばに残るか。
⸻
男は一歩踏み出した。
路地へ向かう。
その背中に、彼女の声が追いかける。
「また逃げるの?」
その言葉が刺さる。
違う。
今は逃げていない。
でも――
振り返ることができない。
⸻
路地裏。
そこには倒れた人と、荒れた空気。
何が起きているのか理解する前に、身体が動く。
速すぎる。
一瞬で間合いに入る。
止める。
終わる。
それだけ。
数秒後、静寂。
⸻
戻ったとき、彼女はまだそこにいた。
動かずに立っている。
「……見ちゃった」
その声が震えている。
「今の、何?」
説明できない。
説明した瞬間、全部壊れる気がした。
「俺は……」
言葉が出ない。
彼女が一歩下がる。
「なんか、怖い」
その一言で、胸の奥が崩れる。
⸻
能力が発動している。
でも今は、それが重荷にしかならない。
守ったはずなのに。
近づいたはずなのに。
また、離れていく。
⸻
夜風が吹く。
彼女は少しだけ目を伏せて言った。
「ごめん。ちょっと、整理できない」
そして、背を向けた。
⸻
残された男は理解する。
ヒーローとして動くほど、
“普通の距離”は壊れていく。
そして――
この関係はもう、同じ形では戻らない。
第六章 壊れたまま進む
あの夜のあと、彼女は少しずつ距離を置いた。
露骨ではない。
でも確実に遠ざかっていく。
ライブハウスでも目が合わない。
廊下ですれ違っても会話がない。
あの軽口すら消えた。
世界が一段、静かになった気がした。
⸻
男はそれでも通い続けた。
理由はもう一つしかなかった。
「逃げない」と決めたからだ。
だが皮肉なことに、逃げていないのに関係は壊れていく。
能力はさらに強くなっていた。
演奏中の反応速度は異常を超えていた。
音のズレが“見える”。
人の動きが“予測できる”。
ヒーローとしては完成に近づいている。
しかし、その代わりに失っているものがある。
“普通の会話の温度”だった。
⸻
ある日、女がまた現れた。
「順調ね」
「どこがですか」
即答だった。
女は少しだけ視線を外した。
「能力はもう上限近い」
「それで?」
「そろそろ気づくはず」
沈黙。
風が一瞬止まったように感じた。
⸻
「あなたが救うほど、彼女はあなたを怖がる」
その言葉は、もう知っていた。
でも認めたくなかった。
「じゃあどうすればいいんだよ」
初めて声を荒げた。
女は静かに言う。
「救わなければいい」
⸻
その夜。
ライブハウスは空気が重かった。
彼女はステージ袖にいた。
一人だった。
久しぶりに、視線が合った。
でもそこには、以前の“距離の近さ”はない。
ただの他人に近い目だった。
⸻
「なあ」
気づけば声をかけていた。
彼女は少しだけ振り向く。
「……何」
その一言が刺さる。
昔の彼女なら、こんな言い方はしなかった。
でも、それは当然だ。
自分が変えたのだ。
⸻
「俺、何かした?」
沈黙。
そして小さな声。
「何かしたっていうか……」
言葉が途切れる。
「もう、分かんないの」
その言葉は、拒絶よりも深かった。
“理解できない存在”になったということ。
⸻
その瞬間、男は気づく。
ヒーローになるということは、
誰かの“日常の外側”に出てしまうことだと。
⸻
その夜、ステージで事件が起きた。
機材トラブルではない。
誰かのトラブルでもない。
“空気の破裂”のような異常。
男の能力が暴走した。
音が歪む。
光が遅れる。
人の動きがバラバラになる。
制御できない。
ヒーローではなく、“異物”になっていく。
⸻
気づいたとき、彼女が目の前にいた。
なぜそこにいるのか分からない。
ただ一つだけ確かなのは――
彼女が怯えていることだった。
⸻
「やめて」
その声で、世界が少しだけ戻る。
能力が揺らぐ。
手が震える。
「お願い……もう、知らない人みたいなのやめて」
その言葉で、全てが崩れる。
⸻
男は理解する。
救おうとするほど、遠ざけていたのは自分だと。
守るための力が、関係を壊していたと。
そして――
あの“逃げた夜”は、ただの一回ではなかった。
今もずっと、逃げ続けているのだと。
⸻
夜が深くなる。
ステージの明かりが落ちる。
観客は帰る。
残るのは壊れた空気だけ。
⸻
彼女が最後に言った。
「もう、来ないで」
その一言は、終わりではなく“現実”だった。
⸻
男は立ち尽くす。
ヒーローになったはずの自分が、
一番救いたかったものを失っている。
⸻
そして気づく。
やり直しは、過去を変えることではない。
“逃げなかった自分を、最後まで選び続けること”だと。
最終章 逃げなかった夜
彼女はもうライブハウスに来なかった。
それだけで、世界が静かになりすぎた。
音楽は続いているのに、どこか“抜け落ちた音”がある。
男は一人でステージに立っていた。
アンプの前。
誰もいない客席。
⸻
能力はもう暴れない。
代わりに、ほとんど消えかけていた。
ヒーローとしての完成は終わり、
残ったのはただの“人間”だった。
少しだけ不完全な、自分。
⸻
その夜、女が最後に現れた。
あのやり直しを告げた女。
「終わりだね」
「何が」
「全部」
あまりにもあっさりしていた。
⸻
「彼女は?」
「ちゃんと普通の人生に戻った」
その言葉が、一番痛かった。
守るために壊したものは、戻る場所を選んでいた。
⸻
「ヒーローって何だったんですか」
男は初めて、静かに聞いた。
女は少しだけ空を見た。
「逃げた人間が、“逃げなかったことにするための形”」
⸻
その瞬間、全てが繋がる。
やり直し。
能力。
代償。
全部は“逃げた夜”の補正だった。
⸻
そして理解する。
本当に変えるべきだったのは過去じゃない。
あの夜の“自分の選択”そのものだった。
⸻
男は走り出した。
もう能力はない。
ただの足だ。
でもそれでいい。
初めて“遅い身体”で走っている。
⸻
向かう先は一つ。
⸻
彼女の家。
⸻
インターホンの前で、息が切れる。
何十年分の後悔が、全部ここにある。
押すかどうか。
一瞬だけ迷う。
⸻
でも、もう分かっている。
これは“逃げないための最後の一歩”だ。
⸻
押した。
⸻
静かな音。
少しの間。
扉が開く。
⸻
そこにいたのは、少しだけ年を重ねた彼女だった。
あの夜の彼女ではない。
でも、間違いなく彼女だった。
⸻
視線が合う。
長い沈黙。
⸻
彼女が小さく言った。
「遅いよ」
⸻
その言葉で、全部が崩れた。
胸の奥にあった40年分の後悔が、音もなく溶けていく。
⸻
男は言葉を探した。
でも、見つからなかった。
だから、そのまま言った。
「逃げたままだった」
⸻
彼女は少しだけ笑った。
悲しい笑い方だった。
「知ってた」
⸻
沈黙。
風だけが通る。
⸻
そして彼女は続ける。
「でもさ」
少しだけ目を伏せて。
「戻ってきたじゃん」
⸻
その瞬間、時間が止まったように感じた。
ヒーローでもない。
過去を書き換えた存在でもない。
ただ、“戻ってきた人間”としてそこにいる。
⸻
男はようやく気づく。
やり直しの正体は、成功でも救済でもない。
“逃げた夜の続きを、自分の足で歩き直すこと”だったと。
⸻
彼女は少しだけドアを開けたまま言った。
「入る?」
⸻
その一言で、すべてが終わる。
そして始まる。
⸻
男は小さく頷いた。
⸻
その夜。
逃げなかった夜が、ようやく始まった。
⸻
(完)