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🐯本気考察『国宝』悪魔は誰?万菊は「白虎の子落とし」をしていた?

    🐸baku の 妄想解説

    映画『国宝』の本気考察を行っていきます!!

    あらすじを交えながら 映画『国宝』の考察やメタファーの解説を行っていくのですが…  途中でラストの展開に触れつつ解説をしているところが多々ありますので、必ず映画を観たうえでこの考察をお読みください🙇‍♂️

    「悪魔との取引き」のシーンあたりの考察していたときに「ああもうだめだ、あらすじ通りには書けない、凄過ぎる… 😭」となってしまい…

    悪魔とはなんだったのか?
    万菊は物語の裏側でなにをしていたのか?
    喜久雄の白髪姿、白虎は何を意味してたのか?
    喜久雄は何がしたかったのか?

    これらが明らかになったとき
    これまで以上の深い感動があります
    ( 私の解釈上ですが… )

    なので、どうしてもどうしても、このような構成になってしまい大変申し訳ないです。反省はしません。


    ただただ、すごい映画です。。。


    ※原作未見で、まだ一度しか鑑賞していないので、もう一度見たら加筆するかもしれないです。


    🎥長崎から大阪へ(1964)

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    永瀬正敏があまりにも格好良い

    🎥1964年、長崎。やくざ一家の跡取りとして育った喜久雄(吉沢亮)は、新年の宴席で女形としての舞を披露する。その夜、父親が抗争に巻き込まれ、喜久雄の目の前で命を落とす。


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    『怪物』の黒川想矢、『ぼくのお日さま』の越山敬達、どちらの演技もとても良かったです!!

    🐸喜久雄は、目の前で父を殺された姿を見ます。
    大きく見開いた目は、若干視線が上にあがったように見えます。

    それは、父の命が散る姿をみて「美しい」と感じたからだと思いました。このときに降っていた雪は、喜久雄の脳裏に焼き付き、このあと何度も「美しいもの」を見たときにフラッシュバックされます。





    🎥父の死を胸に弔い合戦に身を投じようとするが、喜久雄に目を留めたのが、上方歌舞伎の名門俳優・花井半二郎(渡辺謙)だった。

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    🎥彼は喜久雄のなかに女形としての資質を見出し、大阪の自宅に引き取ることにする。喜久雄は、半二郎の実の息子であり同い年の俊介(横浜流星)と共に、厳しい稽古の日々へと身を投じていく。殴られるほどのスパルタ指導が日常でありながら、喜久雄は次第に歌舞伎の美に心を奪われていった。


    🦉背中の刺青について

    半二郎(渡辺謙)は、喜久雄の刺青の上に「八」の字を書いて、この部分を意識して演技するよう伝える。
    これは、やくざの象徴である刺青の上に、歌舞伎役者を上書きしようとしているというシーン。そして、喜久雄のやくざの血は上塗りできるのか?という問いに繋がる。

    「フクロウではなくミミズク」という喜久雄の刺青は「恩を忘れない」と言っていたように、これから犠牲にしていく何人もの人々を決して忘れないということに繋がる。


    💎人間国宝「小野川万菊(田中泯)」

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    この映画で一番良かったのは田中泯さんの演技
    『PERFECT DAYS』も『音を視る 時を聴く』も
    本当に良かった

    🎥喜久雄は、万菊の演技を見て「美しい」「化け物」と言う。その演技には残像のエフェクトがされていたように、人間を超越した演技であったからこそ「化け物」と形容されたと考えられる。万菊も同じように悪魔に魂を売ったのかもしれないと予想できる。

    🐸 映像は「雪降るカット → 火花のカット → 背中の刺青のカット」という順で映されるが、これは美しいものを見たという意味と、歌舞伎の世界に魅了されていっても喜久雄には歌舞伎役者のものではない血が流れているということの暗喩。

    火花はなんだろう… 🤔 父は銃に撃たれて殺されているので、その火花のイメージや、血しぶきのイメージが、転換しているのかな…

    ※関係ないと思いますが...
    🎨ジョアン・ミロの言葉で、
    「For me, a painting must give off sparks. It must dazzle like the beauty of a woman or a poem.」
    「私にとって、絵画は火花を放たなければなりません。女性や詩のような美しさで人々を眩惑させなければならないのです。」
    と、いうものがあります。結構近い状況ですね!


    万菊が楽屋で「役者なら、その顔は邪魔。そのお顔に食われる。」と言うシーンは、周りからの期待が大きくなるという意味も含むと思うが、自分自身の「執着」に食われて破滅する と言いたいのではないかと感じました。


    🎥才能と血

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    でこぴんをしあうシーンは痛みをも共有するという
    良いシーンであったと思う

    🎥青年期を迎えた喜久雄と俊介は、次第に舞台で頭角を現すようになる。俊介は名門に生まれた正統な後継者。対する喜久雄は、実力のみでその地位に近づく存在。
    ふたりは新人女形コンビとして人気を集めるようになり、地元時代からの恋人である春江(高畑充希)に喜久雄は問いかける。
    「結婚しようか?」
    春江は静かにこう答える。「私が一番の贔屓になる」

    🐸「供儀」について

     春江は上達していく喜久雄を見て、自分は喜久雄の障害になると考え「私が一番の贔屓になる」と言って断った。それに対して喜久雄はそう言われたことに寂しさを覚えているような表情を見せる。

    この映画の言葉を使わせていただくと、「この覚悟のなさ、自覚のなさ」が、喜久雄の成長の限界を決めてしまっていると思いました。


    これは「供儀」というもので、「力を手にするには生贄が必要」ということを表現していると感じました。春江は今の喜久雄をよく理解していて自ら生贄となったと考えられます。

    一番最初に「供儀」が発生したのは「父の死」です。この経験は喜久雄の「美への欲求」の根源となりました。この作品は劇中何人もの人間が犠牲になります。この犠牲は「供儀」という彼を成長させる儀式として必要不可欠なものとして描かれています。



    🎥獅子の子落とし(1972)

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    🎥やがて喜久雄の才能が俊介を超えると、物語は大きく動く。半二郎が事故で倒れ、『曽根崎心中』の舞台に立てなくなったとき、代役として指名されたのは俊介ではなく喜久雄だった。
    俊介の母・幸子(寺島しのぶ)は激しく憤る。
    「なぜ実の息子ではなく、あの子を選ぶの?」

    🐸母は血筋を優先し、父は歌舞伎の技術や才能を優先する人間のように映されるが、、、
    これは 獅子の子落とし で、調子に乗っている我が子 俊介に苦しい試練をわざと与えて一人前の歌舞伎役者にしようとしている。
    (俊介のこれまでの態度はここと繋がる)

    これは、劇中でも登場する歌舞伎の題目『連獅子』であり、深い父の愛情が後ほど分かるということの伏線。



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    🎥舞台初日を迎える直前、緊張に震える喜久雄は俊介に胸の内を明かす。「守ってくれる血が欲しい」
    俊介は短く応える。「お前には芸がある」

    そして、大舞台である『曽根崎心中』を見事に演じきった喜久雄。一方、観客席からその姿を見ていた俊介は、自身の才能に絶望し、そのまま家を出て行く。
    春江は俊介の後を追い、ふたりは姿を消す。


    🐸「守ってくれる血が欲しい」という発言は「その血が喜久雄にはない」ということを暗示しているように感じられるが、これはミスリード。
    結果的には、やくざの血が喜久雄に「覚悟」と「仁義」を与え、「国宝」への道を切り開いた と考えられる。



    🎥悪魔との取引き(1980)

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    娘である綾乃の「お父ちゃん」も完全無視

    やがて 喜久雄は 芸妓 藤駒(見上愛)と関係を持ち、娘の綾乃が生まれるが 籍は入れず、家族としての責任を果たすこともなかった。

    🐸 悪魔「光盛大明神」について

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    最高の歌舞伎役者に。それ以外は要らないと取引をする。
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    「光盛大明神」と書かれている

     劇中、喜久雄は鳥居の上に「光盛大明神」と書かれている神社へお参りに行く。ここは京都市の上七軒歌舞伎練習場の近くにある神社で、「光盛大明神」は「手塚光盛」という人物を指している可能性が高いとされている。
    そして、手塚光盛が登場する歌舞伎演目『源平布引滝』の一幕『実盛物語』は、この作品と深い関りがあると推測されます。

     手塚光盛とは、平安時代末期の武将で、源平合戦の時代に活躍した斎藤実盛がモデルとされる人物です。老齢に差し掛かっていたが、白髪を黒く染めて若武者として最期の戦に臨んだという逸話が残っており、『実盛物語』では「老いを隠して美しく死ぬ」ことへの強い執念が語られます。

    「『実盛物語』: 源氏と平家が対立する中、平家がたについていた老将の実盛は、敵将である木曾義仲(源義仲)の遺児の小万を匿っている旅の女 お筆とその夫に出会う。しかし、お筆は源氏のスパイで、小万を守っているということが分かる。実盛は 義仲の幼い息子である小万を討とうとするが、過去に 子供だった頃の義仲 を助けたことがあり、心が揺れてしまう。ついには小万を逃すという(平家への)義理を裏切る行動を取り、自らも追い詰められて死を選ぶ。
    戦場で老いを見せないために白髪を黒く染めていた実盛の髪が、死にぎわに髪を洗ったため白く戻っていく場面が、その正体と内面の美しさを表す。」

    🐸白髪を黒く染めて挑む老将(実盛)は、やくざから歌舞伎役者に作り変える喜久雄のメタファー。髪を洗うことにより黒く染めた髪が白く戻っていく場面は、自らの血を受け入れ「国宝」となった喜久雄のメタファーとなる。

    つまり「悪魔との取引き」は、「悪魔=手塚光盛」ということになり、その取引きにより、手塚光盛の人生と同じ人生をたどることとなったと考えられる。

    さらに『実盛物語』では「白髪を黒く染める→白髪が露呈する」だが、『国宝』では「やくざなのに白く塗った肌→国宝となった喜久雄は髪に白髪まじる年齢」というかたちでリンクしている。
    そして「白虎」を襲名する。

    これを語らないで、見せてくるのは本当に素晴らしい。



    話をもどすと…

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    🎥喜久雄は三代目「花井半二郎」を襲名。半二郎(渡辺謙)は「花井白虎」を襲名。しかし襲名式のさなか、半二郎が血を吐いて倒れ
    「俊介… 俊介…」と息子の名を口にしながら世を去ってしまう。

    🐸この場面で、半二郎は、前述した「獅子の子落とし」をしていたことが明らかになる。それに喜久雄が気付いたのであんなに絶望していたわけです。

    しかも、ラストで喜久雄は「白虎」を襲名するので…
    喜久雄は将来「白虎」を襲名することが予想されるため、
    この「獅子の子落とし」は、
    「獅子の子落とし」を受けた俊介が「立派な獅子」となり戻ってきたことで、喜久雄は落とされて、その経験から「立派な白虎」となるという展開の伏線なのです。

    おそろしく綺麗な伏線ですよね…



    そして、そんな絶望する喜久雄を見つめる万菊。
    万菊は喜久雄に才能を見出していたが、ここで喜久雄の庇護者は引き受けない。

    これが万菊が喜久雄に対して行った「獅子の子落とし」ならぬ「白虎の子落とし」なわけです。

    展開が綺麗すぎる… 😭


    またまた話をもどすと…

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    🎥1982年、喜久雄は 春江と姿を消していた俊介(横浜流星)と再会する。俊介は 花井半弥 として万菊のもとで再出発するという。万菊は 俊介に対して「歌舞伎が憎くて憎くてたまらないのね、それでも舞台に立つのが、あたしたち役者。」と言い、厳しく俊介を育てる。

     一方、庇護者(半二郎 / 渡辺謙)を失ったことで、喜久雄は徐々に舞台の中心から遠ざかっていく。出自やスキャンダルを理由にメディアからもバッシングを受け、歌舞伎の世界での立場が不安定になる。

    🐸 万菊は訪れた喜久雄を目視していたため、「歌舞伎が憎くて憎くてたまらないのね、それでも舞台に立つのが、あたしたち役者。」というセリフは、前述した「白虎の子落とし」を行った 喜久雄へ向けられたもの。

    「人間国宝」に見出され 行われた「白虎の子落とし」
    万菊さんがあまりにも格好良いです。



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    彰子の結婚したい気持ちに対して、半二郎の「覚悟は決めている」は「彰子を犠牲にしても役を取りにいく」という意味。これも供儀。

    🎥そのようななか、喜久雄は 彰子(森七菜)という名家の娘と恋に落ち、駆け落ち同然で家を離れる。だが、地方巡業の現実は厳しく、披露する芸に拍手はなく、視線すら集まらない。


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    歌舞伎中の早着替えと対照的で、観客に脱がされる。刺青が見えて、歌舞伎役者でなくやくざだという意味で偽物と言われる。

    🎥1986年、地方巡業で観客から「女装の男」と揶揄され、入れ墨を見て偽物だと罵倒される。暴力を受けることもあった。

     酒を飲んで酔って、泣いて、踊る 喜久雄。彰子(森七菜)の「どこみてんの?」という問いに対して喜久雄は、再び涙を流す。「どこ見てたんやろ」と、笑い、泣き、踊る。



    🐸この描写については、地の底まで落ちた喜久雄が 自分のために犠牲になってきた人たちがいることを本当の意味で自覚し、万菊が以前楽屋で言っていた「役者なら、その顔は邪魔。そのお顔に食われる。」の通り、自分自身の「執着」に食われていたということを悟ったのではないかと思いました。

    このときの舞踏は、本当の意味で「覚悟を決めた」という舞踏、儀式であったのではないかと思います。

    ここから、喜久雄の 再生 のパートとなります。



    🎥再生と万菊の死

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    🎥ある日、喜久雄は90歳を迎えた 万菊 に呼ばれる。車中では「芸だけ残してあの世に行く気なのか…」と話されていた。半二郎を部屋に招き入れた万菊は「この部屋には美しいものが一つもないから落ち着く」「もういいんだよと言われている気がする」と告げる。


    🐸「芸だけ残して」という発言は、「本物の芸を習得する喜久雄(国宝)を残した」と読み替えることもできて、良いセリフです。
    もちろんまだ国宝とはなっていませんが、おそらく喜久雄の再生を察したのだと思いました。

    自分以上に美しい役者を生んでしまったことは、同時に自分の役目の終わりでもあります。ここから「もういいんだよ」というセリフに繋がったのだと考えられます。

    万菊さん格好良過ぎます😭

    🎥半・半コンビの復活

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    🎥喜久雄と俊介はまた共に舞台に立つようになり「半・半コンビ」が復活する。しかし、俊介は糖尿病を患い、左足の壊死が進行していた。医師からは切断を勧められ、俊介自身も納得しようとするが、それを強く拒んだのが喜久雄だった。
    「足を失えば、歌舞伎の舞台には二度と立てなくなる」


    🐸「半・半コンビ復活」が記事として可視化されて映された際に、初めて私も「この2人は半人前で2人で足りないものを補完し合うことで完全となっている」ということに気付きました。

    この2人はいつだってお互いを意識して成長していっていましたしね。なので、「片足を失えばもう舞台には立てない」というのは、足の話ではなく喜久雄と俊介の話と読み替えることができるわけです。

    (このあたりは原作では言及されているのでしょうか??)



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    🎥俊介は最終的に義足で舞台に復帰する決意を固め、再び『曽根崎心中』に挑む。舞台上では地を這いながら演じ、喜久雄の支えすら拒んで役を全うする。それは単なる芝居ではなく、芸そのものと命が交錯した儀式のようだった。


    🐸この『曽根崎心中』はまさに「供犠」そのものです。俊介が足をドンと踏むたびに足は悪化して死に近づきます。
    「客が見るのはその足や」
    というセリフにもあるように、(無意識に)客は「死の美」に魅了されているのです。

    「あそこからいつも何か見ているな...」

    涙で化粧が落ちます。
    役が剥がれ落ちて「花井半弥 」になる。
    それも剥がれ落ちて「俊介」となります。

    これは、前述した『実盛物語』そのままの展開です。
    「悪魔との取引き」ですね。


    ここで2人は半二郎と半弥ではなく
    「喜久雄と俊介」になります。


    彼らは2人でひとり。
    最高の『曽根崎心中』を演じ切ります。


    そしてこの舞台は供犠。
    観客は目の前で「供犠」を見せられたので、大成功したのです。そしてその後、俊介は死に、喜久雄は「国宝」となります。1番大切な、2人で一つであった俊介を失い、喜久雄は「国宝」となります。

    「2人がひとつになったから、国宝が生まれた」が正しいのかもしれません。その儀式が あの『曽根崎心中』で 2人は心中して、「国宝」が生まれたのかもしれません。

    供犠ですね。



    🎥国宝の景色

    🎥2014年。喜久雄は人間国宝に選出される。マスコミはかつてのバッシングを忘れたように、喜久雄の多くの人を犠牲にしてきた人生など知らず「順風満帆の役者人生」と持ち上げる。喜久雄は感情の読めない面持ちでこう答える。
    「みなさまのおかげさまでございます」

    その場にいた記者の中に、一人の女性カメラマンがいた。彼女はかつて喜久雄が置いていった藤駒との娘、綾乃だった。
    彼女は父に対して、「父親とは認めない。でも、日本一の歌舞伎役者になったね、お父ちゃん」「正月のように、この先いいことがある気がした」と言った。

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    そして最後の舞台。雪が舞うなかで、喜久雄が演じるのは万菊が演じていた演目『鷺娘』。

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    地獄に堕ちた恋に狂う娘の舞いは、かつて父が死んだ長崎の雪景色と重なり合う。喜久雄は舞台の中で、ただ一言、こう呟く。

    「きれいやなぁ」



    🐸 喜久雄は記者に対して「ずっと探している、景色。うまく言えない。」と、雪の降る日本庭園を見ながら答えます。

    喜久雄は父の命が散る瞬間に感じた感覚。
    その感覚を追い求めていたのだと感じました。

    「死の美」です。


    そして臨んだ『鷺娘』
    そのストーリーは…

    「白鷺の精が人間の男に恋をする。人間の女として想いを伝えようとするが、裏切られ、悲しみに心を引き裂かれる。失恋の痛みから、心が乱れ、やがて精神が崩壊していく。
    雪がしんしんと降るなか、精霊のような美しさと狂気を帯びた舞を舞い、力尽きて倒れる。」

    紙吹雪の雪が静寂と死を暗示し、全編が唄と踊りで構成されています。


    「白鷺は喜久雄。惚れた男は「歌舞伎」。歌舞伎に惚れた喜久雄は、やくざであったのに歌舞伎役者として生きていこうとするが、それはかなわず心引き裂かれる。そして精神が崩壊していく。」

    これは本編のストーリーと合致していますね。

    その「死の舞」を、「死の美」を表現できるのが「国宝」である喜久雄なのです。



    そして喜久雄は舞台上で何度も死の舞を踊り、死に、「死の美」を「その景色」を見続けます。
    それを観客は見て(無自覚に)感動するのです。


    なぜ、そんなことを続けるのでしょうか。
    観客に「国宝」としての演技で「美」を見せたいからでしょうか。

    私は違うと思います。


    そして、喜久雄は「ミミズクは恩を忘れない」という話をしていました。時間が経って成長した綾乃を見ても、一発で綾乃であると分かったところから、恩を忘れない人間なのだということが分かるシーンです。

    「恩を忘れない」の「恩」とはなんでしょうか。


    恩は「喜久雄のために犠牲になった恩」ということになるでしょう。では「みんなを犠牲にしてまでしたかったこと」とはなんでしょう?


    全ての答えは、

    「喜久雄が、喜久雄自身が「その景色」を見たかった 」だと思います。

    みんなを犠牲にしてまで「その景色」が見たかったのです。
    そんな素晴らしいもの「死の美」を見せてくれた恩は忘れない と言っているのだと思います。

    しかし、それが 喜久雄を「国宝」たらしめている のだと思います。



    ものすごいストーリーですよね…


    鑑賞中は面白いとは思いましたが、『ブルータリスト』や『パーフェクトデイズ』のような「凄さ」はあまり感じず、ラストで綾乃が喜久雄に自分の気持ちを話してしまうところも、全体的にも分かりやすいストーリーだなと思っていました。

    鑑賞後にあれこれまとめていたら、だいぶ裏あるなーと分かって、自分のなかで「凄い映画」に変わりました。

    まだ一度しか鑑賞していないので、また再度鑑賞したら、この文章のおかしな部分や、各歌舞伎の演目とのリンクをもう少し加筆したいと思っています。

    まだ途中ですが、とりあえずアップしました😅


    実際、東洋思想的な視点から、喜久雄が笑って泣いて踊る「儀式のシーン」は「彼岸」であると思っていて、そこで一度死んだ喜久雄は再生して生まれ変わったと思っています。
    最後のシーンも「彼岸の体験」から『鷺娘』という演目を通して、「死へのゲート」を開いて、中を覗いているんだと思っています。

    だから、そこから紙吹雪の雪(死のメタファー)が落ちてくる。それを見て毎回「きれいやなぁ」と言っているんだと思います。

    「きれいやなぁ」の瞬間、観客がいなくなり、自分の世界に入るので「自分の見たいものを見に舞台に来ている」と感じました。私の感覚ですが😅


    「死の美」に魅了された喜久雄が「死の舞踏」「死の演技」を通して、自分の見たかった「死の世界」を見るというお話。

    俊介は「あの景色が見たい」のような発言はしていません。「あそこからいつも何か見ているな...」と、「美」を感じているような発言ではなく、なにか禍々しいものが見ているかのような言い方をしています。
    (俊介は「死の世界=美」ではないと思われる)

    大満足の作品でした!!


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